コトダマ学園2 エレジーを辿って

鷹見 日夜子

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後編

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 ♪フミヒラ シロウ
 3階の廊下をあてもなく歩いていると、向こうから話し声が聞こえた。
 「大丈夫かな……」
 「ミナトさんのこと?」
 誰かと話しているノダの姿が目に入り、俺はその場で立ち止まった。
 ━━そういうことがあって、オレ、この顔がコンプレックスになっちゃって……
 ノダが自分の火傷跡を指差しながら、俺にそう話してきたことがある。
 何がコンプレックスだよ、生まれ持った傷じゃないのに。顔のパーツも肌も俺よりずっと綺麗なのに……
 ノダが手を振ってきたのでおとなしく待っていると、二人はこっちにやってきた。
 ん? あいつの隣にいるのって、もしかして……
 「カギモトくん、紹介するよ! オレの友達のフミヒラ シロウくん!」
 「友達? 俺とお前が?」
 「違うの?!」
 「まあ、そういうことにしとくか」
 カギモト スバルは俺と目が合った瞬間、わざとらしくニコッとした。
 「シロウくん、はじめまして。ホムラくんの新しいルームメイトの、カギモト スバルです」
 「……ん」
 本物のカギモト スバルなのか。ってか、なんでテレビの人気者がこんなボロ屋敷に? 悩みなんかこれっぽっちもなさそうなのに……
 「よろしくね」
 その目鼻立ちの整った顔を近づけられ、舌打ちしそうになる。
 「じゃっ」
 「ええ! シロウくん、もっとお話ししようよー」
 「ふふっ、クールな子なんだね」
 部屋の扉に鍵をかけると、マスクを取ってからベッドに寝転がり、自分の荒れた肌や乾いた唇に触れた。そして、カギモト スバルから感じたオーラを、はっきりと思い出す。
 ━━なんで他の子たちみたいに可愛く笑えないのよ。
 CMのオーディションから帰ってきては、母ちゃんに髪を引っ張られた記憶まで蘇った。
こんな顔で生まれた俺に、そんなことできるわけないだろ。でも……カギモト スバルだったら、母ちゃんの要求にもきちんと応えられるんだろうな。

 扉の向こうから聞こえた「おやすみ」と言い合う男子たちの声で目が覚める。小窓から見える赤い満月をベッドから眺め、もうそんな時間かと思ったその時だった。扉を優しくノックされ、制服のままベッドから気怠げに降りる。そして、扉を開けた先にいた人物に対して、思わずしかめっ面をしてしまった。
 「カギモト スバル……」
 寝巻き姿のカギモト スバルは、俺の顔を見て小さく手を振ると、何も言わずモジモジしてきた。
 「何? 用がないなら閉めるけど」
 「待って! 実はその……一人で寝るのが怖くて……」
 「一人? ノダはどうした?」
 カギモト スバルはやや強引に俺の手を引くと、自分の部屋まで連れていった。そして、扉をそっと開けた先には、ベッドでいびきをかくノダがいた。時々腹を掻いては、愉快な夢でも見ているのかヘラヘラしている。
 「爆睡してんじゃん」
 「うん。僕が図書室から帰ってきた時には、もうこんな感じで……」
 扉をゆっくり閉め、俺たちは廊下の壁にもたれかかった。
 「俺以外にもお前の相手してくれるやつはごまんといるだろ。なんで俺なの?」
 「だって、この学園にいる男の子で僕と友達なの、ホムラくんとフミヒラくんしかいないし」
 「友達じゃねぇだろ」
 「友達の友達は友達じゃないの?」
 「他人だろ。大体、オレはノダのことすら友達だとは思ってねぇし」
 「うわぁ、ひどい! じゃあじゃあ、君にとっての友達ってなに?」
 「知るかよ。さっきからなに? お前、ずいぶんおしゃべりだな」
 カギモト スバルからのリアクションがなくなり、言い方がキツかったかもしれないと少しだけ反省した。一生付き合うわけでもない相手のことを気にかけても仕方ないが……
 「あっはは!」
 聞こえてきたのは、上品さのかけらもないカギモト スバルの笑い声だった。
 「やっぱり、周りから特別扱いされるより、そうやってズバズバ言ってもらえた方がスッキリするな。そういえば、なんで君はこんな時間まで制服着てるの?」
 「い、今から着替えるところだったんだよ……」
 「どこ行くの?」
 「自分の部屋。着替えてくる」
 「じゃあ、ここで待ってるね」
 なんでだよ……このまま俺が部屋から戻ってこなかったらどうすんだよ。
 部屋に帰り、脱いだブレザーを椅子の背もたれにかける。
 最後に寝巻きに着替えたのは、いつだったっけ……
 必死に心を無にしてワイシャツのボタンを外し始めたものの、襲いかかってきた不快感には勝てず、膝から崩れ落ちた。
 「うっ……」
 忘れたはずの感覚が身体中に巡ってくる気がして怖い。それと同時に、なぜかノダやウタカタの顔を思い出し、俺の恐怖心に拍車をかけた。
 ……あいつらがそばにいてくれたら、過去の俺は少しでも救われたのかもしれない。だけど、俺は一人で抱え込んで、我慢できずにこの手で ”あの人” を……
 「フミヒラくん!」
 「はっ……!」
 肩をゆすられて体を起こすと、カギモト スバルが部屋の床で片膝をついていた。
 「なんで俺の部屋に……」
 「なかなか戻ってこないから心配になったんだ。ノックしても返事がないし、何かあったんじゃないかって……」
 ……そっか、鍵閉め忘れたのか。
 俺は自分のはだけたワイシャツを見てハッとなり、慌ててボタンを閉めた。
 「俺……このまま寝るから」
 「え、着替えないの? 制服じゃ、寝心地悪くない?」
 確かに寝起きは悪いけど、そんなの、生前からずっとそうだし……
 「いや……着替えるのが嫌だから、いつも、このまま寝てる」
 「面倒臭いの?」
 「面倒臭くはないけど……」
 「もしかして、僕がここにいるから着替えられないとか? それなら出ていくけど……」
 扉に向かうカギモト スバルの後ろ姿が目に入り、そいつの手首を慌てて掴む。
 「フミヒラくん……?」
 自分でも、なんでこんな子供みたいなことをしたのだろうと不思議に思う。
 この狭い空間に、今は置き去りにされたくなかった。その気持ちだけが先走ってしまい、後から羞恥心に押し潰されそうになる。
 「ご、ごめん……」
 すると、カギモト スバルは、俺の手にもう片方の自分の手を重ねた。
 「分かった、ここにいるね」
 俺の手の甲に乗ったのは、女にはない硬い感触だった。それを感じ取り、俺は確信した。
 コイツはカギモト スバルっていう一人の男なんだ。 あの人とは違う……
 カギモト スバルが壁に貼ってあった目玉の絵を見ながら「すごい」だの「へぇ」だの独り言を呟いている間に、俺はズボンを履き替えた。
 「僕ね、目が見えるようになっててすごく驚いたんだ。それで、学園長にあとで聞いてみたら、この学園では、生前持っていた病気も怪我も、何もかも綺麗さっぱり無くなるんだって」
 じゃあ、俺のあのアザも既に無くなってるんじゃ……
 平然とワイシャツを脱いだその時、鎖骨周りの薄い皮膚に浮かび上がった、小さな赤いアザが目に飛び込む。
 「……え?」
 「でも、その傷を受け入れられるようになったとき、元に戻るらしいよ。コトダマ学園って、理想の自分になれる場所なんだね」
 震え始めた指先でそのアザに触れ、息が荒くなる。
 嘘だ……そんなの信じない、信じたくない……!
 机の上にあったノートや筆記用具を全て払い除け、椅子を倒した。慌てた様子で駆け寄ってきたカギモト スバルに背中をさすられながら、床に這いつくばる。泣こうとしても涙が出てこない。
 どうして……いくら心が拒絶しても、体は求めているっていうのか? 許せない……そんな自分を許せるわけない……!
 罰を追い求める俺の頭に乗せられたのは、カギモト スバルの手だった。
 「……何があったの? 僕に話してごらん」
 優しくてこなれた撫で方。普段の俺ならすぐにこの手を振り払うはずなのに。そうできないのは、体力がないからなのか、心地良いと思っているからなのか、果たしてどっちなのだろう。
 「急に触ってごめんね。僕、生きてた頃に犬飼っててさ、その子もうちに来たばかりの頃は家具とか色々壊しちゃってね、そのこと思い出したらつい癖で撫でちゃった」
 これだけ馬鹿みたいに取り乱したことも、コイツにとっちゃ犬が暴れてるぐらいにしか思わないのか……
 「でも、諦めないでお世話を続けてたら心を開いてくれるようになって、最近は、名前を呼ぶだけですぐに駆けつけてくれるんだ」
 「……その犬、お前のことが好きなんだな」
 「えへへ……」
 「あの……Tシャツ、持ってきてくれる?」
 俺の情けない声を聞き取ったカギモト スバルは、ベッドの上にあったTシャツを俺に手渡してくれた。カギモト スバルは俺からワイシャツを受け取ると、ベッドに広げて綺麗に畳み始めた。
 「細いんだね」
 急いでTシャツに頭と腕を通したにもかかわらず、カギモト スバルは俺の丸まった背中を見てそう言った。
 あの人の前で晒け出した、かぶれた皮膚を他人に見られたことに気づき、冷や汗が出る。 
 「背も高いし、モデルとか向いてるんじゃない?」
 あの夜を思い出しかけた時、カギモト スバルの鼻につく言葉が、俺を現実に引き戻させた。素早い手つきで外したマスクを机の上に投げ捨て、カギモト スバルと目を合わせる。
 「この顔を見ても、俺に人前に立てって言えるのか? 笑われるのがオチだろ」
 「え……?」
 「いいよな、お前は容姿にも才能にも恵まれててよ」
 その時だった。それまで顔を青くしていたカギモト スバルは、眉を釣り上げて俺を睨んだ。
 「僕に才能なんかない」
 さっきまでとは打って変わって、重みのある声が俺の耳に入る。
 「ピアノが弾けるようになるまで、何度も何度も練習した。上手くいかないことだって数え切れないほどあったよ。それなのに、観客たちは僕の失敗から目を逸らし、誰にも真似できない奇跡の演奏だと持ち上げてきた。出来はどうであれ、盲目の美少年が健気に演奏してるところが見れれば、それでいいのさ」
 普段のおっとりした様子からは想像できない饒舌ぶりと、どれだけ険しくしても美しさを保つその顔面に対して驚く。
 「朝起きて、目が見えなくなってたらどうしようって今でも不安なんだ。この不安が現実になったら、僕はもう一度、自分の不完全さを自覚したうえで、完璧なピアニストとして振る舞わなきゃならない」
 カギモト スバルは俺の顔を見てハッとなり、拳を緩めた。
 目が見えてたら世間から必要とされなくて、かといって、見えなかったら窮屈な生活に戻らなきゃならない。見えてる方が不便なことも少ないだろうし、そしたら今のカギモト スバルが本人にとっての理想の姿なのか。
 「ごめんね」
 カギモト スバルは床に落ちていたノートや筆記用具を拾っては、それらを俺の机に綺麗に並べてくれた。
 「こんな面白くもなんともない愚痴をこぼされても、引いちゃうだけだよね……」
 「引く? なんで?」
 「だって……さっきの僕はテレビの僕とは全然違うし、観客のおかげで僕は有名になれたのに、その人たちをないがしろにするような発言をして……」
 「テレビのカギモト スバルなんか興味ねぇよ」
 そのウジウジした声を蹴散らすように言うと、カギモト スバルは気恥ずかしそうに笑った。
 理由はどうであれ、舞台でスポットライトを浴びられる人間が観客からチヤホヤされるのを嫌がるなんて、そのチャンスすら与えられない俺にとっちゃ贅沢な悩みだ。だから、その点だけは否定できない。
 「ホムラくんに教えてもらったんだけど、君ってこの部屋で一人なの?」
 「そうだけど」
 「じゃあさ、今日だけこの部屋で寝てもいい?」
 俺がまだ「いいよ」と言っていないのも関わらず、カギモト スバルはベッドに腰掛け、タオルケットに包まった。
 「今の僕、気分がいいんだ。このまま寝たらいい夢が見られそう」
 カギモト スバルは頭の後ろに手を組み、俺の顔を見てはニヤニヤしてきた。
 ……別に、俺がコイツと一緒にいたいわけじゃない。コイツの頼みを聞いてあげるだけだ。
 俺は自分にそう言い聞かせると、机に置かれたろうそくの火をつまんで消した。

 ♪ノダ ホムラ
 「失礼しまーす……」
 学園長室の扉をゆっくり開き、ショウコちゃんと二人で中に入る。
 床には一匹のクロコダイルがノロノロと床を這っており、オレたちはその横を歩いて、学園長がいる両袖机に向かった。
 「急に呼び出してしまい申し訳ありません」
 「いいえ……」
 学園長は、机に止まっておとなしくしていたミミズクの頭を指先で撫でると、引き出しから冊子を取り出した。
 「卒業試験まで一ヶ月を切りましたね」
 「は、はい……」
 「学園長として、私にはあなたたち生徒がどのような理由でこの学園に来たのかを把握する義務があります」
 学園長が開いた冊子の右側のページにはオレの顔写真が、左側のページにはショウコちゃんの顔写真が貼ってあり、その下にズラズラと文章が書かれていた。
 あの写真、オレが高校の入学式で撮ってもらったやつじゃなかったっけ。ショウコちゃんの方は確か、ニュース番組で流れてたお葬式の映像でチラッと映っていたような……
 「ノダ ホムラくん、あなたは、ショウコさんが亡くなったショックから、自宅で首吊り自殺を図り、この学園に来た……それで間違いないですよね?」
 突然、死んだ時の話をされて動揺しつつも、オレは学園長に聞こえるように「はい」と答えた。
 「逆に言えば、ショウコさんが生きていれば、今も地上で生活をしていたと……」
 隣で悲しそうに俯くショウコちゃんが目に入り、気にしないでと声をかけようとしたものの、学園長に話しかけられたので慌てて気をつけをする。
 「この点を踏まえると、ショウコさん一人が試験に受かれば、ホムラくんが自殺をする意味は無くなるため、彼の死も帳消しになります。しかし、私たちコトダマ学園の教育者が望んでいるのは、生徒一人一人が自分の意志で新しい生活を送り直すこと。したがって、ホムラくんにも試験はきちんと受けてもらいます」
 「は、はい……!」
 「そこで、あなたたち二人は特別に、ペアで卒業試験を受けてもらいます。卒業試験は過去の自分との戦いなので、本来は各生徒が一人で受けるものです。しかし、お二方が別々に受けた場合、ホムラくんが不合格でもショウコさんが合格すれば彼は自動的に生き返ってしまいます。そのため、二人同時に受からないと地上に戻れないという条件にしようと考えているのですが、いかがですか?」
 オレとショウコちゃんは学園長からの話を整理することで精一杯になり、しばらく返答に困っていた。
 何が起こるか分からない試験でも友達と一緒なら安心だけど……それでいいのかな。生徒の独り立ちが目的の試験なのに、ショウコちゃんと協力して試験を乗り越えようだなんて甘えみたいな気がするし、自分の悩みは一人で解決するべきなんじゃ……
 クロコダイルに足首をガブッと噛まれても、オレは両腕を組んで悶々としていた。
 「ホムラくん、どうしました?」
 「卒業試験は、過去の自分との戦いなんですよね? だったら、俺の悩みにショウコちゃんを付き合わせるわけにはいかないし、ショウコちゃんも、一人で集中して試験を受けたいんじゃないかと……」
 いきなり翔子ちゃんに手を握られて驚いていると、クロコダイルはやっと足から口を離した。
 「私は一緒がいい。一人じゃ無理でも、ホムラくんとなら試験を乗り越えられる気がするの。ダメかな……?」
 その芯のあるショウコちゃんの声が、オレの背中を押してくれた。
 ……嬉しいな、あのショウコちゃんが誰かを頼るようになってくれて。そっか、オレも誰かを頼っていいんだ。家でも学校でもひとりぼっちだった、あの頃とは違う。
 オレは首を横にブンブン振り、ショウコちゃんの手を握り返した。
 「学園長、ウタカタ ショウコさんと一緒に試験を受けさせてください!」
 手を繋いだまま二人で頭を下げると、学園長は冊子を閉じ、それを机の引き出しにしまった。その次に、二枚の切符を取り出し、万年筆の先を机上のインクボトルに浸けた。
 
 ♪フミヒラ シロウ
 俺の足元であくびをしているのは、一匹のハイイロオオカミだ。その毛むくじゃらな巨体にミナトとスバルが近づくと、オオカミは仰向けになってお腹を見せてきた。
 「どこを撫でれば……」
 「ここをこう撫でればいいと思うよ」
 「こっ、こうか……?」
 「そうそう! ほら、すごい喜んでる! ノエルにそっくりだな~」
 ミナトはだんだん笑顔になり、スバルの目を見て自然と笑えるようになった。
 オオカミはしばらくして立ち上がり、スバルの脚に頭をこすりつけてから立ち去った。オオカミの行方を目で追っていると、ノダとウタカタが学園長室から戻ってきた。二人に「おかえり」と声をかけたスバルとミナトを見ると、俺は何も言わず彼らの元から遠ざかった。しかし、こっちに向かって歩いてくる人影が目に入り、その場で立ち止まる。
 「あら、みなさんお揃いで」
 「ナナカ先生、こんにちは!」
 いつの間にか俺の隣に立っていたノダは、目の前にいたナナカ先生に向かって元気よく挨拶した。ナナカ先生は挨拶を返すと、向こうにいたスバルとミナトに目をやった。そして、その二人に簡単な自己紹介を済ませて頭を下げると、脇に抱えていたスケッチブックを俺に差し出した。
 「シロウくん、こちらをお返しするのを忘れてしまいました。大変申し訳ございません」
 「いいえ……」
 「最後に、学園長からの伝言です。夏学期から、シロウくんの部屋に新入生をお呼びすることにしたのですが、よろしいでしょうか」
 ……この俺に、ルームメイト?
 一瞬、自分の耳を疑ったものの、俺はスケッチブックを胸に抱き寄せた。思うように声が出ず、頷くことしかできない。
 「それでは、彼がここで快適に暮らせるようにサポートをお願いしますね。みなさん、失礼します」
 俺たちの元を去っていくナナカ先生を、キングコブラが柵の手すりをつたって追いかけた。
 「やったねシロウくん! これでもう一人じゃないよ!」
 「なんでノダが喜んでんだよ……」
 「新しいルームメイトが僕みたいないい子だといいね」
 「スバルは大していい子じゃないだろ」
 「イブキ~! シロウがいじめてくるよ~、僕の代わりに叱って~」
 「こ、こら……」
 「叱り方優しすぎねぇか」
 「シロウくん、良かったね」
 「……うん」
 階段を降りていく4人の背中を眺めていたその時、足が止まった。
 ……誰かに祝福されればされるほど、胸が痛くなる。スバルもノダもウタカタもミナトも、俺の罪を知らないから優しくしてくれるんだろうな。新しく来るルームメイトだってきっとそうだ。本当の俺を知ったら、みんな……
 「シロウ、置いてくよー?」
 スバルの声で現実に引き戻され、慌てて階段を降りていく。3階で待っててくれたスバルは、俺に向かって無邪気に笑ってみせた。
 この笑顔も、近いうちに二度と隣で見られなくなるんだろうな……
 
 ♪ウタカタ ショウコ
 シロウくんと3階でバイバイした後、イブキちゃんはスバルくんと一緒に図書室に向かった。そんな中、私はホムラくんの部屋にお邪魔し、彼と向き合っていた。
 「ショウコちゃん、オレに話したいことって……」
 「ごめんね」
 我慢できず私の口からこぼれた言葉を聞いて、ホムラくんはポカンとした。
 「私が海に飛び込むなんて身勝手なことしたから、ホムラくんは苦しい思いをしてまでここに来たんでしょ? 大切なご家族だっていたのに……」
 息を詰まらせると、ホムラくんにぎゅっと抱き締められた。突然のことで驚いたけど、不思議と嫌じゃない。
 「でも、オレたちはこれから卒業試験を受けるんだ。それに受かってまた楽しく生活できれば、ショウコちゃんはもう悩まなくて済むよね?」
 ホムラくんの優しい声を聞いた私は、それまでぱっちりと開いていた目をそっと閉じた。
 あの火傷跡があるからこそ、私は彼に惹かれているんじゃないかと思う日もあった。だけど、彼の顔が見えない今も、自分の心が安らいでいることにやっと気づく。
 ホムラくんは私をそっと解放すると、肩に手を置いてきた。
 「それに、オレはこの学園に来なかったら、一生ショウコちゃんの気持ちに気づけなかったと思う。そう考えると、死んで良かったのかもしれないって時々思うんだ」
 はにかんだホムラくんを見て、私は恥ずかしさから目を逸らしたものの安心したように笑ってみせた。
 「ショウコちゃんのそういう優しいところ大好きだけど、あんまり思い詰めないでね」
 「ホムラくん、人のこと言えるの?」
 「えっ、オレ?」
 「ホムラくんってば、私の心配ばっかりしてるんだもん。私の悩みを解決するためじゃなくて、ホムラくんが生きたいから卒業試験を受けるんでしょ?」
 「あっ、そうだった……あはは……」
 私に心配をかけたくないからか無理に笑うホムラくんを見て、自分の心に再びモヤがかかる。
 もしかして、ホムラくんはまだ……

 ♪ノダ ホムラ
 ダッフルコートを羽織り、ボタンを留めていく。しかし、なんだか窮屈に感じてしまい、上まで閉じたボタンを全て外してファスナーを下まで下げた。
 「卒業試験、ショウコさんと一緒に受けるんだっけ?」
 向かいのベッドに座っていたスバルくんに声をかけられ、彼の方を振り返る。
 「うん」
 「じゃあ、心強いね。卒業試験って、何を試す試験なんだろう?」
 「過去の自分と向き合う試験だって、学園長が言ってたような……」
 「過去の自分……」
 スバルくんはそっと目を閉じては何か考えごとを初めた。オレがその様子を見てソワソワしていると、彼はオレの心配を吹き飛ばすように声を出して笑った。
 「僕らが想像している試験とはかなり違うみたいだね。でもそっか、僕らがもう一度生活するための試験だもんね」
 「そ、そうだよね……」
 オレはコートのポケットに入れた切符と部屋の時計を確認し、スバルくんと二人で賑やかな廊下に出た。
 「短い間だったけど、ホムラくんが僕のルームメイトで嬉しかったよ」
 「本当? なんか、そう言ってもらえると急に寂しさが……」
 「やめてくれよ、僕まで寂しくなっちゃうじゃないか」
 廊下を歩いていると、階段のそばでたむろしていた女の子たちがカギモトくんを見つけては騒ぎ始めた。
 「じゃあ、僕はこのへんで……」
 「ええ、もう行っちゃうの?」
 「ごめんね。じゃあ、健闘を祈るよ」
 「ありがとう! スバルくんも、試験受けられるように頑張ってね!」
 「うん……」
 スバルくんはオレと笑顔で握手すると、自分からハグをしてくれた。最初は嬉しかったものの、なかなかオレを離さないカギモトくんに驚き、目をパチクリさせる。
 「……スバルくん?」
 「あ! ごめん……」
 スバルくんは慌ててオレを解放すると「頑張ってね」と言ってこの肩を叩き、部屋に帰った。
 ……大丈夫かな。
 スバルくんを求めて3階の廊下を歩く女の子たちと、すれ違い様に顔をジロジロと見られた。
 「聞いてたよりすごいね」
 「私、朝起きてあんな顔になってたらヤダな」
 顔を隠したら不自然で逆に目立つと思い、オレは気にしてないフリをして階段を降りた。350室の扉をノックしてしばらく待っていると、シロウくんが目をこすりながら扉を開けてくれた。
 「シロウくん、おはよう」
 「……今度はノダか」
 寝巻き姿のシロウくんは、棒のように細い自分の腕を片手で掻いている。
 「今日、ウタカタと一緒に試験受けるんだっけ……」
 「うん! オレ、シロウくんのおかげで色々気づけたこともあるし、君とたくさんお話できて楽しかったよ、今までありがとう。スバルくんとイブキちゃんのこと、よろしくね」
 オレが握手をしようと差し出した手から、シロウくんは辛そうに目を逸らした。
 「そういうのいいよ。俺はその……他人に感謝されるような人間じゃないから……」 
 「謙遜しないでよ~」
 「その火傷跡、似合ってるよ。コンプレックスなんて言わないでやって」
 その時だけ、シロウくんはオレと目を合わせてくれた。しかし、すぐに無言で扉を閉められ、オレは自分の頬を片手で触ったまま立ち尽くした。
 シロウくん……
 「ホムラくん、おはよう」
 ショウコちゃんとイブキちゃんの方を振り返り、二人に向かって挨拶をした瞬間、胸がいっぱいになる。
 「ノダ、フード裏返ってる」
 「マジ?」
 イブキちゃんはオレの背後に立つと、フードを直してくれた。振り返り、イブキちゃんと目を合わせる。
 「ありがとう! そういやイブキちゃん、オレがいなくなると寂しい?」
 「そうだな……でも、スバルもフミヒラもいるし、明日は新しいルームメイトが来るから寂しくないよ」
 「そこは寂しいとか行かないでとか言ってよー!」
 「ホムラくん! イブキちゃんのこと困らせちゃ、めっ!」 
 「ええ~」
 三人で笑い合いながら階段を降り、緊迫感の漂うロビーに向かった。
 「あの、ノダ……」
 「なーに?」
 「……初めて会った日、身長のことで私を励ましてくれてありがとう」
 照れ臭そうに目を逸らすイブキちゃんに対して、オレはニカっと笑った。
 学園長から受験者たちに向けた話はあっという間に終わり、扉が静かに開かれる。
 イブキちゃんの方をもう一度振り返り、ショウコちゃんと二人で大きく手を振ると、彼女は小さく手を振り返してくれた。
 受験生たちとともに学園を出ると、久しぶりに味わった凍てつくような寒さとハエトリグサの群れが、オレたちの気を引き締めさせた。
 「手、繋いでもいい?」
 ショウコちゃんからの突然のお願いに対して頷くと、オレたちは手を握り、駅を目指して歩いていった。カラスやコウモリの鳴き声を聞きながらショウコちゃんの温もりを感じていると、駅の灯りが見えてきた。
 「学校の窓から海が見えてたなんて羨ましいなぁ、オレも怪ヶ浜の中学校に通いたかった」
 「ふふっ。あそこの海、本当に綺麗なの。ホムラくんにも一度見てほしいな」
 「絶対見たい!」
 駅に並んでいる間ずっと繋いでいた手をようやく離し、赤い列車の乗降口のそばでたたずむ女の先生に二人で切符を見せる。すると、先生は受け取った二枚の切符の備考欄に書かれた学園長の文字を見て目を丸めた。
 「お二人は、ペアで試験を受けるんですね。では、こちらを丸めて飲み込んでください」
 返された切符を言われた通りにくるくると丸め、細い筒状にする。
 本当は、オレもショウコちゃんも先生の指示を聞いてびっくりしてたけど、後ろの人を待たせてはいけないと思い、余計なことは考えないで切符をごくんと飲み込んだ。
 列車に乗り、ショウコちゃんと向かい合わせになって座席に座る。初めてこの列車に乗った時のことを思い出しては懐かしくなるけど、あの時は、こうやってショウコちゃんと一緒にいるなんて考えてもなかったな。
 「もし、試験に受かったら、ショウコちゃんのご両親にお会いしたいな。娘さんを育ててくれてありがとうございますって頭を下げたいし」
 ショウコちゃんはオレの話を笑いながら聞きつつも、どこか寂しげな表情で窓の外を眺めた。
 「私、お父さんとお母さんに会えるかな」
 「大丈夫、また会えるよ。一緒に受かろう」
 「……うん」
 突然、大きな物音がして列車が動き始めた。列車の窓から名残惜しそうに学園を眺める生徒もいれば、決意を固めて姿勢を正し、前だけを向く生徒もいる。
 強い雨が窓を打ちつけ、やがて、濃霧が列車を覆った。外からかすかに聞こえてくるうめき声が生徒たちの顔色を変えたその瞬間、車内に光が放たれる。
 「うわっ……」

 ♪ウタカタ ショウコ
 意識が次第にはっきりし始め、ゆっくり目を開ける。私とホムラくんは向かい合って防音壁に寄りかかっていた。
 「あれ……」
 私が着ていたのは、生前に通っていた陸路高等学校の制服だ。青のチェックが入った紺色のリボンとスカートが可愛くて、数ある通信制の中からこの学校を選択したことを思い出す。入学式の日以来一度も着なかったけど……
 ホムラくんの制服も変わっていて、彼は袖をまくった長袖の白いワイシャツとグレーの長ズボンを着用していた。首元には、白いストライプが入った赤いネクタイが巻かれている。
 壁に手をついて立ち上がり、机に置かれた音量調節の機械と卓上マイクスタンドを目にする。その机の向かい窓にかかったボロボロのカーテンを開けると、誰もいない体育館が見えた。
 「うう……」
 「ホムラくん!」
 ホムラくんがぱちっと目を覚まし、私たちはお互いの顔を見ては安堵した。
 「良かった、ショウコちゃんがいて……あれ?」
 彼は不思議そうに周囲を見渡しては首を傾げ、窓の向こうを見に行った。
 「ここって……体育館の放送室? なんであの列車からこんなとこに飛ばされちゃったの?」
 「……まさか、ここが試験会場だったりして」
 お互いの顔をじっと見つめて唾を飲み込む。
 「あっ……」
 ホムラくんは、壁に立てかけてあった一本のアコースティックギターを見つけ、その前でしゃがんだ。彼の指先が銀色の弦に触れたその時、窓を強く叩く音が聞こえた。
 「うわああ!」
 「きゃ!」
 窓を叩いているのは、腐敗した血まみれの手だ。窓に大きなヒビが入ると、ホムラくんは私を抱き寄せてくれた。
 「い、行こう!」
 「うん……!」
 放送室を飛び出し、ステージに向かったその時だった。一体の太ったゾンビが目の前に現れ、緑色の液体を私の顔目掛けて吐き出した。
 「危ない!」
 ホムラくんは私を抱き締めて上手の緞帳に包まった。緑色の液体がかかった緞帳はすぐにドロドロと溶け始め、その場から逃げ出した私たちは、ステージから体育館を眺めた。
 「なんだあれ……」
 そこには、ボロボロの服を着たゾンビたちがウジャウジャいた。強烈な匂いが私たちを襲う。
 「これのどこが試験なの……?」
 突然響いた銃声に驚き、私たちは下手の緞帳の陰に身を潜めた。
 「Seiren様! アタシたちがあなたをお守りします!」
 「お忙しいあなたの代わりに、僕らがコイツらに鉄槌を!」
 声高らかにそう言うのは、白い仮面をつけた水平たちだ。彼らの言葉に驚くと、倒れた一体のゾンビが目に飛び込み、自分の口を手で押さえた。
 体育館の床が血まみれになり、次々とゾンビたちが倒れていく。顔や服に返り血がついても、水兵たちは散弾銃を手放さなかった。
 「やめて……」
 持ち上げた水兵を壁に叩きつけるゾンビの姿や、弾が当たって落下した照明器具がゾンビを押し潰す瞬間を目撃し、ホムラくんに抱きついた。
 「大丈夫?」
 地上の喧騒を思い出しては凍っていく背筋を、ホムラくんが優しくさすってくれた。
 私の名前を呼び続けるホムラくんの声だけを頼りに、なんとか意識を保ち、彼の手を借りて立ち上がる。
 「きゃっ!」
 何人かのゾンビがステージに登ってきた。逃げようとしたその時、足を掴まれて背中から転倒してしまい、そのゾンビにスカートの裾を引っ張られる。
 「ショウコちゃん!」
 ゾンビに羽交締めにされたホムラくんは、私に向かって手を伸ばしたままズルズルと引きずられていった。
 「君たち、あの子を助けて……!」
 ホムラくんに声をかけられた二人の水兵は、震えたまま首を横に振り、悲鳴を上げて逃げた。
 抵抗している間にスカートをビリビリに破かれたことで太ももがさらけ出され、下着が見えそうになる。
 「いや、いや……!」
 すると、どこからかやってきた他のゾンビに手足を拘束され、もう一体のゾンビが私の制服のリボンを引きちぎってきた。
 こんな姿、ホムラくんに見られたら……
 突然聞こえた噴射音に驚いて目を開けると、白い粉がゾンビたちを襲い、彼らは目を押さえながらステージから飛び降りていった。
 ホムラくんは持っていた消火器を投げ捨てると、脱いだワイシャツを私の膝にかけてくれた。
 「大丈夫? これ、嫌じゃなきゃ腰に巻いて」
 「ありがとう……」
 ワイシャツを腰に巻き、袖を後ろでクロスさせて結ぶ。自分の太ももが隠れたことを確認すると、あらわになったホムラくんの胸板に顔を埋めた。
 「怖かったよね、安全なところに行こうか」
 「うん……」
 ホムラくんに背中を優しくさすってもらい、私たちは歩き出した。しかし、私が二人の水兵の存在に気づいた時には、もう遅かった。
 ホムラくんは散弾銃の持ち手で顔面を殴られ、その衝撃でステージから落ちてしまった。
 「ホムラくんっ……!」
 ホムラくんの手を右手で掴み、彼の脚が宙ぶらりんになる。引き揚げようとしても力が出ず、腕が抜けてしまいそうだった。
 「うそでしょ、もしかして人間だったの?」
 「ひっどい顔してるからゾンビの一味かと思ったぜ」
 ホムラくんをせせら笑う男女の声が聞こえた瞬間、彼の顔が歪んだ。
 「そんなこと言わないで……!」
 「Seiren様、なぜ怒ってるんですか? 我々はあなたのためを思ってやったのに……」
 「私のため……?」
 「その男が、Seiren様を襲おうとしたんですよね? あのストーカー男みたいに」
 あの時に味わった恐怖を思い出し、ホムラくんの手を掴む手が緩む。
 また、私のせいで大切な人を巻き込んじゃった。これじゃあ、お父さんがあの人から私を守ってくれた時と同じじゃない。私なんか、やっぱりいない方が……
 「このオレがそんなことするわけないだろ!」
 その声が、私に芽生えた罪悪感を追い払った。
 「ショウコちゃんはすっげぇ魅力的な女の子だけど、オレはショウコちゃんが嫌がるようなことは絶対にしない! オレにとって、ショウコちゃんは大切な大切な友達だからね!」
 「Seiren様が貴様の友人だと?! 身の程をわきまえろ!」
 「Seiren様、あなたのお体もためにも、そんな奴の手なんか……」
 ……舐めないでちょうだい。
 私はホムラくんの腕を両手で掴み、自分の中にある全ての力を使って彼を引っ張り上げた。ホムラくんはステージに左手をついて床に身を乗り出すと、尻餅をついて息を弾ませる私をよそに、元気に立ち上がった。
 「ショウコちゃーん! 大丈夫だった? 重かったでしょ?」
 「こっ、これぐらい平気……だから……」
 「かっけぇ! さすが最恐の歌姫! 本当にありがと~!」
 ホムラくんにハグされて、さっきまでの疲れが吹っ飛ぶ。彼の両頬に手を添え、やや強引に顔を上げさせた。
 「ショウコちゃん?」
 「私は、ホムラくんの顔が好きだよ。かっこいいもん」
 「そっ……そんないきなり面と向かって言われると……━━」
 「うあああ!!」
 その叫び声がした方を二人で見つめると、男性の水兵が背後からやってきたゾンビに二の腕を噛まれていた。
 「やめろ!」
 ホムラくんは水兵からゾンビを引き剥がすと、真っ赤になった彼の腕を、拾い上げた自分のネクタイでぎゅっと結んだ。
 「大丈夫ですか?! これ、自分で押さえててください!」
 「あっ、ありがとう……いてて……」
 私がその水兵さんの元へ駆けつけようとしたその時、ゾンビに手を握られた。振り払おうとしたその時、彼女が着ていたボロボロのスポーツウェアが目に入った。
 「あなたは……」
 すると突然、銃の弾がゾンビの背中を襲う。ゾンビが膝をついて倒れると、散弾銃を持って立ち尽くす女性の水兵が見えた。
 「やった……やった! ざまあみろ!」
 その水兵が嬉しそうにはしゃぎ、他の水兵たちから拍手が送られる中、ステージ上に緑色の血が広がっていく。
 「Seiren様! お怪我はありませんか?!」
 水兵からの呼びかけを無視してゾンビの元へ駆け寄ると、その頭を膝に乗せて目を合わせた。
 「Seiren……さま……」
 その赤黒い唇から発せられた乾いた声を、私は確かに聞き取った。
 「ショウコちゃん!」
 私の元へ駆け寄ったホムラくんは、ゾンビの顔を見て悲しそうな表情を浮かべた。閉ざされていくその瞳を見て、悔しさが込み上げてくる。
 ━━新曲の ”Midnight Ocean”、聴かせていただいたんですけど、もう言葉にできないくらい最高でした!  
 ……お願い、届いて。
 あの時の自分の胸に広がった温かい気持ちを思い出しながら、歌を口ずさむ。この人が私の歌に励まされている姿を想像するだけで、歌声は遠くまで響いていった。
 元気になって……
 その傷ついた体だけではなく、瞳の色も体温も元に戻っていく。ゾンビの正体は、やはりあの時握手をしてくれたあの人だった。
 「どうしてそんな裏切り者を庇うのですか? そいつのせいでひどい目に遭ったのに……」 
 「Sailorたる者、悪は懲らしめないと……━━」
 「それでも……!」
 ホムラくんは私の隣に立ち、深呼吸をして胸を張った。
 「ここにいるみんなは、あなたたちと同じ人間なんだ。それなのに、むやみにお互いを傷つけ合うなんて悲しいよ……」
 その筋肉質の体の持ち主とは思えないぐらい、ホムラくんの声は震えている。それでも声は張っていて、バスケットゴールのそばにいる水兵やゾンビの視線まで自分の方に向けさせた。
 「騒ぎを大きくしてショウコちゃんが……Seiren様が悲しんだら、あなたたちも辛いんじゃないの……?」
 水兵たちは私ではなくホムラくんと目を合わせ始め、ゾンビたちはピタッと動きを止めた。
 「ああっ……」
 黙って散弾銃を手放す水兵たちや、不満げに何かぶつぶつ言いながらステージを降りていく水兵たちが目に入る。
 すると、私の膝の上で眠っていたゾンビの女性を温かい光が包み込んだ。光はいくつものシャボン玉となり、遠くへ飛んでいく。ホムラくんは私の隣に立ち、その虹色のシャボン玉たちを不思議そうに眺めた。
 私一人じゃ、こんな風にならなかった。ホムラくんがいたから私は……
 ホムラくんの手を引いて放送室に駆け込む。私はマイクをスタンドから取り外し、それを胸に当てた。
 「私、ホムラくんのギターを聞きながら歌ってみたい」
 「お、オレのギターで……?!」
 笑顔でホムラくんの方を振り返ったものの、彼は不安そうに足元を見つめていた。
 「どうしたの……?」
 
 ♪野弾 炎
 体育館には全校生徒が集まっている。列の後ろの方であぐらをかいていたオレは、上履きが入った袋の紐をいじって暇を潰していた。そんな中、いくつもの文化部が順番にステージに上がり、文化祭で何をするのか説明している。
 「続いて、軽音部の出し物紹介です!」
 司会を務める文化祭実行委員長が拍手すると、生徒たちもつられて大きな拍手をした。
 ステージに立ったのは、”Youth” の4人組だ。スティックを使ったドラムのカウントを聞き、サビから歌い出したボーカルの声が、体育館中に響き渡る。
 これ、”Youth” のオリジナル曲の『風を切って』だ……
 後輩の生演奏をバックに、3年生の部長がマイクを握った。
 「俺たち軽音部は、土曜日と日曜日の午後1時にこの体育館でスペシャルライブをします!」
 オレの代わりに新しく入ったギターのソロパートが、オレを含めた生徒たちの顔に熱を帯びさせる。バンドメンバーたちは、お互いの顔を見ては笑い合っていた。
 部長のマイクが、隣に立っていた副部長に手渡される。
 「後夜祭にも参加するので、みんなで盛り上がろうね!」
 軽音部に向けてギャラリーから送られた声援が、オレを萎縮させる。
 オレも、軽音部を続けてたらあそこに立てたんだよな。後夜祭にも出られただろうし……
 軽音部に入ったこと、火傷跡を自慢したことを後悔し、オレはお揃いのオリジナルTシャツを着てステージに立つ部員たちから目を背けた。

 ♪ノダ ホムラ
 こんな大勢の前で、Seiren様の曲をギター演奏するなんて……
 「ごめん……急にこんなわがまま言われても困っちゃうよね」
 「いや! オレ、できることならSeiren様の曲をギターで弾きたいよ! だけど……」
 「だけど?」
 「その……Seiren様に合わせられるか不安なんだ。失敗したら、Seiren様に恥をかかせるなって、ファンの人たちから怒られちゃいそうで怖いし……」
 頬を膨らませたショウコちゃんがやっと目に入り、オレはギクっとなった。
 「私に合わせようとか、周りがどうとか、そんなこと考えなくていいんだよ。コトダマ学園の屋根裏にいた時みたいに、ホムラくんが好きなように弾いてくれればそれでいいの」
 「オレの好きなように……?」
 あの屋根裏部屋の内装を思い出しながら、アコースティックギターを手に取る。次に、初めてショウコちゃんとセッションしたひと時を思い出した。その時に覚えた感情に任せてギターを弾くだけで、心にかかっていたモヤがどんどん晴れていく。
 オレは一度演奏を止めると、一本一本真っ直ぐ伸びた弦を見てギターに笑いかけた。
 「オレ……『光の貴女を私の手に』を弾きたいな」
 「本当? 私もそれが歌いたかったんだ」
 マイクを握ったショウコちゃんと一緒に放送室を飛び出す。ギターのストラップを肩にかけ、ステージに立った。
 「変な顔」
 「髪型ダサくね?」
 「邪魔だからどっか行けよ」
 なかなか始められない自分に苛立ったものの、どうしようもできず胸が苦しくなる。鮫島さんみたいにたくさんの人から批判されたら……軽音部にいた時みたいにステージに立つなって言われたら……
 突然、遠くから投げられたゾンビの片腕が、オレの顔面に直撃しそうになる。
 「うっ……あれ?」
 思わず背けてしまった顔を隣に向けると、ショウコちゃんがさっきの腕を片手でキャッチしていた。彼女は、ステージの下までやってきた片腕のないゾンビにその腕を返し、汚れた手でマイクを再び握った。
 顔つきをガラッと変えたショウコちゃんを目の当たりにし、自分の両頬を手で叩く。
 今のオレは、Seiren様と一緒にパフォーマンスがしたいからここに立ってるんだ。誰に何を言われようと、この気持ちは抑えられない。
 ゾンビになった人たちを元に戻して、水兵さんたちとの争いを終わらせるためにも、やるべきことはやらなくちゃ……!
 深呼吸を終え、ギターを小突いてカウントを取り、思うがままにイントロを弾いていく。一度弾いてしまえば、指が勝手に動いた。
 ふと隣を見ると、オレのギターに合わせて情熱的に踊るSeiren様がステージ上にいた。
 あと少しで、Seiren様の歌が入ってくる……
 そう思って一度は緊張して震え始めた指に、グッと力をこめる。
 ここで怯んじゃダメだ……!
 Seiren様は開いた口にマイクを近づけ、胸にそっと手を当てた。思わず感嘆の声を上げそうになった自分の口を、しっかり閉じる。
 激しく踊っているのに全くブレない歌声。屋根裏で聴いていた時よりもずっと、歌に感情が込められている。そう感じる理由が、マイクを通しているからか、それとも、ショウコちゃんの心境に変化があったからなのか分からないけど、耳にするだけで力が湧いてくる。
 Seiren様のソロパートに入って弦から手を離したその時、オレは違和感を覚えた。
 Seiren様の歌声から徐々にハリが失われている気がする。声量はバッチリなのに、どこか自信が無さそうな……
 ……まさか。
 思い出したのは、Seiren様が出演した『ジョイエネ』の生放送だ。サビで突然歌えなくなり、観客と視聴者を困惑させたあの瞬間が、今のショウコちゃんの脳内で蘇っているのではないか。
 あえてなのか、素なのか判断しにくい絶妙な声の震え。それを聴き取った瞬間、休みだからと抜けていた気を引き締め、弦を押さえた。
 Seiren様、あなたの歌を聴かせて……! あなたが心から歌いたい歌を……!!
 その時だった。オレが持っていたアコースティックギターが激しく燃え上がったのは。
 「はっ……?!」
 この魂を揺さぶる炎が消えた瞬間、現れたのは丸焦げのアコースティックギターではなく、ピカピカの赤いエレキギターだった。
 「あっ、あはは……」
 突然の出来事に対する驚きと、エレキギターとの再会を喜ぶ気持ちが混ざり合い、頭がおかしくなりそうになる。
 そこでオレは、この爆発しそうな想いを、サビの直前で響く数秒間のギター演奏にぶつけた。アンプもないのに、音色は体育館にまんべんなく響き渡っていく。
 それまでつむっていた瞳を観衆に向けたSeiren様の隣で、エレキギターを抱き締めたくなる。
 サビで一気に放たれたSeiren様の歌声が、荒波のように観客たちを飲んでいった。
 そうそう、これだよ……この歌声に救われて、オレは生きてこれたんだ……
 Seiren様が全身を使って歌を届ければ届けるほど、ゾンビたちは元の人間の姿を取り戻し、水兵たちは頭に被っていた帽子を手に取った。それまで気を失って倒れていたゾンビも水兵も、次々と立ち上がっていく。
 オレの手は迷うことなく動き、少しおこがましいけど、紡がれるサウンドがSeiren様の世界に溶け込んでいるような気がした。
 体育館を満たす美しいハイトーンボイスで、曲はクライマックスを迎えた。この余韻を守り抜く気持ちで、ギターを最後まで弾き続ける。最初に抱いていた過剰な責任感や緊張感はどこかへ消え去ってしまい、オレはただひたすら、自分の中に湧き上がる熱い思いをギターの音色に乗せていた。
 生き返った後も、こんな風に弾けたらいいのに。いや、弾いてみせるんだ。今のオレならできる。この気持ちを忘れちゃいけない、忘れたくない……
 ギターの残響がなくなるその瞬間まで、Seiren様は照明に向かって手を伸ばしていた。
 拍手と歓声が体育館に溢れ、その熱気に押しつぶされてしまいそうになる。だけど、ここから見える景色は、言葉にできないくらい輝いていた。あの争いがまるで嘘だったかのように、みんなの気持ちが一つになっていて、一人一人が笑顔になっていて……
 こんな音楽をみんなに届けられたら……

 ♪ウタカタ ショウコ
 シャボン玉が浮かんでは消えていく静かな体育館を、マイクを握ったままステージから眺める。
 ステージで大の字になっていたホムラくんのそばで膝をつき、その疲れきった顔を覗き込んだ。すると、ホムラくんは大きく伸びをし、ガバッと起き上がってあぐらをかいた。
 「楽しかったね、ホムラくん」
 「うん! いやあ、サイコーだったな~」
 さっきのステージの空気と観客の反応を振り返っては胸が熱くなる。
 中学校の文化祭で味わったあの高揚感を思い出せただけではなく、みんなを救えた達成感で胸がいっぱいになる。
 そうだった……最初は歌が好きだからってだけで芸能界に入ったけど、活動を続けていくうちに、あんな風にたくさんの人を歌で救いたくなったんだっけ。現実はあそこまで上手くいかないだろうし、苦しいこともたくさんあるに違いない。それでも……Seirenとして、大好きな歌で希望を届けられる幸せを噛み締めたい。
 ホムラくんはアコースティックギターを手にし、オリジナルソングを弾いていた。いくら弦をいじったりボディーを撫でたりしても、あの赤いエレキギターにはならない。
 唯一の心残りは、サビに入る前によぎった不安で声がブレてしまったこと。あの生放送のことがいくら心に引っかかっていても、そんなの観客には関係ない。もしかしたら、私の異変に気づいて歌に集中できなくなっちゃった観客がいたかもしれない。ホムラくんのおかげで、なんとか持ち直すことができたけど……
 「あの赤いギター、素敵だったね」
 「でしょー?」
 私の知らない歌を口ずさんでギターを弾くホムラくんを見ては、ちょっぴり寂しくなる。
 「私は……ホムラくんの演奏のおかげで歌を歌えた。これからは、一人でステージに立つことになるけど……」
 ホムラくんは演奏を止め、ギターを私の隣に置いた。
 「でも、ショウコちゃんはオレがいなくても歌えるよ」
 「え……?」
 「だって、楽しかったんでしょ? その気持ちを忘れなければ、ショウコちゃんは、Seiren様としてまた歌えるんじゃないかって思うんだ」
 「……そうだといいな」
 私たちは放送室に向かい、私はマイクを、ホムラくんはアコースティックギターを元の場所に戻した。綺麗になった窓にカーテンをかけて放送室を後にすると、床へ続く木製の階段を降り、体育館の中央に立った。  
 「私……地上に戻ったらライブがしたいな」
 「マジで?!」
 「この体育館よりずっとずっと広い場所でライブがしたい。そしたら、もっとたくさんの人を元気づけられるもん。あと、こんなこと言ったら自惚れてるって思われちゃうかもしれないけど……私の歌う姿を生で見て、自分もこうなりたいって歌手の道に進んでくれる子がいたら嬉しいな」
 「うわあ、素敵……! 開催が決まったら絶対観に行くね! まあ、チケットが当たったらの話だけど……」
 「当たるといいね、特等席用意しようか?」
 「いや! それは大丈夫! だって、そんな待遇受けちゃったら他のSailorたちに悪いし……」
 「ふふっ、ホムラくんならそう言うと思ってた」
 「えへへ……あっ!」
 ホムラくんは体育館倉庫の錆びた扉を開けると、バスケットボールを一つ取り出した。彼はゴールまで素早くドリブルすると、華麗にダンクシュートを決めた。
 「すっごーい!」
 「へへっ! ショウコちゃん、はい!」
 「ええ?!」
 ホムラくんからのパスを受け取った私は、慣れない手つきでドリブルからのシュートに挑戦したものの、ボールはリングに当たって跳ね返ってしまった。
 「うそぉ! 絶対入りそうだったのに……」
 「惜しかったね~」
 コロコロと転がるボールを夢中で追いかけ、たどり着いた先には縦に長い大鏡があった。
 「……あれ?」
 そこに映っていたのは、右目に黒い眼帯をつけ、銀色のサイドテールをした私……Seirenだ。
 「ショウコちゃん、どうしたの?」
 ホムラくんは鏡に映ったSeirenを見るなり、拾ったボールを床に落としてしまった。
 Seirenが身にまとっていたのは、初期のドレスだ。この衣装が自分の元へ届いたあの日、これを着てステージに立ち、カメラに映ることを想像しては興奮で胸がはちきれそうになった。
 今の衣装も可愛いけど、やっぱり、こっちの方が好きだな……
 思わず鏡面に触れたその時、私は鏡の中に吸い込まれた。
 「きゃっ……あれ?」
 今着ている衣装や髪の色を手で触って確認し、自分の身に何が起こったのか理解する。
 『ショウコちゃん!』
 鏡の向こうから聞こえてきた声に反応し、私はホムラくんに顔を向けた。
 ホムラくん……
 そう口を動かしても声が届かず、自分の喉に指先で触れる。
 ……そうだった。Seirenは歌は歌えるけど、喋れないんだよね。
 鏡を拳で叩くホムラくんと目を合わせ、彼の火傷跡に鏡越しに手で触れると、微笑んでみせた。
 やだ、Seirenはこんな笑い方しないのに……
 今の状況を渋々受け入れたホムラくんは、寂しそうに目を逸らしていたものの、しばらくして口を開いた。
 『オレ……Seiren様みたいにすごくないし、人に誇れるような夢も特技もないけど……』
 そんなことないよ。さっきの演奏、もう忘れちゃったの?
 『それでも、ギターはやっぱり好きだし、もっと上手くなりたいし、オレの演奏を聴いて誰かがすこーしでも気が楽になったら嬉しいなって、ショウコちゃんを見て思ってその……あれ、なに言ってんだオレ……』
 ……本当に良かった、ホムラくんが自分の未来を前向きに考えるようになってくれて。
 ガガガという音を立てて、体育館の扉がひとりでに開いた。ホムラくんは外から差し込んできた光を眩しそうに見つめ、私とまた目を合わせた。
 『また……会えるよね?』
 ここで頷いたら、ホムラくんはあの扉の向こうへ行っちゃうよね。最後に、もう一度だけライブをしたかったけど、それは、また会えた時のお楽しみにとっておこうかな。
 私が顔を上げ、ホムラくんに向かって笑顔で頷くと、彼はたちまち笑顔になった。
 『オレ、これからもSeiren様とショウコちゃんのこと、ずっとずっと応援してるから!』
 私も、あなたのことをずっとずっと応援してる。
 『じゃあ、またね……!』
 鏡から遠ざかっていくホムラくんに向かって小さく手を振り、扉の向こうへ元気に走り出すその姿を見送った。
 取り残されたバスケットボールを見つめていると、どこからか波音が聞こえてきた。振り返った先では、晴天の下で揺らめく海が広がっている。
 私は、足元に落ちていた彼のワイシャツを手に取り、それをドレスの上から羽織った。ちょっとおかしな格好だけど、冷たい潮風から身を守るにはちょうど良い。 
 砂の上をブーツで堂々と歩き、船が行き交う海に近づいていく。
 「あっ……!」
 強風で飛ばされたワイシャツを、上空を飛んでいたトンビがくわえ、そのトンビをクラーケンの足が海に引きずり込んだ。
 大量の水しぶきを少し受けながら、自分の眼帯を一瞬だけ顔から浮かせ、出てきたフナムシたちを両手に載せる。天を仰ぎながら歌を歌うと、黒い雲が上空を覆った。雷雨に襲われて沈んでいく船を眺めては、不敵な笑みを浮かべてみせる。
 私はフナムシたちを砂浜にそっと下ろすと、彼らに見送られながら海に浸かり、暗い海底へと泳いでいった。
 冷たさに身を委ねるだけで、心も体も軽くなる。海底から空を眺めていると、まぶたが重くなり、私はゴツゴツとした大きな岩に寄りかかって眠りについた。

 ♪野弾 炎
 クラッカーの紙吹雪を床に散らしたまま、誕生日ケーキに刺さったろうそくの火を吹き消す。盛大に拍手をしてくれたパパとママにハグをすると、オレはスマホの映像をテレビに映し出した。
 「この子、オレが今ハマってる歌手なんだけど……」
 パパとママはオレを挟むようにしてソファーに座ると、パパはロールケーキを、ママはモンブランを食べながら画面を眺めた。そこには、 Seiren様のMVが流れている。
 「ロックとホラーがマッチした良いサウンドじゃないか! 映像のクオリティもすごいなぁ」
 「ほんと、素敵な歌声ね!メイクも衣装も、なかなかイカしてるわ……」
 「でしょでしょ?!」
 オレは甘酸っぱいイチゴとスポンジケーキを口いっぱいに頬張り、両親からの反応を楽しんだ。そんなオレの様子を見て、パパとママは安堵の笑みを浮かべている。
 「寂しくなかったか?」
 パパにそう聞かれたオレは、黒くなったろうそくの導火線を見つめた。
 「寂しい時もあったけど……Seiren様がいてくれたから、乗り越えられたよ」
 オレは自分の名前が刻まれたチョコプレートをかじると、そのビターな風味を味わった。
 
 コトダマ学園を卒業してから1年が経ち、オレはなんとか3年に進級することができた。
 帰りのホームルームが終わると、騒がしい下駄箱でスニーカーの靴紐を結んだ。イヤホンから聴こえているのは、今年の春にリリースされたSeiren様の新曲、『Who is Witch?』だ。彼女の歌声に背中を押されながら、生徒たちで賑わう通学路を歩いていく。
 翔子ちゃん、元気にしてるかな。頑張りすぎて体壊してないといいけど……
 サイトで公開された『Who is Witch?』のMVには、Seiren様の人間だった頃の姿として、翔子ちゃんが素顔で出演していた。MVでは、人間時代のSeiren様と仲良くしていた人魚の少女が、その存在を町の人々に知られ、火炙りの刑に処されていた。そして、悲しみに暮れたSeiren様は、その人魚の遺体から肉をこっそり抜き取っていた老婆と出会う。
 Seiren様は自分の右目と引き換えに老婆から肉を手に入れ、彼女と一つになることを夢見るようにその肉を口にした。たちまち髪の色も衣装も変わり、町を破壊していくSeiren様の姿が映し出されたところで、MVは終わった。
 Seiren様のバックボーンを詳しく知れたこと、それをこれでもかとショッキングで、なおかつ美しい映像で表現されていたことに感銘を受け、オレはしばらく何も手がつかなかった。
 中世のヨーロッパをイメージした街並みと全体的に漂う切ない雰囲気がマッチしてて最高だったけど、オレが一番印象に残ったのは、Seiren様が人間から怪物へと変貌を遂げるクライマックスのシーンだ。普段の美しいSeiren様とはかけ離れた醜さが全面に現れていて、無我夢中で人々を混乱の渦に巻き込むシーンでは、フィクションだと頭では分かっているのに胸を締めつけられた。
 ネットでは、翔子ちゃんの容姿を褒め称える意見と、ずっとSeiren様の姿でいてほしかったという意見で真っ二つに分かれていた。さらに、MVの意味深な演出に感化されたのか、近頃のSailorの態度に物申す者が何人も現れ、いつものようにネット上で喧嘩が始まった。
 翔子ちゃんがこの騒ぎを知って、また自分を追い詰めてしまうんじゃないかとめちゃくちゃ不安になったけど、オレにはどうすることもできなかった。他人の喧嘩に首を突っ込んでもややこしくなるだけだし、何より、そんなこと翔子ちゃんが望んでいない。オレの隣に翔子ちゃんがいれば彼女に話ぐらいは聞けただろうけど、とにかく今は、あの卒業試験を乗り越えたのならこの事態も乗り越えられるだろうと、あの子を信じることしかできなかった。

 バターチキンカレーのレトルトパウチを小鍋で茹でている間、まな板に乗せたトマトを包丁で乱切りにする。タイマーが鳴ったので火を止めると、炊飯器からすくったご飯をお皿に盛り付け、カレーのパックの中身をそこにかけた。先に切っておいたトマトをたっぷり乗せ、テレビを観ながらその味を堪能する。
 「ごちそうさまー」
 空になったお皿をシンクに運び、スマホを持ったままソファーに寝転んだ。
 SNSのタイムラインを眺めていると、Seiren様のライブに当選したことを喜んで報告するSailorたちの投稿が目に留まった。その投稿に対して「落ちた人のことの気持ちも考えてほしい」とキレてるSailorを見かけては、そんなわざわざ噛みつかなくてもいいのにと心の中で呟いてみる。
 まあ、オレも落ちたからショックな気持ちは分かるけど……
 キッチンのカウンターにスマホを置き、シンクの前に立つとスポンジを手に取った。
 もしライブで会えたら、その時のオレと翔子ちゃんは、あくまでファンと歌手の関係なんだよね。あの頃みたいに友達として会いたいけど、それができるのはいつになるんだろう……
 手を滑らせてしまい、洗っていたコップが大きな音を当ててシンクに落ちる。それを拾い、冷えきった水で泡を落とすと、水切りカゴの中に静かに置いた。自分しかいないリビングに、水滴の落ちる音だけが響く。
 「……ん?」 
 スマホから聞こえた通知音が、オレの孤独をほんの一瞬だけ満たす。残っていた食器を全て洗い終えると、タオルで手をよく拭いてからスマホを手に取った。
 『 ”Shoko” さんがあなたをフォローしました』
 『 ”Shoko” さんがあなたの投稿にいいねしました』
 「Shoko……ショウコ……いや、まさかね……」
 バナー通知をタップしてSNSの画面に飛び、その ”Shoko” というアカウントのプロフィール画面に向かう。
 「あっ……!」
 ━━あそこの海、本当に綺麗なの。ホムラくんにも一度見てほしいな
 そのアカウントのヘッダーに映っていたのは、怪ヶ浜にしか走らない路面電車と、その向こうに広がる青々とした海だった。
 アイコンには、白いカチューシャをつけて向こうを向いている黒髪の女の子が映っている。顔面はギリギリ映っていない。
 彼女が ”いいね” をしてくれたのは、オレが誕生日にアップしたイチゴのショートケーキの写真だった。一ヶ月前に作成された彼女のアカウントには日々の出来事が綴られており、人の日記を盗み見ているような気持ちになる。
 『今日はスクーリングでした。学校の先生や同級生たちと直接お話しできてすごく楽しかったです。お昼に食べたお父さんお手製のお弁当も美味しかった!』 
 卒業試験の時みたいにあの制服を着て、楽しそうに笑う彼女を想像するだけで感極まってしまう。
 『今日はオフだったのでお家で『人魚のはらわた』をお母さんと二人で観ました。 原作のあの世界観がそのまま表現されててすごく感動したな~、オススメしてくれた友達に感謝しなくちゃ』
 「友達……」
 その時、『Who is Witch?』が収録されたシングルアルバムのCMが流れ始めた。映っていたのは、燃え上がる十字架に向かって手を伸ばす人間時代のSeiren様だ。彼女の悲しそうな表情に画面越しに触れ、スマホを持つもう片方の手を下ろす。
 色々話したいことはあるけど、今はまだその時じゃない。胸を張って自分の夢を追えるビッグな男になってから、オレは翔子ちゃんに会いに行きたい。
 大丈夫、オレたちはまた友達として会える。だって、翔子ちゃんは今でもこうしてオレと繋がろうとしてくれている。だから、今は翔子ちゃんを信じて、また会える日を楽しみにしよう。
 スマホを胸に当ててゆっくり深呼吸したオレは、翔子ちゃんのアカウントをフォローした。そして、彼女の投稿の下に表示されたいいねボタンを押し、そのハートマークが赤く染まる瞬間を見届けた。
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