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6月初旬の陽射しは既に真夏のそれを思わせるほどの強さで褐色の肌を照らしていた。
アメリカ合衆国ミズーリ州カンザスシティの工場で製造され、白い塗装を施されたハーレーダビッドソン ロードキング・ポリスに跨った警官は、サバンナに生息しているネコ科の肉食獣がそうするように、道路脇で息を潜めて獲物がやって来るのを今か今かと待ちわびていた。
程なくして彼が掛けているレイバンのティアドロップ型のサングラスに1台の赤いセダンが写った。
警官は左手でクラッチレバーを握ると、すかさず左足でチェンジペダルを踏み込みギアを1速に入れた。すぐさまクラッチレバーを離すと同時に右手でアクセルグリップを力強く捻った。
ミルウォーキー・エイトの愛称で世界中のハーレー乗り達に親しまれている1800㏄のVツインエンジンが低くリズミカルなエキゾーストノートを奏で、二つのピストンが上下する振動を、あたかも心臓の鼓動であるかのように錯覚させる。バイクは警官のアクセルワークに呼応して、まるでその身体を雄々しく駆け出す肉食獣が如く、鋭く道路に躍り出した。
すぐに赤いセダンに追いつくと警官は右の親指でスライドスイッチをPの位置にセットする。連動して赤色回転灯が作動し無言で己の存在を周囲にアピールする。
さらに十秒ほどの追跡の後に彼は満を持してスライドスイッチをPの位置から、Mを通り越してSの位置に動かした。
白バイのスピーカーからは耳をつんざくようなサイレン音が吹鳴し、前方の獲物に自らの存在を誇示する。
警官がスライドスイッチから親指を離すとスイッチはバネの力で自動的にSからMの位置に戻り、それに連動してサイレンが鳴り止み、液晶メーターの一角に設けられた赤い線の囲いの中には76km/hの数字が、ここだけ時を止めらたかのように表示され続けていた。
囲いには仰々しくも『測定速度』とゴシック体の漢字で項目名が付けられていた。
彼は液晶メーターを一瞥し測定速度を確認すると、右の親指でマイクスイッチを押し、ヘルメットに据え付けられたマイクに向かってゆっくりと口を開いた。
「前方の赤いスカイラインの運転手さん、札幌 330 ふ 37―400の運転手さん。速度を落としてください。この先右手に駐車帯がありますから、そこに入ってください」
札幌市南区にある芸術の森。それにほど近い国土交通省北海道開発局 常盤除雪ステーションには隣接して駐車帯や公衆トイレが整備してある。
伊達市が終点となる国道453号線は、苫小牧市からの国道276号線が支笏湖畔で交わり、ここ芸術の森近辺に抜ける所謂『抜け道』として札幌周辺のドライバーには広く知られた存在である。
延々と続く森の木立ちの中に存在する曲がりくねったワインディングロードを走るのは一言でいえば爽快であり、かつては観光道路として一部区間が支笏湖畔有料道路に指定されていた程だった。
どうやらその爽快さがドライバーに対しエンドルフィンの分泌を促すらしく、結果としてスピードを出して走る車やバイクが多いのだ。
そのことをよく熟知している白バイ隊員達にとって、ここは格好の狩りの場となっていた。
警官は駐車帯で停止した赤いスカイラインの後ろに白バイを停めて静かにバイクから降り、サイドスタンドを立てかけた。
スカイラインのトランクリッドには『400R』のエンブレムが誇らしげに掲げられているが、車が停止している今となっては、ただ虚しくそこに貼り付けられている記号に過ぎなかった。
彼はスカイラインの右側に立ち、白い革の手袋をはめた手で運転席の窓ガラスをコンコンとノックする。すぐに窓ガラスが開くと中から不満を隠そうともせずに表情に出した運転手が顔を現した。
「だいぶスピードが出てましたけど、お急ぎでしたか?」
警官は穏やかに運転手に尋ねる。
不満を隠さずに表情に出した運転手が頭を上に向け警官の顔を見ると、運転手の表情は一瞬にして驚嘆のそれに変わった。
少しの間を置いて運転手が警官に食って掛かる。
「あんた、ニセ警官じゃないのか?」
警官はすぐに「本物の警察官ですよ」と応じるが、運転手も簡単には引き下がらない。
「黒人の警察官なんて居るかよ! 警察手帳を見せろ!」
警官は軽くため息をついて「いいですよ」と言い、制服の胸ポケットから二つ折りにされた警察手帳を取り出すと運転手に向かって広げてみせた。
警察手帳には警察官の制服を着たアフロヘアーの黒人青年の顔写真があり、すぐ下に続けて『巡査部長 Police Sergeant 本田 省吾 Honda Shougo 第31415号』と階級や名前が記されており、さらにその下にある旭日章をモチーフにしたエンブレムが、見る者を圧倒する金色の輝きを放っていた。
運転手はエンブレムにしっかりと『POLICE 北海道警察』と漆黒の文字が刻まれているのを目の当たりにした。
一瞬にして混乱に陥った運転手は、少しの間まるで酸欠の金魚のように口をパクパクさせていたが、やがて落ち着きを取り戻すと、本田巡査部長に向かって誰もが思うであろう疑問を投げかけた。
「あんた、日本人なのか? それとも帰化した外国人なのか?」
本田は警察手帳を上着のポケットにしまいながら、内心「またか」と思いつつ自分に対し投げかけられた疑問に答える。
「そもそも日本人じゃないと警察官にはなれませんよ。
もちろん私は日本人ですし、生まれも育ちも日本です。帰化したんじゃありませんよ。
父親はアメリカ人だそうですが、母とは籍を入れておらず、私が物心つく前にアメリカに帰国してしまいました。だから英語は、からっきしダメです。
何せ英検3級しか持っていませんから――」
そう言って微笑む本田につられて、運転手も笑った。
「運転免許証を拝見できますか?」
本田がそう言うと、すっかり戦意を喪失した運転手が大人しく免許証を本田に手渡した。
「スカイライン400Rなんてなかなか見かけませんね。……車、お好きなんですか?」
そう話しながら免許証の記載事項を書き写している本田に、運転手は「え? えぇ、まあ……」と、まるで魂を抜かれたかのように気の抜けた話し方で応じた。
その時、助手席で眠っていた小学校低学年と思しき男児が目を覚ました。
男児は本田を見るなり興奮した様子で大きな声を出した。
「あ! 日本初の黒人警察官の人だ!」
男児の言葉に呼応するように運転手が独り言をつぶやく。
「そういえば、何年か前にテレビや新聞で黒人が日本で初めてどうとか騒いでたな……。まさか、あんたの事だったのか!」
本田は照れ臭そうにヘルメットに手を当てた。
「あぁ、日本初の黒人警察官とか一時期随分騒がれましたけど、私はただ普通の日本人ですし普通の警察官ですよ」
(全く、いつもこの流れだ。黒人である自分を見た運転手が「ニセ警官じゃないのか?」と騒ぐ。そして警察手帳を見て本物の警察官だと分かると戦意喪失して、代わりに生い立ちなどを聞きたがる)
本田は胸にチクりとしたものを感じながらも、他の交通機動隊員が違反者とのやり取りに相当苦労して職務に当たっている事に比べれば、自分は恵まれている方なのか……。そんな事を考えた。
運転手に、車から降りて白バイのストップメーターに表示された測定速度を確認するように促す。運転手と一緒に車を降りてきた男児が歓声を上げる。
「スゲー! ハーレーの白バイだ! ねえ、お父さん! 写真撮って!」
父親である運転手も白バイを見て「ほおー」と声を漏らす。
「お巡りさん、あんたは特別待遇なのかい? こんなハーレーの白バイなんて、初めて見たよ!」
本田は親子にこのハーレーの白バイの説明をした。
「いや、私が特別扱いされているわけではありませんよ。
海外の自動車メーカーやバイクメーカーが日本政府にもっと外国製の自動車を買う様に要求してきて、その一連の流れを受けて警察庁が外国製の車を警察車両として試験採用することに決めたんです。
日本各地の警察で数台ずつですが外国製の警察車両が試験導入されているんですよ。
ここ北海道警察では交通機動隊に、この白バイを含めて2台のハーレーと2台のダッジ チャージャーが試験導入されています。
他には高速道路警察隊や自動車警ら隊にダッジ チャージャーやチャレンジャーが4台ほど試験導入されています」
本田の説明を聞きながら親子はうんうんと頷いた。
「ねぇ、お父さん! 僕、ダッジ チャレンジャーのパトカーが見たいよ!」
「そうだなぁ、タカシ。お父さんも見てみたい……」
すっかりその気になっている親子に本田が口添えをする。
「来月の第一土曜日と日曜日に厚別の森林公園のところにある住宅展示場で、この白バイと高速道路警察隊のダッジ チャレンジャーのパトカーが展示されますから、良かったら見学にいらして下さい」
「やったー! 絶対行こうねお父さん!」
そう言いながら飛び跳ねたタカシ君に父親もすっかり笑顔になっている。
「……で、すいませんが測定速度の確認と、あと切符を切りますので――」
その後の手続きはすんなりと進み、本田はタカシ君を白バイに跨らせてやり、白バイの前に立ってタカシ君に合わせてピースサインをした。
それを父親がスマホで記念撮影をする――。
(とても交通違反の取り締まり現場とは思えないよな……)
本田は毎回、デジャブのように同じ感想を思い浮かべる。
車に乗り込んだタカシ君と父親に対し、本田はお約束の呼びかけをした。
「この国道453号線は苫小牧からの抜け道でスピードを出す方が多いんですが、最近はスピードの出しすぎによる交通事故が増えていますから、スピードを控えて安全運転でお願いしますね」
そう言われた運転手は本田に丁寧に頭を下げて車を発進させた。
タカシ君が後ろを向いて本田に手を振った。本田も笑顔で手を振り返す。
JR函館本線 琴似駅の近くにある北海道警察本部 琴似庁舎に戻った本田は交通機動隊の居室で送致係に今日切った違反切符の束を渡し、白バイ小隊の島の一角にある自分のデスクで椅子に腰を掛け、フーッと深いため息をついた。
誰かが本田の肩をポンと叩き、そのまま2~3回肩を揉む仕草をした。本田が振り返るとそこには上司で白バイ小隊隊長の山田 晃が立っていた。
「なんや本田。また違反者に自分が黒人やっちゅうことでビビられてヘコんどるんか?」
大阪市住之江区出身の山田は北海道にある大学に進学したことが契機となり、すっかり北海道に魅せられてしまった一人だ。
大学卒業後は北海道警察に就職をし、その持ち前の要領の良さと人懐っこさ、そして鮮やかな関西弁を駆使して職務質問のコンテストで優勝し、全国大会に出場した経歴を持つ。自称『浪速の人情ポリスメン』だ。
「えぇ……、そうなんですよ。私はただ、一人の日本人として、そして一人の警察官として平凡な日常を送りたいだけなんですが」
「カーッ! 分かるわー。お前のその悩み! ワシにもよお分かるでぇー。
ワシもな、北海道民の中でただ一人のネイティブ関西人やろ?
何かある度に『関西弁を話す人ならなんかオモロイ事してくれんのんとちゃうか?』とか『関西人ならボケとツッコミはマストやろ!』っちゅう周囲の期待に応えなアカンて日々苦労してんのや。
ほんま、ワシらマイノリティは日々生きていくんが難儀やなあ」
関西人と黒人では悩みのベクトルが全然違う方向を向いていると思うのだが、日本に生きる黒人の自分と、北海道に住んでいる関西人の山田、確かにマイノリティである事に間違いは無い。
黙って考えている本田を見て山田がさらに追い打ちを掛けるように口を開く。
「お前また、自分が黒人やっちゅうことに後ろめたさを感じてるんか?
そんな事考えてもしゃーないやろ。お前が黒人やっちゅうことは死ぬまで変わらんのや。もっと胸張って堂々としてたらええねん。
お前が警察官として日々頑張っとんのは誰よりもワシ、山田 晃警部補と、お天道さんがしっかり見とるんやで、……知らんけど」
「ズコーッ! 知らんのかーい!」
本田は大げさにコケる仕草をして見せた。
山田がニヤニヤしながら「お! 自分、ツッコミがだいぶ上手くなってきたやん。ワシのお笑い英才教育の成果がようやく出てきたか!」と言った。
そこで、本田がまたフーッと大きなため息をついた。
「なんや? どないした?」
「私はこうやって普段は陽気な黒人を演じて見せますが、本当はそんな陽気じゃないんです。
先程もお話しましたが、外に取り締まりに出れば珍獣を見るような目で見られます。
……正直、そういう扱いを受けるのは不本意なんです」
うなだれながら、そう返事をした本田の背中を山田がバンと叩いた。
「なんや辛気臭いのおー自分。そんなシケたツラしてたらカビが生えてまうで。
アカン! 自分、まだ35~6やろ? ええ若いもんがそんなんしてたらアカンで!
もっとシュッとせな。シュッと!
ええか、白バイ隊員っちゅうもんは掴みが大事や。お前はな、その掴みを生まれながらにして持っとんねん。
それにさっきも言うたけど、お前が黒人っちゅうんは死ぬまで変わらんやろ? それをあれこれ悩んでもしゃーない。
ほな、開き直ってこれから続いてくるやろうハーフの警察官の後輩達の為に、お前がその存在を世間に知らしめてやればええねん。
何事も先陣を切るっちゅうんは難儀なこっちゃで。せやろ?
今が踏ん張りどころや。つまりな、フロンティアスピリッツっちゅうこっちゃ! 開拓者精神で今の難局を乗り切らなアカンで!
なーに、心配せんでも歳取ったら笑い話になるやろ、笑う門には福来たるっちゅうやっちゃ!」
山田はそう言い終えるとガハハと笑いながら去って行った。彼が持つ関西人としての性なのか、何かにつけてちょいちょい笑いを織り込んでくるのだが、ああ見えて彼は自分の事を一番に気にかけてくれている。
照れくさくて山田本人には言えないものの、本田はそれが嬉しかった。
アメリカ合衆国ミズーリ州カンザスシティの工場で製造され、白い塗装を施されたハーレーダビッドソン ロードキング・ポリスに跨った警官は、サバンナに生息しているネコ科の肉食獣がそうするように、道路脇で息を潜めて獲物がやって来るのを今か今かと待ちわびていた。
程なくして彼が掛けているレイバンのティアドロップ型のサングラスに1台の赤いセダンが写った。
警官は左手でクラッチレバーを握ると、すかさず左足でチェンジペダルを踏み込みギアを1速に入れた。すぐさまクラッチレバーを離すと同時に右手でアクセルグリップを力強く捻った。
ミルウォーキー・エイトの愛称で世界中のハーレー乗り達に親しまれている1800㏄のVツインエンジンが低くリズミカルなエキゾーストノートを奏で、二つのピストンが上下する振動を、あたかも心臓の鼓動であるかのように錯覚させる。バイクは警官のアクセルワークに呼応して、まるでその身体を雄々しく駆け出す肉食獣が如く、鋭く道路に躍り出した。
すぐに赤いセダンに追いつくと警官は右の親指でスライドスイッチをPの位置にセットする。連動して赤色回転灯が作動し無言で己の存在を周囲にアピールする。
さらに十秒ほどの追跡の後に彼は満を持してスライドスイッチをPの位置から、Mを通り越してSの位置に動かした。
白バイのスピーカーからは耳をつんざくようなサイレン音が吹鳴し、前方の獲物に自らの存在を誇示する。
警官がスライドスイッチから親指を離すとスイッチはバネの力で自動的にSからMの位置に戻り、それに連動してサイレンが鳴り止み、液晶メーターの一角に設けられた赤い線の囲いの中には76km/hの数字が、ここだけ時を止めらたかのように表示され続けていた。
囲いには仰々しくも『測定速度』とゴシック体の漢字で項目名が付けられていた。
彼は液晶メーターを一瞥し測定速度を確認すると、右の親指でマイクスイッチを押し、ヘルメットに据え付けられたマイクに向かってゆっくりと口を開いた。
「前方の赤いスカイラインの運転手さん、札幌 330 ふ 37―400の運転手さん。速度を落としてください。この先右手に駐車帯がありますから、そこに入ってください」
札幌市南区にある芸術の森。それにほど近い国土交通省北海道開発局 常盤除雪ステーションには隣接して駐車帯や公衆トイレが整備してある。
伊達市が終点となる国道453号線は、苫小牧市からの国道276号線が支笏湖畔で交わり、ここ芸術の森近辺に抜ける所謂『抜け道』として札幌周辺のドライバーには広く知られた存在である。
延々と続く森の木立ちの中に存在する曲がりくねったワインディングロードを走るのは一言でいえば爽快であり、かつては観光道路として一部区間が支笏湖畔有料道路に指定されていた程だった。
どうやらその爽快さがドライバーに対しエンドルフィンの分泌を促すらしく、結果としてスピードを出して走る車やバイクが多いのだ。
そのことをよく熟知している白バイ隊員達にとって、ここは格好の狩りの場となっていた。
警官は駐車帯で停止した赤いスカイラインの後ろに白バイを停めて静かにバイクから降り、サイドスタンドを立てかけた。
スカイラインのトランクリッドには『400R』のエンブレムが誇らしげに掲げられているが、車が停止している今となっては、ただ虚しくそこに貼り付けられている記号に過ぎなかった。
彼はスカイラインの右側に立ち、白い革の手袋をはめた手で運転席の窓ガラスをコンコンとノックする。すぐに窓ガラスが開くと中から不満を隠そうともせずに表情に出した運転手が顔を現した。
「だいぶスピードが出てましたけど、お急ぎでしたか?」
警官は穏やかに運転手に尋ねる。
不満を隠さずに表情に出した運転手が頭を上に向け警官の顔を見ると、運転手の表情は一瞬にして驚嘆のそれに変わった。
少しの間を置いて運転手が警官に食って掛かる。
「あんた、ニセ警官じゃないのか?」
警官はすぐに「本物の警察官ですよ」と応じるが、運転手も簡単には引き下がらない。
「黒人の警察官なんて居るかよ! 警察手帳を見せろ!」
警官は軽くため息をついて「いいですよ」と言い、制服の胸ポケットから二つ折りにされた警察手帳を取り出すと運転手に向かって広げてみせた。
警察手帳には警察官の制服を着たアフロヘアーの黒人青年の顔写真があり、すぐ下に続けて『巡査部長 Police Sergeant 本田 省吾 Honda Shougo 第31415号』と階級や名前が記されており、さらにその下にある旭日章をモチーフにしたエンブレムが、見る者を圧倒する金色の輝きを放っていた。
運転手はエンブレムにしっかりと『POLICE 北海道警察』と漆黒の文字が刻まれているのを目の当たりにした。
一瞬にして混乱に陥った運転手は、少しの間まるで酸欠の金魚のように口をパクパクさせていたが、やがて落ち着きを取り戻すと、本田巡査部長に向かって誰もが思うであろう疑問を投げかけた。
「あんた、日本人なのか? それとも帰化した外国人なのか?」
本田は警察手帳を上着のポケットにしまいながら、内心「またか」と思いつつ自分に対し投げかけられた疑問に答える。
「そもそも日本人じゃないと警察官にはなれませんよ。
もちろん私は日本人ですし、生まれも育ちも日本です。帰化したんじゃありませんよ。
父親はアメリカ人だそうですが、母とは籍を入れておらず、私が物心つく前にアメリカに帰国してしまいました。だから英語は、からっきしダメです。
何せ英検3級しか持っていませんから――」
そう言って微笑む本田につられて、運転手も笑った。
「運転免許証を拝見できますか?」
本田がそう言うと、すっかり戦意を喪失した運転手が大人しく免許証を本田に手渡した。
「スカイライン400Rなんてなかなか見かけませんね。……車、お好きなんですか?」
そう話しながら免許証の記載事項を書き写している本田に、運転手は「え? えぇ、まあ……」と、まるで魂を抜かれたかのように気の抜けた話し方で応じた。
その時、助手席で眠っていた小学校低学年と思しき男児が目を覚ました。
男児は本田を見るなり興奮した様子で大きな声を出した。
「あ! 日本初の黒人警察官の人だ!」
男児の言葉に呼応するように運転手が独り言をつぶやく。
「そういえば、何年か前にテレビや新聞で黒人が日本で初めてどうとか騒いでたな……。まさか、あんたの事だったのか!」
本田は照れ臭そうにヘルメットに手を当てた。
「あぁ、日本初の黒人警察官とか一時期随分騒がれましたけど、私はただ普通の日本人ですし普通の警察官ですよ」
(全く、いつもこの流れだ。黒人である自分を見た運転手が「ニセ警官じゃないのか?」と騒ぐ。そして警察手帳を見て本物の警察官だと分かると戦意喪失して、代わりに生い立ちなどを聞きたがる)
本田は胸にチクりとしたものを感じながらも、他の交通機動隊員が違反者とのやり取りに相当苦労して職務に当たっている事に比べれば、自分は恵まれている方なのか……。そんな事を考えた。
運転手に、車から降りて白バイのストップメーターに表示された測定速度を確認するように促す。運転手と一緒に車を降りてきた男児が歓声を上げる。
「スゲー! ハーレーの白バイだ! ねえ、お父さん! 写真撮って!」
父親である運転手も白バイを見て「ほおー」と声を漏らす。
「お巡りさん、あんたは特別待遇なのかい? こんなハーレーの白バイなんて、初めて見たよ!」
本田は親子にこのハーレーの白バイの説明をした。
「いや、私が特別扱いされているわけではありませんよ。
海外の自動車メーカーやバイクメーカーが日本政府にもっと外国製の自動車を買う様に要求してきて、その一連の流れを受けて警察庁が外国製の車を警察車両として試験採用することに決めたんです。
日本各地の警察で数台ずつですが外国製の警察車両が試験導入されているんですよ。
ここ北海道警察では交通機動隊に、この白バイを含めて2台のハーレーと2台のダッジ チャージャーが試験導入されています。
他には高速道路警察隊や自動車警ら隊にダッジ チャージャーやチャレンジャーが4台ほど試験導入されています」
本田の説明を聞きながら親子はうんうんと頷いた。
「ねぇ、お父さん! 僕、ダッジ チャレンジャーのパトカーが見たいよ!」
「そうだなぁ、タカシ。お父さんも見てみたい……」
すっかりその気になっている親子に本田が口添えをする。
「来月の第一土曜日と日曜日に厚別の森林公園のところにある住宅展示場で、この白バイと高速道路警察隊のダッジ チャレンジャーのパトカーが展示されますから、良かったら見学にいらして下さい」
「やったー! 絶対行こうねお父さん!」
そう言いながら飛び跳ねたタカシ君に父親もすっかり笑顔になっている。
「……で、すいませんが測定速度の確認と、あと切符を切りますので――」
その後の手続きはすんなりと進み、本田はタカシ君を白バイに跨らせてやり、白バイの前に立ってタカシ君に合わせてピースサインをした。
それを父親がスマホで記念撮影をする――。
(とても交通違反の取り締まり現場とは思えないよな……)
本田は毎回、デジャブのように同じ感想を思い浮かべる。
車に乗り込んだタカシ君と父親に対し、本田はお約束の呼びかけをした。
「この国道453号線は苫小牧からの抜け道でスピードを出す方が多いんですが、最近はスピードの出しすぎによる交通事故が増えていますから、スピードを控えて安全運転でお願いしますね」
そう言われた運転手は本田に丁寧に頭を下げて車を発進させた。
タカシ君が後ろを向いて本田に手を振った。本田も笑顔で手を振り返す。
JR函館本線 琴似駅の近くにある北海道警察本部 琴似庁舎に戻った本田は交通機動隊の居室で送致係に今日切った違反切符の束を渡し、白バイ小隊の島の一角にある自分のデスクで椅子に腰を掛け、フーッと深いため息をついた。
誰かが本田の肩をポンと叩き、そのまま2~3回肩を揉む仕草をした。本田が振り返るとそこには上司で白バイ小隊隊長の山田 晃が立っていた。
「なんや本田。また違反者に自分が黒人やっちゅうことでビビられてヘコんどるんか?」
大阪市住之江区出身の山田は北海道にある大学に進学したことが契機となり、すっかり北海道に魅せられてしまった一人だ。
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「えぇ……、そうなんですよ。私はただ、一人の日本人として、そして一人の警察官として平凡な日常を送りたいだけなんですが」
「カーッ! 分かるわー。お前のその悩み! ワシにもよお分かるでぇー。
ワシもな、北海道民の中でただ一人のネイティブ関西人やろ?
何かある度に『関西弁を話す人ならなんかオモロイ事してくれんのんとちゃうか?』とか『関西人ならボケとツッコミはマストやろ!』っちゅう周囲の期待に応えなアカンて日々苦労してんのや。
ほんま、ワシらマイノリティは日々生きていくんが難儀やなあ」
関西人と黒人では悩みのベクトルが全然違う方向を向いていると思うのだが、日本に生きる黒人の自分と、北海道に住んでいる関西人の山田、確かにマイノリティである事に間違いは無い。
黙って考えている本田を見て山田がさらに追い打ちを掛けるように口を開く。
「お前また、自分が黒人やっちゅうことに後ろめたさを感じてるんか?
そんな事考えてもしゃーないやろ。お前が黒人やっちゅうことは死ぬまで変わらんのや。もっと胸張って堂々としてたらええねん。
お前が警察官として日々頑張っとんのは誰よりもワシ、山田 晃警部補と、お天道さんがしっかり見とるんやで、……知らんけど」
「ズコーッ! 知らんのかーい!」
本田は大げさにコケる仕草をして見せた。
山田がニヤニヤしながら「お! 自分、ツッコミがだいぶ上手くなってきたやん。ワシのお笑い英才教育の成果がようやく出てきたか!」と言った。
そこで、本田がまたフーッと大きなため息をついた。
「なんや? どないした?」
「私はこうやって普段は陽気な黒人を演じて見せますが、本当はそんな陽気じゃないんです。
先程もお話しましたが、外に取り締まりに出れば珍獣を見るような目で見られます。
……正直、そういう扱いを受けるのは不本意なんです」
うなだれながら、そう返事をした本田の背中を山田がバンと叩いた。
「なんや辛気臭いのおー自分。そんなシケたツラしてたらカビが生えてまうで。
アカン! 自分、まだ35~6やろ? ええ若いもんがそんなんしてたらアカンで!
もっとシュッとせな。シュッと!
ええか、白バイ隊員っちゅうもんは掴みが大事や。お前はな、その掴みを生まれながらにして持っとんねん。
それにさっきも言うたけど、お前が黒人っちゅうんは死ぬまで変わらんやろ? それをあれこれ悩んでもしゃーない。
ほな、開き直ってこれから続いてくるやろうハーフの警察官の後輩達の為に、お前がその存在を世間に知らしめてやればええねん。
何事も先陣を切るっちゅうんは難儀なこっちゃで。せやろ?
今が踏ん張りどころや。つまりな、フロンティアスピリッツっちゅうこっちゃ! 開拓者精神で今の難局を乗り切らなアカンで!
なーに、心配せんでも歳取ったら笑い話になるやろ、笑う門には福来たるっちゅうやっちゃ!」
山田はそう言い終えるとガハハと笑いながら去って行った。彼が持つ関西人としての性なのか、何かにつけてちょいちょい笑いを織り込んでくるのだが、ああ見えて彼は自分の事を一番に気にかけてくれている。
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