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左向きのシャチ 上
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世界中のサラリーマンがそうであるように、
松原中のカラスも寝坊をして、寝ぼけ眼で思い出したように発声練習から1日をはじめる。
日曜日の朝だ。
宏明が目を覚ました頃には11時を過ぎていた。
松原に限ったことではなく、世界中の歯車はすでに回転を始めており、とどのつまり、
寝坊明けには寝坊明けなりの1日がすでに営業を開始していたのである。
庭からは、娘と犬が戯れる声が聞こえる。
どうにも、解決しないといけない問題を後回しにし続け、それはすでに宏明の対処できない範疇まで重症化してしまっているような気がしてならない。
宏明の目下の任務として、庭の小屋を片付けようとした矢先に、
最近姿を現さなくなったカエルに代わって、厄介な犬が住み着いた。
そして、我が家を取り巻く環境は、確実に不条理の要塞を築き上げている。
なんとかしなければ……と思いはすれど、一体どうすればいいのかと二の足を踏んでいるうちに、気がつけば新たな不条理が庭から侵食していくようだ。
楽しそうに犬と戯れる娘を憂いながらも宏明はカーテンを開け、庭を眺めた。
そこには……
娘と犬を、円で囲うように、1匹のシャチが庭を泳いでいた。
娘は大はしゃぎである。宏明はゴン! とガラス戸に頭を当てた。
「パパおはよー!!」
宏明が仕方なく庭に出ると、麻由はシャチが描く縁の中から手を振った。
「……おはよう」
すると、芝生から「ザバン!」と土しぶきをあげ、全長4m前後のシャチが笑顔で地表に現れた。
「シャッチー♪」
シャチは、ヒレを人間の手のように振り、宏明に挨拶をして見せた。
宏明はため息をついた。
するとシャチは芝生の土を泳ぎ、宏明のそばまでやってきた。
そして、もう一度、
「シャッチー♪」
宏明から1mの近さでヒレを振ってみせた。
……この時宏明が感じていたことは、シャチをこの近さで見ることができて幸運だ、などというものではなかった。はっきり、うんざりしていた。
宏明が挨拶を返さないとわかると、シャチは不満そうな態度で物申した。
「こらこら。客人」
……『客人』はお前の方だ。全く怪異ってやつはどいつもこいつも、人ん家を我が家のように思っていやがる。
「海のギャングがー♪お前に挨拶してるアルよー♪」
喋り方に、妙な節がついている。あざとい。
「シーギャング、おっかないアルよー♪」
なんだその、一昔前の映画に出てくる中国人の吹き替えみたいな喋り方は。
「……なんの『御用でしょうか?』」
すると、麻由のそばに控えていた柴犬が、「ワン!」と、瞬時にサンマを七輪で焼き始め、うちわで煙を宏明に向けてあおいだ。
『御用でしょうか?』が怪異語で何かのスラングなのだろう。
宏明が煙に咳き込んでいると、
「シャッチーはー♪この少女の客人と犬をー♪立派な革命戦士に育て上げるアルよー♪」
「……結構です」
真っ先に言葉が出た。すると……
「ワン!」と、柴犬がハリセンを口で咥え、宏明に飛びかかり、頭をしばいた。
『結構です』が、怪異語で何かのスラングなのだろう。
「遠慮するなアルよー♪ついでにー♪お前も立派な革命戦士に育ててやるアルよー♪」
「なんですか?革命戦士って……」
「もちろんー♪ アパヂャイ共和国の思想戦士アルよー♪」
「アパヂャイ共和国?」
「日本の左の方にある国なんだって」
麻由が楽しそうに言った。
「……中国ってことですか?」
「こら!!!」
シャチの口からカルキ臭い真水柱が出て、宏明に直撃した。
「つめて!!」
「中国はー♪日本の『西』アルなー♪
『西』とー♪『左』とではー♪全く意味が違うアルよー♪」
だめだ。このままではいつも通り怪異のペースに持ってかれて、結局何も解決しない。
強い気持ちでこの怪異を追い返さなくては。
「どんな思想ですか!!」
するとシャチは、よくぞ聞いてくれたという顔をして、宏明の、より側まできて、ヒレで宏明の肩を叩いた。
「変化を恐れちゃだめアル。アパヂャイ主義はー♪お前の味方アルよー♪」
「はあ?」
「みたところー♪お前は労働者アルなー♪
労働者はー♪つまるところブルジョアジー主義に搾取され続けるアルよー♪この階級格差を改善すべく立ち上がるのがー♪
我ら革命の子アルよー♪」
可愛い顔してなんてセンシティブな事を言い出すんだこのシャチは……
シャチは、ヒレで地面に、大きな丸を書いて「資本」と漢字で書いた。
「お前みたいなー♪労働者はー♪まずこの踏み絵を踏むアルよー♪」
「はい!?」
「一歩踏み出すアルよー♪格差をなくすために踏み絵を踏めアルよー♪」
笑っているとはいえ、全長4mのシャチの顔は間近で見るとそれなりの迫力があった。
逆らえず、宏明は「資本」と書いてある縁を、足で踏んでみた。
「ぐりぐりー♪」
「はい?」
「そのままー♪足をぐりぐりするアルよー♪」
よく見れば、麻友の足元にも、同じような円と「資本」という文字を足でかき消したような跡があった。
「……娘に変なことさせてないだろうな」
シャチは、口をあんぐりとあけた。
シャチの口から水鉄砲が出てくることを予感した宏明は、慌てて踏み絵を足でかき消した。
「よくやったアルよー♪三人の労働者ー♪これでー♪お前達も立派なアパヂャイ革命戦士アルよー♪」
「……おい。8歳の娘に共産主義を吹き込むな!」
「こら!!」
シャチの口からカルキの効きすぎた真水柱が出て、すでにずぶ濡れの宏明に直撃した。
「ぎゃあ!!」
「共産主義ではなくー♪アパヂャイ主義アルよー♪間違えるなアル。原点1」
「どう違うんだ!」
「アパヂャイ主義はー♪『左より』の思想アルなー♪」
それを、左翼思想というのではないのか……
宏明が望む望めぬに関わらず、また癖の強い厄介な『客人』がやってきたのであった。
松原中のカラスも寝坊をして、寝ぼけ眼で思い出したように発声練習から1日をはじめる。
日曜日の朝だ。
宏明が目を覚ました頃には11時を過ぎていた。
松原に限ったことではなく、世界中の歯車はすでに回転を始めており、とどのつまり、
寝坊明けには寝坊明けなりの1日がすでに営業を開始していたのである。
庭からは、娘と犬が戯れる声が聞こえる。
どうにも、解決しないといけない問題を後回しにし続け、それはすでに宏明の対処できない範疇まで重症化してしまっているような気がしてならない。
宏明の目下の任務として、庭の小屋を片付けようとした矢先に、
最近姿を現さなくなったカエルに代わって、厄介な犬が住み着いた。
そして、我が家を取り巻く環境は、確実に不条理の要塞を築き上げている。
なんとかしなければ……と思いはすれど、一体どうすればいいのかと二の足を踏んでいるうちに、気がつけば新たな不条理が庭から侵食していくようだ。
楽しそうに犬と戯れる娘を憂いながらも宏明はカーテンを開け、庭を眺めた。
そこには……
娘と犬を、円で囲うように、1匹のシャチが庭を泳いでいた。
娘は大はしゃぎである。宏明はゴン! とガラス戸に頭を当てた。
「パパおはよー!!」
宏明が仕方なく庭に出ると、麻由はシャチが描く縁の中から手を振った。
「……おはよう」
すると、芝生から「ザバン!」と土しぶきをあげ、全長4m前後のシャチが笑顔で地表に現れた。
「シャッチー♪」
シャチは、ヒレを人間の手のように振り、宏明に挨拶をして見せた。
宏明はため息をついた。
するとシャチは芝生の土を泳ぎ、宏明のそばまでやってきた。
そして、もう一度、
「シャッチー♪」
宏明から1mの近さでヒレを振ってみせた。
……この時宏明が感じていたことは、シャチをこの近さで見ることができて幸運だ、などというものではなかった。はっきり、うんざりしていた。
宏明が挨拶を返さないとわかると、シャチは不満そうな態度で物申した。
「こらこら。客人」
……『客人』はお前の方だ。全く怪異ってやつはどいつもこいつも、人ん家を我が家のように思っていやがる。
「海のギャングがー♪お前に挨拶してるアルよー♪」
喋り方に、妙な節がついている。あざとい。
「シーギャング、おっかないアルよー♪」
なんだその、一昔前の映画に出てくる中国人の吹き替えみたいな喋り方は。
「……なんの『御用でしょうか?』」
すると、麻由のそばに控えていた柴犬が、「ワン!」と、瞬時にサンマを七輪で焼き始め、うちわで煙を宏明に向けてあおいだ。
『御用でしょうか?』が怪異語で何かのスラングなのだろう。
宏明が煙に咳き込んでいると、
「シャッチーはー♪この少女の客人と犬をー♪立派な革命戦士に育て上げるアルよー♪」
「……結構です」
真っ先に言葉が出た。すると……
「ワン!」と、柴犬がハリセンを口で咥え、宏明に飛びかかり、頭をしばいた。
『結構です』が、怪異語で何かのスラングなのだろう。
「遠慮するなアルよー♪ついでにー♪お前も立派な革命戦士に育ててやるアルよー♪」
「なんですか?革命戦士って……」
「もちろんー♪ アパヂャイ共和国の思想戦士アルよー♪」
「アパヂャイ共和国?」
「日本の左の方にある国なんだって」
麻由が楽しそうに言った。
「……中国ってことですか?」
「こら!!!」
シャチの口からカルキ臭い真水柱が出て、宏明に直撃した。
「つめて!!」
「中国はー♪日本の『西』アルなー♪
『西』とー♪『左』とではー♪全く意味が違うアルよー♪」
だめだ。このままではいつも通り怪異のペースに持ってかれて、結局何も解決しない。
強い気持ちでこの怪異を追い返さなくては。
「どんな思想ですか!!」
するとシャチは、よくぞ聞いてくれたという顔をして、宏明の、より側まできて、ヒレで宏明の肩を叩いた。
「変化を恐れちゃだめアル。アパヂャイ主義はー♪お前の味方アルよー♪」
「はあ?」
「みたところー♪お前は労働者アルなー♪
労働者はー♪つまるところブルジョアジー主義に搾取され続けるアルよー♪この階級格差を改善すべく立ち上がるのがー♪
我ら革命の子アルよー♪」
可愛い顔してなんてセンシティブな事を言い出すんだこのシャチは……
シャチは、ヒレで地面に、大きな丸を書いて「資本」と漢字で書いた。
「お前みたいなー♪労働者はー♪まずこの踏み絵を踏むアルよー♪」
「はい!?」
「一歩踏み出すアルよー♪格差をなくすために踏み絵を踏めアルよー♪」
笑っているとはいえ、全長4mのシャチの顔は間近で見るとそれなりの迫力があった。
逆らえず、宏明は「資本」と書いてある縁を、足で踏んでみた。
「ぐりぐりー♪」
「はい?」
「そのままー♪足をぐりぐりするアルよー♪」
よく見れば、麻友の足元にも、同じような円と「資本」という文字を足でかき消したような跡があった。
「……娘に変なことさせてないだろうな」
シャチは、口をあんぐりとあけた。
シャチの口から水鉄砲が出てくることを予感した宏明は、慌てて踏み絵を足でかき消した。
「よくやったアルよー♪三人の労働者ー♪これでー♪お前達も立派なアパヂャイ革命戦士アルよー♪」
「……おい。8歳の娘に共産主義を吹き込むな!」
「こら!!」
シャチの口からカルキの効きすぎた真水柱が出て、すでにずぶ濡れの宏明に直撃した。
「ぎゃあ!!」
「共産主義ではなくー♪アパヂャイ主義アルよー♪間違えるなアル。原点1」
「どう違うんだ!」
「アパヂャイ主義はー♪『左より』の思想アルなー♪」
それを、左翼思想というのではないのか……
宏明が望む望めぬに関わらず、また癖の強い厄介な『客人』がやってきたのであった。
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