Gravity Phase TransformationⅠ  破壊と創造のアンソロジー

Pen Donavan

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GPTⅠ 第1章  始まりの、はじまり。

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    第2章  キャンバス



     1

 あれから5年の歳月が流れた。井ノ中村をバンク種の聖地にしたいという考えを、悟は動画の中で、初めてはっきりと言葉にした。それを知った村人たちは案の定、怒りを再燃させたが、それからすぐに仲間が逮捕されて、警察官も処分されると、村はより一層世間の注目を浴びるようになって、さすがに、あからさまに抵抗してくることはなくなった。それに何よりも外面の良かった彼らの性質を、悟のアップした動画が見事にそのメッキを剥がしたために、羞恥心が彼らを萎縮させていたのだ。
 村人たちは、過疎化が進んで子供もいない、人口200人足らずの小さな村にまで縮小してしまった井ノ中村を、自分たちの力だけで再興するのが困難なことは誰もが分かっていたけれど、憤懣やるかたない思いを発散できずにいるのも我慢ならないようで、その後も何かと嫌がらせを続けた。悟は悟で、村に住み始めても、そんな人たちとは同郷になりたくなくて、せめて彼らを旧村民と呼んで区別した。
 つい最近も、道を歩いているとき、旧村民が悟を睨みながらズカズカと前から直進してきた。このままだと悟の右半身と彼の右半身がぶつかるのは明らかだった。ガードレール側にいた悟はそれ以上左に寄れないため、旧村民を大きく迂回するように右側のルートを行くしかなく、それでどうにか衝突は避けた。本当に嫌な思いをした。
 いくら悟たちと旧村民との間に走る亀裂が猛烈に深くて、未来永劫その溝が埋まることは絶対にないとしても、すでに結果は出ていることだし、恨みがましい態度を取り続けたところで何の生産性もないというのに、なぜ彼らは変わろうとしないのだろうか。ほんの少しの譲り合いの精神さえ見せてくれたことがない。常に勝つか負けるかで、醜い暴言を吐くか威嚇しかしてこない。これではまるで動物の縄張り争いと一緒だ。同じ次元に立ちたくもないのに。かといって、彼らが理解と思いやりのある言動を取れるようになるまで一体、どれぐらいの教育と経験が必要なのか見当もつかないし、いずれにしろ、そんなに悠長には待っていられない。だからこっちも、大事なときには有無を言わせない遣り方を採用するしかなく、悟としてもそれは、一抹の寂しさを覚えるものだった。
 他方、クリニックは盛況を博した。騒ぎを聞きつけた政府が凍結した精子の輸入を禁止したために遠回りする羽目になったけれど、それも想定内だったので希望者にはアメリカに飛んでもらった。それでも日本に居ながら精子バンクのデータを閲覧できて、授精から出産まで体系化されていて、言葉の壁もなく、悟が勤務していたアメリカのクリニックで授精できることは、多いに日本人女性に安心感をもたらした。その後も検査から出産まで悟が担当して妊婦の心の拠り所になったので、特に問題が起きることもなかった。
 政府や倫理委員会は、これを受けて直ちに、このような実効妊娠に忠告と難色を示したが、自由恋愛の前提のもとでは如何ようにも抜け穴を作り出せることから、妊娠と出産を望んでいる女性に効果のある規制を設けるのは難しかった。それに、日本人の母親を持つ子供は、血統主義によって日本国籍を取得する権利を有しており、さすがに政府も、その権利を剥奪してまで抑止力に繋げるというわけにはいかず、また、労働力を確保するのに直接移民を増やすよりはという意見もあって、バンク出産は体面上、問題視されつつも、特例で凍結した精子の輸入を禁止された以外、何ら法的な規制の対象には至っていない。そのうち、輸入が解禁される日もやって来るだろう。
 なお、バンク種の聖地化においては、マンション1棟に付き24戸、計10棟分を建設予定であると告知したところ、予約の段階ですぐに完売した。完成次第、順次入居してもらい、1階部分の駐車場以外のテナントには、歯科、内科、小児科といった他の医院や、スーパーマーケットも新たに開業して、少しずつ暮らしやすい環境が整っていった。
 それと、誰もが気軽に何でも話ができるようにコミューン・サークルも作った。初めのうちは1ヶ月に一度ぐらいのペースで来館の少ない日曜日の夕方にクリニックのロビーを集会場所として提供していたが、スタッフ宿舎用のマンションとコミューン・センターが完成してからは後者の2階が会場となった。3階は温泉施設で、1階が保育園だ。
 ある日のこと、5月の風に誘われて、新緑の美しさに癒されながら悟が朝の散歩をしていたとき、バンク種一期生の子供たちがそこの保育園に通うために、お母さんに連れられて、保育園の制服の上から水色のスモックを羽織って帽子を被り、黄色いカバンを肩掛けにして歩く、例の姿を見た。まるでヒヨコみたいで自然に笑みがこぼれた。失ってはいけない光景の1つだ。悟は今度の集会で、次なるステージに進む時期が来たことを、改めてみんなに告げる決心をした。
 連絡を受けて、時間に余裕のある人たちがコミューン・センターの2階に集まって来た。集まりのときや何かあったときには、子供たちの面倒を見てくれる人を交代制でちゃんと準備しているので、子供が愚図って中断されることもない。ちなみに、こうしたルールを円滑に進めてくれているのが、広告プランナーのクラリス・ワイスだった。悟がお礼に、良かったら使ってほしいとプレゼントしていたノート型PCを、今も開いて、話の内容を打ち込む用意をしてくれている。悟は笑顔で好意を示した。
 その日は結局スタッフも合わせると60人ぐらいが集まった。みんな気軽に挨拶を交わしては世間話に花を咲かせている。悟は、久しぶりに例のマイクを手に取った。
「今日は皆さんに、とても大切なお話があるんです。子供たちも3才になって、保育園に通い始めました。赤ちゃんだった頃から比べると、随分逞しく成長してくれたものです。ぼくたちはそんな子供たちのためにも、そろそろ当初の計画どおり、3年後の小学校入学に向けて、建設の準備に入りたいと思っているのですが、校舎は以前、井ノ中村で使っていた学校跡地に新しく建てる予定でいます。運動場もプールもすでに場所が確保されていますからね。ただそれに伴い、旧村民が暮らしている地域に進出していくことになりますので、距離が近づく分だけ、また新たに確執が生じることだって考えられます。しかし、仲間が増えていけばいくほど、それは避けて通れない。
 そこで少しでも物事を有利に運ぶために、今年の夏に実施される村長選挙にコミューンから1名立候補して頂きたいのです」
 みんなから驚きの声が上がった。と同時に肯定の拍手も沸き起こった。村役場に行くたびに少ながらず嫌な思いをすると聞いたことがある。理由はそれだろう。あちらこちらで相談が始まった。何だかみんな楽しそうだ。ほどなくして、ざわめきの中から小さく個人名が浮上してきたかと思うと、みんなの同意を得て立候補者が固まった。
 全員が「せいの」と息を合わせて「クラリス・ワイス」と言った。本人が「ないない、嘘でしょ、えー!」と驚いて頭を抱えると、笑いが湧き起こった。
 それからすぐに「クラリス以外に考えられないわ、不安なときにどれだけ救われたか、まとめてくれる人がいて本当に助かっているのよ、バイタリティがあって気配り上手で、それにあなたが作り出す社会ならきっと楽しいんじゃないかしら、まさに適任者よ」という本音も飛び交った。
 会場にはすごく良い前向きのエネルギーが満ちている。これで決まりだな。悟はみんなと思っていることが同じで嬉しかった。あとは本人の気持ちが固まるのを待つだけだ。
「まだ時間はあります。ゆっくり考えて、次の集まりのときにでも、ご報告して頂ければ結構です」と緊張顔のクラリスに、悟は優しく答えた。
「今度の選挙ですが、数の原理からいって完全なる勝ち戦なんです。現在の旧村民の方は全員成人ですので187名分、選挙権があることになります。ぼくたちのコミューンで選挙権のある人はというと、お母さん方と一緒に移住して来られたそのご両親、それからスタッフです。合わせて334名、十分な人数です。従って、ぼくたちコミューンの仲間が思いを1つにするだけでいいんです。これからは関心のある者同士で後援会を立ち上げ、具体的にバックアップ体制を整えていきましょう」
 悟は、クラリス・ワイスの背中を後押しする言葉を口にして解散した。さらなる聖地化へと駒を進めるには、自治体と一体になった改革が不可欠だった。

 物事は、トントン拍子に進んで行った。クラリス・ワイスが覚悟を決めた翌日にはすぐさま選挙管理委員会に政治団体設立届を提出して、正式に後援会が政治活動できるようにした。それから、後援会の思想と目標を誰もが理解しやすいように、情報を分かりやすくまとめた。
 改めて状況を確認しておくと、今の時点で井ノ中村に移住できるのは、手に職を持っている独立系女子か、資産家、もしくは物心両面において両親の理解と援助を得られる女性か、悟が募集をかけた働き手ぐらいである。なので、まだまだ特別な条件を満たしている者だけに限られており、この先、より多くの人に移住してもらうには、新たな雇用の創出や住環境の整備が必要となってくる。では、バンク出産以外に何をテーマにするべきかであるが、幸いなことに村には温泉資源が豊富に眠っている。地域おこしには打って付けの材料だ。客足が遠のくような荒廃した雰囲気の空き家は全部撤去して、この村ならではの魅力ある空間造りを手掛けて、温泉地としての価値を高めることができれば、人は自然に集まり、さらなる発展のきっかけを掴めるはずだ。

     2

 ドクター才家から、そのようなお話を伺って、クラリス・ワイスは、まずコミューンで1番センスがありそうなインテリアデザイナーのミラ・ヴリュレに相談することにした。
「今後の村のイメージとして、全体的な統一感を持ちながら、それでいてそれを崩すことなく、これから建設していくそれぞれの店舗が、互いに自意識を刺激されて、個性を研ぎ澄まし合っていくような、できれば、そんな創造性のある場所にしたいと思っているんだけど、何か良いアイデアないかな」
 ミラ・ヴリュレは、誰だってそれができたら苦労しないさとボヤきつつも、空間デザインのコンセプトを明確にすることは非常に重要なファクターだと言って、発想の手助けをしてくれた。
「そういえばさ、まだ古臭い因習が残るこの村に、最初に登場したのが浪漫さんでしょ、それから息子さんのドクター才家がやって来て、村は否応なしに外部からの影響を受けて変化せざるを得なかった。つまり、お2人さんは村にとってターニング・ポイントだったわけだ。それって日本全体が本格的に西洋文明を取り入れ始めた頃の明治や大正時代とも重なる部分があるよね。しかも浪漫さんの名前からして、大正ロマンを意識するっていうのも粋な計らいといえるし。それに大正ロマンといえば和洋折衷で、私たちの子供も和洋折衷だし。あっ、御免ごめん、ちょっと不謹慎ギャグだった?」
「いや大丈夫、おもしろいよ」と笑いながら肯定して、ミラ・ヴリュレの着眼点の素晴らしさを褒め称えた。まさにそのとおりだ。それ以上に相応しいものはない。完全に和テイストでいくよりも大正ロマン溢れる佇まいを表現したほうがこの村には合っている。雰囲気も抜群に良いし、バンク種の聖地として、薫り高き格調のようなものを後に添えることができるようになるかもしれないと期待も高まる。きっとドクター才家も喜んでくれるに違いない。クラリスの想像はますます膨らんでいった。

 村長に就任した暁には「大正ロマン」をコンセプトに、専門家と相談し合って村全体の青写真を描いてもらおう。例えば、中心地にはハイカラさん通りと名付けた石畳の路地があって、そこでは大正ロマンを彷彿とさせるような品物ばかりを扱うお店が軒を連ねているといった具合に。建物やインテリアはもちろんのこと、着物や洋服に、財布やバッグ、靴、ハンケチ、アクセサリー、ヘアメークなど、大正ロマンのテイストは日常のあらゆるところに反映させることができる。また可能な限り、商品の大半をすべて村で手作りするとしたら、デザイナーに製作者に販売人など、かなりの雇用を生み出すことができて、単なる温泉の村よりも派生効果は抜群だ。
 それと職業未経験者であっても、見習いシステムによってマスターできるような体制を整えておけば、いつでも村に飛び込んできやすくなるのではないだろうか。子供が小さいうちは自宅で小物細工の内職を選択してもいいし、それこそ、赤ちゃんを子守りしながら働く女性が職場にいてもいいんじゃないかとさえ思う。状況によりけりだけど。とにかく村全体が子供たちを優しく見守っているような、そんな場所にしたい。
 それからこの村には実際に大正時代の現物が1つもないため、所詮、新興の地じゃないかと指摘されることがあったとしても、かつてない規模で専門的に大正ロマンに彩られた品々を作成し続けることができたとしたら、それはもう立派な村の特徴であり、余所とは一線を画す洗練された観光スポットに成り得るだろう。
 キャッチフレーズは「新陳代謝を続ける大正ロマン」だ。お洒落なカフェで本を読むのもいいし、路地にイーゼルを立ててキャンバスに絵を描くのも素敵だ。夜はライトアップされた美しい夜景のもとで音楽祭を開き、良質の音楽とお酒に酔いしれるのもまた格別な一時となる。
 つまり、こうした計画がうまくいけば、ふるさと納税の見返りとしてラインナップできる特産品の種類も格段に増えるため、増収も期待できる。浴衣一式プレゼントや宿泊券、年間温泉フリーパスポート、作製年とシリアルナンバーが入った懐中時計、貸衣装無料券(記念写真のあと村も散策できる)、ならびにバンク種の子供たちがモデルを務めるカレンダーやポストカードなど、それこそ組み合わせは無限大だ。それに村の税収が増えれば、資金面でも充実した子育て支援を実施することができるようになる。
 とにもかくにも大正ロマンの匂いがするものはすべて採用したい。すべてが村の特産品だ。もちろん浪漫さんが大好きなステンドグラスも主要工芸品の1つに! 

 クラリス・ワイスは選挙活動の際、そうした未来予想図を情熱的に、あるいは予言的とさえいえる語り口調で有権者に訴えた。初めての経験でおかしなテンションになっているのかもしれない。彼女を知る面々はその様子を見て楽しんだ。その他、各メディアも好奇心一杯でカメラを向ける。浪漫といい、悟といい、2人はこの村の爆弾だと揶揄して。
 確かに歴史は繰り返される。しかし全く同じではなく、そこには新しい時代の、新しい潮流が、感性が、息衝いていた。そして遂に、十五回連続無投票当選し続けた傲山家による独占的村長時代は、クラリス・ワイスの参加と当選をもってして幕を降ろした。

 念願叶ったクラリス・ワイス村長は、旧村民に頑張って愛嬌を振りまいて、これからはお互いに協力し合って村の発展のために貢献していきましょうと歩み寄った。だが、旧村民の歪んだ顔はそう簡単には変わりそうにもなかったので、クラリスは、それならそれで仕方がないと気持ちを切り替えて、計画を前に進めて行くことにした。
 空き家の撤去作業に関しては、空き家対策特別措置法に基づき、井ノ中村でも自治体の補助金を使って行政代執行を実施したかったのだが、未だに村議会議員の面々が旧村民であるため、難癖つけてはコミューンサイドの計画に沿った案のすべてに反対票を投じるせいで、可決することはなかった。けれど、ドクター才家も彼らのそうした圧力は織り込み済みで、すでに投資会社をとおして進める準備はできており、否決も、来年の春の村議員選挙までであって、風前の灯だからとクラリスを安心させてくれた。それに彼らのような旧式タイプの人間はこの先、消え行く運命にあるという世の無常も、ドクター才家は透徹した瞳で語ってくれた。
 土地の購入に関しては、随分前に不動産会社に売りに出していた物件がようやく動いてくれたということで「利益が発生するならすぐにでも」と、かなり容易に売買が成立したそうだ。いくら温泉地とはいえ、世の中の不景気をまともに食らっては思うようにいかなかったのだろう。また、土地を所有したまま別の場所に引っ越した人でも、現ナマを目の前に見せて交渉すると「もう戻る予定はないし、まとまったお金がすぐに入ってくるんなら」と、こちらもあっさり成立したそうだ。
 あとは現在、居住している人たちの土地をうまく避けながら、青写真を作成して、実現可能な場所から再開発を手掛けていくだけだった。ちなみに、再開発に関わる情報は呼び込み効果の高いものに限り公開するが、参加資格はあくまでも、バンク出産経験者および予定者といった同胞のみを、その有資格者とした。
 時は、勢いよく流れた。
 ドクター才家が教えてくれたとおり、その年の10月にはマンションがさらに2棟完成して、仲間が増え、引っ越してきた人の住民登録後の居住日数が3ヶ月以上経った翌年の4月には、議席定数6人に対して4議席を獲得し、余裕で可決できるようになった。
 村にはすぐさま小学校が建ち、中学校が完成する頃にはバンク種の仲間も結構な人数が住むようになって、お店や温泉宿も条件が合った所からどんどん建っていき、子供たちが高校に進学する頃には温泉の村としての体裁が整うまでに発展を遂げることができた。

 バンク種第一期生が迎えた中学校の卒業式でのこと、壇上には、卒業生を代表してモーリッシュ・ワイスが立ち、卒業生を祝うために参加して頂いた方々に畏まった口調でお礼を述べると、そのあとはいかにも彼らしい答辞でこの場を飾ってくれた。
「ボクたちのお母さんは、ボクたちを産む前、皆それぞれにいろんな悩みを抱えていたとお聞きしています。ボクのお母さんは、そうした悩みを解決する手段の1つにバンク出産があることを知ると、その新しい選択に可能性を感じて、未来に希望が湧いてきて、まだ見ぬ子供に会いたくなって、バンク出産の道を決意したと、話してくれました。
 ドクター才家は、そんなお母さんたちを少しでも守ってあげたくて、ここをバンク種の聖地にすることで、同じ道を歩む人たちが生活しやすくなるように頑張ってこられたそうです。そのお蔭で、ボクたちには実際にお父さんがいなかったとしても、村に住んでいるほとんどの人たちが同じ経験をしていることもあって、誰もが優しく互いに気遣い、配慮し合う温かい雰囲気の中で過ごすことができました。それはまるで大家族です。
 この春、ボクたちが高校に進学するにあたって、苛められないか、しかも多感な年頃だというのに大丈夫かと、皆さんがとても心配しているのを知っています。でもボクは声を大にして言いたい。特殊なバンク出産じゃなかったら心配せずにすみますか? 今、目の前にいるボクたちをよく見てください。そんなにボクたちの高校生活は悲惨そうですか? そうでなければ、心配は捨て去ってください。
 それに、お母さんたちは、どれほど大切なことをボクらに教えてくれたのか、分かっていないのです。子育てと仕事の両立で大変だったかもしれませんが、街造りをとおして、どんどん自分たちの思いが具現化していく現実に、誰もが楽しそうに生き生きとしていました。そんなお母さんたちのワクワクした気持ちを常に身近で感じ取っていたからこそ、ボクたちはみんな自然に同じような生き方がしたいと憧れるようになったんです。未来は自分たちの手で切り拓いていけるものであることを、学ぶことができたんです。
 ボクたちは、今日、学び舎を巣立っていきます。それは新しい世界に飛び出していける喜びでもあります。嬉しいことも、悲しいことも、これからもっといろんな経験をして、大きく成長していけたらと思っています」
 今後も引き続き、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い致しますと、最後にもう一度だけ畏まった挨拶をして、モーリッシュ・ワイスは壇上を後にした。
 式場は割れんばかりの拍手と共に、泣き笑いと喜びの表情で満ち溢れた。確かに、子供たちは輝いていた。未来そのものだった。心配するのが親の務めみたいなところはあるけれど、それでもやはり子供たちには祝福のほうがお似合いだった。こんなふうに子供たちに教えられて親も成長していくんだなーと、クラリス・ワイスは鼻を噛みながら思った。

 実際、モーリッシュの高校生活は「この世の春を謳歌している」の一言に尽きた。村のお友達も同じだ。どれだけ親の心配が杞憂だったのかを証明するためにか、動画や写真、ブログのフォロワー数の多さと、たくさんのラブレターをテーブルの上に放り投げて見せてくれた。モーリッシュは照れ隠しに少しだけ、普段よりもぶっきらぼうで、それでいて自慢げな様子だった。クラリスは片眉を上げて笑うしかなかった。
 楽しそうだった高校生活が、あっという間に終わりを告げると、モーリッシュは市内の大学に進学するため、1人暮らしをすることになった。
 ……子供の成長は何でこんなにも早いのだろうか。
 モーリッシュが家を出て行く当日、クラリスは初めて仕事を休んだ。見送りはいいよと断られたので玄関先で我慢する。靴紐を結ぶ、息子の後ろ姿を見ていると、寂しさが込み上げてくる。玄関の扉が開かれた。「じゃあ、行ってくるね」と振り返った息子の顔からは幼さが消えていた。彼はすでに自分の運命を生きる1人の男性だった。

     3

 モーリッシュ・ワイスには夢があった。自分も母と同じく、ドクター才家の意志を引き継いで、バンク種の聖地をさらに拡大していきたいという思いである。その夢を叶える第一歩を踏み出すためにも、是非、ドクター才家の投資会社に就職して、資金の調達や活用方法を学び、同時に広報を担当することで、ボクたちバンク種に対する理解を世間に広める運動ができたらと考えていた。
 大学4年生の春、モーリッシュは、この件を伝えにドクター才家に会いに行った。石碑のある広間に通された。そこは素晴らしい空間だった。石碑の前のソファに2人して腰を下ろすと、ドクター才家は穏やかな微笑を浮かべて話を聞いてくれた。
「君は本当にお母さんから良い影響を受けたんだね、ぼくも嬉しく思うよ。それじゃあ、合格のお祝いにこれをあげよう」
 ドクター才家はモーリッシュが電話で、仕事のことで折り入って相談があると申し込んでいた時点で全貌を見抜き、結論を出していたようだ。立ち上がると、石碑の前に置いてあった箱を取って渡してくれた。リボン付きだ。どうやらお供え物ではなかったらしい。
 未来は一気に開けた。モーリッシュは久しぶりに実家に帰って、クラリスに事の経緯を話して聞かせた。
「良かったじゃない、おめでとう。それにしても何だか懐かしいわ。ドクター才家にPCを頂いたのは出会って最初の頃だった。……ありがとね、また貰ってきてくれて」
「いや、違うし。ボクのだし」
「いやいや、きっと私のよ」クラリスは、笑顔で真実を捻じ曲げ、息子相手に思い込みを貫き通そうとしていた。モーリッシュは、さっさと自分の部屋に逃げ込んで、PCを死守した。変わらぬ部屋の配置に懐かしさと安心感を覚えながら、勉強机に箱を置いて椅子に座り、ドクター才家からのメッセージカードを開いた。
「自分の正直な思いや、実現したい願いを、いつも目に見える形でPCに打ち込むようにしてごらん。そうすればきっと、自分にとって大切なものが何か分かってきて、それが、いずれ現実になる日がやってくるから。世界は変えられるんだよ」
 ドクター才家から言われると説得力が断然違ってくる。モーリッシュはワクワクしながらノート型PCを箱から取り出し、電源を入れた。自分のアカウントを作成すると、デルモア・スピリッツがデザインした画面が現れた。デルモアは、彼の母親が勤めているスパイダー社のアプリケーション開発に早くから参加している同級生だ。
 日が暮れたばかりの青みがかった星空を背景に、画面の両端にある細い木から枝が何本か張り出していて、その間を蜘蛛が白銀の糸で見事な巣を作っているという構図だ。巣では2つのアイコンが無造作に絡め取られており、ポインターの役割を果たす蜘蛛をアイコンの上に移動させてダブルクリックすると、カチカチという音と共に蜘蛛が左側の前足を2本だけ動かして、そのアプリを開く仕掛けになっている。その姿はまさに巣に掛かった獲物を捕獲しに行く蜘蛛そのもので、モーリッシュは一目で気に入った。
 薄っすらとしたピンク色と水色のDNAの二重らせんが蹲る胎児のやや下の辺りを取り巻いているアイコンがあった。ドクター才家のファイルだ。開くと、精子バンクに関する様々な情報が、あらゆる角度から調査および分析され、データ化されていた。
 ステンドグラスで装飾してあるアンティークランプ、このアイコンは母親のクラリス・ワイスのものだった。バンク種の聖地化に至る、これまでの発展過程や情報が井ノ中村の地図と共にたくさん記されていた。
 もう1つ蜘蛛の巣に引っ掛からずに浮遊している青白い人魂があった。ゆっくりとではあるが、常に揺らぎ、動いている。モーリッシュは蜘蛛のポインターで突っついてみた。アイコンの中には、モーリッシュ・ワイスのアカウント情報が記載されていた。なぜゆえに? 確かに写真とか面倒臭いところはスキップしたけれど、何でボクだけ人魂なんだ! もう一度、ドクター才家やクラリス・ワイスのアイコンを見直してみた。そういえば2人とも、それぞれの人生を象徴するような絵柄がアイコンとなって表現されている。ボクの人生はこれからが本番であってまだ何も達成してはいない。で、あるがゆえに、社会の中では所詮まだ形を持たない意識のみの存在にすぎないとデフォルメして、人魂が使われているのだろか。
 ……愕然とした。実際に行動を起こしていなかったとしても、将来の方向性は、すでに確定しているわけだから、自分を象徴するものは何か、思い当たってもいいはずなのに、いくら考えてみても今のモーリッシュには答えが見つからなかった。改めて2人の偉大さに気づく。しばらくは人魂でいくしかない。受け入れよう。
 モーリッシュはタグにキャンバス1と書いてある真っ白な画面とツールしかない自分のファイルを見て、とにかく前進あるのみと、決意を新たにした。

 勝利の法則は過去を見れば明らかだった。クラリス・ワイスが大正ロマンをモチーフに村全体をまとまりのある温泉観光地にしたことで成功を収めたように、モーリッシュ・ワイスも過疎化地域に移住者を招く開発方針は踏襲していくつもりでいた。
 最初のターゲットは湧出村だ! 
 湧出村(わきいでムラ)は井ノ中村のお隣さんで、モーリッシュにとっても馴染み深い場所だった。しかも、住民が少なく条件も似ていた。井ノ中村が温泉の村なら、湧出村は清水が湧き出る冷泉の村だった。水脈が別なので枯渇することもない。昔の人はよく使い分けたものだと感心する。
 モーリッシュは勝利の法則に従い、みんなと話し合って、この村のテーマを古典的マジカルファンタジーに決定した。ヨーロッパの古民家をベースに楽しげで可愛らしい造りの家屋が立ち並んでいる区域があるかと思えば、怪しげでホラーチックな屋敷が村の一角に佇んでいるといった感じに。とにかく見ていて飽きない村にしたかった。特産品は漢方やハーブだ。本当に健康に良いものから、惚れ薬や毛生え薬みたいな疑わしい薬草までもが店頭に並んでいるような、そうした薬草を占い師やマジシャンが本業の傍ら販売しているような、そんな雰囲気の村だ。かなり特色が出ておもしろいといえる。
 そして、その成果は、自分でも予想を上回るほど、多くの人々の興味を掻き立てた。
 瞬く間に成功を収めると、モーリッシュは仲間と一緒に再び、条件が合う所から積極的に開発を行った。アイデアを寄せ合っては良いと思えるデザインの家を村ごとに分類して建築し、特産品がある場合にはそれを活かし、なければないで自由に想像の羽を広げて、次々に新しい価値を生み出していった。
 その中でも特にモーリッシュが興味を引かれたのがエネルギー問題だ。すでに各企業が取り組んで久しいが、モーリッシュも常々、水素、風力、地熱、太陽光、バイオマス発電など、再生可能エネルギーを組み合わせることによって、地球に優しい環境作りを心掛けたいと思っていた。ただし、景観の美による恩恵も大切にしていたので、実際には、村の個性を損なわない範囲で発電の組み合わせを行った。
 他には、菜園と住環境を近未来的で斬新なデザインのもと格好良く調和させることで、居心地が良く、癒し効果があり、食糧にもなるという一石三鳥の空間を、すべての建物にさり気なく取り入れていった。

 そうやって毎日を忙しく駆け抜けているうちに、モーリッシュはいつの間にか51歳になっていた。この日は珍しく夕方から何も用事がなかったので、自宅に帰り、所在なげに高層マンションの大きな窓から外を眺めていた。オレンジ色の夕陽には、いささか感傷を誘う作用があるらしく、自ずと、人生を内省し始めた。開発を手掛けた地域住民の意見は概ね好評で、その地域に住めることはステイタスだった。時間の流れ方や住環境が人口の密集している市内よりも豊かだった。それに伴い、我々バンク種の価値を認める人たちも増加の一途を辿った。なのに、与えられた素質と状況を最大限に活かし、これ以上はないぐらい完璧な人生を歩んできたというのに、なぜか今更、出自や能力が違っていたなら、どういう生き方をしていたんだろうと、考えずにはいられなかった。立場が違う人たちの生き方をあれこれ想像しては、ブランデーに口を付け、喉を通る刺激に顔を顰めた。
 陽が落ちて、PC画面と同じように空にいくつか星が輝き出したとき、クラウディアがコンサート会場から帰って来た。モーリッシュがお酒を嗜んでいるのを見て、食事の前に取り急ぎ、おつまみを用意する。交響曲がどれほど素晴らしかったか、彼女が作りながら嬉しそうに話すのを聞いているだけで、モーリッシュも幸せな気持ちになった。チーズと生ハムメロンを乗せたお皿を持って来て傍らに座るクラウディア。モーリッシュは、今も変わらない妻の美しさに見惚れた。透き通るような白い肌に青い瞳と黒髪、誰もが彼女に恋をしたものだ。彼女を守りたいという想いも若かりし頃のまま、何ら変わっていない。その情熱こそがモーリッシュにとっては頑張れる原動力でもあった。
「昨日、取引先の自然種の会社で、上司が部下に頑張るのは自分のためなんだよって叱責している場面に出くわしてね、ボクはその言葉にすごく違和感を持ったんだ。会社の売上が良くて上司が嬉しそうにしていたから、彼もただ純粋に共感していただけだったのに、その上司は喜びを分かち合うことを拒否したんだ。もっとお前も結果を出せと、激を飛ばす意味があったのかもしれないけれど、そのタイミングじゃないよね。彼は傷ついた顔を隠し切れずにいたよ。誰かのために頑張れるって、ボクは好きだけどな」
 クラウディアもそんな彼に同情して頷く。自分のためだけだったら、誰かと一緒にいる意味がなくなってしまうと言って。たとえ成功しなかったとしても、共感し合える仲間がいるからこそ、普段以上の力が発揮できたり、諦めずにチャレンジして良かったと思えたりするんじゃないだろうか。モーリッシュは彼女を抱き寄せると額にキスをして、彼女の笑顔を、いつものように勇気に変えた。

 県知事選に立候補するにあたって、県内に住民票を持つバンク種の仲間は現在約12万人いる。そのうち約7万2千人が成人で、その数に母親と祖父母を入れた約30万人が、味方の有権者としてカウントできる。あとはバンク種と親密な関係にある自然種の恋人や結婚相手、ならびに県内のファンクラブに所属している有権者が合計約13万人もいて、不確定要素はあるものの、これらの人たちも取り込める票として期待が持てる。
 一方、それまで64万人しかいなかった住民を、大台の100万人にまで増やすことに成功したのがバンク種関連によるものだったにも拘わらず、未だに反対派も根強く残っていて、最大の敵となる、そうした反対派の有権者が奇しくも約30万人いると推定されている。それとバンク種に関係がなく、反対派でもない有権者が約14万人いて、浮動票と呼ばれるこうした人たちがどう動くかによって、明暗が分かれることになる。
 テレビ出演の日、生放送だと知ったファンが局前に多く詰めかけていた。
 モーリッシュが車から降りると、有名な俳優が登場してきたかのごとく黄色い声が湧き上がった。確かに、今でも40歳に見られるし、自分でも格好良いほうだと認めていた。だからこそ、その声援を聞いて当選を確信したくもなったのだが、反対派との一騎打ちと思いきや、第三勢力となる三十代の野心家の男も県知事選に立候補していたのである。
 彼は弁舌さわやかに「反対派は税収を増やすアイデアも実行力もないくせに福祉の充実ばかりを強請る。これでは財政破綻するのは明らかです。かといってバンク出産が主流になるのも異常ですよ。やはり人間は男女が愛し合って子供が生まれてくるのが最も自然な形であり、基本を蔑ろにするのはよくない。バンク出産に反対はしないけれど、行き過ぎはいけない」と警鐘を鳴らし、そのあとも中道を熱く語った。
 彼の意見にモーリッシュも納得する部分はあった。だが現実は正しい意見だけで動いたりはしない。それを知っているのは年の功によるものだ。
 モーリッシュは僅かに芽生えた疑念を経験値によって払拭し、しつこくこびりつく杞憂を仲間と積極的に語り合うことで解消した。あとは泰然自若の境地こそが天命を全うする者が身につけておくべき姿勢であるとして、常に心に留めた。

 結果、幸運の女神は裏切ることなくモーリッシュに微笑んだ。常識人面した人間の冷徹な理屈よりも、湿った旧式人間の古臭い倫理よりも、人々はバンク種の魅力と勢いに惹きつけられた。もちろん、マイノリティであるバンク種が社会に一定の理解を得られるまでに成長を遂げるには様々な活動が必要であった。その中でも特に重要視したのが思想だ。固定概念に縛られることなく、既存の価値観を改めて検証し直し、今の自分たちに本当に必要な考え方や生き方あるいは物事の捉え方は何なのか、お互いの個性を尊重したうえで気軽に頻繁に話し合った。すると、その効果は絶大で、仲間の結束力をより強固なものにし、実際に行動を起こすきっかけともなり、投票率の高さに繋がっていった。自然種の人たちも最初はその様子を客観的に見ていたけれど、次第に、誘われるように参加し出し、最終的にはムーヴメントを巻き起こすほどの盛り上がりを見せた。モーリッシュに対する世間の評価はまさに「時代を象徴する人物」のそれであった。
 圧倒的勝利を得たモーリッシュに、インタビュアーが数ある質問の中で「1番に当選の喜びを伝えたい人は誰ですか」と訊いたものがある。そのときモーリッシュは、ドクター才家の顔を思い浮かべながらも「大切な人がたくさんいます。その分だけ、伝えたい人がいることになります」と、神妙な面持ちでこう答えていた。

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 ……ドクター才家、彼は今でもあの姉弟に嵌っているのだろうか。
 白髪紫眼の母親が精子バンクを利用して、あえて同じ容姿を持つ、ロシア系アメリカ人男性と授精することを選んだ。願いどおり、生まれてきた姉弟は、どちらも白髪紫眼で、しかも、この姉弟には特殊な才能が備わっていることが判明した。それからというもの、ドクター才家は2人に対して異常な関心を示し、新しく研究所を造ると中に籠って研究に没頭する日々を過ごすようになった。その全容はPCを通じても窺い知ることができる。モーリッシュも、忙しい合間を縫っては研究所を訪れていたが、それも、5年前の肌寒い日を最後に行かなくなった。
 あの頃、姉のトゥエルヴ・サンは6歳で、この娘は、物事の本質を見抜く能力に長けていて、予知すら可能であった。3歳になる弟のエンリコは身体能力が優れており、もしかすると「ミオスタチン関連筋肉肥大」かもと疑われたが、そうではなかった。すべて年齢に即した値であるにも拘わらず、身体能力が同年代の4倍はあった。それに2人とも傷の完治がずば抜けて早かった。モーリッシュも2人の能力に驚きを禁じ得なかったが、それ以上に、2人に対するドクター才家のあまりの熱中ぶりに、いつの間にか嫉妬心と寂しさを感じていたことに気づき、少なからずショックを覚えた。ドクター才家からも「君は君自身の運命に時間とエネルギーを注ぎなさい」と言われたことが決定打となり、ここには自分の居場所がないという事実をようやく理解したのである。
 この5年間、モーリッシュはドクター才家のファイルを一度も開かなかった。バンク種関連で必要なデータは前もってモーリッシュのファイルにも適した形で表現されるようにシステム化していたので困ることもなかった。しかし、今日は久しぶりにドクター才家のファイルを開く。ほんの少し緊張している自分に溜め息が漏れる。
 モーリッシュは努めて普段どおりに、ホームに記載されている項目をチェックした。上から順に、すでに知っている「バンク種」関連以外に、姉弟を表す「了我族」の他、「エンジェル・プロジェクト」という新たな項目が追加されていた。
 エンジェル・プロジェクト
 ぼくは進化の一翼を担う者である。第1に、バンク種による出産を、日本国内において閉鎖的なものから開放的かつ一般的なものへとシフトさせることに貢献した。夫婦という環境条件を無にし、日本人の精子だけという人種の壁も無くした。民間以外の医療機関でここまで実施したのは、ぼくが初めてだった。それに、こうした妊娠に纏わる制限の撤廃は、何かしらの理由で結婚に躊躇っている女性に、選択の幅を広げて、一歩前に踏み出す勇気をもたらしたし、日本人全体にとっては、また1つ高度な選択の自由を獲得する契機にもなったといえる。元々バンク種のぼくにとっては宿命的でもあったが。
 第2に、個人の形体と素質の向上に対する寄与である。劣等種にとって優良種との結合は、多少なりとも以前より恵まれた姿・形ならびに知性・体力・才能のいずれかを持って生まれてくる確率が上昇し、優良種同士の結合からはさらにその期待値は高まる。ぼくはバンク出産をとおして、人類が有する資質の全体的な底上げと共に、能力の発達や、進化が、どこまで到達できるのかを知りたいと願う。だがそれには、様々なパターンを何世代にも渡って追跡調査して行かなければならず、ぼく1人の寿命では足りない。従って、今のぼくにできることは、末永く継続していくための基盤を作ることであり、各方面の同胞たちの協力を得て、安定した運営がなされるよう働きかけることである。
 第3は、偶然の産物から始まる。科学的人智を超えた能力を持つ姉弟が突如として誕生してきた。それは進化の先行きの一端を垣間見る経験だったともいえる。ぼくは神の恩寵に感謝して夢中で研究に明け暮れた。それでもやはり了我族と称する姉弟の超人的能力を解明するには及ばず、データを取り続けるだけで精一杯なのが現状だ。ゆえに、この件に関しても信頼できるジーン・ライズ研究員と引き続き連携して、調査および分析を行っていかなくてはならない。
 第4は、ぼく自身の価値観の変化によるものである。当初、バンク種という出自がまだマイノリティであった頃、ぼくは正直にいうと、自然種との違いに引け目を感じていた。それなのに、ここに来て、受け止め方が一変している自分に気づいた。たぶん、それは、バンク種から得られる向上性を数多く目の当たりにしたことで信頼が深まっていき、信念を貫く生き方が成功を収めていることで自尊心が満たされたためではないだろうか。引け目はいつの間にか消滅していた。今ではむしろ、デザイナー・ベビーに対しても、進化の木が枝分かれするかのごとく、ある一定数に達した同胞の中から、そういうタイプが現われてもいいのではないかとさえ思うようになった。今後は、この件に関しても、早速始動していきたい。
 第5は、天啓の訪れ……。実は、これが最も重要であり、このことを今一度、きちんと整理し直したいがために、自分の芯となる生き方や、この世界でのぼくの役割を、改めて書き出した次第である。

 1週間前、ぼくは久しぶりに教会に行った。そこで思いもよらぬ奇跡に遭遇した。そのせいもあってか、それからのぼくは尋常ならざる意識状態にあることを自分でも自覚している。記憶と感情と知識と信念を綯い交ぜにしながら、それまでの思考パターンを何かが高速で掻き回し始めたのである。熱を帯び破裂しそうになっては、必死に元の自分に落ち着こうと努力する。それなのに、猛烈なウイルスにでも感染したかのように、再び、幾何学的な色彩を帯びた映像が脳内でサーキットを開催して、急激に、ぼくのキャパシティにヒビを入れていく。音を立てて崩れ落ちるのは、すでに決まっている出来事で、あとは、その拡大された意識との折り合いをどうつけるかに掛かっていた。
 新しい認識の世界を受け入れるのに摩擦や抵抗がなくなったのは、今日、トゥエルヴの話を聞いてからである。すべてが1つに収束していった。それは限界のあるものではなくて、地球の大気圏を突然ポンと抜け出して見た景色のように、静寂としていて、なおかつ広大無辺のものだった。現実とは、自分の想像を遥かに超えた世界であり、ぼくなんかが想像できることは容易に現実に成り得るちっぽけな思いつきに過ぎなかったのだ。マザーアースが願いを叶えてくれているように感じられたのは、試しに絵具と筆を子供に渡して自由にキャンバスに描いてみてごらんと遊ばせてくれたお蔭だ。その権利は当然みんなにも与えられていて、決してぼくだけが描ける特権ではない。だから現実は、いろんな人の思いや様々な諸条件が加味されて、想定外の結果をも生み出すのだ。
 ぼくはその想定外の結果というやつに喜びを感じている。もちろん血の気が引くような最悪な事態だったとしたら、こんなに気楽には構えていられないけれど、どっちにしろ、ぼくが今までにしてきたこと、また、これからやろうとしていることは、神の手のなかにあっては所詮、小さな創造の欠片でしかなく、それでいて求める者すべてに自然に影響を及ぼす貴重な行為でもあるのだ。それは善悪を内包した実践的な経験として蓄積されて、世界に因果を伝える教訓にもなるだろう。つまり、このような理解の仕方に気づく機会を神から与えられたことで、その衝撃が、それまでの凡庸なる思考の安全装置を解除するに至ったのである。
 トゥエルヴが、混乱していたぼくに秩序をもたらしてくれたその話とは、人は誰しも、この世に生を受けるときには必ず、それぞれの目的に相応しい環境を、自ら選んでくるというものだった。
 だとすれば、この姉弟が求める両親の遺伝子を授精させて、特別に保護された住環境を提供できて、能力の開発に積極的な支援を行えるぼくという人間は、まさしく打って付けの人物だったことが窺える。だが見方を変えれば、多少非効率であっても、両親が普通に出会って2人を産んで、経済的な豊かさを何かしらの形で味方につけて、後に特殊能力の研究者に協力を仰ぐといった流れのように、物事を1つひとつ個別に経験していくコースだって良かったはずだ。となると、ぼくを選んだ理由は他にもあると考えられる。
 思い当たるのは、やはり、人類の進化を実際に現実の世界に落とし込める総合的な力にあるような気がする。少なくともぼくは、そのうちの有力な候補者としての価値は持っているはずだ。併せて、ぼくの意識を強く明確なものにするためにも、時を共に過ごすことが大切な要素だったのかもしれない。現に、ぼくは了我族の2人に魅了されて止まないのだから。
 とはいえ、どうして彼らには、普通の人にはない特殊能力と、秀でた治癒力が、神より授けられているのだろうか。その背景として思いつくのは、以下のとおりである。
 一つ目は、人類の次なる姿が彼らであって、進化した了我族2人のタイプをバンク出産によって遺伝させ、拡散させていくのが目的だとする考えだ。白髪紫眼は表に現れにくい潜性遺伝であるが、彼らには紫外線によるダメージがほとんど見られないことから、この時点ですでに常識は超えており、既存の認識は役に立たない。
 二つ目は、劇的な環境変化や特殊な事態・現象が起きて、常人では生存が難しい世界が訪れた場合でも、そうした厳しい状況を生き抜いて、人という生命を、絶やさないようにするのが彼らの役割だとする考えだ。人類が生存戦略の一環として、了我族みたいに特別仕様された者を、この地球上に予め何パターンか準備しているとしたら、劣悪な環境下でも人類は生き残る公算が大だ。
 三つ目は、進化が自然発生的で永い年月を要するものであった時代から、遺伝子工学によって人為的に操作できる時代へと移り変わった昨今、そのようなパラダイム・シフトに合わせるかのようにして生まれてきた了我族の体質には、ゲノム編集による遺伝子改変をうまく乗りこなすだけの強靭性や柔軟性を持つ原型としての人体的な立ち位置があって、人類のまだ見ぬ境地を切り開くのが彼らの使命だとする考えだ。これから先の生命の進化において遺伝子工学は欠かせない技術といえるが、了我族は、自分の細胞を先駆けて使うことで、成功する確率を高め、普通の人々に対しては、成功したあとの人体から採取した細胞を活用することで、より穏やかに進化を達成できるよう、原型としての彼らにだけ、特殊な能力が組み込まれたと解釈するのも、それほど的外れではない気がする。
 こうしてみると、これらの推測は決して独立したものではなく、互いに補い合える関係性でもあることが確認できる。原型であろうと生存戦略であろうと拡散狙いであろうと、2人には、未来を変える力や創造する力が潜在しているのは紛れもない事実であり、その潜在的な力にベクトルを与えるのが環境因子なのである。ぼくが選ばれた理由は、まさにぼくが最も有望な環境因子だと判断されたからに他ならず、彼らが将来どのような経験を求めるにせよ、今はまだ眠りに就いているも同様であるため、とりあえずは、ぼくに与えられたヴィジョンを優先的に実施するのが最良の策といえよう。何はともあれ、すべては2人の精子と卵子を凍結保存することから始まるのは言を俟たない。
 ぼくのなかで、もはやリミッターは解除された。だから天啓が指し示す意味を、今では疑うことなく受け入れることができる。トゥエルヴとエンリコが天使になっている姿を。舞い降りてきた映像はあまりにもリアルで、2人は理想そのものだった。もし、自由なる創造のもと、ぼくが担当すべき人類の進化領域があるとするならば、それは、神の降臨に相応しい現身の器を創ることであり、神の楽園をこの世に具現化させることであるに違いない。ということは、穢れを知らぬ美しい2人の特殊な遺伝子を、ぼくは継承させるだけでなく、人類に翼を持たせる肉体的進化にも着手しなければならないということになる。同時に研究を始めて、それぞれに成功を収めたあと、ようやく了我族に翼をつける段階に進めるという途方もない計画だ。それでも直感や想像なくしては始まらないのが意識的な主導型進化である。ぼく自身がそれを強く思い描き続けることで賛同者に熱意が伝わり、不可能を可能にするのだ。これからは、この大いなる課題を「エンジェル・プロジェクト」と名付けて、実行に移していこう。

 まず、肉体的な進化については、キメラ技術がその扉を開くかもしれない。
 本来なら1つの個体に異なる遺伝子が入り込むことは起こり得ない現象であるが、まれに拒否反応を示さずに混在することがある。例えば、母胎のなかで、二卵性双生児の片方が早い段階でもう片方を取り込み、2つの異なる遺伝子を、どちらも自分のものであると認識して、双子ではなく、1人の人間として生まれてくる場合である。
 このようなDNAキメラは、実際に、そうとは知らずに普通に成長して、遺伝子調査が必要なときに身体の各箇所を調べて初めて、子宮だけが、卵巣だけが、睾丸だけが、違う遺伝子を持っていたことに気づかされたりする。
 ところが今では、研究者の手によって人工的に作られた混合胚から、1個体に最大6つの胚を由来とするキメラサルの作製に成功しているのである。つまりそれは、1匹のサルに兄弟サル6匹分の遺伝子情報が混ざって存在していることを意味する。
 キメラ技術はさらに臓器提供を背景にして盛んに研究が行われるようになってきている。アプローチはそれぞれだが、生きた免疫不全マウスの背中で人間の耳介軟骨を作り出したり、ヒトの細胞をブタの胚に注入して生まれてきたキメラブタに、人間への移植用臓器を作らせたりする試みなど、日進月歩の成果を見せている。そのほか別の角度からは、人間と植物の細胞融合が部分的に成功を収めたという研究結果も報告されており、すでに種の垣根は超え始めているのである。
 このまま進歩していけば、人体に翼をつけるという難易度の高いキメラも、やがて解決する日がやって来るのは間違いない。差し当たり、身体的な拒絶反応が起こらないところまで持っていけたら十分だ。仮に、この段階ではまだ人体の背中にくっついているだけの飛べない未熟な翼だったとしても、次の段階で、その翼が機能的に働くよう新たに人体と連結した骨格を作って調整し直し、それに伴う神経系の発達を促進する方向に力を注いでいくことができれば、最終的にはクリアできる課題ではないだろうか。
 ポイントは、美しき人間の、この完成された肉体を崩さないよう維持したうえで、翼をつけることである。天使と鳥人間では全くの別物だからだ。何も無理してまで、生体だけで飛べるような身体作りを目指す必要はない。そこは積極的に人工物を取り入れて、しなやかに動く筋肉や、強さと軽さを併せ持った骨組織などを、鳥とは違う人間特有の重心をもってして、バランス良く優美に身に備えることが肝要だ。
 そういえば、人間が筋肉を動かそうとするとき、脳は、微弱な電気刺激を使って筋肉に信号を送る。このとき発生する表面筋電位をうまく活用した技術が筋電義手であり、これなら補助機能の1つとして、翼に応用できるかもしれない。
 それと、ぼくは直感的に、生体自身がその翼を使って空を飛ぶという意識を強く持ち、さらにはその意識を身体の隅々にまで行き渡らせることが重要な鍵になると思っている。
 翼は、その成り立ちからいっても、空を飛ぶために生まれてきた存在なのだから、空と相対しているのがやはり最も相応しい居場所だ。鳥が大空を舞うときに体感する、あの風を受ける心地良さや揚力を生み出す高揚感は、翼に、形象化された喜びと自尊心の高まりを感じさせてくれることだろう。
 人間の憧れが、そうした翼の存在理由に追いつき、認められ、目的を同じにしたとき、両者は初めて調和し、協力し合い、最適化しようと、創造を開始するのだ。そして遺伝子には再び、理に適った生命の設計図が描き足されていくのである。
 各分野における専門家の惜しみない努力と協力なくしては実現できない壮大な計画ではあるけれど、ぼくたちにできることは、生命の可能性を読み取って高次元へと導く、その補完的作業に従事するぐらいのものである。あとは、主役である了我族が自発的に各組織を適応・進化させていくと、ぼくは確信している。

 次は、了我族2人の能力の継承についてである。
 柔軟な発想から、クローン技術の発展にも視野を広げておきつつ、ここでは、実現性の高い、ぼくの本業であるバンク出産をメインに話を進めていきたい。
 2人の能力を是が非でも絶やさないようにしたいという思いは、エンジェル・プロジェクトの前から、ずっと持ち続けているテーマでもある。しかしながら、2人が幼いということもあって、未だ推論に終始するばかりで何も判明してはいない。子供にどれだけ遺伝するのか分らないし、特殊能力者に見合った相手を見つけるにも基準など無きに等しく、しかも交配を重ねるほど、遺伝する確率が低下していくのは目に見えている。よって少しでも確率を上げるには、ご多分に漏れず、了我族2人の精子と卵子をできるだけたくさん凍結保存して、できる限り有望な人物を結合相手に選び、あとはパターン別に試してみるしか方法はなく、偶発性に期待するのみである。
 全くもって原始的で不確定すぎるが、将来2人が子供を授かるときが来るのを待つだけでは心許ないので致し方ない。可能性は最大限、確保しておかなくてはならない。それに了我族と翼という異種間キメラだけでなく、了我族とポテンシャルの高い人間とのDNAキメラにも取り掛かる必要がある。姉弟の子孫以外にも、彼らのような能力を持つ人間がもっと生まれてきて、それこそ了我族と呼ばれる民族がこの地上に生息し始めるのが理想だからである。そしたらエンジェル・プロジェクトにも時間的余裕ができて、被験者数も増え、成功しやすくなるというものだ。
 だが問題なのは、幼い2人が、その意味するところを理解し、協力してくれるかどうかである。特に思春期を迎えているトゥエルヴに、個人を越えた人類全体の進化の話をしたとしても、たぶん反発するだけだろう。いくら了我族の魂が、本質が、求めていることだとはいっても、それ以外では至って普通の女の子なのだ。ミニチュアの家具を集めるのが好きで、アイドルの男の子をテレビやネットで観るのが好きで、ようやくできた女の子の友達とキャーキャー言いながら燥ぐのが大好きな、どこにでもいる11歳の女の子なのである。それに初潮を迎えたときは、面倒を見てくれている家政婦のスージーにだけ、モジモジしながら打ち明けるといった恥ずかしがり屋の一面もある。身体の変化に精神面での折り合いをつけながら大人になっていかなければならない、そんな繊細な時期に、卵子の採取を望むのは、さすがに酷だと分かっている。それでも……。
 ぼくが実行に移すことに変わりはない。どうせ、隠し切れないのだから、下手な細工もするつもりはない。ただ、自分の意思が固まるその前に反射的に2人を旅行に行かせた。トゥエルヴの直感を封じるには、ぼくの思考が定まらないうちに、彼女の意識を好きなことに向かわせるか、都心部に連れて行って車酔いと人酔いをさせるかに限るからだ。旅行は、ありがたいことに全部を満たす。
 今頃は、東京の遊園地で体調不良を我慢しつつ遊んでいるはずだ。スージーに心配かけないよう笑顔を見せて、エンリコを喜ばせようと盛り上げてやって、それでいて自分自身も楽しめるように最大限のエネルギーを使って。だから今のトゥエルヴには、遠く離れたぼくの思念をわざわざ読み取る余裕なんてない。これは長年の経験から分かった傾向で、読まれたくない何かが起こったときのために、あらかじめ想定していたルートでもある。お蔭で、ぼくには思想をまとめる時間ができた。これでもう迷いはない。明日はいよいよ運命の分岐点、記念すべき進化の幕開けといこう。

 7月10日、計画初日、夕方3人が帰ってきた。みんな疲れていたが、よっぽど旅行が楽しかったらしく、食事の席では、土産話をぼくに、我先にと喋り続けていた。しばらくして、2人がお風呂に入り、眠りに就くタイミングで、ぼくは2人の体調を軽くチェックし、睡眠薬マイスリーを栄養剤と偽って服用させた。眠り込んだトゥエルヴは普段どおり自室へ、エンリコは窓のない特別室に連れて行った。隔離開始。
 7月11日、初めてトゥエルヴに卵子の提供を申し出た。計画の全容は触れずに、了我族2人の能力を、この世界から失くさないようにするには、これしか方法がないことを、誠心誠意、心を込めて、簡潔に説明した。
 女性は卵巣に原始卵胞を約200万個も蓄えて生まれてくるのに、それが思春期頃には約20万個~30万個にまで減少して、その後も月経周期ごとに約千個を失い、数を増やすことができない。なのに男性は、精子の元となる細胞を増やせるので、年齢を重ねても精子を作ることができる。そのためトゥエルヴの年齢では、すでに多くの原始卵胞が消滅しており、これ以上、無駄にはできないと。
 ぼくは、せめて自分の人生に必要のない、その消えゆく卵子だけでも有効利用させては頂けないかと頭を下げた。トゥエルヴは、人類への奉仕という言葉に少し心を動かされた様子ではあったものの、すぐに、ぼくを睨みつけて「エンリコに会わせて」としか言わなかった。
 7月12日、エンリコの情報を何も伝えないままでいると、トゥエルヴは「エンリコに会わせてくれないんだったら、絶対に協力なんてしないから」と断言した。
 交渉はどうやら順調のようだ。これは裏を返せば、エンリコに会わせるなら協力すると言っているようなものだった。完全ではないにしろ彼女はちゃんと状況を把握していて、ぼくの願いを叶えれば、自分の望みも受け入れてもらえるという妥協と打開に、気づいている証拠でもあった。
「エンリコは特別室で隔離している。どうしてだか分かるかい? 今が大事な時期なのは君もそうだけど、エンリコにとっても同じなんだ。あの子の類まれな身体能力は、人々にとっては脅威でもある。君が、卵子提供するようになったとして、その変化を、あの子はどう思うだろう。この世界にたった1人しかいない大切な家族が無理やり嫌なことをさせられていると感じたとしたら、あの子はまた、感情的になって、人に危害を加えてしまいかねない。そんな爆弾のような危険性を持つエンリコを、今までどおりにしておくというわけにはいかないんだよ。
 数年後には、エンリコにも精子提供してもらわなくてはならない日がやって来る。それまでに、凍結保存することが、いかに重要で、いかに人々の助けになるのかを、理解してもらう必要がある。もし、エンリコが協力を拒み、人々の役に立つ人間になるどころか、感情をコントロールできず、恐怖を招く存在にしかなれないとするなら、あの子は一生、閉じ込めておくしかないだろう。つまり今回の幽閉は、あの子にとっても試金石といえるものなんだ」
 トゥエルヴの眼から涙が零れ落ちた。エンリコがそんなことするはずないと顔を何度も横に振る。でも頭の中では、子供たちだけでなく、大人に対しても怪我をさせてしまった過去があり、それらのシーンが思い出されているのは、容易に察しがついた。
 ぼくも、その記憶に同意するかのように頷き、溜息を吐いた。
「こんなことになってしまって本当に申し訳ないと思っている。だけど、ぼくには責任があるんだ。それに君たち了我族が良い意味でも悪い意味でも特別な人間だということは、もう十分、知っているよね。トゥエルヴには無垢であるがゆえに人のエネルギーに敏感に反応して疲れてしまう性質がある。精神力の充溢が、治癒力の高さに直結していることも今では判明している。だとすると、現実的に考えて、そんな2人が将来ここを出たとしてどうやって暮らしていける? 普通の人たちと同じような生活を求めても難しいのは想像つくはずだ。君たちは、君たちに合った人生を歩んで行くしかないんだよ。今までどおりエンリコと一緒に何も心配せずに安心して暮らしていきたいのなら、ぼくの条件を呑んでくれるしかない。そしたら、ぼくが死んだあとでも、それが君たちの身の安全を保障することに繋がるのが分かっているから、尚更、君を説得せざるを得ないんだ」
 急に、いつもとは違う現実が押し寄せてきて、これまでに見たことがないほどの悲痛と苦難の表情が、トゥエルヴの顔には浮かび上がっていた。あとは一晩か二晩、説得が浸透して、熟成するまで、待つしかない。
 7月13日、生理周期1日、トゥエルヴの生理が始まったことを、スージーがいつものようにPCの連絡日誌を通じて教えてくれた。毎朝、基礎体温も測っていて、ここ2日間ショックを受けたわりには、生理周期に乱れはなく、安心した。
 7月14日、生理周期2日、生理が重いのか、不安と心配で気が重いのか、少し顔色が悪いようだった。トゥエルヴは最初、切り出すタイミングが分からず、視線を彷徨わせたり、口を真一文字にしたり、溜め息をついたりと、えらくソワソワしていたが、健気にも自分からあの話題を口にした。
「先生、私、決めた。協力する。私にできることはそれしかないから。それにエンリコが人を傷つけないように躾もする。だから自由にしてあげて。お願い」
「決心してくれたんだね、ありがとう。それならトゥエルヴ自身が先に卵子の採取を経験して、乗り越えられる体験だということを実感しないとね。君が不安を払拭しない限り、エンリコにも伝わらないから。でないと、彼をコントロールするなんて絶対に無理だし、トゥエルヴがチャレンジしてくれたあとじゃないと、ぼくも判断つけようがない」
 トゥエルヴは、不安そうに俯いた。ぼくは、あえて明るく振る舞った。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。毎日、多くの人がやっているぐらい一般的なものなんだから。それに採卵といっても10分程度で、すぐに終わるし、ゆとりを持たせて半年に1回しかやらないから、そのうち、きっと慣れるよ」
 7月15日、生理周期3日、間に合って良かった。今日から卵胞の発育を促し、多くの採卵と相成るよう、生理周期8日頃まで、毎日FSH注射を打つことにする。
 7月23日、生理周期11日、主席卵胞が20・3ミリに成長しているのを確認した。従って夜の21時に排卵を促すHCG注射を打った。34時間後、明後日の7月25日、朝7時に採卵とする。

 おいおい、嘘だろ、11歳の女の子に何やってんだぁ、この人! 
 モーリッシュは我が目を疑った。信じられなかった。みんなが当選を祝ってくれて、夜通し飲んでいた。自宅に帰ってきたのが4時半頃。それからPCを見た。できれば酔いのせいにしたかった。7月25日、午前5時13分、今日がその採卵日だった。
 まさか、こんなことになっていたなんて。
 モーリッシュは急いで外に出るとタクシーを捕まえた。研究所までは昼で2時間、朝の空いた道なら、もっと早く到着できるはずだ。乗車してすぐにドクター才家に電話するも繋がらない。藁にもすがる思いで研究所の受付にも電話してみたが、虚しく呼び出し音が鳴り続けるばかりであった。
 午前6時48分、研究所に到着。人用ゲートの扉に付けられているカバーを開けてICカードリーダーに自分のをかざした。無反応。暗証番号を入力するキーをランダムに押してみた。こちらも無反応。どうやら電力が通っていないらしい。苛ついて、反射的に扉を叩き、取っ手を引いた。あっさり開いた。疑問に思いながらも急いで玄関に走った。念のため玄関でも取っ手を引いてみると、玄関にも鍵は掛かっていなかった。おかしい。何か不穏なものを感じる。今日みたいな特別な日に、あまりにも不用心すぎはしないか。モーリッシュは訝る気持ちを抑え、採卵室に向かった。
 見覚えのある採卵室の廊下に走り出ると、丁度、採卵室の扉が開いて、車椅子に乗っているトゥエルヴと、その車椅子を押しているエンリコに出くわした。モーリッシュがいる廊下の反対側に向きを変えた。モーリッシュは助けに来たというのに2人の姿を確認した途端、声をかけることができなくなった。トゥエルヴは、くるまったブランケットに顔を埋めており、エンリコは、そんな姉のケアにだけ集中していたいという想いがひしひしと伝わってきて、2人の間に入り込むことは、とても無粋な行為に感じられたからだ。
 モーリッシュは、それならと意識を切り替え、採卵室の中に入った。奥には古株のスパニッシュ系ハーフのディア看護師と、しゃがみ込んでいる白衣の男性がいた。その男性は気配を感じて振り返り、モーリッシュを見上げた。黒人系ハーフの天才ライズ研究員だ。モーリッシュが見開いた目をしている2人に近づいて行くと、そこにはもう1人、頭部が不自然に上を向き、俯せに倒れている人物がいた。ドクター才家だった。
「……エンリコが突然、中に入ってきて、飛び上がった瞬間にはもうドクター才家の首を捻っていました。止めることができませんでした」
 ライズ研究員は、生唾を飲み込みながら事実を淡々と話した。モーリッシュは分かっていたとしても、それが当然の儀式でもあるかのように、ドクター才家の首元に手を当て、確かめずにはいられなかった。脈がないということを。ライズ研究員も頷く。
「ドクター才家は脳卒中で倒れた。そうですよね。これからもずっと、エンリコを守っていくことが、ドクター才家の御遺志であると、ボクは知っています。ですから死体検案書には、その旨よろしくお願い致します」
 モーリッシュは暗に、隠蔽を示唆した。ディア看護師もライズ研究員も少しホッとしたのか、大きく息を吐くと「はい」と了承して、幾許か緊張を解いた。2人とも、ドクター才家と同じように、研究に情熱を注いでいたし、2人なりに、この姉弟を愛していたからである。姉弟を、世間の好奇の目に晒したくない想いは、みんな一緒だった。

 才家悟の葬儀は、その輝かしい功績とは裏腹に、浪漫の遺骨が納められている石碑の間にて、ひっそりと、しめやかに執り行われた。
 悟が訪れていたカトリック教会に、モーリッシュが相談してみると、神父もシスターも悟をよく知っているとのことで、教義に厳格な宗派であるにも拘わらず、特例として赦祈式のみ死者に捧げて頂けることになった。しかも教会ではなく神父を招いて、生前の罪の許しを神に請い、永遠の安息への祈りを賜ることができた。ドクター才家には、その祈祷こそが最も必要であり、かつ、それで十分だった。
 始めに、老シスターが献花を手にし、付き添いのミュウという少女が、あとに続いた。ディア看護士にライズ研究員、スージーに導かれてトゥエルヴとエンリコも厳粛な面持ちで花を献じた。モーリッシュは最後に、才家悟という、この偉大な人物をしっかりと見た。死者の顔には険しくも未だ信念が刻み込まれており、その遺志を継ぐことが、残された者の責務であると、訴えかけているようでもあった。享年83歳。
 火葬を終えて、再び、モーリッシュは姉弟と一緒に石碑の間に戻ってきた。喪服に身を包んでいる2人は、あまりにも神秘的で美しかった。粗末に扱うことを憚られるような、シルクに似た、繊細で良質の輝きがあった。あのとき、社会の常識に照らし合わせてエンリコを世間に突き出していたなら、トゥエルヴも同時に、内面から滲み出る光を失って、精彩を欠き、もう二度と、これほどまでに美しい人間にはお目にかかれなかっただろう。希少なバラを育てるような手厚い保護が、このような美的価値のある存在へと2人を成長させているのだ。それもこれも、ドクター才家の尽力の賜物といえた。
 けれどモーリッシュは、命を奪うことへの冷酷さや身勝手さ、帰らぬ命の尊さといった人道的価値も、学び取ってほしいと願い、姉弟をあえて葬儀に参加させたのである。モーリッシュは、少年の両肩を掴み、正面から目を覗き込んだ。しかしエンリコの薄い紫色の瞳には、何の感情も映し出されてはいなかった。

 1つの時代が終わり、少し気の抜けた寂しさを感じていたモーリッシュは、天国への旅立ちを地味に終わらせてしまった、せめてもの償いに、ドクター才家の忌日を、毎年ラサ島(ラサじま)全体で祝福するアニバーサリーにしようと閃いた。
 バンク種の聖地は、かつての井ノ中村だけに留め、知事となった県以外の近隣の県に、エリア特別区としての共同体を一緒に作らないかと打診した。エリア内では、バンク種と自然種とが互いに協力し合い、新しい文化を築いていけるよう、特別区の自治権を大幅に認めてもらう申請書も政府に届け出た。
 翌年の7月25日、アニバーサリー当日、
 何とかこの日までに、共同体の賛同を得るまでに漕ぎつけることができた。これで島のすべてが同一エリアとなる。ラサ島は、海に囲まれているだけあって、豊富な水産資源の恩恵に与ってきた歴史があり、船乗りは今も昔も島民から崇拝されている存在である。
 モーリッシュも、その点においては旧村民という区別なく尊敬の念を抱いていたため、若い時分から、関係者各位に敬意を表しており、それは彼らにも伝わっていて、ラサ島のシンボルマークとなる巨大な錨の形をしたキロ単位のアンカー公園を、県庁舎から海に向かって造るというアイデアに対しては、むしろ積極的ですらあった。沖合の船からでも、空からでも、または夜であってもライトアップに彩られ、大いに楽しめる光景となった。
 県庁舎の2階にあるバルコニーに、今回、仲間となった他県の知事や市長を招待して、エリア住民には錨のマークの頂点に位置する県庁舎前の円形広場をメインとして集まってもらい、その他、研究、学術、文化施設が一堂に会す、自然豊かなアンカー公園の広大な敷地を飾り立てると、島民も自ずから、それが当たり前であるかのように島全体に渡って個々人の遣り方で、この祝祭を盛り立てた。
 代表者スピーチでは、ドクター才家の素晴らしい功績を讃えると共に、彼がみんなからバンクパパと呼ばれて敬愛されていた人生を、モーリッシュは笑顔で語った。
 そして、これから同じ方向に向かって歩むエリア内の人々に対して、ここを浪漫の詩に倣って「クリエイト・ゾーン」と呼ぶことにすると宣言し、乾杯と叫んだ。
 瞬間、花火が鮮やかに夜空に咲いた。一斉に歓声が上がる。群衆の歓喜が大気を伝って胸に押し寄せてくる。モーリッシュは、涙を拭うことなく、この光景を見続けた。
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