Gravity Phase TransformationⅠ  破壊と創造のアンソロジー

Pen Donavan

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GPTⅠ 第3章  ドロップアウト

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    第3章  ドロップアウト



     1

 近くにいるはずの蝉の鳴き声を、どこか遠くに感じながら聞いていた。吹き抜けていくそよ風が心地良くて、しばらくはまだこうしていたかった。時折、子供たちの元気な声が通り過ぎる。全く騒音ではないのに苛立ちを覚える。何も知らない、その無邪気さに。
 少年時代に戻りたいと思ったことは一度もない。だけど、このまま大人の世界に入っていくのも嫌だった。
 二日酔いと微睡みのなか、起きることを拒み続けていると、頬に冷たい物が当たった。反射的に目を開ける。2~3秒かかった。その男が誰か思い出すのに。ジョーカーは顔をクシャとさせて、典型的ないたずらを笑顔で受け入れた。
「お茶でも、どう。背中とか痛くない?」
 木陰にあるアンカー公園のベンチ2脚を占領して夜を明かした2人。その男は、昨日の夜のバカ騒ぎの最中に知り合った、ちょい年上のサラリーマンだった。
 ジョーカーは身体を起して、腕や背中を伸ばしながら、おはようございまーすと返事をした。買ってきてくれた冷たいお茶が身体に染みわたる。ぷはーと一息つくと、枕にしていたカバンからスマホを取り出して時間を見た。午前9時36分。
 電話やメールの通知がうんざりするほど入っている。ジョーカーは誰にも返信することなく、スマホをカバンに戻した。
「昨日はありがとう、ホント楽しかった。久しぶりに発散できたよ」
「おれもです、初めて会った人と意気投合して、昨日みたいに燥ぐの、おれ、マジで好きなんですよ、そういうの」
 ワイシャツ姿の男も、目尻を下げて頷いた。
「楽しい時間はあっという間だね、嫌でも現実に戻される」
 半袖から出ている腕のところを蚊に刺されたらしく、空中を見つめたまま、触ったり、掻いたりしている。ジョーカーは、彼の寂しげな視線を見て思い出した。ブラック会社の被害者で、それを昨日は、酒の勢いを借りてぶちまけていたことを。
 島を挙げての祝祭だったクリエイト・ゾーン記念パーティーは、それはもう盛大で楽しかった。見知らぬ人同士みんな笑顔で乾杯し合った。エリア代表のモーリッシュがスピーチをして、みんなで飲み物を掲げているとき、ジョーカーは、ワイシャツ姿の男がビール片手に1人で静かに乾杯と言っているのを見て、ノリ良く無理やり、その男を友達の輪のなかに引き込んだのだ。男は酔いが回ってくるにつれて本音を口にし出した。ジョーカーたちは、サラリーマンの苦労と題して愚痴を肯定し笑い飛ばした。そうすることが少しでも救いになればと願って。ジョーカーたちも自分たちの将来に対する不安や不満を一緒になって叫んだ。男と同じで、就職活動をしなくてはいけない高校3年生の夏だった。
「おれも今日1時から合同説明会なんです。あー、行きたくねぇ」
「昨日、やりたいことなんて分わかんねぇよって、言ってたね。激しく同意」
「でしょ、おれみたいに頭が悪くて特技がなかったら、長い人生、金のために我慢して、やりたくもない仕事するしかねぇのかなーって」
「同じ悩みを抱えている人、結構いるよ。ぼくもそうだけど、それってすごく大きな問題だよね。だから、簡単には答えなんて出ないんじゃないかなー。まあ、そんなぼくでも、とりあえず言えることは、どの職業を選んでも何かしらブラック要素が絡んでくるから、自然種の労働者は大変だっていうことだけだね」
 進学しない18歳のジョーカーにとって、生きるということは働くことだった。けれど就職目線で社会を見直すと、どうしても幻滅や絶望しか見えてこなかった。友達はすでに妥協を視野に入れている。何でそんなふうに割り切れるのか、ジョーカーには全く分からなかった。人生の時間配分を考えると、妥協するにはあまりにも仕事に拘束される時間が長すぎるからである。決して、一生懸命が嫌いなわけじゃない。むしろ夢中になれたら、どんなにいいだろうとさえ思う。それでも一日十何時間、しかも毎日、仕事ばかりの人生なんて、ジョーカーには絶対に耐えられそうにもなかった。
 あれは確か、小学生の頃だ。毎朝、同じ時間に起きて、学校に行くというルーティンに疑問を感じ始めたのは。それが高校まで続いて、さらには社会人になっても半永久的に、そのルーティンが続いていくかと思うと、心底げんなりする。一体いつになったら自由になれるのだろう。ずっと、それしか考えられないでいる。

 そういえば、集団行動が苦手だということも小学生の頃に気づいた。遊びだったら人が大勢いても平気なのに、学校が絡んでくると途端に嫌気が差すのだ。あと他人のペースに合わせるのも異常にストレスが掛かることを知った。相手の能力が自分より上であっても下であっても関係ない。大切なのは、いかに自分自身でいられるかどうかだ。
 男が「ヨシッ」と言って立ち上がった。お開きの合図だ。ジョーカーは、たぶん、もう二度と会うことはないその男性と、笑顔でエールを送り合って別れた。一期一会に奇妙な満足感と感謝を抱いて。
 エレベータのない典型的な団地の3階に帰り着いたジョーカーは、シャワーを浴びて、洗濯してある制服に着替えた。冷蔵庫には、鶏肉とカイワレ大根の柚子胡椒和え、豚肉とニラと萌やしの炒め物、玉子を使ったとろりん中華スープが入っていた。電子レンジで、チンして食べた。うまかった。
 それにしても昨日の夜ぐらい嵌め外して遊んで来たらいいのに、うちの両親はどこにも出かけなかったみたいだ。料理がその証拠だ。きっと昨日も仕事で疲れて、どっかに行く元気も湧いてこず、食べ盛りの息子のために、普通の日常を維持するだけで精一杯だったのだろう。だからこそ余計に早く働いて恩返ししたいという思いが込み上げてくる反面、親と同じ轍は踏みたくないという思いに駆られてしまう。

 合同就職説明会が開かれる会場に到着した。友達がジョーカーの姿を見つけるや否や、みんなで一斉に笑いながら、ジョーカーの頭や体を、あちこちペシペシ叩きまくっては、怒涛の質問攻めを繰り広げる。「お前、何やってたんだよー、電話したし、メールしたし、なのに返信こねぇーし、あっ、まさかあの公園で朝まで寝てたとか?」
「わりい、わりい、大当たり!」ジョーカーはそう言って、そそくさと建物の中に入って行った。
 会場内は、企業ブースと講演コーナーとに分かれていて先着順だった。講演コーナーはスタンディング形式で、すでに就活高校生でごった返していた。ジョーカーたちは何とかその中を掻き分けて入り込み、居場所を確保した。俄かに忙しくなり始めた特設ステージの方を見ると、司会進行役の人が現われて開始の挨拶をした。盛大な拍手のなか登壇したのは、プログラムと同じく、モーリッシュ・ワイス知事その人だった。
 知事は、バンク種の顔とも呼ばれる人で、時代の波をうまく味方につけて、街の発展と人々の意識改革のために活動してきた人物である。それは今なお健在で、バンク種的経済レベルを第3ステージへと押し上げるには、バンク種関連によって生み出された付加価値を、これからは島全体へと拡大していくことが重要であるとして、改めて、地理的に宣伝効果の高い統一的なイメージを持つ共同体、クリエイト・ゾーンを作ったという。
「今後は多くの需要に伴い、人手が足りなくなることが予想されていますので、安心して就職活動に励んでください」と知事は説明する。でもジョーカーは内心「どうせ良い所は全部バンク種に持っていかれるに決まってるさ」と、毒突くのを止められなかった。
 モーリッシュ・ワイス知事は講演のあと、エリアの発展を目指して、別室の会議室にて行われる、企業との懇談会に参加すると言って降壇した。ジョーカーも、そのままそこにいるのは退屈だったので、友達と連れ合せてブースの方に行くことにした。
 知っている飲食店のブースがあった。空いている席に座ったジョーカーは、序盤から、早くも脂ぎった社長の話に辟易した。頑張れば、高卒でもオーナーになるのは夢じゃないとか、海外進出も考えているとか、会社の発展にはありがちなサクセス・ストーリーを、さも夢のある生き方のごとく口角泡ためて喋っている。ジョーカーは、気持ち悪いと思う本音を顔に出さないように努力した。で、オーナーになれたとして何が良いのだろうと、早速、終わってから口コミ・サイトを覗いてみた。この飲食店の場合、大抵が、店舗で下積み期間を経てフランチャイズ契約をする。飲食店経営の基礎知識は一応、下積み時代に学んでいるので自分にもできそうな気がする。だが、オーナーになったとしても資本力のないうちは売上から事業譲渡金の支払いもあり、結局、自由なくして責任ばかりが増す。従業員の確保やシフト調整および教育、食材の仕入れと品物の在庫管理、飲食業ならではの衛生面での安全保持、新メニューへの対応、クレーム対処、加えて、それらを熟しつつ、損益の重圧がダイレクトに負荷を掛けてくるため、心身ともに休まるときがない。また、実際には、休日出勤や連勤も当たり前で、休み時間など無きに等しく、疲労から、次第に思考能力が低下していき、何も考えられない状態に陥る。それでも契約が満了するまでは逃げ出すこともできず、それでいて手取りは少なく、割に合わず、どう考えても、選択を誤った後悔だけしか残らないといったコメントが、多数、寄せられていた。
 悍ましすぎる。やっぱ現実は、そんなもんなんだ。一見、初めての経営に対して優しいようにも思えるが、オーナーとは名ばかりで、せっせと大本にロイヤルティを運ぶ責任の重い働き蟻でしかない。大本のブランド力を守るために、またはバックアップ体制という指導名目のもと、常軌を逸した口出しもあって、そのストレスは半端ないらしい。しかも経営者ということで、借金を抱えるリスクは大本になく、自分にあるのだ。
 経営者としての才能がなかったといえば、それまでだが、そもそも経営者になるなら、何をするにしても人から口出しされる立場に就くんじゃなくて、始めから自分でやりたいことをやるべきだったんだ。こんな自由裁量のない経営なんて意味がない。自分で自由に作り出せるからこそ、遣り甲斐があって楽しいんじゃないかと、ジョーカーは思わずにはいられなかった。
 その他、販売、営業、事務、設計、作業系など、いろいろ見て回ったけれど、ちょっとでも条件や口コミが良い所は、過去の倍率からして人気が高かった。それに、ノウハウを学んで同じやり方で店舗を増やしていく成長戦略は結局どこも似たり寄ったりで、まさにクローンだった。それでも、会社の本当の姿が分かる口コミ・サイトがあるお蔭で、会社選びの失敗を未然に防げるという点では、救いは残されているともいえる。それもこれも傷を負った先輩たちの勇気ある言動が、被害者の減少に一役買っているのだ。誹謗中傷と区別さえできれば、これほど有効な情報ツールはない。ネット様々だ。
 それにしてもスッゲー疲れた。7軒回って2時間経ったところで、ジョーカーは友達にトイレに行くと言って抜け出した。思いっきり放尿して、心地よい脱力感を味わっている最中、誰かが入って来て3つ隣りを陣取った。先に用を足したジョーカーは洗面所の鏡で自分の顔を見た。髭があんまり生えない薄いイケメンの顔立ちにも、疲れが出ているのが見て取れる。その顔はまるで朝の通勤ラッシュ時に見るクローン化されたサラリーマンと同じ表情だった。
 おれに、会社務めは向いてないよなーと、諦めかけていたとき、先程の人物が洗面所に来て、鏡の中で目が合った。モーリッシュ・ワイス知事だ。明らかに、就活高校生である制服姿のジョーカーに、知事は親しげに話しかけてきた。
「就職先は見つかった?」
「いや、まだです」
「そうか、じゃあ人生、何がしたいのか、探すところから始めてみるのも悪くないんじゃない」知事は手を洗いながら、そう答えた。
「はい、ありがとうございます。今はまだバイトしかしたことがないおれでも、この仕事あの仕事で働いている自分を、それなりに想像してみるんです。そしたら、どれもほんの少しだけ悪くなくて、あとは夢のない無機質な日常だけが永遠に続いていくように思えて仕方がないんです。それが両親や友達が言う妥協ってやつなんでしょうけど」
 知事は苦笑して、思いやりのある眼差しでジョーカーを見たあと、ドア横に設置されているエアーダスターで手を乾かし始めた。
 そこへ、一般人とは全く空気感が異なるスーツを着た男たちが入って来た。知事に銃を突きつけ、知事の家族を映した動画をタブレットで見せる。銃を持った男は「大人しく、ついて来てもらおうか」と口を開き、2人の男に目配せをした。子分らしき2人は知事を促し、すぐに連れて出て行った。一瞬の出来事だった。
 ジョーカーは訳が分からず、呆然としていると、銃の男が近づいてきて「生徒手帳」と言った。ジョーカーはすぐさま素直に渡した。次に「携帯」と言われ、血の気が引いた。友達や家族の写真がたくさん入っていたからだ。「世の中には、黙っていたほうが良いこともあるってことを、お前は知っているか?」銃の男は、不敵な笑みを浮かべながらジョーカーの眼を覗き込んだ。ジョーカーは、喉の奥が締め付けられて、初めて声が出せないという状況に陥った。誤解されないように慌てて何度も首を縦に振る。
「念のため教えといてやるが、警察に話したところで、お前や、お前の家族をいつまでも守ってくれると思ったら大間違いだ。だが俺たちには時間なんて関係ない。やろうと思えばいつでもやれる。その差が、お前には分かるか?」
 ジョーカーは頑張って声を振り絞って「はい」と返事をした。
「そうか、理解できていると思っていいんだな。それなら今日のところは見逃してやってもいい。それどころか、うちに就職したっていい。どうだ、うん?」
 弄ばれているのが、緊張しているジョーカーにも分かったが、むしろ、そのほうが有り難かった。威嚇されるよりマシだ。そう思った途端、鳩尾に拳を一発入れられ、銃で頭を殴られた。膝から頽れる。経験したことない痺れが高速で全身を走った。眩暈と吐き気もする。あまりの激痛に、ジョーカーの意識はあえなく遠退いていった。
 それから間もなくして、ふいに目覚めたジョーカーは、頭の疼きに顔を顰めた。気配を確かめずに動いてしまったことを後悔するも、トイレにはすでに誰もいなかった。鳩尾の傷みは消えていた。頭を擦りながら起き上ると、洗面台に、自分のスマホと、知事が手を洗うときに立て掛けていたカバンが置きっ放しになっているのを見つけた。すぐにスマホの電源を入れて確認する。何も変化は見当たらない。だが、データをコピーされた可能性はあったし、生徒手帳は取られたままだった。
「……どうしよう」
 ジョーカーは一先ず、知事のカバンを持ってトイレの個室に隠れた。
 だってよ、警察を全面的に信頼して、すべてを話し、犯人が捕まって知事が無事だったとしても、おれがチクッたことがバレたら、報復は免れない。仮に、警察が隠してくれたとしても、どっかの記者が、おれの存在を嗅ぎつけて顔写真付きでネタにしたとしたら、やっぱり報復行きだ。危険すぎる。それに例え犯人を捕まえたところで、相手は暴力団という組織なんだから、他に、報復する実行者を用意しようと思えば簡単にできるはずだ。事件はまだ終わっていなかったとして、短いおれの一生があらゆるメディアに報道されることになるのだ。両親は突然の息子の不幸に涙し、友達はおれの良い部分を思い出しては記者に話して聞かせる。ニュースは瞬く間に世界を駆け巡り、ネットには永遠に、悲運のジョーカーとして記事が掲載され続けるのだ。……チッ、全く良いことがない。あまりにも自分が可哀そうすぎる。そんな未来は絶対にお断りだ。ということで、警察に報告するのは止めておこう。誰にも知られないように、カバンも届けずに、さっさと家に帰るのがベストだ。うん、それがいい。そうしよう。
 結論を得たジョーカーは、知事のカバンを自分のスクールバッグに押し込むと、友達や先生には何も言わずに、そっと姿を晦ました。

 帰宅途中、スマホで事件を検索してみると、該当するニュースは何もなかった。まだ、早いのかもしれない。
 今日、二度目の帰宅、テレビを点けてみた。どのチャンネルにも、事件を伝える速報は流れていなかった。
 なので、ジョーカーは、応急手当の仕方をスマホで探した。たんこぶなんてガキのとき以来だ。母親のガーゼのハンカチに砂糖水を浸み込ませて患部に当てる。ビニールに氷を入れた手作り氷嚢で、その上から冷やす。しばらくは安静に。ジョーカーはそのとおりにした。そしたら、暇を持て余しているからか、安全圏に入ったからなのか、何だか無性に腹が立ってきた。何で、おれが殴られなきゃいけないんだ。クソッ! 
 大体、あいつら何のために拉致したんだ? 未だに事件になっていないのはどうしてだ? 何の犯行声明も出されていない。もしかしたら重要人物である秘書や奥さんには、急に用事ができたとか、今日は帰れそうにもないとか、脅されて連絡させられたとも考えられる。GPS機能が付いているスマホの電源は途中で切って、そこから移動して荒くれ岬のような死体すら上がってこない海にでも放り投げておけば、そう簡単には、発見されないに違いない。少なくとも、それで時間は稼げる。それに、あの時あの場所で殺さずに連れて行ったということは、殺害が目的ではないと推測できる。だからすぐには、知事の命が危うくなることはないと見ていい。あとは動機だ。
 だんだん、自分が探偵みたいに思えてきたジョーカーは、気分が乗ってきて、トイレに残されていた証拠物件に鋭い視線を送った。PCが入っていると想像される衝撃吸収型の白いソフトケースは、高校生のジョーカーが持っていても全く違和感のない、シンプルでお洒落なデザインだった。
 チャックを開けて、PCを取り出し、電源を入れる。スパイダー社のロゴが現われて、アカウント作成を求められた。ヤバい、PCを勝手に開けた証拠が残る。でも手掛かりが掴めればと思って調べているのは本当のことなので、再会したら正直に話そうと決心して指示に従った。作成し終わるとデスクトップに画面が切り替わった。蜘蛛の巣に、昨日のアニバーサリーに合わせて作られたピンバッチと同じ絵柄のアイコンがあった。蝶に似た形の緑豊かな島の地図上に「CREATE ZONE」という文字が、大きく黄色で浮き彫りにされている。ジョーカーはまず、そいつから開いてみることにした。
「自分の正直な思いや、実現したい願いを、いつも目に見える形でPCに打ち込むようにしてごらん。そうすればきっと、自分にとって大切なものが何か分かってきて、それが、いずれ現実になる日がやってくるから。世界は変えられるんだよ」by、satoru
 画面中央にメッセージが出て、そのあとモーリッシュ・ワイスのファイルに移行した。そこには、経済指標や分析、予測、計画、条例案などが、彼の思想と共に詳しく記されており、1人の男の人生がぎっしりと詰まっていた。
 ギブアップ! ジョーカーは早くも脱落した。データが膨大すぎて、読む気が失せる。あっさり探偵気取りは消滅して、単純に好奇心だけが残った。
 胎児のアイコンを開く。バンクパパのファイルだ。アンティークランプも開いてみる。こっちは知事の母ちゃんで、クラリス・ワイスのファイルだった。唯一、蜘蛛の巣に引っ掛からずに自由にゆらゆらと動いている青白い人魂があった。他のアイコンと同じように画面中央にメッセージが出てきて、ホームへと移り変わる。
 驚くことに、そこには何と、作ったばかりのジョーカーのアカウント情報が記載されていた。キャンバス1と書いてある項目をクリック。ツールと、真っ白な画面が現れた。
 クール! 自分のアイコンが人魂だったことに心を擽られたジョーカーは、自分の中の善の部分が高まって、「もしも願いが叶うなら、どうかモーリッシュ・ワイス知事が無事でありますように」というメッセージを打ち込んだ。そして、しばらく考えてから、「本当は知事を助けられるぐらいの力がおれにあったらいいのに」と、隠し切れない自責の念を、図らずも、自分の弱さと狡さに蓋をして、理想という感覚に置き換えて、付け加えた。

 翌朝、期末試験で赤点を取ってしまった国語の補習授業を受けるために、ジョーカーは早起きした。夏休みに学校に行くなんて正気の沙汰じゃない。だけど再試験に向けて勉強しておかないと単位を落としてしまうのでしょうがない。さすがに、高校で留年はカッコ悪い。ジョーカーは渋々、歯を磨きに行った。顔を洗って、髪をセットする。たんこぶの疼きは和らいだものの、触ると痛かった。目が覚める。
 食卓に着くと、母ちゃんが作ってくれた朝ごはんが沈んだテンションを上げてくれた。味噌汁の塩気に炊き立ての五穀米が食欲をそそる。半熟の甘い卵焼き、キュウリとむね肉のピリ辛サラダ、うまい、最高だ。
 ところで、あれから事件はどうなったのだろう。一通り探してみた。未だニュースにはなっていないようだった。世間が知ったらどれくらいの騒ぎになるのか、事なかれ主義を決め込んだジョーカーは、固唾を呑んで見守っているしかなかった。
 家を出て、いつものように電車に乗り込み、いつもとは少しだけ様子が違う車内の光景を眺めた。学生が5分の1ほどに激減した代わりに、スーツ姿のサラリーマンがどこからともなく増殖していた。二駅過ぎて、人口が多い駅に到着すると、どっと人が乗り込んできて満員になった。車内を見渡す余裕はなくなっても、ぎゅうぎゅう詰めにされたみんなの顔が、息のし辛さと圧迫に耐え忍ぶ表情になっているのは分かっていた。快速で20分我慢する以外ない。
 セントラル駅に到着。
 人波に押されて、身体が勝手に出口へと向かう。案外、その方が楽ではあった。均一化されたみんなの無表情な顔も、省エネと思えば納得できた……しかし。
 登り階段に差し掛かったジョーカーは、強い意志で立ち止まった。急に流れを堰き止められた真後ろのサラリーマンが、不意を突かれて舌打ちした。通り過ぎる瞬間に苛ついた一瞥を投げ返す者もいた。それでも、丘陵に突き出た岩のごとく、ジョーカーはそこから動こうとはしなかった。状況を受け入れることに慣れている社会人という名の羊たちは、すぐさま無駄のない流れを作り出し、何事もなかったかのように、街へと溢れ出た。
 階段下から、みんなの後ろ姿を見上げていると、意外にも、自分だけが取り残されて、置いて行かれる焦燥感に打ちのめされそうになった。「おれって、そんなに弱かったっけ」それに気づくと今度は悔しさが弱い自分を責め立て始めた。「バカじゃねぇーの、あんだけ自由に憧れていたくせに、同じになりたくないとか粋がっていたくせに。今、おれは決断したんだ。衝動的でも、それが本音だ。今更、引き返したところでどうなる? どうせ、同じ悩みを繰り返すだけさ。覚悟を決めて、自分に嘘を吐かなくていい、楽しいと思える人生を選んでみろよ!」自分への煽りが功を奏して、少しは、気持ちが楽になってきた。「そうだ、人生おもしろくなくっちゃ意味がない。無理して心が死んだまま生きてたって仕方がない」振り子の原理がジョーカーを試す。「じゃあ最悪、年取って働けず、飯も食えなくなったらどうするの? 餓死は嫌だ。そうだなー、そしたらそのときのために取っておいた貯金を引っ張り出してきて、外国に行って、銃を手に入れて、酔っ払って、あの世行きっていうのはどうだろう。それも覚悟は要るけれど、今のところ、一番瞬殺で苦しくないような気がする」最後は実感がないからこそ言える手段ではあったが、あながち冗談でもなかった。

 検索して、ヒットした住所へ、ジョーカーはその足で向かった。クリエイト・ゾーンで唯一の組織である六欲天一家を見つけるのは簡単なことだった。4階建てビルの外観は、黒とマーブルグレーを基調にした大理石造りで、浮き立つほどに相応しい威圧感を周囲に放っていた。
 玄関に、黒のBBMが停まっている。丁度、助手席から男が降り立った。ジョーカーは意を決して速攻で話しかけた。
「あの、実は昨日、こちらの菊池さんという方から、家に来ないかと、合同就職説明会でスカウトして頂きまして、来てみました」
 男は、疑惑と、夏の日差しも手伝って、かなり眉根を寄せていて怖かった。後悔を感じ始めたとき、男は何かに思い当たったらしく、視線を外して、考えに集中したあと「車に乗れ」と言った。ジョーカーは自分の身体が縮み上がり、息も絶え絶えになってしまっていることに、やっぱりムリなんだと、この期に及んで気づかされた。男は、運転していた人物に「相談があるって後輩が来たから、その辺で飯食わせてすぐに戻ってくると上には言っておけ、あいつの名前は出すなよ」と指示をした。運転手だった男は「はい、分かりました」と返事をし、兄貴分らしき男が運転席に乗ったのを確認したうえで、丁寧に扉を閉めた。ジョーカーは、金縛りを振り解くかのようにして、助手席に乗り込んだ。
 大通りに出て、コンビニに行き、飲み物を買って、男は車内に戻ってきた。店の中じゃ大事な話はできないと言って、ドライブしながら、まずは昨日の出来事を洗いざらい話すことになった。それで、自分の考えに話が差し掛かった途端、男は笑い始めた。そんなにバカな考えだったのだろうか。ジョーカーは恥ずかしくなった。
「お前が警察に、どれだけ白を切ることができるか、拝見させてもらうよ。で、菊池には係わるな。あいつの器は小さい。扱き使われて、人生事故って終わりだよ。だけどお前が本当に、それをやってみたいと思っているんなら、俺が協力してやる。高校を卒業したら連絡してきな。それまでは猶予期間だ。考えを変えるなら、それまでがチャンスだ」
 男は群青と名乗って、名刺を渡してくれた。菊池なんかより、はるかに好感が持てた。スタイリッシュだし、何よりも、ジョーカーがまだ高校生だということを配慮して、人生早まらないですむよう熟慮する時間も与えてくれた。それって、信用できる人だと思っていいんじゃないだろうか。いくら夢のためとはいえ、菊池に付かなくてすむのは助かる。運がある証拠だ。ジョーカーは初めて将来に、ワクワクする気持ちを抱いた。

     2

 卒業して、最後のバカ騒ぎを楽しんだ翌日の夕方ごろ、電話を入れた。カジノ店を経営している群青さんが確実に起きている時間を推し測ってのことだった。
「お忙しいところ、すみません。ジョーカーと言いますが、おれのこと憶えてますか」と遠慮がちに尋ねた。
「ああ、どうする?」あれから8ヶ月近くも経ったというのに、群青さんはまるで昨日の返事でも訊くかのように、端的に答えを求めた。
 ドギマギしつつも「よろしくお願いします」と、ジョーカーは挨拶をした。
 群青さんはレスポンス良く「分かった」と応じて、待ち合わせの場所を指定した。
 アンカー公園の片隅、道路沿いに、車を停められる場所があって、ジョーカーは、その辺のベンチに座って待っていることにした。
 黒のBBMが来た時点でスマホが鳴らなくても群青さんだと分かった。近づいて行って頭を下げる。ドアロックが解除される品の良い音がした。
 ジョーカーは「お久しぶりです。失礼します」と言って、意気揚々と車に乗り込んだ。群青さんは「よろしく」と言って、落ち着いた大人の笑顔を見せてくれた。
「初めに言っとくけど、お前を六欲天一家に入れるつもりはないから安心しろ。今どき、得することなんて何もないし、お前の性格じゃ組織は合わないよ。それよりも俺の意向が効く会社で働いてもらう。その方がこっちとしても都合が良い。だから2人の利害は一致しているってわけだ」
 仕事は新卒の新入工員と同じく4月1日からで、その前日に顔合わせとミーティングをする予定だそうだ。それまでは車の免許やパスポートを取ったり、親孝行したり、友達と遊びにでも行ってくればと、お祝い金に50万円も頂いた。やることなすこと一々カッコ良い! おれも早く群青さんみたいな男になりたいと思った。

 人生で、深く印象に残る経験というやつは、そうあるものじゃない。おれの場合、身の危険を感じて、動物的本能が活性化しただけだともいえる。だがそれを、それで終わりにせずに、逆に、それに近づいていくのは馬鹿げた行動だろうか。やったこともないのに、それこそが、おれに合った生き方だと思うのは気のせいだろうか。そうした不安を、一時的にせよ、払拭できたのが、話し合いの席でのことだった。
 3月末日、午後4時、ジョーカーはメンバーと落ち合うべく、群青さんに連れられて、荒くれ岬に程近い別荘に向かった。到着すると敷地にはすでに車が2台駐まっていた。
 最初に紹介されたのは、明日からお世話になるラサ島製作所の福山社長だった。普段は製作所で通常どおり仕事を学んで金属加工の腕を磨き、製作は、社員がいない日曜日に、ちょっとずつ取り掛かることにしようと言われた。図面は、ネットに接続したことがないPCに準備しているらしく、起動して、その製図に至った経緯を簡単に説明してくれた。
「この日本で銃を密造するにあたって、私たちが最も難しいと感じているのは、火薬なんです。ニトロセルロースやニトログリセリンおよびニトログアニジンといった化学物質を基材にした無煙火薬が今は主流ですが、門外漢の私たちが手を出すにはあまりにも危険な物質です。それに入手が困難でもあります。なので、少し時代を巻き戻して、黒色火薬を中心に調べてみることにしました。
 黒色火薬は、現代でも花火の材料に使われていて、打ち上げ花火の発射薬に使用される黒色小粒火薬なら、おそらく粒のサイズからいっても拳銃用に、あるいは大口径拳銃用に使えるのではないかと思われます。しかも、火薬を粒状にする現代のコーニング技術は、昔に比べて格段に進化しており、威力も増しているそうです。あとは調達できるかどうかなんですが、群青さん、いかがでしたでしょうか?」
「毎月、少しの量でしたら大丈夫です。回してもらう手筈は整えました」
「分かりました。では、黒色火薬を使うとして話を進めて行きます。このガンパウダーを金属薬莢に詰めていた頃ですと19世紀にまで遡ります。だとしたら、私たちは一先ず、その時代に、実際に使用されていたオールドガンと、その弾の再現を目標にすることが、何よりも理に適った選択になるのではないでしょうか。拳銃の種類も、自ずと答えが導き出されてきます。
 リボルバーのシングル・アクションです。メリットとしては、構造がシンプルなため、部品の数が少なくてすみ、また、堅牢で耐久性に優れているため、威力が増した黒色火薬でも対応が可能な点です。デメリットとしては、弾の再装填に時間が掛かり、安全装置も付いていないことから、実弾を込める際には、雷管にハンマーが接触して暴発しないよう1発分だけ空のチャンバー(薬室)を用意して、そこに、ハンマーが来るように調節するなど、暴発を防ぐ注意が必要になってくる点が挙げられます。
 それでも日本に居ながら、今尚、人気が高く、有名な銃ということもあって、分解図や設計図に近いものをたくさん検索できたのは大きな収穫です。それから言うまでもなく、他人名義の別のPCから一旦プリントアウトしたものを、スキャナーを使って、こちらのPCに取り込んだので、足がつく心配もありません。
 安全面に関しては、後々、改善していくとして、とりあえずは安全性を備えたケースの製作で十分でしょう」
 ジョーカーは嬉しくなった。自分が予想していた銃と同じだったからである。それに、ここにはスクラップ工場経営の峰岸と、電気炉メーカー社長の長谷川もいるのだ。まさに鬼に金棒じゃないか! これで鉄材の心配をしなくていいし、合金鋼の配合とか、銃との相性を考えた独自のレシピだって開発することができる。3人の会社がある場所も、人里離れた森の中に隣接していて申し分ない。
 それだけでなく、おっちゃん3人組は未だにつるんでいる幼馴染でもあり、絆が固い。3人とも昔っから、おもしろそうなことにはすぐに首を突っ込むタイプだそうで、随分と悪さもしてきたようだ。この銃があのときあったらと、昔の出来事を思い出しては過去を格好良く塗り替えて盛り上がっている。違法行為にはもってこいのメンバーだ。
 今回の協力も、元はといえば、長谷川が2人をカジノに誘ったのがきっかけだった。非日常を味わうには、なかなかの場所だ。しかし、おっちゃんらがカジノに嵌って借金漬けになるのは時間の問題だった。言い出しっぺの長谷川は、遊びの先輩風を吹かせて強気の賭けにのめり込み、借金がとうとう1億円にまで膨れ上がってしまった。
 群青さんは、そのときを見計らって透かさず取引を持ちかけたのである。10年契約で銃を密造して頂けるなら、利息込みで借金を全部チャラにすると。
 月換算したら利息抜きで約83万円だ。それも現金ではなく自社製品で返せる。本当に無理のない範囲内でいいなら、実質、余剰分で賄うこともできる。捕まりさえしなければ決して悪い取引ではない。そう判断した長谷川が、借金5千万円越えの峰岸と、借金3千万円越えの福山に、お前らも協力したらチャラになるからと説得して、ジョーカーの夢が今ここに現実になろうとしているのであった。
 おっちゃん3人組は、それがジョーカーの夢から始まった計画だとは、全く知らない。これから先も伝えることは一生ないだろう。ジョーカーは、あくまでも群青さんの大切な弟分であって、お目付け役なのである。もし、自分たちが危険を冒してまで若造のために働かされていると思ったら、たとえ借金の返済が理由だったとしても、気分を害するのは想像に難くない。長い付き合いになるのに、それだけは絶対に避けたかった。
 帰りしな、車の中で群青さんにそのことを相談してみると、一丁前に分かっているじゃないかと言わんばかりの笑顔が返ってきた。
 極道の世界では、人心掌握は重要な素質の1つとされている。無理が効いて裏切らないネットワークをいかに構築できるか、である。何も心を挫くだけが方法じゃない。相手がこっちをどう判断しているか、その評価や優先度合いを見抜き、ムチとアメを使い分け、疲弊させず、油断させず、少しでも舐めた態度をとったときには容赦なく叩きのめすのが極道の流儀だという。あとは、その容赦なくの部分をどれだけ実感させるかで、その後の労力に差が出てくる。一流か二流の違いとなって。
 だから銃への投資は、群青さんにとっては、実験あるいは遊びの延長線みたいなものでしかなかった。いくつか密輸経路を持っている六欲天一家にしてみても、銃や麻薬などの密輸はタイミング次第で定期的に行っている取引だったので、会長に話したところで趣味程度にしか思われなかった。実際、日本での銃の密造は、リスクが高くコストも割高で、密輸の方が断然パフォーマンスに優れているのである。
 会長は、単なる娯楽に過ぎなくても群青さんの頼みならと、六欲天一家に属する花火の製造会社に黒色火薬を融通するよう声を掛けてくれた。
 ちなみに花火大会においては、同じ息の掛かった建設会社が足場を組んだり、テキヤが祭りを盛り上げたりして、互いに利益を生み出し合う仕組みが確立されている。それゆえ歓迎されるのはスポンサーのみで、新規の業者が入り込む余地は全くなく、周囲の人々もそこに、どういった種類の力学が働いているかは、それとなく噂を耳にしており、あえてテリトリーを侵害するような、無謀な者はいなかった。
 群青さんは、こうしたヤクザならではの影響力と、総合的な創造性に魅了されていた。違法に、つまりは可能な限り自由に、何かと何かを結びつけて自分らしい独特の世界観が広がっていくことに、興味を抱いていた。
 もともとカジノをこよなく愛する人で、そのすべてが自分の性分に合っていると、既に十代の頃から自覚していたほどであったが、営業を開始してすぐに、その場でカジノ客に融資できたら、もっと安定して儲かると気づき、金融業にも手を出したのが、派生需要の恩恵を知るきっかけとなった。
 風俗第五号営業で商売するカジノ店では時折、チップの換金を調べに、警察がガサ入れと摘発に来るため、名義人を変えては、また店を開くというサイクルを繰り返さなければならず、安定感には乏しかった。金融業は、それを補うに丁度良く、あらゆる人間の顧客情報をも得ることができた。
 この、手持ちの情報をどうするか、どうしたら上手く有効活用できるかと、群青さんは考えるのが癖になっていて、そこへジョーカーが夢を語ったものだから、頭の中で一気に情報が整理されて、条件が揃っていると分かり、手を貸したくなったのだそうだ。
 泡銭とはいえ、多額の債権を放棄し、金銭的に還元のある話でもないのに、群青さんはこの状況を楽しんでくれていた。懐深い笑顔で心配するなとも言ってくれる。そんな遊び心に満ちた群青さんという人に出会えて、ジョーカーは本当に運があると思った。

 社会人1年目、アラームが鳴る30分ぐらい前から、いつも目が覚める。緊張で身体が萎縮し始める一番嫌な時間帯だ。今日も仕事かーと、行きたくない病が騒ぎ出す。拘束を解かれるのは夕方5時。それまで、我慢、忍耐、努力、せざるを得ない。
 確かに、群青さんのお蔭で大切にはしてもらっている。作業の習得ペースも、慣れるに従って徐々に難易度を上げていくというような、ジョーカーの成長に寄り添った指導体制だ。残業もなければ、罵られることもない。けれど、その、ありがたい条件に甘えるわけにはいかなかった。いくら箱入りの新人工員だったとしても、他の工員にしてみたら特別待遇なのは明らかで、それはそれで居心地が悪く、せめて生意気だと思われないように、言動には細心の注意を払った。
 職場には、やっぱり否が応でも、一定の果たすべき責任と役割があって、それが自然に圧力を作り出し、目には見えない密度の濃い空間へと質感を変えているように思えてならない。ジョーカーは、そこに入って行かなくてはならない覚悟、染まりたくない反射的な拒否感、学生時代とは比べものにならないぐらいの憂鬱、そういう気分を毎朝繰り返すのは、どう考えても不幸な生き方としか思えなかった。
 と同時に、完成品を急かされない穏やかな時のなか、福山社長に導いてもらいながら、ちょっとずつ形になっていくリボルバーを見ているのは楽しかった。社会に対する密かな背信行為には、そこはかとない喜びがあるようだ。
 長谷川が持ってきた真鍮板を、丸い金メダル状に打ち抜き、凹凸の金型を使って複数回プレスして、薬莢の底部リムを作った。ここで使用した深絞り加工と呼ばれるプレスは、体積はそのままに、金属の形状を継ぎ目のない深いカップへと徐々に延ばしていくことができる機械技術である。
 弾丸は、鉛で弾芯を作り、その上から銅を主成分とする合金で薄く被甲した。
 雷管は、小さな容器に、起爆薬ジアゾジニトロフェノール(DDNP)を仕込み、合成樹脂で固めて防水し、発火金を付けて、ようやく出来上がる厄介な代物だ。
 カートリッジ(弾薬)は、上記の部品に黒色火薬を足して1つにまとめると完成する。持ち運べて使用済み薬莢も再利用できる、小型の組み立てマシーンを福山社長が製造してくれた。これで、いつでもどこでも、銃弾を作り出せる環境が整った。
 銃の本体は、加工しやすく、高温に強い、クロムモリブデン鋼を素材として採用した。バレルは最初から寸法どおりのパイプを納品してもらえたので、切断して、6条左巻きにライフリングを施すことに力を注いだ。その他の部品は、旋盤やフライス盤を駆使して、金属板から削り出す切削加工を行った。福山社長はNC機能なしの昔ながらの遣り方で、見事に各パーツを仕上げた。ジョーカーも、何とか追い着こうと努力する毎日だ。
 ネジは、圧造機で頭の部分を作り、転造機でらせんを入れた。
 バネは、最もポピュラーで、かつ防錆性や耐熱性に秀でたSUS304、ばね用ステンレス鋼線を材料に、手巻きコイリング機を使って手作りした。
 締め括りは、鉄材を赤錆から守るブルーイング処理によって、表面に黒錆の酸化皮膜を生成させて、仄かな青みを帯びた黒へと銃の色を変化させた。また、グリップ(銃把)は木製を選び、マホガニー色に染め上げた。
 自然に笑みがこぼれる。見惚れるほど美しい! 
 遂に、ここまで来たのだ! 
 福山社長が銃を自動発砲機に取り付けて、スイッチを押した。すると工場内に、祝砲が鳴り響き、白い煙が舞い上がった。それはまさに両者を称える賛辞であった。

 名銃の誉れ高いオールドガンを目指して作った、この銃器に、名前を付けた。第1号はドナヴァン/ファースト・ジェネレーションだ。ジョーカーが最も敬愛してやまない作家の名前である。
 桐箱の上蓋に、名前と製作年を焼印して、群青さんの1月の誕生日にプレゼントした。そしたら「俺の可愛いジョーカーがやってくれたじゃねぇかー!」と言って、大喜びしてくれた。おっちゃん3人組に「本当にありがとうございました」と礼儀正しく頭も下げると、「いえいえ頭を上げてください。私たちも無事完成して感動しているんですから」と、日本人らしい遣り取りが交わされて、別荘の居間は、祝福ムードで一杯になった。ジョーカーも、努力の甲斐あって、生まれて初めて達成感というものを味わった。

 それから約5ヶ月経った20歳の誕生日、今度は、群青さんがお祝いしてくれるということで、ジョーカーは誘われるがままについて行った。そこは、別荘よりもさらに山深い所にある火葬場だった。新築特有のニオイがする。訳が分からずキョトンとしていると、山の傾斜を利用して作られた二段下の駐車場に、また戻って行った。最上段が火葬場で、一段下と二段下が駐車場だ。二段下の生垣の隅から獣道のような細い小道を通って、山を回り込むようにして歩いて行くと、園芸用品や掃除道具をたくさん収納できる、北欧風の立派な建物に辿り着いた。居住スペースも完備されている。
 群青さんが「サプラーイズ!」と言いながら、居間にある本棚を横にスライドさせて、典型的な隠し扉を見せてくれた。秘密のニオイに好奇心を掻き立てられる。通路を進んだ扉の向こう側は階段室になっていて、その奥には何と、射撃場があった。
「撃てなきゃ、意味ないだろ」群青さんはそう言って、ウインクした。
 火葬場の地下に、2階層分の空間を秘密裏に造ったそうで、小屋から入って来た所が、そこのB2に該当するということだった。長方形の室内の中心にレーンが1つ設置されていて、その両端に空調用の大きなファンが取り付けられている。濛々と立ち込める白煙を速やかに除去するためのものだ。広くて細長い射撃場からは、階段室、応接間、武器庫、メンテナンス室、ジョーカーの部屋へと入るドアが、すべて見て取れる。
 B1は、階段を上がった所にキッチンがあって、中央廊下の左右に部屋が並んでいた。ドアには小窓が付いており、一番奥の部屋からは明かりが漏れている。誰かいるのだろうか。2人は、キッチンの冷蔵庫からジュースを取り出して、喉の渇きを潤した。
「B2は、お前に対するプレゼントだ。でもB1は監禁室として使わせてもらう。別荘の地下じゃ、さすがに限界でね。それに忘れてもらっちゃ困るが、俺は組織の人間なんだ。その中で生きていくには、それなりの技が必要なんだよ。遣り過ぎない程度に暗に実力を示して、敵に回したくないヤツだと思わせておくことがね」
「監禁? 今、監禁しているんですか?」
 ジョーカーは、自分の耳を疑った。次いで、誰を監禁しているんだ? 何のために?  別荘でも監禁していた? いや、それよりも、おれの部屋があるってことは、これからはおれが見張り役ってことか? それに技って何だよ? と、矢継ぎ早に疑問が浮かんだ。
 群青さんは、問題はそこじゃないとでも言いたげな表情で「うん」と軽い返事しかしなかった。そして「誤解されるのは心外だから言っておくけど、監禁しているのは俺なりに菊池から知事を守るためなんだ。あいつは殺りたがっているし、殺っても金は入ってくるって、高を括ってるんだよ。だけど俺が、生かしておいたほうがシノギも継続するって、会長の前で菊池を説得したから止めることができたんだ。今となってはどっちが良かったのか、分からなくなってしまったけどな」と、初めて教えてくれた。
 あまりの衝撃にジョーカーは頭が真っ白になった。真実を知るのが怖くて忘れたふりをしていたのだ。
「お前には表向き、この辺をウロついていてもおかしくないように用務員としての肩書きを持たせる。それで週3日は今までどおり製作所に通って、残り3日は知事の世話をしてほしい。当然1人じゃ無理だから、兄弟以外に、お前の相棒も連れてくる」
 端的に説明したあと、群青さんはキッチンから出て行った。たぶん明かりが漏れていたあの部屋だろう。ジョーカーはまだ心の準備ができていなかった。逡巡して、動けないでいる。だが会わないわけにもいかなかった。
 廊下には、ポッケに親指を突っ込んで待っている群青さんがいた。こんな時でも細身のスーツが決まっている立ち姿に憧れを抱く。そんなジョーカーを群青さんは溜め息交じりに見つめ、頭をクイッと部屋の方に振って、やるべきことを無言で示す。ジョーカーは、半ばヤケクソでドアをノックした。
 ソファに座っている男性が本をテーブルに置いて、ジョーカーを見た。紛れもなくモーリッシュ知事だった。白髪が増え、眼鏡を掛けている。こんなにも急激に人は老けるものなんだと、ジョーカーはまた違った意味でショックを覚えた。
 苦悩が、痛々しいほど表れている。
 モーリッシュは、立ち尽くすジョーカーに優しい笑顔で「久しぶりだね」と声を掛けてソファに座るよう促した。
「聞いたよ。仕事を紹介してもらっているんだってね。でも、どうして、普通に就職しなかったんだい? 君が、この社会に希望を見出していなかったことは憶えているけれど」
 ジョーカーは何て返事をしたらいいのか分からなかった。銃のことなんて言えるはずもない。俯いて、頭を捻ってばかりいると、モーリッシュが「じゃあ、ボクの推測から話すよ」と苦笑した。
「ボクにはずっと気になっていたことがあるんだ。ボクの人生が、バンク種とは切っても切れない関係にあるのは当然だとして、ボクらとは全く異なる人たちが、普段、どういう生活をし、そこから何を感じ、どんな考えを持っているのかってことを。
 いつの時代でも潜在的に、まだ明瞭化されていない思い、あるいは今ここにない価値観への羨望や希求、そういった感覚が人の心に生まれては消えたりしている。そこから養分を得て成長していくのは、きっと継続的に受ける影響だろう。さらに言うなら、類似する状況下で、同じ感性を持つ者が増加していくとしたら、それは次世代を作る大きなパワーになる。ボクたちバンク種がそうであるように。
 クリエイト・ゾーンにおいては、これからもバンク種が主軸であることに変わりはない。だが街には未だに、人を理不尽に縛りつける不要な習慣や制度、歪んだ思考による主張、感情的な不純物が、多重に存在しているのはボクも知っている。権力の名のもと、管理と称して、あらゆるものを毟り取っていることに気づいてさえいない略奪者および搾取者、むしろ、そのこと自体に喜びを感じている支配欲の塊、それらは会社という組織の中で、詭弁を弄し、理論武装し、言葉巧みに人を操る詐欺師でもある。そんな人間が必ずどこの会社にもいると思ったら、それは確かに社会参加したくもなくなるよ。自分の人生なのにいつの間にか会社のためにと大幅に乖離していくんだ。単純なモラトリアムとして片づけられる話じゃない。どんな社会生活になるのか分かっているというのに。
 つまり君は、そんな社会に見切りをつけて、少しでも何か違った世界に足を踏み入れてみたかったんじゃないだろうか。ボクにとってもそれは1つの重要な答えを暗示してくれている。街が進もうとしている方向性をね」
「おれは、世間でいうところの普通の生活っていうのが、息苦しくて仕方がないんです。モーリッシュ知事がご指摘のように、本当にしょうもない難癖や言いがかりをつけては、自分の方が上なんだとアピールしてくるんです。で、そいつの気に入る言動をとるまで、その地獄は続くんです。そんな人間がウジャウジャいるかと思うと、そんな所に最初から近づきたくもありません」
「そうだね。そういうのを人生から排除できたら、どれだけ楽になれるだろう。ボクらの母親は、人に不幸をもたらす、そうした集団から抜け出すことも、バンク種出産に望みを託した理由だと言っていたよ。
 ……だとすれば、バンク種という突破口を選ばなかった自然種の人たちが求める自由へのアクセスには何があるだろう。おそらく、それが次の時代のテーマになっていくような気がする」
 ジョーカーには全く、先のことなんて分からなかったし、興味もなかった。ただ自分の素直な衝動に従って今を生きているだけだった。
「おれには難しいことは分かりませんが、モーリッシュ知事にお会いしたら、絶対に謝らなくちゃと思っていたことがあるんです。それは、あの日、事件を警察に知らせなかったこと、それから知事のPCを持って帰って勝手に中を見ちゃったことです。今更ですが、本当にすみませんでした」
「あ~、それか、菊池って人に脅されたんだよね、銃を向けられて。仕方ないよ。それにPCのことなんて、すっかり忘れていた。別に、気にしなくていいよ。
 ……だけど、何だろうね。運命って。あの日、君に出会って、事件に遭遇して、ボクの役割は終わったような気がしてならないんだ。だからかもしれない。次の時代の話ばかりしているのは。もしかしたら、ボクが今こうしているのは、立ち止まってじっくり考えることができる、神様から与えられた最後の一時なのかも。ボクはそう思って、この状況を受け入れるようにしているんだ。そうじゃないと辛いからね」
 ジョーカーは唇を噛み締めた。時代を駆け抜けてきたモーリッシュという人の勢いは、もはや、微塵も感じられなかった。目の前にいるのは、静かに命が尽きる日を待つただの老いた男だった。あれほどのカリスマ性を誇っていたのに、そこにいるのは、弱りきった単なる生き物だった。憐れみたくもないのに同情を乞うているようにすら見えて、一層のこと、額に弾丸をブチ込んで消し去りたいとさえ思った。まだ若いのに衰えゆく命を見ていたくはなかったのである。老いに対する恐怖心への単純な裏返し。ジョーカーはせめて失礼がないよう無言で立ち上がると、深く一礼して、その場をあとにした。
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