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GPTⅠ 第3章 ドロップアウト
GPTⅠ 第4章 解き放て
しおりを挟む第4章 解き放て
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アナーキーは、ドアがノックされる音で目が覚めた。同じ年頃の若い男が入って来て、怪我の具合を心配しつつ、ペットボトルのお茶と濡れタオルを持って来てくれた。それをありがたく受け取って、痛む身体を手懐けながら、どうにか上半身を起こした。
急に喉の渇きを覚えた。遠慮なくお茶を飲み干す。濡れタオルで顔を覆うと、殴られたところがまだ熱を持っているようで、タオルの冷たさが気持ち良かった。アナーキーは、礼を言った。若い男は、ジョーカーと名乗った。
そういえば昨日、イカサマに乗っかったことがバレて、誤解されて拉致られて、行った先でボコられて、協力するなら許してやると、群青って男にコイツを紹介されたっけ。
「カジノに菊池が居合わせたのは最悪だったね。でも、まだマシなほうだよ。悲惨だったのは2年前に捕まったイカサマ2人組で、主犯格の男は生きたまま菊池に、上の火葬場で焼かれてしまったんだから! それを目の前で見せられた相方の男は言うことを聞くようにはなったけれど、その光景を思い出すたびに吐き癖がついちゃって、ドラッグに溺れるようになったんだ。それで、使い物にならなくなったそいつを、温情で、頭を撃ち抜いてあげて、結局は相方と同じ火葬炉で焼かれる運命を辿って、あっけなくあの世行き。信じられないだろ。おれだって未だに、気持ちの整理がつかないでいるよ」
ジョーカーは渋い顔で語りながら、アナーキーの顔の傷を観察していた。アナーキーはじっくり見られて初めて自分の顔がどんな仕上がりになっているのか気になった。そして本気で「……興醒めだね」と、急速に、カジノ熱が冷えていくのを感じた。
アナーキーは偶然イカサマをやっている台に居合わせただけだった。そいつらとは縁もゆかりもない。ただ、カードの出方が順番どおりに組まれているのを見て、直感するのは早かった。慣れているディーラーなら、上の方だけシャッフルしているフリをして、下の方は、1~キングまで順に逆に並んでいるカードとカードを噛ませたままにしておくのも造作ないこと。トランプが6デッキあれば、誤魔化せるぐらいの厚みも意外にあるのだ。しかし、我ながら初歩的なトリックに、ウハウハで乗っかったのが運の尽きだった。
「で、今回のイカサマ2人組はどうなったの?」
「たぶん麻薬の運び屋にされるんじゃないかな。ミャンマーに飛ばされて、そこから日本だけでなく、見つかったら死刑になるような国にも運ばないといけないと思うよ」
イカサマヤローが俺を馬鹿にして「そいつはただのハイエナですよ」と正直に見下してくれたお蔭で、最悪の事態は避けることができたようだ。マジ、助かった。
「で、ここはどこの火葬場?」
「ラサ島の、ああ、今はクリエイト・ゾーンか。とにかく西側に荒くれ岬があるでしょ、そこからさらに北上して内陸に入った所がここだよ。だから南側とは違って人里が少なく火葬場にはもってこいの場所なんだ。しかも、この辺の山一帯が所有地で、居住区まで、かなりの距離があるから、よっぽどのことがない限り何をしてもバレないよ。夜は、麓のゲートを閉めておけば大丈夫。何か動きがあったときには、主要ポイントに設置している人感センサーや防犯カメラがすぐにキャッチして、知らせてくれるからね」
「拷問には最適な場所ってわけか」
アナーキーがそう指摘すると、ジョーカーは深く溜め息をついて「技だよ、技!」と、粋がってみせた。
「けどな~、群青さんの思惑以上に過激になっているのは間違いないんだ。一応、想定内ではあるらしいんだけど、その想定していた範囲のエッジの部分に菊池があえて挑発的に口を挟んでくるそうなんだ。菊池は群青さんのスタイリッシュなところに嫉妬していて、なのに、誰よりも群青さんに認められたいと思っていて、ツーカーの仲ってやつに憧れているんだよ。だから群青さんにできないことを、菊池が代わりにやってあげているんだと思い込んでいるんだ。お得意のサディスティックな遣り方で」
「キモっ」
アナーキーの反応にジョーカーは爆笑した。
「だろっ、なんか、お前とは友達になれそうな気がする。よろしく」
そう言って、バスルームで血を洗い流してきたほうが良いよとアドバイスして、部屋を出て行った。
部屋はパッと見、ホテルの一室のような造りではあったが、ドアには小窓が付いていて外から中が丸見えだった。バスルームも強化ガラスで仕切られており、洒落ているようでいて、見張りのためにプライバシーを侵害するのが目的であることは容易に想像できた。そういう意図を嗅ぎ取りながら、そこに居続けるのはあまり落ち着くものではない。それでも与えられた条件のなかで今を生きることに慣れていたアナーキーは、この風変わりな状況を楽しむことにした。
脱衣所に設けられている鏡には、傷だらけの男が映っていた。特に左側の頬がひどく、皮膚がパックリ割れている箇所が3つもあった。菊池が指輪をしていたせいだ。青アザと腫れで化け物みたいになっている。だが血は止まっていたし、鼻も無事だった。これなら3週間もすれば、だいたい元に戻るだろうと推測できた。
というのも、アナーキーはケンカに慣れていたので、飛ばされる方向に身体を引いて、相手の力を減じるコツを身につけていたのである。毎回、どの程度やられたか、確認するまでは心配だったが、いつも痕に残るような怪我をせずにすんでいるのは、たらい回しにされた里親先で、よく理不尽に蹴られたり殴られたりして、否応なしに自己防衛すべく、そうしたセンスを磨いてきたからに他ならない。
シャワーのあと、シーツや枕カバー、洋服に付着した血に、超ナノ洗剤を浸み込ませていたら、ノックの音がして、ジョーカーが戻ってきた。
「シャツとズボンありがとう」
「うん、しばらくして血が落ちたら、あとは、そこの洗濯乾燥機を使えばいいよ。それにしてもその顔じゃ、外の仕事はさせられないね。アナーキーは料理、作ったことある?」
「あるわけないじゃーん」って、おちゃらけて言うと、ジョーカーは笑いながら「おれも最初はそうだったよ。でも大丈夫、教えるから」と言って、ついてくるよう手招きした。
部屋を出て、階段を降り、通路を進んで、扉を開けると、アットホームな造りの部屋に出た。そしたらジョーカーが、その扉を閉めて本棚を横にスライドさせて隠した。こんなことってあるんだ! おもしろがるアナーキーに「絶対、開けっ放しにはするなよ。面倒臭くても毎回、閉じなきゃダメだからな」と念を押した。
普段は地下のキッチンは使わずに、ここの北欧風の小屋で料理をするとのことだった。メニューはカレーだ。これができたらシチューも作れるようになるという理由で。
1時間ほど掛けて出来上がったカレーは、うまかった。男同士でキッチンに立つという料理仕事は、案外、キャンプみたいで楽しかった。
食後、アナーキーが皿洗いを担当している間、ジョーカーは料理前に、ふとん乾燥機にかけておいたベッドの布団を、さらにダニ専用吸引機で吸い取ったり、ロボット掃除機に床を掃除させたりしていた。どうやらキレイ好きな性格のようだ。そんなふうに感心していると、今度は1人前のカレーとサラダをトレーに乗せて「戻るよ」と声をかけてきた。当然、アナーキーは誰の分か尋ねた。
ジョーカーは口元に人差し指を立てて、声を出さずに静かにしろと合図した。それまで散々、生活音に塗れていたというのに「今更じゃね?」と突っ込みたくなったが、ここは我慢したほうがいいと思い直し、口を噤んだ。
2人は無言で地下に戻り、アナーキーはB2階段室にあるドアの向こう側で待っているよう指示された。アナーキーは「うん、分かった」と素直に返事をして、トレーを持って上がっていくジョーカーを見送った。
ドアを開けたときの、アナーキーの喜びようといったらなかった。それはサンタさんがクリスマス・プレゼントをツリーの足元に置いてくれていたときの朝と同じぐらい純真で心ときめくものだった。
背後でドアが開く音がした。アナーキーは弾ける笑顔で戻ってきたジョーカーを見た。もし尻尾が生えていたら、さぞかし左右にブンブン振り回していたことだろう。
「顔、腫れてるのに、そんなに笑顔だと怖いよ」
若干、引き気味のジョーカーは、分かっているよと言わんばかりに「とりあえず今から大事な話をするね」と切り出した。
「ここであったことは全部口外するべからずなのは当たり前なんだけど、この件は特に、極秘情報だってことを肝に銘じていてほしいんだ」
この世界では、秘密厳守が大前提であることは、十分すぎるほど知っていると納得してもらうためにも、アナーキーは「大丈夫、さすがにそこまでバカじゃない。何を見ても、聞いても、誰にも喋らないよ。撃たしてくれるんなら」と、相手の目を見て言い切った。
ジョーカーはニンマリした。
「そうこなくっちゃ」挑むような笑みを浮かべて、ジョーカーは真相を口にした。
「実は、クリエイト・ゾーンの代表でもあったモーリッシュ・ワイス元知事を、監禁しているんだ。ここで」
アナーキーは言葉を失った。警察が大捜索を行ったにも拘わらず、今も行方不明のままだというあの事件。あれからすでに4年は経っているはずだ。
それがここにいるって? あまりにも規模がデカすぎやしないか。そこら辺の犯罪とは格が違う。アナーキーは恐怖と興味が湧き立って薄ら笑いという反応しかできなかった。
「いや、マジで」ジョーカーが察して真剣に眼で諭す。
「見つかったら、どれだけヤバいかってことは分かるよね。それと菊池が絡むから、それ以上は知らないほうが身のためだよ」
ジョーカーはそう言って、時間が来たら撃たしてやると約束してくれた。
その代わり、お楽しみタイムがやってくるまで、さっきジョーカーがしていたような段取りで、モーリッシュの部屋以外すべて掃除しなければならなかった。それとバスルームも。それがここでのアナーキーの主な仕事だった。
人手が足りないときは群青さんの弟分も泊まり掛けで手伝いに来るため、サボるなよ、ちゃんとやれよと、ジョーカーには口酸っぱく忠告された。ヤクザという人種はそこに、自分に対する礼儀を見出すらしく、掃除が行き届いていなかったら途端に機嫌が悪くなるのだそうだ。そしたら結局やり直し。忠告はありがたく受け取っておこう。
夕食は、昼と同じカレーを食べ、モーリッシュにも同じカレーをジョーカーが運んだ。違っていたのは、B2メンテナンス室で待っていてくれと言われたことだった。応接間は昨日ボコられた場所だったので、ジョーカーが気を利かせて使わなかったのだろう。
それにしてもジョーカーは、よく喋るやつだった。周りは年上の先輩ばかりで、友達と呼べる人間に出会えたのは久しぶりで、本当に楽しいと言ってくれる。アナーキーも普段なかなか聞けないような話をしてもらえて結構おもしろかった。それに、どんなに危険を孕んだ状況でもジョーカーといると何だか普通に思えてくるから不思議だ。本人も組織に入りたいと思ったことは一度もないという。ここにいるのは銃を自由に作りたかったからなんだと、はにかむ。
「そうだ、アナーキーもファイル作りなよ!」
向かい合って座っていた大きなテーブルの隅っこに寄せていたコンバーチブル型2in1PCを、タブレットモードにして電源を入れると、アナーキーの前に押しやって入力を促す。アナーキーは言われるがまま、PCの指示どおり情報を打ち込んでいった。
写真撮影の画面になった。もちろんスキップに決まっている。そしたらそれに気づいたジョーカーが素早くPCを奪い取った。内蔵カメラが否応なしにアナーキーの無様な顔をモニターに映し出す。嫌がれば嫌がるほど、ジョーカーは喜ぶ。仕方がない。どうせ撮り直せばいいんだからとここは諦めて、アナーキーは口の右半分を上に歪め、右手の中指をおっ立てて、観客の期待に応えた。フ**ク・ユー!
「サンキュー。ひと笑いできたから、お礼に画像を加工してやるよ。さすがにその面じゃ生々しくてアイコンには相応しくないからね」
撮影した写真を白黒にして、劇画タッチのイラストに変更できるアプリがあった。それだけで内出血の色味を抑えられて随分マシになったが、さらに顔の左右のバランスを読み取って、腫れを取り除いた本来の顔立ちに近づけることもできた。仕上げはタッチペンで余分なケガの痕を消し、残しておきたい切り傷とアザだけにした。
俺って、やっぱ格好良いじゃん。いや、おれのセンスでしょ。とか言いながら、新たに加わったアナーキーのアイコンを見て、各々が自画自賛した。アイコンは他にもいくつかあった。ジョーカーは案の定リボルバーで、二丁拳銃をクロスさせたものだった。
ジョーカーは、アナーキーのアイコンをタップして、作ったばかりのファイルを開き、今度は夢とか願いとか、何でもいいから思っていることを書けと言ってきた。
アナーキーは、考え事をするときの癖である右斜め下の空中に視線を留めてから、喉の調子を整え、タッチペンを毛筆バージョンに設定して「では、僭越ながら」と画面一杯に大袈裟な筆運びで思いついたことを書き殴った。
「この俺様がルールだ! BY,アナーキー」
我ながら満足のいく見事な出来栄えだった。人間なら、少なからずは持っている利己心を、恥ずかしげもなく堂々と描き切ることによって、それは、もはや芸術の域にまで昇華されるのである。ジョーカーは果たして、このような精神性を理解できているだろうか。アナーキーは顔を上げて、目の前にいる男の視線から、それを読み取ろうと試みた。
「何しょうもないこと書いてドヤ顔してんだよ。ガキか」
ジョーカーがアホ面で笑っている。どうやら、こいつにはまだ早かったようだ。
そうこうしているうちに、ようやく、お楽しみタイムがやってきた。時間は夜の10時。ドナヴァンと名付けられた銃をジョーカーが手渡す。貫録のある重みが手から肘へ肩へと伝わる。赤茶けた色の木製のグリップを握り締め、青黒く光る鋼鉄製の部位を眺める。
すると、そこには何とも言えない味わいがあった。製造されて間もないはずなのに保存状態の良い、どこか高級な、骨董品のような存在感があった。
深呼吸をして、黄金色に輝く美しいカートリッジをシリンダーの穴に1つひとつ丁寧に入れていく。2発目を空にしておけば、残りの4発を装填し終わったときに、丁度そこにハンマーを降ろせるようになる。
アナーキーはまた、深呼吸をした。興奮しすぎる神経を落ち着かせるために、意識的に深く、ゆっくり、呼吸を繰り返す。
すでにアナーキーを止めるものは何もない。射撃用の丸的だけが20メートル先に鎮座するのみ。あまりにも、すべてがうまく整い過ぎていて、逆に恐怖すら感じる。こんなに簡単に発砲できていいのだろうか。アナーキーは、未だ信じられない気持ちを打ち砕くかのように、ハンマーを起し、トリガーを引いた。
衝撃が、右手を襲った。低減された射撃音がイヤープラグを通過して耳に届く。室内に生じた白煙は、換気扇によって的の方へと吸い込まれていく。
波打つ鼓動を感じながら、ノンカラータイプのシューティング・グラスから見る視界がクリアになるのを待って、次の弾を撃った。順調に5発目を撃ち終わったとき、風上でも懐かしい花火のニオイが鼻腔を刺激した。疑いは、あっさり現実に取って代わり、何かがアナーキーの内部で目を覚ました。
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2週間後、アナーキーは休みをもらった。シヴィルが療養所に入って1年が経つ。顔を見せても良い頃合いだ。暇人ジョーカーが「車なら貸してやってもいいよ、教えてくれるんなら」と、あれこれ詮索してきたが、朝っぱらから、そんな気分になれるわけもなく、「事情が複雑だから、また今度な」と言って、さっさと駐車場を後にした。
山を下りて、最初の赤信号で停車すると、改めて自分の顔をバックミラーで確かめた。腫れが引き、薄まった青アザと、塞がった切り傷の痕が見て取れる。丁度アイコンと同じぐらい。これならシヴィルに心配かけることもないだろう。むしろ、出会った日のことを思い出して笑ってくれるはずだ。そう、あの日もアナーキーは傷だらけだった。
カジノで負けて、所持金ゼロで、約束していた友人宅に行くも、そいつは不在。何回か電話したが繋がらない。完全にシカトされている。時刻は夜の11時半頃。この日は他に泊めてくれる友達もいなかったので、これからどうしようかと、マンションの玄関近くの壁に、所在なく寄り掛かっていた。
そしたらそこへ、1匹の犬がやって来た。茶色の中型犬で、ひどく痩せているわりにはお腹だけが妙に膨らんでいる。……妊娠しているんだ。
野良犬の体は自然の摂理に従い、お腹の赤ちゃんに栄養を与え続けているというのに、それを十分に満たすエサにありつけずにいるのは明らかだった。母犬はアナーキーと目が合うと、ゆっくり尻尾を振って近づいて来た。とても優しい瞳をしている。アナーキーはしゃがみ込んで、犬の頭を撫でた。
「ごめんなー、食い物がなくて。お前、腹が減ってるんだろ」
懇願とさえいえるほどのウルウルとした目で見つめられるとアナーキーは切なくなって心から自分を恥じた。なんで、よりによってこんなときに負けるんだと、神すら呪った。せめて友達が帰ってきたら金借りて喰わしてやれるのに。
もう一度、電話をかけてみるも繋がらない。母犬は、アナーキーが何も持っていないと分かると、匂いを嗅ぎながら玄関の方に歩いて行った。何か、良い方法はないだろうか。考えあぐねていたところ、マンションの扉が開いて住人が出てきた。四十代の中年女性で手にゴミ袋を持っている。犬は、何か恵んでもらえるかもしれないという期待と、少しの戸惑いを見せつつ、その中年女性を見上げて尻尾を振った。
アナーキーは、このとき目の前で起きた光景を一生忘れることはできないだろう。
犬に気づいた中年女性は、あろうことか、犬の腹部を思いっきり蹴り上げたのである。犬は、絶叫ともいうべき悲鳴を上げて、よろめきながら逃げて行った。
アナーキーは驚きとショックを隠せなかった。どうしてそんな酷いことができるのかと問うつもりで中年女性に近づいて行った。だが、その問いが声になる前に「住みついたら困るでしょ」と、眉間にしわを寄せ、怒気を含んだ声で、言い返された。
カッとなった。男だったら確実にブッ飛ばしている。アナーキーは遣り場のない怒りをどうにかコントロールしながら「何、言ってんだよ。お腹に赤ちゃんがいるの知ってて、あんた、そこ狙って蹴ったよな。何で、そんなこと平気でできるんだよ!」
「だーかーら、ここに住みついて生まれでもしたら困るからに決まってんじゃない。それよりあんたこそ何なのよ、ここの住人じゃないでしょ、不審者じゃない。あっ、だ、誰か、来てくださーい。助けてくださーい」と大声を出し始めた。
さっきの犬の悲痛な叫び声もあったため、周辺住民の幾人かがベランダに出てきて顔を現し始めた。どうしましたかーと心配する声も上がる。アナーキーは、全く悪くなくても形勢が不利なのは判断できたので、舌打ちして、犬のあとを追うことにした。
人間の身勝手な理屈で、そこまで非情になれることが信じられなかった。アナーキーに何ができるというわけではなかったけれど、それでも弱い立場にあるものに対して平気で残酷な仕打ちができる人間には、心の底から腸が煮えくり返った。
アナーキーは、騒ぎになりそうな住宅街は避けて、歓楽街の方を探した。血が出て流産とかしてなければいいが。
……見つけた。
犬は、またもやマズイ状況に遭遇していた。まったくこの街の人間はどうなってんだ? 膨らんだお腹を抱えたまま懸命にエサを探している痩せこけた犬を見て、なぜ笑える? どうしてからかうことができる?
若いヤツが屯している所に近づきすぎてしまったらしい。今が一番粋がっている年頃であろう3人組は、犬に向かって蹴り上げるマネや威嚇してビクつく様子を楽しんでいた。そいつらの下衆な享楽に応えるように犬は尻尾を股の間に隠して怯えている。早く逃げてしまえばいいのに、さっきの経験もあって、足が竦んで動けないようだった。
不完全燃焼に陥っていたエネルギーを、アナーキーは爆発させることに決めた。3人の中で一番ふざけているヤツの顔面を、まずは1発殴って、まだ何が起きたのか把握できていないうちに、左、右と、立て続けに強烈な拳を鳩尾に叩き込んだ。これで1人はノックアウト。さすがに残りの2人は事の重大さに気づき、アナーキーが利き手の右拳でカウンターを入れようとしたら、反射的に避けて身を守り、背の低い男の方が空かさず、アナーキーの左脇腹に拳を振ってきた。だが、咄嗟に身を引いて力を半減させ、その腕を右手で掴み、左手でそいつの手首を外側に捻って、余力の生まれた右手で、喉に重い拳を喰らわせた。2人目ノックアウト。しかし、そいつに集中していたせいで3人目の男のパンチが見事に右頬に命中してしまった。機を逃すまいと相手も連打してくる。どうやって形勢を立て直すか、うまく受身を取りながら考えていると、相手は少し疲れてきたらしく、力も速さもわずかだが落ちてきた。これならタイミングを取れる。隙をついてしゃがみ込むと両手を地面につけて低い回し蹴りを相手の膝裏に入れた。ケンカの最中に仰向けに倒れるということが、どういう意味をなすのか、その瞬間、悟ったようだ。最後はアナーキーが重力を活かして野郎の胃袋に強烈な肘鉄をお見舞いしてジ・エンド。男は呻き囁くような声で「すみません」と言って、ギブアップした。
最初に殴り倒したヤツが体力的には復活していたので5千円だけ慰謝料として頂いた。辺りを見回してもすでに犬の姿はなかったけれど、その5千円ですぐに犬のエサを買いに行った。コンビニで缶詰タイプとドライタイプのドッグフードを購入し、今度は犬の喜ぶ姿を想像しながら捜索を再開した。すると突然、後ろから女性が話しかけてきた。
「犬を探しているんでしょ、あっちの公園の方に行ったよ」人差し指で方向を示す。その娘は飲み会の帰りなのか、ちょっとだけ頬っぺたが紅かった。
アナーキーはありがとうと答えて公園に向かった。公園に着くと犬は水飲み場にいた。アナーキーも喉がカラカラだった。お前と一緒だなと思うと自然に笑みが零れる。最初は人の近づく気配にビクッとなったが、それがアナーキーだと知ると犬は安心して、尻尾を軽く振って挨拶した。もう俺のこと分かるんだ、嬉しいね。お礼にほら持って来てやったぞ。アナーキーは缶詰タイプの方から蓋を開けて、水飲み場の、きれいなコンクリートの上に中身を取り出した。匂いに興奮した犬は、あっという間に平らげた。ドライタイプも買っておいて良かった。安堵して、そっちも封を開け、中身を全部出してやった。母犬は子供の分までがむしゃらに食べた。
「良かったね、助けてくれる人がいて」
また、背後から声がした。頬っぺたの紅い、さっきの女性だ。アナーキーが気づいていなかっただけで、ついて来ていたそうだ。しかも偶然、その娘の前をアナーキーが歩いていて、一部始終ケンカも見ていたという。酔いも手伝ってか、面白おかしく話している。チッ、いい見世物だ。
その娘が、私はシヴィルと名乗ったので、アナーキーも自己紹介した。シヴィルは人見知りしないらしく、隣に陣取って友達のように喋りかけてきた。
「犬のためとはいえ、よく3人相手に立ち向かって行けたよね。怖くなかったの? もしかして慣れてるとか? 私はケンカしている場面に遭遇したのも初めて。見ているだけで怖かった。アナーキーも殴られていたけど大丈夫? 鼻とか口から血が出てるよ」
言われて初めて、口の中の血の味や、ヒリヒリとした傷の痛み、顔面表皮の痺れ、骨が発する鈍痛を感じた。アナーキーは、犬が食べ終わるのを待ってから、蛇口を捻って水を飲み、顔を洗った。下に流れ落ちる水を、犬もゴクゴク飲んだ。
「このワンちゃん野良犬でしょ、これからどうするの?」と訊かれて本当に困り果てた。自分の行く所さえないのに、妊娠した犬を連れて帰れる場所なんて思いつくはずもない。「俺たちどっちも野良だから行くとこなんてないよ」と正直に答えた。それにはさすがにシヴィルも驚いたようで「アナーキーはいい大人でしょ、それなのに行くとこないなんて呆れるわ。どんな生活してんのよ」と、説教染みたことを捲し立て始めたので、鬱陶しくなって身振りで制した。
「もうすぐ1時になる。シヴィルこそ帰ったほうがいいよ。女性なんだから」
シヴィルは呆然としたまま、動かなかった。
「家に来る?」
一応、何やら考えていたらしい。アナーキーは苦笑した。
「シヴィルは自分でも何を言っているのか分かってないんだよ。好奇心も程々にしておかないと、いつか痛い目みるよ。今日、初めて知り合った男を女性が家に連れて帰るなんてクレイジー極まりない。それともそういう女?」
「ウザいわね」シヴィルも負けずに身振りで黙れと制す。
「好奇心……ね、そうかもしれない。だけどアナーキーが、そんな、ひどい人間だなんて思えない、違う? あの状況で犬を助けるような人間が悪い人だなんて。それに、一生に一度ぐらい、こういう経験してみるのもいいんじゃないかな。うん、そうよ。決めたわ。やっぱり私ん家に連れて帰る!」
気持ちが定まるとシヴィルは元気良くタクシーを停めて、アナーキーと犬を車内に押し込み、すぐさま自分も乗り込んだ。アナーキーは、とりあえず常識に従って忠告してみたものの、正直、その好奇心がありがたかった。それを素直に伝えた。シヴィルは笑顔で、素敵なウインクを返してくれた。
シヴィルの好奇心の正体が分かったのは、彼女の他界した祖父母の家に、1人と1匹が居候するようになって6日目のことだった。両親と妹はマンション住まいで、シヴィルはここで1人暮らしを楽しんでいた。仕事はホテルのフロント係で、その日は休みだった。母親と会ってくると言って出掛けて行き、帰って来たときにはドレスバッグを手に携えていた。シヴィルは居間に入ると早速、梁に掛けられたS字フックから観葉植物を外して、そこにドレスバッグを広げてハンガーで吊るした。ドレスバッグはウエディングドレスがシワにならないように、また埃カバーとしても利用できた。
「結婚するんだね。おめでとう」アナーキーは素直に祝福した。シヴィルは溜息を吐いて「本当に、おめでたいのかな」と浮かない表情を見せる。1ヶ月後に迫った結婚式に所謂マリッジブルーになっているのだろう。だけど本人は「そんなんじゃない」と言い張る。なぜならシヴィルは、お見合い相手とはいえ、そいつに全く愛情を感じていなかったからである。それならなぜ結婚するのか、アナーキーはシヴィルに訊ねた。
「その人とは普通に話をする分には気が合うほうよ。でも一生この人と暮らしていくかと思うと結婚って何だろうって。だって最初から条件を出されたのよ。ぼくに甘えずに君もパートぐらいはしてもらいたいんだ。パートだったら家事との両立ぐらいできるだろってね。それって、彼自身の生活は何も変わらないままで、私だけが正社員を辞めて経済的な自立を奪われて、仕事と家庭の両方を頑張らないといけないの。まるで損した気分だわ」
そもそも安定した生活の基盤を結婚相手に委ねるのは、シヴィルの親が一番望んでいることだった。それを男も十分わかっていて、お気楽なパートレベルの仕事ですむんだからラッキーだろと言わんばかりなのだそうだ。しかも、シヴィルを抱いたその男は、発した言葉と同じく一方的で、あまりに未発達な男性器で、女性としての喜びすら感じることができなかったという。じゃあ尚更なぜ、そんな男と結婚するのか。
シヴィルには、人生に求めるものなんて何もなかった。周りの人たちの意見がそのままいつもシヴィルの人生を決めていた。不満はなかった。物事をスムーズに活かすには実際それが最善の選択だった。アナーキーと出会うまでは。シヴィルはお酒の力も手伝って、今回だけ普段とは違う選択をしてみようと思ったのだ。アナーキーを見ていると、何だか全身の血が沸騰しているんじゃないかというぐらい身体が反応したからだ。
「今までに経験したことがない、この感覚を、手放したくなかったの」
そう言ってシヴィルは唇を重ねてきた。不器用に身を委ねてくる。アナーキーは彼女の小さな冒険を満たしてやろうと思った。だが、安定のためだけに好きでもない男と結婚しようとする女の生き方に、アナーキーはどうしても納得がいかなかった。
「そんな、つまらない人生を送るんじゃなくて、もっと自由に生きろよ」
シヴィルが気に入るよう、今時風にリフォームされた古民家の居間には、大型の暖炉が設えられている。アナーキーはそこに火を灯すと、部屋の電気を消した。陽が落ちた窓の外は暗く、小波の音が物悲しく静寂を打ち砕き続けている。
暖炉の火が勢いを増し、木の爆ぜる音が鳴り始めた。アナーキーはS字フックに掛けてあるドレスバッグからウエディングドレスを取り出すと暖炉に投げ入れた。炎が無垢なる純白のドレスを飲み込む。その意味する形象から解き放つように、アナーキーは、シヴィルの服を脱がし、自分も裸になった。昼間なら海が一望できる壁一面のガラスサッシの窓には、暖炉の炎に照らされた2人の肉体が生々しく映っている。アナーキーは、その反射したシヴィルの裸を見つめながら、密着し、匂いを吸い込み、舌を這わせた。シヴィルもすでに、官能的な昂奮に支配されている。感じるたびに、胸は淫らに上下し、息は甘美に体内を駆け巡り、妖艶に、遠慮がちに色づき、吐き出された。
シヴィルの耽溺した姿には、なぜか、アナーキーをサディスティックな気持ちにさせるものがあった。まだ、シヴィルの中には壊さなければならない何かが、見出されることを待っている何かが、あるような気がしてならなかった。それがはっきりしない苛立ちに、段々アナーキーの愛撫は荒々しくなっていった。普通に感じているだけでは物足りなくてシヴィルの滑らかな白い肩に歯を立てた。シヴィルが痛いと泣き出したら、そこを優しく舐めた。柔らかい肌を激しく吸って、噛んで、小刻みに舐めて擽り、痛みは快楽にも成り得ることを分かち合った。
緊張と弛緩、拒絶と受容、集中と忘我、性感帯に触れながら、そうした感覚を合わせて刺激した。理性は、容易に剥ぎ取られ、肉体は、その大きな振り幅に悶え、脳内からは、快楽物質が異常放出され、快感が、これまでにないほどの絶頂へと押し上げられていく。シヴィルは目を閉じ、天を仰ぎ、恍惚の表情を見せている。アナーキーは、それを幾度か繰り返し、その度に高みへと導き、その半開きの口に奉仕させた。
屈辱と服従、凌辱と欲望、窓に手をつかせて、尻を強く鷲掴みにし、肉壁を掻き分けるように突き刺した。アナーキーの暴力的な律動にシヴィルは涙を流した。アナーキーの、奥へ奥へ入って行こうとする思いの強さに、泣いているかのようでもあった。
朝日が水平線から顔を出し、室内がわずかに明るくなった。アナーキーが目を覚ますとシヴィルはいなくなっていた。居間のテーブルの上に置き手紙があった。
「あなたを愛しているわ、ありがとう」
こうして、俺たちの関係も終わった。9月の終わり頃の話だ。
療養所には、11時を少し回った頃に到着した。森の中に佇む可愛らしいペンションといった風情だ。ここでは同じような棟がいくつか点在しているとのことで、受付の女性が案内図を見せながら、シヴィルのいる療養棟までの行き方を教えてくれた。それに病院のスタッフらしく「お顔の傷、大丈夫ですか。診てもらったほうがいいんじゃないですか」と、怪我の心配もしてくれた。アナーキーは「これくらい、どうってことないですよ」と崩れた笑顔で応じて、訪問者の記入欄に名前を書いた。
敷地内のレンガ道を歩いていると、連絡がいっていたようで、前からシヴィルも歩いてやって来た。近づくにつれて、シヴィルの表情は、久しぶりに会えて嬉しそうだったり、恥ずかしそうだったり、アザを指差しながら「また?」と問いかけてきたり、豊かに変化した。アナーキーは内心ホッとして、シヴィルとの距離が縮まったときには自然にハグをしていた。誰よりも大事に、ちょっとだけ長く。そして、美しく整備された広い敷地内を散歩がてら、メールでは伝えることができなかった本心を、シヴィルは口にした。
「あのあと、何をするとか決めていたわけじゃなかったから、心にぽっかり、穴が空いたような状態になったの。今更、戻れないし、かといって前にも進めなくて。いわば人生の空白の時ってやつね。それで周囲への言い訳も含めて療養所に入ることにしたの。結果、正解だったわ。ここ、ガーデニングが素敵でしょ。私も手伝ってるのよ。えへへ。
それでね、時間だけはたっぷりあるから、いろんなことを考えるの。私はあなたのことばかり考えてた。単純に好きという気持ちだけじゃなくて、何ていうか、どうしてこんなにも惹かれるのか、その出会った意味みたいなものを。
私はアナーキーの力を借りて、本当は求めてもいない慣習に従ったレールから抜け出すことができたんだと思う。自分1人じゃ、とても決断なんてできなかった。あなたがいてくれたからこそ違う選択ができた。でも、あの時点ではそれが精一杯。結婚をぶち壊してもらったことで、初めて自分に向き合う気持ちになれたのよ。
もちろん、すぐに答えが見つかるなんて思っていない。心の声を聴くなんて遣り方さえ分からないんだから。
それでも、先生に導いてもらいながら、これから何をしていけばいいのか、人生をどう生きたいと思っているのか、それを知るためにも、今は、私という人間が何を好きで何を嫌だと感じるのか、そこから始めてるの。ある種のリハビリみたいなものね。
アナーキーが、もっと自由に生きろよって言ってくれたあの言葉を何度も思い出すわ。間違いなく私にはあなたが必要だった。ただ、しがみつきたくはなかった。ここから先は私の問題。それにアナーキーは自由でなきゃいけない、そうでしょ? 私はアナーキーのことが今でも大好き。だけど、あなたとずっと一緒にいたいわけじゃない。似合わない、そんなの。それに、私だけのものにはならないって分かったの。アナーキーって人は」
アナーキーは何て返事をしたらいいのか分からなかった。だが、シヴィルがようやく、誰かが考え出した他人の人生を生きるのではなくて、自分自身の頭と心で考えてみるようになったということは理解できた。そう、それは、社会の常識や、履歴書なんかでは判断できない、もっと本質的で切実な、自分が自分であるための必要な通過点、自我の芽生えといえるようなものだった。
シヴィルが入居している療養棟の前に到着した。中に入ると、木材をふんだんに使った暖かな雰囲気のラウンジに、一際目を引く2人がソファに座っていた。
レイヤーの入った赤い髪の若い女性は、ワインをボトルのまま飲みながら煙草を吸っている。こぢんまりとした隣のパジャマ姿の年老いた女性は、白髪で瞳が薄い紫色だった。いつもなら、じっと人を見るのは失礼だという思いから、さり気なく目を逸らすのだが、このときは、むしろ2人の方がアナーキーをガン見していたので視線を外すことができなかった。老女に至っては、目を見開いて驚愕の表情さえ浮かべている。
その刹那、アナーキーを包み込む世界が現実から遠のいた。
体感する時間がスローモーションになり、自分だけが違う空気の層を纏って、みんなと一緒に、そこにいた。シヴィルが2人に話しかける声が聞こえてくる。声や仕草にも全く変化は見られない。
なのに、自分の動作だけが、自分の身体じゃないみたいに、やけに遅く感じられる。
それはあたかも、アナーキーだけが異なる次元に入り込み、感覚が浮遊し、少し離れた所から現実を眺めている、あるいは体験しているようなものだった。
そこへ、老女が傍目からも分かるほどに動揺し、震え、嘆き始めた。それに呼応するかのように現実も俄かに歪み始めた。隣に座っている赤い髪の若い女性が、不安そうに眉をしかめて固まっている。シヴィルが慌てて担当の看護師の名前を呼ぶ。老女は呻きながらパジャマを握り締めたり、頭を掻き毟ったりしていたが、とうとう立ち上がって、両手で両頬を覆い、叫び出した。
叫びは、波紋となって大気中に伝播し、衝撃波がアナーキーの全身を貫いた。歪みも、トランス映像のごとく不揃いに揺らめき、存在するすべてのものが安定感を失った。
奇妙な体験に理解が追いつかないでいると、ロビーに隣接したナースステーションから女性の看護師が駆けつけ、シヴィルと赤い髪の女性が協力して、老女が動かないよう手で身体を押さえつけた。看護師が慣れた手付きで注射を打つ。鎮静剤が即効で老女の興奮を奪い去る。老女は気を失い、アナーキーは眩暈に襲われて、一旦、眼の辺りに手を当てて異常な視覚刺激を遮断しないと立っていられないほどだった。
時間を置いて、症状が落ち着いたところで目を開けると、世界はクリアになっていた。 アナーキーを取り巻いていた空気の層は、ふと消えてなくなり、時間は速さを取り戻し、歪みは痕跡すら残っていなかった。今は、はっきりと現実だけが認識される。
「あの人の名前はハート・アンヴェール。男性から酷い目に遭わされたらしくて。それがあの赤い髪をした娘、ニヒルのお父様だったらしいの。私の勘だけど……、たぶん彼女もあなたのことを必要としているわ」そう言ってシヴィルはアナーキーの肩を叩いた。
考え事をしていたアナーキーは、慌てて意識をシヴィルに向けて「あ、うん、えっと、俺は嫌われ者で、人から必要とされたことなんてないよ」と返事をした。
「そりゃあそうよ、アナーキーは平和とか安定をもたらすタイプじゃないもの。すっごい破壊的。普通の人からすると迷惑以外の何者でもないわ。だって、今だから話せるけど、私たちが結ばれた日の、次の日の朝、洗面台の鏡に映った自分の身体に、私が、どれだけ驚いたと思う? もう身体中、紫のアザだらけだったんだからね。息が止まるぐらいよ!それ見て、やっぱり一緒にいられないって思ったわ。
それでも、物事にはきっかけが必要なときがあって、自分でそれができないとき、他動的に、そのきっかけを作ってもらうしかない人間だっているの。それがあなたの役割よ」
「意味わかんねぇ」
「あなたを理解してくれる人は少ないでしょうね。だけど、私は確信している。あなたは必要とされているから、そこにいるの」
看護師と一緒にハートを車椅子に乗せて部屋に連れて行ったニヒルがラウンジに戻ってきた。シヴィルがニヒルと一緒に街に帰ったらと促す。
ニヒルには他人と感情をかよわせることができない高い壁があった。ニヒルには、その壁を壊してくれる存在が必要だった。それを可能にしてくれるのはアナーキーしかいないと、シヴィルは見抜いていたのだ。
アナーキーは、ニヒルと一緒に外に出た。振り返るとシヴィルが窓から見送っている。「じゃあ」と手を振って歩き出したが、背中に感じる視線を意識しないではいられない。アナーキーにはそれが、何となく無理しているようにも感じられたからだ。同時にそれは彼女の心のほんの一部分にすぎないことも分かっていた。今はその一部分が大きくなってこの瞬間だけ、それがすべてになっているだけ。自分がいなくなればまた、普段どおりの生活に戻って自分の存在は小さくなるだけのこと。
たまにアナーキーを思い出しては、懐かしさの余韻に浸り、過去の人として再び記憶の奥に仕舞い込まれるのだ。車窓を流れる景色と同じように。
アナーキーは、過ぎ去るだけの自分に虚しさというのか、今はもう必要とされていない自身の存在に、少し気持ちが滅入った。
助手席にニヒルを乗せてエンジンをかける。これでシヴィルとも、美しい豊かな森ともお別れだ。車が動き出すと、隣に座っているニヒルは知ってか知らずか、窓の外を眺めるばかりで何も話しかけてはこなかった。もしかしたら彼女は逆に、すべての物事が、早く過ぎ去っていくことを願っているのかもしれなかった。
3
療養所から帰る途中、それは信号機から始まった。電気が消えていた。しばらく行った先の信号も消えていた。不審に思ったアナーキーは、ニュース動画のアプリを起動して、スマホを車載ホルダーに固定した。慌ただしい様子が伝わってくる。
途中、合間を縫って流されたダイジェスト版によると、クリエイト・ゾーンは、本日の正午を以って、特別自治区としての制度が施行されたという。後任の知事やエリア代表が県庁舎タワーのバルコニーにて、これは、モーリッシュ・ワイス念願の政策でもあったと熱く語ってから、集まった人々と『君が代』を斉唱して、カウントダウン・ゼロと共に、街中の鐘が次なるステージの開幕を知らせた。
そういえば、モーリッシュがまだ監禁されていない頃に、自治権の大幅な容認を政府に申請していた話を、確かニュースでチラッと見たような気がする。それが、10月1日の今日からだったとは全く知らなかったが。
続いて、自治権発動に関する新ルールを、情報番組の司会に抜擢されたタレントの男性キャスターが元気溌剌と説明し始めた。
「20歳以上のエリア住民は全員インターネットに接続できる端末を持ち、インストールされたクリエイト・デモクラシーというアプリを開いて、政策、条例、税金の使い道を、投票によって決めることができるようになりました。判断が難しい方は、専門家の意見や選択シミュレーションを参考に、意見を反映させると良いと思います。
そして今回の自治権に関して、ここが最も重要なポイントなんですが、現在すでにクリエイト・ゾーンは日本の治外法権下にあり、日本国憲法および法律の、どの部分を共有し合うかが、1ヶ月前から始まったエリア住民の直接投票によって、採決され、施行されています。最初の1年間は1ヶ月ごとに、2年目以降は1年ごとに、投票による更新が可能です。つまり、ここでは有権者だったら誰もが自由に、街造りのためのルール設定に直接参加できるようになったのです。文化的・社会的に成熟しているようにも見える私たちが果たして、どれだけ自らの意思で優れた選択ができるのか、あえて劣化も含めたうえで、それが住民の求める本当の幸せの形であるならと、より個人の判断にウエイトが掛かった社会環境に、シフトしようとしているのです。
紆余曲折するとは思いますが、私たちはこの日本で特別な位置づけにあるという自覚を持って、これからは、政治をもっと身近に、積極的に、実生活に取り入れていかなくてはなりません。クリエイト・ゾーンの特色を進化させることができる、またとない機会でもありますので、みなさん張り切ってトライしましょう」
差し当たり必要最低限は、すでにモーリッシュが何項目か考案・交渉してくれていた。例えば、日本の自衛隊による防衛は、エリア歳入のうち3パーセントを国税として納めることで、今までと同じ警備体制下に置かれるという箇所に最初から緑色の○が点いている。エリア住民の有権者は、その選択が不服なら、反対に赤丸を点灯させることもできるし、再考の余地ありなら、どちらも点灯せずにグレーにしておくこともできる。だが、それに伴う多額の防衛費シミュレーションを知ったら、モーリッシュと中央政府がまとめた税率合意案の結果には、きっと満足するはずだと出演者みんなが感謝を述べ合っている。
アナーキーは車を路肩に停めた。海沿いの田舎道で、信号の影響が出るほど車は通っていない。アナーキーはニュース動画を閉じて、自分の携帯画面を確かめた。いつの間にか本当にクリエイト・デモクラシーというアプリが入っている。すぐさま開いて中身も確認してみる。何度かタップしてスクロールしたのちに、ニュースと同じ選択画面を表示することができた。
初期設定において、元々、賛成に○が点いているとはいえ、防衛費3パーセントの賛成率は実に98パーセントに上っており、ステータスバーを見れば、それが一目で分かるようになっている。その他、主要言語には日本語、主要通貨には円など、これまで当たり前だったことが、軒並み選択肢に挙げられている。
アナーキーはさすがに、そこから問われるとは思ってもみなかった。けれど、訊かれて初めて日本人としてのアイデンティティというのか、ナショナリズム的なものが、俄かに意識され始めた。
自治権発動に伴い、個人に選択権が与えられた途端、自分にも帰属意識があったことに気づくなんて全く不思議なものである。里親をたらい回しにされて、そんなもん、とうの昔に無くなったと思っていたのに。アナーキーは神妙な気持ちになった。ただ、何をどう選択すればいいのか、まだ、はっきりとはしていなかったので、無理せず、それは追々、考えることにして、とりあえずは今日という1日を有意義に過ごそうと思った。
距離が近いシヴィルの家に立ち寄って自分の荷物を取り、火葬場に戻って車の貸し出し延長をジョーカーに直接お願いする。それからラサ島の南側に住んでいるニヒルを無事に送り届けたあとで、久しぶりに思いっきり歓楽街カオスで遊びまくる!
ところが不幸なことに、予定はあえなくポシャった。火葬場の駐車場に、菊池がいた。地下から持ち出したキャリーバッグを群青さんとジョーカーと菊池の手下2人が白バンに運んでいる。……チッ、早速ヤバいことになっていやがる。
アナーキーは気持ちを切り替えて、車から降り、迎合した態度で「こんにちは、お疲れ様です。俺も何か手伝いますよ」と頭を下げた。ぶっ殺したいほどムカつくヤローでも、これぐらいの演技はできた。
「お前も穴倉から持って来い。あと3ケースだ」
群青さんとジョーカーに、アナーキーが加わった。地下に入って開口一番、どうなっているのか尋ねると、群青さんが「治外法権にカンパーイってやつだよ。事務所で刺青ランウェイもやるらしい」と笑って話し、ジョーカーには「銃をみんなに記念に配るんだって。そこで使い方レクチャーもするから、弾も全部の銃に入れとけってさ。なんでもっと早く帰ってこなかったんだよ」と愚痴られた。
少し手伝って、うまく逃げようと決めたアナーキーは、駐車場に引き返して、森を出る寸前に、後悔するはめとなった。女の子を1人、残していくんじゃなかったと。
「おお、いい脚してんじゃねぇか。オレにもヤラせろよ」
菊池が助手席のドアを開けてニヒルに絡んでいる。さらに、あろうことか、菊池は車の中に屈み込んでニヒルの脚を触っているようだった。ここからでも驚きと恐怖でニヒルの顔が引き攣っているのが分かる。悲鳴になりきれない声が空気の塊となって喉を圧迫しているのか、息が詰まるような声を発して身を捩り、懸命に、菊池の顔や腕を叩いている。そんなニヒルのか弱い抵抗を菊池は下衆な笑いで受け流し、弄んでいる。
群青さんとジョーカーの後ろにいたアナーキーは、駐車場に入る前に、生垣の植木が目隠しになっているうちに、素早くキャリーバッグから銃を1挺かっぱらった。群青さんが溜め息をついて「菊池、止めとけ」と言ってくれている。菊地は叱られて一瞬ムッとした表情を見せたものの、アナーキーの顔を見るとまた「大人のオモチャを奪うなよぉ」と、気色悪いニヤケ面に戻った。下衆行為もわざとエスカレートさせている。
周囲の注目を浴びるなか、アナーキーは冷静にキャリーバッグを白バンの後部に載せているジョーカーに手渡した。我慢は強固な意志となって寡黙に計算と行動を促す。ジョーカーの車は、駐車場の右端に停めている白バンから2つ空けた対角線上にある。生垣側にフロントを向けて停車していたため、森からも助手席が丸見えだった。アナーキーのいる白バンのバックドアからは、山頂側の空きスペースに手下2人がいて、山裾側にニヒルと菊池、群青さんがいた。恐らく、アナーキーがジョーカーの車に近づこうとしただけで、手下2人は警戒態勢に入るだろう。なので、白バンの運転席に乗る振りをして死角を作り出し、カーゴパンツに突っ込んでいる銃を背後から取り出したら透かさず、白バンの前を回って、煙草を吸っている手下2人を連続で撃ち抜き、菊池がニヒルを盾にしようとするか、鼻削ぎナイフを出そうとしている隙に、さっさと弾丸を撃ち込まなくてはならない。
アナーキーは意識を研ぎ澄まし、スイッチをオンにした。直後、想像と現実は、見事に重なり合った。瞬時に軌道を描けた時点で成功は約束されたも同然だった。
「くそったれがぁ!」鼻削ぎナイフがコンクリートの上に落ちた。
それでも土手っ腹じゃ、瞬殺というわけにはいかず、倒れても、しぶとく生きて反撃の機会を窺っている菊池。アナーキーを睨みつけ「どうなるか分かってんのか」と威嚇してきた。あまりに常套な流れだ。言われなくても分かっている。
その横で、群青さんが頭を抱えていた。ジョーカーも傍らで成り行きを見守っている。取り返しがつかないこの状況に、手も足も出せないといった様子だ。
アナーキーは、菊池の目を見据えて首を絞めた。相手の苦悶に負けない憎しみを視線に込めた。最期の、ほんの一瞬、菊池の目にも慈悲を求めて命乞いする気持ちが宿ったのを見逃さなかった。勝負あり。菊地から力がなくなった。アナーキーも力を緩め、頸動脈がピクリともしなくなったところで、手を放した。弾丸は残り2発、重い腰を上げて、手下2人にも止めを刺した。
アナーキーはニヒルを気遣った。包み込むような気持ちで大丈夫かと声をかけ、乱れてしまった髪を不器用に整えてあげた。ニヒルは身を固くしたまま何度か小さく頷いた。
「何、やってんだよ。アナーキー」ジョーカーが震えた声で咎める。
「そこまでやったら、金で済まされる話じゃないってことは分かってるよな」群青さんが厳格な態度で事の重大さを伝える。
「それとも、お前は、俺にも刃向う気か?」
「いいえ、それは絶対にないです」
「じゃあ、責任とれ。五体満足で生きていたいなら、覚悟を決めてやるしかない。今なら奇襲かければ成功する見込みが高い。今すぐ事務所に行って、全員、消す」
「そんな、群青さんが責任とることないっすよ。こいつ差し出せばいいじゃないですか」
「合理的判断だ。あんなヤローでも菊池は俺と同じ舎弟だ。落とし前をつけている立場のこいつが、組織の人間3人も殺したんだぞ。俺もエンコ詰めは避けられない」
「群青さんは会長に気に入られているから大丈夫ですよ。上納金の額もデカいし」
「ジョーカー、お前もただじゃ済まないんだぞ。組織ってやつは規律を厳格に守らないと求心力が下がるんだ。組織の弱体化を招くようなことを、あの会長がするわけないだろ。この世界、舐められたら終わりなんだよ。でも、まあ、今のヤクザ社会の在りかた自体、そろそろ潮時って俺は思っているけどな」
「ほ、ほんとに、3人で殺るんですか。108人相手に」
「いや、菊池ら3人と、俺と、お前の兄貴分2人も外したら、102人だ」
ジョーカーは大きく息を呑んだ。
すると、ニヒルが車から降りてきて、アナーキーの銃を取り上げ「使いかた教えて」と初めて言葉を口にした。ニヒルは強い眼差しでアナーキーを見つめている。アナーキーはその意志をしっかりと受け止め、2人分の思いを乗せて、ジョーカーを見た。
「こっち見てんじゃねぇよ。ダチの領分、越えすぎなんだよ、まったく。
それに殺るとしてもそれはお前のためじゃなくて、群青さんについて行きたいからそうするんだ。分かったな!」
決まった。
麓のゲートはチェーンで封鎖しているが、そこは念のため、人目に付かないよう死体を森の中に隠してオリーブドラブ色のテントシートで覆った。時間がないから後で焼くしかない。予備弾薬やサバイバルナイフ、シューティング・グラスにイヤープラグ、マスクといった装備はジョーカーが6人分用意し、駐車場の血はガーデニング用ホースでニヒルがきれいに洗い流した。なかなか良い役割分担だ。
4人は白バンに乗り込み、アナーキーがニヒルに銃のレクチャーを行って、群青さんが奇襲作戦を説明して士気を高めた。
「ここまでくると、もはや善悪じゃない。殺られる前に殺るしかない。今は生き残ることだけに集中しろ。組員のほとんどが3階の大広間に集まって、酒飲んで浮かれているから一網打尽にしやすいはずだ。酔っ払って反応が鈍いうちに、一気に片付けるぞ」
信号は警察の交通管理センターによって管理されていた。クリエイト・デモクラシーを確認すると、反対派が53パーセントで僅かにリードしている。なお、アプリには、意見交換ができる掲示板も用意されていて、反対派の理由には、交通違反を取り締まるのは、事故防止というよりも、反則金を稼いで自分たちの既得権益を守るのが目的のくせに、といった意見が大半を占めている。警察の不純な動機は見抜かれており、反則切符を切られた運転手たちからしてみれば、納得できない取り締まりが多々あるというわけだ。
良識あるラサ島の住民の間では「交差点10台、渡ったら譲ろうぜ」とか「ハイビーム使って知らせよう」とか「パッシングね、パッシング」とか言って、自然発生的に秩序を取り戻そうとする動きがあった。それを実際に目の当たりにするのは面白かったけれど、毎回それじゃあ誰だって七面倒臭いのは分かりきったことなので、結局は、規則や体制の見直しに収束していき、信号それ自体は、早くも1ヶ月後には復帰しているに違いない。
アナーキーは、こうした状況を地味に楽しんでいた。そしたらもっと突拍子もない話が飛び込んできた。警察がエリア住民の賛成票を獲得することができずに、機関閉鎖に追い込まれているというのだ。急いで警察を検索する。存続の反対を示す赤いバーが58パーセントで、緑とグレーのバーを退けている。ついに安全神話の崩壊か!
しかし依然として、殺人や暴力に対する罰則は継続中で、司法機関の閉鎖が解除された暁には、通常どおり刑が科せられるとしたら、糠喜びはできない。
時折、助手席から群青さんの声が聞こえてきた。兄貴たちと連絡を取り合って、恙なく遂行できるよう準備してくれているのだ。否が応でも緊張が高まる。どうせ逃げることができないのなら早く片付けてしまいたい。アナーキーにとっては、じっとしていることのほうが辛かった。我慢の挙げ句、渋滞を抜けて、事務所に到着したのは、夜の帳が下りた宴もたけなわの頃だった。
白バンを駐車場に停めて、キャリーバッグを持って玄関に行くと、丁度ドアが開いた。到着する直前に入れた群青さんの連絡を合図に、ロビー奥のセキュリティコーナーにいる監視役の男を、下の兄貴がネクタイで首を絞めて殺害し、開けてくれたのだ。
監視カメラは外部にしか設置されていないので、他の者が内部の出来事を知る手立ては何もない。それに、映像はクラウド保存しておらず、ここにあるPCを経由して、外付けハードディスクに録画しているだけだから、帰りに、それらを持ち出して処分すれば十分だという。投票で法がどうなろうと、こればかりは知られないに越したことはない。
1階の事務所で待機していた下っ端数人は、上の兄貴がうまく取り計らって「刺青ランウェイ見せてやってもいいですか」と会長の許しを得て、ただいま拝観の栄に浴している最中なのだそうだ。これで一箇所に集まった。
上の兄貴のスマホから聞こえてくる状況によれば、刺青ランウェイも佳境に入っているらしく、興奮が伝わってくる。それもそのはず、六欲天一家という名前の由来のとおり、仏教をモチーフに、天界の神々が独特の色合いを持って選ばれし者たちの背中に鋭く粋に風流に彫り刻まれているため、彼らのオーラと相俟った仏教絵画が全揃いすると、それはもう圧巻の一言で、噂は世界にまで広がっていた。写真集も出版されているほどだ。
ランウェイを、浴衣を肩脱ぎして歩く極道の、一挙一動に心を奪われながら、迫力ある武勇伝に感心しつつ、ときにはバカな話に爆笑して、これを酒の肴とする。
まさに、許された者しか歩くことのできない六欲天一家ならではの文化。それがために組員たちは先の花舞台に向けて、チャンスがあったら我こそがと、神を背に受け継ぐのはこの俺だと、アクティヴな極道精神が育まれるのである。
上座に、六欲天の神々が集結した。和太鼓がクレッシェンドしていき、最高潮に達したとき、キレのある大きな音がドンッ、と一度だけ鳴って照明が消えた。真っ暗になった。ドンッ、暗闇の中もう一つ叩かれた。カッ! 太鼓の縁が打たれると同時に、勢揃いした背中の刺青にスポットライトが当てられた。桜吹雪も舞っている。
「おおー!」観衆が驚嘆の声を上げた。それも音楽の一部だった。その驚きの歓声と入れ替わるように、和太鼓と篠笛が軽やかに祭囃子を再び奏で始める。拍手喝采。
大広間の左右の障子が開け放たれた。
射撃スキルの高い群青さんとジョーカーが上座側を陣取って、大広間を囲むようにして作られている廊下から舞台めがけて発砲した。上の兄貴とアナーキーは中座に位置して、男どもが廊下に逃げ出したり、反撃したりしてこないよう、上座2人の援護を含め、廊下側にいる人間から二丁拳銃をぶっ放した。下座では、ニヒルが1人ずつ慎重に弾丸を撃ち込み、下の兄貴が向かい側から二丁拳銃でニヒルの間合いを補った。
撃ち始めて、障子の影に置いているキャリーバッグに手を伸ばして次の銃を取るまで、それぞれ12秒~15秒ぐらいか。その間、相手の油断が功を奏して、約50人は容易に致命傷を負わせることができた。
宴は怒号と断末魔の叫びに塗り替えられ、逃げ出す者は矢継ぎ早に凶弾に倒れた。
ランウェイを仕切るように、赤絨毯の両サイドにだけ置いていた長テーブルを盾にして突進してくる連中には、慌てずに避けて、斜め後ろから無防備な部分を容赦なく撃った。敵方に少しでも動きがあれば、脳内に生体反応レーダーが組み込まれているかのごとく、瞬時に捕捉して撃った。
上の兄貴が電気を点けた。白い煙が立ち込めるなか、まだ20人はいた。いくら世間に知られた喧嘩の達人で、武闘派集団であっても、酩酊した身体では奇襲組に勝てるはずもなかった。投げつけてくる脚付きの膳や徳利お猪口には少々手こずったが、冷静に相手を観察しては、当たる部位に当たるタイミングで確実に撃ち、ジョーカーとニヒルが部屋を端から見て回っては、負傷している人間の息の根を確実に止めていった。
奏者と台所にいる妻たちには、下手に証言や禍根を残さないためにも、黄泉の国へと旅立ってもらった。それは、最上階にいる会長の奥さんと子供たちにも言えることで、その重責を群青さんが引き受け、永遠の眠りに就いてもらった。
ニヒルの驚く声がした。死に損ないが右手を伸ばして、後ろからニヒルの足首を掴んでいる。近くにいた下の兄貴が咄嗟に、そいつの髪を掴んで首を露わにし、突き刺すようにナイフを横に走らせ、引き戻した。パックリ割れた首の切断面から勢いよく血飛沫が噴き出す。全身、血まみれになったニヒルは、ここに来て、とうとう我慢しきれずに吐いた。これにはさすがに耐えられなかったみたいだ。
ニヒルのマンションに到着して、彼女がシャワーを浴びたあと、ようやくアナーキーも血と汗と臭いを洗い流すことができた。汚れた服は、慣れた手つきでシミを落とし、洗濯乾燥機にかけた。朝までは腰にバスタオルを巻いて過ごすしかない。
リビングのソファの上では、ニヒルがまた、胡坐をかいて赤ワインをボトルごと飲んでいる。アナーキーは、その、あまりにも彼女らしい姿に、どこか少しだけホッとした。
今日ばかりは見習うことにしよう。
隣にドカッと座ってボトルを奪うと、残っている赤ワインを一気に飲み干した。あとはベッドに入って眠るだけ。アナーキーは崩れ落ちるように寝そべり、羽毛布団を抱き枕のように挟み込んで、目を閉じた。
殺したシーンが蘇ってくる。
強烈な体験に網膜が脈打ち、瞼が痙攣して、どうにも眠れそうにない。とっくに元には戻れないところまで来てしまったというのに。アナーキーは何度も重い溜め息を漏らし、落ち着かない寝返りを頻繁に繰り返した。
ニヒルが心配して声を掛ける。「大丈夫、一緒だから」と優しく言って、アナーキーの背中に寄り添うように横たわり、左腕を回して、そっと抱き締める。捲き込んでしまったのは俺なのに、責めることなく、同じ場所に立とうとしてくれている。
アナーキーは彼女の手に、自分の左手を上から沿わせて、軽く胸に押し当てた。彼女のその手や腕はとても華奢だったけれど、とても温かだった。
しばらく、そうしていた。アナーキーの身体から緊張が解けていくにつれて、気持ちも穏やかになっていった。ニヒルも安心したのか、半分、眠たそうな声で話し始めた。
「高校のときね、お店で懐かしい水鉄砲を見つけたから買って、学校に持って行ったの。それで友達とか先生の顔に水かけて遊んでたら、川上っていうクソ先生がマジで怒って、私を無理やりトイレに連れて行って顔を何回も叩いて頭を鷲掴みにして、そこのトイレの床に押しつけたの。本当にびっくりして、怖くて頭の中が真っ白になった。男の人に力で勝てるはずもないじゃない。全く抵抗することもできなかった。たかが悪戯で、そこまで仕返しされるとはね。
そのとき味わった屈辱感は今でも忘れられないし、未だに憎しみで一杯になる。だからもし、あのときに戻れるとしたら、今なら本物の銃で遣り返せるのになってね」
「そいつは、遣り返さないと。他の先生に見られたらヤバイって分かってるからトイレに連れ込んだんだよ。女の子相手にマジ最低のヤローだな」
「でしょ? でも、いっつも妄想して終わり。ふとした拍子に思い出して、同じ苦しみを再現してしまうから仕方なく、自分を慰める妄想をして記憶を塗り替えているの。毎回、一時しのぎであってもね」
「なんで、お前が泣き寝入りしなきゃいけねぇんだよ」
「うん、私だって、あいつを殴って土下座させて、謝罪させることができたら、どんなにスッキリするだろうって思う。だけど、やっぱり私には復讐なんて無理。だって、たとえ有利な立場になって殴り返せたとしても、あの男の顔に当たったときの、手の感触とか、逆に屈辱を負わせたときの、恨みがましい顔つきとかを思い浮かべただけで、気分が悪くなってくるの。同じにはなりたくないってね。今日は奇跡的に無我夢中で、首切りまでは持ち堪えられたけど」
「じゃあ、どうして奇襲に参加したんだよ」
「理由は……今日ね、初めて本物の銃を見て、これならすぐに死ねるかもって思ってさ。どうせ生きてても、嫌なことが多すぎるし」
「そんなこと言うなよ。俺だって生まれて此の方いいことなんて1つもねぇよ。ニヒルがそんなふうに考えてるとか、なんか辛いよ。俺たち、まだ若いのに、これからだろ?
それに、理由がどうであれ、ニヒルは俺を助けてくれた。今も正直、お前がいてくれるお陰で救われているんだ。
ニヒルが少しでも楽になれるなら、俺どんなことでもするから、これからは俺に何でも言ってほしい。お前にできないことは全部、俺がやってやる」
「そっか、それじゃあ、アナーキーは私の、ダークヒーローだね」
そう言い終わるとニヒルは安らかな寝息を立て始めた。アナーキーは寝返りを打って、背中にくっついていた彼女を抱き締めた。
人としての境界線を越えてしまって、罪の意識に押しつぶされそうになっていたアナーキーは、ニヒルに癒され、ニヒルの話に耳を傾けているうちに、彼女にも手を差し伸べてくれる誰かが必要であることに気づいた。そして、その誰かになれるなら、こんな俺でもまだ人の役に立てるかもしれないという希望が湧いてきて、それが犯罪の重さを凌駕し、前向きに物事を考えられるようにさえなった。ニヒルから生きる力を奪うもの、俺という存在、2人が出会った意味。今やアナーキーには、それがはっきりと見えていた。
夜が明けて、いつもと同じように朝がやってくると、アナーキーは寝起き早々、太陽の光に、自然と後ろめたい気持ちが燻り始めた。それは汚染された泥沼の底で、絶えず発酵して沸き上がってくる泡のように、アナーキーを咎め続ける。
この息苦しさから逃れるには行動しかない。そう思い、すぐに身なりを整え、駐車場に行き、アウトロー・セダンの座席に付着した血痕を拭き取り、コンビニで食料を調達してニヒルを起こし、当時の学校を聞き出した。クソ野郎を検索しながら、ボーっとしている低血圧の彼女にも声をかけ、準備を促す。
ターゲットは簡単に見つかった。同じ高校のままだ。ウェブサイトに写真と名前付きのブログがある。面の皮が厚くて目の細い、いかにも上から目線の、傲慢そうな男だった。陰険で無情で邪な性格が内面から滲み出ている。アナーキーは一見して、こいつの教職者然とした偽物の仮面を剥がしたくて堪らなくなった。たぶん生徒が好きで選んだ職業ではなく、ただの安定志向だろう。だから日本には下らないセンコーが多いんだ。学校という小さな箱庭でのみ人を従えることができる虚像の権力者。ブログの文面も嘘臭くて読んでいられない。
一応、校門の前で毎朝やっている挨拶の担当者が載っているかどうかも検索してみる。すると、いくつか学校行事の写真を閲覧していくうちに、頑張っている生徒たちの姿や、等しく笑顔を見せている光景が、どうしてもアナーキーには、体制に飼い馴らされた操り人形にしか見えず、驚いた。
それで、ふと自分の成長に気づく。渦中にいては理解できなかったことが、人生経験を積み重ねたことによって、いつの間にか客観的に物事を見る目が養われていたのである。それはまさに自由と呼べるものだった。こうした集団の中では、和と称した従属に重きが置かれ、規格外は不良品扱いされ、言動にも制限がかかる。強制的矯正。教育的洗脳。
さらに言うなら、学校が作り上げたサイトはデジタル空間であっても相変わらず、人を透明な枠の中に押し込める、こうあるべきという思想に満ちみちていた。それがどういう類いのものなのか、アナーキーは身に染みて分かっていたので、ちょっと接しただけで、囲われていた頃と同じように窮屈になってくる。
もういい、探すのは止めた。一か八かだ。
朝飯を食って、ベランダで一服。気分を変えるには丁度よかった。それから30分後、ようやくリビングに現れた彼女は、襟が立った長袖の黒いシャツに、細身の黒いパンツが体のラインを際立たせ、赤い髪がアクセントになって見惚れるほど美しかった。
「格好良いよ、すごく似合ってる」
褒められ慣れていないのか、ニヒルはドギマギしていた。その反応も可愛かった。
朝は食べないという彼女に「1つだけでも食べな」と言って、梅干し入りのおにぎりを勧める。手にしようとした赤ワインのボトルは取り上げ、ペットボトルの緑茶を手渡す。「マジで?」と言いたげな上目遣いでアナーキーを見て、ためらいがちに視線を逸らし、首を傾げ、今度は一転してアナーキーを見つめ、「分かった」と受け入れた。
アナーキーから思わず笑みが零れる。猟奇的で過激な1日になることを想定して事前に体力をつけさせておきたかっただけなのだが、何だろう、この幸福感は。
2人はまるで、初デートをしているみたいに、求め合う心が蒸気していた。
空が高い、秋晴れの清々しい外気の中を、アナーキーたちは1つずつキャリーバッグを引いて、死んだ組員の所有物である車に、今日も勝手に乗り込む。
眩しい太陽が苦手なニヒルはサングラス姿で辺りを一瞥し、颯爽と扉を開け、助手席に座った。その出で立ちは一端の殺し屋だった。
それもまた微笑ましいと思ったアナーキーは、自分もカーゴパンツにTシャツの上から長袖シャツを重ねたカジュアルな服装ではなくて、黒のタイトなスーツで一緒にバッチリ決めたくなった。アウトロー・セダン、Aクラス、エンジンをかけて出発。
高校には25分ぐらいで着いた。左ハンドルの運転席が正門側にくるように方角を調節して通りに入る。早い時間帯で運良く登校者はいない。通行車両も疎らだ。ニヒルが身を乗り出して門番を確かめる。
「右側にいるヤツだよな?」
「うん、あいつ! 本当に、まだ居るんだ」
ニヒルが嫌そうに顔を背けた。アナーキーは敷地の角を左に曲がり、10メートルほど進んだ辺りで車を停めた。降りて、後部座席に置いてあるキャリーバッグから銃を取る。ニヒルも一拍おいて降りてくると、同じく銃を手にしていた。アナーキーに高校の名前を聞き出された時点で覚悟していたのだろう。彼女に迷いはなかった。
銃を後ろ手に隠してズンズンと近づいて行く、その場違いな2人組に、正門前に立っているセンコー共も気づきはしたが、身構えるまでには至らなかった。
アナーキーが川上の胸部に1発、ニヒルが腹部に1発、連続で撃った。悲鳴を上げる女教師にも反射的に発砲。敵の神経を逆撫でするような行為は身の破滅を招くだけだという事実を、人にモノを教える立場の人間が知らないなんて全く呆れる。そのせいでこっちが余計な殺しをするはめとなる。どんなに社会悪でも、それが、この状況では正論なのだ。アナーキーは苛立つ思いで3人目の若い男性教師に照準を合わせた。両手を上げて降参のポーズ。こいつは道理を弁えている。バカじゃなくてホッとした。「あっちに行きな」と、顔をクイッと校舎の方に振るサイン。男が察して走り去っていくなか、もう4発、銃声が鳴った。倒れた川上の顔面に、ニヒルが撃ち込む音だった。
幾度となく再現される記憶、リアルに顔を思い出すぐらいなら、一層のこと、顔を滅茶苦茶にしてやりたいという衝動に駆られるのも無理はない。酷ければ酷いほど印象に残りやすい。相手から受けた醜い言動や表情に心が留まり続けるよりも、それを上回る強烈な容貌に意識を奪われているほうが、シンプルな恐怖心に置き換えられて精神的にはマシな気がする。深みに嵌まらなくてすむからだ。
復讐を、難なく遣り遂げ、車に戻ってきてからは、ニヒルはシートに深く凭れかかってずっと窓の外を眺めている。昨日の、療養所の帰りのときみたく。
心の整理が必要なのは分かっていた。けれど、アナーキーは機を逃したくはなかった。1日とか、あっという間に終わってしまう。
「ニヒル、次は誰にリベンジする?」
振り向くも返事はない。だが少し経って、運転中のアナーキーを窺い見る笑顔の彼女と何度も目が合った。ニヒルが息を、大きく吸って、大きく吐き出す。
「今までの私ってね、我慢してばかりだった。相手に非があることでも、植え付けられた倫理観や宗教観が邪魔をして、言いたいことも言い出せなかった。感情的には欲求不満でストレスが溜まり続けているくせに、いざ話をしようとすると、羞恥心が顔を出したり、勇気がなかったり。それに時間的経緯とか、問題となる出来事がたくさんあると、それを理路整然と説明するのも難しくて。で、結局は、もういいやって諦めてしまうのがオチ。私のいつものパターン。そんなもんなんだって、自分に言い聞かせていた。
それが、昨日から、とんでもないことをやらかしているでしょ。ホント信じられない。アナーキーの影響力って凄いよ。一緒にいたら、違う自分になれるというか、体中が熱くなってエネルギーが噴き出してくる感じ。何でもできそう」
普通は、悪いことをしたんだから動揺するのが当たり前だ。それなのに、ニヒルの瞳が輝いている理由は、おそらく今まで内側に溜め込むしかなかったマイナス・エネルギーが死を望むほどパンパンに膨れ上がり、限界にきていたところへ、それを初めて別の方向に吐き出すことができたからではないだろうか。自分を滅する必要のない未知なる経験。
手段の是非を問う前に、それだけ彼女は苦しみ、導いてくれる人は疎か、味方になってくれる人もおらず、傷つけられても、未だに、どうしていいのか分からない小さな子供のままであるということを理解してあげなくてはならない。アナーキーにはそれが手に取るように分かった。全く同じだからだ。常に否定され、避けられ、集団の中での孤独を余儀なくされ、共感してくれる人のいない人生。ニヒルが笑顔や輝きを取り戻すほど、自分を見ているようで、心が痛み、悲しくなった。
だから俺の存在なんて膨らんだ風船に針を刺しただけに過ぎない。と、謙虚に思ってはみたものの、正直、嬉しかった。俺がいれば、変わることができるという心地好い響き。アナーキー自身も、求めてくれる人を必要としていたのだ。
「俺たちさ、もう我慢するのは止めよう。俺たちだって、嫌なことされたら腹が立つし、傷つくんだってこと、分からせないと。お前らみたいなヤツが、そういうことするから、こういう反応が返ってくるんだって、いい加減、知らせないと。
きっと今もどこかに、声なき悲鳴を上げている仲間がいると思う。復讐となって戻ってくるとしたら、少しは抑止力に繋がるかもしれないだろ。それを表沙汰にするだけでも、意義ある行為だよ」
憧れを宿した眼差しでニヒルが頷く。復讐が、同じ仲間にとっては正義にも成り得るという発想の転換に、頻りに感心し、ニヒルにとっては思いがけず生を活性化させる契機となって、それをさらにアナーキーに肯定されたことで、本来、持っているはずの壮気が、ますます彼女の内側から漲ってくるのを、傍から見ても察することができた。
どんなに稚拙な思考で、残酷な行為でも、今の自分たちにできる最善の道は、それしかないように思えた。ただし2人とも、嬲り殺しとか、延々と痛めつけながら恨みを晴らすとか、そんなタイプではないので、そこは良心的に、あっさりスマートに消していくのが俺たちのスタイル。それでよくない?
右眉を上げて同意を促す。ニヒルは怪しくも魅力的な笑顔を浮かべて、両眉をピクンと動かし、賛同の意を表わした。
ニヒルがダーク・メモリーを検索して、次なるデリートを選択している間、高校を出たときから向かっていた里子時代の家々へ、アナーキーは順番に立ち寄ることにした。
誰のお陰で飯が食えると思ってんのか、親がいないからここで面倒みてやってんだよ、お前が家の中で一番、立場が下だということを肝に銘じておけと、俺より年下の子がいる家庭で、まだ子供だった俺に向かって、顔を殴って両腕を掴み、上下関係や社会的格差を怒声と共に教えてくれた尻デカくそババァーに、今日こそ感謝を告げる。
あのときは、ありがとう。愛情より人間の本性を見せてくれて。どういうときに人は、おべっかを使い、猫をかぶり、そこで無理した分を、ストレスの捌け口として、自分より弱い人間に発散して支配欲を満たすのか、勉強になったよ。BANG!
思春期に腐った弁当を持たせやがったヤリマンのババァー、臭いが友達にバレるんじゃないか、家庭内で虐めに遭っている可哀そうなヤツって思われるんじゃないか、シンクや床や下水溝にわざと落とした食い物も、俺には食わしているんじゃないかって疑心暗鬼になって、人に対する警戒心や不信感が絶望的に強化されたよ。BANG!
子供たちの中で、いっつも俺だけオヤツなし。いっつも俺だけお留守番。あと、普通に話しかけても根拠のないダメだしとか罵倒しか返ってこないっていう状況に、聞いているだけで頭がおかしくなりそうだったよ。BANG!
優しいのね、偉いわ、愛情深いのねって、人から褒められるのが大好きで、恵まれない子供の親代わりを買って出ることで、そうした承認欲求を満たしているミリー小母さん。それは捨て猫も同様で俺たちの利害は一致していた。ギャラリーがいるときは、俺の生い立ちを同情深く話して救世主気分に浸り、いなくなると急に冷めて、ほったらかしにする欠点はあったけれど、被害に遭わなかっただけで十分だ。それぐらいどうってことない。福祉の担当者に初めて「ここがいい」って、お願いしたっけ。
アナーキーは、その家をスルーして、大通り沿いにある紳士服専門店に入って行った。ブラックスーツに黒シャツを見繕ってもらい、急ぎで裾直しを依頼する。仕上がるまでの小1時間、今度はニヒルが、ここから近い消去対象をカーナビに打ち込んだ。
「自分に気を使わない人間は、みんな敵だと思っている攻撃的で横柄な連中ばっかりよ。そういうヤツって性別とか関係なく一定数いて、一度その烙印を押すと、手段を選ばずに陥れようとしてくるの。文句を言う材料を見つけ出しては評判下げて徒党を組み、多勢に無勢を作り出しては追い込んで村八分にする典型的なイジメ。本当に、うんざりするほど経験済み。人間関係なんてクソっ喰らえよ」
ニヒルは不快な出来事を詳細に説明するよりも、そいつらの特徴をまとめて言うことで理性を維持し、無駄を省き、心の崩壊を防ぐ距離を保っているようだった。すべてを話すとしたら、時間の浪費と煩わしさと負の感情に囚われてしまい、気力が消耗して身動きが取れなくなるのを嫌というほど知っているからだ。
アナーキーは、そんな彼女のスマートさを褒め称えた。
世の中には、期待する好意的レスポンスが返ってこないことに、過剰に不満を抱く人がいる。普段、甘やかされているから少しでも反応が違うと、その人にとっては、おざなりにされたも同然なのだ。過保護な親のように、そこまで面倒を見なくてはいけないのかと疑問を抱いても彼らは許さない。期待に見合うまでの差額分を悪態で補う。それでも足りなければ即刻、集団リンチ行きだ。
2人の間では、すでに多くを語る必要なんてなかった。ニヒルが辛かった過去を正直に口に出してくれるだけでアナーキーは、彼女の信頼を勝ち得たように思えて満足だった。互いに傷を舐め合い、共感し合える仲間がいることにも喜びを感じている。もしかしたらこれがソウルメイトと呼ばれる間柄なのだろうか。
「俺たちは、そいつら凡人とは感性が違うから波長が合わないんだよ。凡人カテゴリーに属して、しょうもない人間の意味不明なゴリ押しルールに従って、くだらない人間相手に無駄にエネルギーを失い続けるぐらいなら、こんな世界ぶっ壊してしまったほうがいい。俺たちの人生は、そいつらの犠牲になるためにあるんじゃない。
俺はニヒルを信じている。ニヒルが思うこと感じること、それは全部、俺と一緒だから絶対、遠慮なんてするなよな。
それに、俺たちだって生まれてきたからには幸せになる権利があるんだ。そのためには俺たちを邪険に扱いやがった低劣で根性の悪いゴキブリどもを、まずはガンガン駆除して身の回りをクリーンにしよう」
ニヒルがバイトしていた大型チェーンのアパレル・ショップに着いた。アナーキーは、ここでは尻に敷かれた男のように、銃が入ったキャリーバッグを1つだけ引いて、彼女の後から店内へと付いて行った。
知り合いを見つけてサングラスを外し、「店長いる?」と尋ねるニヒル。驚いた顔の女性従業員は「ああ、うん、たぶん事務所に」と反射的に答えた。ニヒルは立ち去りながら、「挨拶に伺ったの」と振り返りざまニッコリ笑って、従業員出入り口に直行した。
観音扉の片側を押して裏方に入り、短い直進通路の正面天井に防犯カメラが設置されているのを確認する。ニヒルが右側にある事務所のドアをノックして、その右手を仰向けに開き、アナーキーを見て頷いた。了解。
ドアの前からだと防犯カメラは左上となる。ニヒルを盾に死角を作り出し、手土産でも持ってきたかのような素振りで、キャリーバッグの中から下ろした彼女の右手へと、さりげなく銃を握らせる。ニヒルが前を見据えたまま、そろりと撃鉄を起こす。アナーキーも補佐役としてスタンバイ。ドアが開かれるや否や、戦闘態勢に入っていた銃が殺意を解き放った。
撃たれた胸を押える従業員、ニヒルが思いっきり、その男を蹴り飛ばして道を開ける。アナーキーが2発目を撃って息の根を止め、引き攣った顔の従業員ほか男女3名を近くにいるヤツから順に、2人でリズム良く交互に撃っていく。ニヒルが店長らしき人物を追い詰めている間は、もう1挺、銃を取り出して、アナーキーが事後処理を受け持った。
「みんな、あんたのこと稀に見るクズだってさ」2発、連続で音が鳴った。アナーキーは気を利かせて、まだ2発入っている自分の銃もニヒルに手渡した。発散するにはやっぱりそこが、お好みらしい。川上と同じ弾4発が、クソじじぃの顔面にブチ込まれた。
事務所にある従業員シフトを確認して、フロアにいる残りの害虫も滞りなく駆除する。さっき質問に答えていた驚き顔の女性従業員も例外ではなかった。目的を達成して、取り繕う必要がなくなったので、ニヒルは打って変わって、氷のような表情で憎しみを露わにした。その、温度を失った凍てつくほどの怨嗟は、集中力を増大させて、いみじくも鋭く女の喉を貫いた。
アナーキーは口笛を吹いた。「ナイスショット!」
噴き出す血を両手で押さえて頽れるヒト型悪性腫瘍。この世界に、彼女を傷つける者はいらない。2人の世界を邪魔する人間も、無用だ。アナーキーはハイタッチを交わすと、彼女を抱き上げ、クルクルと回った。
劣悪な環境に生まれ育ち、自尊心の欠片も知ることなく生きてきた。周囲にいる人間の感情を逆撫でしないように、気を使って、命令を聞いて、望みどおりの発言と行動をすることが生きるということだった。
それがどうだろう。僅かながらも自分を優先するということが、どういうことなのかを知ったニヒルに至っては、復讐の女神と化し、すべてを焼き尽くす勢いだ。
俺は、そんな彼女の在るがままを見守りたいと思った。むしろ不完全燃焼を起こさないように上手く誘導してあげなくては。
「それにしてもさ、面倒臭いよね。リベンジするにもターゲットがこうもバラバラだと」
ニヒルはスマホで検索する手を休めずに答えた。
「そうなの。県外とか海外に行ってるヤツも多いし。エリア内にいても一軒々々回ってるうちに間が空いて、テンション下がりそうでイヤだ。私は今の、この感じをもっと高めていきたい。後悔なんてしたくない。せっかくのチャンスなのに」
「だね。だいたい俺たちだけじゃキャパオーバーなんだよ。ゴキブリって、あっちこっちにいるだろ? 数も半端ないし。だから殺虫剤を撒くとか、エサで引き付けるとか、粘着テープで動かなくするとかさ、何か、一気に抹殺できる方法ねぇのかな」
粘着シートの上で人間が動けなくなっている姿を想像して、ニヒルは笑った。
「テレビの企画番組みたい。相当、粘着力がいるね」
アナーキーも右折しながらニヒルに笑いかけた。
重なるように、右折前の対向車線にいたタクシーが、急に車を加速させたのを目の端で捉えていた。エンジンの唸る音が後方から近づいてくる。二車線道路の左側からベタ付けしてきたかと思うと、クラクションを威嚇的に鳴らして睨みつけてくる運転手。それでもまだ物足りないのか、速度を上げて、アウトロー・セダンの前に横停めして、車線さえも塞いできやがった。俺が右折しているとき、アクセル踏んでも追いつかなかったくせに。それだけ無灯火信号の交差点であっても十分、車間距離は取れていたってこと。
なのに、何が気に入らないんだ? 煽られる理由って何?
明らかにアナーキーがムカついていると、ニヒルはグローブボックスからリボルバーを取り出し、車から降りて、ぐんぐん接近して行き、虚勢を張って小心を隠す、五十過ぎのこの愚かなる男に、全弾、連続で、ぶっ放した。頭が悪く判断力がなさそうだったから、銃に気づかず最期まで本人なりに格好つけて死ねたのが、せめてもの救いだろう。
彼女は振り返って、にっこり微笑んだ。俺は敬礼で答えた。意味不明な脅しには当然の報いだ。それでいい、ニヒル。
「タクシーって、断トツでムカつくヤツに当たる確率が高いよね。ありすぎて今では極力乗らないようにしている。それでも無理なら、できるだけ乗車待ちのタクシーじゃなくて流しを捕まえるようにしているわ。
初めて訪れた場所で、土地勘もない所で、ホテルにあるタクシー乗り場から乗車して、とりあえず中心部に行って頂けますかって、お願いしたら、そこが2メーターの距離しかなかったらしく、まだ並んですらいない年配の4人グループを指差して、あの人たちなら観光地を回れたのにって文句を言われたことがあるの。それならそうと、最初から伝えるべきだし、お近くでもどうぞっていうステッカー貼らないでほしい。そのまま目的地まで一緒にいるのも我慢できなかったから途中で止めてください降りますって言ったら、もう遅いってキレられて。女だからって見下してるんでしょうね。一方的に怒鳴りつけられるばかりで悔しかったけど、止まるまで喚いて、お釣りも貰わずに降りたわ」
「えげつないね。そいつの守銭奴根性。ホールケーキを6等分して、少しでも大きいのが自分のとこに来ないと癇癪おこすガキと同じだよ。3歳児か!」
「あっ、そうそう美容室にも居たよ。現金な男が。サイトに入会してコースを申し込んで行ったから、次々に勧めてくる追加オプションは断っていたの。そしたら金にならないと判断されたせいか、染めムラを通り越して、額から奥に向かって指2本分ぐらいの面積が根本5ミリ全く染まっていなかったり、それこそ後ろの方だと、全く染まっていない髪が何本も出てきたりして。そこまで酷い技術者に会ったのは初めてよ。プライドってないのかしら。それにサイトの運営会社も酷くて、口コミに書き込んだけど、私のレビューだけスキップされていて、しばらく待っても表示されることはなかったわ。その代わり、割引クーポンが送られてきたから、それで目を瞑れってことなんでしょうね。せっかく前は、技術、人間性ともに、レベルの高いお姉さんが担当してくれていたのに」
「その男がダメダメ人間なのは間違いないね。でも、それ以上に会社ぐるみで情報操作をしている企業の方が俺的には怖いね。闇が深くて」
「うん、ホント信じらんない。それと洋服を買いに行って、店員から話しかけられるのもマジ勘弁。販売促進とか万引き防止とか、そういう目的があるんだろうけど、こっちからしてみたらいい迷惑。持ってる服と合うかなーって、組み合わせを想像しながら楽しんで見てるのに話しかけられたら台無し。なんで店側の都合を押し付けてくるのかな。そんな店、行きたくなくなる」
ニヒルの愚痴を聞いているうちに、裾直しを依頼していた紳士服専門店に戻ってきた。
朝早く購入していたため、待たされることなく、すぐに着ることができた。試し履きの革靴を履いたまま、あとで買い足そうと思っていた黒い革靴を物色する。靴紐タイプじゃなくて、ベルトのようなシルバーの留め金が外向きに付いた靴を選んだ。次はベルトだ。どれも大して差はなく、靴と似たようなデザインを迷わず手に取った。ネクタイは、これならいけると踏んだベテランの女性店員が、売上アップを見込んで満面の笑顔で、アナーキーを陳列コーナーへと案内した。
「ニヒル、どれがいいと思う?」俺は彼女に相談した。「そうだねー」と言って、ベースは黒無地で、あとは素材のバリエーションとか、薄っすらとグレーやシルバーの柄が入ったシンプルな物を選び出した。そしてその中には1つだけ、縁に影を忍ばせた立体感のあるマホガニー色のネクタイがあった。ニヒルが選んだデザインは、どれも俺好みだったが、2人を結び付けているそれに及ぶものは他になかった。
アナーキーが満足気に、鏡の前でただ1つのカラーネクタイを合わせていると、何を血迷ったのか、ベテラン店員がそれを取り上げ、「全身黒ずくめですと確かに差し色を入れた方が断然、お洒落ですよね」とお世辞を言い、何本も別の派手なネクタイをアナーキーの首元にあてがってみせた。素人との違いを見せつけようとする、その言動からは、男性の好みを察しつつ、さらにこれが上級者コーデなんです、という自負が迸っていた。
鏡の中でニヒルと目が合う。下ろしていた右手と両眉が同時に「知らねぇ」と軽く持ち上げられ、厭きれた苦笑いになった。了解。
お馴染みのキャリーバッグから銃を掴み取り、流れるような動作で、邪魔者を排除してから、ゆっくりとマホガニー色のネクタイを締めた。よし、これで全部だ。
レジに行った。誰もいない。「すみませーん、どなたかスタッフの方いらっしゃいませんか」と大声で呼んだ。何度か繰り返して待っていたが、先程までいた数人の客も店員も、みんな姿を消していた。
「どうしたんだろうね」
「さあー、来ないもんはしょうがないよね。……行こうか」と頭を切り替え、2人は店を後にした。
アナーキーは、荷物を後部座席に放り込むと、スーツのジャケットも脱いで、その上に置いた。ニヒルが窓を開ける。煙草に火を点け、一服し、ジュースを飲んで、おもむろにラジオのスイッチを押す。落ち着きのある男性の声がニュースを淡々と伝えてきた。
昨日、本牧ふ頭のターミナル内にて、海外輸送に使われる金属製のコンテナの中から、口や手足に粘着テープを巻かれた男女18人の遺体が発見されました。暴力を受けた痕があるほか、炭酸ガスボンベ30キログラム入り2本が開栓された状態で見つかったため、二酸化炭素による窒息死の疑いもあり、警察は身元の特定を急ぐと共に、殺人事件として捜査を進めています。
海外のニュースです。世界各地で日本人に対する窃盗や強奪、恐喝、傷害、猥褻、婦女暴行、殺人、行方不明といった事件が多発しています。渡航の際は、くれぐれも日本ほど安全ではないということを念頭において、常に警戒を怠らないよう、ご注意ください。
ただいま緊急速報が入りました。今朝から全国で突然死が数多く報告されており、その場に居合わせた家族、友人、知人らによる話では、サプリメントを摂取した直後、急速に苦しみ始め、数分で心肺停止に至ったとのことです。医療関係者は、シアン化物の錠剤が市販のサプリメントに混入されて起こった中毒死ではないかとみて、ヒムラル社が無料で提供しているビタミン剤も含め、同社の錠剤を服用しないよう呼びかけています。
「世の中は、俺たち以上に物騒だね。幸せな世界って本当にあんのかな。俺は見たことも経験したこともないから正直、分かんねぇ。どうしたら、そうなれるんだろう?」
「今の私に言えるのは、もう二度と被害者にだけはなりたくないってこと」
「だよな。絶対条件だよ、それ。だから俺たちは今、戦っているんだ。そこから抜け出すために。すべはそこから始まる気がする。まだ見ぬ世界のために」
アナーキーはジュースで乾杯した。ニヒルの確たる意志が手綱を引き締める。前に進むしかない、俺たちなりに。無用の長物である過去を清算しなくては。
特別自治区の制度が施行された昨日は、記念日としてエリア内が祝日となった。今日は平日であるにも拘わらず、歓楽街カオスでは引き続き、あちらこちらに屋台が出ていて、人出も多く、賑わっている。
「ニヒル、銃、取って」
早速、ムカつくやつ発見、キッチンカーで働いていた頃の常連客だ。たった1組2組の待ち時間で苛々して、それを平気でぶつけてくる女。それ以上、時短なんてできないのは見たら分かるだろ! 一生懸命、誠実に働いている人間に対して、よくそんな態度とれるよな! 俺だって、お前みたいな人間に会いたくもねぇんだよ。
イカ焼きの屋台に並んで相変わらず苛々オーラを発散しているその女を、アナーキーは車の中から撃った。一拍おいて周囲の驚く声や心配する声が耳に届いた。クラクションもうるさく鳴り響く。ニヒルが連射で他の車を黙らせ、アナーキーは構わずに走った。角を何度も曲がり、1キロメートルも進めば、辺りはまた、お祭りムードしかなかった。
今度はニヒルが狙いを定めている。合わせて徐行。発砲。串焼き屋で倒れる2人の女。 「悩み事を相談したら、勝手に上司に告げ口されて、あたかも私が悪口いっているような状況に持っていかれたの。本人もそう言っていたくせに。ただ悩んでいたのは本当だったから、上司に相談すべきか、それも悩んでいる矢先に、不意を突かれたうえ、怒られて。しかも私が良かれと思ってやったことは全部、戦略扱い。私を陥れる絶好のチャンスだと思ったみたいで」
「殺れて良かったな」アナーキーはニヒルを励ました。
善良な市民と称される人間の中に、一体どれだけそんなヤツがいるっていうんだ。俺もニヒルも、ほとんどは表向き普通の人間から、いろんな迫害を受けてきたっていうのに。心の中に潜んでいる、そいつらの凶暴性。卑小な人間が作り出す野獣の王国。……結局、どこにも良い人間なんていやしないんだよ。それが現実さ。
中心地近辺の駐車場に車を置いて、リロードし、キャリーバッグを引いて、メインストリートに向かい、入り口で銃を取り出す。2人はもう隠さなかった。
2人の存在に気づき、叫びそうになった人間から、反射的に撃った。そこにはもう悲壮感すらなかった。俺たちは、こうなるために生まれてきて、出逢った。今日は銃を持っているから俺たちを避ける。だけど銃を持つ前から同じように、こいつらは俺たちを避けていた。見下し、蔑んで。そう考えると感情の種類は違っても立場は変わらないってこと。彼らが望む、いつもの関係性。
悲鳴が上がる。逆方向に逃げ出す歩行者天国の人々。何でも可哀そうという言葉で非難してくるヤツ、どこが? 表面的ジャッジ、何にでも理由があるんだよ。明らかに自分の欠点を投影して文句いってくるヤツ、それはお前だろ! 考えが凝り固まっているヤツ、世界が狭そう。一方的に我を押し付けてくるばかりで他人の意見に耳を貸そうともしないヤツ、バランスに気づけよ。すぐにそれって常識でしょっていうヤツ、おもしろくねぇ。細かすぎるヤツ、ウザい。心配性、ご苦労なこった。世間体が大事、どうでもいい。強権的、高圧的、非寛容で、欲に塗れた、偏見クソ野郎ども。エサを貰うための仕事、ここはサファリパークか。みんなとっとと死んじまえ!
2人の相性は抜群だった。アナーキーとニヒルは互いに思いおもいの言葉遊びを楽しみながら息つく暇もなく撃った。
しかし、ただ1つの弱点はすぐにやってきた。リロードタイム。群集は、ストリートの出口付近まで逃げていた。周りには誰もいない。今のうちに、ベンチに座ってテキパキと空薬莢と予備弾薬を入れ替えるニヒル。使わずに残しておいた銃1挺を手に見張りに立つアナーキー。
と、そのとき、突き当りのT字路に飛び出した群衆を右側から来たトラックが避けようとして、左側から来たトラックと運悪く正面衝突を起こした。横倒しに滑り込んできて、ストリートの出口を塞ぐトラック。安全を求めて逃げたはずなのに、瞬時に幾人もの命が目の前で吹き飛ぶ。動揺して立ち尽くす群衆。容赦なく燃え広がる炎。
「なんか、凄いことになってるね」
「ああ、こいつら、誰も厄払いしなかったんだろうな」
皮肉な運命の巡り合わせに、アナーキーですら気圧された。ニヒルの隣に腰を下ろしてリロードを手伝う。何かすることで、神の審判から逃れられるような、俺たちは関係ありませんよと暗に証明しているような、そんな回避行動が無意識に出た。
何人かの勇気ある人たちが戻ってきた。10メートルぐらい離れて立ち止まり、アナーキーとニヒルの様子を窺っている。アナーキーも立ち上がった。
「あなた方がどうしてそのようなことをなさっているのかは存じ上げませんが、まだ足りないのでしょうか。ざっと見渡しても、4、50人は死んでいます。今、生き残っている人たちだけでも、どうか、助けてはもらえないでしょうか」
理性と思いやりのある性質が、この中年男性からは伝わってきた。
「そうですね。これも何かの縁だ。いいですよ。俺たちも直接、皆さんを嫌っているわけじゃないから。ただ、俺たちは、一言なんかじゃ言えないけど、世の中に絶望しているんですよ。この世界で生きていくということ、それ自体が虚しくて苦痛なんです」
中年男性の柔らかい物腰に、つい心を許して話してしまったアナーキー。生まれたときから、こんな人と一緒に暮らせていたら、良い影響を受けて、違う人生を歩めていたかもしれないなと思うと、ふと悲しく、羨ましくなった。
人前で、いつになく素直なアナーキー。だからといって、その感傷的な姿は、ある人にとっては弱さでもあった。
「ふざけんなよ、お前らの絶望なんて知るかよ! なんで罪もない、こいつが死ななきゃいけないんだよ」死んだ女性を抱きかかえて怒る男。憎しみのこもった視線。
アナーキーは内心、お前、そのオンナ残して逃げたくせに。それに罪のない人間なんてどこにも居ないんだよと舌打ちしながらも、だんだん意気消沈してきて、どんどん自分が小さくなっていくのを感じて、その場を立ち去りたい気持ちになった。「行こう、ニヒル」キャリーバッグの取っ手を掴んで来た道を引き返そうとした。
そこへ「なんで、あんたら銃もってんだよ」という声がアナーキーを立ち止まらせた。続けて「そんな理由で簡単に、……人を殺すなんて勝手すぎるわ。嫌なことがあっても、みんな頑張って我慢して働いているんだよ。キレたって何の解決にもならないことぐらい分かるでしょ。安心して暮らせないじゃないか。この人殺しが。おい、みんな、こいつら捕まえて牢屋にブチ込もうぜ」と、堰を切ったように不満が飛び交った。
銃がなかったら、ただの世間知らずな未熟なガキだと判断されたのか、意外にも2人が大人しかったことが逆に、みんなの攻撃心に火をつけ、解放してしまったようだ。
アナーキーも、納得するところはあった。そのはずだった。それが、次から次に聞いていくうちに、結局は、がんじがらめになっている自分に気づき、苛立ちは、貧乏ゆすりとなって表れ、爆発した。襲いかかってきた男を殴り、正義面で咎めてくる連中には発砲で答えた。アナーキーは、もはや今日という日に抵抗することは不可能だった。
トラックの炎上地帯を避け、路地を一本、回り込んで目的地へと向かう。2人にとってストリートでの出来事は余興みたいなもの。本当にデリートしたいのは、彼女を傷つけ、彼女を蝕み続ける、下劣で穢らわしい血の繋がった本当の父親だった。
愛人の子、母親の精神病、社会的孤立、入院費、生活費、幼いニヒルに対して、これらすべてを言葉巧みに取引材料に使って、年端もいかない少女の肉体と心を蹂躙した男。
アナーキーは、その話を聞いたとき、身の毛もよだつほどの吐き気に襲われた。彼女が死にたいと思うようになったのは当然だし、銃を持ったアナーキーだからこそ、ようやく本当のことを他人に打ち明けることができたのだ。銃が、楽にしてくれる、終わりにしてくれると、縋るような気持ちで。
そいつの経営する宝石店の通りに出た。正面には、3台の消防車と、鎮火してなお未だ燻る煙が見える。アナーキーとニヒルは推移を見守る野次馬の背をよそに、煌びやかな、豪奢な造りの宝石店の扉を開けた。拳に力が入る。
しっかりとした足取りで彼女が真っ直ぐ父親のもとへと歩いていく。ポジショニングを見定めたところで、キャリーバッグのファスナーを開いた。合わせるように扉近くにいたアナーキーも、店員5人を襲撃するのは自分の役目と心得ていた。ニヒルは父親に銃口を向けて上階の自宅に行くよう促す。本妻と呼ばれる女と、その女の連れ子の姉、腹違いの妹。リビングの一ヶ所に全員が揃った。
ニヒルは迷うことなく、1挺目の銃で撃ち殺し、2挺目の銃で恨みを晴らし、3挺目の銃で決別を果たした。アナーキーは震える彼女を抱き締め、シャンプーの匂いがするツヤツヤの髪に顔を埋め、涙を流す彼女にありったけの愛情を込めて寄り添った。泣き疲れて落ち着いてくると、ニヒルは静かに微笑んだ。ミッション終了。
「お前ら、チョー有名人になってるの知ってる?」
ジョーカーに会いに行くと、知らない間に撮られていた動画を、たくさん見せられた。アングル的には、後ろとか、横からとか、斜め上とか遠くからが多かった。さすがに正面切って間近で撮影している映像はなかった。
「それより、実は報告したいことがあって。俺たち、付き合うことにしたんだ」
「えっ、あ、いや、それは驚かないよ」ジョーカーは、それより返しで話を戻し、「お前ら何やってたんだ。そっちの方が普通、気になるだろ」
「何って訊かれてもね。それでも、あえて言うなら、本当の自分を取り戻すための儀式、……みたいなもんかな」
「一般ピーポー殺すのが? 全く伝わってこねぇ」
「いいんだよ、誰にも分かってもらえなくても。そうしたいから、そうしたんだ。それが俺たちにとっては大事なことだったんだよ。説明なんて、したくもない」
ジョーカーがブツブツ文句を言っている傍らで、アナーキーは勝手にPCを起動させてニヒルのファイルを作り始めた。ラブラブで作業する2人。ジョーカーは軽く無視されていることに苦々しい思いを抱きながらも、浮ついた2人の興味を自分に向けるのは無理だと諦めて、話題を合わせることにした。
ニヒルのアイコンは、紫煙をくゆらせたタバコが灰皿の上に置いてあって、斜め後ろに赤ワインのボトルがある図柄に決定した。それを、せっせと手伝うジョーカー。見ていて微笑ましくなるぐらい良いヤツだ。アナーキーは、ジョーカーに出会えたことを、心から喜んだ。信用できる友達と恋人、アナーキーの人生に、一気に2人も大切な人ができた。
ニヒルが願いを自分のファイルに打ち込んだ。いつもの虚無感とアナーキーへの愛情を織り交ぜながら、彼を見つめて打った。
「このまま時が止まってしまえばいいのに」と。
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誤字・脱字・文章修正 随時行います。
短編タグが長編に変更になることがございます。
*タイトルの「神々の寵愛者」→「神々の愛し子」に変更しました。
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