Gravity Phase TransformationⅠ  破壊と創造のアンソロジー

Pen Donavan

文字の大きさ
5 / 5
GPTⅠ 第4章  解き放て

GPTⅠ 第5章  統合

しおりを挟む


    第5章  統合



     1

 ダ・ハリ広場は、尖塔アーチが特徴的なネオ・ゴシック調の教会を唯一に、広場を囲むようにして造られた長方型の建築群の中に劇場や百貨店といった施設が納められている、ネオ・バロック調で統一された美しい人気スポットだ。
 空は、太陽の残照で気高く瞑色に澄み渡り、あと少しの時間だけ、宇宙の闇を遠ざけてくれていた。広場はというと、早々にイルミネーションが灯り、光の芸術が品良く訪れた人々を出迎えていた。
 カフェテラスに座って紅茶を飲む穏やかな一時。これまでにも何度か来たことがある、お気に入りの場所だ。ただ、いつも独りぼっちで、誰かと待ち合わせをしていたわけじゃなかったから、ニヒル的には15分ぐらいが、そこに居られる限度だった。
 店や新たな客に、迷惑をかけない適度な滞在。サッと来てスッと居なくなる空気を読む習慣。どうせ抗ったところで落ち着いてはいられないのだから、言われる前に求められることには従順に応じるという姿勢。決して無理はしていなかった。
 組み合わせた手の上に顎を乗せて想いを馳せる。
 ようやく、私にも来てくれる相手ができた。ソワソワして落ち着かないけれど、大切な人を待っているこの場所を、今日ばかりは誰にも譲るつもりはなかった。
 ……アナーキー、彼に出会って人生は一変した。
 人に対して、ここまで怒りを爆発させたのは初めて。破壊と言っていい。でも、こんなにもスッキリするなんて知らなかった。アナーキーにしか分かってもらえない禁断の味。忌まわしい過去の記憶は消せないとしても、何もしないよりはマシ。それに、嫌なことをされたくないから相手に合わせるという諦めじゃなくて、私はどうしたいのか、自発的に考え、行動できたことがスゴク心地良かった。もう、他人の思惑には左右されたくない。それは、強者であっても弱者であっても同じ。どっちにも腐ったヤツがいる。気分が悪くなるだけなので、関わらないでおこうって思っても、そういう人間は必ず、いろんな汚い手を使って攻撃してくる。
 もちろん、それに対抗して、そうした事実を、理不尽さを、自分も含めた功罪の多寡を客観的に判断してもらいたくて、主張したときもあった。その努力たるや、時間と労力に見合うだけの満足のいく結果になったためしが一度もない。
 そんな腐った人間がウヨウヨいる社会に、私は自分を騙して、妥協してまで参加したくない。お金のために支配されるのもウンザリ。生きるためには我慢して働くことが当たり前のように言われるけど、どうしても納得できない。
 私はこれ以上、我慢し続けないといけないぐらいなら死んでしまいたい。生きることに疲れてしまった。無理して人に合わせたくない。
 いい加減、世界の人口は限りある資源を食い尽くす勢いで絶賛増加中なんだから安楽死という選択肢が日本にもあっていいはず。権力や言ったもん勝ちの、こんな醜い世の中、生きたい人だけが生きていけばいいのよ。腐敗した本当の姿を晒して。
 ……目の前を通り過ぎる人々を眺める。
 みんなはどうして、そうやって普通に生きていけるんだろう。参考にしようと思っても見習おうと思っても、やっぱり同じにはなれない、何者にもなれない、何者にもなりたくない私。アイデンティティって何? 
 それでも、あえて生きていかなきゃいけないとしたら、私は、本音で生きていきたい。それだけ。なのに、それがなんで、こんなにも難しく、未だ自由になれないんだろう。
 アナーキーは、いとも簡単に境界線を越えてみせたっていうのに。だから私は、そんな彼を追いかけた。そうするしかなかった。銃を手にして。
「すみませーん、ちょっといいですか」取り留めもなく考えを巡らせていると、ニヒルよりも若い女性2人組に小声で話しかけられた。彼女たちが興奮した様子で「一緒に写真、撮って頂けませんか」と言ってきた。意味が呑み込めず、問い直す感じで「えっ」と口にしたら、ジョーカー宅で見た動画を彼女たちからも見せられた。
 ニヒルは慌てて2人の顔を見て、周りを見渡した。
「まだ気づかれていないと思います。今のうちに1枚だけ、いいですか?」
 何となく勢いに圧されて断れなかった。「じゃあ、1枚だけ」と遠慮がちに返事をして、彼女たちがニヒルを挟んで中腰でポーズを取り、慎重にシャッターを切った。
「ありがとうございます! ちなみに、お名前きいてもいいですか? 誰にも話しませんから、内緒で」その分、希少価値が上がるとでも言いたげな表情だ。
 もちろん普段のニヒルなら絶対に答えないが、私たちのことを『ボニー&クライド』や『シド&ナンシー』みたいって噂しているのを知っていたので、まるで、レジェンド入りしたような高揚感が沸き上がってきて、つい「ニヒル・アンヴェール」と答えてしまった。胸の辺りがこそばゆく、顔も火照る。それがどんなに破滅に向かって突き進むカップルであっても、初めて特別な人に出会えて、初めて他人から憧れにも似た興味を持たれたことに、嬉しさと、気恥ずかしさを隠せなかった。人様に認めてもらえることが、こんなにも幸せなことだなんて想像すらしていなかった。今なら傍から見ても、ダ・ハリ広場のハイセンスな雰囲気に見劣りしない、溶け込んだ自分になっているんじゃないかという勝手なイメージも、心を解放する助けとなった。
「彼氏さんは?」顔を輝かせて、さらに踏み込んでくる。
「アナーキー」そういえば名字しらない。
「じゃあ、ニヒル&アナーキーですね、カッコいい!」確かに音のリズムがいい。しかも乗せ上手だ。ニヒルは久々にガールズトークを楽しんだ。アナーキーが戻ってきたら早速教えてあげなきゃ。「何それ、マジで」とか言いながら笑ってくれそう。
「ありがとうございます」芸能人に出会えたような喜びの表情を浮かべて去っていく女性2人組に、ニヒルの心はいつになく弾んだ。これが若さっていうやつなんだろう。失って初めて分かった。ほんの少し彼女たちと一緒にいただけで、その熱量を受けて、心の氷が解けていくかのようだ。もしかしたらクリエイト・ゾーンでは自治権が発動されたから、私にも幸せになれるチャンスがあるかもしれないと、前向きに考える自分すらいた。
 だけど、分かっていた。この世界に私の居場所なんてないことを。アナーキーと最期に思いっきりデートを楽しんだら、お願いしないとね。私を殺してって。
 アナーキーが広場の奥に見えた。彩り鮮やかな花のバスケットを携えている。男の人が女性のために花を持っている姿って大好き。無骨さと花の繊細さ、強さと柔らかさの対比が、思いやりの中で共存していることに、温かくて、守られている気持ちになる。それも花を贈られる今日の主役は私なのだ。このまま私もアナーキーに守られて生きていけたらどんなに心強いだろう。そしたら少しは負けない自分になれるかもしれない。生きてみるのも悪くないと思えるかもしれない。
 胸がドキッとして、締め付けられるようにキューとなって、この人しかいないって確信した。出会ったときからいろんな意味で、すでにそうだった。状況が、切羽詰まった状態だったから順番がおかしいだけ。今、やっと問題がなくなって、トキメキを感じることができた。アナーキー、あなたを本当に愛しているわ。
 アナーキーもニヒルの顔を見て、嬉しそうに笑っている。愛情が溢れて涙が出てくる。こんなに幸せな日が来るなんてね。最高じゃない、人生の最期に! 
 その夢のようなシーンの両端に突如として不吉な影が入り込んできた。広場の真ん中でアナーキーの表情が突然こわばる。銃を手にした3人の男が隙なく三方からアナーキーに狙いを定め、「手を上げろ」と警告した。アナーキーは、もう一度ニヒルを見て微笑むと、ジョーカー宅からくすねてきた柔らかい黒革カバンのかぶせを捲って右手を突っ込んだ。「動くな、動くと撃つぞ!」上空への威嚇発砲。アナーキーはさらに無視して、ニヒルを愛情一杯に見つめ、ドナヴァン/ファースト・ジェネレーションを取り出した。複数の聞きなれた射撃音が鳴り響く。ニヒルの頭から血の気が引いた。アナーキーの身体は崩れ、仰向けに倒れた。手からは銃が滑り落ち、花のバスケットは無惨に転がった。
「アナーキー!」ニヒルは立ち上がって絶叫した。無我夢中で走り寄った。アナーキーの腕を掴み、肩を、首を、頭を、頬を、震える手で触った。
 分かっていた。理解していた。それでも諦めきれず、目を閉じ、彼の胸に耳を当てる。まだ温かいのに微動だにしない。心臓の鼓動が止まっている。
 さっきまで歩いていたし、笑っていたのに。死にたいのは私の方だったのに。
 アナーキーは私と違って人生を諦める人じゃなかった。私以外にも彼を必要としている人たちが、もっとたくさん居たはず。それなのに、なんでアナーキーなの! 
 受け入れられず、避けるように視線を逸らしたとき、花のバスケットに添えられていた封筒が近くに落ちているのを見つけた。血に染まった手を伸ばし、カードを取り出す。
「俺はニヒルを心から愛している。こんな気持ち初めてだ。結婚しよう」
 心が張り裂けそうになった。苦しくて苦しくて、涙が止まらない。押し殺した悲鳴が、嗚咽となって喉から漏れ出る。ニヒルはくしゃくしゃの泣き顔を、どうにか笑顔に変えて頷き、「私もアナーキーと結婚したい」と答え、彼にキスした。
 頭の中で冷たい何かが爆発した。それは全身を駆け巡り、満たしたあとで身体の中心に集まり始めた。何も考えられなかった。自分の身体じゃないぐらい冷たく震え、息をしているのかさえ分からなくなった。
「警察だ」周囲にバッチを見せながら身分を明かすように告げる私服の男たちがニヒルとアナーキーを取り囲んだ。
 遠巻きにできた人垣は、固唾を呑んで見守っている。
「機関閉鎖に追い込まれようと、おれたち警察官は正義のために戦っているんだ」
「警察は必要だってことを、ちゃんと住民に分かってもらわないとね」
「さあ、立つんだ。暴れるのは終わりだ。自警団として逮捕する」
 警官の1人が手錠を出して待ち構えた。
 ニヒルはふらつきながら命令に従った。手が、アナーキーに届かなくなった。
「イヤ、こんなの。絶対イヤ」
 アナーキーと離れたくない。誰にも渡したくない。
 ニヒルはまたしゃがみ込んでアナーキーの上半身を起こし、抱きかかえるようにしがみついた。自分ではどうすることもできない現実に、虚無が大きく深く膨らでいく。
 その刹那、ニヒルの身体の中心に重力を持った何か、生存本能を脅かすような、ゾッとする何かが現れた。母親の遺伝子を受け継ぎ、父親の遺伝子をも受け継ぐ胎児のように、ニヒルとは同質であって異質でもある特異な気配を漂わせていた。
 栄養を吸収して、どんどん成長していくにつれて、そいつには、それ独自の意思があることが、はっきりと見て取れた。あらゆる生命体が、事物が、特有の個性に従って能力を発現させるように、劇的に、そいつは、その動きを見せ始めた。
 重力が増大するに伴い、近くの時空は歪められ、円を描く水紋のように重力波が地球を襲った。電力を動力源にした製品は余さず発光が途絶え、すべての照明が一気に消えた。時間も時を止めた。文明の陰に押しやられていた星々が夜空一杯に輝きを取り戻すなか、万物は、そのままの状態で静止した。そして、そこからは限定的に自分と重なる対象のみ次元の境界線を曖昧にして、ニヒルを青く光る表層的な輪郭と強弱のある陰影だけの形態へと肉体を変化させた。それは腹を引き裂いて出てくるエイリアンというよりも、むしろ母体の損壊を防ぐべく、彼女の物理的な存在密度を薄めて異なる次元に移し変えることによって、避難させているように感じられた。
 半透明になったニヒルの胃部に現れたそいつは、最初、肉眼では小さな光彩に見えた。しかし、よく見ると光は渦を巻いており、光明が大きくなっていけばいくほど、中心には黒々とした部分があることが確認できた。リンゴ大にまで膨らんだ暗黒は、周囲の渦巻く光とは対照的に、引き込まれそうなぐらい黒を濃くしていった。

     2

 トゥエルヴ・サンが重力波を捉えた。部屋の明かりが消えた。アロマキャンドルの炎は淡い光を放ったまま、一切、揺らぐことなく不自然に固まっている。昨日より強い。
 彼女には、それが只事ではない現象と分かっていたので、あえて必要以上に動揺しないよう努め、なるべく普段どおりに手に持っていたタロットカードを開き、死神の正位置をケルト十字展開法の最終判断を司るポジションに置いた。
 今の私にできることは………………………………見えた。重力波の発生源となっている光景と、「核心」というハイヤーセルフの内なる声。あの場所は確か……。
 僅かながらヴィジョンを拾ったところで、玄関から「トゥエルヴ!」と呼ぶ、こちらはエンリコのリアルな声。
 トゥエルヴは、クローゼットの棚に無造作に突っ込んでいるタンデムベルト、リュックタイプを掴み取ると、すぐに部屋を出た。変性意識になりやすいトゥエルヴにとっては、安心・安全を保つための必須のアイテムだ。
 開いた玄関の先に、右を向いて立ち尽くしているエンリコがいた。
「おかしなことになってるぜ」
 興奮を抑えて、トゥエルヴにも確認するように促す。
 家の右側にはバーベキュー・スペースがあり、串刺しの魚を焚き火で塩焼きにしている満ち足りた表情のセフィロトが、キャンプ用品売り場のマネキンみたく、じっと動かずに座っていた。近くの川でエンリコと釣りを楽しんだあと、獲れたアユを焼いて食べようとしているところだったのだろう。
 人工的な照明器具LEDランタンは明かりを失い、火は動かずに周りを照らしていた。これなら炭化の心配はないと見てよさそうだった。
「ダ・ハリ広場に行くよ」
 タンデムベルトを持ち上げて告げると、いつもだったらトゥエルヴが恥ずかしがるのをおもしろがって、散歩に行きたがる犬みたい、赤ちゃんのおんぶみたい、何のプレイとか言って、からかってくるエンリコだったが、さすがに今日はなかった。

 誰も通らない山奥の曲がりくねった砂利道では、左右を曲がるタイミングはもとより、ここでは凸凹道を突っ切るため上下に飛び跳ね、あそこでは泥濘を避けるため路傍の草を踏み倒して進むなど、何回も通るうちに、すべて体感的にインプットされていた。それは取りも直さず、自然にトゥエルヴの心に余裕をもたらし、外界の刺激が強いわりには動の中に静を見出すという変性意識の前段階、微睡に持っていくことを可能にしていた。
 また、森を抜けるまでのアスファルト道路では断然、安定した走りとなり、スピードが出ていても、直線や緩やかな蛇行線はおろか、ヘアピンカーブでさえ、トゥエルヴの身を竦ませるものではなかった。エンリコ自身も極力、最短最速でブレない運転をモットーとしており、しかも弟の、事前に障害物を察知する能力は超絶優秀で、事故るなんてことは有り得ず、それがさらに潜在意識の繋がりの中で信頼感となって共有し合えることから、バイクの動きと一体になれば、トリップモードに入るのは難しくなかった。
 トゥエルヴの意識が、バイクのエンジン音を聞きながら次第に体感する風と微振動から遠ざかっていく。沈潜し、底に辿り着くと、脳内に鮮明なヴィジョンが映し出された。
 赤い髪の女性、とても悲しそう。底なしの絶望、気力の喪失、落ち続ける深い闇、その手は昨日ヴィジョンに出てきた男を抱き締めていた。男は死んでいる。彼女の心に空いた穴、そこに無限の虚無が集中して、肉体における吸収を司る場所、胃部に、同一周波数の暗黒が招来し、グラビティ・ゲートが開いて位相の変容を引き起こしてしまったようだ。
 通常の人なら、胃部の違和感と共に、どれだけ呼吸しても酸素を吸い込んだ気がしない過呼吸のような状態に陥る。緊張や不安、ストレスなど、受け入れられない現実は、許容範囲を超えてくると、心理的な拒絶反応によって、意識が、その状況を無き物にしようとする。どんなに吸っても、そこには何も無く、心が体にも影響を及ぼすのだ。
 彼女も最初は過呼吸だと思った。まさか別の特殊なメカニズムが働いているとは本人も自覚しておらず、客観的に状況を捉えることで、パニックを和らげようとしていた。
 ……落ち着くのよ。ほら、ゆっくり吸って、吐いて。これを繰り返せば大丈夫よ。私の周りには酸素がある。絶対に窒息することはない。でも、どうなってるの? 胃の辺りにすべてを吸い尽くすような何かがある。それが私の呼吸する感覚を奪い去り、困難にしている。……コワい、イツマデ続くノ、……殺すナラ、ハヤく、殺シテ。
 彼女の意識は、ここで途絶え、脳内に映るスクリーンは、彼女が抱く死んだ男に焦点を切り替えた。
 昨日も、その男のせいで位相の変容が起きた。世界は、男の性質とシンクロし、重力に囚われ、引き付けられ、支配された。単純で軽薄で、純粋に情が深く、明るく前向きで、素直に怒りっぽくなった。世界中の人々が多かれ少なかれ影響を受けた。それも避けられない運命といえば、そうなのかもしれない。
 だが男に力はなかった。あったのは白髪紫眼の年老いた女性。その老女も意識して力を放出したわけではない。老女には特殊能力をコントロールできる術がなかった。神より、そこまでは授けられていなかった。単に、直感に従って反応したに過ぎない。
 そう、ただ、それだけ。
 時間が巻き戻り、若い頃の彼女が、その真実を幾度も伝えてくる。
 張りのある透き通るような肌に、純白の毛並み、薄い紫色の瞳。彼女は誇らしいほどに美しく、神秘的でもあった。ハーフやミックスが多いラサ島でさえ、誰もが我を忘れて釘付けになるぐらい気品漂う高貴な魂だった。そんな周囲の反応から逃れるように、いつも1人で、家でアクセサリーを作っていた。邪魔されることなく、干渉されることもなく、没頭しているときが一番幸せだった。自分の容姿は隠して、それとは関係なしに、ネット販売で作品が評価されて、褒めてもらえたり、喜んでもらえたり、ファンができたりすることが何よりも嬉しかった。それが生き甲斐といえた。このあと、試練の時を迎えるとも知らずに。
 悪魔は、それとなくやって来た。
 あなたがデザインされたアクセサリーと同じ物をジュエリーで再現し、販売してもいいですかと依頼されたのである。「ハート・アンヴェール」というブランドを、宝石業界でも売り出したいというのだ。彼の情熱は創作意欲をそそった。夢が大きく広がる。ハートがデザインを描き、彼が実務を担う関係性。適材適所で相性が良く、作品のクオリティーが上がるのを見ているのは素晴らしかった。強引さという彼の欠点も、自営業者ならではの意志の強さと思えば受け入れられるようになった。
 彼とはハートが28歳のときに結婚。翌年ニヒルを産み、32歳で彼の裏切りが発覚。ちょっとした遊びのつもりが、予期せぬ女性の妊娠と、六欲天一家幹部の大事な箱入り娘だったせいもあって、身の安全を守るには籍を入れるしか他になかったという。ハートが人目を避ける性格で、夫婦別姓を選んでいたこともマイナスに働いた。土下座で、謝罪と釈明を聞かされても到底、許せるものではなかった。
 ハートの内部で煮え滾る怒りは、ストレートに感情をぶつけて碌な結果にならなかった記憶と、喧嘩をしてはいけません、傷つけてはいけません、罵ってはいけません、相手の立場になって考えてみなさい、理解を示してあげなさいと説く聖なる教育や、浮気される側にも原因があるんじゃないとバッサリ切り捨てる世俗的な意見、お互いに落ち着くのを待ってから冷静に話し合いをするべきだと勧めるハウツー云々といった情報が、頭の中でグルグルと判断の拠り所を求めて駆け回り続け、それが不幸にも災いとなって強固な壁が作り出され、さながら脳内は圧力鍋の様相を呈した。
 そんなハートの様子を見た彼は、納得させるのは難しいかも、下手に出ても効果がない、同情も引き出せそうにない、慰謝料をふんだくられると思い込み、大きく溜め息を吐くと正座を崩して胡坐に変えて、あろうことか逆ギレに転じた。
「だいたいね、お前も悪いんだよ。いくら子育てと創作活動が忙しくて疲れてるからってさあ、おれが余所に何拍しても、まったく寂しくなさそうに見えるんだけど。おれのこと本当に大切に思ってんの? おれだって、たまには言葉や態度で愛情を示してもらいたいし、男としても必要とされたいんだよ。そんな状況で女から言い寄られたらさあ、そりゃ行くでしょ。断る理由ある? ほったらかしにされてんだから。
 うん? 何だよ、その軽蔑し切った目は。金があって時間もあって冴えた話ができたらさぁ、モテるに決まってんだろ。現実を見ろよ。男なら誰でも浮気ぐらいするって。
 それに、お前だっておれと結婚したのはどうせ金目当てだろ? こんな贅沢な暮らしができるのは、おれが稼いで、おれが家族を養ってるからなんだよ。お前のアクセサリーにしたってブランディングできたのはおれの力じゃないか。
 今回は運が悪くて責任とらざるを得ないけど、事情が事情なだけに、こんなときぐらいせめて家族として味方になってくれてもいいんじゃないの。それなのに、おれの優しさに甘えてばかりで、おれには理解の欠片も示してくれないのかよ!」
 頭蓋骨の中で脳がブルブルと震えた。
 片頭痛のように局所的に頭の、とある部分が痛くなることはあっても、脳全体が1つの塊として、その存在をアピールしてきたことは、これまでに一度もなかった。
 ショックと異常事態に打ちのめされながらも、その意味するところは完全に理解した。拒絶反応。これ以上は無理だった。
 相手の不道徳な所業ですら意味を失い、あらゆるものに価値がなくなった。
 それでも揺り戻しというのか、思考や感情は惰性で、彼の背信行為と開き直った態度を前に、いくらかの抵抗を試みた。内容を反芻しては、謂れのない言いがかりに耳を疑い、気持ちがささくれ立っては、悩み、傷つき、苛ついた。
 それもとうとう負荷に耐え切れなくなると、関連する情報伝達の結合が次々にショートしていった。理屈じゃなかった。波動の質が、ベルベットの手触りと、目の粗い紙ヤスリぐらい違っていた。波長も、無頓着な彼とは異なり、不協和音に晒されると即座に体調に異変が生じるほど敏感で繊細な気質の持ち主だった。それを今までは、赤ワインを飲んで遣り過ごしてきたが、人間らしい心が消え失せると共に誤魔化す必要もなくなった。
 ドアが開き、3才のニヒルが「ママー」と怯えた口調で入って来た。これ幸いといった表情で、ばつの悪い父親が立ち上がり、猫撫で声で「また来るねぇ」と言って、ニヒルの頭を軽く手でポンポンして出て行った。
 ハートは静かに、ゆっくりと、ソファの上に仰向けになった。
ニヒルが心配して声を掛けたり、顔を覗き込んだりしていたが、起こさないほうが良さそうだと気づき、自分も真似をしてL字型の小さい方のソファに寝転んだ。
 すーっと眠りに落ちていくハート。このとき、安らかな寝顔とは対照的に、脳の中では宿命の覚醒が起こっていた。試金石としての役割を与えられて生まれてきたハートには、審判とも呼べる機能が内蔵されていたのである。
 起動要因は、ハートの位相が危険水域に達したときだった。臨界点を超えて闇堕ちする前に、高波動を維持して神界とアクセスできる間に、グラビティ・ゲートと同じ周波数を使って、集合意識、多次元宇宙、パラレルワールドなど、それらすべてが具現化している「創造の源」へと繋がる扉を、脳内に再現する計画が組み込まれていたのだ。
 低次元の影響を受けて細胞間を走る情報伝達の連結がショートしてしまったとはいえ、それはまだほんの一部で、約束を果たすのに不都合はなかった。
 ハートの脳内環境においては、シンクロによって受信した周波数立体マップに合わせて神経細胞(ニューロン)がシナプス結合し、欠如している箇所では神経幹細胞が分化してニューロンとなり、新たな神経回路網が築かれた。複雑に再編された神経ネットワークは脳内で、グラビティ・ゲートを発生させるに相等の電気信号を獲得することに成功した。
 こうして莫大な具現化エネルギーを持つ世界へと繋がる扉は、誰も知らないところで、ひっそりと開かれ、集合意識の願いを背負った重力波が、そこから放射し、地球の位相を変容させた。つまり、扉の向こう側の世界は、前途を占う場所でもあった。
 そこでは物事の本質が、分かりやすくデフォルメされていたり、ダイナミックな迫力で形象化していたり。アバンギャルドで、シュルレアリスムな状況や街並みが広がっているときもあれば、ごく平凡で素朴なときもあって。過去・現在・未来といった時間的制約もなければ、ここでの私たち了我族以上に物理的制限もない、自由で独創性に溢れた世界が躍動していた。
 この変幻自在で魅惑的な空間に、ハートは呑み込まれていった。リスクがあっても魂は怯まなかった。そこまでしないと実現は不可能だった。グラビティ・ゲートが自分の頭の中にあるということは、膨大な意識に取り囲まれて、毎日毎分、稀有な物語を実体験しているようなもので、主体性を保つのは極めて難しく、抜け出すのも容易ではなかった。
 その後、ハートは精神病院送りとなり、ニヒルの成長を見守るという親としての大事な義務と、親子の貴重な時間を失くしてしまったが、ここ最近、容体が安定してきてからは一段軽い療養所で過ごすことができるようになっていた。
 諸刃の剣でもある扉の開錠キーは、ハートの血を受け継ぐニヒルにも、標準装備されていた。シンクロしたあの日、L字型ソファの角で親子が頭を近づけ合ったのは、偶然じゃなかった。ニヒルも当然のごとくシンクロして、起動するよりも先に周波数立体マップを手に入れていたのだ。きっと本能がそうさせたのだろう。脳に柔軟性があって学習能力が高い幼いうちに、予めインストールしておくことで、対象者を経過観察しながら自発的にアップデートできる学習機会が得られるように。
 あっ、そうか、そういうわけか、これで辻褄が合った。
 ニヒルはあえて頭を避けたのだ。精神状態を反映しやすい胃部にグラビティ・ゲートを発生させることで、母親のように呑み込まれるのを回避したのだ。
 しかも幼い頃から時間をかけて、移動先を探し、誘導の仕方を模索し、経路を強化し、来たるべき日に備えて確保していたに違いない。潜在意識の中で。
 トゥエルヴは嬉しくなった。ニヒルを助けられる。
 私の、私たちの、お姉ちゃんを。
 ニヒルの成長した姿は知らなかったけれど、ヴィジョンの一連の流れを見ていて、ふと気づいた。しかし昨日の段階では、ハートの隣にニヒルが居たというのに、全く気がつかなかった。たぶんそれは、3才のニヒルが直感的に、私の視線を捉えて警戒心を持った日から、親子2人のヴィジョンが見えなくなったことに原因があるように思われる。母親の健康状態を心配するあまり、怪しいものは全部、敵でしかなく、自分たちを守ろうとするあまり、無意識に結界を張ってしまい、ヴィジョンを通して見られないようトゥエルヴを寄せ付けなくしたのだ。さすがにトゥエルヴも本人が嫌がることはできず、それ以降は、チャンネルのチューニングを外した。たまに寂しさから繋がることがあっても、その日がいつも終着点だった。そうやって断絶していったコネクションは、もはや視界に入っても結び付かないぐらい、縁が離れ、消えてしまっていたのだろう。
 それが突然、グラビティ・ゲートをきっかけに昨日から再び繋がった。深刻な局面とは裏腹に喜びが込み上げてくる。
 昨日は、久しぶりに見た母親の、ハートの年老いた姿に衝撃を受け、時の残酷さ、諸行無常の哀れに、思いを馳せずにはいられなかった。心に余裕がなかった。私とエンリコが生まれて来られたのは、母が自分を犠牲にして、神に自分を明け渡し、扉を開いて、集合意識を包み込む、宇宙の大いなる意志を招き入れたからに他ならない。
 コネクションが切れたあと、ハートは直感に導かれ、ドクター才家のもとで同じ波動を持つ類友の超能力者ロシア系アメリカ人男性を見つけ出し、受精して、私たちを産んだ。私たち姉弟はその恵で、進化した者として、意識的に能力を使える者として、この地球に誕生することができた。私たち了我族が生まれるには、グラビティ・ゲートの向こう側に充満する具現化エネルギーを背景に、両者のエレメントが結合した、魂の受容に値する高波動の人体も、こちら側の世界に必要だったのである。
 私たちが命を吸い取ったせいで、消耗し尽くした人生の末路が、二世代分は年を取っているであろう干し柿のような萎れた老婆の姿だったら気が滅入るのも仕方がない。私たち姉弟は、若い頃のハートと瓜二つの容姿をしているのだから尚更だ。責任を感じる。
 その点、ニヒルは全く母親とは似ても似つかぬ顔立ちで、猫科の動物っぽくキレイではあったが、俗物の父親に似ていた。それが余計に気づきにくくさせていた。
 でも能力に関してはニヒルの方が母親にそっくりだ。離れて育っても、こんなところで家族の絆を感じるなんて。まったく、うまくできている。
 2人の共通する能力、それは重力を用いたシンクロによる位相の変容だった。ハートがこの地球に初めてグラビティ・ゲートを開き、了我族が生まれる素地を作った。それからみんなの準備が整うまで、長らくの静観の時を経て、2人の共通する人物、アナーキーが起爆剤となって沈黙を破った。
 ハートはすでに、宇宙が育む創造の世界でアナーキーを知っていた。その男が急に目の前に現れたとしたら……、だから叫んだ。親からしてみれば、この男と共謀して連続殺人犯になってしまった娘の人生を嘆いて。一蓮托生の破滅的な愛に溺れ、幸せから道を踏み外す娘の盲目を嘆き悲しんで。怒れる破壊的な異端者を社会が自動的に排除する必然に、追い詰められる娘の窮地に嘆き苦しんで。親心が宿命に反発したとしても、逃れられない瞬間がニヒルに訪れたことに嘆き乱れて。
 宇宙の大いなる意志は、ハートの視線を通じて、アナーキーに重心を据えた。瞬時に、アナーキーの価値観を中心とした世界が、グラビティ・ゲートの向こう側に立ち現れた。パラレルワールドの形を成す地球そっくりの、その世界は、アナーキーにとっては本来の居場所であった。その世界と本格的に共鳴し始めると、他人が勝手に作り上げたルールや評価基準に、支配、束縛、洗脳されて生きていかなくてはならない今の、この世界は茶番以外の何ものでもなく、一層、無駄な人生としか思えなくなり、影が薄くなっていった。
 それをハートが脳内でキャッチすると、シンクロが起こり始めた。アナーキーに重心を置く新しい世界が、異なる次元を超えて、現在の地球軸にピッタリと重なり合った途端、情報を携えた具現化エネルギーがグラビティ・ゲートから勢いよく、こちら側へと一気に吹き出してきた。それは重力波となって地球を駆け抜け、両者の位置を完全に入れ替え、地球の位相を変容させた。
 世界はアナーキー色に染まった。はみ出すのが苦手な同調主義の日本人は夜の歓楽街でのみ羽目を外した。自分に正直な諸外国では素直に喜びを表現する者が多かった。日頃のストレスを発散するには丁度いい開放的な暴動が各地で巻き起こり、お祭り騒ぎに人々は沸いた。集合意識を汲み取った宇宙は、それを見越して彼を選んだ。
 最もポピュラーなものが、店の窓ガラスを割りまくって商品を略奪する資本家階級からアンダークラスへの過激な富の再分配だ。プロレタリアートや社会風刺をモチーフとしたメッセージ性の強いストリートアートが壁に描かれ、みんなで酒に酔い、歌い喚き、愛を交わし、友達ができ、殴り合い、手持ち花火をブン回し、賭けに興じた。車列の上を移り飛んでハイタッチしながら燥ぐ連中もいた。時系列で見ると、変容前に無かったものが、変容後はあるのが普通だったりした。逆も然りで、物事の推移が少しだけ変わった。
 それこそニヒルとの出会いは、アナーキーが求めてやまない理想の恋愛だった。心からお互いを認め合える究極の出会いと言っていい。やっぱり単純で、かわいいとこがある。裏を返せば、それほど愛情に飢えていた、里親をたらい回しにされて誰からも必要とされなかった昔の境遇に、未だ癒されない憎しみと悲しみを抱えていた、ということだろう。ダークヒーローが本当に欲していたのは、傷との和解だったのかもしれない。
 でも、そんなアナーキーの取り繕わないバカ正直な性格は、ニヒルの殻を抉じ開けた。極限にまで溜め込んだエネルギーの大噴火を、宇宙は許した。彼ら、彼女らに、カルマを払わせた。誰もが身軽になるために。
 ぎこちない部分は残るものの、ニヒルに無邪気さが戻ってきた。人に心を開く楽しさ、人を愛する素直なトキメキを、ちょっとずつ受け入れだしていた。それを、社会的正義とのたまう輩がニヒルを奈落の底に突き落とした。オープン・ザ・ゲート。
 ニヒルを救えるのは、ここでもやはり彼しかいなかった。

     3

 ダ・ハリ広場の中央に、青く光る半透明のニヒルがいた。アナーキーの右足を挟み込むように跨いで膝立ちし、彼の上半身を起こして、プロポーズの言葉が入った封筒を持ったまま、右手を背中に添えて支えると、左手で、彼の後頭部を鷲掴みするような、狂おしい手つきで自分の胸に抱き、愛おしそうに項垂れ、固まっていた。
 ニヒルの胃部で、ダイヤモンドの輝きを見せながら渦を巻く光の輪と、その内側にある暗黒は、ニヒルの想いを受けて、アナーキーを呑み込もうとしているところだった。
 ハートは神の思し召しに適うことを最上の使命としてグラビティ・ゲートの開通に身を捧げたが、ニヒルは、グラビティ・ゲートの番人、いや遣い手にして、今や、この地球の創造主でもあった。
 2人の決定的な差は、ハートには裏切り夫への怒りはあっても相手をどうしたいとか、そういう考えは全くなくて、アナーキーにも、そこには娘の人生を案じればこその嘆きがあるだけで、この男をどうにかしたくて、ハートが扉を開いたわけではなかった。
 それに比べて、ニヒルには、アナーキーと離れたくない、誰にも渡したくない、という感情的だが確固たる意思があった。つまり、愛にしろ、復讐にしろ、次を生み出す要因となる意思表示の有無が、異なる現実をもたらしたといえる。
 また、俗物の父親とのハイブリットは、高低どちらかに波動を偏らせるというよりも、受容ならびに表現できる個人の可動域を大幅に広げる作用があったのではないだろうか。その証拠に、起動要因でもある危険水域を下げることによって、波動の多様性は保たれ、暗黒とさえシンクロできるようになっている。
 結果も、高波動を誇るハートは、自己を超越した高次の集合意識との結び付きにより、私たち了我族を誕生させるに至ったのに対し、低波動をも使いこなすニヒルは、爆発するような心的エネルギーの純粋な流れを体感したことで、自我の容認からくる悪の許容性の獲得という到達が、相反する光と闇を同時に扱えるようになったと考えられる。
 だとしたら、審判とは何か。
 それは、この地球における、延いては宇宙における、位相の変容に深く関係する。森羅万象には生々流転が付きものであるように、人の行いにも例外はない。何かしらの理由でサイクルが終わりを迎えようとしたとき、次の位相を決めるのが審判である。
 人間レベルでいえば、悪行を好む者は、自らの悪行が戻ってくる環境に身を置くことになるし、善行を積む者は、それに見合った真善美を受け取ることになるという、まさしくあの因果応報の判断が下される、移り変わりの境目を指す。
 審判機能、それ自体は多方面に渡って遍く点在しているけれど、ハートとニヒルほど、シンクロ能力が高く、優れた創造性や感受性を合わせ持つ天性の才能豊かな人物は滅多にいない。だからこそ集合意識の思いを乗せて、宇宙の大いなる意志は、彼女たちに審判を託した。法律では裁けない罪、目には見えない悪意、無知や偏見が惹き起こす名誉棄損、濡れ衣を着せたがる群集心理、隠蔽される暴虐非道の数々、こいつらは人の足を引っ張る地獄の亡者と同じだ。そうした気づかれにくい一端にも光を当て、誰もが真実を理解する分かりやすい世の中になってほしいと、心から願っているのだ。
 実際問題、ニヒルの人生も尊厳を奪われた奴隷だった。
 自分の方が格上だと思い込んでいる男は、差別の下、常日頃からニヒルに暴言を浴びせ撒くっていた。その様子は、真実を映し出す創造の源でも具現化されていた。男は高台に住み、一段下の彼女の住宅地に下水を垂れ流し続けた。彼女の庭は汚水まみれになった。ニヒルを侮っている年下の女は自ら巨大ナメクジになって、お前をナメているとわざわざ体現する者もいた。ニヒルは吐き気しかしなかったし、人間の姿を維持しているニヒルと巨大ナメクジ、どっちが良いかは言うまでもない。権力者に好かれている遣りたい放題のわがまま女は、ニヒルの首の後ろにヘドロをかけて嗤っていた。それを目撃したら、誰がそんな女を好きになるだろうか。真面じゃない。夜、家の裏から、じっとニヒルの様子を窺い、裏口から大鉈を持って侵入してきた陰湿な女もいた。まさにホラーだ。頭でっかちそのままに、肩幅の3倍はあろうかと思われる不均等に膨張した頭部を持つ男は怒り顔で屁理屈に従わせようとしていた。心底、見損なう。三十代のいい大人が未熟な少年の姿に戻って、死ねと言いながらニヒルに石を投げつけていた。職責を果たさず、他者に迷惑をかけている自分の無能さは棚に上げて、仕方なく問題解決に着手したニヒルに立場を悪くされた、プライドを傷つけられたと逆恨みし、その後も折を見つけては、ニヒルの価値を下げる悪口に余念がない男。同じ穴の狢は残念ながら多い。寄り集まって陰口を叩くのが好きな人たちというのは犇き合うゴキブリに等しく、サソリは常に毒針を刺そうと足元を狙っているし、金を奪うことだけが目的の悪徳業者は川に大量発生している蚊であって、涌き出る悪意は蛆虫となって天井から降り注ぎ、ニヒルを気持ち悪がらせた。
 このように、神の片鱗を与えられし人間は、意図せずとも思考を以って自らを創造しているのである。生きとし生けるもの、すべては繋がり、影響を及ぼし合い、互いに本質を露わにしては己を知り、心が赴く方へと自らを作り変え続けているのである。
 これまで地球では神の恩寵により、精神が形象化するには物理法則がボーダーラインとなって変容のスピードが緩められ、吟味、ろ過され、物事の調和が一定に保たれていた。加えて、マス層を作り出す思想の共有にも、善悪抜きに人々を団結させる磁力があった。しかしながら、集合意識に堆く積もる思念が限界点に達している今、機は熟した。
 目の前で行われている現実と、創造の源で反映される真実との間には、いかに隔たりがあるか。それを知る人間が、いかに少ないか。グラビティ・ゲートは、その両方の側面をニヒルと共に体感してきた。痛みを伴う、その差異を埋める必要があった。集合意識が、彼女の素直な想いを尊び、同じ願いが部分的に合致することを認めると、宇宙の大いなる意志は、それらに突き動かされるようにして、彼女に重心を据えた。
 ニヒルに宿る秘められし力が覚醒した。
 アナーキーを失った悲しみが扉を開かせ、虚無に沈む心が暗黒を呼び寄せた。
 光と闇が、形を持って現れた。
 ごく僅かな人たちであっても、人を愛する無垢な心が、輝くダイヤモンドの光となって魂を消滅から守り、魂を引き摺り落とす力がある憎悪や攻撃性、復讐心が、暗黒となって目の前にある現実を吸い込み始めた。
 夜光虫にも似た色合いの、青く光る多次元存在へと姿を変えたニヒルの半透明の身体の中に、アナーキーの肉体がゆっくりと前屈みに倒れていき、グラビティ・ゲートに触れた途端、輝く光に包まれ、一体化し、暗黒に呑み込まれていった。
 トゥエルヴとエンリコが広場に到着したのは、それから30秒後のことだった。

 ダ・ハリ広場の中央では、トゥエルヴがトリップして見ていたシーンと全く同じ光景が繰り広げられていた。哀愁漂う美しい光の彫刻にしか見えないニヒルの胃部に、そいつは紛れもなく、あった。空中に浮かんでいた銃までもが輝く光に包まれ、花のバスケットも同様に、グラビティ・ゲートに吸い込まれていった。次は、まるでニヒルに襲いかかっているような格好で空中に浮いている3人の警官どもだ。容赦なく近づいていく。
「エンリコ、これ以上、吸い込ませないように、ここで見張ってて。
 私は幽体離脱してアナーキーを連れてくるから」
「そんなこともできたの?」
 素直に驚きながら、ゴミでも捨てるような手軽さで、警官3人をブン投げた。遠巻きに見ていた人垣も、こちらに傾斜して吸い寄せられているとはいえ、それを超える怪力だ。その後の彼らのことなんて眼中にないのは言うまでもない。
 トゥエルヴは、ショウウィンドウから離れた壁際に寄り添って寝そべると、自由に動き回ることができるトリップモードの意識に自分の身体を持たせ、本体から抜け出す様子を思い描いた。少し透けた魂の分身が、むっくりと本体から上半身を起こし、立ち上がって離脱した。透明度3割といったところか。意識だけを飛ばすよりも自由度は断然、下がるけれど、肉体より遥かに自由だった。幽体離脱したトゥエルヴは状況を確認すると空中にふわりと舞い上がり、10メートル離れた高い位置からアナーキーの姿を念頭に置いて、グラビティ・ゲート目掛けて思いっきりダイブした。輝く光は、幽体であっても例外なく包み込み、守ってくれた。トゥエルヴは、宇宙空間に意識を飛ばしたときの、裸の生命が住めるはずもない冷厳で無慈悲で殺伐とした大気圏外の環境に、一瞬で心臓が凍りつき、すぐに逃げ帰った経験があるだけに、優しくて温かみのある光の保護膜は本当にありがたかった。それでもグラビティ・ゲートを潜り抜ける際には、到着先の条件に適応すべく、異質な空気層が幽体を貫くため、恐怖を感じずにはいられなかった。辛抱は、体感で1分ぐらい。何の感触も無くなった段階で、もう大丈夫かなと思い、目を開けた。

 やって来た世界は、妙に暗く、満月が出ているにも拘わらず、すべてがグレーがかって見えた。色のない暗い街中の、建物の角に彼はいた。
 そこはビジネスホテルの1階にあるレストランで、通りから見えないように死角となる壁にピタリと身を潜めて様子を窺っていた。右横には小学校1~2年生と思われる小柄な女の子も一緒にいて、キャリーバッグの取っ手を掴み、隠れんぼでもしているときみたく気配を消していた。
 密かに角から通りを覗き込むアナーキー。手には銃が握られている。トゥエルヴも気になって警戒している対象に視線を移した。通りには、男性が1人こちらに向かって歩いて来ている。スローで覚束ない足取りだ。ちょくちょく立ち止まっては辺りを見渡し、何か探し物をしているふうでもある。満月を背に、奇怪な影が周辺を覆い尽くしているせいもあって、シルエットしか見えず、顔が全く分からない。
 突然、アナーキーが通りに飛び出した。相手を確実に仕留めることができる射程圏内に入ったと見て、胸と頭に隙なく発砲。あまり人間が発しないような、男性の低い咆哮とも呻き声ともつかぬ断末魔が聞こえてきて、背面から倒れた。
 すると、仄かに世界が明るくなった。正確には、グレーがかった影が薄くなり、満月の夜らしい本来の景色を、いくらか取り戻した。
 アナーキーが近づいて行って、死人を足で蹴って確かめている。全く動かない。なぜ、そこまで用心深く、しかも殺す必要があったのか。その理由は、男の姿を見れば一目瞭然だった。眼窩は落ち窪み、目は白濁し、痩せこけた頬には干からびた薄い表皮が辛うじて乗っかっている有様で、左の頬から口にかけては皮膚すらなく、肉や歯茎が剥き出しで、血が洋服にまで滴り落ちている。その血が本人のものか、他人のものかは定かではない。トゥエルヴは、それを10メートル離れた空中から見下ろしていたが切りの良いところでそっと、アナーキーの前に着地し……、「うわぁ!」驚いて銃を向けられた。
 ぼんやりとした独自の白光を身に纏い、さらには、この世界のルールに基づき、曇った街灯のような、それでいて3割透けている人間との遭遇に、「幽霊?」と訊かれた。
 しかし、それには答えず、いきなり本題から話し始めた。
「私はトゥエルヴと言います。ニヒルとは父親違いの妹です。不躾な質問で恐縮ですが、あなたは死後、こちらの世界に来られたことはご存じですか?」
「ああ、確かに俺は、銃で撃たれて死んだ。ちゃんと憶えてるよ。目が覚めて、こういう世界があることを知って驚いてるんだ。ところで本当に、あんたニヒルの妹?」
 それにも答えず、本題に乗り出した。
「信じられないかもしれませんが、姉には特殊な能力があって、あなたは今、姉が開いたグラビティ・ゲートを通って、姉の心と融合した世界にいるのです。あなたを失った姉の悲しみは留まるところを知らず、地球上のあらゆるものを暗黒の世界へと引き摺り込んでいます。このままでは姉自身、どうなってしまうか見当がつかないし、違う世界に生まれ変わったとしても、今の精神状態では暗闇に囚われていて、ここもいずれ、消えてしまうかもしれません。ですから、どうか私と一緒に戻って、姉が、自分を滅ぼすほどの危機に直面していること、たとえ、あなたが死んで居なくなっても、別の世界に存在していて、2人は結ばれていること、これからは私と弟がいるから、母親と同じ血の繋がった家族がいるから、何も心配しなくていいと伝えてもらいたいのです。アナーキーさん、あなたの愛しか、姉を救うことができないのです」
 急ぎ足の心からの訴えに、アナーキーは度量の大きさと誠実さで応えてくれた。
「ニヒルに逢えるんなら、どんな理由でも行くに決まってんじゃん」
 少女が走ってきてアナーキーの腰に抱きついた。
 アナーキーが微笑むと、少女も「いってらっしゃい」と言って、ニッコリした。
「では、どこか横になれる安全な場所はありますか?」
「それなら俺たちの根城に来るといいよ。ここのホテルにいたゾンビは全部やっつけて、施錠も完璧だから、窓ガラスが割れて突破されない限りは大丈夫。それに上階のスイートルームで静かにしてれば襲われないし。あっ、ちょっと待ってて」
 さっき隠れていた角に戻ってキャリーバッグを持ってきた。
「ジョーカーっていう友達がさ、ガンショップ開いたんだ。マジ尊敬するよ」
 その友人の店で、弾丸を買ってきたと話す。
 ホテルの正面玄関を鍵で開き、入ると、すぐに閉めた。アナーキーが懐中電灯を点けて真っ暗なフロアを先導する。ロビーからは見えない奥まった所にエレベータはあった。
 電気が通っている。主要な部分だけ、分電盤のスイッチを入れているそうだ。
 トップフロアの14階で降り、カードキーでロックを解除する。ビジネスホテルでも、さすがにスイートルームともなると部屋は広く、お洒落で別格といえた。
 2つあるうちの手前のベッドに靴を履いたまま大の字で仰向けになり、置いてけぼりの寂し気な女の子に「ちょっくら行ってくるわ。ちゃんと戻って来るから、ホテルの外には絶対でるなよな」とウインクをした。
 トゥエルヴは、アナーキーの額に右手をかざした。
「目を瞑って、体の力を抜いて、息を大きく吸って~、吐いて~」
 それを何度か繰り返し、アルファー波に入ったのを感知した。トゥエルヴは、寝ているアナーキーの首の下に左手を差し込んで幽体を起こした。離脱した上半身は、いつもとは異なる、風が体内を擦り抜けていくようなソワソワとした不自然さに、目を開いた。
 まずい。興奮時に見られるベータ波に戻りそう。トゥエルヴは、軽く本体に乗っかり、幽体の後頭部を両手で下から支え持ち、目を優しく見つめ、安らぐ呼吸法を一緒に行い、トゥエルヴの脳波と共振するように気を送り続けた。
 ようやく、アルファー波とベータ波の程良い中間地点、身体はリラックスしているのに頭脳は明晰であるという最もパフォーマンスが高いSMR波、いわゆる低ベータ波で落ち着きを見せ始めた。今なら行ける! 
 アナーキーと手を繋ぎ、ニヒルを念頭に置いて一気に飛び立った。
 共振していると思考も直感で伝わり、楽でいい。一々、説明する必要がない。ただし、透明度3割ということは物質の度合いが7割もあるわけだから、天井を突き抜けるときに感じる体内の摩擦熱と不快感は、さぞかしアナーキーにとっても悪態を吐く初体験になるだろう。そうした感覚は、共振では先に十分に把握しづらい。だから抵抗感のある緊張が伝わったとしても理由を話してあげるわけにはいかず、また自殺防止にベランダがなく、空気の入れ替え程度にしか窓が開かないため、他にルートはなく、すぐにメインどころのグラビティ・ゲートに向かって、すげなく猛スピードで駆け抜けるしかなかった。
 2人は、光となって大気圏に攻め入り、次元の壁を切り裂いた。
 再び、異質な空気層が幽体を貫く。観念し、それを超えた先に、元の世界はあった。

 トゥエルヴがダイブしたあとのエンリコは、タンポポの種が、そよ風に乗ってフワーと飛んでいるぐらいの早さしかない引力に余裕ぶっこいていた。まずは人から離しておけば間違いないと判断し、近寄ってくるのを待たずに自分から仕掛けた。
 人垣の前に立つと、遣りやすい男から手を付けた。斜めに傾いている体を、しゃがんで立ち上がる勢いをバネにして遠くに飛ばした。グラビティ・ゲートの引力と相殺されて、大して怪我することもないだろうと踏んでいた。女性や子供は、さすがに投げ飛ばすのは気が引けると思い、両肩を軽く押して、ひっくり返し、手首や腕を掴んで1回転しながら徐々に、石畳に体が擦れない浮かんだ状態で、スライド着地するようコントロールした。結局は怪我しない巧みな投げ方をしているだけとも言えたが。妊婦は、風船みたいに手を持って空中を引っ張り、もう片方の手でベビーカーを押し、赤ちゃんを胸許に抱いているお母さんは、赤ん坊ごと母親を、お姫様抱っこし、幼児は小脇に2人抱え、老人も二刀流風船で、鍵の掛かる屋内に連れて行った。
 と、そこで、他も同じように避難させておいた方が良いことに気づき、近くにいた人を中に入れて手動で鍵を閉め、自動ドアや自分が出た扉の鍵は、強い集中力を要する念力、サイコキネシスで、外から閉じるという動作を繰り返した。
 いくら身体能力が高いエンリコでも、1階部分を1周しているうちに、バッグや帽子、手荷物、イルミネーションの豆電球、飾り、おもちゃ、花、植物、種が入った袋、雑貨、カフェテラスの客、スタッフ、備品一式、飲食物までもが、結構ヤバイ距離に、たくさん寄り集まっていた。
「どうするよ、これ」愚痴らずにはいられない。
 心配になってトゥエルヴを見た。動いていない。オレたちは影響を受けないようだ。
 ホッとして、バレー選手さながら手首のスナップを利かして叩き飛ばし、ホームランをかっ飛ばすかのごとく上空に打ち返し……。
「おっと、上からもか!」すっかり油断していた。
 思念が止まっていると気配を読むことすらできない。たぶん空中庭園やビアガーデン、展望台かなんかだろう。おまけに向こう側の高いビルからも飛来しているはずだ。全部の鍵を、サイコキネシスで閉める芸当なんて有るはずもない。
 現実的に考えて、何か使える物はないかと辺りを見渡し、カフェメニューが書いてある小型の黒板が近くに漂っているのを見つけ、掴み取って片っ端からブン回し、テーブルや椅子には蹴りを入れ、とりあえず、ヤバイ距離にある小物を遠ざけた。
 これでバイクを場外に、退避させる時間が稼げた。
 戻ってきて、今度は頭から突っ込んでくる、ゆるいロケット弾のような人間をどうにかしなければならなかった。
 10、20、30メートルと、わざわざジャンプしては、建物を跨ぎ越す裏側へと1人ずつ払い除けた。まとめて相手にできる直線が見て取れたら躊躇なく空中スライディングをやって壁際に押し退けた。下にズリ落ちるのもスローなので、遠慮なくジャンピング・アタックをブチ噛ませる。壁への激突、衝撃は、もちろん責任の範囲外だ。
 それにしても我ながら、これだけ複雑な任務を、なかなか上手く処理できていると自画自賛したくなる。人と物を含め、かなりの数に、タイミングもバラバラで、それを単独でこなしているオレって凄くねぇ? そんな自分を誇りに思いつつも、救いの手を休めない大人の対応をしているオレって偉くねぇ? こんなビッグな話を研究所のみんなに教えてあげたら、それこそオレへの尊敬と憧れが止まらなくなるんじゃないのかな。トゥエルヴじゃなくても簡単に想像がつく。帰るのが楽しみだ。無事、任務を遂行して、早く羨望の眼差しと褒め言葉をシャワーのように浴びなくては。それがいつだって、ホットに調子を上げてくれるオレの大事なインセンティブだった。それなのに、ネクタイを緩めた笑顔の酔いどれサラリーマンを次々に放り投げている丁度そのときに、背後からピカッと敗北の明かりが射して、あえなく称賛タイム終了。がっかりして振り返った。
 グラビティ・ゲートの周囲には、ビアガーデンより空中宅配された料理が、ふんだんに浮遊していた。
 割り箸と、その袋が連続吸引。ドリンクグラスにビアジョッキも、液零れさえ許さずに強力吸引。焼き鳥やら枝豆やら板わさが乗った小皿が、まだ食いかけなのに勝手に下げる店員みたいに、どんどんグラビティ・ゲートに片付けられていく。
 それを間近で眺めていると、初めて会う姉貴の腹に、ポンポン入っていく度にピカピカ光るのが何だか笑けてきて、ついでに腹も減ってきて、大皿に盛られているウインナー、ローストビーフ、サーモンマリネ、チキンやゲソの唐揚げ、ポテトフライを摘み始めた。喉が渇いたらピッチャーごとオレンジジュースを飲んだ。やっぱり小休止も必要だ。
 そもそも完璧にしようとしたのが無駄な努力だったのだ。箸とか食い物とか無くなったところで誰が困るっていうんだ。姉貴に表れた壮大な宇宙の奇蹟を見つめながら、発想の転換が大切なことに改めて気づいた。もっと人間に集中しよう。
「さてと、人助け、人助け」
 近視眼的な完璧主義を反省して、首を振りふり、異常事態における優先度を調べた。
「うん? あっ、あいつらは!」
 トップバッターの警官3人どもがUターンして、すぐそこまで戻って来ていた。背泳ぎスタイルの突き出た腕を掴み、暑苦しい鬼瓦顔をガッツリ直視してしまい、生理的に消し去りたい気持ちが沸々と湧き上がってきた。
 今度は遠心力4回転投げを「とうりゃあー」と気合い入りで喰らわしてやった。大声で「ああああー!」と叫び、解放感を味わいながら吹っ飛んでいる姿を見送っていた矢先、デパートのガラス扉に体がビッタリと張り付けられている人たちの背後が視界に映った。大きめの棚とか、商品をディスプレイしているテーブルとか、ずっしりとしたヘビー級の品々が後ろから圧迫していたのだ。
 エンリコは蒼褪め、速攻で精神力を集中させ、1階の鍵を全部開錠した。
 案の定、立ち眩みがし、これ以上は無理だと過去の経験から断念した。
 それなりにチラッと確認していたし、今でもパッと見、ガラス面にへばりついて無事な人たちも大勢いる。それに、命を失くすより多少の怪我なら、そっちの方が断然マシだと思っていた。それがまさか通路奥から、あんなデカい物が、あんな大量に押し寄せていたなんて。これじゃあ吸い込まれる前に死んじまう。
 残存する警官2人を除去したその足で、ちっちゃい子から順番に、セーフティレベルが高い部屋に適切な人数を集め、廊下、化粧室、床に固定されたカウンターの裏や壁などを利用して、間隔を保つ救助活動を遣り直した。場合によっては空中遊泳しないように足を緩く紐で結んだりもした。花屋、雑貨屋、飲食店、ブティックといった小ぶりのショップでは、始めから人選も合わせて最適解の所もあり、そこいらに出てきてしまった人たちをまとめてイン再度するだけで済むこともあった。
 教会までの縦の長さが200メートル、横幅が100メートルある広場を、エンリコは懸命に駆けずり回った。100メートルを3秒台で走り切る俊足で、ずば抜けた回復力の持ち主ではあれど、何かと遣ることが多く、スタミナが減らないわけではなかった。
 ネガティブ要因は他にもある。ダ・ハリ広場の出入り口が、人々に開かれているという意味を持つ教会には両側に、駅の正面には1ヶ所、長辺側の建築物にはアーチ型の通路が各2ヶ所ずつ設けられており、計7ヶ所の通り道から、ひっきりなしに一切合切が雪崩れ込んでいた。スルーしている上の階だって極限状態にあるのは明らかだ。
 エンリコは焦った。増加していく一方だというのに解決方法が見つからない。悪い予感ばかりが胸中を過る。避難させることすら儘ならない。投げ返すのがやっとだ。それこそ空間に直線上の隙間を探すのも難しくなってきた。下から斜め上にポイ捨てするだけなら少しは楽だが、逆行してくるヤツに、ぶつけないようにするのは一苦労だった。
 空中を吹っ飛んでいく人間の各部位に人や物が当たり始めた。コースが乱れる。待ったなしの、この差し迫った窮地に、飛ばし続ける以外、何ができるというのか。エンリコは豪腕を振るい、腕力に物を言わせ、頑張った。踏ん張った。
 空中乱舞の様相を呈するダ・ハリ広場では、ついに、人間ピンボールと化した予想外の進路変更に為す術がなくなり、人類初の生ある犠牲者が出た。その人は、地味なスーツを着た、よくいる普通のOLのお姉さんだった。
 サッカーで、ゴールキーパーの守備を割って入る見事なシュートのように、エンリコが気づいたときには遅かった。目で追うのが精一杯で、戻っても後の祭りでしかなかった。それでもエンリコは、仕切り直す暇さえなしに動き続けた。
 偶然にも、レイバックスピン、ムーンサルト、大車輪といった必殺技を目撃するほど、空中は混み合い、混迷を極めていった。
 すでに被害者は数十人に上り、建物は軋み始め、一刻の猶予も許されない状況だ。
 エンリコは、最後の頼みの綱であるトゥエルヴに、泣きの懇願を入れた。
「トゥエルヴー、早く帰ってきてー、これじゃあマジで、持たないよー」
 必死にディフェンスを固め、大声で頼んだ。
 恥の掻き捨ても虚しく願いは届かない。建物が悲鳴を上げる。これって、もしかしたら引力が強くなっているのではないだろうか。
 心配した直後、同じ規格で作られた上階の窓ガラスが、すりガラスも含め、一斉に音を立てて砕け散った。何とも危険に満ちた残酷でゴージャスな音色の響き。柔らかい肉体に無条件に突き刺さる。
 強化ガラスの全面に、人間とマネキンがコラボして、秋冬お勧めコレクションが斬新に張り付いて並ぶデパートも、少し遅れて破裂した。
 これで投げ飛ばすのは不可能になった。跳ね返りを想定すれば、ガラス片に当たらないコースなど皆無といえる。それに、やっぱり吸引力が増していて動きが速くなっている。
 壊れた窓から一挙に流れ出る、たくさんの人と物。窓枠に引っ掛かっている家具の類や調度品も、外壁が崩壊するまでの話であって、そうやって、すべてが破壊され、すべてが無に帰す運命を迎えているなかで、エンリコは、どうしようもない無力感に苛まれた。
 助けたとしても、それは一時的な回避でしかなく、自分一人の力で解決できるレベルをとっくに超えてしまっていたからである。ただ茫然と佇み、圧倒され、見通しを憂いた。
 これと同じ惨劇が、ダ・ハリ広場で起きている底なしの壊滅と消滅が、このあと世界に広がっていくのだ。そう思うと戦慄が走った。
 と当時に、グラビティ・ゲートから飛び出してきた輝く光が半円を描き、10メートル離れた空中で急停止すると、周囲に拡散するように光が解け、斜め頭上からニヒルと対面する格好で、待ちに待った2人が帰ってきた。「トゥエルヴ!」

 アナーキーは、空中でグロッキーになっていた。口元を押え、吐き気を催しているのが傍目からも窺える。気分が悪くても吐瀉物が出ないのを知っているトゥエルヴは、広場の惨状を見て、可及的速やかに、事態の収束に努めなければならないことを理解した。
「さすがにオレじゃあ、もう無理、止められない」
 エンリコの視線を捉え、分かっていると頷くトゥエルヴ。
「アナーキーさん、姉の意識が戻ったら、まずは周りを吸い込んでいる力を抑えるように言ってもらえませんか」
 トゥエルヴが、アナーキーの背中を押す。ちょこっと進んで止まり、トゥエルヴがいる左横を向いて頷き、ニヒルのもとへと降りて行った。視線は合わなくても十分だった。
 エネルギーを遣い過ぎたトゥエルヴは自分の身体に戻って彼らに合流したあと、少しは休めるだろうと予想した。しばらく見物と決め込もう。
「トゥエルヴ、お帰り!」
 幽体を追って、壁際で寝そべっているトゥエルヴが起き上がるのを嬉しそうに出迎えるエンリコ。たちどころに希望と元気が回復してきた。
 トゥエルヴは、帰還して間もないというのにアクシデントに備え、逢瀬の邪魔をしない距離まで歩み寄ろうとしていた。エンリコは、自ら率先して通路スペースを確保するべく障害物を排除し、何かしらに当たって怪我しないよう疲れているトゥエルヴを気遣った。
 そして、了我族は再会した2人に立ち会い、成功を祈りながら、天下の行く末を近くで見守った。

 人が、どんどん飲み込まれ、輝く光が途切れることなく辺りを照らす。それが余計に、ニヒルを見ると辛く、儚く、物悲しかった。
 1人、青く光るだけの存在、そのフォームは失意のあまり、死んだ俺を抱き締めたまま動かなくなってしまった姿であることは容易に察しがついた。
 デリートしたい気持ちは分かる。俺だって一緒に楽しんでいたぐらいだから。だけど、ニヒルが悲嘆に暮れていたんじゃ意味がない。究極、他は、どうでもいいんだよ。一番、大切なのは、ニヒルが幸せになることなんだ。笑顔でいられる人生なんだ。
 アナーキーは、全身全霊の愛情を込めて呼びかけた。
「ニヒル、俺だよ。アナーキーだよ。ニヒルに逢いたくて戻って来たんだ。聞こえる?」
 わずかに頭がピクンと持ち上がった。それから半信半疑といった様子でじわじわと顔を目の前に立っているアナーキーに向けた。
「ア、アナー、キー。ホン、トに、アナー、キー、なの。ど……して」
 何だか喋りにくそうだ。油を差していない旧型ロボットみたいに言葉も動作もギシギシしている。
「あぁー、ニヒル。可哀そうに。話したいから一先ず、この吸引どうにかできない?」
「ワ、タシ、なに、も、して……、あっ、シ、テタ。わた、しの、セイ。どう、ヤッタかワカラ、ない。えい、ぞう、が、ミエ、ル」
「お前のせいじゃないよ。神様がニヒルに与えた能力なんだから反省する必要なんて全くない。俺も幽体離脱っていうニヒルの妹の秘技で、こっちに来れたんだ。
 それより幽体だと俺の体の中を勝手に許しもなく、いろんなもんが通っていくからマジ気分悪くてさ。吐き気がするんだ。急かすようで申し訳ないけど、どうにかしてくれたら真剣にありがたい」
 もう1度ニヒルは首を下げ、先程のポーズを意図せず再現し、何かを考えているようであった。次の瞬間、グラビティ・ゲートを縁取るダイヤモンドの輝く光が世界に拡散し、こっちに来たときと似た感覚が、アナーキーを覆った。
 眩しい光の衝撃波に、反射的に目を閉じる。
 変容エネルギーが収まった静穏さを幽体で察知し、ぐるりと周辺を見渡したら、直径、約20メートルはある、薄っすらと輝くドーム型のバリアが作られていた。
 その中心には俺とニヒル、3~4メートル離れてトゥエルヴと背の高い弟らしき人物がいて、他人は、みんな外で、ゆるゆると雑多な物に紛れて落下していき、そろりと地上に積み重なっていった。
 ニヒルの体内にあるグラビティ・ゲートは、ゴルフボール大にまで縮小していた。
 煌めく渦は、見入ってしまうほどの鮮明な暗黒に惹きつけられていた。こうして、輝く光が落ち着きを取り戻した分、彼女の青く光る身体は神秘的に際立った。
 ニヒルが、おずおずと顔を上げる。アナーキーは何も考えず本能的に膝立ちになって、彼女の高さに合わせ、いきなりキスをした。
 空気なのか、粒子なのか、異次元の境目なのか、弾力性のある表層的な手触りを彼女の身体に感じた。喜ばしいことに唇でも、それを味わえた。新感覚のキス。気持ちが昂る。興奮はニヒルの欲望にも火をつけ、官能を享受し、求めては与え合い、無言のうちに愛を伝え、確かな絆を熱く絡ませた。
「コッホン、ゴホン、ウッ、ゲホッゲホッ、ウンー、喉の調子が」
 古臭い手口でニヒルが横槍を入れてきた。弟は、あからさまに興味津々だ。
 完全に我を忘れていた。それくらい良かったってこと。それも俺たちの境遇を考えれば仕方ないだろうって思うが、そのために来たんじゃないっていう痛い視線が、トゥエルヴからビンビン送られてくるので、先に進まざるを得なかった。
 キスをしながら少しずつ動かせた手を、ニヒルはアナーキーの背中に回していた。
 互いに笑みを交わし、アナーキーが体勢を組み直してニヒルの腰に手を当てると一気に立ち上がった。キャッと驚き燥ぐニヒル。フィギュアスケートで頭上高くリフトしているペア並みにサマになっていた。
「ちょっとずつでいいから脚を伸ばしてみて」ニヒルを労わってリハビリを促す。
 これなら咳払いしなくていいと、トゥエルヴは安心した。
 真っ直ぐに伸びた両脚を石畳の床に乗せて立ち、隠しきれない喜びと照れくさい表情で見つめ合い、手を繋ぎ、触れたまま、愛する恋人たちは話し始めた。
「アナーキー、に、呼ば……れて、まわりがトテモ騒が、しく、散らカッて、目障りダタ。そ、したら、もひとりのワタシが、望んだセカイ、ユキが、ふる、雪原のナカに、いた。しずかで、青く、仄暗い、やすらぐ、バショ、わたしの、一部が、いまも、そこにいる」
「そうかー、だからかなー。バリアの外で一遍に落下しているのは。こっちは雪みたいにキレイでも情緒的でもないけど。でも、雑然としていた環境が鎮まっているのは、通じるところがあるよね。ありがと」
 意外に鋭いとニヒルは思った。影響力とは多方面に渡って行き来しているものであり、強弱はあっても片道切符ということはない。地球上の意識が創造の源に働きかけるだけでなく、創造の源において創られた世界が地球に反映されるのも、また真実なのである。
 現在、ニヒルの重力下にある地球では、ニヒルの思想こそ、具現化の度合いやペースはトップクラスだし、わざわざ正確な想像をしなくても価値観の核心をついて、世界は創り出される。アナーキーの指摘する相違と共通が生まれてくるのは、そのためだ。
「俺はね、撃たれて死んだあと、ここで目が覚めたんだよ。子供の声がして、何度も早く起きて、危ないからって、頬っぺたを叩かれて、意識を取り戻したんだ。
 最初は考える暇なんてなかった。女の子が指差す三方向を見たら、唸りながら近づいて来る尋常じゃないヤツがいて、咄嗟にカバンから銃を出すと、1人ずつ確実にリロードしながら撃ち殺してギリ助かったんだよ。あんまり顔は憶えてなかったけど状況からして、あいつら3人は俺を殺したクソ警官だと思う。リベンジできてスッキリさ」
 思い出して泣き出しそうな顔をするニヒル。もう大丈夫だよ、俺は、と言って微笑み、アナーキーは彼女を安心させたくて優しく抱擁すると、楽になるように背中を擦った。
「で、人心地ついて、周りの景色が薄い灰色を帯びていることに気づき、さっきはもっと濃かったよねって女の子に訊いたら、純真無垢な表情で、こんなに灰色が薄くなったのは初めて見たって言うんだ。
 幼い頃に読んだ地獄の描写と違ってホッとしたよ。あれは当時の人間が、社会の現実を拡張して書いたストーリーなんだなって学んだ。庶民を支配したがる権力者や恐怖政治がよく使う策略でしかなかったんだ。俺も大人になったもんだよね。
 それで、あっちの世界の特徴は、腐った人間がリアルにいて、そいつらが変異した後に退治すると、大気中に充満する濃灰色が徐々に剥ぎ取られていって、色鮮やかに、環境が生き生きと甦ってくる不思議な現象が起こるということだった。どことなく空気も清浄にろ過されて、地球が呼吸しやすくなったようにも見えるんだ。
 逆に酷いときは、白黒写真の中に迷い込んでしまったかのような錯覚に陥るほど色味が無い。それが意味しているのは、腐った人間が、うじゃうじゃと群れでいるか、ボス級の質の悪い単体か、複数体いる証拠でもあって、形勢不利と判断したら身の安全に徹して、元の色調を復活させるのは潔く諦めている。喰われたくないからね、絶対に。
 だけど、そうしたエアー反応は読むのが難しいんだよ。景色が白黒でも近くにいるとは限らないし、どこまでが影響を受ける範囲なのかも分からない。中心から円状に広がって調べる人海戦術も実現はムリ。みんな自分たちの生活で一杯いっぱいでさ、頼めないよ。
 だから普段は行く当てのない者同士コンビを組んで、昼夜を問わず、サバイブするのが主な活動内容かな。腐った人間をブッ倒す傍ら、金目の物を奪い、闇市で交換し、世界は色彩を吹き返すというウィンウィンの良縁を築いていっている。
 食べ物や寝床を探して歩き続けた先々で、いろんな人に出会うたびに、女の子のリアクションが違うのを知ったのは興味深かったよ。それぞれの本質を感じ取っていたんだ。
 嫌なヤツならさ、こいつ腐っていくなって、誰でも半ば、先入観も手伝って判別できるだろ? それが、その子のセンサーは遥かに優れていて、変異の初期症状が見られるのを最初に教えてくれたのは、明るくて優しかった女性の足に、黒い緑色をしたカビのような変色が発生する直前だった。ちなみに俺たちは、それを腐敗菌と名付けて区別している。その女性が手で擦っているうちは消えたり無くなったりしていたけど、総合的に他の人の変異と合わせて考えると、腐敗菌は、発生した部位で繁殖したのちに、脳や内臓といった器官に移動して寄生し、人間を乗っ取るように思えた。腐っても動き回るゾンビとして。翌日の夜明け前に、どうしても気になるって女の子が言うから一緒に見に行くと、自分の部屋で変異していたよ。こんな世の中で知り合いになれてラッキーだねって話すぐらい、俺たちは、その人が大好きだったのに。
 今回の変異は本当に可哀そうだって女の子も言ってた。どんなに本人の性格が良くても最低な環境に居過ぎて自己浄化できなくなったのが根本的な理由らしい。関係者からしてみれば、一緒にいるだけで元気がもらえる太陽みたいな人でも、その人にとっては、気が滅入るばかりで納得がいかない関係性もあるってね。
 結局、周りのカスが人面獣心なんだよ。俺は、その人を殺さなかった。自由にさせた。ドアを開けて、まだ寄宿舎全員が寝ている間に思いっきり噛ませてあげるためにね」
 トゥエルヴは真意を汲み取っていた。これがマス層の力である。そこの磁場フェーズと合わなくなってしまったのだろう。悪い人間でも集団になれば、そこに磁場が形成され、本来、腐っていくはずの人間が、そこでは主軸となり、当然の権利として磁場に守られる。
 仲間といると安心感を得て、心が開かれ、自由闊達に軽くなっていくという善の働きが内包されているからである。それはそれで調和しており、そこでは反対に少数派の女性の方が不調を来し、変異してしまったのだ。腐って澱んだ水に、清らかな水が浸食されないはずがない。
「ワタシ、そこにイタ。あなきーと、イショにいた」
「そうだよ、ニヒル! 俺たちは、ずっと一緒にいたんだ。気づいてくれたんだね。その女の子がニヒルのミニチュア版ってことに」
「フセーカイ」
「お前、今の特徴いかして、わざと旧型のロボットっぽく話してんだろ」
「フッ、お前、オモロイ。あれはワタシ、の、ちさい頃。みにちゅあ……デは、ナイ」
「アハハ、もうバレちゃったから、いつもの呼び方で話すね。
 俺とちびニヒルが安全な根城を確保して生活も軌道に乗ってきた頃、お前の妹がやって来たんだよ。幽霊、見るの、初めてだったから、心臓が口から飛び出て死ぬかと思った。あっ、すでに死んでるのは俺だけど」
「フフフッ、やっぱ、お前、オカシイ」
「うっせぇなあ、立場が反転しているから、しゃーないだろ。しかも今は、幽体離脱ってやつだし。ああー、ややこしい。
 とにかく、お前の妹が、ニヒルが大変なことになってるって言うんで、心配して急いで逢いに来たんだ。それこそ文字どおり、光のごとく」
「そ、ダね。そうダタね。ホントに、うれしい。1ヶ月モ経ってる、トカ、信じられナイネ。その子ニハ、ひつようダタ。ワタシの、一部。ワタシは、今日アナーキー、失った。 あなきー死ンダの、私のセイ」
「えっ、ちょ、ちょっと待って。俺が死んだの、こっちでは今日なの?」
「そだよ。つい、サッキだよ。ダカラ、撃沈、デキタテ、ほやほや。哀しい、トーゼン。 あなきー死ンダの、私のセイ」
「パンみたいに言うなよな。ついさっき死んだなんて冗談だろ……、うん? いや、でも俺は、こっちに戻って来たとき、ニヒルの姿を見て、それをどこかで分かっていた」
 愕然とするアナーキー。トゥエルヴ自身も、この時間という概念に対しては謎が多く、未だ全体像を把握しきれないでいるが、時間が持つ性格の1つの側面には、ニヒルの話に出てきたように、その人にとって、または関わる人すべてにおいて、絶妙なタイミングで必要な分だけ与えられる流動的な性質を有することが分かっている。地球時間の平等性を各人に限定して考えたとき、時間は、当事者の状態によって、早くなったり遅くなったり感じ方が変化するのは周知の事実である。重力や速度を要因とする早い遅いなどの時間の流れ方を象徴的に、人の運命に当て嵌めて意味を構築し直すのも、占い師としては有益な情報が得られる視点だ。だが今回それはさておき、ここで重要なのは、何をするために、そこにいるのかである。つまり、目的が段階的にでも達成されたとしたら、そこの空間と時間は必要なくなる。そうすると物事は、移行期の調整やボイドタイムを挟んだりして、次なる時空ステージへと移り変わっていく。
「ねぇ、トゥエルヴ、オレがこっちで必死に人助けしていたとき、向こうに、どれくらいいたの」話を聞いていたエンリコが疑問に思うのは当然だ。小声で確かめてくる。
「う~ん、15分も経っていないかな」
「マジで! 少なく見積もっても30分以上は経ってるよ。2倍も違うって」
「時間の柔軟性はエンリコも知ってるじゃん」
「そうだけど、1人で大変だったのに」
 トゥエルヴはエンリコの背中を叩いて腕タッチして努力を労った。トゥエルヴが笑顔で喋らず動作で褒めてくれているのが分かったから、エンリコは、ブチブチ愚痴りたいのを抑え、認められている嬉しさと邪魔したらダメな空気を思い出して、明日、お菓子を食いながら喋り倒そうと考え直した。
「まっ、いっか。俺、あっちの世界、気に入っているし。死後の世界が、こんなにも性に合ってる所だったなんて思いもしなかったしね。ゾンビをやっつけるたびに色を取り戻す街の風景。スゲー遣り甲斐を感じる。自ら好きでゾンビ退治してるのに、ありがとうって見ず知らずの人に感謝されることもあって。それで協力し合ったり、仲間になったり。
 誰もが善良というわけでもないし、変異する人も結構いるから、そこが良い世界だとは決して言えない、そんなクレイジーな場所だけど、俺を見下さずに必要としてくれる人が普通にいるから嬉しいんだよ。なんか、世界が敵じゃなくなったように感じるんだ。戦闘能力も上がったんだぜ。あっ、知ってるか。ちゃんと、ちびニヒルに教えてもらってね。
 そう言えばさ、そこは俺とニヒルの心が融合した世界だって、お前の妹のトゥエルヴに聞いたぞ。だとしたら、居心地良いのはニヒルのお陰ってことになるよな。なのに、何でガキの姿なんだよ?」
「タブン、せいしんネンレイ。はずカ、シイ」
「ダハハハハ、俺の方が大人なんだ。悪いね、恥ずかしい想いさせちゃって」
「フセーカイ」
「うん? どゆこと?」
「あなきー、が、よーち、エンジで、ワタシが、19、才のセカイ、他にアル。いちばん大きく、ココロあるトコ、イマいる、トコ」
「うーん、せっかくイジれたのに、世界観デカすぎ」
「あなきー死ンダの、私のセイ」
「今度は壊れたロボットかよ。お前のせいじゃないって。俺の中に幼稚園児がいることは認める。ただ、それがそのまんま出てきてるとか、恐ろしくて見れねぇー。ちびニヒルは可愛いから合格。どこにいても何をしても許されるよ。羨ましい。
 それにしても、ちびニヒルは、その繊細さを言葉に表現するのが苦手でしょ? それで気づくのが、ちと遅くなってしまったんだけど、あの子とニヒルが繋がって体感的に何が起こったのか、別の場所にいても深く知ることができるのと似た理由で、融合した世界は創られたんじゃないのかな。俺でも分かりやすいように。
 どんなに愛していても同一人物じゃないと細部まで伝わらないことは多くある。もっと正確に理解してもらうにはどうしたらいいか。その答えが、環境を通して伝達するというユニークな手段だった。ゾンビを倒せばエアー反応が起きるといった俺好みの方法で。
 それともう1つ、ちびニヒルの態度が変わる原因でもある出会った人の素行や本質を、俺も一緒に経験したあとで、人間からゾンビに変異したときに殺害すると、いつも以上に大気が澄み渡っていくんだ。今日は良い天気だな、てな具合にね。
 それを繰り返しているうちに、ここはニヒルが見ていた世界、ニヒルが感じ取っていた記憶の世界なんだって思った。だから、ちびニヒルの心が軽くなると空も晴れ渡るんだ。
 俺は死後、ニヒルの幼少期に迷い込んだと思っていたから、ここがニヒルの心を大きく占める精神年齢を表しているとは知らなかった。そうすると、ちびニヒルは言わば、俺もどこかで聞いたことがあるワード、インナーチャイルドって呼ばれる存在かもしれない。俺にとっては当たらずも遠からずで、そう変わりはないよ。
 だけど、ちびニヒルは、いつも何かを伝えようとしていた。
 ということは、お前自身が誰かに、今まで自分が感じていたことを、その真実を知ってもらいたかったんじゃないのか? ちゃんと、理解してもらいたかったんだろ? 
 俺は分かりやすい形で、心の腐った人間が変異していく姿を、本質が、そのまま具現化する様子を、ちびニヒルと一緒に見続けているよ。そいつらをバッサバサぶっ倒していく爽快さ、達成感、俺は、この世界を強烈に気に入っている。
 ニヒルと離ればなれになったことは辛いけど、因果応報ってやつで、どうせ、いつかは誰かに殺されていただろうし、一生、牢屋にブチ込まれて死ぬほうがよっぽど最悪だ。
 俺たちは前に進んだんだ。昔の生活に戻るなんて考えられないよ。
 理想どおりとはいかなかったにしろ、俺たちは結ばれる前に、たぶん何か、やることがあるんだよ。俺は生きている世界が違っても忘れたりなんかしない。
 俺は、お前の中にいつもいるから、お前が少しでも幸せになれるよう、お前を苦しめているものが何なのか理解して、ゾンビ殺し捲って、ニヒルの心を豊かな世界にしてみせるから。それが今の、俺の人生なんだ。
 この先、どうなるか分かんないけど、俺たち、きっと、またどこかで逢える。そう確信している。それぐらい、お前に惚れてるってことだよ。だから約束してほしい。
 ニヒルも自分の幸せを見つけるんだ。お前は独りじゃない。お前には、他にも妹や弟がいたんだよ。特別なニヒルを導いてくれるスペシャルな家族がさ」
 雪原の中にいたニヒルの一部は手を差し出して、雪が雨に変わりゆく空を眺めていた。それを誰かと共有したい気持ちはなく、ただ熱い肌に当たる、冷たくない慈愛の雨を顔で感じていた。それは植物を芽吹かせ、育む、春の雨に似ていた。
 ニヒルの意識は返り咲き、もう一度、この地球次元で目を覚ますことを選んだ。それにつられて、アナーキーを亡くした悲しみが舞い戻ってきて、青白く光る涙が次から次へと頬を流れ落ちた。グラビティ・ゲートも縮小し始めている。
「イヤ、行かないで。こんなに、こんなに愛しているのに、何で離れなきゃいけないの。アナーキーだけは私を裏切らないし、ありのままの私を受け入れてくれる唯一の、大切な人なんだから。それなのにどうして、こんなにあっさり終わってしまうのよ。私も一緒に行く。特別な力なんていらない。アナーキーのそばに居たいだけ」
「俺がニヒルを愛した理由は、期待に応えられることが嬉しかったからだよ。傷ついて、感情を失ってしまった彼女に笑顔を取り戻すことができたらどんなにいいだろう、それは俺にしかできない、そう、強く想ったんだ。
 ニヒルと家庭を持つことも夢見たし、子供だって欲しいって思った。そんな将来を何か美味いもんでも食いながら2人で話せたら楽しいだろうなって想像もしてた。
 そしたら、俺の中から何となく破壊性っていうのか、無性に腹が立って相手を壊したくなるような衝動が、いつの間にか無くなってたんだよ。顔がニヤけっ放しで、喜びしか、心にないんだ。あんな幸せに満ちた感情、初めてだった。
 その、幸福感の絶頂で、俺は撃たれて死んだんだ。俺がやったことに比べたら、神様は寛大だと思う。納得してるよ」
 グラビティ・ゲートがさらに縮み始めた。トゥエルヴの視線を感じる。見ると、彼女は頷いて、時間が来たことを告げた。
「もう、行かなきゃ」
 泣きながら、声を震わせて、ニヒルは言った。
「すべてに従わなくたっていい、反抗する力、とても大切。
 これは、あなたから学んだ言葉よ」
 アナーキーは笑って、2人は最後のキスをした。
 彼が、死後の世界に帰る足を踏み出した。
 それを彼女は目を瞑って全身で受け入れた。
 ニヒルの身体の中を、アナーキーが通っていく。
 向き合っていた恋人たちは、道で擦れ違う人のように、しかし重なり合って交差した。
 輝く光が、愛する彼を包む。
 光が解け散ると、バリアは消え、彼女の身体は元に戻り、彼は居なくなっていた。
 ニヒルが倒れる寸前、エンリコが急いで抱き留めた。
「近くに系列の才家総合病院があるわ。そこの屋上を借りて、ヘリ呼んで輸送しよう」
「だね。バイクじゃ研究所まで行けそうにないし」
「私は、やることがあるから、後で行く」
「新しい姉ちゃん連れてって、ヘリ呼んでる間、屋上を片して、迎えに来るよ」
「うん、ありがと。じゃあ頼んだわ」
 エンリコは、散乱した街中を進みやすいようニヒルを右肩に担ぎ、出発した。
 史上稀に見る惨禍を、どうにか防いだ被災地では、その真ん中にスッポリと丸く空いたバリアの痕跡が残っていた。
 トゥエルヴは、その石畳の上で、軽い体操座りをして、もう一度だけトリップモードに入った。意識を失っているニヒルの時間を先取りして、だいぶ疲れが取れてきたぐらいの夢うつつの塩梅を見計らって、研究所のベッドで寝ている姉に会いに行った。
 ニヒルに声を掛けると、寝ぼけ眼で、こちらを向いた。姿形は見えなくても気配を感じ取ったのだろう。意識だけを飛ばしているトゥエルヴは、テレパシーで語りかけた。
「お姉ちゃん、まだ地球の時間が止まったままなの。あとは私に任せてくれない?」
 ニヒルは安心しきった表情で「うん」に似ている発音をした。トゥエルヴも「じゃあ、行くねぇ」と優しく返事をし、現実に戻った。
 トゥエルヴは、次元上昇(アセンション)に伴う副産物の爪痕に囲まれているという、その悲惨な状況には、あえて目もくれず、手を後ろについて足をまっすぐ前に伸ばして、ゆったり静けさを楽しんだ。
 満天の星空があまりにも美しく、俗社会に奪われるのが惜しまれた。せめて心が潤い、満たされるまで、そうしていたかった。
 私たち人間は悠久の星々とは違い、限られた時間の中にいる。その短い命をどう生きていくかで、人の個性は作られていく。
 私は、そうした人たちの運命を大局的な視点から、いろいろと見聞きし、本質を知り、環境や選択が与える心と体の質的変化を学びたいと思っている。それは個人だけでなく、時代の個性をも含む。
 ニヒルの能力は、まだ覚醒したばかりでコントロールが効かず、未知数であり、かつ、この地球次元を変える鍵を握っている。
 しかし、ニヒルの能力調整には、たくさんの愛情が必要となるだろう。そう、愛こそがやはりすべてなのだ。愛に適うものなど、この世には存在しない。すべては愛に辿り着くためのプロセスなのである。
 通過儀礼(イニシエーション)を何とか無事に終えて生まれ変わった地球。これからはニヒルの価値観が主軸となって世の中は動いていく。
 進化したい、波動を軽くしたいという集合意識の願いは、宇宙の大いなる意志によって確かに聞き届けられた。
 世界には、改善すべき課題がまだまだ山ほどもある。このデジタル社会、複雑で煩雑な各種手続きを簡素化アンド一元化するのは急務といえるし、人々が自由な働き方をさらに容認し始めることで、今まで当たり前だと思って人に押し付けていた振る舞いや習慣は、悉く覆されていくだろう。
 その結果、得られる恩恵は計り知れない。
 目の前で起きている出来事の捉え方や物の見方、解釈が、激変するからである。それはまさに開眼と言ってよく、だからこそ人々は、もっと軽くならなければいけないのだ。
 新しい時代の始まり。私たちは三位一体。お姉ちゃんには、是非それを知ってほしい。独りじゃないってことを。
 意識の進化を早めるのがニヒルの役割ならば、エンリコは純度100パーセントの戦士で、古い細胞を入れ替えていくかのごとく排除していく。私は運命の調整役であり、カタストロフィを迎えそうになっていたところを阻止することができたのは、名誉に値する。
 今夜は、ゆっくり休んで、お姉ちゃんが元気になったらエンリコと3人で、お菓子でも食べながら、お喋りしよう。そして、お母さんに会いに行こう。
 トゥエルヴは立ち上がり、最後に、もう一度だけ空を見上げた。
 指をパチンと鳴らした。
 止まっていた時間が動き出した。
しおりを挟む
感想 0

この作品の感想を投稿する

あなたにおすすめの小説

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております

紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。 二年後にはリリスと交代しなければならない。 そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。 普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…

敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される

clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。 状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――

のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」 高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。 そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。 でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。 昼間は生徒会長、夜は…ご主人様? しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。 「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」 手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。 なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。 怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。 だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって―― 「…ほんとは、ずっと前から、私…」 ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。 恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。

処理中です...