爺ちゃんの時計

北川 悠

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恋人への手紙

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    美代子様  
 ありがとう。君に対する感謝の気持ちでいっぱいだ。
 僅かな時間ではあったが、とても幸せだった。君に逢えて良かった。
 無理を承知で君に逢いに行ったのは、ある友人の言葉があったからだ。その友人を助ける為でもあった。だが、助けられたのは私のほうだった。今はその友人に心から感謝している。
 抽象的な言い回しになってしまうが、君と逢った事により、私の中に渦巻いていた得体の知れない不安感が跡形もなく消えたのだ。本当にありがとう。
 君も知ってのとおり、私は人付き合いが苦手なほうだ。だが、今更であるが、人は協力して生きていかねばならない事を学んだ。自分一人で生きているわけではないのだ。
 これから日本は様々な困難に遭遇するだろう。だが大丈夫だ。人は助け合って生きていく事ができる。心配するな、この国の将来はきっと明るいものになる。私にはわかる。平和な時が必ずやって来る。
 君に出会えて良かった。君と一緒に勉強したあの時間。一緒に食べた豆餅。並んで座った公園の椅子。何もかもが懐かしい。君の声、君の肌、その大きな瞳……全てが愛おしい。
 私が生きた時間の中で、君と過ごした僅かな時間が、何よりも増して充実していた。ただただ感謝である。
 今は晴れ晴れしい気持ちでいっぱいだ。
 美代子、過去を振り返ってはいけない。先を見て生きろ。そして必ず幸せになれ。それが私の最後の願いだ。
 では、行ってくる。
                     昭和二十年七月十四日   秀則


「相良君……」                                  
 新一は、あふれ出た涙を抑える事が出来なかった。僕こそ君に助けられたんだよ。僕こそ……
「戦争って。戦争って悲しいね……相良少尉が、お婆ちゃんのお父さんだったなんて……」
 確かに秀美ちゃんが驚くのも無理はない。予想だにしていなかったのだろう。
「戦後、母はこの友人について調べたそうです」
 そう言いながら松子は、新一にハンカチを渡した。
「友人って新ちゃんの事だよね? でもあの手紙に新一って書いてあったよ。新ちゃんの事を調べたの? 新ちゃんはその時代にはいないのに?」
「秀美。よく考えてごらんなさい」
 松子は秀美のほうに顔を向けた。
 しばらくして秀美は気がついた。
「あっ。そうか、記憶。記憶が無くなっちゃうんだ。美代子さんも、同じだったんだ」
「そうよ。私だって、あの手紙の事を思い出したのは一昨日前よ」
 言ってから松子は再び新一に向き直った。
「父にはW大学で同期の上田という友人がいました。唯一の友人だったようですが、彼は、その手紙に書かれた友人に心当たりは無いと言ったそうです」
「美代子さんは上田少尉に会いに行ったのですね」
「はい。それがいつの事かは記憶にありませんが、そう聞きました」
 母から聞いた言葉を思い出しながら松子は先を続けた「上田さんはこうも言ったそうです。出撃が間近に迫った頃、相良は何か妄想をしているようで、誰かと話している様な独り言が多かったと」
「誰かと話してるって、それって新ちゃんだよね」
 松子は軽く頷いて続けた「更に上田さんはこう言いました。本人の名誉の為に付け加えるが、決して気がふれている訳ではなかった。相良は常識外れの秀才で、いつも頭の中に何かを想い描いていた。だから奴が頭の中に架空の友人の一人や二人、囲っていても不思議ではないと」
「母はその説明で納得したようです。たしかに彼にはそのようなところがあった気がすると言っていました」
 そう言うと松子はまた秀美に向かって微笑んだ。
「相良少尉がわたしの、ひいお爺ちゃん……」
 秀美はまだ動揺していた。
 新一の予想は当たっていた。あの意識のタイムスリップは相良少尉が言った通り必然……多分、歴史の修正の為に起こされた現象。
「そうなのよ、秀美。新一さんが私達を救ってくれたのよ」
「いえ、助けられたのは僕です。それは間違いありません」
 一呼吸おいてから新一は話し始めた「想像の域を出ませんが……最初から松子さんは相良少尉と美代子さんの娘として生まれるはずでした。だが、原因はわかりませんが、何らかの不具合が起きて、二人が結ばれるという歴史が障害されてしまったのだと思います」
 松子は黙って新一の話に耳を傾けていた。
「松子さんが産まれないという事。それは後の歴史において大きな矛盾、もしくは不具合をもたらしてしまう。ひょっとしたら歴史の大筋がかわってしまうのかもしれません」
 あくまでも想像である。こんな事を信じろと言うほうが難しいが、新一は話を続けた。「その不具合は僕の祖父の子孫にも関係するものかもしれません。よって、あのタイムスリップは歴史が仕組んだものであり、必然なものであったと推察します」
「必然……」松子が呟いた。
「はい。歴史を修正するために僕の意識が飛ばされたのだと思います。彼の意識の中に」
「新ちゃん。凄い」
「ううん。あの時、僕はそこまでは考えられなかった。だから、ギリギリになってしまったんだ」
 ほんとにギリギリだった。正直、今でも信じられない。
「僕の意識が飛ばされた原因。それを偶然ではなく、必然ではないかと最初に考えたのは相良少尉です。歴史の修正という事に気がついたのも少尉です。確かに彼は天才です。でも僕達は何をしたらいいのか分かりませんでした」
「凄い……って事はわたしも消滅してたかも? て事だよね?」
「うん。あくまでも想像だけどね」
 証明はできない。
「だが、修正が不可能だった場合、歴史は双方を消滅させてしまうことで、少しでもダメージを減らそうとしたのではないか……なんとか辻褄を合わそうとしたのではないかと思います。実際、消滅する寸前でした」
「父も、何をしたらいいのか分からなかったのだと思います。あの手紙からそう推測されます」
「お婆ちゃん、どういう事?」
「空港でお前に渡したあの手紙。あの手紙を見る限り父は、相良少尉は私達が娘と孫である事に気づいていないわ」
「そうか。そう言えば」
 秀美は何度も頷いた。
 いずれ、自分達のこの記憶は消えてしまうだろう。あの手紙が消えてしまったように。それがいつの日なのか分からないが、そう遠くはないはずだ。
 例のあの意識にそう囁かれた……新一はそんな気がした。意識の声が聞こえたわけではない。大津島から徳山港に戻った時、手紙が消えてしまった時に感じたあの感覚。あの時と同じだ。そう感じた……そんな気がしたのである。
「新一さん、ありがとう。貴方の……貴方のおかげです」
 松子は新一の手を取って涙を流した。
「いえ、不可能を可能にしたのは相良少尉です。僕は彼に、美代子さんに会いに行くよう言いましたが、よく考えればあの時代、あの状況の中、あんな僅かな時間で大津島と千葉の往復など不可能です」
 回天隊員は出撃前に帰省が許されていたが、相良君は帰省していなかった。多分、家族の死と被ったからだと思う。
 新一の意識が相良の頭から消えたのは七月十一日。彼の出撃は十四日。戦争の真只中、旅客機も新幹線も無いあの時代、普通に考えれば大津島と千葉の往復なんて物理的に不可能だ。
 相良少尉は十二日にあの手紙を輸送機の中で書いていた。どんな無理をしたのだろう。
「彼がどんな魔法を使ったのか、今となっては謎ですが、彼はそれをやってのけたのです。相良君、いや、松子さんのお父さんは優秀で偉大な人物です」
 新一の話を聞き、松子は泣き崩れた。

 とても美味しいお寿司だった。
 食事の後、松子さんから昔の話を聞かせて頂いた。
 長野での生活、ご主人との出会い。そしてあの手紙を受け取った日の出来事。その日は秀美ちゃんの四歳の誕生日だった。大きな衝撃を受けたという。だが、直ぐにその事を忘れてしまった。母の美代子さんにもそう言われたのだそうだ『直ぐに忘れてしまう。そして時がくれば思い出す』と。
 他にもわかった事がある。床枝という苗字の由来だ。松子さんの夫である猛さんは育ての親の性ではなく、自分を捨てた母親の性を受け継いでいた。比較的珍しい苗字であった為、もしかしたら、いつか母親に逢えるかもという期待をもってのことだったという。結局、その期待は叶わなかったが、床枝という性は受け継がれた。苗字一つとっても、複雑な歴史が絡み合っているものだ。
 更にもう一つ。話をしているうちにわかった事なのだが、マークだ。昨日、飛行場の中で出会ったあのアメリカ人のおっさん。マークは新一に自分の祖父が助けたという日本兵の話をしてくれた。その助けられた日本兵というのが、松子さんの夫である床枝猛の育ての親だった。松子さんが三十六歳の時、義父を連れて渡米し、マークの家族に会っていたのだ。
 歴史とは、かくも不思議なものである。何処か一つ間違ってしまうだけで、その後が大きく変わってしまう。
 新一が体験したこのような不思議な出来事は案外、世界のいたるところで日々起きているのかも知れない。

 マークとの約束の日には是非来てくれと、松子さんは言った。勿論、新一も彼にまた会いたかった。近い将来、彼にはグランドキャニオン上空を飛んでもらわねばならない。
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