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浩一と加奈子
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何十回、何百回と読み返している絵里の日記……幾度読み返しても、涙が溢れてくる。
私に万年筆をプレゼントしてくれた日も絵里は日記を書いていた。
お母さん、あんな素敵な人と恋愛したんだね。
お母さんは先生の事、昔ちょっと付き合った事がある人だと言ったよね。でもそれ以上は話したくなさそうだし、だから私も聞かない。
私はお母さんも先生も大好き。お母さんと先生、結婚するのかな? して欲しいなあ。
そんなわけで……どんなわけだ? 今日は先生に渡すプレゼントを買った。メッチャ悩んだんだぞ。気に入ってくれるといいなあ。
絵里に貰ったセーラーの万年筆。これを使い続ける為、当時検討していた電子カルテ化は見送った。自分と看護師の二人だけで診療している小さなクリニック故、紙のカルテだからといって特に困る事はない。
加奈子がここに来たのは本当に偶然だった。事実は小説より奇なり……とはよく言ったものだ。
もう五年程前になる。浩一は目を閉じて当時を思い出した。
ここ、この小さなクリニックで偶然にも加奈子……多良間加奈子に再会した。
加奈子は浩一が医大の六年生の時、ほんの一時、付き合った女性だった。なぜそこまで彼女の事を鮮明に覚えているのか……
浩一にとって加奈子は、本当に愛した初めての女性だった。彼女は、いわゆる風俗の女であったが、日本人離れした顔立ちと、沖縄特有のイントネーションがとても気に入って、何度か彼女のいる店に足を運んだのだ。
それだけであれば、よくある客と嬢の関係であるが、ある日、二人共、孤児であった事を知り、それ以来、急速に親密な関係に発展した。
浩一は物心ついたころは既に、孤児院で生活していた。院長曰く、その孤児院から数十メートル離れた草むらの中に自分は置かれていたという。生後一週間ほどの新生児で、衰弱しており、発見当時は乳児の遺体が捨てられたと思ったらしい。
自分が今こうして生きていられるのは、日本という国とあの孤児院のおかげである。
当時、ホームの院長やスタッフ、地元警察が乳児の置き去りとして捜査をしたようであるが、有力な手がかりは見つからなかったらしい。
川島浩一という名前は、当時の担当する自治体がつけた名前である。名前の由来については院長が説明してくれた。ありきたりな理由であったが、とても感謝している。名前については、気に入らなければ変更も可能だと言われたが、そのつもりは無い。
多良間加奈子もまた孤児だった。彼女の母親は未婚の母で、加奈子が五歳の時に亡くなっている。病死だったと言う。母親には、親も身内と呼べる親戚も無く、財産も無かった為、孤児としてホームに引き取られたようである。
二人は、まるで前世からの恋人であったかのように惹かれあい愛しあった。
浩一が医師の国家試験に合格した翌日、加奈子は自分の借金について告白した。だが浩一は薄々感づいていた。彼女のアパートには大きな荷物も生活感も無かったし、収入の割には質素な暮らしぶりで、常に来客に怯えている様な雰囲気があった。それについて聞くと、いつも話をそらされていた。
浩一は言った。――結婚しようと。 今日から俺は医者で、学生じゃない。借金は俺が返す。だからもう風俗で働かなくていいと。
加奈子は涙を流して浩一に抱きついた。――ありがとう。でも大丈夫。彼女はそう答えた。
翌日、一通の手紙を置いて彼女は浩一の前から姿を消した。
今までありがとう。さようなら――それだけだった。
それが五年前、あれから十八年という時を経て偶然、この場所で二人は再会した。
加奈子は、薬の納品でたまたま、このクリニックを訪れたのだ。差し出された名刺には、薬の卸 関東薬品 千葉南営業所 営業部主任 多良間加奈子 と印刷されていた。苗字は変わっていなかったが高校生の娘と二人暮らしだという。十八年前の出来事がまるで昨夜の出来事のように浩一の脳裏に甦ってきた。お互いその場に立ち尽くし、二人の頬を涙が伝っていった。
加奈子は借金返済後、薬品の卸会社に勤務し、現在は千葉で娘と二人で暮らしている。未婚の母だという。
その日は、浩一が注文した薬が近くの問屋の営業所に無く、たまたま急ぎの注文であった為、千葉営業所から直接、加奈子が持参したのだという。浩一はこの偶然に感謝した。話したい事が山ほどある。
この日、二人は連絡先を交換して別れた。加奈子は今度、娘を連れて遊びに来ると約束した。娘の名は絵里と言った。
幸せな時が再び訪れた。
あの時、将来ある浩一の足手まといにならない為、加奈子は身を引いたのだ。借金と幼子を抱えた女がどんな苦労をしてここまで頑張ってきたのか想像も出来ない。
二人の付き合いが再開して数か月経った頃、浩一は加奈子にプロポーズした。彼女は泣いて喜び、その日、絵里は浩一の子であると告白した。だが、そんな幸せな日々も長くは続かなかった。プロポーズから僅か二週間後、絵里は行方不明になり、それから半年後、半分白骨化した状態で発見された。場所は富士山麓。自殺の名所である。遺書も何も無く、決め手はDNA鑑定だった。絵里は首をつっていた。
自殺の原因に全く心当たりが無かった加奈子と浩一は、複数の民間調査会社を使って調べたが、原因どころか失踪当日の彼女の足取りさえつかめなかった。
絵里は失踪当日の夜、塾での目撃を最後に消息を絶っていた。
絵里の埋葬から半年後、加奈子も後を追うように亡くなった。衰弱死だった。
私に万年筆をプレゼントしてくれた日も絵里は日記を書いていた。
お母さん、あんな素敵な人と恋愛したんだね。
お母さんは先生の事、昔ちょっと付き合った事がある人だと言ったよね。でもそれ以上は話したくなさそうだし、だから私も聞かない。
私はお母さんも先生も大好き。お母さんと先生、結婚するのかな? して欲しいなあ。
そんなわけで……どんなわけだ? 今日は先生に渡すプレゼントを買った。メッチャ悩んだんだぞ。気に入ってくれるといいなあ。
絵里に貰ったセーラーの万年筆。これを使い続ける為、当時検討していた電子カルテ化は見送った。自分と看護師の二人だけで診療している小さなクリニック故、紙のカルテだからといって特に困る事はない。
加奈子がここに来たのは本当に偶然だった。事実は小説より奇なり……とはよく言ったものだ。
もう五年程前になる。浩一は目を閉じて当時を思い出した。
ここ、この小さなクリニックで偶然にも加奈子……多良間加奈子に再会した。
加奈子は浩一が医大の六年生の時、ほんの一時、付き合った女性だった。なぜそこまで彼女の事を鮮明に覚えているのか……
浩一にとって加奈子は、本当に愛した初めての女性だった。彼女は、いわゆる風俗の女であったが、日本人離れした顔立ちと、沖縄特有のイントネーションがとても気に入って、何度か彼女のいる店に足を運んだのだ。
それだけであれば、よくある客と嬢の関係であるが、ある日、二人共、孤児であった事を知り、それ以来、急速に親密な関係に発展した。
浩一は物心ついたころは既に、孤児院で生活していた。院長曰く、その孤児院から数十メートル離れた草むらの中に自分は置かれていたという。生後一週間ほどの新生児で、衰弱しており、発見当時は乳児の遺体が捨てられたと思ったらしい。
自分が今こうして生きていられるのは、日本という国とあの孤児院のおかげである。
当時、ホームの院長やスタッフ、地元警察が乳児の置き去りとして捜査をしたようであるが、有力な手がかりは見つからなかったらしい。
川島浩一という名前は、当時の担当する自治体がつけた名前である。名前の由来については院長が説明してくれた。ありきたりな理由であったが、とても感謝している。名前については、気に入らなければ変更も可能だと言われたが、そのつもりは無い。
多良間加奈子もまた孤児だった。彼女の母親は未婚の母で、加奈子が五歳の時に亡くなっている。病死だったと言う。母親には、親も身内と呼べる親戚も無く、財産も無かった為、孤児としてホームに引き取られたようである。
二人は、まるで前世からの恋人であったかのように惹かれあい愛しあった。
浩一が医師の国家試験に合格した翌日、加奈子は自分の借金について告白した。だが浩一は薄々感づいていた。彼女のアパートには大きな荷物も生活感も無かったし、収入の割には質素な暮らしぶりで、常に来客に怯えている様な雰囲気があった。それについて聞くと、いつも話をそらされていた。
浩一は言った。――結婚しようと。 今日から俺は医者で、学生じゃない。借金は俺が返す。だからもう風俗で働かなくていいと。
加奈子は涙を流して浩一に抱きついた。――ありがとう。でも大丈夫。彼女はそう答えた。
翌日、一通の手紙を置いて彼女は浩一の前から姿を消した。
今までありがとう。さようなら――それだけだった。
それが五年前、あれから十八年という時を経て偶然、この場所で二人は再会した。
加奈子は、薬の納品でたまたま、このクリニックを訪れたのだ。差し出された名刺には、薬の卸 関東薬品 千葉南営業所 営業部主任 多良間加奈子 と印刷されていた。苗字は変わっていなかったが高校生の娘と二人暮らしだという。十八年前の出来事がまるで昨夜の出来事のように浩一の脳裏に甦ってきた。お互いその場に立ち尽くし、二人の頬を涙が伝っていった。
加奈子は借金返済後、薬品の卸会社に勤務し、現在は千葉で娘と二人で暮らしている。未婚の母だという。
その日は、浩一が注文した薬が近くの問屋の営業所に無く、たまたま急ぎの注文であった為、千葉営業所から直接、加奈子が持参したのだという。浩一はこの偶然に感謝した。話したい事が山ほどある。
この日、二人は連絡先を交換して別れた。加奈子は今度、娘を連れて遊びに来ると約束した。娘の名は絵里と言った。
幸せな時が再び訪れた。
あの時、将来ある浩一の足手まといにならない為、加奈子は身を引いたのだ。借金と幼子を抱えた女がどんな苦労をしてここまで頑張ってきたのか想像も出来ない。
二人の付き合いが再開して数か月経った頃、浩一は加奈子にプロポーズした。彼女は泣いて喜び、その日、絵里は浩一の子であると告白した。だが、そんな幸せな日々も長くは続かなかった。プロポーズから僅か二週間後、絵里は行方不明になり、それから半年後、半分白骨化した状態で発見された。場所は富士山麓。自殺の名所である。遺書も何も無く、決め手はDNA鑑定だった。絵里は首をつっていた。
自殺の原因に全く心当たりが無かった加奈子と浩一は、複数の民間調査会社を使って調べたが、原因どころか失踪当日の彼女の足取りさえつかめなかった。
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