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事件の概要
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武男はもう一度、事件の概要を思い起こしてみた。
入谷健吾は激しい拷問を受けていた。前歯が三本、両手の中指と小指、そして肋骨が二本折られ、口頭隆起(喉ぼとけ)から下方に気管が縦に切り裂かれていた。この状態だと勿論、満足に呼吸をすることは出来ない。流れ出た血液が肺に溜まり、死が訪れるまでの数分間は地獄の苦しみを味わうことになる。しかし、犯人はその苦しみを最後まで見届けることなく、頸動脈を裂いて絶命させている。
田代香苗の供述によると、彼女の目の前に連れてこられた入谷の顔は血だらけだったという。口には銀色のテープが貼られていたので、彼が何か言おうとしている事は分かったが、うめき声しか発せられなかったという。そして犯人は田代の目の前で入谷の喉、――気管を切り裂いた。数十秒、もしくは数分間、この辺りの時間の記憶は田代には無かったが、実際にはほんの数秒であったと思われる。――彼が苦しむ姿を見せた後、犯人は入谷の頸動脈を切って殺した。
犯人は、田代の前でほとんど口をきかなかったという。ほぼ無言。それが一番怖かったと彼女は証言している。
気管を切り裂いて殺す拷問は、古くはアメリカのマフィアでも行われたが、一見地味である。観客が素人なら目の前で派手に血しぶきが上がって殺されるほうが遥かに恐ろしい。そこで犯人はゆっくりと入谷の死を待つことはせずに、頸動脈を切り裂いて絶命させたのではないだろうか。観客がトラウマになること請け合いである。
救出時、田代は全裸で後ろ手に縛られていた。SMプレイでみられるような緊縛である。口には赤いボールギャグが咬まされていた。その姿でモルタルの床の上に正座させられ、入谷が死んでいく光景を強制的に鑑賞させられたようである。
犯行後、犯人と思われる人物から警察に通報があり、通報された通りの場所で田代を保護したという訳である。
犯人が使用した携帯電話は、いわゆる足のつかない飛ばし携帯で、声もパソコンで合成されたボーカロイドのものであった。
田代が救出された翌日には、事件の動画があるサイトにアップされた。田代の目の前で被害者が殺される様子が撮られた約三十秒間の無音動画である。動画に映っているのは田代だけであった。県警のサイバーパトロールが発見し、コピーした後、すぐ削除した。資料にあった画像はそこから切り出されたものである。それ以降、動画がアップされた形跡はない。動画は海外のサーバーを経由してアップされたもので、アップした人物の特定には至っていない。
犯人が田代香苗に対して恐怖を与えたかったのは、間違いない。
田代は発見当時、全裸に剥かれて縛られていたが、危害を加えられたのは拉致された時にスタンガンを当てられただけで、監禁中は縛られた以外、肉体的にも性的にも暴行は受けていなかった。
この犯行に性的な意味合いはなかったのか? 警察の見解では犯人が動画を残していることから、性的な意味合いについては否定できないとしている。
田代の証言によると犯人の身長は170~180㎝くらいで、凄い力だったという。頭全体を覆うマスクをしていたので顔は分からない。声はボイスチェンジャーを介していた為、肉声も分からないし、動機も語らなかったという。そもそもほとんど言葉を発しなかったと証言している。
これだけ大掛かりな犯行を行うためには、綿密な計画が必要であり、それ相応の動機があるはずである。
田代は、自分が恨まれているとしたら、散々貢がせたキャバクラの客くらいしか思い当たらないと言った。ストーカーまがいの客もいたらしいが、それについては現在、所轄で調査をしているが、今のところ有力な情報は上がっていない。
入谷については、分らないと答えている。昔からの腐れ縁で、なんとなく付き合っていたが、無職の入谷は田代がキャバ嬢を始めた頃から、金をせびるようになったので、二年前に別れたという。それでも、たまに会う事はあったようだが、現在の彼の交友関係は知らないと言う。
彼は誰かに恨まれていたか? という質問に対して、そういう人はいてもおかしくないと答えている。
入谷健吾という人物は元々喧嘩っ早くて、誰彼構わず因縁をつけるような、どうしようもないヤンキーだったようである。
犯人は田代に対して動機を語っていない。
田代に恨みがあるとして――果たして、元彼である入谷を殺すだろうか? まあ普通に考えてあり得ない。
だが……考えようによっては……田代を脅す事が最大の目的ならば? 犯人にとって入谷の命など取るに足らない、どうでもいいものであった可能性もある……現在、田代は両親と折り合いが悪く、一人暮らしをしている。また、とりわけ仲の良い友達も、付き合っている男もいない事が分かっている。それ故、田代にとって一番近しい人物は入谷だったのかもしれない。であれば、それを知っていて、田代を恨んでいる人物が犯人という事になるが……現在それらしい人物は捜査線上に浮かんでいない。
では、犯人は入谷に対して恨みはなかったのか? 単純に田代を恐怖の支配下に置くためだけに殺した。と、考えられなくもないが……。
だが、あの殺害方法を見るに、入谷には相応の恨みがあったと考える方が筋が通る。そして少なくとも、入谷健吾と田代香苗の両方を良く知る人物の犯行と考えるのが自然だ。
――と踏んで捜査に当たってきたが、犯人どころか、手がかり一つつかめていないのが現状である。
共犯者がいたという線は現在の捜査状況からは否定的である。田代の証言によると、犯人はプロテクター装備の黒いコンバットスーツと見られる服装だったという。それ以外、現時点で分かっているのは、身長(それもおおよそ)だけで、その犯行手口から素人ではないだろう。という事くらいだ。
犯人は入谷健吾か田代香苗、もしくはその両方に対して強い恨みを持っている人物――。
犯人と被害者の間にどんな因縁があったのか不明だが、これ程の事をサラッとやってのける人物を野放しにしておくことは出来ない。
だがどうして、捜査本部はいきなり解散させられた。今は所轄がほそぼそと捜査しているだけだ。過去にも幾度か経験した事だ。上層部の思惑はわからない。昔は上に食って掛かったが、そうしたところで何も変わらないという事を学習した。むしろ出世が遠のくだけである。出世しなければ自分の意見は通りにくい。これは警察に限らずどの業界でも同じことが言えるだろう。
入谷健吾は激しい拷問を受けていた。前歯が三本、両手の中指と小指、そして肋骨が二本折られ、口頭隆起(喉ぼとけ)から下方に気管が縦に切り裂かれていた。この状態だと勿論、満足に呼吸をすることは出来ない。流れ出た血液が肺に溜まり、死が訪れるまでの数分間は地獄の苦しみを味わうことになる。しかし、犯人はその苦しみを最後まで見届けることなく、頸動脈を裂いて絶命させている。
田代香苗の供述によると、彼女の目の前に連れてこられた入谷の顔は血だらけだったという。口には銀色のテープが貼られていたので、彼が何か言おうとしている事は分かったが、うめき声しか発せられなかったという。そして犯人は田代の目の前で入谷の喉、――気管を切り裂いた。数十秒、もしくは数分間、この辺りの時間の記憶は田代には無かったが、実際にはほんの数秒であったと思われる。――彼が苦しむ姿を見せた後、犯人は入谷の頸動脈を切って殺した。
犯人は、田代の前でほとんど口をきかなかったという。ほぼ無言。それが一番怖かったと彼女は証言している。
気管を切り裂いて殺す拷問は、古くはアメリカのマフィアでも行われたが、一見地味である。観客が素人なら目の前で派手に血しぶきが上がって殺されるほうが遥かに恐ろしい。そこで犯人はゆっくりと入谷の死を待つことはせずに、頸動脈を切り裂いて絶命させたのではないだろうか。観客がトラウマになること請け合いである。
救出時、田代は全裸で後ろ手に縛られていた。SMプレイでみられるような緊縛である。口には赤いボールギャグが咬まされていた。その姿でモルタルの床の上に正座させられ、入谷が死んでいく光景を強制的に鑑賞させられたようである。
犯行後、犯人と思われる人物から警察に通報があり、通報された通りの場所で田代を保護したという訳である。
犯人が使用した携帯電話は、いわゆる足のつかない飛ばし携帯で、声もパソコンで合成されたボーカロイドのものであった。
田代が救出された翌日には、事件の動画があるサイトにアップされた。田代の目の前で被害者が殺される様子が撮られた約三十秒間の無音動画である。動画に映っているのは田代だけであった。県警のサイバーパトロールが発見し、コピーした後、すぐ削除した。資料にあった画像はそこから切り出されたものである。それ以降、動画がアップされた形跡はない。動画は海外のサーバーを経由してアップされたもので、アップした人物の特定には至っていない。
犯人が田代香苗に対して恐怖を与えたかったのは、間違いない。
田代は発見当時、全裸に剥かれて縛られていたが、危害を加えられたのは拉致された時にスタンガンを当てられただけで、監禁中は縛られた以外、肉体的にも性的にも暴行は受けていなかった。
この犯行に性的な意味合いはなかったのか? 警察の見解では犯人が動画を残していることから、性的な意味合いについては否定できないとしている。
田代の証言によると犯人の身長は170~180㎝くらいで、凄い力だったという。頭全体を覆うマスクをしていたので顔は分からない。声はボイスチェンジャーを介していた為、肉声も分からないし、動機も語らなかったという。そもそもほとんど言葉を発しなかったと証言している。
これだけ大掛かりな犯行を行うためには、綿密な計画が必要であり、それ相応の動機があるはずである。
田代は、自分が恨まれているとしたら、散々貢がせたキャバクラの客くらいしか思い当たらないと言った。ストーカーまがいの客もいたらしいが、それについては現在、所轄で調査をしているが、今のところ有力な情報は上がっていない。
入谷については、分らないと答えている。昔からの腐れ縁で、なんとなく付き合っていたが、無職の入谷は田代がキャバ嬢を始めた頃から、金をせびるようになったので、二年前に別れたという。それでも、たまに会う事はあったようだが、現在の彼の交友関係は知らないと言う。
彼は誰かに恨まれていたか? という質問に対して、そういう人はいてもおかしくないと答えている。
入谷健吾という人物は元々喧嘩っ早くて、誰彼構わず因縁をつけるような、どうしようもないヤンキーだったようである。
犯人は田代に対して動機を語っていない。
田代に恨みがあるとして――果たして、元彼である入谷を殺すだろうか? まあ普通に考えてあり得ない。
だが……考えようによっては……田代を脅す事が最大の目的ならば? 犯人にとって入谷の命など取るに足らない、どうでもいいものであった可能性もある……現在、田代は両親と折り合いが悪く、一人暮らしをしている。また、とりわけ仲の良い友達も、付き合っている男もいない事が分かっている。それ故、田代にとって一番近しい人物は入谷だったのかもしれない。であれば、それを知っていて、田代を恨んでいる人物が犯人という事になるが……現在それらしい人物は捜査線上に浮かんでいない。
では、犯人は入谷に対して恨みはなかったのか? 単純に田代を恐怖の支配下に置くためだけに殺した。と、考えられなくもないが……。
だが、あの殺害方法を見るに、入谷には相応の恨みがあったと考える方が筋が通る。そして少なくとも、入谷健吾と田代香苗の両方を良く知る人物の犯行と考えるのが自然だ。
――と踏んで捜査に当たってきたが、犯人どころか、手がかり一つつかめていないのが現状である。
共犯者がいたという線は現在の捜査状況からは否定的である。田代の証言によると、犯人はプロテクター装備の黒いコンバットスーツと見られる服装だったという。それ以外、現時点で分かっているのは、身長(それもおおよそ)だけで、その犯行手口から素人ではないだろう。という事くらいだ。
犯人は入谷健吾か田代香苗、もしくはその両方に対して強い恨みを持っている人物――。
犯人と被害者の間にどんな因縁があったのか不明だが、これ程の事をサラッとやってのける人物を野放しにしておくことは出来ない。
だがどうして、捜査本部はいきなり解散させられた。今は所轄がほそぼそと捜査しているだけだ。過去にも幾度か経験した事だ。上層部の思惑はわからない。昔は上に食って掛かったが、そうしたところで何も変わらないという事を学習した。むしろ出世が遠のくだけである。出世しなければ自分の意見は通りにくい。これは警察に限らずどの業界でも同じことが言えるだろう。
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