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太陽がいっぱい
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薄暗い店内には第三の男のテーマ曲が流れていた。この店に来るのは久しぶりだ。相変わらず客はほとんどいない。日暮里に越してきたばかりの頃、見つけた店だった。駅から少し離れているが、当時は気に入ってよく来ていた。
店内には古い映画音楽が流れ、大抵の曲なら、リクエストをすればかけてくれる。
浩一はカウンターに座り、マスターに声をかけた。マスターは浩一の事をよく覚えていいた。そして快く浩一の要望を受け入れてくれた。
夜八時半であるが客は年配の紳士が一人しかいなかった。渡されたグラスに口をつけた時、待ち人がやってきた。
「待ちました?」
山城が腕時計を確認しながら言った。二十一時十分前である。
「いえ、今来たところです」
山城警部から電話があったのは昼。用事で都内に行くので、夜に会えないかという。十九時半まで仕事なので、二十一時なら確実だと返事をした。
「さすが先生、洒落た店を知っていらっしゃる」
「私も来たのは数年ぶりですよ」
二人はボックス席に移動した。
今日の山城は黒のスーツで、グレーのシャツにブルーのネクタイを合わせている。眼鏡は銀縁で僅かに茶色いスモークが入っている。一歩間違えたら、そっち系の人物に間違われなくもないが、山城にはとても似合っていた。前回千葉に行った時も、ほぼ同じコーディネイトで、タイはベージュだった。浩一はジーンズに麻のジャケット、いつもそうだが診察中も含めてラフな服装である。
「ニュースで見ましたよ。山城警部、写っていましたね。大変だったようですね、千葉港。ご苦労様でした」
「ああ、あれ――ありがとうございます。警察というのは一般の方から恨まれる事はあっても感謝されることは余り無いのです。まあ、そのほとんどは交通課の仕業ですが」山城は笑った。「そう言って頂けるととても嬉しいですね」
山城が眼鏡を押し上げてから言った。「それから、その警部っていうのは止めて下さい。山城で結構です」
「それなら私も先生っていうのは止めてもらえますか、川島で結構です」
「いえ、先生は先生ですから」
そう言うと山城は川島と同じものを注文した。
「煙草よろしいですか?」
浩一は山城が喫煙者だと分かっていて聞いた。前回、県警本部に行った時、山城の胸ポケットにメビウスが入っているのを見たからだ。
「勿論です。私も吸いますので」
山城の顔に少し笑みがこぼれた。どうやら医師である浩一が喫煙者だとは思っていなかったらしい。
「先生も吸われるのですね」
川島が吐き出す煙をみながら山城が言った。
「今時、医者が吸っていたら、やはりおかしいですよね」
浩一はそう言うと深々と、最近の世の中では悪でしかない、青白い気体を肺の奥まで染みわたらせた。
その後しばらくは煙草の話で盛り上がった。
山城警部の話は二つ。
一つは田代香苗さんが退院したという報告。
入谷健吾の殺害事件は捜査本部が解散している為、県警本部は表立って捜査はしていないが、山城警部の班は所轄と連携して、今も捜査を継続しているという。
田代さんが住んでいた千葉市稲毛区の賃貸マンションも、アル中の母親(香苗は母親に高校卒業後一度も会っていないという)しかいない緑区の実家も危険なので念のため、千葉港北警察署の近くにある、比較的安くてセキュリティーのしっかりしたマンションを紹介したという。しばらくは私服刑事が巡回して警護にあたるらしい。
田代香苗はキャバクラで働いて、結構な額の金を貯めていたようである。しかし、今回の事件で犯人は田代や入谷の金品には目もくれていないことから、猟奇的な快楽殺人、異常性犯罪、もしくは強い怨恨の線で捜査を進めているという。
入谷は札付きの悪で田代はキャバ嬢。こんな組み合わせのカップルは世の中にごまんといる。ストーカーと目された人物は、田代の客で、事件とは関係ない事が証明されたそうだ。その後の調べでも、今のところまだ犯人につながるような人物はいないということだった。
二つ目は最近千葉県で起きた男性の死亡事故について資料と画像を提示され、意見を求められた。
「管轄の警察署は事故で送検すると言ったのですが、私の部下が待った、をかけました。結果的には事故死という事で処理されたのですが、参考までに先生のご意見を伺いたい」
「私のような素人にですか?」
「いえ、事故死か殺人か、ではなく先生はどう感じるかをお聞かせ頂きたい。抽象的な言い方ですみません」
山城の意図は分からなかったが、渡された資料を見た後、浩一は思ったままを伝えた。「この資料と画像からでは、事故か他殺かを判断する事は難しいと思います。ただ……」
「ただ?」
「この遺体は頭頂に近い左側頭部に頭蓋骨骨折。つまり、陥没を起こす程の比較的大きな損傷を受けています。この 資料には詳しい解剖所見が無いので断定はできませんが、そうとうな恐怖と苦しみがあったと推測します」
「根拠は?」
「記載されている死因は溺死です。それも相当量の海水を飲んでいる。これは非常に苦しい死に方です。この人の場合は頭を打って海に落ちた。もしくは海に落ちて頭を打った。どちらでも構いませんが、意識はあったと思われます。頭蓋骨骨折の位置から推察すると、大脳運動野のダメージにより手足は意に反して動かない。暗い海の中で自分は確実に死ぬという事に恐怖しながら、そして苦しみながら死んだのではないでしょうか」
山城は頷きながら話を聞いている。
「その苦しみがそう長く続いたとは思いませんが……あくまでも一つの推察です。実は脳のダメージが大きすぎて何も感じなかったのかも知れない。でも私はこんな死に方はしたくないですね」浩一はもう一つ付け加えた。「もし、これが殺人なら、そして苦しませる事も目的の一つだったとしたら、それは成功です。犯人は被害者を不意に襲って頭を打ち付ける。そしてそのまま殺すことなく海に落とす。被害者に対して非常に強い恨みを持った人物と思われます。が、勿論推測です。実は殺すつもりは無かったが、たまたま、かっとなって海に突き落としてしまった。ということも考えられます」
山城が頷いている。
「いや、ただの推測です。たまたま足を滑らせただけの事故かもしれません」
「驚きましたね……じつはこの件に対して、事故死での送検にストップをかけた私の部下が先生と同じ見解です」
山城は満足したように何度も頷いていた。
「で、どうするんですか? この件、殺人事件として捜査するのですか?」
「いえ、既に事故死として処理されます」
「…………」
「意外に思われるかも知れませんが、目撃者も無く、聞き込みからも、この人物が殺されるような原因が見当たりません。よって、これ以上、この件に時間を割く事はできません。先生にお聞きしたのは、私の興味本位からです」
「興味本位?」
「はい。私的にはもう少し時間をかけて調べたかったのですが……末端の一警察官にはどうすることもできません。 まあ十中八九、事故だろうとは思いますが」
「そうでしたか……」
「先生のご意見を聞けて良かったです。今後の捜査に役立てさせて頂きます」
「警部、てことは、世の中には事故として処理されてしまった殺人事件が無い……とは言い切れない。という事ですか?」
「まあ……そういう事です」
店内は一時無音になった後、管楽器の重奏が四方に置かれたJBLのスピーカーから流れてきた。演奏はスティングに変ったようだ。
「ところで先生、先生は自衛隊時代、海外で救急研修をされていますね。実際、前線での経験もお持ちだ。かなり優秀だったとお聞きしましたが、なぜ辞めて心療内科に転向されたのですか?」
「随分お調べになったようですね。何か意図があるのですか?」
川島の口調は穏やかだった。
「単純に先生に対する興味です。深い意図はありません」
「まあ別に隠すことでも無いのでお話しますよ」
ウイスキーグラスに浮かぶ氷を指で回しながら浩一は話し始めた。
「ご存じの通り私は孤児でした。誤解しないで下さい。別に辛いことなんてありませんでした。むしろ周りが同情するので、生きやすかったと言っても過言ではありません」
浩一は煙草に火を点けて一呼吸おいた。「金持ちになりたかったのです」
「金持ち?」
「そうです。その為に医者になりました。小中学校と私はひねくれていました。いわゆるクソガキです。そんな私に里親は決まりませんでした。というより、私が拒否していました。こんな話つまらないですね。まあ、つまるところ金持ちになりたかったのです。医者になりたかったわけでも、自衛隊に入りたかったわけでもありません。軽蔑して頂いて構いませんよ」そう言った川島の表情は険しい。
「よろしければ詳しくお話、頂けませんか?」
そう言うと山城は二杯目のウイスキーを注文した。
だが川島は黙っている。
しばらくの沈黙の後、山城が話し始めた。「私は母子家庭に育ちました。父親が誰かわかりません。窃盗の前科があった母親は定職に就くことができず、それは貧乏な暮らしでした。小学生時代は随分といじめられましたね。当時、隣のクラスに小松という喧嘩の強い男の子がいて、彼だけはたまに私を庇ってくれました。彼は私だけに告白したんです。自分はヤクザの息子だと。そんなわけで、単純な私は将来ヤクザになろうと思いました。私の中で小松はヒーローだったのです」
川島の険しくなった目が再び普通の目に戻る。
山城は話を続けた。「中学になってもいじめはなくなりませんでした。当時、私達親子が住んでいたアパートの近くに、大きくて立派な家がありました。そこの子供と同じクラスになったのですが、彼もまた、いじめにあっていた私を助けてくれました。彼の親は警察官僚だった。少しずつ世間というものが分かってきた年頃だったので、私の目標はヤクザから警察官僚に変更されました。こんな話つまらないですね」
山城は話を中断してソーセージを注文した。
「いえ、続けて頂けませんか?」
一呼吸おいて山城はまた話し始めた。「私は一生懸命勉強して、地元の国立大学に入学しました。そして卒業時に国家一種試験を受験したのですが、合格は出来ませんでした。なので、警察官にはなりましたが、キャリアにはなれませんでした」
ここで山城は再びメビウスに火を点けた。「いや、大学時代、既にキャリアという夢は諦めていました。母は私が大学生になった年に亡くなりましたから。元々、苦労した母にせめて老後は金銭的に楽をさせてやりたいという思いで、苦手な勉強をしてきたのですから、母の死後はアルバイトと麻雀の毎日です。卒業だってギリギリでした」
そう言って山城は笑って見せた。「いずれにしろ、私にはこれ以上の出世はありません」
「でも、その歳で警部というのは凄い事ではありませんか? 県警本部の刑事部ってエリート揃いって聞きますよ。更なる出世が約束されているのでは?」
そう言った浩一の表情からは険しさが消えていた。
「いやいや、そんな事はありません。身内、それも母親が犯罪者です。私がこれ以上出世する事はありません。まあある意味、気は楽です」
「そんな、お母さんの犯罪って、三十年も四十年も昔の事ですよね? それも窃盗……殺人とかなら、まだわかりますが……」
「それが警察というところです」
山城は少し微笑んで三杯目のウイスキーを注文した。
「ご存じの様に私は防衛医大を卒業しています」
山城の話を聞いて気を許し、浩一も自分の過去について話し始めた。
「他に選択肢はありませんでした。高校を卒業したら施設から出ていかなければなりませんからね。私も死に物狂いで、決して好きではない勉強をしました。防衛医大の学費は無料で、全寮制のため住むところも無料。更に給料も貰えるのですからね。卒業後九年働けば全てチャラになります。しかも、その九年間も給料はもらえます。高給ではありませんが」
山城は黙って川島の話に耳を傾けていた。
「医師になった後、しばらく臨床経験を積んだ私が派遣された場所は内戦が続くアフリカの戦地でした。勿論、日本の自衛隊は非武装で完全な後方支援でしたが、私は医師として、前線に近い病院で働いている現地の医師団に合流しました。地獄でしたね。連日、負傷した兵士や民間人が運ばれてきます。そして多くの人が死んでいきました。手足が吹き飛ばされ、内臓が飛び出た母親にすがって泣く子供たち。臍から下の無い我が子を抱いてうずくまる父親。顔の半分が無くなった妻の姿を見て自殺した夫……私は二度目の派遣の後、日本に戻ってすぐ除隊しました。もう九年は経っていましたからね」
「私も警察という仕事柄、悲惨な遺体に接する事はありますが……それはまた……壮絶ですね……」
「はい……酷いところでした。除隊後ER――つまり日本で救急救命をやるつもりはありませんでした。余程、好きでなければ割に合いません。自分の命を削って働いても、特別、給料が良いわけではない。助けて当たり前、助けられなかった場合、全力を尽くしたにもかかわらず、後からのあら捜しで訴えられる可能性もある。これは、臨床医であればどの科を選択しても同じですが、確率の問題です。産科や小児科なども訴えられる確率が高い」
グラスに残ったウイスキーを飲み干し、浩一は続けた。「色々考えて私は心療内科を選択しました。心療内科を志した先生方には失礼ですが、ほとんど残業もなく、ERに比べたら天国のような職場でした。しかし医師といえども長年、他人の心のケアをしていると精神が崩壊します。心療内科医自ら患者になるケースも少なくありません。でも私は平気でした。将来の開業にあまり金がかからないのも理由の一つです」
ここで浩一は一旦、話を中断して二杯目のウイスキーを注文したが、山城が黙っていたので、また話始めた。「私からしたら患者の悩みは取るに足らないものがほとんどでした。会社の同僚に嫌がらせをされるから辛いとか、受験に失敗したから死にたいとか、まあ人それぞれ辛さや苦しさの尺度は違います。勿論深刻なケースも存在します。でも私は思ったんです。この人達の話を聞いてあげて薬を処方する。深刻な症例や、難解な症例は大学にお願いすればいい。その為に大学病院で研修もしました。これがあの場所、民間人を巻き込んで殺し合いをしていた国であったら、私は絶対、心療内科だけは選択しませんね。精神が壊れる自信があります」一息ついて浩一は続けた。「私は崇高な目的を持って医師になったのではありません。まして、心療内科医になりたかったわけでもない。でも患者は私のクリニックに来て、私と話をして、私の処方した薬を飲んで安心する。そして私はお金を得る。でも、患者の病状が回復すると、こんな私だって素直に嬉しく思います。実際、私のクリニックの評判は悪くありません」
話し終えると浩一はトイレに行く為、席を立った。
トイレから戻ると山城が空になったグラスを見つめていた。
「もう一杯注文しますか?」
「いや、やめておきます。先生、お話頂きありがとうございました。前回お会いした時、先生には何か、私と同類のにおいを感じたのです。だが、先生は私が思った以上に大きなお方だ」
「いや、私はゲスな男です。山城さんとは違いますよ」
店内に『太陽がいっぱいのテーマ曲』が流れ始めた。
「この曲……たしかアランドロンでしたっけ?」
山城が目を閉じて、思い出そうとしている。
「そうです。主演はアランドロン。太陽がいっぱい、です」
「そうだ。確か、完全犯罪が成功して、安心しきったところで、犯行がバレてしまう。そんな映画ですよね」
山城は思い出したようだ。
「そうです。この曲、さっきトイレに行った時、私がリクエストしたんです。山城さん、貴方とはもう少し早くお会いしたかった」
「私もです」
店内には古い映画音楽が流れ、大抵の曲なら、リクエストをすればかけてくれる。
浩一はカウンターに座り、マスターに声をかけた。マスターは浩一の事をよく覚えていいた。そして快く浩一の要望を受け入れてくれた。
夜八時半であるが客は年配の紳士が一人しかいなかった。渡されたグラスに口をつけた時、待ち人がやってきた。
「待ちました?」
山城が腕時計を確認しながら言った。二十一時十分前である。
「いえ、今来たところです」
山城警部から電話があったのは昼。用事で都内に行くので、夜に会えないかという。十九時半まで仕事なので、二十一時なら確実だと返事をした。
「さすが先生、洒落た店を知っていらっしゃる」
「私も来たのは数年ぶりですよ」
二人はボックス席に移動した。
今日の山城は黒のスーツで、グレーのシャツにブルーのネクタイを合わせている。眼鏡は銀縁で僅かに茶色いスモークが入っている。一歩間違えたら、そっち系の人物に間違われなくもないが、山城にはとても似合っていた。前回千葉に行った時も、ほぼ同じコーディネイトで、タイはベージュだった。浩一はジーンズに麻のジャケット、いつもそうだが診察中も含めてラフな服装である。
「ニュースで見ましたよ。山城警部、写っていましたね。大変だったようですね、千葉港。ご苦労様でした」
「ああ、あれ――ありがとうございます。警察というのは一般の方から恨まれる事はあっても感謝されることは余り無いのです。まあ、そのほとんどは交通課の仕業ですが」山城は笑った。「そう言って頂けるととても嬉しいですね」
山城が眼鏡を押し上げてから言った。「それから、その警部っていうのは止めて下さい。山城で結構です」
「それなら私も先生っていうのは止めてもらえますか、川島で結構です」
「いえ、先生は先生ですから」
そう言うと山城は川島と同じものを注文した。
「煙草よろしいですか?」
浩一は山城が喫煙者だと分かっていて聞いた。前回、県警本部に行った時、山城の胸ポケットにメビウスが入っているのを見たからだ。
「勿論です。私も吸いますので」
山城の顔に少し笑みがこぼれた。どうやら医師である浩一が喫煙者だとは思っていなかったらしい。
「先生も吸われるのですね」
川島が吐き出す煙をみながら山城が言った。
「今時、医者が吸っていたら、やはりおかしいですよね」
浩一はそう言うと深々と、最近の世の中では悪でしかない、青白い気体を肺の奥まで染みわたらせた。
その後しばらくは煙草の話で盛り上がった。
山城警部の話は二つ。
一つは田代香苗さんが退院したという報告。
入谷健吾の殺害事件は捜査本部が解散している為、県警本部は表立って捜査はしていないが、山城警部の班は所轄と連携して、今も捜査を継続しているという。
田代さんが住んでいた千葉市稲毛区の賃貸マンションも、アル中の母親(香苗は母親に高校卒業後一度も会っていないという)しかいない緑区の実家も危険なので念のため、千葉港北警察署の近くにある、比較的安くてセキュリティーのしっかりしたマンションを紹介したという。しばらくは私服刑事が巡回して警護にあたるらしい。
田代香苗はキャバクラで働いて、結構な額の金を貯めていたようである。しかし、今回の事件で犯人は田代や入谷の金品には目もくれていないことから、猟奇的な快楽殺人、異常性犯罪、もしくは強い怨恨の線で捜査を進めているという。
入谷は札付きの悪で田代はキャバ嬢。こんな組み合わせのカップルは世の中にごまんといる。ストーカーと目された人物は、田代の客で、事件とは関係ない事が証明されたそうだ。その後の調べでも、今のところまだ犯人につながるような人物はいないということだった。
二つ目は最近千葉県で起きた男性の死亡事故について資料と画像を提示され、意見を求められた。
「管轄の警察署は事故で送検すると言ったのですが、私の部下が待った、をかけました。結果的には事故死という事で処理されたのですが、参考までに先生のご意見を伺いたい」
「私のような素人にですか?」
「いえ、事故死か殺人か、ではなく先生はどう感じるかをお聞かせ頂きたい。抽象的な言い方ですみません」
山城の意図は分からなかったが、渡された資料を見た後、浩一は思ったままを伝えた。「この資料と画像からでは、事故か他殺かを判断する事は難しいと思います。ただ……」
「ただ?」
「この遺体は頭頂に近い左側頭部に頭蓋骨骨折。つまり、陥没を起こす程の比較的大きな損傷を受けています。この 資料には詳しい解剖所見が無いので断定はできませんが、そうとうな恐怖と苦しみがあったと推測します」
「根拠は?」
「記載されている死因は溺死です。それも相当量の海水を飲んでいる。これは非常に苦しい死に方です。この人の場合は頭を打って海に落ちた。もしくは海に落ちて頭を打った。どちらでも構いませんが、意識はあったと思われます。頭蓋骨骨折の位置から推察すると、大脳運動野のダメージにより手足は意に反して動かない。暗い海の中で自分は確実に死ぬという事に恐怖しながら、そして苦しみながら死んだのではないでしょうか」
山城は頷きながら話を聞いている。
「その苦しみがそう長く続いたとは思いませんが……あくまでも一つの推察です。実は脳のダメージが大きすぎて何も感じなかったのかも知れない。でも私はこんな死に方はしたくないですね」浩一はもう一つ付け加えた。「もし、これが殺人なら、そして苦しませる事も目的の一つだったとしたら、それは成功です。犯人は被害者を不意に襲って頭を打ち付ける。そしてそのまま殺すことなく海に落とす。被害者に対して非常に強い恨みを持った人物と思われます。が、勿論推測です。実は殺すつもりは無かったが、たまたま、かっとなって海に突き落としてしまった。ということも考えられます」
山城が頷いている。
「いや、ただの推測です。たまたま足を滑らせただけの事故かもしれません」
「驚きましたね……じつはこの件に対して、事故死での送検にストップをかけた私の部下が先生と同じ見解です」
山城は満足したように何度も頷いていた。
「で、どうするんですか? この件、殺人事件として捜査するのですか?」
「いえ、既に事故死として処理されます」
「…………」
「意外に思われるかも知れませんが、目撃者も無く、聞き込みからも、この人物が殺されるような原因が見当たりません。よって、これ以上、この件に時間を割く事はできません。先生にお聞きしたのは、私の興味本位からです」
「興味本位?」
「はい。私的にはもう少し時間をかけて調べたかったのですが……末端の一警察官にはどうすることもできません。 まあ十中八九、事故だろうとは思いますが」
「そうでしたか……」
「先生のご意見を聞けて良かったです。今後の捜査に役立てさせて頂きます」
「警部、てことは、世の中には事故として処理されてしまった殺人事件が無い……とは言い切れない。という事ですか?」
「まあ……そういう事です」
店内は一時無音になった後、管楽器の重奏が四方に置かれたJBLのスピーカーから流れてきた。演奏はスティングに変ったようだ。
「ところで先生、先生は自衛隊時代、海外で救急研修をされていますね。実際、前線での経験もお持ちだ。かなり優秀だったとお聞きしましたが、なぜ辞めて心療内科に転向されたのですか?」
「随分お調べになったようですね。何か意図があるのですか?」
川島の口調は穏やかだった。
「単純に先生に対する興味です。深い意図はありません」
「まあ別に隠すことでも無いのでお話しますよ」
ウイスキーグラスに浮かぶ氷を指で回しながら浩一は話し始めた。
「ご存じの通り私は孤児でした。誤解しないで下さい。別に辛いことなんてありませんでした。むしろ周りが同情するので、生きやすかったと言っても過言ではありません」
浩一は煙草に火を点けて一呼吸おいた。「金持ちになりたかったのです」
「金持ち?」
「そうです。その為に医者になりました。小中学校と私はひねくれていました。いわゆるクソガキです。そんな私に里親は決まりませんでした。というより、私が拒否していました。こんな話つまらないですね。まあ、つまるところ金持ちになりたかったのです。医者になりたかったわけでも、自衛隊に入りたかったわけでもありません。軽蔑して頂いて構いませんよ」そう言った川島の表情は険しい。
「よろしければ詳しくお話、頂けませんか?」
そう言うと山城は二杯目のウイスキーを注文した。
だが川島は黙っている。
しばらくの沈黙の後、山城が話し始めた。「私は母子家庭に育ちました。父親が誰かわかりません。窃盗の前科があった母親は定職に就くことができず、それは貧乏な暮らしでした。小学生時代は随分といじめられましたね。当時、隣のクラスに小松という喧嘩の強い男の子がいて、彼だけはたまに私を庇ってくれました。彼は私だけに告白したんです。自分はヤクザの息子だと。そんなわけで、単純な私は将来ヤクザになろうと思いました。私の中で小松はヒーローだったのです」
川島の険しくなった目が再び普通の目に戻る。
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山城は話を中断してソーセージを注文した。
「いえ、続けて頂けませんか?」
一呼吸おいて山城はまた話し始めた。「私は一生懸命勉強して、地元の国立大学に入学しました。そして卒業時に国家一種試験を受験したのですが、合格は出来ませんでした。なので、警察官にはなりましたが、キャリアにはなれませんでした」
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そう言って山城は笑って見せた。「いずれにしろ、私にはこれ以上の出世はありません」
「でも、その歳で警部というのは凄い事ではありませんか? 県警本部の刑事部ってエリート揃いって聞きますよ。更なる出世が約束されているのでは?」
そう言った浩一の表情からは険しさが消えていた。
「いやいや、そんな事はありません。身内、それも母親が犯罪者です。私がこれ以上出世する事はありません。まあある意味、気は楽です」
「そんな、お母さんの犯罪って、三十年も四十年も昔の事ですよね? それも窃盗……殺人とかなら、まだわかりますが……」
「それが警察というところです」
山城は少し微笑んで三杯目のウイスキーを注文した。
「ご存じの様に私は防衛医大を卒業しています」
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ここで浩一は一旦、話を中断して二杯目のウイスキーを注文したが、山城が黙っていたので、また話始めた。「私からしたら患者の悩みは取るに足らないものがほとんどでした。会社の同僚に嫌がらせをされるから辛いとか、受験に失敗したから死にたいとか、まあ人それぞれ辛さや苦しさの尺度は違います。勿論深刻なケースも存在します。でも私は思ったんです。この人達の話を聞いてあげて薬を処方する。深刻な症例や、難解な症例は大学にお願いすればいい。その為に大学病院で研修もしました。これがあの場所、民間人を巻き込んで殺し合いをしていた国であったら、私は絶対、心療内科だけは選択しませんね。精神が壊れる自信があります」一息ついて浩一は続けた。「私は崇高な目的を持って医師になったのではありません。まして、心療内科医になりたかったわけでもない。でも患者は私のクリニックに来て、私と話をして、私の処方した薬を飲んで安心する。そして私はお金を得る。でも、患者の病状が回復すると、こんな私だって素直に嬉しく思います。実際、私のクリニックの評判は悪くありません」
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トイレから戻ると山城が空になったグラスを見つめていた。
「もう一杯注文しますか?」
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「いや、私はゲスな男です。山城さんとは違いますよ」
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山城が目を閉じて、思い出そうとしている。
「そうです。主演はアランドロン。太陽がいっぱい、です」
「そうだ。確か、完全犯罪が成功して、安心しきったところで、犯行がバレてしまう。そんな映画ですよね」
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「私もです」
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