ヘルツを彼女に合わせたら

高津すぐり

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第二章

16.「Wonderwall」

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 スペシャルウィーク当日。
 放送を十五分前に控えたスタジオには、裸の火をそのまま部屋に持ち込んだような緊張が漂っていた。ついさっき、主役タテヤマのいないリハーサルが終わり、各々が十四時までの待機時間を過ごしている。
 シイナは時間配分のメモを何度も確認して、特殊なタイムスケジュールに備えている。ミヤモトも珍しく横にメモを置き、彼の商売道具ともいえるミキサーには、見慣れない色のマスキングテープが夥しく付いていた。タテヤマのライブ用の調整らしい。
 そして、ハルカは台本と壁を交互に見つめて、ぶつぶつと台詞の確認をしている。先週までとはうって変わって、その面持ちからは焦りというよりも自若を感じる。この放送に賭けている、懸かっているのだという事実を再認識させられた。
 私は自分で書いた台本に目をやる。推敲の過程で、もう空で言うことすらできるほど読み込んだ台本。しかし、読み返せば読み返すだけ新しい穴が見つかってどんどん不安が増長する。そう思う傍らで、これが自分の限界だとも思った。自分の手で創ったモノというのは、欠点ばかりを鮮明に写す鏡だった。
「タテヤマさん。またギリギリに来るんですかね」
 私は、シイナが小型の冷蔵庫から水を取り出したのを見て声を掛けた。
「……直前にだけ来ればいいって伝えたからね。だから、前来た時に音の調整も済ませたんだろうけど」
「そうですか」
 ゲストとしての出番が十五時台からのタテヤマは、大方の予想通りまだ姿を見せていなかった。しかし、「彼は来る」という不思議な確信が、このスタジオにいる全員の共通認識として在った。いつか、ハルカがそう言っていたように。
 私は壁に掛けられた時計を見る。時刻は刻々と放送の開始時間に近づいている。今日は何度もこの針を確認することになりそうだ。
 
 放送開始五分前になったところで、シイナがパンと威勢よく手を叩いた。
「じゃあ、いくわよ」
 ハルカは背筋を伸ばす。呼吸を長く吸う。その倍掛けて吐く。
「……これで決まる」
 彼女は自分自身を追い込むようにして独りごつ。そしてもう一度浅く呼吸をすると、今度はスタジオの全体を見渡す。
「行ってらっしゃい」
 シイナが言う。ミヤモトは子供みたいに両手を大きく横に振る。彼らは特別なことを言わない。それが、ハルカというラジオパーソナリティへの信頼の証だった。
 ハルカは首を縦に振ると、私の方を向いた。
「貴方の台本で、勝ってくるよ」
 右手に持った台本をぎゅっと丸め、予告ホームランのように私に向けて言った。今まで見たことのない表情と聞いたことのない声色で、拍子抜けした。感情と思考の回路が絡まって、顔が熱くなる。結局「ボン・ボヤージュ」とだけ言って、親指を立てた。ハルカは鼻で笑いながら、いつもの声で「何それ」と返した。
「行ってきます」
 彼女は一人、ブースに向かった。
 ハルカはブースの特等席に座る。マイクの高さを調整しヘッドホンを装着すると、居合いする武士のような神妙さを。そして、彼女の向かい席。いつもは誰もいない席の前に、もう一台のマイクと資料の束、ペットボトルの水が置かれている。
 ふと、八月頭の出来事を思い出した。シイナに言われてブースに入り、彼女の席に座った日のこと。たった一枚の透明な壁で隔たれているだけなのに、恐ろしく孤独で頼りない気持ちになったことを覚えている。
 ここで一人、ハルカはずっと戦ってきた。そして、これからも戦い続けるはずだ。
 長針は天を差す。ジングルが流れる。ハルカの肩が上がった。
「R-MIX! 時刻は十四時になりました! みなさんこんにちは。ラジオパーソナリティのハルカです!」
 明朗なオープニングコールは、いつも以上に力がこもっていた。
「今週は『RAR-FMスペシャルウィーク』ということで、R-MIXでは十五時台からスペシャルゲストのタテヤマリュウさんに来ていただきます!」
 ハルカはタテヤマを紹介するにあたって、かつて彼が世を席巻したときの肩書きである「スーパーノヴァ」や「タテヤマ兄弟」を使わなかった。それは、タテヤマに対する彼女なりのリスペクトに感じた。
「いやぁ、暫くメディアにも姿を現していないタテヤマさんですが、今回出演していただき、ライブまで披露していただきます! 楽しみですね」
 そのスペシャルゲストはまだスタジオにいない。それでもハルカは、淡々と番組を進行する。
 カメダ、フルタ、特別イベント。R-MIXの放送に「勝負」を感じる場面は、何度もあった。
 その時と違うのは、今ハルカが読み上げている台本が曲がりなりにも私の手で書かれたものであること。今日の放送は、私自身の戦いでもあると嫌でも感じていた。
「それでは、早速行きましょう! アールミックス、本日も二時間、お付き合いお願いいたします!」
 今日のジングルは開戦を告げるゴングに聞こえた。

 ○○○
 
「……以上、今週のロック・トピック。『ロック・ウィークエンダー』でした!」
 十五時。番組はオープニングトークの後、「ライブ・リクエスト」と「RAR25」、「ロック・ウィークエンダー」の三つのコーナーを終えた。
 ここから番組はいつもと違うルートに舵を切る。
「それではCMと交通情報の後、『リメンバー・タイム』です!」
 コマーシャルに繋がるジングルが流れると、ハルカは口に水を含んで息を付く。その様はシイナというセコンドがいるせいもあって、ボクシングのインターバルのようだと思った。
 ただ、心なしか放送前よりも今のハルカの方がリラックスしているように見えた。
 ハルカがペットボトルのキャップを閉めて机に置く。それと同時に、ガチャリとドアの開く音がした。音に反応して目を運ぶと、そこにはタテヤマの姿があった。
 シイナは胸を撫で下ろすような表情を見せ会釈をするので、私も倣う。ブースの中のハルカもタテヤマに気付いたようで、軽く目礼をした。
 勿論、タテヤマはそんなものに構わずズカズカとスタジオに立ち入ると、私の後方、入り口から最も離れた奥のソファに座った。水を差し出そうと私が席を立つと、男はそれよりも早く冷蔵庫に手を伸ばし水のペットボトルを一本取り出していた。
「CM明けます」
 ミヤモトがマイクからハルカに指示を送る。その声でハルカは姿勢を正して正面を向く。すぐに番組に戻るためのジングルが鳴った。
「続いてのコーナーは、ホウオウビール提供『リメンバー・タイム』!」
 エコーの掛かったハルカの声がスタジオ内に響く。それを追うようにしてミディアムロック風のBGMが流れた。
「このコーナーは、ある年代の一つの音楽ジャンルに焦点を当て、その時期のヒット曲や流行した文化を取り上げるコーナーです!」
 ハルカは定型文を言い終わると、台本のページを一枚捲る。その先にあるのは、私の書いた文だった。
「リメンバー・タイム、今回のテーマは『ブリットポップ』です! 皆さんはブリットポップをご存知でしょうか? ブリットブリはティッシュ、つまりイギリスのを中心にして一九九〇年代起きたムーブメントです」
 私が書いた台詞をハルカが次々と口にする。自分の選んだ言葉が他者を介して発されていく。それを耳にするたびに、私は体の中が熱くなって震えるような感覚を覚えた。
「一九八〇年代の終盤から一九九〇年代初頭までのロックシーンでは、ニルヴァーナを中心とする『グランジ・ロック』が一世を風靡していました。そこから、ニルヴァーナのボーカル、カート・コバーンの死を転機として、イギリスではイギリスらしさを模索する「自然体」のブリットポップが若者のなかで流行していきます」
 専門的な言葉を最低限に抑えた文脈。イベント後、フルタに言われた「知識のひけらかし」という言葉が、ハルカと私を何重にも縛り付けている。だからこそ、本当に必要な情報だけを丁寧に選びながら伝える。
「その代表となるバンドと言えば、まず挙げられるのが『ブラー』ですね!」
 ミヤモトの触手が伸びてブラーの曲が流れる。リズミカルなギターとおちゃらけた語り、後ろで「パークライフ」と叫ぶコーラスが聞こえる。
 曲を十五秒ほど流したところで、サビが終わって間奏に入る。すると、ミヤモトは曲の音量を絞って、ハルカの話を再開させる。
「今流れている曲が代表曲の一つ『Parklife』です。どこか抜けているような雰囲気が感じ取れるのではないでしょうか。ブラーはかなり多岐に渡るジャンルの音楽を作っていますが、特に初期から中期、機知に富んだフレーズと浮遊感のあるポップサウンドで、ブリットポップを牽引する立場になりました。……そして、このブラーと対立関係を煽られていたのが、日本でも大人気のバンド『オアシス』です!」
 BGMがブラーからオアシスの曲に切り替り、ハルカは明朗なギターサウンドの上でゆったりと間を置いて話す。彼女は自分の口から投げかける情報の密度や量に合わせて、語りのスピードや抑揚をコントロールしている。私は番組の台本を自分の手で書いて、初めてその意図に気付いた。
「オアシスは、ギャラガー兄弟を中心に組まれたバンドで、ギターの兄ノエルが書くキャッチーなメロディを、ボーカルの弟リアムが唯一無二の歌声で歌い上げました。瞬く間にスターの階段を駆け上がり、ビートルズの再来とまで言われた彼らは日本のミュージシャンにも大きな影響を与えているんですね。そして、彼ら以外にもザ・ヴェーブやスーパーグラス、パルプといったバンドが成功を収めました。そして、先ほどブリットポップは一つの音楽ジャンルではなく、ムーブメントという言葉を使いましたが、その影響はファッションや政治にまで及びます……」
 ハルカの語りに聞き入っていると、自分の後方で長いため息が聞こえた。位置からして、その主はタテヤマ以外にない。私は気づいていないフリをした。
 しかしそのすぐ後、「なぁ、ガキ」と明確に私に向けられた声がして、恐る恐る振り返った。
「……僕ですか?」
「お前以外に誰がいる」
 そう言うタテヤマの目は、私越しのハルカを見ているようだった。彼に気を取られ、放送中のハルカの声が意識の中で薄れていく。
「……この台本は、お前が書いたのか?」
「え、はい。一応」
「一応?」
「い、いえ。僕が全部書きました」
「あぁ、そ」
 タテヤマは煙草を一度ふかすような独特の間を挟む。それからもう一度吐き出したため息には紫煙が曇って見えた。
「お前、UKロックが好きか?」
 突拍子もない質問に首筋が固まった。
「……はい」
「じゃあ、どうして『ブリットポップ』と呼ばれたやつらが偉大か分かるか?」
「え」
 もっと予想外なオープンクエスチョンに、私は言葉を失う。
「それは『ブリッドポップ』を否定したからだ」
 私の回答を待たずして、タテヤマは言った。
「クソメディアの馬鹿どもにレッテルを貼られると、それだけで大衆には勝手なイメージが植えつけられる。それもとんでもなく根の深いバイアスがな。あいつらはそこから抜け出そうと必死にもがいたから偉大なんだ」
 そう言うと、タテヤマはギターケースから一本のアコースティック・ギターを取り出した。皺だらけの服や傷んだケースとは対照的に、ギターの本体だけは綺麗に手入れされているようで、磨かれた木目がスタジオのライトを煌々と反射していた。
「それでは、コーナーの最後にブリットポップの雄、オアシスから彼らの代表曲『Wonderwall』です。どうぞ!」
 ハルカの台詞に合わせて曲が流れ出す。私はハッとして、インターネットラジオの「オンエア曲」の情報を更新する。
「タテヤマさん。ブースの中にお願いします」
 シイナが振り返ってゴーサインを出すと、男は無言のままブースに向かった。

「時刻は十五時二十分になったところです。ここからは、スペシャルウィーク特別企画ということで、スペシャルゲストの方と一緒にお送りしたいと思います」
 ハルカが一つ息を置く。そして顔を上げ、正面の男の目を見る。
「では、ご紹介します! スペシャルゲスト、タテヤマリュウさんです!」
 ハルカの声に合わせてスーパーノヴァ時代のタテヤマの曲が流れた。雲の帯が分断され、視界が一気に開ける出囃子のようだった。
「タテヤマさん。よろしくお願いします!」
「ああ」
 ハルカの向かいの席で、タテヤマは大股を開き椅子の背もたれに全身を預けている。
「タテヤマさんはバンド、スーパーノヴァのヴォーカリストとしてのデビューから今年で二十年となりますが、今回どうしてR-MIXへの出演を承諾してくれたんでしょうか」
「……曲を出す宣伝。それだけだ」
 タテヤマは目の前のマイクをぼんやりと眺めながら、ゆっくりと返した。
 無愛想で色のない対応は放送の中でも変わらない。自分の体の置かれた場所が、たとえブースの中であろうとステージの上であろうと薄暗い酒場であろうと関係ない。この男の中心を、彼自身が考える「ロックンロール」という強大な哲学が貫いているように映った。
「そんなタテヤマさんに、リスナーの方から質問のメールが届いています。ラジオネーム、フラクタルさんからです。ハルカさん、タテヤマさん、こんにちは。はい、こんにちは! 質問です。タテヤマさんはここ数年、動向が報じられず一部では引退説も噂されていましたが、どういった生活を送っていたのでしょうか?」
 ハルカがメールを読み上げる途中で、タテヤマの瞼がピクリと動く。すぐ眉間に皺が寄った。
「ということですが。タテヤマさん、いかがでしょうか?」
「……ああ、クソみてぇな質問だな。ケツを拭く紙にもならなそうだ」
「タテヤマさん」
 ハルカが釘を刺すように名前を呼ぶと、マイクで拾える大きさの舌打ちが聞こえた。
「例えば、曲を作ろうとする、そして煮詰まる。だから酒場に行く、酒を飲む。それの繰り返しだ。最高にロックだろ?」
「イメージ通りではありますね。……では、新曲はそんな苦境の中で生み出したということですか」
「……ああ」
「新曲はどんなテーマで書かれたんですか?」
 その時だった。
 ハルカが質問を投げかけた後、長い沈黙が生まれた。それは、ラジオとして電波に載せるにはあまりにも長い間だった。私の脇下を汗がゆっくりと伝って、腰上まで落ち切る。しかし、ハルカは男に回答を促さない。スタジオのシイナもミヤモトもただじっと言葉の先を待っている。
 沈黙が流れて十秒も経つかという時、そこでとうとうハルカが口の筋肉を動かそうとした瞬間にタテヤマの方から言葉が生まれた。
「……だ」
 私は、その言葉に虚を突かれた。反応を見るに、それはハルカも同じようだった。それでも、彼女はその取っ掛かりを逃すまいと話す。
「それは、誰に対する謝罪ですか」
「そりゃもう全てにだ」
 タテヤマは両手を広げて、オーバーなリアクションをとった。そして、彼の目線は初めてマイクからハルカの両目に移った。
 それから、何かを諦めたように「この曲は」と語り出した。
「この曲は、俺から全てへの謝罪の意味を持つと思っている。俺は何度も何度もクソみたいな過ちを犯してきて、その度にたくさんの人間を怒らせてきたからな。でも、それが俺の人生だ」
 それまでとは明らかに違う真剣なトーン。ブースの中の暗い照明が、タテヤマの声色を重たく印象付けている。
 ハルカはその声色を察したようで、一言も口に出さないまま真剣に聞き入っている。
「だからって、そういう一人ひとりに対して詫びを入れるつもりはない。むしろ、そういう過去と折り合いをつけて、前に進んでいく。独りよがりだとしても俺にはそういうやり方しかできないんだ。だから、また進むためにそういう曲を書いた」
 彼の言葉は寂しさや切なさを孕んでるようで、それなのにどこか強くまっすぐとした意志を感じさせるものだった。私はその言葉を頭の中で何度も何度も反芻する。
「……ありがとうございます。その新曲、タテヤマリュウさんのソロとしてのデビュー曲も、CMの後披露してただく予定です! よろしくお願いします!」
 ジングルが流れ出してCMに入る。
 すると、シイナはブースに通じるマイクに向かい「タテヤマさんライブの準備をお願いします」と告げる。ミヤモトは忙しそうにメモを読みながらミキサーのレバーを調整した。
 ハルカはタテヤマの目を強く見据え、「後はお願いします」と言った。
 男は巨大なため息を吐き、机上の水を一口飲む。それからのそりと立ち上がった。
「CM明けます」
 ミヤモトの声。ジングルが止むと、タテヤマがゆったりとした足取りでブース内に置かれたスタンドマイクの前に立った。
「お待たせしました! 番組の最後はタテヤマリュウさんによるスペシャルライブです! タテヤマさん、よろしくお願いします」
 タテヤマはハルカからのアイコンタクトを受け取ると「新曲だ」と言って、ミヤモトの方を向いて右手を挙げる。それを受けてミヤモトが音源を再生した。
 
 スタジオ内にもイントロが流れる。温かい曲調のバラードだった。
 低いタムの音を合図に、タテヤマは全身が膨らむほど大きく息を吸い込んだ。体を反らせてぐっとマイクに近づく。喉仏が大きく震える。カラーレンズから透けた両目が大きく開いた。
 彼の歌声が響いた。
 その声は、父の車内で聞いたスーパーノヴァの曲と同じだけ力強かった。だが、傷ついていた。かつて果てしなく伸びていた高音は、はっきりと分かるほど掠れている。それにも関わらず、彼の歌は単純なメジャーコードと調和して艶やかに光る。たくさんの風と波に打ちひしがれ燻んでいるのに、たった少しの光で輝くシーグラスのようだった。
 マナカやカナタの歌声を聞いた時も十分に上手いと感じた。しかし、タテヤマが彼らと違うのは絶対的な安定感だった。一音外すどころか全く音がブレない。だからこそ、その上に積み上げられた彼の表現や彼の選んだ言葉のイメージが直接的に耳に届いた。

――最初に飛んだあの鳥は その羽に全ての矢を受けた
 たっぷりの余白を悠々自適に進む。そんなミディアムテンポで歌われていたのは、彼が話していた通り過去の過ちと謝罪についての歌詞だった。
――それならば悲しみすら 全て今過去にしてしまおう
 その謝罪は、仲違いした彼の兄に向けたもののようにも、彼のファンに向けたもののようにも、かつての彼自身に向けたもののようでもあった。真意がそのどれだったとしても、大粒の汗を掻き体を震わせながら歌うこの男の言葉に偽りはないと思った。
――傷つけたことを謝らせてくれ こんな言葉に意味はないけど
 曲の中盤で、バンドサウンドにストリングスの音が加わる。かつて、彼の兄が作曲で多用していた手法だった。タテヤマはまっすぐにマイクを睨みながら切実に歌う。私はそのステージから五官を逸らすことができなかった。
 Cメロを挟んで訪れた三回目のサビ。タテヤマはもう一つギアを上げた迫力で歌い上げる。
 終わりが近いことが分かると、自分の心臓がきつく収縮するのが分かる。反体制的なことを歌っているわけでもない。破壊的なほど激しい曲でもない。それなのに、今この瞬間の彼こそが最高にロックだ。そんな確信を持った。

 彼の声が消えると、そこにはストリングスの穏やかな波長だけが耳に残った。スタジオはその余韻に浸るための沈黙が流れた。
 タテヤマがマイクから離れながら「ありがとう」と言った。彼の首筋からは汗が染み出ている。
 ハルカはコメントを入れようとカフに手を掛けたところで、その手を止めた。既にタテヤマがアコースティック・ギターを担ぎ出していて、彼のリズムを崩さないようコメントを避けたのだろう。
 タテヤマは軽く弦を弾いて試す。それからジャランとコード弾きをすると明るい音がスタジオ内に響いた。その波が止まぬ間に、彼はマイクに口を近づけた。
「もう一つ、昔の曲だ。『Wishing Stone』」
 その曲はスーパーノヴァの代表曲だった。
 タテヤマは「ワンツー」とリズムを図ると、F♯マイナーでストロークを始めた。かつて、彼の横で兄が弾いていたギターリフを、今は彼が弾いている。音源のない弾き語り。穏やかなダンスグループが流れ、やがて彼は歌い出した。
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