ヘルツを彼女に合わせたら

高津すぐり

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第二章

17.「By the Way」

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「……素晴らしいライブでした。タテヤマさん、ありがとうございました!」
 二曲目の演奏が終わった。変な熱が体の内側から湧いてきて、気づけば痺れるほど強く手を叩いていた。たった5人のスタジオは拍手に満たされていた。
 感嘆を吐きながらハルカがコメントを入れる。その傍で、ギターを担いだままブースを去ろうとするタテヤマを捕まえて彼女は続けた。
「タテヤマさん。最後に貴方を待っていたファンの皆さんに一言、お願いします」
 男は面倒くさそうに瞼を降ろし、ため息を漏らす。それでも、マイクに体を近づけた。
「俺を待っていたやつらも、これから出会うつもりのやつらも、きっと物分かりがいい馬鹿ばかりだ。お前らは謝罪や釈明の言葉なんて要らねぇだろ? だから、もう少し待ってろ。俺の昔の曲でも聴いてな。それだけだ」
 タテヤマはそう啖呵を切って話し、マイクから離れた。
「ありがとうございました。スペシャルゲストのタテヤマリュウさんでした!」
 弾んだ調子のアナウンスを受けて、彼はブースを後にした。

「お疲れ様でした。タテヤマさん」
 その後すぐにCMが流れると、シイナが右手を出して彼を出迎える。彼は無言で左の手を軽く挙げ、払うような動作でそれに応えた。舞い戻ってきたタテヤマの顔と首筋には大粒の汗が伝っていて、それが蛍光灯の光で輝いて見えた。
「いいか。ギャラはしっかり振り込んでおけよ」
「ええ、もちろん」
 タテヤマはライブ前と同じ、後方のソファに腰掛けた。それから、知らぬ間に冷蔵庫で冷やしていたらしい缶ビールを取り出し、威勢のいい破裂音を奏でていた。
「お疲れ様でした」
 私も彼に声を掛けた。しかし、タテヤマは缶の縁に口をつけたまま、視線を缶ビールに注いで何も応えない。
「タクシー、呼びましょうか?」
 二者択一の質問を投げると、今度は間を空けて「いや」と帰ってきた。その時、彼の視線は銀のビール缶からハルカへと移動していた。
「……というわけで、今回はある意味いつもと真逆。大ベテランのタテヤマリュウさんに来ていただきました。もうこの感動は私が説明しなくてもきっと皆さんに届いていると思います! 皆さんも是非ご感想メールのほか、ハッシュタグRMIXで感想を投稿してください!」
 ブースの中のハルカは、エンディングに向かっている。タテヤマがライブで生んだ熱を、そのまま最後まで持っていくような力のこもった口調だった。
「これから、本格的に活動は再開されるんですか」
 気まずさが漂って、私は聞きたかったことの一つを男に尋ねた。予想通り何の反応もなく、据わった目でぼんやりとブース内を眺めていた。
「それでは、本日の『R-MIX』はここまでです。今日も二時間のお付き合い、ありがとうございました!」
「さぁな」
 もう戻ってこないと思ったボールは二十秒ほどが経ってから、最短距離で返ってきた。
「……僕は、やっぱり貴方の書く曲が好きです」
 私は震えた声で、伝えたかったことをどうにか伝えた。
「……そう」
「ドライバーの皆様は、運転お疲れ様です。この後も引き続き安全運転をお願いします!」
 ミヤモトが機材に手をかける。
「R-MIXでは、今後も不朽の名曲から話題の最新曲まで、ロックを中心に紹介していきます! それでは、今日はこの曲でお別れしたいと思います。スーパーノヴァで『ロックンロール・スター』!」
 いつもと違うアドリブの一文を言うハルカの顔は、心なしか昂然としていた。エネルギッシュなタテヤマ兄のギターが鳴り出すと、彼女はカフを下げた。
 二時間の放送は、終了した。そして、完成した。

 ブースとスタジオを隔てる扉が開いて、ハルカが顔を見せた。彼女はそのまま真っ直ぐタテヤマの前まで進んだ。
「タテヤマさん、今回はお引き受けいただきありがとうございました」
 体を二つに折りたたむような綺麗な礼。それも納得できるほど、タテヤマのパフォーマンスは全身全霊で、完璧だった。タテヤマは特段反応せず、また酒を体に入れる。それを二回繰り返してから、口を開いた。
「そんな言葉を聞くために残っているんじゃねえ」
 アルミ缶を勢いよく机に置く。既にそのほとんどを飲み上げたらしく、高い音が鳴った。タテヤマの半開きの目はスタジオの光をわずかに拾っていて、瞼の下から刺すようにハルカを見ていた。
「ところで、フルタはどうした」
 アルコール臭い男の口から出た名前は、意外なものだった。その問いにハルカの顔が強張って、元に戻るまで少し時間がかかった。
「……病院にいます。ほとんど」
「……それはいつからだ」
「三月の終わり頃から……悪化したのはここ二ヶ月のことですけど」
 私も初めて聞いたことだった。しかし、直近で見たフルタの様子――覚束 おぼつかないずり足と体を支える杖、直視するに堪えない皺だらけの顔と震えた声――を考えると不思議なことではなかった。
「あれもそんな歳か」
 タテヤマは溜め息を吐いて、誰もいなくなったブースを見つめる。どこか遠い過去を懐かしむようにして、目を細めていた。男は首を僅かに回すと、その目はそのままハルカの顔を捉え直した。
「……何ですか」
 不審がってハルカが尋ねる。タテヤマは脚を組み直して、ゴツゴツとした人差し指をハルカに向けた。
「お前さ、フルタのガキだろ」
 冷気が駆けた。過冷却された水に強い刺激を与えたように、一気にスタジオが凍り付いた。その静寂の中、私は意識の外で「は」という間抜けな音を出していた。
 ハルカは少しだけ固まった後、表情から一切を消して答えた。
「ええ。血縁上は」
 自分の関知しないところで、話が進んでいく。その事実は、大抵の人間に少しだけ気味の悪さを与える。
 一方でタテヤマは何度か小さく頷いた。
「なるほどな、なるほどな。合点がいった」
 それだけ言って缶ビールの残りを飲み干した。もう何も言うつもりもなければ聞くつもりもないという態度だった。握りつぶした缶を机に置いて、ギターケースを肩にかける。立ち上がると、そのままスタジオを出て行った。去り際、扉の開閉音に混ざって「またな」と聞こえた気がした。

 嵐のような男が去ると、スタジオは静まり返った。
 状況としては番組の放送前に戻っただけだが、それまでとは確実に違う空気が漂っている。
 ハルカは傀儡の糸を放したように、ソファにぐたっと倒れ込む。そのまま携帯電話を取り出して、画面を触り出した。
「どうだろう。反応は」
「……おい。そんなことよりも、だろ」
「何?」
 彼女は知らん振りをして、白々しくしらを切る。それを受けて、私の中で怒りに似た感情が増殖した。
「何って、なんで何も言わなかったんだよ。フルタさんと親子だったことも」
「そんなこと聞かれていないし」
「聞いてもいないことをべらべら話すのが君だろ」
 少しずつ側頭部に血が集まってくるのを感じる。それは彼女も同じようで、眉間に皺を寄せながら両肘を机に置いた。
「じゃあ、もし貴方に言っていたらどうしていたの」
 突拍子もない言葉に戸惑う。
「……どうしていたって」
「もし私がフルタあの男の子供だって言っていたら、貴方はどうしていたの? 大ファンの人の娘だから敬った? それとも親の七光りだって言って軽蔑した?」
「そんなこと一つも言っていないだろ」
 ハルカの目は、日頃私に嫌味を言う時に使う鈍いものではなかった。かといって、放送中に見せる鋭く澄んだ目でもない。今までに見たことのない彼女の感情を宿した二つの水晶体が私を見ていた。
 沈黙はどんどん部屋中を冷やして、心のあちこちに結露を作った。
 やがて彼女は息を吐いた。人に不機嫌を示すような溜め息ではなく、ただ純粋な深呼吸だった。
「私は、自分が何者かになるために他人の名前を使いたくないよ」
 水晶体に在った感情は、おそらく悲哀に近いものだと気づいた。
「はい。そこまで」
 その時、シイナが私とハルカの顔の間で白い手をパンと鳴らした。
「和気藹々とした談笑中のところ悪いけど、お二人に良いニュースと悪いニュースがあります。どっちから聞きたい?」
「……良いニュースだけでいいよ」
「この社会にそんな虫の良い選択肢はないわよ。じゃあまず良いニュースは、これ」
 そう言うとシイナは、スタジオのプリンターで打ち出したらしい一枚の紙を見せてきた。紙に刷られた画面はラジオアプリ「ラジット」のリアルタイムランキングのようで、「5位」と書かれた数字の横には「R-MIX」のロゴと「RAR-FM」という文字列。縦に並ぶほかの番組は、どれも全国区の地上波、いわゆる「キー局」の番組だけだった。
「……これって」
 シイナは口角を鈍く上げた。
「毎時変わるリアルタイムのランキングだけど、遂にランクインしたわよ。ラジットで」
「や」
 後には「った!」としか続かない短い音が、ハルカの喉から漏れた。
 私はまだ、ラジットの評価方法をよく知らない。これだけ聞いてもいい話なのかはよくわからないが、それでもつい口の端が上がる感覚があった。ハルカも口元で弧を描きながら、高揚しているのがわかる。彼女の硬い握り拳は、さっきまでの拳とは全く違う意味を含んでいた。
「……『やった』じゃない。私の目標は週間とか月間のランキングでテッペンを取ること。それに、これはこの番組じゃなくてタテヤマの力で取った順位だし」
 ハルカは自分自身に言い聞かせるように言った。しかし、小さな全身から喜びが漏れているように見えた。
「……もう今更悪いニュースなんて聞きたくないんですけど」
 シイナは「フフ」と笑ってから続けた。
「悪いニュースは、私とこのスタジオには次の予定があるってこと」
 彼女は「だから」と結ぶ。
「もしさっきのことで話し合うなら、三十分でケリつけるか、また今度頭冷やしてからにしなさい」
 私とハルカは同じように掛け時計を見上げた。十六時十五分を指していた。
 シイナは黒革のバッグを肩に掛けながら「二人とも」と言った。
 彼女は私の顔をじっと見ていた。持ち前の審美眼で底の深い壺の中を覗き見るように、じっと。それから同じようにハルカの顔を見た。ハルカが「シイナさん?」と不気味がるほどの間だった。
 やがて、シイナは満足した様子で頷いた。
「私から言えるのは、貴方達はめちゃくちゃに面白いコンビだってこと」
 彼女は私の手の上にスタジオの鍵を垂らす。私が手を開くと、鍵はそこにぼとりと着地した。
「じゃあ、鍵とSNSの更新よろしくね」
 シイナは掌を見せながらスタジオを去っていった。

 また一人、大人が減ったスタジオでは、融解されない時間が続いていた。
 ハルカは冷蔵庫からコーラを取り出して、「それで」と切り出した。
「何が聞きたいの」
 ぷしゅ、という音が響く。歳でいえば三回りほども上なはずの、タテヤマの姿が重なって見えた。
「……本当にフルタさんの子供なんだな」
 私は薄氷の上をゆっくりとすり足で進むように、恐る恐る質問を投げた。
 ハルカは無言のままゆっくりと首を縦に振る。
「……そう。生まれた時の名前は『フルタハルカ』」
「生まれた時って、じゃあ今は違うのか」
「小学生の時に離婚して、私はお母さんに着いて行った。あの人は……フルタは、ロクな父親ではなかったから」
 何度か見た「放送外のフルタ」の姿を思い浮かべると納得がいった。邪推に過ぎないが、亭主関白を通り越したような横柄さを家庭でも振り撒く画が想起されてしまった。
「……じゃあ、今はお母さんと?」
「いや。お母さんは三年前に死んだ。元から入院と退院を繰り返してたしね」
 私はまた言葉を失った。
 目の前にいる自分と同じ年齢の人間が、経験どころか想像すらできないような喪失をしていて、それを何でもないような顔で言い放っている。
 気づけば、私の口は「ごめん」という音を出していた。
「何が」
「いや」
「私は、対象が不明瞭な謝罪は嫌い」
「じゃあ、不明瞭な謝罪をしたことに謝罪する」
「そう」と鼻で笑うハルカの顔が、少しだけいつもの色に戻ったように見えた。ただ、それすらもなにか人為的なもののように思えて、私の中で彼女に対する懐疑心は深まっていた。
 不理解への不快感から、私は彼女から目線を外してスタジオを見渡す。二人だけのスタジオは余りにも広く、無色で、普段なら気にもとめないはずの静寂に胸の奥がきゅうっと締まる感覚がする。
 私は、この空間に対してずっと温かい印象を持っていた。しかし、このスタジオは彼女の感情をそのまま映していたに過ぎないのだと気付いた。喜も怒も哀も楽もその間にある感情もその外にある気持ちさえも。
「……どうして、こんなラジオができるんだ」
 私の口は意識の外で動いていた。
 質問を言い切ってから、それから彼女の瞳を覗き見る。
「どういうこと」
「そんな辛い経験をして……どうしてこんなに明るいラジオができるんだ」
 私の咽頭が熱を帯びながら痙攣するのがわかる。
 ハルカは、その質問は想定していなかったようで眉をひそめる。彼女は立ち上がったまま無言で私の顔を睨みつけた。
 そこまでの沈黙の時間を以って、私はようやく自分の失言に気付いた。
「……いや、ごめん。無神経な質問だった。謝る」
 彼女は気にする素振りも見せず、机上のコーラを一杯口に含む。
 ペットボトルを持ち上げると、表面に結露した水滴が垂れ落ちて水溜まりを作った。その水溜まりの上にペットボトルを置き直す。
「私にはラジオがあった」
 ハルカは、語り出した。
「母親が入院して家にいない時、私は家でラジオを聞いていた。RAR-FMの番組も、他の局の番組も。貴方に分かるかどうかは分からないけど、私は頼れる人がいない時、ラジオと音楽を頼った」
 彼女は、結露を指でなぞりながら、その当時を懐かしむように目を細めた。
「だから、ここまでラジオに執着しているのか?」
「……そう」
「だとしても……邪推かもしれないけど、君はフルタさんを憎んでたんじゃないのか。それでどうしてあの人と同じ『ラジオ』に何もかも捧げられるんだよ」
 気付けば、他人の心に土足でずかずかと踏み込む自分がいた。しかし彼女は、そんな私の無神経を咎めることもせず、ただ静かに言葉を紡いだ。
「確かに、私はあの人フルタのことを憎んでいるし恨んでいる」
 ハルカの目つきが鋭くなる。獲物を捕らえるような、本当に虫を殺すような冷たさと殺意を秘めた双眸だった。
「でも、同時に」
 彼女の言葉は続く。
「ラジオパーソナリティとしてのフルタを、尊敬をしている」
「……尊敬」
 およそ彼女の口からは聞き慣れない言葉を、私はオウム返しした。
「あの人は、語りも対話もリズムも知識も進行も、間違いなく一流だよ。……まあ、貴方のことだからそれは私よりも知っているかもしれないけど」
 簡単に否定をしないで、言葉を受け止めたうえで説明をする。いつもと違う彼女の受け答えに、私は面食らう。
 彼女はまたコーラを口に含んだ。そしてそれを体に送る時だけ、その目に宿った冷たい光が消えるのだと知った。
 ハルカの言っていることには理解できた。しかし、私の中のハルカは全ての事象も感情でさえ、白か黒で決着を付けようとする人間だ。違和感は一層強くなっていくばかりだった。
「どう。納得した?」
 言葉をつまらせて黙ったままの私を見て、彼女は語り口を変えた。
「……らしくない」
 震えた声でそう言う私の方が、よっぽどらしくないことにも気が付いていた。
 ハルカは「そう」とだけ答えて、またコーラを一口飲んだ。
「私はラジオを愛している。だから、ラジオのトップになりたいし、ラジオでエンターテイメントのトップを取りたい。そのために、無理言ってR-MIXのパーソナリティを継がせてもらった」 
「……コネを使ったわけか」
を使ったのよ」
「何が違うんだそれは」
「ニュアンスが違う」
「……そう」
「ええ」
 二人の口元と張り詰めていた空気が、少しだけ綻んだ。ハルカは腕時計を、私は携帯電話の画面を見る。
 時刻は十六時三十分。スタジオのタイムリミットが近づいている。
 私は彼女から何を訊きたかったのだろうか。つい一寸前までの気が揉めた自分は何に突き動かされたのだろう。そう思って口をつぐんでいると、今度はハルカが口を開いた。
「ごめんなさい」
 唐突な言葉とともに、彼女は頭を下げた。
「……それは、何に対する謝罪なんだ」
 私がそう聞くと、彼女は難しい顔で右手に持っていたペンをくるりと回し、机の上に置いた。
「私は、分かっていたんだと思う」
 その小さな口から紡がれた言葉の脈絡は、私には見えてこなかった。黙って次の言葉を待った。
「貴方は」
 ハルカは、私の目をしっかりと見つめて言った。そして続ける。
「フクチは、私とフルタの関係を知ったところで、私への態度も、ラジオに対する向き合い方も変える人間じゃないことぐらいわかっていたんだ」
 一拍置いてから、彼女は続けた。
「にも関わらず、感情的に貴方にあたったことを謝る」
 彼女はそう続けて頭を下げる。長い黒髪が紙芝居のようにふわりと動いてから、彼女の後頭部にぴったりと着く。
その一連の動きは、滑らかなピアノ演奏を聞くような心地がした。
「別に気にしてない」
私がそう言うと、彼女は顔を上げる。そして、左手に持っていたペンを机に叩きつけた。
「そして、私がラジオをする目的は、貴方に最初伝えたとおり、ラジオでテッペンを取ること。それが一番の恩返しだと思っている」
「……それで、その野望も現実味を帯びてきたってことか」
「ええ。スペシャルなゲストと優秀な作家のおかげでね」
ハルカは皮肉げに笑った。その笑顔には、作り物ではない暖かさが僅かに含まれていた。
私はそれに少し安心して、また彼女の話に耳を傾けた。
 ハルカは、シイナが打ち出したラジットの画面のコピーを指さす。
「これは、間違いなく私たちの力。……だから」
 彼女の黒曜石みたいな瞳に私の顔が映った。
「一緒にテッペン獲ろう。フクチ」
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