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日常編
第四話 橋の下の小さな幽霊
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私は幼馴染の貴方の想いを踏み躙った、最低な女です。私は貴方にずっと淡い恋心を抱いていました。しかし貴方はとても鈍感な人、私の想いにちっとも気づいてくれないどころか、他の女性と関係を持ったり別れたりを繰り返していましたね。私はその度に心が張り裂けそうになりました。だから…あの時、あの提案に乗ってしまったのです。私は少しだけ、私の心に気づいてくれなかった貴方に復讐したかったのでしょう。しかし私はまだ未熟で愚か者でした。その提案に乗ることで、今まで築き上げてきた全てのものを失ってしまうことがわからなかったのです。そしてとうとう、貴方は私の気持ちに気づくこともないまま、あの島へ旅立って行きました。10年前の今日、貴方の誕生日でもある8月15日に、日本の降伏が決定しました。私は旅立つ前に、こっそり言った貴方の言葉を思い出します。「日本は負ける。俺は御国のためではなく、お前と愛する人たちのためにここを去るよ。死んでも俺の魂は靖国神社へ行かないからな。できれば…もっと他に行きたいところがあるんだ。」私は今日から日記をつけます。貴方との子供のために…貴方へ贖罪し続けるために…。
昭和30年8月15日、友子。
石島拓也…海と真実とともにシェアハウスに住んでいる、至って普通の高校2年生。彼は海や翔太のように顔やスタイルが特別良いわけでもなく、真実のように身体能力が特別高いわけでもなかった。彼は全てのステータスにおいて、「普通」レベルなのである。強いて言えば少し正義感が強いだけ。目立たず、かと言って影が薄いわけでもなく…それが彼の個性なのだ。彼自身、自分の個性に大満足しており、それを生かしながら普通の生活を送ってきた。…3年前、拓也の中学校へ転入してきた海に気に入られるまでは。
そんな普通を望んでいる拓也だが、中間テストが終わって疲れが溜まっているのか、学校からシェアハウスへの道を怠そうに歩いていた。
(あ~今回のテスト範囲はマジで広かった…。机に向かいすぎて肩こりが…。)
自分の肩を軽くマッサージしながら、ため息をついたその時、後ろから見知らぬ男性に声をかけられた。拓也は振り向いた。そこには、よれたスーツを着ているものの、かなり快活で健康そうな20代から30代くらいの男性が立っていた。ハーフアップに纏められた紺色の髪が、陽の光でキラキラと輝いている。手に大きなキャリーバッグを持っているあたり、ここら近辺の人ではないのだろう。
「突然呼び止めてしまって申し訳ない!道に迷ってしまって、行き方を教えていただきたいのだが!」
見た目通り、元気よくハキハキ喋る男性だった。
「あ、いいですよ。どちらに行きたいんですか?」
今時人に道を聞いてくるなんて珍しい…普通スマホに入っている地図アプリを見る人が多いというのに。
「ありがとう!」
男は拓也に礼を言うと、手に持っていた地図を拓也に渡した。ちなみに紙製の地図である。これまた珍しかった。
「この地図の×印のついているところへ行きたいんだが…。」
拓也はマークを探すと、それは今いる場所とは真逆の方面にあり、とある民家を指していた。歩いて1時間くらいかかるであろうというところだった。
「…マジですか。真逆の方向に来てますよ。」
「そ…そうなのか?!」
男はかなりショックを受けているようだ。
「だからまず今来た道を戻って下さい。どこから来られたんですか?」
「えっと、×印の最寄りのバス停から来たぞ!」
男は拓也の後ろに回って、×印のあるところと目と鼻の先にある、とあるバス停を指さした。
「え?!逆にどうして道間違えたんですか?!」
「本当に申し訳ない…。昔から俺は極度の方向音痴なんだ…。」
この人、もしかして俺が目的地までついて行ってやらないと、永遠に辿り着けないのでは…?と拓也は思った。自分がこの場で道を教えても、結局永遠に道に迷うのもなんだか気の毒に思える。
「….わかりました。よければ俺、目的地まで案内しますよ。」
「本当か!?ありがとう!!本当に感謝するぞぉ!」
男は拓也の手を握り、彼の顔に自分の顔をグイッと近づけた。拓也は驚き1歩後ろに下がった。彼の萌えるような紅の瞳に、顔が引き攣って少し不細工になっている拓也の顔が、キレイに写し出されていた。
「パ…パーソナルスペース…。」
「す…すまん!昔から距離の詰め方が大雑把すぎると言われるんだ!でも君の好意がとても身に染みてなぁ…。ついつい。」
男はすぐさま拓也から離れた。
「俺は鬼ヶ城吉助という!そこら辺にいるしがないサラリーマンだ!君は?」
「俺は石島拓也です。普通の学生やってます。」
なんだかキャラの濃い人に出会ってしまったな…と拓也は思った。
「えっと…地図だとこの道を…右か。」
「え、左じゃないのか?」
「いや、どう見ても右じゃないですか!ほら、この建物がここにあるから…」
「なるほど!そういう見方をするのか!」
吉助は納得したように、手をポンと叩いた。今時地図が読めない成人男性なんているのだろうか。拓也は信じられないような目で吉助を見つめた。
「やっぱりよかったです…俺がついていて…。」
拓也が少し呆れてため息を吐くと、吉助が拓也の背中を軽く叩いた。
「そうため息を吐くもんじゃないぞ~、石島くん!幸せが逃げていってしまう!」
「はぁ…」
吉助の明るさは、拓也には少し眩しすぎるくらいだった。
「お、あんなところに喫茶店があるな!ちょっと休憩していかないか?もちろん石島くんの時間があれば…だが。お礼も兼ねて、好きなのを奢らせてくれ!」
吉助の目線の先を見ると、小洒落た喫茶店があった。お昼時だが平日なので、少し客が少ないように感じる。
「時間はありますけど…でも…」
「遠慮するな!俺は独身の社会人だからな、金だけはあるんだ。さっきここら辺うろうろしていた時には、喫茶店なんて気づかなかったなぁ!石島くんの案内があったから見つけられたんだろう!さぁ、行こう!」
「ちょ…え…!」
吉助は拓也の背中をポンと叩いて、喫茶店へ入っていった。拓也は慌てて跡を追った。
店内へ入ると2人はカウンター席に座り、吉助は早速メニューを開いた。
「石島くんは何を食べたいんだ?俺はこのお団子パフェにしようかな!」
「いや…俺は飲み物だけで…」
「またまた~!遠慮しているのか?せっかくだから食べ物頼んでいいんだぞ?この時間帯ならお腹ペコペコだろう?学生だし。」
「いや…」
確かにお腹は空いていた。しかし今さっき出会ったばかりの人に奢ってもらうのも、気が引けたのである。
「じゃあ…これはどうだ?コーヒーフロート。アイスもついてるし、お腹も満たされるだろう?」
「確かに美味しそう…。」
「じゃあ決まりだな!」
吉助はそう言うと、さっさと店員を呼び注文してしまった。頼んだものが出てくる間、拓也は少し気になったことを聞いてみた。
「そのスーツ…随分着てるんですね。」
「あ、だろ?それこそ俺が就職した時からのものなんだ!」
吉助は自身の着ているボタンダウンシャツの襟元を、拓也に見せるように軽く引っ張った。
「思い入れのあるものなんですね。」
「なかなか捨てられなくてなぁ…。だらしがないのは承知なんだが。営業回りに行く時はちゃんとしたものを着ようとはしてるんだ。だから特に何もない日の仕事着はこれだ。」
「今から行く家は営業じゃないんですか?」
「違うな。今から行くのは旧友の家だ!仕事が早く片付いたし、丁度出張でここら辺寄ったから、会いに行こうと思って!」
「なるほど、そうだったんですね。」
次は吉助が質問する番だ。
「石島くんは高校生か?」
「はい。高校2年生です。」
「そうかそうか!今が1番楽しい時だなぁ!思う存分青春してくれ!」
「そうですね。楽しむか…。今は…楽しいですね。」
拓也はシェアハウスの面子と学校の友達を思い出した。何やかんや、確かに今が1番楽しいのかもしれない…拓也はそう思った。
「友達は一生の財産だ!これから会う旧友も中学の時からの付き合いなんだよ。友は自分の心を豊かにしてくれる。是非とも一生大切にしてくれ。みんないい子たちなのだろう?」
「はい、そうですよね。あいつらとは…ずっと付き合っていきたいです。」
拓也は少し照れくさいように微笑んだ。
「そうかそうか…だからか。」
「え?」
「あぁ…いや、なんでもない。そういえば!高校生といえば恋愛だな!どうだ?好きな女の子くらいいるのだろう?人生の先輩として何でもアドバイスするぞぉ?」
吉助はニンマリと顔を緩ませ、拓也を肘で小突いた。その時、ウェイトレスが彼らの頼んだ抹茶パフェとコーヒーフロートを持ってきた。
「す…好きな人なんていませんよ。逆に友達に好きな人がいて、面倒くさいゴタゴタに巻き込まれてます。勘弁してほしいって感じですよ。」
拓也の友達には幼馴染の好きな人がいる。しかし完全に友達の片思いであり、その上彼の想い人は、校内一のイケメンと仲が良い。そして居ても立っても居られない友達は、よく拓也に泣き言を言ってくるのだ。拓也は少し可哀想に思って、毎日多少は話を聞いてあげている。
「それもまた楽しいなぁ!君がとても優しいから、その友達はいろいろ相談してくるのだろう。」
「そんなことないですよ…。そう言う鬼ヶ城さんはどうなんですか?」
「俺?俺に恋人はいないなぁ。もういい歳なんだがな。どうにも昔から、あまり色恋沙汰に関心が向かんのだ。」
吉助は自嘲気味に笑った。その笑みは、他人に恋慕の情を抱くと面倒くさいことしか起きないと、半ば諦念が含まれているようだった。拓也は少し不審に思った。考えすぎかもしれないが。
「石島くんと同じ頃…いや、もう少し小さい頃からかな、暴走族入ってたんだ!だから青春真っ只中の時は、女にかまけている暇なんてなかったんだ。」
「え?!暴走族?!」
拓也はこんな人当たりのいい人がグレていたなんて考えづらく、飲んでいたアイスコーヒーを吹き出しそうになった。そして確かめるように、目を開いてジロっと吉助を凝視してしまった。暴走族といえば…悪いイメージしかない。夜中に騒音で騒いだり、物壊したり、喧嘩したり、カツアゲしたり…。
「はは、驚いたか?これ言うとみんなビックリするんだ。チームは俺らの代から始まってな、それはそれは勢いがあったんだ。だから逆にいろいろ問題を抱えてたんだが…。まぁ今となっては、本当バカなことしてたなぁとしか思わんな。別にツッパることが流行っていたわけじゃなかったんだが、俺は何故かツッパってたな。さすがにリーゼントではなかったが!」
吉助は昔の自分を思い出し、快活に笑った。
「もしかして…今から会いに行く人も…」
「お察しの通りだぞぉ!当時…俺が初代副総長で、今から会いに行く奴は初代総長だったんだ。」
嘘だろ…と少し拓也は顔を青ざめた。
(今から行くところって…もしかして反社の拠点地とかだったらどうしよう…。ていうか…)
「副総長って…チームの2番目だったんですね…すごい…」
拓也は「怖い存在だったんですね。」と心の中で付け足しといた。
「いやいやぁ~そんなすごいもんじゃなかったよ。まぁアイツはすごかったがな!」
あっという間に、吉助のパフェは空になってしまった。拓也はそれを見て少し焦った。
「あ、すみません。すぐ飲み終わります。」
「慌てなくてもいいぞぉ!ゆっくり飲んでくれ!」
吉助は拓也の肩を軽く叩いてそう言った。
それから10分後、2人はカフェを出ると、再び拓也は地図を開いた。
「えっと…この道を右に曲がったから、3つ目の角を左かな。」
「よし、行くか!3つ目を左だな!」
吉助は張り切ってそう言うと、やはり真逆の方向に行こうとしたので、拓也は慌てて彼の腕を掴み引き止めた。
「違います違います!!そっち違います!」
「え?そうなのか?」
この人一体どうやって今まで生きてきたんだろう。右と左もわからないのか?そして本当に副総長だったのか?拓也は少し心配になった。
その後も何度か吉助が勝手に違う方向へ行き、それを食い止めの応酬を繰り返し、なんとか地図の通りに進んでいった。しかしそろそろ着きそうなものだが、なかなか印のところに辿り着けなかった。
「う~ん…何でだ?地図通りに進んでいるはずなんだが…なかなか印のところに着かないな…。どういうことだ?」
地図通りに進んで辿り着けないとはどういうことなのだろうか。どこかで曲がるところを間違えて、似たような別の場所にいるのではないだろうか…と拓也は疑い始めた。
「では石島くん。あそこの表札を覚えておこうか。」
吉助が拓也の肩に腕を回し指差した家の表札には、「安藤」とあった。
「…わかりました。」
それからまた地図通りに進んでも、なお目的地には辿り着けず、同じ場所をグルグル回っているような気もしてきた。拓也はスマホで時計を確認すると夕方の6時30分、吉助と会ってから既に2時間が経とうとしていた。そんなに喫茶店で長居はしてないはず。俺まで方向音痴になってしまったのだろうか…と拓也は途端に不安になった。スマホを凝視していると、ある異変に気づいた。
「あれ……圏外になってる。」
確かに右上にあるアンテナの表示が圏外となっていた。
「山奥でもないし…何でだ?」
拓也は辺りを見渡した。普通の住宅街だ。圏外になるはずがない。しかし……
「ここ…やっぱりさっきも通ったような……。」
同じような家が何軒もあるから自信はないが、家の位置などから確かにここを先ほどから2回通ったような覚えがあるのだ。しかし地図を見て進んでいるので、迷うはずもないと思うのだが……
「うん!通ったな。」
悩んでいる拓也とは裏腹に、吉助がある家を指を差しながらそうキッパリと断言した。吉助の指差した家の表札に、「安藤」とあった。
「ふむ、俺たちはどうやら迷い込んでしまったらしいなぁ。境の世界に。」
「え…どういうことですか?」
拓也は訳がわからず吉助に訊ねた。「境の世界」とは何だ?どことどこの境目というのだろうか。
「この世とあの世の境ってことだ。そうかそうか、18時30分か…確かに迷いやすい時間帯だなぁ!…一応追い払ったんだが、やっぱりついて来てしまったか。」
吉助は目を細め、辺りをクルリと見渡した。
「え…この世とあの世??追い払ったって…どういうこと…」
「ですか?」と続けようとした拓也の口は止まった。吉助の目線の先を追うと、そこには小さい女の子が立っていたのだ。5歳くらいだろうか、可愛いピンクのワンピースにおさげ髪が愛らしい女の子だった。しかし拓也は、この女の子にはあまり近づいてはいけないと感じた。多分この世のものではない…関わっちゃいけないものだと、そう感じたのだ。何故なら、彼女の体の至る所には大きな傷がたくさんあり、可哀想なほど血塗れだったからだ。頭からは大量の血が滴っている。拓也は真夏でもないのに、緊張と恐怖で汗が滲み出てきた。しかしそんな拓也とは反対に、吉助は依然として態度を崩さず、むしろ笑っており、太陽のように明るいままだった。
「やっぱり君に声をかけて正解だったよ、石島くん!じゃなかったら君、今頃失踪したことになっていたぞぉ!」
「え…えぇ!?」
笑顔でとんでもないことを言われたような気がした。
「でも俺がいるから大丈夫だ、安心してくれ!石島くん、君、あの女の子にずっと憑かれていたんだよ。気づいてなかっただろうけど。で、その女の子を俺が定期的に追っ払ったんだが、よっぽど君と一緒にいたかったんだなぁ。俺、君の肩や背中を何度か叩いていただろ?あの女の子を追い払ってたんだ。肩、軽くなってないか?」
「確かに…言われてみれば…。」
拓也は自分の肩が軽くなっていることに今気づいた。テストのせいと思っていた肩の鈍い痛みがすっかり取れていたのだ。
「ただの酷い肩こりかと思っていたのに…。ゆ…幽霊の仕業だったってことですか……?」
「8割方そうだと思うぞぉ!君がとても幸せオーラを出していたから引き寄せられたんだなぁ。『こんなに幸せなら、私が少しその幸せ分けて貰っても大丈夫だ』とでも思ったんじゃないか?」
「そういうのって不幸な人に憑くんじゃないんですか?」
「それも間違いじゃないな!だが幽霊は、自分の持っていないもの、生前自分に持てなかったものを持っている人間にも惹かれやすいんだ。つまり、その幽霊が求めているモノによるな。自分の持っていないものを欲しがるのか、自分と同じ境遇の仲間を欲しがるのか…。ま、生きてる人間も死んでる人間もやっぱり本質は変わらないってことだ。」
「そうなんですね…。俺、そんなに幸せオーラ振り撒いていたんでしょうか。確かに今の生活は充実してますけど…。」
「ああ!眩しいくらいに振りまいていたぞぉ!」
吉助に言われるくらいだ。相当だったのだろう。少し拓也は顔を赤らめた。
「でもそれは決して悪いことではない。むしろいいことだ!これからも思う存分振り撒いてくれ!」
「はぁ…」
幸せオーラを思う存分振り撒くって…なんだが返って生きてる人間にまで恨まれそうだと思った。
「さて、ではここからは俺に任せてくれ、石島くん。君は狙われているから絶対に俺より前には出ないように。」
吉助は拓也を女の子に見せないように、背中に隠した。
「え…でもどうやってあの女の子を…」
「なに、もう察しているとは思うが俺は霊感が強い。それはそれは、生きているモノと死んでいるモノの区別がつかないくらい強いんだ。そして俺は能力使いでもある。」
「能力使い……?」
どこかで聞いたことあるような…拓也は記憶を必死に辿った。
「そう。強い霊感を持っている人の中で稀に、普通の人には到底出来ないであろうということを、1つだけ能力でなし得る人間が存在する。昔大きなニュースになったから知っていると思うが。俺はこれ。」
吉助はそう言うと、キャリーバッグをその場に置き、自身の左手の平から黄金に光輝く刀を抜き取った。鞘から剣を抜くように。拓也はその光景に自分の目を疑った。こんなのアニメか漫画の世界でしか見たことがない。
「い…今…手から刀が……!?」
「俺の能力は自分の左手から武器を取り出せるっていうものだ。自分が見たことのあるも武器ならば、なんでも出せるぞぉ!」
「そんなことができる人がいるなんて……」
拓也は信じられなかった。何かトリックがあるのではないだろうか?非現実的すぎる。それとも夢でも見ているのだろうか。
「ここで待っていてくれ。すぐ終わらせる。」
吉助がそう言った瞬間、彼の纏う雰囲気が一気に変わった。先程までの太陽オーラはどこへやら、冷たい氷のような目を女の子に向けると、目にも止まらぬ速さで女の子の間合いに入り、彼女を斬りつけた。彼の動きは、まるで剣の達人だろうかと思わせるほど、美しく優雅であった。女の子は突然のことに驚き、慌てて体を逸らしたものの間に合わず、右横腹から左胸にかけて深く切れてしまった。生きていないので血は出てないし、グロいことにはなっていないが、彼女は何かに縋るような悲しそうな顔を拓也に向け、霧のように消えてしまった。吉助は左手の平に刀を収めた。
「今度こそ追い払えたな!よかった!」
吉助は太陽のような笑顔を取り戻し、元気よく言った。しかし拓也は気がかりだった。彼女の消える前に見せた顔が、頭にこびり付いて離れない。
「あの女の子…斬っちゃってよかったんですか?その…少し可哀想というか…。」
「同情しちゃいけないぞぉ?石島くん。同情すると、また寄ってくるぞ。」
吉助は拓也に忠告した。
「えっと…鬼ヶ城さんってなんていうか…あんな小さい子を斬りつけるのに躊躇いがなかったんですね…。」
「まぁ、慣れてるからなぁ。でも大丈夫だ!斬っても痛覚があるわけではないから苦しんではいないぞ。」
「そうですか…。」
拓也は少しホッとした。苦しんでいないのならばそれが一番いい、と。
「君は本当に優しいな、石島くん。もしかしたら彼女のせいで、君が行方不明になってしまったかもしれないというのに。」
「いや…あの女の子も、何か理由があってこの世に留まってるんじゃないかなって。」
拓也は彼女が最後に見せた顔で、それを確信していた。
「それはそうだな。未練がない人間は普通この世に残らない。しかも想像し難いほど大きな未練を残している者しか残らないだろう。たとえ戦争とか拷問などの最悪の死に方をしても、その後遺族や親友、恋人などにちゃんと供養されたならば、この世に残ることはないんだ。だからさっきの子は…。ま、とにかく同情はしないことだ!俺は祓ったわけじゃないからな、追い払っただけで。いいな?」
「…そうなんですね。ということは、また俺を狙ってくる可能性もあるってことか。」
「その通りだ。基本的に幽霊は、自分の未練にケリをつけて、自分であの世に行かないといけない。誰かが強制的にあの世へ送るっていうことは基本的にできないんだ。それが出来るのは、よっぽどタチの悪い能力を持っている人間か、古来からそういうことを生業としている人たちくらいだな。だから俺は、あくまで追い払っただけだ。」
拓也は胸が締め付けられたように苦しくなった。吉助はそんな拓也の心中を察して、今度は普通に肩を軽く叩いた。
「ま、何にせよ、やはり君に声をかけて良かったよ。」
拓也の手の中にあるスマホの右上は、5Gの表示に戻っていた。
それから今までの苦労は何だったのかというほど、2人はあっという間に目的地である家に辿り着いた。風格あるお屋敷だった。
「これが…」
拓也は思わず「これがヤクザの頭が住む家が…」と言いそうになり、慌てて左手で口を塞いだ。そして自分の役割は終わったので、反社と関わる前にそそくさと帰ろうとした時、吉助が拓也の腕を掴んで止めた。
「待ってくれ、石島くん!君も上がってかないか?せっかくだから、君に旧友を紹介したいんだ!とってもいい奴だから!」
反社のトップと面会なんて、死んでも御免だった。
「いやいやいや!俺はここで…!」
全力で拒否していたところ、屋敷から聴き慣れた声がした。
「あれ~?たっくんじゃん!何で私の家に来てるの?それに…吉助兄ちゃんまで!!」
「え………?」
拓也は声の方へ振り向くと、そこにはシェアハウスにいるはずの真実が、カランコロンと下駄を鳴らし、屋敷から出てきた。
「おま…何で…!?」
「え、だってここ私の実家だし。」
「は…?」
拓也は屋敷の表札を見ると、そこには「如月」とあった。
「嘘…」
途端に全身の力が抜けた。拓也が呆然としているのを他所に、吉助は真実に再会のハグをかましていた。
「真実真実真実~!!!久しぶりだなぁ!!こんなに大きくなって!!元気だったかぁ?」
吉助は、一応年頃の女の子である真実に、なりふり構わず全力ハグをかましたあと、彼女の頬を両手で挟み、スリスリ撫で回した。真実はまるで、ヒマワリの種を頬張るハムスターのように、ぷっくりした顔になっている。
「ぐ…ぐぇんきだよ…きちしゅけにぃちゃん…」
頬をむにむに撫で回され、変な日本語になってしまっている。
「なかなか会いに来れなくてすまなかったなぁ!でもますます可愛くなって…!大きくなったら俺の嫁に来てもいいんだぞぉ?」
「しょれはむりだよ…きちしゅけにぃちゃん…」
「そうだぞ!我が妹を嫁に貰おうなんて、いくら吉助でも、この俺の厳しい審査を通らんと絶対に許さんぞ!」
吉助以上に快活でハッキリとした声が聞こえた。声の主は、真実の背後からニョキっと現れた忠由だった。吉助は忠由の姿を見ると真実の頬をパッと離した。
「た…忠由!!会いたかった!!」
吉助は今日一の笑顔を忠由に向けた。そして忠由とも全力のハグをした。
「吉助!よく来たな!会いたかったぞ!お前、今までどこにいたんだ?」
「俺は仕事で日本中あちこち飛び回っていたぞぉ!…そうそう!忠由に紹介したい子がいるんだ!」
吉助はそう言うと拓也をグイッと忠由の前へ出した。しかし忠由と拓也は、吉助の予想に反した反応をした。
「おお!石島くんじゃないか!久しぶりだな!」
「お…お久しぶりです。忠由さん。」
「え?!2人、知り合いだったのか?!」
吉助は目を点にして、2人の顔を交互に見た。忠由はそんな吉助を見て笑った。
「ああ!石島くんは、俺らの所有している土地に建っているシェアハウスに住んでもらっている子だ。」
「忠由さんには、引っ越しの時にお世話になりました。でもここが忠由さんのお住まいとは…。」
「そうだったのか!そんなこともあるんだなぁ…。」
世界の狭さに感心している吉助を、拓也が呼んだ。
「あの、鬼ヶ城さん。その…紹介したい旧友の方って…」
「ああ!忠由のことだ!」
「やっぱり…」
ということは、忠由が元暴走族の総長ということになる。拓也は改めて忠由の顔をまじまじと見た。忠由は本当に優しくて尊敬に値する人物ということは百も承知しているが、確かに体格は筋肉質でがっしりしているし、彼の性格上ムードメーカーで常に人の中心にいる存在だ。元暴走族の総長でもおかしくないのかもしれない。
「どうした?石島くん。俺の顔に何か付いているのか?」
拓也の視線に気づいた忠由が、自分の顔をペタペタ触った。
「あ、いえ!何も付いてないです。」
「そうだ、石島くん!もう外も暗いから今日はウチで夕飯食べていくといい。今日は政由特製お好み焼きだぞ。政由も大人数だと喜ぶからな!帰りは俺が真実と共に車で送っていくから、安心してくれ。」
「え、いいんですか?」
政由の作ったものは一度食べたことがあるが、正直言って高級レストランや敷居の高そうな料亭で出てくるものより美味しかった。拓也は忠由の提案に内心かなり舞い上がった。早速シェアハウスのグループメールに、夕飯はいらないということを伝えておいた。
「こんなところで何だ、さぁ中へ入ってくれ。真実、2人分夕飯追加の旨を政由に伝えといてくれないか?」
「りょーかい!」
真実は大好きな拓也とご飯を食べれるのが嬉しいのか、顔をニンマリさせて足取り軽く家の中へ入った。心なしか下駄の音も、彼女の心にリンクして軽快に聞こえる。
「はは、真実は小さい頃から変わらないなぁ!ちょこちょこと動くところがリスの様で愛らしい!」
「ふふん、可愛いだろう!我が自慢の妹だ!」
拓也は2人の会話を聞き、異議を唱えたかった。どちらかと言えば彼女は、虎かライオンか…といったところだ。吉助にとって真実は、血は繋がっていないものの妹のような存在であるため、2人とも重度のシスコンなのであった。1人の女の子に頬を赤く染めてデレデレとしているこの成人男性2人が、元暴走族の総長と副総長には全く見えず、拓也は返って安心したのだった。
それから拓也にとっては不思議な面子で夕飯を食べた後、政由と吉助に礼を言ってから真実と共に忠由の車に乗り込んだ。吉助は今晩、如月邸に泊まるらしい。忠由は吉助と二言くらい交えた後、運転席へ乗り込んだ。道中、拓也は吉助との出来事を思い出し、少し疲れたようにだらりと後部座席へもたれかかった。吉助の左手から現れた刀といい、女の子の幽霊といい、未だに夢かと思うほどの出来事だったが、どうやら現実のことらしい。
「たっくん疲れてんの?大丈夫?」
隣の座席に座った真実が、拓也の様子に気づいて声をかけて来た。
「ああ、少し疲れただけ。」
「あ~テスト終わったばっかだからね。今日はもうお風呂入って寝た方がいいよ。」
「…なぁ、真実。」
拓也は自分の心に残っているシコリを少しでも緩和させるべく、真実に一つだけ尋ねてみた。
「もしもの話なんだけど…全く知らない人がさ、事情はわからないけど、すごく悲しそうな顔をして自分のことを見ていたら…お前だったらどうする?」
突然どんな質問だとツッコミが入りそうなことを言ってしまったと、拓也は言った後に後悔し、「やっぱり聞かなかったことにしてくれ。」と言おうとした。しかし…
「事情を聞いて助ける…だな。できることなら何でもする。」
真実はそうハッキリ答えた。拓也は驚いた。真剣に答えてくれるとは思わなかったのだ。
「知らない人でもか?」
「うん、知らない人でも。だってその人は私に助けを求めてるんだろ?だったら助けなきゃな。だけど無闇矢鱈に助けたりはしない。依存されても困るし。」
「それって…どういうことだ?」
「その人が置かれている状況から救うんじゃなくて、その人の心を救うってことだよ。」
「そっか…なるほど…」
あの時、もし吉助がおらず自分1人だけだったとして、果たして女の子に出来ることなんてあったのだろうか…拓也はそう思った。彼女の抱えている事情を知ったところで、生きている自分に…しかも普段霊的なものなんて感じることさえ出来ない自分に、出来ることはあったのだろうか、と。
「ま、大層なこと言って、できることなんて限られてるけどね。で?たっくん、何かあったの?」
「え…」
まるで真実に自分の心を見透かされているようだった。しかし拓也は今日の出来事を真実に話したところで絶対に信じてもらえないと、開きかけた口を閉ざした。彼は真実が、吉助と同じ霊感があり能力使いであることを知らない。
「いやぁそんなこといきなり言われたら、誰だってそう思うだろ。」
「……。」
「何でも言ってよ。別に言いづらいことだったら、無理にとは言わねぇけどさ。」
拓也は少し迷った後、やはり今日の出来事を真実に言おうとしたその時、車はシェアハウスの前に到着した。
忠由は真実にお別れのハグをし(力が強すぎて真実は胃の中のお好み焼きを全て吐くかと思った)、「これからは1日1回連絡を入れてくれ!寂しくて死んでしまう!」と言い残し、颯爽と去っていった。
「吉助兄ちゃん、いい人だっただろ?」
シェアハウスの門を潜ろうとしている拓也に、真実がそう尋ねた。
「ああ、とてもいい人だったよ。元暴走族の副総長ってのは驚いたがな。忠由さんも元…」
「あ、忠由兄ちゃんの前で、その時の話しちゃダメだよ。本人の黒歴史らしいから。でもなぁ~まだ忠由兄ちゃんのグループが存続してたら、私が後継いで2代目総長になりたかったのにな~!残念。」
「え…そうなのか。」
これからは絶対外ではこのことを口に出さないと、拓也は決意した。そして門を潜ろうとしたその時、後ろから声がした。聞いたことのない声だった。
『芽衣も入っていい?』
2人は反射的に後ろを振り向くと、そこにはあの幽霊の女の子が立っていた。彼女のピンクのワンピースは怪我や泥で赤黒く染まっており、拓也は改めて身の毛もよだつ思いになった。拓也はあれほど吉助に「同情するな」と言われたのに、やはりズルズルと気にかけてしまったのか、どうやら彼女は拓也について来てしまったようだ。
「え…君…俺の後を追いかけて来たのか?」
女の子は拓也の言葉に頷いた。
『入っちゃだめ?』
真実は1歩前に出た。
「真実お前…あの子見えるのか?」
「うん。今まで言ってなくてごめん。ていうか、たっくんも見えるんだね。たっくんは私の後ろに下がってて。私が何とかしてあの世に返す。大丈夫、基本こっちから招かれないと家へは入ってこれないから。」
真実の言葉を聞いた瞬間、女の子は悲しい顔をした。拓也が忘れられないあの何かに縋るような表情だ。
『嫌だ。あっちにはまだ行きたくない。』
その言葉を聞いて、拓也は女の子の目の前まで出た。女の子の目線に合わせるようにしゃがんだ。
「たっくん…!」
真実は心配して呼んだが、拓也は右手を軽くあげて大丈夫という合図を送った。拓也は思った。幽霊だからって怖がったりすぐに追い払うのはやはり間違っている。真実の言う通り、助けを求めているのならば、出来るだけのことはしてあげたい…と。何も力のない自分が出来ることといえば…心から寄り添ってあげることしかない。
「ねぇ、どうして俺について行きたいのかな?」
拓也は優しい言葉で問いかけた。
『だってお兄さん、芽衣のお兄ちゃんに似てるから!それに学校にいる時も、家にいる時も、いつも優しい顔してたから。一緒にいると安心したし、芽衣の味方になってくれたらいいなって。芽衣の姿、みんなから見えないみたいだし。』
女の子は芽衣という名前のようだ。
「そんなんだ。芽衣ちゃんのお兄ちゃん、優しかったの?」
『うん!すっごく優しかったの!大好き!でもね、学校に行ったっきり帰って来なくなっちゃって…芽衣たくさん探したんだけど…。』
「帰って来なくなった…?」
どういうことなのだろうか。誘拐?事故?
「どうしてお兄ちゃんが帰って来なくなったのかわかる?」
芽衣は拓也の問いに首を横に振った。
『お兄ちゃん、最近怪我ばっかりして様子がおかしかったけど、まさかいなくなっちゃうなんて思わなかったの。どうして怪我してたのかはわからない。聞いても答えてくれなかった。お兄ちゃんがいなくって…芽衣探しに行ったんだけど、探してる途中で死んじゃった。』
「怪我ばかりしていた…?」
親に暴力でも振るわれていたのだろうか?次に真実が、芽衣に問いかけた。
「あのさ、どうして君は…その…死んじゃったのか…覚えてる?」
デリケートな内容だからか、真実は少し吃ってしまった。
『あんまり覚えてないけど…芽衣、お兄ちゃん見つけられなくて、悲しくて泣いていたの。でも外で泣くなんて恥ずかしいでしょ?下向いて歩いていたら、お兄ちゃんの靴が見えたの!慌ててそっちに行こうとして…そこから覚えてない…。』
恐らく芽衣は、靴に釣られて道に飛び出し、車か自転車に撥ねられてしまったのだろう。
「靴を見つけたの?ねえ、靴があった場所、覚えてる?」
誘拐の線が濃くなって来た。連れ去られた時に、靴が脱げたのかもしれない。
『うん!それは覚えているよ!』
「その場所、連れて行ってくれる?私たちも芽衣ちゃんのお兄ちゃん探し、手伝うよ。」
恐らく芽衣がこの世に留まる理由は、彼女の兄にある。彼女の兄の居場所さえわかれば、芽衣は心置きなくあの世に行けるかもしれない。
時刻は21時を過ぎている。本来なら未成年が外を出歩いていい時間ではないだろう。しかし芽衣を放っておいてシェアハウスに入るなんて出来なかった。2人は学校の荷物を玄関に置き、再び門を出て行った。
彼女が靴を見たという場所は、シェアハウスからさほど遠くなく、歩いて15分くらいの所にある、2級河川の堤防だった。時間も時間なので人もいない上に、電灯も少ししかないため、それがかえってかなり不気味だった。河の近くだからかとても肌寒く、なんとなく心もとない気持ちになる。拓也は携帯のライトをつけた。携帯の右上の表示は「圏外」だった。
「川…か。やっぱり事故か?あるいは…」
拓也は最悪の想像をした。事件に巻き込まれて、遺体を遺棄された場所ではないのかと。そう考えると背筋が凍った。
『靴…ここら辺にあったんだけど…。』
芽衣は川に掛かっている橋の真ん中で立ち止まった。その橋は自転車や歩行者が通る用の小さい橋で、車が通れるようなものではなかった。橋の下を見ると、轟々と音を立てて水が力強く流れている。
『芽衣、橋のあっち側で死んじゃったんだ。』
そう言って彼女が指差したのは、3人が来た道とは逆側の道路だった。拓也は彼女が指差した方にライトを向けた。暗くてよく見えないが、確かに花が添えてある。
「靴、まだある?」
拓也が芽衣に尋ねると、彼女は嬉しそうな声で『あった!ほら!』と言い、靴を拓也に見せてきた。それは青い運動靴だった。しかしかなりボロボロで、どうしてこんなものを履いていたのだろうかというくらいの状態のものだった。拓也はライトを当てて靴をよく見てみると、何かが書かれてあるのに気づいた。
「ん?何だ?すごく掠れててよく見えないけど…。」
その場にしゃがみ、ライトを当てていろんな角度から見てみた。すると書いてある文字が漸く認識でき、その内容に拓也は絶句した。そして同時にわかってしまった。彼女の兄が怪我ばっかりしていた理由も、死んでしまった理由も。
「『死ね』って書かれてるな。」
拓也の心を代弁したかのように、真実が冷たくそう言った。拓也は手が震えて靴を落としてしまった。
芽衣は知らなかった。自分の兄が虐められていたことを。彼が心配させまいと、必死に隠していたからだった。こんな悲しくて苦しいこと、妹には知ってほしくなかったのだ。父に相談しようとしても「仕事で疲れているから後で」と一蹴られ、母は病気がちでいつも病院にいた。学校の先生は全く頼りにならなさそうな人で、生徒からいつもバカにされては、ずっと辛そうに笑っていた。いじめの主犯からは「周りにチクったらお前の裸の写真SNSに載せるからな。」と脅された。そんなわけで、彼の事情を知ってくれる人は1人もいなかったのである。そして彼の心は順調に壊れていき、とうとうその時が来てしまったのであった。
死ねば逃れられる!生きている方が辛い!早くこの苦しみから解放されたい!…それに自分が死ねば、虐めていた奴全員に復讐できるかもしれない。一生俺の死という十字架を背負って生きてゆけ!お前たちは立派な殺人犯だ!…と、その一心で、彼は恐怖で学校に行けず凍っていた足を動かし、堤防へと向かった。幸か不幸か、その日の昼間の堤防は誰1人いなかった。
よく耐えた方だよ俺は。同じクラスになって1年間、よく耐えてきた。いい加減もう自由になってもいいだろう。俺の人生はここで終わるけど、始まりでもあるんだ。彼は堤防の橋の上に立ち、下を見た。水が轟々と流れている。ここから落ちれば確実に死ねるだろう。彼は靴を脱いで傷だらけの足をかけると、橋の手すりに座った。すると一気に恐怖が襲ってきた。下を見るから怖くなるんだ、上を向いて落ち着こう。呼吸が荒くなる。心臓がうるさい。自然と涙が溢れ出し止まらない。彼の涙で腫れた瞳は、雲一つない空を映し出していた。
(俺が死んで、悲しむ人はいるのだろうか。)
そう思った瞬間、少し強い風が吹き、彼の背中を押した。何者かが、彼の背中を押したみたいだった。
「あ。」
手を滑らせ、気づいた時には身体は宙に浮いており、そして川に吸い込まれていくように落ちていった。その時、彼の脳裏に浮かんだものは、父でもなく彼をいじめていた輩でもなく…
(芽衣……)
最愛の妹の笑顔だった。
「全く棗は何をやっているんだ!いくら勉強が嫌だからって学校をサボるとはふざけている!」
仕事に追われ常に忙しい芽衣の父親が、顔を怒りで真っ赤に染めながら帰ってきた。午後の1時のことだった。学校から「いつまで経っても棗くんが登校してこない」という連絡が入り、仕事を一旦切り上げて、急いで帰ってきたのだ。その日芽衣は風邪で学校を休み、リビングで寝ていたのだが、父親の大きな足音で目が覚めてしまった。
「どうせ部屋に篭ってゲームでもしているんだろう!」
父は芽衣のことなど見向きもせずに、玄関からそのまま2階へと上がっていった。
「おい!棗!!学校をサボるとはどういうことだ!」
父が2階の棗の部屋の前で叫んだ。しかし応答はない。
「おい!!」
父は勢いよく棗の部屋のドアを開けた。しかしそこには誰もいなかった。父は1階に降りてきた。
「芽衣、お兄ちゃんどこにいる?」
「お兄ちゃんはいつもと同じ時間に学校行ったよ?」
「え、その後帰ってきただろう?」
「ううん。帰ってきてないよ。」
「どういうことだ…?外でブラブラしてるのか?」
その時、家の電話が鳴り響いた。父が慌てて電話を取る。
「はい…そうですけど………は?」
何を話しているのだろう、芽衣にはわからなかった。とにかく父は電話で誰かと話しながら、どんどん顔色が悪くなっていった。それだけはわかった。
「嘘だ…そんなわけない!!……わかりました。今すぐ行きます。はい。」
父は震える手で電話を切ると、心配する芽衣を無視して家を飛び出してしまった。
(お兄ちゃんがいなくなっちゃった!!探さなくっちゃ!!)
芽衣は大きな不安に駆られ、熱で重い身体を無理やり動かし外へ出ようとした。
「あ、いけない。外だから着替えなくちゃ。」
彼女はお気に入りのピンクのワンピースをクローゼットから引っ張り出し、よれたパジャマを脱ぎ捨てると、急いで着替えて外へ飛び出した。
いくら探しても見つからない。兄の行きそうなところは全て足を運んだ。しかしそこに兄の姿は無かった。午後1時頃から探し始め、公園の時計を見ると、既に18時を回っていた。
(お兄ちゃんどこ行っちゃったんだろう。きっと道に迷って泣いているに違いない。芽衣が助けてあげないと!)
しかし彼女自身不安で押し潰され、すでに限界を迎えていた。泣いちゃダメと思っていても目から自然に出てきてしまう。芽衣は外で泣くなんて恥ずかしいと必死に隠した。下を向いて思いっきり目を擦り、それでも足は止めなかった。そのまま堤防に入り、フラフラと歩いていると、視界の奥の方に青い靴が入ってきた。兄が履いていたのと似ている、ボロボロの運動靴だ。芽衣は咄嗟にその靴の方へ向かおうとして顔を上げると、そこにはたくさんの大人がいた。その中には父に似ている人もいるような気がする。熱がかなり上がってきたのか頭が働かない。しかし靴を見た時には、既に彼女の足はそちらへ動いていた。その時だった。芽衣の背中に大きな衝撃が走った。彼女の動きを予測できなかった自転車が、後ろからぶつかってきたのだ。彼女の身体は跳ね飛ばされ、物理法則に従い人形のようにゴロゴロとコンクリートの土手を転がり落ちていった。身体が打ちつけられる痛々しく鈍い音が、橋の下に鳴り響いた。そして真っ赤な視界で彼女が最期に捉えたものは、小さな蟻が群がっているバッタの死骸だった。
『本当にご迷惑おかけしました。芽衣をここまで連れてきてくださってありがとうございます。』
拓也と真実は見上げると、芽衣の隣に男の子が立っていた。拓也と髪型も顔立ちもそっくりな男の子だ。しっかりと芽衣の手を握っている。
『棗お兄ちゃん!!』
芽衣は自分の兄に思いっきり抱きついた。
『ずっと探してたんだよ!!どこに行ってたの?!』
『ごめんな、芽衣。』
彼は芽衣の頭を優しく撫でた。芽衣は涙を流して兄の胸な顔を擦り付けた。
「き…君は…」
拓也の声は震えていた。
『はい。芽衣の兄の棗です。この度は本当にありがとうございました。』
棗は頭を深く下げた。
「いや…それより今、俺の頭に流れてきたものって…」
拓也は芽衣と同じようにやんわりと棗にも接した。拓也にはそれだけ棗もまだ小さい男の子に見えた。そうには思えないほど、彼は大人びていたが。
『はい。俺たちの記憶です。とは言っても芽衣自身、あまり覚えていないかと思います。実のところ、俺はこの世に未練はありません。あの日から家族は、毎日俺たちのことを思って泣いてくれていますし、ここにお参りに来た父さんからは、俺を虐めていた奴とその家族とは、法廷で徹底的に戦うと言ってくれましたから…。しかし芽衣の未練は俺自身です。まだ死んでから2週間あまりしか経っていないので、ずっと俺を探して彷徨っていたんだと思います。ですがあなた方のようないい人に見つけてもらえて本当によかった。こうしてまた会えました。今ここは、俺が空間を歪ませています。ここは俺の領域です。なので、俺と芽衣が持っている記憶をあなた方の脳内に流させていただきました。そこの女性の方はもうご存知かと思いますが…。』
棗は真実を見てそう言った。
「え…。真実お前、知ってたのか?」
「あぁ…まぁ。携帯圏外になってるし。それに…靴も無くなってるし。」
「あれ、本当だ…。」
拓也の手の中にあったはずの青い運動靴は、いつの間にか消えていた。それに携帯が圏外になっているということは…。あの時、いつまで経っても如月家に辿り着けなかったのは、芽衣の領域を彷徨っていたからだった。拓也はようやく腑に落ちた。
『これで安心してここから去れます。』
棗は心から嬉しそうに、微笑んだ。しかしその笑顔を見て、拓也は顔を歪ませた。
「でも…でも!君たちは死ぬべき人ではなかった!悪いことなんて何もしていないし、第一君たちは俺よりまだ小さいじゃないか!いろんな可能性があったのに…どうして…どうして踏み躙られなければいけなかったんだ…」
拓也はそう言いながら大粒の涙をボロボロ流した。声が震えて上手く喋れない。先程の記憶があまりにも悲しすぎて、やり切れない感情が抑えきれなくなった。
「まだここに残りたいって思ってくれ…。もっと沢山やりたいことがあったって思ってくれよ…。」
『ありがとうございます。本当に優しい方なんですね。見ず知らずの俺たちをそこまで想ってくれるなんて。』
棗は拓也の右手をそっと握った。棗の手は透けており、手を握られている感覚は感じられなかった。しかし拓也は、棗に握られているところが不思議と温かく感じた。
『でもいいんです。俺、この橋から落ちた時…自分の将来への後悔とか、虐めていた奴への復讐心とか…そういうのは全く思い浮かばなかったんです。むしろ芽衣のことしか思い浮かびませんでした。結局俺は、彼女を置いていってしまったこと後悔したんです。ですが最後の最後にこうして会えました。芽衣が死んでしまったのは残念ですけど…。唯一の希望だった芽衣がいるので、俺はもう大丈夫です。』
『芽衣も!』
芽衣は満面の笑みでそう言うと、兄の腕をぎゅっと絡ませた。彼女の顔は傷だらけだったが、天使のように愛らしかった。彼らにとって、今が最高の幸せなのである。
「そうか…。」
拓也はこれ以上何も言えなかった。溢れてくる涙を拭うことで精一杯だった。
棗と芽衣が消えると、携帯は5Gの表示に戻り、止まっていた空気が流れ出した。それまで夜の堤防であるというのに、風を全く感じなかったのである。
「行ってしまったのか…。」
拓也は夜空を見上げて、消えそうな声でそう言った。曇っていて星はあまり見えなかった。
「たっくん、帰ろう。さすがにみんなが心配してる。電波が届いた瞬間、メールがえげつない程届いた。」
真実が自身の携帯を拓也に見せると、「クソ野郎」という名のアカウントから20件ほどメールが届いていた。おそらく海のことである。メールの内容は、「おいクソ真実、どこほっつき歩いてるんだ」とか「今何時だと思ってるんだ!」とか、とにかく罵倒と怒りのメールだったが、最後の数件は「頼むから返信しろ」など本気で心配しているような内容だった。拓也の方にも瑠加などのシェアハウスのメンバーから、たくさんメールが来ていた。
「そうだな。帰ろう。…なぁ、真実。」
「ん?」
「俺さ、おそらく鬼ヶ城さんと一緒にいる時に芽衣ちゃんと会ったから、彼女と棗くんのことが見えたんだと思う。俺、本当は霊感なんて全くないんだ。」
「え!じゃあ吉助兄ちゃんすんごい強い霊感があるってことか。」
「ああ。しかも能力使いだとか言ってたぞ。光る刀を手から出していた。自分が見たことある武器ならなんでも出せるんだと。夢みたいな話なんだが…俺は今日この目で見たんだ。マジで手から刀出してた。お前は能力使いの存在知ってたか?」
「あ~うん。まぁね。」
真実は適当に返事をした。霊感のない拓也をこれ以上能力使いと接触させたくなかった。能力は霊的なものにも有効に使えるが、生きている人間にも使えてしまう。要は、危険な思想や考えを持っている人間が能力使いであれば、ありとあらゆる人間にいとも容易く危害を加えることができるのだ。最悪の場合殺すこともできてしまう。真実は拓也がその可能性に巻き込まれてしまうのを、少しでも防ぎたかった。理由はただ一つ。大好きな人だからである。
「さてと、帰るか、真実。」
拓也は泣きすぎて充血し真っ赤になっている目擦りながら真実にそう言った。鼻もすすって、花粉症で苦しんでいる人のようである。そんな拓也を、真実はどうしようもなく愛おしいと思った。なので顔を赤らめてヘラっと笑った。
「やっぱりたっくん好きになってよかった。」
「お前なぁ…俺のこと口説いてんなら無駄だからやめた方がいいぞ。」
「え~たっくん厳しー!」
真実は思ったことをそのまま口にしただけだった。自分と関係ない他人のことを、心から心配し、自分のことのように考えられる清らかな心の持ち主を好きになってよかったと、そう思ったのだ。
忠由は、真実と拓也を彼らの住むシェアハウスに送り届けた後、車内で吉助から言われた言葉を頭の中で反芻していた。彼らを送る為に家を出ようとした際、吉助から言われた言葉だ。
「真実に気をつけろ。理由はまだ言えないが、とにかく目を離すな。今一緒に住んでないなら、逐一連絡を入れさせるように。」
どういうことなのだろうか。吉助のこう言った「嫌な予感」というのは、昔から絶対当たるのだ。忠由は不安で重くなった頭を軽くするためコンビニに寄ると、グループを解散させた時に辞めたはずのタバコを買い1本吸った。彼の吐いた白い煙が、曇った夜空に溶けて消えていく。
「は~また政由に怒られるな。」
昭和30年8月15日、友子。
石島拓也…海と真実とともにシェアハウスに住んでいる、至って普通の高校2年生。彼は海や翔太のように顔やスタイルが特別良いわけでもなく、真実のように身体能力が特別高いわけでもなかった。彼は全てのステータスにおいて、「普通」レベルなのである。強いて言えば少し正義感が強いだけ。目立たず、かと言って影が薄いわけでもなく…それが彼の個性なのだ。彼自身、自分の個性に大満足しており、それを生かしながら普通の生活を送ってきた。…3年前、拓也の中学校へ転入してきた海に気に入られるまでは。
そんな普通を望んでいる拓也だが、中間テストが終わって疲れが溜まっているのか、学校からシェアハウスへの道を怠そうに歩いていた。
(あ~今回のテスト範囲はマジで広かった…。机に向かいすぎて肩こりが…。)
自分の肩を軽くマッサージしながら、ため息をついたその時、後ろから見知らぬ男性に声をかけられた。拓也は振り向いた。そこには、よれたスーツを着ているものの、かなり快活で健康そうな20代から30代くらいの男性が立っていた。ハーフアップに纏められた紺色の髪が、陽の光でキラキラと輝いている。手に大きなキャリーバッグを持っているあたり、ここら近辺の人ではないのだろう。
「突然呼び止めてしまって申し訳ない!道に迷ってしまって、行き方を教えていただきたいのだが!」
見た目通り、元気よくハキハキ喋る男性だった。
「あ、いいですよ。どちらに行きたいんですか?」
今時人に道を聞いてくるなんて珍しい…普通スマホに入っている地図アプリを見る人が多いというのに。
「ありがとう!」
男は拓也に礼を言うと、手に持っていた地図を拓也に渡した。ちなみに紙製の地図である。これまた珍しかった。
「この地図の×印のついているところへ行きたいんだが…。」
拓也はマークを探すと、それは今いる場所とは真逆の方面にあり、とある民家を指していた。歩いて1時間くらいかかるであろうというところだった。
「…マジですか。真逆の方向に来てますよ。」
「そ…そうなのか?!」
男はかなりショックを受けているようだ。
「だからまず今来た道を戻って下さい。どこから来られたんですか?」
「えっと、×印の最寄りのバス停から来たぞ!」
男は拓也の後ろに回って、×印のあるところと目と鼻の先にある、とあるバス停を指さした。
「え?!逆にどうして道間違えたんですか?!」
「本当に申し訳ない…。昔から俺は極度の方向音痴なんだ…。」
この人、もしかして俺が目的地までついて行ってやらないと、永遠に辿り着けないのでは…?と拓也は思った。自分がこの場で道を教えても、結局永遠に道に迷うのもなんだか気の毒に思える。
「….わかりました。よければ俺、目的地まで案内しますよ。」
「本当か!?ありがとう!!本当に感謝するぞぉ!」
男は拓也の手を握り、彼の顔に自分の顔をグイッと近づけた。拓也は驚き1歩後ろに下がった。彼の萌えるような紅の瞳に、顔が引き攣って少し不細工になっている拓也の顔が、キレイに写し出されていた。
「パ…パーソナルスペース…。」
「す…すまん!昔から距離の詰め方が大雑把すぎると言われるんだ!でも君の好意がとても身に染みてなぁ…。ついつい。」
男はすぐさま拓也から離れた。
「俺は鬼ヶ城吉助という!そこら辺にいるしがないサラリーマンだ!君は?」
「俺は石島拓也です。普通の学生やってます。」
なんだかキャラの濃い人に出会ってしまったな…と拓也は思った。
「えっと…地図だとこの道を…右か。」
「え、左じゃないのか?」
「いや、どう見ても右じゃないですか!ほら、この建物がここにあるから…」
「なるほど!そういう見方をするのか!」
吉助は納得したように、手をポンと叩いた。今時地図が読めない成人男性なんているのだろうか。拓也は信じられないような目で吉助を見つめた。
「やっぱりよかったです…俺がついていて…。」
拓也が少し呆れてため息を吐くと、吉助が拓也の背中を軽く叩いた。
「そうため息を吐くもんじゃないぞ~、石島くん!幸せが逃げていってしまう!」
「はぁ…」
吉助の明るさは、拓也には少し眩しすぎるくらいだった。
「お、あんなところに喫茶店があるな!ちょっと休憩していかないか?もちろん石島くんの時間があれば…だが。お礼も兼ねて、好きなのを奢らせてくれ!」
吉助の目線の先を見ると、小洒落た喫茶店があった。お昼時だが平日なので、少し客が少ないように感じる。
「時間はありますけど…でも…」
「遠慮するな!俺は独身の社会人だからな、金だけはあるんだ。さっきここら辺うろうろしていた時には、喫茶店なんて気づかなかったなぁ!石島くんの案内があったから見つけられたんだろう!さぁ、行こう!」
「ちょ…え…!」
吉助は拓也の背中をポンと叩いて、喫茶店へ入っていった。拓也は慌てて跡を追った。
店内へ入ると2人はカウンター席に座り、吉助は早速メニューを開いた。
「石島くんは何を食べたいんだ?俺はこのお団子パフェにしようかな!」
「いや…俺は飲み物だけで…」
「またまた~!遠慮しているのか?せっかくだから食べ物頼んでいいんだぞ?この時間帯ならお腹ペコペコだろう?学生だし。」
「いや…」
確かにお腹は空いていた。しかし今さっき出会ったばかりの人に奢ってもらうのも、気が引けたのである。
「じゃあ…これはどうだ?コーヒーフロート。アイスもついてるし、お腹も満たされるだろう?」
「確かに美味しそう…。」
「じゃあ決まりだな!」
吉助はそう言うと、さっさと店員を呼び注文してしまった。頼んだものが出てくる間、拓也は少し気になったことを聞いてみた。
「そのスーツ…随分着てるんですね。」
「あ、だろ?それこそ俺が就職した時からのものなんだ!」
吉助は自身の着ているボタンダウンシャツの襟元を、拓也に見せるように軽く引っ張った。
「思い入れのあるものなんですね。」
「なかなか捨てられなくてなぁ…。だらしがないのは承知なんだが。営業回りに行く時はちゃんとしたものを着ようとはしてるんだ。だから特に何もない日の仕事着はこれだ。」
「今から行く家は営業じゃないんですか?」
「違うな。今から行くのは旧友の家だ!仕事が早く片付いたし、丁度出張でここら辺寄ったから、会いに行こうと思って!」
「なるほど、そうだったんですね。」
次は吉助が質問する番だ。
「石島くんは高校生か?」
「はい。高校2年生です。」
「そうかそうか!今が1番楽しい時だなぁ!思う存分青春してくれ!」
「そうですね。楽しむか…。今は…楽しいですね。」
拓也はシェアハウスの面子と学校の友達を思い出した。何やかんや、確かに今が1番楽しいのかもしれない…拓也はそう思った。
「友達は一生の財産だ!これから会う旧友も中学の時からの付き合いなんだよ。友は自分の心を豊かにしてくれる。是非とも一生大切にしてくれ。みんないい子たちなのだろう?」
「はい、そうですよね。あいつらとは…ずっと付き合っていきたいです。」
拓也は少し照れくさいように微笑んだ。
「そうかそうか…だからか。」
「え?」
「あぁ…いや、なんでもない。そういえば!高校生といえば恋愛だな!どうだ?好きな女の子くらいいるのだろう?人生の先輩として何でもアドバイスするぞぉ?」
吉助はニンマリと顔を緩ませ、拓也を肘で小突いた。その時、ウェイトレスが彼らの頼んだ抹茶パフェとコーヒーフロートを持ってきた。
「す…好きな人なんていませんよ。逆に友達に好きな人がいて、面倒くさいゴタゴタに巻き込まれてます。勘弁してほしいって感じですよ。」
拓也の友達には幼馴染の好きな人がいる。しかし完全に友達の片思いであり、その上彼の想い人は、校内一のイケメンと仲が良い。そして居ても立っても居られない友達は、よく拓也に泣き言を言ってくるのだ。拓也は少し可哀想に思って、毎日多少は話を聞いてあげている。
「それもまた楽しいなぁ!君がとても優しいから、その友達はいろいろ相談してくるのだろう。」
「そんなことないですよ…。そう言う鬼ヶ城さんはどうなんですか?」
「俺?俺に恋人はいないなぁ。もういい歳なんだがな。どうにも昔から、あまり色恋沙汰に関心が向かんのだ。」
吉助は自嘲気味に笑った。その笑みは、他人に恋慕の情を抱くと面倒くさいことしか起きないと、半ば諦念が含まれているようだった。拓也は少し不審に思った。考えすぎかもしれないが。
「石島くんと同じ頃…いや、もう少し小さい頃からかな、暴走族入ってたんだ!だから青春真っ只中の時は、女にかまけている暇なんてなかったんだ。」
「え?!暴走族?!」
拓也はこんな人当たりのいい人がグレていたなんて考えづらく、飲んでいたアイスコーヒーを吹き出しそうになった。そして確かめるように、目を開いてジロっと吉助を凝視してしまった。暴走族といえば…悪いイメージしかない。夜中に騒音で騒いだり、物壊したり、喧嘩したり、カツアゲしたり…。
「はは、驚いたか?これ言うとみんなビックリするんだ。チームは俺らの代から始まってな、それはそれは勢いがあったんだ。だから逆にいろいろ問題を抱えてたんだが…。まぁ今となっては、本当バカなことしてたなぁとしか思わんな。別にツッパることが流行っていたわけじゃなかったんだが、俺は何故かツッパってたな。さすがにリーゼントではなかったが!」
吉助は昔の自分を思い出し、快活に笑った。
「もしかして…今から会いに行く人も…」
「お察しの通りだぞぉ!当時…俺が初代副総長で、今から会いに行く奴は初代総長だったんだ。」
嘘だろ…と少し拓也は顔を青ざめた。
(今から行くところって…もしかして反社の拠点地とかだったらどうしよう…。ていうか…)
「副総長って…チームの2番目だったんですね…すごい…」
拓也は「怖い存在だったんですね。」と心の中で付け足しといた。
「いやいやぁ~そんなすごいもんじゃなかったよ。まぁアイツはすごかったがな!」
あっという間に、吉助のパフェは空になってしまった。拓也はそれを見て少し焦った。
「あ、すみません。すぐ飲み終わります。」
「慌てなくてもいいぞぉ!ゆっくり飲んでくれ!」
吉助は拓也の肩を軽く叩いてそう言った。
それから10分後、2人はカフェを出ると、再び拓也は地図を開いた。
「えっと…この道を右に曲がったから、3つ目の角を左かな。」
「よし、行くか!3つ目を左だな!」
吉助は張り切ってそう言うと、やはり真逆の方向に行こうとしたので、拓也は慌てて彼の腕を掴み引き止めた。
「違います違います!!そっち違います!」
「え?そうなのか?」
この人一体どうやって今まで生きてきたんだろう。右と左もわからないのか?そして本当に副総長だったのか?拓也は少し心配になった。
その後も何度か吉助が勝手に違う方向へ行き、それを食い止めの応酬を繰り返し、なんとか地図の通りに進んでいった。しかしそろそろ着きそうなものだが、なかなか印のところに辿り着けなかった。
「う~ん…何でだ?地図通りに進んでいるはずなんだが…なかなか印のところに着かないな…。どういうことだ?」
地図通りに進んで辿り着けないとはどういうことなのだろうか。どこかで曲がるところを間違えて、似たような別の場所にいるのではないだろうか…と拓也は疑い始めた。
「では石島くん。あそこの表札を覚えておこうか。」
吉助が拓也の肩に腕を回し指差した家の表札には、「安藤」とあった。
「…わかりました。」
それからまた地図通りに進んでも、なお目的地には辿り着けず、同じ場所をグルグル回っているような気もしてきた。拓也はスマホで時計を確認すると夕方の6時30分、吉助と会ってから既に2時間が経とうとしていた。そんなに喫茶店で長居はしてないはず。俺まで方向音痴になってしまったのだろうか…と拓也は途端に不安になった。スマホを凝視していると、ある異変に気づいた。
「あれ……圏外になってる。」
確かに右上にあるアンテナの表示が圏外となっていた。
「山奥でもないし…何でだ?」
拓也は辺りを見渡した。普通の住宅街だ。圏外になるはずがない。しかし……
「ここ…やっぱりさっきも通ったような……。」
同じような家が何軒もあるから自信はないが、家の位置などから確かにここを先ほどから2回通ったような覚えがあるのだ。しかし地図を見て進んでいるので、迷うはずもないと思うのだが……
「うん!通ったな。」
悩んでいる拓也とは裏腹に、吉助がある家を指を差しながらそうキッパリと断言した。吉助の指差した家の表札に、「安藤」とあった。
「ふむ、俺たちはどうやら迷い込んでしまったらしいなぁ。境の世界に。」
「え…どういうことですか?」
拓也は訳がわからず吉助に訊ねた。「境の世界」とは何だ?どことどこの境目というのだろうか。
「この世とあの世の境ってことだ。そうかそうか、18時30分か…確かに迷いやすい時間帯だなぁ!…一応追い払ったんだが、やっぱりついて来てしまったか。」
吉助は目を細め、辺りをクルリと見渡した。
「え…この世とあの世??追い払ったって…どういうこと…」
「ですか?」と続けようとした拓也の口は止まった。吉助の目線の先を追うと、そこには小さい女の子が立っていたのだ。5歳くらいだろうか、可愛いピンクのワンピースにおさげ髪が愛らしい女の子だった。しかし拓也は、この女の子にはあまり近づいてはいけないと感じた。多分この世のものではない…関わっちゃいけないものだと、そう感じたのだ。何故なら、彼女の体の至る所には大きな傷がたくさんあり、可哀想なほど血塗れだったからだ。頭からは大量の血が滴っている。拓也は真夏でもないのに、緊張と恐怖で汗が滲み出てきた。しかしそんな拓也とは反対に、吉助は依然として態度を崩さず、むしろ笑っており、太陽のように明るいままだった。
「やっぱり君に声をかけて正解だったよ、石島くん!じゃなかったら君、今頃失踪したことになっていたぞぉ!」
「え…えぇ!?」
笑顔でとんでもないことを言われたような気がした。
「でも俺がいるから大丈夫だ、安心してくれ!石島くん、君、あの女の子にずっと憑かれていたんだよ。気づいてなかっただろうけど。で、その女の子を俺が定期的に追っ払ったんだが、よっぽど君と一緒にいたかったんだなぁ。俺、君の肩や背中を何度か叩いていただろ?あの女の子を追い払ってたんだ。肩、軽くなってないか?」
「確かに…言われてみれば…。」
拓也は自分の肩が軽くなっていることに今気づいた。テストのせいと思っていた肩の鈍い痛みがすっかり取れていたのだ。
「ただの酷い肩こりかと思っていたのに…。ゆ…幽霊の仕業だったってことですか……?」
「8割方そうだと思うぞぉ!君がとても幸せオーラを出していたから引き寄せられたんだなぁ。『こんなに幸せなら、私が少しその幸せ分けて貰っても大丈夫だ』とでも思ったんじゃないか?」
「そういうのって不幸な人に憑くんじゃないんですか?」
「それも間違いじゃないな!だが幽霊は、自分の持っていないもの、生前自分に持てなかったものを持っている人間にも惹かれやすいんだ。つまり、その幽霊が求めているモノによるな。自分の持っていないものを欲しがるのか、自分と同じ境遇の仲間を欲しがるのか…。ま、生きてる人間も死んでる人間もやっぱり本質は変わらないってことだ。」
「そうなんですね…。俺、そんなに幸せオーラ振り撒いていたんでしょうか。確かに今の生活は充実してますけど…。」
「ああ!眩しいくらいに振りまいていたぞぉ!」
吉助に言われるくらいだ。相当だったのだろう。少し拓也は顔を赤らめた。
「でもそれは決して悪いことではない。むしろいいことだ!これからも思う存分振り撒いてくれ!」
「はぁ…」
幸せオーラを思う存分振り撒くって…なんだが返って生きてる人間にまで恨まれそうだと思った。
「さて、ではここからは俺に任せてくれ、石島くん。君は狙われているから絶対に俺より前には出ないように。」
吉助は拓也を女の子に見せないように、背中に隠した。
「え…でもどうやってあの女の子を…」
「なに、もう察しているとは思うが俺は霊感が強い。それはそれは、生きているモノと死んでいるモノの区別がつかないくらい強いんだ。そして俺は能力使いでもある。」
「能力使い……?」
どこかで聞いたことあるような…拓也は記憶を必死に辿った。
「そう。強い霊感を持っている人の中で稀に、普通の人には到底出来ないであろうということを、1つだけ能力でなし得る人間が存在する。昔大きなニュースになったから知っていると思うが。俺はこれ。」
吉助はそう言うと、キャリーバッグをその場に置き、自身の左手の平から黄金に光輝く刀を抜き取った。鞘から剣を抜くように。拓也はその光景に自分の目を疑った。こんなのアニメか漫画の世界でしか見たことがない。
「い…今…手から刀が……!?」
「俺の能力は自分の左手から武器を取り出せるっていうものだ。自分が見たことのあるも武器ならば、なんでも出せるぞぉ!」
「そんなことができる人がいるなんて……」
拓也は信じられなかった。何かトリックがあるのではないだろうか?非現実的すぎる。それとも夢でも見ているのだろうか。
「ここで待っていてくれ。すぐ終わらせる。」
吉助がそう言った瞬間、彼の纏う雰囲気が一気に変わった。先程までの太陽オーラはどこへやら、冷たい氷のような目を女の子に向けると、目にも止まらぬ速さで女の子の間合いに入り、彼女を斬りつけた。彼の動きは、まるで剣の達人だろうかと思わせるほど、美しく優雅であった。女の子は突然のことに驚き、慌てて体を逸らしたものの間に合わず、右横腹から左胸にかけて深く切れてしまった。生きていないので血は出てないし、グロいことにはなっていないが、彼女は何かに縋るような悲しそうな顔を拓也に向け、霧のように消えてしまった。吉助は左手の平に刀を収めた。
「今度こそ追い払えたな!よかった!」
吉助は太陽のような笑顔を取り戻し、元気よく言った。しかし拓也は気がかりだった。彼女の消える前に見せた顔が、頭にこびり付いて離れない。
「あの女の子…斬っちゃってよかったんですか?その…少し可哀想というか…。」
「同情しちゃいけないぞぉ?石島くん。同情すると、また寄ってくるぞ。」
吉助は拓也に忠告した。
「えっと…鬼ヶ城さんってなんていうか…あんな小さい子を斬りつけるのに躊躇いがなかったんですね…。」
「まぁ、慣れてるからなぁ。でも大丈夫だ!斬っても痛覚があるわけではないから苦しんではいないぞ。」
「そうですか…。」
拓也は少しホッとした。苦しんでいないのならばそれが一番いい、と。
「君は本当に優しいな、石島くん。もしかしたら彼女のせいで、君が行方不明になってしまったかもしれないというのに。」
「いや…あの女の子も、何か理由があってこの世に留まってるんじゃないかなって。」
拓也は彼女が最後に見せた顔で、それを確信していた。
「それはそうだな。未練がない人間は普通この世に残らない。しかも想像し難いほど大きな未練を残している者しか残らないだろう。たとえ戦争とか拷問などの最悪の死に方をしても、その後遺族や親友、恋人などにちゃんと供養されたならば、この世に残ることはないんだ。だからさっきの子は…。ま、とにかく同情はしないことだ!俺は祓ったわけじゃないからな、追い払っただけで。いいな?」
「…そうなんですね。ということは、また俺を狙ってくる可能性もあるってことか。」
「その通りだ。基本的に幽霊は、自分の未練にケリをつけて、自分であの世に行かないといけない。誰かが強制的にあの世へ送るっていうことは基本的にできないんだ。それが出来るのは、よっぽどタチの悪い能力を持っている人間か、古来からそういうことを生業としている人たちくらいだな。だから俺は、あくまで追い払っただけだ。」
拓也は胸が締め付けられたように苦しくなった。吉助はそんな拓也の心中を察して、今度は普通に肩を軽く叩いた。
「ま、何にせよ、やはり君に声をかけて良かったよ。」
拓也の手の中にあるスマホの右上は、5Gの表示に戻っていた。
それから今までの苦労は何だったのかというほど、2人はあっという間に目的地である家に辿り着いた。風格あるお屋敷だった。
「これが…」
拓也は思わず「これがヤクザの頭が住む家が…」と言いそうになり、慌てて左手で口を塞いだ。そして自分の役割は終わったので、反社と関わる前にそそくさと帰ろうとした時、吉助が拓也の腕を掴んで止めた。
「待ってくれ、石島くん!君も上がってかないか?せっかくだから、君に旧友を紹介したいんだ!とってもいい奴だから!」
反社のトップと面会なんて、死んでも御免だった。
「いやいやいや!俺はここで…!」
全力で拒否していたところ、屋敷から聴き慣れた声がした。
「あれ~?たっくんじゃん!何で私の家に来てるの?それに…吉助兄ちゃんまで!!」
「え………?」
拓也は声の方へ振り向くと、そこにはシェアハウスにいるはずの真実が、カランコロンと下駄を鳴らし、屋敷から出てきた。
「おま…何で…!?」
「え、だってここ私の実家だし。」
「は…?」
拓也は屋敷の表札を見ると、そこには「如月」とあった。
「嘘…」
途端に全身の力が抜けた。拓也が呆然としているのを他所に、吉助は真実に再会のハグをかましていた。
「真実真実真実~!!!久しぶりだなぁ!!こんなに大きくなって!!元気だったかぁ?」
吉助は、一応年頃の女の子である真実に、なりふり構わず全力ハグをかましたあと、彼女の頬を両手で挟み、スリスリ撫で回した。真実はまるで、ヒマワリの種を頬張るハムスターのように、ぷっくりした顔になっている。
「ぐ…ぐぇんきだよ…きちしゅけにぃちゃん…」
頬をむにむに撫で回され、変な日本語になってしまっている。
「なかなか会いに来れなくてすまなかったなぁ!でもますます可愛くなって…!大きくなったら俺の嫁に来てもいいんだぞぉ?」
「しょれはむりだよ…きちしゅけにぃちゃん…」
「そうだぞ!我が妹を嫁に貰おうなんて、いくら吉助でも、この俺の厳しい審査を通らんと絶対に許さんぞ!」
吉助以上に快活でハッキリとした声が聞こえた。声の主は、真実の背後からニョキっと現れた忠由だった。吉助は忠由の姿を見ると真実の頬をパッと離した。
「た…忠由!!会いたかった!!」
吉助は今日一の笑顔を忠由に向けた。そして忠由とも全力のハグをした。
「吉助!よく来たな!会いたかったぞ!お前、今までどこにいたんだ?」
「俺は仕事で日本中あちこち飛び回っていたぞぉ!…そうそう!忠由に紹介したい子がいるんだ!」
吉助はそう言うと拓也をグイッと忠由の前へ出した。しかし忠由と拓也は、吉助の予想に反した反応をした。
「おお!石島くんじゃないか!久しぶりだな!」
「お…お久しぶりです。忠由さん。」
「え?!2人、知り合いだったのか?!」
吉助は目を点にして、2人の顔を交互に見た。忠由はそんな吉助を見て笑った。
「ああ!石島くんは、俺らの所有している土地に建っているシェアハウスに住んでもらっている子だ。」
「忠由さんには、引っ越しの時にお世話になりました。でもここが忠由さんのお住まいとは…。」
「そうだったのか!そんなこともあるんだなぁ…。」
世界の狭さに感心している吉助を、拓也が呼んだ。
「あの、鬼ヶ城さん。その…紹介したい旧友の方って…」
「ああ!忠由のことだ!」
「やっぱり…」
ということは、忠由が元暴走族の総長ということになる。拓也は改めて忠由の顔をまじまじと見た。忠由は本当に優しくて尊敬に値する人物ということは百も承知しているが、確かに体格は筋肉質でがっしりしているし、彼の性格上ムードメーカーで常に人の中心にいる存在だ。元暴走族の総長でもおかしくないのかもしれない。
「どうした?石島くん。俺の顔に何か付いているのか?」
拓也の視線に気づいた忠由が、自分の顔をペタペタ触った。
「あ、いえ!何も付いてないです。」
「そうだ、石島くん!もう外も暗いから今日はウチで夕飯食べていくといい。今日は政由特製お好み焼きだぞ。政由も大人数だと喜ぶからな!帰りは俺が真実と共に車で送っていくから、安心してくれ。」
「え、いいんですか?」
政由の作ったものは一度食べたことがあるが、正直言って高級レストランや敷居の高そうな料亭で出てくるものより美味しかった。拓也は忠由の提案に内心かなり舞い上がった。早速シェアハウスのグループメールに、夕飯はいらないということを伝えておいた。
「こんなところで何だ、さぁ中へ入ってくれ。真実、2人分夕飯追加の旨を政由に伝えといてくれないか?」
「りょーかい!」
真実は大好きな拓也とご飯を食べれるのが嬉しいのか、顔をニンマリさせて足取り軽く家の中へ入った。心なしか下駄の音も、彼女の心にリンクして軽快に聞こえる。
「はは、真実は小さい頃から変わらないなぁ!ちょこちょこと動くところがリスの様で愛らしい!」
「ふふん、可愛いだろう!我が自慢の妹だ!」
拓也は2人の会話を聞き、異議を唱えたかった。どちらかと言えば彼女は、虎かライオンか…といったところだ。吉助にとって真実は、血は繋がっていないものの妹のような存在であるため、2人とも重度のシスコンなのであった。1人の女の子に頬を赤く染めてデレデレとしているこの成人男性2人が、元暴走族の総長と副総長には全く見えず、拓也は返って安心したのだった。
それから拓也にとっては不思議な面子で夕飯を食べた後、政由と吉助に礼を言ってから真実と共に忠由の車に乗り込んだ。吉助は今晩、如月邸に泊まるらしい。忠由は吉助と二言くらい交えた後、運転席へ乗り込んだ。道中、拓也は吉助との出来事を思い出し、少し疲れたようにだらりと後部座席へもたれかかった。吉助の左手から現れた刀といい、女の子の幽霊といい、未だに夢かと思うほどの出来事だったが、どうやら現実のことらしい。
「たっくん疲れてんの?大丈夫?」
隣の座席に座った真実が、拓也の様子に気づいて声をかけて来た。
「ああ、少し疲れただけ。」
「あ~テスト終わったばっかだからね。今日はもうお風呂入って寝た方がいいよ。」
「…なぁ、真実。」
拓也は自分の心に残っているシコリを少しでも緩和させるべく、真実に一つだけ尋ねてみた。
「もしもの話なんだけど…全く知らない人がさ、事情はわからないけど、すごく悲しそうな顔をして自分のことを見ていたら…お前だったらどうする?」
突然どんな質問だとツッコミが入りそうなことを言ってしまったと、拓也は言った後に後悔し、「やっぱり聞かなかったことにしてくれ。」と言おうとした。しかし…
「事情を聞いて助ける…だな。できることなら何でもする。」
真実はそうハッキリ答えた。拓也は驚いた。真剣に答えてくれるとは思わなかったのだ。
「知らない人でもか?」
「うん、知らない人でも。だってその人は私に助けを求めてるんだろ?だったら助けなきゃな。だけど無闇矢鱈に助けたりはしない。依存されても困るし。」
「それって…どういうことだ?」
「その人が置かれている状況から救うんじゃなくて、その人の心を救うってことだよ。」
「そっか…なるほど…」
あの時、もし吉助がおらず自分1人だけだったとして、果たして女の子に出来ることなんてあったのだろうか…拓也はそう思った。彼女の抱えている事情を知ったところで、生きている自分に…しかも普段霊的なものなんて感じることさえ出来ない自分に、出来ることはあったのだろうか、と。
「ま、大層なこと言って、できることなんて限られてるけどね。で?たっくん、何かあったの?」
「え…」
まるで真実に自分の心を見透かされているようだった。しかし拓也は今日の出来事を真実に話したところで絶対に信じてもらえないと、開きかけた口を閉ざした。彼は真実が、吉助と同じ霊感があり能力使いであることを知らない。
「いやぁそんなこといきなり言われたら、誰だってそう思うだろ。」
「……。」
「何でも言ってよ。別に言いづらいことだったら、無理にとは言わねぇけどさ。」
拓也は少し迷った後、やはり今日の出来事を真実に言おうとしたその時、車はシェアハウスの前に到着した。
忠由は真実にお別れのハグをし(力が強すぎて真実は胃の中のお好み焼きを全て吐くかと思った)、「これからは1日1回連絡を入れてくれ!寂しくて死んでしまう!」と言い残し、颯爽と去っていった。
「吉助兄ちゃん、いい人だっただろ?」
シェアハウスの門を潜ろうとしている拓也に、真実がそう尋ねた。
「ああ、とてもいい人だったよ。元暴走族の副総長ってのは驚いたがな。忠由さんも元…」
「あ、忠由兄ちゃんの前で、その時の話しちゃダメだよ。本人の黒歴史らしいから。でもなぁ~まだ忠由兄ちゃんのグループが存続してたら、私が後継いで2代目総長になりたかったのにな~!残念。」
「え…そうなのか。」
これからは絶対外ではこのことを口に出さないと、拓也は決意した。そして門を潜ろうとしたその時、後ろから声がした。聞いたことのない声だった。
『芽衣も入っていい?』
2人は反射的に後ろを振り向くと、そこにはあの幽霊の女の子が立っていた。彼女のピンクのワンピースは怪我や泥で赤黒く染まっており、拓也は改めて身の毛もよだつ思いになった。拓也はあれほど吉助に「同情するな」と言われたのに、やはりズルズルと気にかけてしまったのか、どうやら彼女は拓也について来てしまったようだ。
「え…君…俺の後を追いかけて来たのか?」
女の子は拓也の言葉に頷いた。
『入っちゃだめ?』
真実は1歩前に出た。
「真実お前…あの子見えるのか?」
「うん。今まで言ってなくてごめん。ていうか、たっくんも見えるんだね。たっくんは私の後ろに下がってて。私が何とかしてあの世に返す。大丈夫、基本こっちから招かれないと家へは入ってこれないから。」
真実の言葉を聞いた瞬間、女の子は悲しい顔をした。拓也が忘れられないあの何かに縋るような表情だ。
『嫌だ。あっちにはまだ行きたくない。』
その言葉を聞いて、拓也は女の子の目の前まで出た。女の子の目線に合わせるようにしゃがんだ。
「たっくん…!」
真実は心配して呼んだが、拓也は右手を軽くあげて大丈夫という合図を送った。拓也は思った。幽霊だからって怖がったりすぐに追い払うのはやはり間違っている。真実の言う通り、助けを求めているのならば、出来るだけのことはしてあげたい…と。何も力のない自分が出来ることといえば…心から寄り添ってあげることしかない。
「ねぇ、どうして俺について行きたいのかな?」
拓也は優しい言葉で問いかけた。
『だってお兄さん、芽衣のお兄ちゃんに似てるから!それに学校にいる時も、家にいる時も、いつも優しい顔してたから。一緒にいると安心したし、芽衣の味方になってくれたらいいなって。芽衣の姿、みんなから見えないみたいだし。』
女の子は芽衣という名前のようだ。
「そんなんだ。芽衣ちゃんのお兄ちゃん、優しかったの?」
『うん!すっごく優しかったの!大好き!でもね、学校に行ったっきり帰って来なくなっちゃって…芽衣たくさん探したんだけど…。』
「帰って来なくなった…?」
どういうことなのだろうか。誘拐?事故?
「どうしてお兄ちゃんが帰って来なくなったのかわかる?」
芽衣は拓也の問いに首を横に振った。
『お兄ちゃん、最近怪我ばっかりして様子がおかしかったけど、まさかいなくなっちゃうなんて思わなかったの。どうして怪我してたのかはわからない。聞いても答えてくれなかった。お兄ちゃんがいなくって…芽衣探しに行ったんだけど、探してる途中で死んじゃった。』
「怪我ばかりしていた…?」
親に暴力でも振るわれていたのだろうか?次に真実が、芽衣に問いかけた。
「あのさ、どうして君は…その…死んじゃったのか…覚えてる?」
デリケートな内容だからか、真実は少し吃ってしまった。
『あんまり覚えてないけど…芽衣、お兄ちゃん見つけられなくて、悲しくて泣いていたの。でも外で泣くなんて恥ずかしいでしょ?下向いて歩いていたら、お兄ちゃんの靴が見えたの!慌ててそっちに行こうとして…そこから覚えてない…。』
恐らく芽衣は、靴に釣られて道に飛び出し、車か自転車に撥ねられてしまったのだろう。
「靴を見つけたの?ねえ、靴があった場所、覚えてる?」
誘拐の線が濃くなって来た。連れ去られた時に、靴が脱げたのかもしれない。
『うん!それは覚えているよ!』
「その場所、連れて行ってくれる?私たちも芽衣ちゃんのお兄ちゃん探し、手伝うよ。」
恐らく芽衣がこの世に留まる理由は、彼女の兄にある。彼女の兄の居場所さえわかれば、芽衣は心置きなくあの世に行けるかもしれない。
時刻は21時を過ぎている。本来なら未成年が外を出歩いていい時間ではないだろう。しかし芽衣を放っておいてシェアハウスに入るなんて出来なかった。2人は学校の荷物を玄関に置き、再び門を出て行った。
彼女が靴を見たという場所は、シェアハウスからさほど遠くなく、歩いて15分くらいの所にある、2級河川の堤防だった。時間も時間なので人もいない上に、電灯も少ししかないため、それがかえってかなり不気味だった。河の近くだからかとても肌寒く、なんとなく心もとない気持ちになる。拓也は携帯のライトをつけた。携帯の右上の表示は「圏外」だった。
「川…か。やっぱり事故か?あるいは…」
拓也は最悪の想像をした。事件に巻き込まれて、遺体を遺棄された場所ではないのかと。そう考えると背筋が凍った。
『靴…ここら辺にあったんだけど…。』
芽衣は川に掛かっている橋の真ん中で立ち止まった。その橋は自転車や歩行者が通る用の小さい橋で、車が通れるようなものではなかった。橋の下を見ると、轟々と音を立てて水が力強く流れている。
『芽衣、橋のあっち側で死んじゃったんだ。』
そう言って彼女が指差したのは、3人が来た道とは逆側の道路だった。拓也は彼女が指差した方にライトを向けた。暗くてよく見えないが、確かに花が添えてある。
「靴、まだある?」
拓也が芽衣に尋ねると、彼女は嬉しそうな声で『あった!ほら!』と言い、靴を拓也に見せてきた。それは青い運動靴だった。しかしかなりボロボロで、どうしてこんなものを履いていたのだろうかというくらいの状態のものだった。拓也はライトを当てて靴をよく見てみると、何かが書かれてあるのに気づいた。
「ん?何だ?すごく掠れててよく見えないけど…。」
その場にしゃがみ、ライトを当てていろんな角度から見てみた。すると書いてある文字が漸く認識でき、その内容に拓也は絶句した。そして同時にわかってしまった。彼女の兄が怪我ばっかりしていた理由も、死んでしまった理由も。
「『死ね』って書かれてるな。」
拓也の心を代弁したかのように、真実が冷たくそう言った。拓也は手が震えて靴を落としてしまった。
芽衣は知らなかった。自分の兄が虐められていたことを。彼が心配させまいと、必死に隠していたからだった。こんな悲しくて苦しいこと、妹には知ってほしくなかったのだ。父に相談しようとしても「仕事で疲れているから後で」と一蹴られ、母は病気がちでいつも病院にいた。学校の先生は全く頼りにならなさそうな人で、生徒からいつもバカにされては、ずっと辛そうに笑っていた。いじめの主犯からは「周りにチクったらお前の裸の写真SNSに載せるからな。」と脅された。そんなわけで、彼の事情を知ってくれる人は1人もいなかったのである。そして彼の心は順調に壊れていき、とうとうその時が来てしまったのであった。
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よく耐えた方だよ俺は。同じクラスになって1年間、よく耐えてきた。いい加減もう自由になってもいいだろう。俺の人生はここで終わるけど、始まりでもあるんだ。彼は堤防の橋の上に立ち、下を見た。水が轟々と流れている。ここから落ちれば確実に死ねるだろう。彼は靴を脱いで傷だらけの足をかけると、橋の手すりに座った。すると一気に恐怖が襲ってきた。下を見るから怖くなるんだ、上を向いて落ち着こう。呼吸が荒くなる。心臓がうるさい。自然と涙が溢れ出し止まらない。彼の涙で腫れた瞳は、雲一つない空を映し出していた。
(俺が死んで、悲しむ人はいるのだろうか。)
そう思った瞬間、少し強い風が吹き、彼の背中を押した。何者かが、彼の背中を押したみたいだった。
「あ。」
手を滑らせ、気づいた時には身体は宙に浮いており、そして川に吸い込まれていくように落ちていった。その時、彼の脳裏に浮かんだものは、父でもなく彼をいじめていた輩でもなく…
(芽衣……)
最愛の妹の笑顔だった。
「全く棗は何をやっているんだ!いくら勉強が嫌だからって学校をサボるとはふざけている!」
仕事に追われ常に忙しい芽衣の父親が、顔を怒りで真っ赤に染めながら帰ってきた。午後の1時のことだった。学校から「いつまで経っても棗くんが登校してこない」という連絡が入り、仕事を一旦切り上げて、急いで帰ってきたのだ。その日芽衣は風邪で学校を休み、リビングで寝ていたのだが、父親の大きな足音で目が覚めてしまった。
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「おい!!」
父は勢いよく棗の部屋のドアを開けた。しかしそこには誰もいなかった。父は1階に降りてきた。
「芽衣、お兄ちゃんどこにいる?」
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「え、その後帰ってきただろう?」
「ううん。帰ってきてないよ。」
「どういうことだ…?外でブラブラしてるのか?」
その時、家の電話が鳴り響いた。父が慌てて電話を取る。
「はい…そうですけど………は?」
何を話しているのだろう、芽衣にはわからなかった。とにかく父は電話で誰かと話しながら、どんどん顔色が悪くなっていった。それだけはわかった。
「嘘だ…そんなわけない!!……わかりました。今すぐ行きます。はい。」
父は震える手で電話を切ると、心配する芽衣を無視して家を飛び出してしまった。
(お兄ちゃんがいなくなっちゃった!!探さなくっちゃ!!)
芽衣は大きな不安に駆られ、熱で重い身体を無理やり動かし外へ出ようとした。
「あ、いけない。外だから着替えなくちゃ。」
彼女はお気に入りのピンクのワンピースをクローゼットから引っ張り出し、よれたパジャマを脱ぎ捨てると、急いで着替えて外へ飛び出した。
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『本当にご迷惑おかけしました。芽衣をここまで連れてきてくださってありがとうございます。』
拓也と真実は見上げると、芽衣の隣に男の子が立っていた。拓也と髪型も顔立ちもそっくりな男の子だ。しっかりと芽衣の手を握っている。
『棗お兄ちゃん!!』
芽衣は自分の兄に思いっきり抱きついた。
『ずっと探してたんだよ!!どこに行ってたの?!』
『ごめんな、芽衣。』
彼は芽衣の頭を優しく撫でた。芽衣は涙を流して兄の胸な顔を擦り付けた。
「き…君は…」
拓也の声は震えていた。
『はい。芽衣の兄の棗です。この度は本当にありがとうございました。』
棗は頭を深く下げた。
「いや…それより今、俺の頭に流れてきたものって…」
拓也は芽衣と同じようにやんわりと棗にも接した。拓也にはそれだけ棗もまだ小さい男の子に見えた。そうには思えないほど、彼は大人びていたが。
『はい。俺たちの記憶です。とは言っても芽衣自身、あまり覚えていないかと思います。実のところ、俺はこの世に未練はありません。あの日から家族は、毎日俺たちのことを思って泣いてくれていますし、ここにお参りに来た父さんからは、俺を虐めていた奴とその家族とは、法廷で徹底的に戦うと言ってくれましたから…。しかし芽衣の未練は俺自身です。まだ死んでから2週間あまりしか経っていないので、ずっと俺を探して彷徨っていたんだと思います。ですがあなた方のようないい人に見つけてもらえて本当によかった。こうしてまた会えました。今ここは、俺が空間を歪ませています。ここは俺の領域です。なので、俺と芽衣が持っている記憶をあなた方の脳内に流させていただきました。そこの女性の方はもうご存知かと思いますが…。』
棗は真実を見てそう言った。
「え…。真実お前、知ってたのか?」
「あぁ…まぁ。携帯圏外になってるし。それに…靴も無くなってるし。」
「あれ、本当だ…。」
拓也の手の中にあったはずの青い運動靴は、いつの間にか消えていた。それに携帯が圏外になっているということは…。あの時、いつまで経っても如月家に辿り着けなかったのは、芽衣の領域を彷徨っていたからだった。拓也はようやく腑に落ちた。
『これで安心してここから去れます。』
棗は心から嬉しそうに、微笑んだ。しかしその笑顔を見て、拓也は顔を歪ませた。
「でも…でも!君たちは死ぬべき人ではなかった!悪いことなんて何もしていないし、第一君たちは俺よりまだ小さいじゃないか!いろんな可能性があったのに…どうして…どうして踏み躙られなければいけなかったんだ…」
拓也はそう言いながら大粒の涙をボロボロ流した。声が震えて上手く喋れない。先程の記憶があまりにも悲しすぎて、やり切れない感情が抑えきれなくなった。
「まだここに残りたいって思ってくれ…。もっと沢山やりたいことがあったって思ってくれよ…。」
『ありがとうございます。本当に優しい方なんですね。見ず知らずの俺たちをそこまで想ってくれるなんて。』
棗は拓也の右手をそっと握った。棗の手は透けており、手を握られている感覚は感じられなかった。しかし拓也は、棗に握られているところが不思議と温かく感じた。
『でもいいんです。俺、この橋から落ちた時…自分の将来への後悔とか、虐めていた奴への復讐心とか…そういうのは全く思い浮かばなかったんです。むしろ芽衣のことしか思い浮かびませんでした。結局俺は、彼女を置いていってしまったこと後悔したんです。ですが最後の最後にこうして会えました。芽衣が死んでしまったのは残念ですけど…。唯一の希望だった芽衣がいるので、俺はもう大丈夫です。』
『芽衣も!』
芽衣は満面の笑みでそう言うと、兄の腕をぎゅっと絡ませた。彼女の顔は傷だらけだったが、天使のように愛らしかった。彼らにとって、今が最高の幸せなのである。
「そうか…。」
拓也はこれ以上何も言えなかった。溢れてくる涙を拭うことで精一杯だった。
棗と芽衣が消えると、携帯は5Gの表示に戻り、止まっていた空気が流れ出した。それまで夜の堤防であるというのに、風を全く感じなかったのである。
「行ってしまったのか…。」
拓也は夜空を見上げて、消えそうな声でそう言った。曇っていて星はあまり見えなかった。
「たっくん、帰ろう。さすがにみんなが心配してる。電波が届いた瞬間、メールがえげつない程届いた。」
真実が自身の携帯を拓也に見せると、「クソ野郎」という名のアカウントから20件ほどメールが届いていた。おそらく海のことである。メールの内容は、「おいクソ真実、どこほっつき歩いてるんだ」とか「今何時だと思ってるんだ!」とか、とにかく罵倒と怒りのメールだったが、最後の数件は「頼むから返信しろ」など本気で心配しているような内容だった。拓也の方にも瑠加などのシェアハウスのメンバーから、たくさんメールが来ていた。
「そうだな。帰ろう。…なぁ、真実。」
「ん?」
「俺さ、おそらく鬼ヶ城さんと一緒にいる時に芽衣ちゃんと会ったから、彼女と棗くんのことが見えたんだと思う。俺、本当は霊感なんて全くないんだ。」
「え!じゃあ吉助兄ちゃんすんごい強い霊感があるってことか。」
「ああ。しかも能力使いだとか言ってたぞ。光る刀を手から出していた。自分が見たことある武器ならなんでも出せるんだと。夢みたいな話なんだが…俺は今日この目で見たんだ。マジで手から刀出してた。お前は能力使いの存在知ってたか?」
「あ~うん。まぁね。」
真実は適当に返事をした。霊感のない拓也をこれ以上能力使いと接触させたくなかった。能力は霊的なものにも有効に使えるが、生きている人間にも使えてしまう。要は、危険な思想や考えを持っている人間が能力使いであれば、ありとあらゆる人間にいとも容易く危害を加えることができるのだ。最悪の場合殺すこともできてしまう。真実は拓也がその可能性に巻き込まれてしまうのを、少しでも防ぎたかった。理由はただ一つ。大好きな人だからである。
「さてと、帰るか、真実。」
拓也は泣きすぎて充血し真っ赤になっている目擦りながら真実にそう言った。鼻もすすって、花粉症で苦しんでいる人のようである。そんな拓也を、真実はどうしようもなく愛おしいと思った。なので顔を赤らめてヘラっと笑った。
「やっぱりたっくん好きになってよかった。」
「お前なぁ…俺のこと口説いてんなら無駄だからやめた方がいいぞ。」
「え~たっくん厳しー!」
真実は思ったことをそのまま口にしただけだった。自分と関係ない他人のことを、心から心配し、自分のことのように考えられる清らかな心の持ち主を好きになってよかったと、そう思ったのだ。
忠由は、真実と拓也を彼らの住むシェアハウスに送り届けた後、車内で吉助から言われた言葉を頭の中で反芻していた。彼らを送る為に家を出ようとした際、吉助から言われた言葉だ。
「真実に気をつけろ。理由はまだ言えないが、とにかく目を離すな。今一緒に住んでないなら、逐一連絡を入れさせるように。」
どういうことなのだろうか。吉助のこう言った「嫌な予感」というのは、昔から絶対当たるのだ。忠由は不安で重くなった頭を軽くするためコンビニに寄ると、グループを解散させた時に辞めたはずのタバコを買い1本吸った。彼の吐いた白い煙が、曇った夜空に溶けて消えていく。
「は~また政由に怒られるな。」
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この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
意味が分かると怖い話(解説付き)
彦彦炎
ホラー
一見普通のよくある話ですが、矛盾に気づけばゾッとするはずです
読みながら話に潜む違和感を探してみてください
最後に解説も載せていますので、是非読んでみてください
実話も混ざっております
同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。
ピコサイクス
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※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
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