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序章1
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白の都サンヴェロナの酒場通りの一角、「鉄の胃袋亭」は今日も昼間から大盛況。その喧噪の中で特に目立っているのは、中央の卓で豪快に飲み明かしている、猫のような耳をした獣人の娘と、その知り合いと思しき数人の学生達。
「今日はじゃんじゃん飲むぞー! 追加のお酒頼みまーす!!」
「良いぞ! それでこそだ!!」
彼女達は、今日が期限の課題を終わらせた達成感で大いに浮かれているが、まだやるべき用事が一つ残っている事を、すっかり忘れてしまっている。
「いやあー! 何もやる事が無いって、最高だね!!」
それを思い出した時に始まる阿鼻叫喚の地獄絵図について語る前に、今ここに至るまでの少しだけ長い、ある若者達の物語を記しておきたい。
まずは、まだ彼女達がお互いを知らなかった頃まで遡る。
◇
僅かな残雪と新緑で彩られた東の山脈の尾根から、一日の始まりを告げる朝陽が顔を覗かせようとしている頃。既に町の人々はその手足を慌ただしく働かせ始めていた。
ハルメール王国西部の国境付近、険しい山脈の裾に点在する町の一つ、コギの町は鉱山や炭鉱の採掘業と、そこで得られる豊富な資源から作られる武具や鉄器が有名だ。
規模は決して大きくないものの、一帯の産業や生活を支える重要な土地として知られていた。
目覚めた商人達の馬車が行き交い、混雑し始めたメイン通りを、大きなバスケットを両手にぶら下げて駆ける影が一つ。
彼女はその体に対して随分と大きな荷物を持ちながら、猫のような軽やかさで走っている。
走る様子だけがそう思わせるのでは無く、フード付きの外套の下には猫の耳や尾のようなものが実際に付いている。跳躍するたびに、それらが稲妻のような青白い光を帯びる。
彼女はウェアキャットと呼ばれる種族で、その多くは遥か東の国にいると言われているが、詳しい事を知る人は身近には居ない。
この地域では獣人や精霊などの所謂亜人族が珍しく、特に希少なウェアキャットなど彼女自身、他に見かけたことは無かった。
中央通りを外れて、煙と熱気が渦巻く工房街へと入って行き、その中でもひと際大きな音が響く建物の扉を力を込めて叩く。
「親父さーん! 朝食だよー!」
金属を叩く音に負けないぐらい、大きな声で工房の主を呼ぶ。
すると、中からは先程よりも大きい槌の音と共に、「おう」という野太い声が返ってきた。
しばらくして、扉が開かれ髭面のドワーフが姿を現す。彼はこの工房の主であり、この町では珍しい亜人種の一人だ。
「レレちゃん、いつも悪いな」
「お礼なら後でパルマおばさんに言っておいて。今日はね、良い燻製肉が手に入ったから野菜と一緒にサンドしてくれたよ」
「良い香りだ。やはり飯は肉に限る」
「お野菜だけ残したりしないでね」
「へっ、余計なお世話だ」
「はい、あと胃薬」
「おっと、こいつも忘れたらいけねえ。レレちゃんの薬は良く効くからな」
レレと呼ばれた娘は料理と薬の代金を受け取ると、急いで次の届け先へと駆け出した。
日が昇るにつれて人通りはどんどんと増え始め、工房街の狭い路地も走るには少し混雑してきた。
「みんな本当に早起きだなあ……」
レレ自身は朝にはめっぽう弱く、育ての親である宿屋のパルマに叩き起こされるのが日課となっている。
「また怒られそうだけど……よっと!」
路地横に積まれた木箱、建物の窓枠、看板のポールと次々に飛び移って屋根の上に登った。
視界がぶわりと広がって、朝の冷たく気持ちの良い風が吹き抜けてフードを剥ぎ取った。その下から小麦色の瑞々しい肌と、春過ぎの新しい葉のような、鮮やかな緑色が混じった黒い髪が露わになった。
「やっぱりこっちの方が楽だし、気持ちが良いよね」
音が響かないようにふわりと隣の建物へ跳んでは、また次へと移っていく。
その様子に気が付いた通行人は「やれやれまたか」と呆れるのだった。
バスケットの中が空になり、宿屋に戻ろうとした時、どこからともなく現れた三人がレレの行く手を阻んだ。その様子を見て、レレは心底面倒くさそうに顔をしかめた。
フードを目深に被り直して、男達を睨みつける。
「何か用? 私はもうおばさんの所に戻らないと駄目なんだけれど」
「いや、暇そうだったから構ってやろうかなってね」
三人のリーダー的存在で、細身で背の高い「ノッポ」がにやけ顔で歩み寄ってくる。
「だから、まだ仕事の帰り途中なの!」
「帰りって事は用事は済んだ訳だろ?」
「なんだよ、付き合い悪いぞ」
取り巻きの「チビ」と「メガネ」もノッポに続いてレレに絡み始める。
「別に元々仲良くないじゃん!」
日曜学校以来の顔見知りだが、当時からレレの容姿や出自をからかうような発言が多く、なるべく関わらないようにしてきた。
時間の無駄だと感じ、踵を返してその場を去ろうとする。
しかし、それを面白くないと感じたのか、語気に苛立ちが混じり始める。
「おい、人付き合いは大事にしろよ。人間「もどき」のケダモノ女には難しいかもしれないけどよ」
「ははっ、違いない!」
嘲る声に対して「バチリ」という音と共に、外套の下の耳や尾の毛が逆立つ。
三人組はその事に気が付かないままに好き勝手な事を言い続けている。
「あのな、話しかけられるだけありがたいと思えよ」
「そうそう。獣臭くって普通なら避けるところを、俺たちはわざわざ構ってやっているんだ」
一度は固く握った拳の力を溜息と共に緩めて、次こそ路地から走り去った。
背後からはまだ何か言っているようだったが、それも次第に聞こえなくなった。
「はあ……もう何年もずっと、よく飽きないんだから……」
この地域では亜人種が珍しい分、好奇の目で見られることも少なくない。
三人組のような露骨な差別発言は殆ど無いが、町の人々との距離を感じる事が少なくない。
今日の配達でも、レレの目を見て会話をしてくれた人が何人いただろうか。
レレはもやもやと渦巻く気持ちを切り替えようと大きく深呼吸をし、再び大通りを抜けて宿へと戻った。
「おばさん、ただいま!」
「おかえりレレ。いつもより少し時間がかかったんじゃないかい」
「西区の三馬鹿に、ちょっとね」
「また奴らかい。たまにはレレも強く言い返してやりなさい」
「ああいうのは構ってあげると逆効果なの」
配達に使ったバスケットを扉の手前に積んで、そのまま厨房へと入る。
朝食の残りを皿に盛り付けて調理台で食べようとしたところ、パルマが食堂に行くように促した。
「もう今日は宿泊のお客さんはいないから、適当な席で食べな」
「あれ、学者か何か、男二人で泊っている人がいなかった?」
「そうそう、その事でお願いがあってね」
エプロンを畳みながらパルマも厨房を一緒に出る。
二人組の内の年輩の男は、コギの町から馬車で二週間程かかるルーブラン領のバリエンストン学院の講師だという。
バリエンストン学院は特に魔術研究が有名で、著名な魔術師を多く輩出し、論文の執筆数も大陸の中でトップを争う程だ。
そのため国内の各地からだけでなく、国外からも多くの学者や学生が集う。
「そんな偉い学者様が、何でこんなド田舎に?」
「鉱山の方に用があるみたいだよ。何でも錬金とか薬学の専門らしくてね。実験に使う素材を探しているのだとか」
「薬学、かあ……」
レレは熱々のトマトスープをちびりと舐めながら、昨晩見かけた学者の姿を思い出す。
ブロンズの長い髪を後ろで束ね、大きな丸眼鏡をかけた細身の男が講師だろう。
もう一人はレレと歳は然程違わないように見えたので、若い学生だろうか。アッシュグレーの髪と深いブルーの瞳は綺麗だったが、その目つきは悪く、腰には騎士が持つような剣が差してあった。
「わざわざ自分で採取とは、学者っていうのも大変なんだなあ」
「あんただって、たまにやっているでしょうに」
「私のは趣味だもん」
指でくるくると髪を弄りながら、スープから掬って冷ましておいた豆を口に運ぶ。
「それで、本題なのだけれど。あの先生達に昼食を持って行って欲しいのさ。あんたが起きるよりもずっと早く出て行ってしまったから、朝の提供が間に合わなくてね」
そんな事だろうと思っていたレレは「はあい」と気の無い返事をしつつ、食事を続けた。
「じゃあお昼までは寝てても良い?」
「馬鹿言ってんじゃないよ。洗濯物を片付けてからにしな」
それもまた分かっていたため、また「はあい」とだけ返事をする。
「あ、腰痛の薬、ここに置いておくね」
少し眠そうな獣人の娘は手製の薬をカウンターに置き、スープを冷ます作業へと戻った。
「今日はじゃんじゃん飲むぞー! 追加のお酒頼みまーす!!」
「良いぞ! それでこそだ!!」
彼女達は、今日が期限の課題を終わらせた達成感で大いに浮かれているが、まだやるべき用事が一つ残っている事を、すっかり忘れてしまっている。
「いやあー! 何もやる事が無いって、最高だね!!」
それを思い出した時に始まる阿鼻叫喚の地獄絵図について語る前に、今ここに至るまでの少しだけ長い、ある若者達の物語を記しておきたい。
まずは、まだ彼女達がお互いを知らなかった頃まで遡る。
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僅かな残雪と新緑で彩られた東の山脈の尾根から、一日の始まりを告げる朝陽が顔を覗かせようとしている頃。既に町の人々はその手足を慌ただしく働かせ始めていた。
ハルメール王国西部の国境付近、険しい山脈の裾に点在する町の一つ、コギの町は鉱山や炭鉱の採掘業と、そこで得られる豊富な資源から作られる武具や鉄器が有名だ。
規模は決して大きくないものの、一帯の産業や生活を支える重要な土地として知られていた。
目覚めた商人達の馬車が行き交い、混雑し始めたメイン通りを、大きなバスケットを両手にぶら下げて駆ける影が一つ。
彼女はその体に対して随分と大きな荷物を持ちながら、猫のような軽やかさで走っている。
走る様子だけがそう思わせるのでは無く、フード付きの外套の下には猫の耳や尾のようなものが実際に付いている。跳躍するたびに、それらが稲妻のような青白い光を帯びる。
彼女はウェアキャットと呼ばれる種族で、その多くは遥か東の国にいると言われているが、詳しい事を知る人は身近には居ない。
この地域では獣人や精霊などの所謂亜人族が珍しく、特に希少なウェアキャットなど彼女自身、他に見かけたことは無かった。
中央通りを外れて、煙と熱気が渦巻く工房街へと入って行き、その中でもひと際大きな音が響く建物の扉を力を込めて叩く。
「親父さーん! 朝食だよー!」
金属を叩く音に負けないぐらい、大きな声で工房の主を呼ぶ。
すると、中からは先程よりも大きい槌の音と共に、「おう」という野太い声が返ってきた。
しばらくして、扉が開かれ髭面のドワーフが姿を現す。彼はこの工房の主であり、この町では珍しい亜人種の一人だ。
「レレちゃん、いつも悪いな」
「お礼なら後でパルマおばさんに言っておいて。今日はね、良い燻製肉が手に入ったから野菜と一緒にサンドしてくれたよ」
「良い香りだ。やはり飯は肉に限る」
「お野菜だけ残したりしないでね」
「へっ、余計なお世話だ」
「はい、あと胃薬」
「おっと、こいつも忘れたらいけねえ。レレちゃんの薬は良く効くからな」
レレと呼ばれた娘は料理と薬の代金を受け取ると、急いで次の届け先へと駆け出した。
日が昇るにつれて人通りはどんどんと増え始め、工房街の狭い路地も走るには少し混雑してきた。
「みんな本当に早起きだなあ……」
レレ自身は朝にはめっぽう弱く、育ての親である宿屋のパルマに叩き起こされるのが日課となっている。
「また怒られそうだけど……よっと!」
路地横に積まれた木箱、建物の窓枠、看板のポールと次々に飛び移って屋根の上に登った。
視界がぶわりと広がって、朝の冷たく気持ちの良い風が吹き抜けてフードを剥ぎ取った。その下から小麦色の瑞々しい肌と、春過ぎの新しい葉のような、鮮やかな緑色が混じった黒い髪が露わになった。
「やっぱりこっちの方が楽だし、気持ちが良いよね」
音が響かないようにふわりと隣の建物へ跳んでは、また次へと移っていく。
その様子に気が付いた通行人は「やれやれまたか」と呆れるのだった。
バスケットの中が空になり、宿屋に戻ろうとした時、どこからともなく現れた三人がレレの行く手を阻んだ。その様子を見て、レレは心底面倒くさそうに顔をしかめた。
フードを目深に被り直して、男達を睨みつける。
「何か用? 私はもうおばさんの所に戻らないと駄目なんだけれど」
「いや、暇そうだったから構ってやろうかなってね」
三人のリーダー的存在で、細身で背の高い「ノッポ」がにやけ顔で歩み寄ってくる。
「だから、まだ仕事の帰り途中なの!」
「帰りって事は用事は済んだ訳だろ?」
「なんだよ、付き合い悪いぞ」
取り巻きの「チビ」と「メガネ」もノッポに続いてレレに絡み始める。
「別に元々仲良くないじゃん!」
日曜学校以来の顔見知りだが、当時からレレの容姿や出自をからかうような発言が多く、なるべく関わらないようにしてきた。
時間の無駄だと感じ、踵を返してその場を去ろうとする。
しかし、それを面白くないと感じたのか、語気に苛立ちが混じり始める。
「おい、人付き合いは大事にしろよ。人間「もどき」のケダモノ女には難しいかもしれないけどよ」
「ははっ、違いない!」
嘲る声に対して「バチリ」という音と共に、外套の下の耳や尾の毛が逆立つ。
三人組はその事に気が付かないままに好き勝手な事を言い続けている。
「あのな、話しかけられるだけありがたいと思えよ」
「そうそう。獣臭くって普通なら避けるところを、俺たちはわざわざ構ってやっているんだ」
一度は固く握った拳の力を溜息と共に緩めて、次こそ路地から走り去った。
背後からはまだ何か言っているようだったが、それも次第に聞こえなくなった。
「はあ……もう何年もずっと、よく飽きないんだから……」
この地域では亜人種が珍しい分、好奇の目で見られることも少なくない。
三人組のような露骨な差別発言は殆ど無いが、町の人々との距離を感じる事が少なくない。
今日の配達でも、レレの目を見て会話をしてくれた人が何人いただろうか。
レレはもやもやと渦巻く気持ちを切り替えようと大きく深呼吸をし、再び大通りを抜けて宿へと戻った。
「おばさん、ただいま!」
「おかえりレレ。いつもより少し時間がかかったんじゃないかい」
「西区の三馬鹿に、ちょっとね」
「また奴らかい。たまにはレレも強く言い返してやりなさい」
「ああいうのは構ってあげると逆効果なの」
配達に使ったバスケットを扉の手前に積んで、そのまま厨房へと入る。
朝食の残りを皿に盛り付けて調理台で食べようとしたところ、パルマが食堂に行くように促した。
「もう今日は宿泊のお客さんはいないから、適当な席で食べな」
「あれ、学者か何か、男二人で泊っている人がいなかった?」
「そうそう、その事でお願いがあってね」
エプロンを畳みながらパルマも厨房を一緒に出る。
二人組の内の年輩の男は、コギの町から馬車で二週間程かかるルーブラン領のバリエンストン学院の講師だという。
バリエンストン学院は特に魔術研究が有名で、著名な魔術師を多く輩出し、論文の執筆数も大陸の中でトップを争う程だ。
そのため国内の各地からだけでなく、国外からも多くの学者や学生が集う。
「そんな偉い学者様が、何でこんなド田舎に?」
「鉱山の方に用があるみたいだよ。何でも錬金とか薬学の専門らしくてね。実験に使う素材を探しているのだとか」
「薬学、かあ……」
レレは熱々のトマトスープをちびりと舐めながら、昨晩見かけた学者の姿を思い出す。
ブロンズの長い髪を後ろで束ね、大きな丸眼鏡をかけた細身の男が講師だろう。
もう一人はレレと歳は然程違わないように見えたので、若い学生だろうか。アッシュグレーの髪と深いブルーの瞳は綺麗だったが、その目つきは悪く、腰には騎士が持つような剣が差してあった。
「わざわざ自分で採取とは、学者っていうのも大変なんだなあ」
「あんただって、たまにやっているでしょうに」
「私のは趣味だもん」
指でくるくると髪を弄りながら、スープから掬って冷ましておいた豆を口に運ぶ。
「それで、本題なのだけれど。あの先生達に昼食を持って行って欲しいのさ。あんたが起きるよりもずっと早く出て行ってしまったから、朝の提供が間に合わなくてね」
そんな事だろうと思っていたレレは「はあい」と気の無い返事をしつつ、食事を続けた。
「じゃあお昼までは寝てても良い?」
「馬鹿言ってんじゃないよ。洗濯物を片付けてからにしな」
それもまた分かっていたため、また「はあい」とだけ返事をする。
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