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第27話 ー心臓(コア)の間ー ~白と黒の守人~
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石の匂いが、呼吸の奥で冷たく鳴った。
紅の試練を越えた台座が止まり、静止と同時に、耳のどこかで見えない鐘がひとつだけ鳴る。余韻は甘く、けれど刃のように細い。ここが“門の内側”――魔王城の心臓(コア)へつながる前室だと、肌が先に理解した。
足もとに描かれた星図は、淡い蒼の線で呼吸している。線は脈動に合わせて淡く濃くなり、胸の鼓動をなぞるように揺れた。線の交点には小さな円柱が三つ。触れれば何かが始まる、そんな気配がある。
リアナが矢筒を直し、細く息を吐いた。
「……空気が違う。ここまでの甘さが引いて、代わりに、冷たい手で喉を押さえる感じ」
セレーナは台座の縁に指先を滑らせる。
「名の鍵は通った。次は“心核への適合”。理性と欲望、意志と恐れ――向き合い方を試されるはずよ」
リリィナが苦笑する。
「向き合い方、ね……レイジ、こういうのはだいたい痛くて長いから、先に飴ちゃんちょうだい?」
レイジは小さく笑い、三つの円柱を順に見た。
「甘いのは持ってない。代わりに、すぐ終わらせる」
最も手前の円柱に掌を置いた瞬間、床の星図が一斉に点灯した。光が線を伝い、弧を走って壁の鏡へ移る。鏡面は水のように揺れ、そこに映ったのは――自分たち、ではない。
白い部屋。白い床。白い椅子が四脚。
そこに座っているのは、白い衣を纏った四人の“自分たち”。ただし、どの顔にも感情がない。目だけが澄み、何も映していない。
リアナが眉を寄せた。
「白……鎮静の試験?」
セレーナが頷く。
「きっと、過剰な揺れを抑える儀。ここで心拍を落とせなければ、次で堕ちる」
レイジは鏡の前に立ち、白い自分の椅子に腰を下ろした。鏡越しに背が合わさり、座面が冷たく鳴る。同時に、耳の奥で無音の拍子が始まった。四で吸って、六で吐く――昨日、双環の廊でやったあのリズムだ。
胸の中の熱が、ゆっくりと透明に薄まる。
視界の端では、白のリアナたちも同じ動作を繰り返し、波が揃うたび、鏡の白が一段ずつ淡くなる。白はやがて“余白”になり、余白は静けさを呼ぶ。
最初の円柱が、かちりと鳴って沈んだ。
鏡の白が割れ、反対側に“黒”が立つ。黒は布のようで布ではなく、月影の濃度だけを集めたような、重い闇だ。その中心に、面をつけた“守人”が現れた。面は能面にも似て、口元は笑っても泣いてもいない。
リリィナが小声で囁く。
「……でた。黒のほう」
守人は剣を抜かない。代わりに、掌をこちらへ向けた。温度のない風が走る。喉の奥に、甘さがほんの一滴落ちる――香り、記憶、憧憬。心が反応しかけた瞬間、白の椅子の冷たさが首筋をつねるように、過剰を押しとどめた。
セレーナが素早く判断する。
「白で落とし、黒で立たせる。交互に往復して均衡を作れ、ということね」
レイジは二本目の円柱に触れた。星図が反転し、今度は黒の線が走る。鏡の中、黒の守人が面を横に傾け、掌を少しだけ下げた。妙なことに、ほんのわずか“敬意”を含んだ動作に見えた。
黒の風が強まる。今度は甘さではなく、渇き――願いに手が届かない時の、胸の奥が擦れるような渇きだ。白だけでは埋められないし、黒だけでも壊れてしまう。だから二つは対であり、門は二重だ。
リアナが弦に指をかけ、呼吸を合わせる。
「レイジ、波を作る。わたしたちが縁を守る」
レイジは頷き、白と黒の間を歩くことにした。
目を閉じる。白の椅子の冷えをひと口。黒の風の渇きをひと口。甘さは薄く、痛みは短く。欲は抑えず、抑圧もしない。波の頂点で、ほんの指先ほど熱を残し、谷でしっかり冷やす。たゆたうように、けれど逸れないように。
面の奥の視線がわずかに揺れた。
均衡――“いまの自分”が、門の尺度を満たしたという合図だ。
かちり。二本目の円柱が落ちる。
最後の一本に手を伸ばす前に、黒の守人が動いた。面の口が初めて開く。声は低く、石の隙間から風が通るような音だ。
「名を、もう一度」
レイジは迷わなかった。
「護るために、壊す者」
面がわずかに頷いた。
黒い風がほどけ、鏡の縁に細い銀色が差す。白と黒の間に、一本の“道”が生まれる。息を呑むほど細く、しかし確かに、奥へと伸びている。最後の円柱に指が触れた。
心臓(コア)への扉が、音もなく開いた。
扉の先は、広大なのに音のない空間だった。
天井は見えず、壁は輪郭を持たない。けれど床だけは確かで、滑らかな黒石が心臓の鼓動に合わせて微かに脈打っている。中央に、糸のように細い銀の道。左右は底知れない闇で、寄りかかる壁も、掴める支点もない。
リアナが息をのみ、弓を横に倒した。
「落ち着いて歩けば渡れる……はず。けど、これは視線ひとつで転ぶ類いの橋ね」
セレーナは道の縁に指先をかざし、静かに言う。
「ここは人格の試験。過去と未来、願いと恐れ――均衡を崩せば、道は消えるわ」
リリィナは首をすくめ、レイジの袖をちょいと摘む。
「じゃ、真ん中歩くのはレイジ。私たちは風よけと拍子取り。落ちそうになったら、声で掴ませる」
レイジは頷き、銀の道へ片足を載せた。靴底が吸い付く感触。二歩、三歩。呼吸は四で吸い、六で吐く――白と黒で整えた波をそのまま足裏に落とし込む。肩の高さを一定に保ち、視線は遠く、足下は端で見る。
闇の奥が、ゆっくり色づいた。
淡い金の髪、笑う口元、夏の匂い。青年の肩越しに、白い手が伸びる――過去の景(かげ)だ。転生前、もう触れられない世界の断片。指先は温度を持ち、声は耳の奥をくすぐる。
“戻っておいで”
胸がきゅっと縮んだ。足がわずかに泳ぐ。だが、背中からリアナの声が飛ぶ。
「視線、遠く。吸って四、吐いて六。はい、もう一回」
レイジは吐息を長く伸ばす。肩が沈み、足の裏に重みが戻る。金の影は霧散せず、ただ距離を取った。今度は逆側、闇の底で紅が揺れる。玉座。艶やかな横顔。魔王の視線が、嗤いも慈しみもせず、ただ測る。そこに欲望も憎しみも投げ込める。投げ込んだ分だけ、均衡は壊れる。
セレーナの声が重なる。
「過去に手を伸ばさない。未来に身を投げない。今を踏むの」
銀の道が一瞬だけ広がり、また元の細さに戻る。レイジは歩を止めない。すぐ前方、黒い霧が形になりかけ、能面の守人が道の中央に現れた。白と黒の境で見た者と同じ面。だが今度は、手に細い棒――指揮棒のような器具を持っている。
守人が棒をひと振り。空気が震え、見えないオーケストラが鳴り始めた。
鼓動と同じテンポに、艶めいた旋律が薄く混ざる。足裏の重心がわずかに前へ吸われ、身体は“落ちたい方向”に滑る。快い。危い。
リリィナがすぐ歌う。
「いち、に、さん、しっ。ごー、ろーく。はい、もう一回!」
子どもの数取りのように軽い節で、守人の旋律に別の拍子をかぶせる。リアナが低いハミングでベースを敷き、セレーナが指で空に円を描いて波を視覚化する。三人の声と仕草が、レイジの足先に別の道を流し込む。
守人の面が、わずかに傾いた。指揮棒を逆手に取り、今度は沈黙を振る。音が消え、かわりに匂いが満ちる。
遠い雨上がり、熟れた果実、凪いだ湖。粘度のある記憶の香りが肺を甘く満たし、思考をなめらかにする。足取りは軽く、しかし軽すぎる。跳ねれば、銀は途切れる。
セレーナが指先でレイジの背に点を打つ。
「一点集中。重心、丹田。甘さは舌じゃなく、踵で受けて」
舌先に乗りかけた記憶の味が、足の裏へ移る。重みが戻る。守人は面の奥で何かを計り、静かに棒を降ろした。
「問う。名を」
レイジは立ち止まらずに答える。
「護るために、壊す者」
「証(あかし)を」
右手を胸に当て、左手で闇を斬る仕草をひとつ。白黒の廊で刻んだ波、その型の再現。均衡を、形にした所作。
「通行」
面が横へ退く。銀の道があと十歩分、明確に広がる。レイジは歩みを緩めず前へ――その瞬間、道の先にもうひとつの面が立った。色は白。口元が、笑っている。
白の面は、柔らかい声で囁いた。
「ねえ、君は壊す者でい続けられるの?」
問いは軽い。けれど胸骨の裏側に刺さる。
壊すことは、護ることを早める。だが、壊すことが目的になった瞬間、名は反転する。白の面は、それを見抜いている。
リアナが、短く。
「答えは短く、でも重く」
レイジは一拍だけ目を閉じ、白に告げた。
「俺は“壊すことを選べる者”。選べなくなったとき、名を捨てる」
白の面は、満足そうに笑った。
「通行」
最後の十歩。銀の道の終端に、黒い円環が横たわる。踏めば、落ちる。けれどそれは下ではなく、内へ落ちる穴だ。心臓(コア)の中心、玉座の間へ通じる縦の導線。
セレーナが囁く。
「ここからは戻れないわ」
レイジは頷き、振り返らずに言う。
「戻る気はない。――行くぞ」
四人は同時に円環へ降りた。足下の黒がほどけ、身体が軽くなる。落下は短く、次の瞬間、硬い床の感触が膝に戻った。
天井は低く、壁は近い。だが圧迫感はない。むしろ、濃密な静けさが皮膚に寄り添ってくる。
部屋の中央に、黒曜の祭壇。その上に、閉ざされた心臓(コア)の核――両手で抱えられるほどの黒い球体が静かに呼吸している。表面には細い亀裂が走り、そこから淡い光が漏れるたび、部屋全体がわずかに明滅した。
リアナが弓を下げ、目を細める。
「誰かいる」
影が一つ、祭壇の脇から離れた。
黒い外套。金の縁。面はない。けれど、そこに宿る気配は門の鍵に近い。紅の女と同じ香の根を持ちながら、甘さが削れている。
その人物は、低く頭を垂れた。
「黒の守人(くろのもりびと)。玉座の前に立つ、最初の楔。」
セレーナが一歩進み、問う。
「通す条件は?」
「均衡の宣誓。そして、心臓に触れる資格の証明。」
黒の守人は外套の袖を払った。床に白い線が走り、四枚の石板が食み出す。
石板はそれぞれ、違う温度と匂いを放つ。
一枚は雨の匂い。ひとつは炎の熱。もう一つは土の重さ。最後は風の軽さ。四象――けれどどれも、どこか官能の微かな湿りを含んでいる。触れれば、皮膚が温度を覚える類いの誘惑。
黒の守人は告げる。
「四つの感覚を混ぜず、順に受け、順に手放せ。混ぜた瞬間、心臓は割れる」
リリィナが小さく息を呑む。
「手放すのって、けっこう難しいやつ」
レイジは石板の前に立った。
まず、雨。指先で触れる。冷たさが走り、皮膚がきれいになる感覚が脳に昇る。欲が薄まり、余白が増える。だが、追いかけたら溺れる。すぐ離す。
次に炎。掌いっぱいの熱が、筋肉を緩め、血を速める。胸の奥が強く脈打ち、足が前に出たがる。追いかけない。吐いて六。離す。
土。踝に重み。安心。ここに根を下ろしたくなる。だが、ここは仮の地。離す。
風。軽さ。跳ねたくなる。道を飛び越えたくなる。離す。
四つを順番に、等分に、淡く舐めて、確かに手放す。
黒の守人が微かに顎を引いた。
「宣誓を」
レイジは心臓の核へ向き直る。
「余白を持つ。欲も恐れも、均す。名に溺れず、名に縛られず、選ぶ」
核の亀裂が、ひと筋だけ広がった。淡い光が指先を撫で、皮膚の内側まで澄んだ温度が落ちてくる。部屋の明滅が静まり、代わりに遠い鈴の音がひとつ、綺麗に鳴った。
黒の守人は外套の裾を払って、祭壇の脇に退く。
「通れ。玉座の前で、お前の“名”が問われる」
その時、背後で風が翻り、紅の女が影から現れた。
目元に愉悦を、口元に試す笑みを載せて。
「――よくここまで来たわ。心臓はあなたを認めた。あとは玉座。けれど覚えておいて。“王”は名ではなく、“在り様”で選ばれる」
レイジは視線を逸らさず、剣の柄に軽く手を置いた。
「じゃあ、見せるだけだ。俺たちの“在り様”を」
紅と黒、二人の守り手が同時に道を開く。
玉座の扉が、静かに震え、わずかに口を開けた。
そこから流れ込む空気は、甘いのに冷たい。快楽の香りと、戦場の匂いが同じ温度で混ざっている。
リアナが、短く笑った。
「――本番、ね」
四人は歩き出す。足音は軽く、しかし確かに、玉座へと響いた。
紅の試練を越えた台座が止まり、静止と同時に、耳のどこかで見えない鐘がひとつだけ鳴る。余韻は甘く、けれど刃のように細い。ここが“門の内側”――魔王城の心臓(コア)へつながる前室だと、肌が先に理解した。
足もとに描かれた星図は、淡い蒼の線で呼吸している。線は脈動に合わせて淡く濃くなり、胸の鼓動をなぞるように揺れた。線の交点には小さな円柱が三つ。触れれば何かが始まる、そんな気配がある。
リアナが矢筒を直し、細く息を吐いた。
「……空気が違う。ここまでの甘さが引いて、代わりに、冷たい手で喉を押さえる感じ」
セレーナは台座の縁に指先を滑らせる。
「名の鍵は通った。次は“心核への適合”。理性と欲望、意志と恐れ――向き合い方を試されるはずよ」
リリィナが苦笑する。
「向き合い方、ね……レイジ、こういうのはだいたい痛くて長いから、先に飴ちゃんちょうだい?」
レイジは小さく笑い、三つの円柱を順に見た。
「甘いのは持ってない。代わりに、すぐ終わらせる」
最も手前の円柱に掌を置いた瞬間、床の星図が一斉に点灯した。光が線を伝い、弧を走って壁の鏡へ移る。鏡面は水のように揺れ、そこに映ったのは――自分たち、ではない。
白い部屋。白い床。白い椅子が四脚。
そこに座っているのは、白い衣を纏った四人の“自分たち”。ただし、どの顔にも感情がない。目だけが澄み、何も映していない。
リアナが眉を寄せた。
「白……鎮静の試験?」
セレーナが頷く。
「きっと、過剰な揺れを抑える儀。ここで心拍を落とせなければ、次で堕ちる」
レイジは鏡の前に立ち、白い自分の椅子に腰を下ろした。鏡越しに背が合わさり、座面が冷たく鳴る。同時に、耳の奥で無音の拍子が始まった。四で吸って、六で吐く――昨日、双環の廊でやったあのリズムだ。
胸の中の熱が、ゆっくりと透明に薄まる。
視界の端では、白のリアナたちも同じ動作を繰り返し、波が揃うたび、鏡の白が一段ずつ淡くなる。白はやがて“余白”になり、余白は静けさを呼ぶ。
最初の円柱が、かちりと鳴って沈んだ。
鏡の白が割れ、反対側に“黒”が立つ。黒は布のようで布ではなく、月影の濃度だけを集めたような、重い闇だ。その中心に、面をつけた“守人”が現れた。面は能面にも似て、口元は笑っても泣いてもいない。
リリィナが小声で囁く。
「……でた。黒のほう」
守人は剣を抜かない。代わりに、掌をこちらへ向けた。温度のない風が走る。喉の奥に、甘さがほんの一滴落ちる――香り、記憶、憧憬。心が反応しかけた瞬間、白の椅子の冷たさが首筋をつねるように、過剰を押しとどめた。
セレーナが素早く判断する。
「白で落とし、黒で立たせる。交互に往復して均衡を作れ、ということね」
レイジは二本目の円柱に触れた。星図が反転し、今度は黒の線が走る。鏡の中、黒の守人が面を横に傾け、掌を少しだけ下げた。妙なことに、ほんのわずか“敬意”を含んだ動作に見えた。
黒の風が強まる。今度は甘さではなく、渇き――願いに手が届かない時の、胸の奥が擦れるような渇きだ。白だけでは埋められないし、黒だけでも壊れてしまう。だから二つは対であり、門は二重だ。
リアナが弦に指をかけ、呼吸を合わせる。
「レイジ、波を作る。わたしたちが縁を守る」
レイジは頷き、白と黒の間を歩くことにした。
目を閉じる。白の椅子の冷えをひと口。黒の風の渇きをひと口。甘さは薄く、痛みは短く。欲は抑えず、抑圧もしない。波の頂点で、ほんの指先ほど熱を残し、谷でしっかり冷やす。たゆたうように、けれど逸れないように。
面の奥の視線がわずかに揺れた。
均衡――“いまの自分”が、門の尺度を満たしたという合図だ。
かちり。二本目の円柱が落ちる。
最後の一本に手を伸ばす前に、黒の守人が動いた。面の口が初めて開く。声は低く、石の隙間から風が通るような音だ。
「名を、もう一度」
レイジは迷わなかった。
「護るために、壊す者」
面がわずかに頷いた。
黒い風がほどけ、鏡の縁に細い銀色が差す。白と黒の間に、一本の“道”が生まれる。息を呑むほど細く、しかし確かに、奥へと伸びている。最後の円柱に指が触れた。
心臓(コア)への扉が、音もなく開いた。
扉の先は、広大なのに音のない空間だった。
天井は見えず、壁は輪郭を持たない。けれど床だけは確かで、滑らかな黒石が心臓の鼓動に合わせて微かに脈打っている。中央に、糸のように細い銀の道。左右は底知れない闇で、寄りかかる壁も、掴める支点もない。
リアナが息をのみ、弓を横に倒した。
「落ち着いて歩けば渡れる……はず。けど、これは視線ひとつで転ぶ類いの橋ね」
セレーナは道の縁に指先をかざし、静かに言う。
「ここは人格の試験。過去と未来、願いと恐れ――均衡を崩せば、道は消えるわ」
リリィナは首をすくめ、レイジの袖をちょいと摘む。
「じゃ、真ん中歩くのはレイジ。私たちは風よけと拍子取り。落ちそうになったら、声で掴ませる」
レイジは頷き、銀の道へ片足を載せた。靴底が吸い付く感触。二歩、三歩。呼吸は四で吸い、六で吐く――白と黒で整えた波をそのまま足裏に落とし込む。肩の高さを一定に保ち、視線は遠く、足下は端で見る。
闇の奥が、ゆっくり色づいた。
淡い金の髪、笑う口元、夏の匂い。青年の肩越しに、白い手が伸びる――過去の景(かげ)だ。転生前、もう触れられない世界の断片。指先は温度を持ち、声は耳の奥をくすぐる。
“戻っておいで”
胸がきゅっと縮んだ。足がわずかに泳ぐ。だが、背中からリアナの声が飛ぶ。
「視線、遠く。吸って四、吐いて六。はい、もう一回」
レイジは吐息を長く伸ばす。肩が沈み、足の裏に重みが戻る。金の影は霧散せず、ただ距離を取った。今度は逆側、闇の底で紅が揺れる。玉座。艶やかな横顔。魔王の視線が、嗤いも慈しみもせず、ただ測る。そこに欲望も憎しみも投げ込める。投げ込んだ分だけ、均衡は壊れる。
セレーナの声が重なる。
「過去に手を伸ばさない。未来に身を投げない。今を踏むの」
銀の道が一瞬だけ広がり、また元の細さに戻る。レイジは歩を止めない。すぐ前方、黒い霧が形になりかけ、能面の守人が道の中央に現れた。白と黒の境で見た者と同じ面。だが今度は、手に細い棒――指揮棒のような器具を持っている。
守人が棒をひと振り。空気が震え、見えないオーケストラが鳴り始めた。
鼓動と同じテンポに、艶めいた旋律が薄く混ざる。足裏の重心がわずかに前へ吸われ、身体は“落ちたい方向”に滑る。快い。危い。
リリィナがすぐ歌う。
「いち、に、さん、しっ。ごー、ろーく。はい、もう一回!」
子どもの数取りのように軽い節で、守人の旋律に別の拍子をかぶせる。リアナが低いハミングでベースを敷き、セレーナが指で空に円を描いて波を視覚化する。三人の声と仕草が、レイジの足先に別の道を流し込む。
守人の面が、わずかに傾いた。指揮棒を逆手に取り、今度は沈黙を振る。音が消え、かわりに匂いが満ちる。
遠い雨上がり、熟れた果実、凪いだ湖。粘度のある記憶の香りが肺を甘く満たし、思考をなめらかにする。足取りは軽く、しかし軽すぎる。跳ねれば、銀は途切れる。
セレーナが指先でレイジの背に点を打つ。
「一点集中。重心、丹田。甘さは舌じゃなく、踵で受けて」
舌先に乗りかけた記憶の味が、足の裏へ移る。重みが戻る。守人は面の奥で何かを計り、静かに棒を降ろした。
「問う。名を」
レイジは立ち止まらずに答える。
「護るために、壊す者」
「証(あかし)を」
右手を胸に当て、左手で闇を斬る仕草をひとつ。白黒の廊で刻んだ波、その型の再現。均衡を、形にした所作。
「通行」
面が横へ退く。銀の道があと十歩分、明確に広がる。レイジは歩みを緩めず前へ――その瞬間、道の先にもうひとつの面が立った。色は白。口元が、笑っている。
白の面は、柔らかい声で囁いた。
「ねえ、君は壊す者でい続けられるの?」
問いは軽い。けれど胸骨の裏側に刺さる。
壊すことは、護ることを早める。だが、壊すことが目的になった瞬間、名は反転する。白の面は、それを見抜いている。
リアナが、短く。
「答えは短く、でも重く」
レイジは一拍だけ目を閉じ、白に告げた。
「俺は“壊すことを選べる者”。選べなくなったとき、名を捨てる」
白の面は、満足そうに笑った。
「通行」
最後の十歩。銀の道の終端に、黒い円環が横たわる。踏めば、落ちる。けれどそれは下ではなく、内へ落ちる穴だ。心臓(コア)の中心、玉座の間へ通じる縦の導線。
セレーナが囁く。
「ここからは戻れないわ」
レイジは頷き、振り返らずに言う。
「戻る気はない。――行くぞ」
四人は同時に円環へ降りた。足下の黒がほどけ、身体が軽くなる。落下は短く、次の瞬間、硬い床の感触が膝に戻った。
天井は低く、壁は近い。だが圧迫感はない。むしろ、濃密な静けさが皮膚に寄り添ってくる。
部屋の中央に、黒曜の祭壇。その上に、閉ざされた心臓(コア)の核――両手で抱えられるほどの黒い球体が静かに呼吸している。表面には細い亀裂が走り、そこから淡い光が漏れるたび、部屋全体がわずかに明滅した。
リアナが弓を下げ、目を細める。
「誰かいる」
影が一つ、祭壇の脇から離れた。
黒い外套。金の縁。面はない。けれど、そこに宿る気配は門の鍵に近い。紅の女と同じ香の根を持ちながら、甘さが削れている。
その人物は、低く頭を垂れた。
「黒の守人(くろのもりびと)。玉座の前に立つ、最初の楔。」
セレーナが一歩進み、問う。
「通す条件は?」
「均衡の宣誓。そして、心臓に触れる資格の証明。」
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石板はそれぞれ、違う温度と匂いを放つ。
一枚は雨の匂い。ひとつは炎の熱。もう一つは土の重さ。最後は風の軽さ。四象――けれどどれも、どこか官能の微かな湿りを含んでいる。触れれば、皮膚が温度を覚える類いの誘惑。
黒の守人は告げる。
「四つの感覚を混ぜず、順に受け、順に手放せ。混ぜた瞬間、心臓は割れる」
リリィナが小さく息を呑む。
「手放すのって、けっこう難しいやつ」
レイジは石板の前に立った。
まず、雨。指先で触れる。冷たさが走り、皮膚がきれいになる感覚が脳に昇る。欲が薄まり、余白が増える。だが、追いかけたら溺れる。すぐ離す。
次に炎。掌いっぱいの熱が、筋肉を緩め、血を速める。胸の奥が強く脈打ち、足が前に出たがる。追いかけない。吐いて六。離す。
土。踝に重み。安心。ここに根を下ろしたくなる。だが、ここは仮の地。離す。
風。軽さ。跳ねたくなる。道を飛び越えたくなる。離す。
四つを順番に、等分に、淡く舐めて、確かに手放す。
黒の守人が微かに顎を引いた。
「宣誓を」
レイジは心臓の核へ向き直る。
「余白を持つ。欲も恐れも、均す。名に溺れず、名に縛られず、選ぶ」
核の亀裂が、ひと筋だけ広がった。淡い光が指先を撫で、皮膚の内側まで澄んだ温度が落ちてくる。部屋の明滅が静まり、代わりに遠い鈴の音がひとつ、綺麗に鳴った。
黒の守人は外套の裾を払って、祭壇の脇に退く。
「通れ。玉座の前で、お前の“名”が問われる」
その時、背後で風が翻り、紅の女が影から現れた。
目元に愉悦を、口元に試す笑みを載せて。
「――よくここまで来たわ。心臓はあなたを認めた。あとは玉座。けれど覚えておいて。“王”は名ではなく、“在り様”で選ばれる」
レイジは視線を逸らさず、剣の柄に軽く手を置いた。
「じゃあ、見せるだけだ。俺たちの“在り様”を」
紅と黒、二人の守り手が同時に道を開く。
玉座の扉が、静かに震え、わずかに口を開けた。
そこから流れ込む空気は、甘いのに冷たい。快楽の香りと、戦場の匂いが同じ温度で混ざっている。
リアナが、短く笑った。
「――本番、ね」
四人は歩き出す。足音は軽く、しかし確かに、玉座へと響いた。
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「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」
そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。
「あの...相手の人の名前は?」
「...汐崎真凛様...という方ですね」
その名前には心当たりがあった。
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