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第37話 ー眷属の群れ、歪む大地ー
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葬送の夜が明けた。
空はまだ鉛色で、雲は低く垂れ込め、木々の先端は霜のような薄光で縁どられている。風はない。にもかかわらず、土の奥からくぐもった鼓動が絶えず響き、足裏の骨を一本一本、鈍器で叩かれているような違和感が続いていた。四人は互いの腰に細綱を結び、間隔を詰めて進む。息を合わせないと、この大陸では容易に「隊」という形が壊れると知ったからだ。
最初の異形は、森の切れ目で“壁”になっていた。
黒い蔦が幾重にも絡み、盛り上がって垣を成している。節々に鈍い赤の芽が脈打ち、蔦同士が擦れるたび、胸郭の内側へ低周波が刺さる。レイジが一歩近づいた瞬間、空気が石のように重くなり、肺の弁が閉じかけた。
「……今、地面に押しつけられた?」
カリーネが眉を寄せる。外套の裾がぺたりと足に貼り付き、細い肩が目に見えて沈んだ。
「踏み込みに同期して重力が増幅。局所場が反転と圧縮を繰り返してるわ」
セレーナが杖で地面を突き、足元に薄い浮力膜を敷く。膜がびり、と唸った次の瞬間、さらに圧がのしかかる。腰骨が軋み、背筋のひと節ごとに“荷重”の数字が積み重なっていく錯覚。赤い芽がふくらみ、湿った甘い匂いが短く吐き出された。
影の王女の髪がわずかに揺れた。
「節の内側に重心核。地脈を噛んで引きずる仕組み。正面突破は骨が折れるどころか、折れるわ」
レイジは歯を食いしばり、半歩前へ出る。膝頭が鉛の塊になったように重い。視界の縁が暗くなり、耳鳴りが遠雷のように重なる。重力の圧に合わせるように、蔦の赤芽がとろんと潤み、濡れた吐息のような快い刺激を微量に混ぜてくる。気持ちよさで“休ませ”、前進を罰する。罠の理が直感で読めた。
「甘さで退行を誘う……いやらしい」
セレーナが顔をしかめ、空間に小さな魔法陣を連ねる。陣が裏返るたび、蔦の上に薄い影が落ち、赤芽の光が微かに鈍った。
「影、借りるわ」
影の王女の裾から、薄絹のような黒が流れ出て、節の回路に糸のように絡み付く。重さが刹那、ほどける。
レイジはそこを逃さず横薙ぎに斬った。表皮は金属めいて硬く火花を散らすが、影が絡んだ節は斬り口が入りやすい。ひと節、ふた節――斬るたびに重みは波のように増減し、膝が笑う。カリーネは露出した芯に銀色の薬液を塗った短剣を突き入れ、痙攣させてから引き抜く。
「外交官はね、調停だけが仕事じゃないの。毒草の見分けも、嗜みよ」
冗談めかしながら、額の汗を手の甲で拭った。震えは隠せない。
「息を合わせて、節を順に潰す!」
セレーナの指示に合わせ、影が核を縫い、術が芽の脈を抑え、刃が回路を断つ。十数の節を落としたとき、ふっと重みが抜け、蔦の壁が自重に負けて斜面のように崩れた。吸い込んだ空気が肺の奥で悲鳴のように鳴る。
「突破」
影の王女が短く頷く。だが足下には揺り返しが残り、ふらつく身体を、四人は互いの綱で引き戻した。第一の関門で理解したのは、ここが“自然”ではないという事実だ。未開の大陸は、歩く意思そのものに牙を立てている。
蔦の垣を越えると、深い谷が口を開けていた。湿り気をはらんだ空気。ぬめる岩肌。乳白色の茸が幾千も群生し、傘は薄く透け、内側で微細な脈が波のように連なっている。風はないのに、傘の縁から淡い霧がたなびき、谷全体が白い呼吸に包まれていた。
「足、止めないで。吸われる」
セレーナの短い警告。谷に入った瞬間、首筋を撫でるような倦怠が訪れ、背筋の芯がぬくもりを帯びる。眠気ではない。戦う意思の筋だけを選んで緩めてくる“ゆるみ”だ。膝裏がやわらかくなり、握力がほどけそうになる。
カリーネが香袋を裂き、辛い香を広げる。甘い霧が薄まり、肺に“辛さ”が刺し戻され、意識が浮上する。
「ふう……気分から抜いてくるなんて、趣味が悪いわね」
影の王女は岩と茸の境を指でなぞり、細めた目で地中の気配を読む。
「根がこの谷の“気脈”に差し込まれてる。触れれば回路が開く。身体の経絡にもよく似た設計。近づくだけで“抜き口”がこじ開けられる仕掛けよ」
「つまり、踏まずに渡る」
セレーナは掌を合わせ、光の糸で細い橋を張った。四人は腰綱を短く締め直し、足元だけを見て渡る。一歩ごとに傘裏が震え、霧が生まれ、皮膚に触れただけで脈が遅くなる。谷の中央あたり、背丈ほどの巨大な茸が現れ、その傘の内側には灯のような明かりが揺れ、ささやかな寝台の幻が浮かんだ。
「……兄様」
セレーナの声が揺らいだ。レイジがすぐ綱を引き、肩を抱えて視線を足場に落とさせる。
「見ない。感じない。前だけだ」
彼女は唇を噛み、短く頷く。
茸の群生は四人の拍動に合わせて脈動し、足場の糸に根を絡めて引きずり落とそうとする。影の王女が裾を翻して影の橋脚を差し込み、レイジが最後の数歩を跳び越えて反対側へ転がった。直後、背後で光橋が崩れ落ち、谷底の白い呼吸の中に溶けていく。群生は満ち足りたように波打ち、甘香がなお濃くなる。振り返らない。前進は罰で、退行は甘やかな褒美――この谷が教えるルールを、四人は力で踏み潰すように抜けた。
谷を抜けると、樹海が待ち構えていた。幹はよじれ、樹皮は魚の鱗のように重なり合い、枝葉は風もないのに自ら擦れ合って音を生み出す。その音はすぐ言葉に似てきて、やがては聞き覚えのある声色で四人の名を呼び始めた。
「兄様」
セレーナの肩が跳ねる。振り返ると、そこには誰もいない。枝葉が彼女の声で彼女の心を撫でる。頬の筋肉が無意識に反応しそうになる。
「耳をふさぐのでは足りない。『内側へ入る道』を閉じる」
セレーナが耳飾りに触れ、紋章を青く光らせる。鼓膜の保護ではなく、脳内で言語化する回路そのものに薄膜の封をする術式だ。だが言葉が届かなくても樹は襲う。幹が蛇のようにしなり、腕に似た枝が叩きつけられ、根は地中から手のように伸びて足首をさらう。
「右」
影の王女の一声。レイジはその合図に合わせ、剣で根を弾き、内側を走る白い筋――養分の幹線――を正確に断つ。切り口から樹液が匂い立ち、舌先に甘さが滲む。枝葉の擦過音が笑い声めいて響く。
「記録してる。さっきの私たちの嘆きも全部、真似して返すのね」
セレーナは冷ややかに言い、杖先で地を叩く。足元の黒い土がわずかにうねった。
「下!」
カリーネの叫び。土――に擬態していた獣が、脛へぬるりと巻き上がってきた。皮膚が液体のように波打ち、斬れば形を変えてまとわりつく。体温は熱い湯のようで、触れられた部位から力が抜ける。呼吸が浅くなり、膝が笑う。
「熱に強いなら、冷やす」
セレーナが短詠で霜紋を走らせる。流れる肉が一瞬固まり、霜花が表面に咲く。レイジはその硬直に合わせて斬り上げ、核の粒を割った。獣は蒸気の悲鳴を吐き、土の塊に戻って崩れる。
「この大陸、やたら“触れて奪う”な」
カリーネが肩で息をし、額の汗を袖で拭う。
「天凶の眷属は、こちらの『動機』に噛み付く。進む意志、守る意志、愛する意志。噛まれたところから空洞にされる」
影の王女の声は冷ややかだが、その眼差しはゆらぎを見逃さない鋭利さを保っている。
樹はなおも声を真似、枝はなおも叩く。四人の動きは波をかくように整い始めた。セレーナが言語化回路を封じ、影が根の回路を縫い止め、カリーネが露出した弱点に薬を差し、レイジが線を断ち切る。やがて魔樹は芯から乾いた音を立てて割れ、笑いは木霊の破裂音に変わった。樹海の奥が一瞬静まり、代わって遠い花の香りが濃くなる。甘い。熱っぽい。次の罠の匂いだ。
樹々が左右に開き、そこだけ色の密度が異常に濃い一角が現れた。
花園――だが人の知る花とは別物だ。花弁は人肌のように柔らかく、中心部には透明な露の珠が宿り、雄蕊は触手のようにゆっくり伸び縮みしている。風はないのに花弁がふるえ、甘い香が舌の根を痺れさせる。足を踏み入れる前から、膝裏が緩むような錯覚。ここで立ち止まれば、二度と立てなくなると直感が告げる。
「地中の絵を見せて」
セレーナが探査紋を走らせる。地面に薄い光の図面が浮かび、花園全体が一本の巨大な網であることが露わになる。足が触れた瞬間に全体が収縮し、獲物を抱え込む仕組み。
「周縁を焼いて通路をつくる」
レイジが刃に火紋を宿す。影の王女は反対側から影の刃で根を固定し、カリーネは辛香の油を撒いた。火は控えめに、しかし確実に。焼かれた縁で花弁がひゅっと縮み、雄蕊が怯えるように震える。小径が一本、花の海の真ん中を貫いた。
四人は腰綱の結びを再確認し、小径へ入る。足裏の感触はやわらかく、花弁は逃げるが、ふっと伸びてくる一本がくるぶしを撫でる。その一瞬で体温がじんわり上がり、呼吸が浅くなる。甘い、甘い。脳が「休め」と囁く。
「セレーナ」
レイジの一声に、彼女は頷き、胸の前で手印を結ぶ。冷たい紋が皮膚に走り、甘さが薄れた。影の王女は花の影を花自身へ縫い戻し、花は自分の影に絡まって縮む。進める。
花園の中央に、それはあった。
ひときわ大きな大輪がゆっくりと開き、露の珠の奥、透明な膜の向こうに、小さな楕円の板が沈んでいる。蝶の翅を模した意匠。見間違えようのない“印”だった。
「……眷属紋」
セレーナが息をのむ。「蝶姫の委任状。ここ一帯はやはり奴の“庭”の延長よ」
「なら、壊す」
レイジが踏み込み、剣を突き入れる。膜が破れ、甘い液が飛び散る。刃が板に触れ、硬い手応えとともに亀裂が走った。花園全体が悲鳴のように収縮し、地中の根が暴れ、四人の腰綱がきしむ。影の王女が影で暴走を受け止め、セレーナが冷却の紋で熱を奪い、カリーネが辛香で反射を鈍らせる。レイジは二撃目を重ね、板を割り砕いた。
ぱん――乾いていながら湿った破裂音。
花園の色が一段落ち、媚香が薄れ、雄蕊がしおれて道が辛うじて保たれた。甘さが引くと同時に、四人の胸にさざ波のような虚脱が押し寄せる。奪われかけていた“動機”が、辛うじて自分のもとに戻ってくる感覚。
「……これで、この区画は静まる」
セレーナが杖に身を預け、息を整える。目の下の影は濃いが、瞳は折れていない。
レイジは剣を振り払い、刃先の甘い液を草に落とした。
「見ているか、蝶姫。道具を壊せば道は開く。お前の優位は、手で掴んでへし折れる類のものだ」
花園の外れで、梢が大きく揺れた。風はないのに、上へ向かって黒い空気が吸い上げられていく。四人が木々の隙間からのぞくと、森は切れ、黒い断崖が遥か先まで弓なりに続いていた。下から吹き上がる風は冷たく、どこか遠くで羽音が重なっている。蝶ではない。もっと大きく、重く、数の多い何かの群れ。未開の大陸は、入口でこれだけの牙を見せ、なお“本番はここからだ”と告げている。
セレーナは断崖の縁で、指先をそっと握った。
「……リリィナ」
名前を小さく呼ぶ。その声に返事はない。それでも、あの明るい笑顔が胸の奥で灯る。喪失の痛みは決して癒えない。だが痛みがあるから進めるのだと、彼女はやっと言葉のない頷きを自分に返した。
「前へ」
レイジが言う。
「前へ」
セレーナが重ねる。
「前へ」
カリーネが唇を引き結び、影の王女が目を細める。
四人は互いの綱を確かめ合い、黒い風の吹き上げる峡へ、次の一歩を刻んだ。
その刹那、断崖の底から響いたのは、石壁を擦る無数の翅音と、地を鳴らす巨躯の這いずる低音――天凶の眷属はまだ“序章”にすぎない。ここから先、未開の大陸は、彼らの進む理由ひとつひとつを試すつもりでいるのだ。
それでも、前へ。
失われた光の名を胸に、四人は歩いた。
空はまだ鉛色で、雲は低く垂れ込め、木々の先端は霜のような薄光で縁どられている。風はない。にもかかわらず、土の奥からくぐもった鼓動が絶えず響き、足裏の骨を一本一本、鈍器で叩かれているような違和感が続いていた。四人は互いの腰に細綱を結び、間隔を詰めて進む。息を合わせないと、この大陸では容易に「隊」という形が壊れると知ったからだ。
最初の異形は、森の切れ目で“壁”になっていた。
黒い蔦が幾重にも絡み、盛り上がって垣を成している。節々に鈍い赤の芽が脈打ち、蔦同士が擦れるたび、胸郭の内側へ低周波が刺さる。レイジが一歩近づいた瞬間、空気が石のように重くなり、肺の弁が閉じかけた。
「……今、地面に押しつけられた?」
カリーネが眉を寄せる。外套の裾がぺたりと足に貼り付き、細い肩が目に見えて沈んだ。
「踏み込みに同期して重力が増幅。局所場が反転と圧縮を繰り返してるわ」
セレーナが杖で地面を突き、足元に薄い浮力膜を敷く。膜がびり、と唸った次の瞬間、さらに圧がのしかかる。腰骨が軋み、背筋のひと節ごとに“荷重”の数字が積み重なっていく錯覚。赤い芽がふくらみ、湿った甘い匂いが短く吐き出された。
影の王女の髪がわずかに揺れた。
「節の内側に重心核。地脈を噛んで引きずる仕組み。正面突破は骨が折れるどころか、折れるわ」
レイジは歯を食いしばり、半歩前へ出る。膝頭が鉛の塊になったように重い。視界の縁が暗くなり、耳鳴りが遠雷のように重なる。重力の圧に合わせるように、蔦の赤芽がとろんと潤み、濡れた吐息のような快い刺激を微量に混ぜてくる。気持ちよさで“休ませ”、前進を罰する。罠の理が直感で読めた。
「甘さで退行を誘う……いやらしい」
セレーナが顔をしかめ、空間に小さな魔法陣を連ねる。陣が裏返るたび、蔦の上に薄い影が落ち、赤芽の光が微かに鈍った。
「影、借りるわ」
影の王女の裾から、薄絹のような黒が流れ出て、節の回路に糸のように絡み付く。重さが刹那、ほどける。
レイジはそこを逃さず横薙ぎに斬った。表皮は金属めいて硬く火花を散らすが、影が絡んだ節は斬り口が入りやすい。ひと節、ふた節――斬るたびに重みは波のように増減し、膝が笑う。カリーネは露出した芯に銀色の薬液を塗った短剣を突き入れ、痙攣させてから引き抜く。
「外交官はね、調停だけが仕事じゃないの。毒草の見分けも、嗜みよ」
冗談めかしながら、額の汗を手の甲で拭った。震えは隠せない。
「息を合わせて、節を順に潰す!」
セレーナの指示に合わせ、影が核を縫い、術が芽の脈を抑え、刃が回路を断つ。十数の節を落としたとき、ふっと重みが抜け、蔦の壁が自重に負けて斜面のように崩れた。吸い込んだ空気が肺の奥で悲鳴のように鳴る。
「突破」
影の王女が短く頷く。だが足下には揺り返しが残り、ふらつく身体を、四人は互いの綱で引き戻した。第一の関門で理解したのは、ここが“自然”ではないという事実だ。未開の大陸は、歩く意思そのものに牙を立てている。
蔦の垣を越えると、深い谷が口を開けていた。湿り気をはらんだ空気。ぬめる岩肌。乳白色の茸が幾千も群生し、傘は薄く透け、内側で微細な脈が波のように連なっている。風はないのに、傘の縁から淡い霧がたなびき、谷全体が白い呼吸に包まれていた。
「足、止めないで。吸われる」
セレーナの短い警告。谷に入った瞬間、首筋を撫でるような倦怠が訪れ、背筋の芯がぬくもりを帯びる。眠気ではない。戦う意思の筋だけを選んで緩めてくる“ゆるみ”だ。膝裏がやわらかくなり、握力がほどけそうになる。
カリーネが香袋を裂き、辛い香を広げる。甘い霧が薄まり、肺に“辛さ”が刺し戻され、意識が浮上する。
「ふう……気分から抜いてくるなんて、趣味が悪いわね」
影の王女は岩と茸の境を指でなぞり、細めた目で地中の気配を読む。
「根がこの谷の“気脈”に差し込まれてる。触れれば回路が開く。身体の経絡にもよく似た設計。近づくだけで“抜き口”がこじ開けられる仕掛けよ」
「つまり、踏まずに渡る」
セレーナは掌を合わせ、光の糸で細い橋を張った。四人は腰綱を短く締め直し、足元だけを見て渡る。一歩ごとに傘裏が震え、霧が生まれ、皮膚に触れただけで脈が遅くなる。谷の中央あたり、背丈ほどの巨大な茸が現れ、その傘の内側には灯のような明かりが揺れ、ささやかな寝台の幻が浮かんだ。
「……兄様」
セレーナの声が揺らいだ。レイジがすぐ綱を引き、肩を抱えて視線を足場に落とさせる。
「見ない。感じない。前だけだ」
彼女は唇を噛み、短く頷く。
茸の群生は四人の拍動に合わせて脈動し、足場の糸に根を絡めて引きずり落とそうとする。影の王女が裾を翻して影の橋脚を差し込み、レイジが最後の数歩を跳び越えて反対側へ転がった。直後、背後で光橋が崩れ落ち、谷底の白い呼吸の中に溶けていく。群生は満ち足りたように波打ち、甘香がなお濃くなる。振り返らない。前進は罰で、退行は甘やかな褒美――この谷が教えるルールを、四人は力で踏み潰すように抜けた。
谷を抜けると、樹海が待ち構えていた。幹はよじれ、樹皮は魚の鱗のように重なり合い、枝葉は風もないのに自ら擦れ合って音を生み出す。その音はすぐ言葉に似てきて、やがては聞き覚えのある声色で四人の名を呼び始めた。
「兄様」
セレーナの肩が跳ねる。振り返ると、そこには誰もいない。枝葉が彼女の声で彼女の心を撫でる。頬の筋肉が無意識に反応しそうになる。
「耳をふさぐのでは足りない。『内側へ入る道』を閉じる」
セレーナが耳飾りに触れ、紋章を青く光らせる。鼓膜の保護ではなく、脳内で言語化する回路そのものに薄膜の封をする術式だ。だが言葉が届かなくても樹は襲う。幹が蛇のようにしなり、腕に似た枝が叩きつけられ、根は地中から手のように伸びて足首をさらう。
「右」
影の王女の一声。レイジはその合図に合わせ、剣で根を弾き、内側を走る白い筋――養分の幹線――を正確に断つ。切り口から樹液が匂い立ち、舌先に甘さが滲む。枝葉の擦過音が笑い声めいて響く。
「記録してる。さっきの私たちの嘆きも全部、真似して返すのね」
セレーナは冷ややかに言い、杖先で地を叩く。足元の黒い土がわずかにうねった。
「下!」
カリーネの叫び。土――に擬態していた獣が、脛へぬるりと巻き上がってきた。皮膚が液体のように波打ち、斬れば形を変えてまとわりつく。体温は熱い湯のようで、触れられた部位から力が抜ける。呼吸が浅くなり、膝が笑う。
「熱に強いなら、冷やす」
セレーナが短詠で霜紋を走らせる。流れる肉が一瞬固まり、霜花が表面に咲く。レイジはその硬直に合わせて斬り上げ、核の粒を割った。獣は蒸気の悲鳴を吐き、土の塊に戻って崩れる。
「この大陸、やたら“触れて奪う”な」
カリーネが肩で息をし、額の汗を袖で拭う。
「天凶の眷属は、こちらの『動機』に噛み付く。進む意志、守る意志、愛する意志。噛まれたところから空洞にされる」
影の王女の声は冷ややかだが、その眼差しはゆらぎを見逃さない鋭利さを保っている。
樹はなおも声を真似、枝はなおも叩く。四人の動きは波をかくように整い始めた。セレーナが言語化回路を封じ、影が根の回路を縫い止め、カリーネが露出した弱点に薬を差し、レイジが線を断ち切る。やがて魔樹は芯から乾いた音を立てて割れ、笑いは木霊の破裂音に変わった。樹海の奥が一瞬静まり、代わって遠い花の香りが濃くなる。甘い。熱っぽい。次の罠の匂いだ。
樹々が左右に開き、そこだけ色の密度が異常に濃い一角が現れた。
花園――だが人の知る花とは別物だ。花弁は人肌のように柔らかく、中心部には透明な露の珠が宿り、雄蕊は触手のようにゆっくり伸び縮みしている。風はないのに花弁がふるえ、甘い香が舌の根を痺れさせる。足を踏み入れる前から、膝裏が緩むような錯覚。ここで立ち止まれば、二度と立てなくなると直感が告げる。
「地中の絵を見せて」
セレーナが探査紋を走らせる。地面に薄い光の図面が浮かび、花園全体が一本の巨大な網であることが露わになる。足が触れた瞬間に全体が収縮し、獲物を抱え込む仕組み。
「周縁を焼いて通路をつくる」
レイジが刃に火紋を宿す。影の王女は反対側から影の刃で根を固定し、カリーネは辛香の油を撒いた。火は控えめに、しかし確実に。焼かれた縁で花弁がひゅっと縮み、雄蕊が怯えるように震える。小径が一本、花の海の真ん中を貫いた。
四人は腰綱の結びを再確認し、小径へ入る。足裏の感触はやわらかく、花弁は逃げるが、ふっと伸びてくる一本がくるぶしを撫でる。その一瞬で体温がじんわり上がり、呼吸が浅くなる。甘い、甘い。脳が「休め」と囁く。
「セレーナ」
レイジの一声に、彼女は頷き、胸の前で手印を結ぶ。冷たい紋が皮膚に走り、甘さが薄れた。影の王女は花の影を花自身へ縫い戻し、花は自分の影に絡まって縮む。進める。
花園の中央に、それはあった。
ひときわ大きな大輪がゆっくりと開き、露の珠の奥、透明な膜の向こうに、小さな楕円の板が沈んでいる。蝶の翅を模した意匠。見間違えようのない“印”だった。
「……眷属紋」
セレーナが息をのむ。「蝶姫の委任状。ここ一帯はやはり奴の“庭”の延長よ」
「なら、壊す」
レイジが踏み込み、剣を突き入れる。膜が破れ、甘い液が飛び散る。刃が板に触れ、硬い手応えとともに亀裂が走った。花園全体が悲鳴のように収縮し、地中の根が暴れ、四人の腰綱がきしむ。影の王女が影で暴走を受け止め、セレーナが冷却の紋で熱を奪い、カリーネが辛香で反射を鈍らせる。レイジは二撃目を重ね、板を割り砕いた。
ぱん――乾いていながら湿った破裂音。
花園の色が一段落ち、媚香が薄れ、雄蕊がしおれて道が辛うじて保たれた。甘さが引くと同時に、四人の胸にさざ波のような虚脱が押し寄せる。奪われかけていた“動機”が、辛うじて自分のもとに戻ってくる感覚。
「……これで、この区画は静まる」
セレーナが杖に身を預け、息を整える。目の下の影は濃いが、瞳は折れていない。
レイジは剣を振り払い、刃先の甘い液を草に落とした。
「見ているか、蝶姫。道具を壊せば道は開く。お前の優位は、手で掴んでへし折れる類のものだ」
花園の外れで、梢が大きく揺れた。風はないのに、上へ向かって黒い空気が吸い上げられていく。四人が木々の隙間からのぞくと、森は切れ、黒い断崖が遥か先まで弓なりに続いていた。下から吹き上がる風は冷たく、どこか遠くで羽音が重なっている。蝶ではない。もっと大きく、重く、数の多い何かの群れ。未開の大陸は、入口でこれだけの牙を見せ、なお“本番はここからだ”と告げている。
セレーナは断崖の縁で、指先をそっと握った。
「……リリィナ」
名前を小さく呼ぶ。その声に返事はない。それでも、あの明るい笑顔が胸の奥で灯る。喪失の痛みは決して癒えない。だが痛みがあるから進めるのだと、彼女はやっと言葉のない頷きを自分に返した。
「前へ」
レイジが言う。
「前へ」
セレーナが重ねる。
「前へ」
カリーネが唇を引き結び、影の王女が目を細める。
四人は互いの綱を確かめ合い、黒い風の吹き上げる峡へ、次の一歩を刻んだ。
その刹那、断崖の底から響いたのは、石壁を擦る無数の翅音と、地を鳴らす巨躯の這いずる低音――天凶の眷属はまだ“序章”にすぎない。ここから先、未開の大陸は、彼らの進む理由ひとつひとつを試すつもりでいるのだ。
それでも、前へ。
失われた光の名を胸に、四人は歩いた。
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