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第43話 ー母胎の巣を求めてー
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未開の大陸の森は、ただの自然ではなかった。蝶姫を討った勝利の余韻はたちまち消え失せ、四人を待ち受けていたのは、あらゆる感覚を狂わせる迷宮だった。
夜空に星はあれど、森の奥に入れば光はことごとく遮られる。枝葉は異様に絡み合い、月明かりさえ届かない。セレーナが杖に魔力を注いで灯を生んでも、その光は布で覆ったようにすぐ霞み、数歩先の輪郭すらぼやけていく。
「また……ここに戻ってきた?」
彼女が立ち止まった場所には、倒れた大樹が横たわっていた。幹には彼らが刻んだ目印が残っている。だが同じ木をすでに三度は見ている。
レイジは眉間に皺を寄せ、剣を地に突き立てた。
「……道が閉じてるんじゃない。俺たちが導かれてるんだ」
カリーネは疲労の色を隠せず、額に浮いた汗を拭った。
「どれだけ歩いても進んでない……。まるで森全体が私たちを“弄んでる”みたい」
風が吹くたびに葉がざわめく。その音はただの自然の響きではなく、誰かの囁き声のように耳にまとわりついた。『こちらへ』『戻れ』『眠れ』。意味のないはずの音が、言葉として頭に染み込んでくる。
影の王女は無言で裾を翻し、糸を四方に伸ばした。だが糸は数歩で消え、痕跡すら残らない。彼女は冷徹な声で言った。
「幻ではない。空間そのものが捻じ曲げられている。道は存在しても、辿り着く先が遮断されている」
セレーナは震える唇を噛んだ。
「……また幻を見せられてるんじゃない? リリィナの時みたいに……」
レイジは彼女の肩を掴み、強い眼差しを向けた。
「違う。これは現実だ。森が生きてる。……俺たちを試してるんだ」
足元の土は水を含んでぬかるみ、踏み込むたびに体温を奪うように冷たい。だがそこからは甘ったるい香気も立ち上り、頭が痺れるような感覚をもたらす。セレーナは一瞬瞼を閉じかけ、慌てて杖を強く握った。
「眠らせようとしてる……!」
カリーネは香袋を裂き、辛香を辺りに散らした。強烈な匂いが漂うと、甘い香気はわずかに退いた。
「これで意識を保てる……けど長くはもたないわ」
森の奥は静謐でありながら、確かに彼らを監視している気配に満ちていた。草木の影は形を変えて揺れ、踏んだ場所は同じなのに別の音を返す。振り返れば同じ光景。進んでも進んでも、出口はなく、ただ迷いの輪が延々と繰り返される。
影の王女が低く呟いた。
「この大陸の“母胎”が、まだ入るなと告げている。……巣は近い。だが、拒まれている」
レイジは剣を握り直し、仲間を見渡した。
「だったら、どれだけ拒まれても進む。俺たちは必ず見つけ出す。天凶の巣を」
彼の声は重い空気を切り裂くように響いたが、答える森のざわめきは嘲笑に似ていた。
進んでいるはずなのに、景色は繰り返される。三度目の倒木、四度目の岩の裂け目、五度目の同じ泉。道を間違えたのではなく、森そのものが彼らを閉じ込め、嘲笑っているのだと誰もが気づいていた。
セレーナは杖を握る手に汗を滲ませ、唇を噛んだ。
「……また同じところに戻ってる。幻なの? それとも……もう私たち、ずっと回ってるだけで、一歩も進めてないんじゃない?」
その声には、妹を失った悲嘆が滲んでいた。幻影に惑わされて妹を救えなかった後悔が、再び彼女の心を揺さぶる。
カリーネは深呼吸をしても胸が重くなるばかりで、苛立ちを抑えられなくなっていた。
「何時間歩いてるのかも分からない……太陽も月も見えない……時間感覚すら奪われてるなんて。外交の駆け引きより質が悪いわ」
影の王女は無言で裾の糸を放ち続けていたが、糸は伸びた先で必ず途切れた。まるで見えない手に断ち切られるように。彼女は低く言い放つ。
「道を探そうとする意志そのものを、あの森は食っている。……このままでは、精神が削られる」
レイジもまた、違和感に苛まれていた。腹が減っている気がするのに、何を食べたのか思い出せない。歩いたはずの距離も、何歩だったのか全く覚えていない。意識が飛んでいたわけではないのに、記憶が抜け落ちている。
「……まずいな。俺たちの“時間”が、ここで削られてる」
セレーナの顔が青ざめる。
「時間が……奪われてる?」
「そうだ。歩いても進まず、時間だけが食われてるんだ。気づいた時には、何日も経ってるかもしれない」
レイジの言葉は仲間を奮い立たせようとするものだったが、恐怖を拭い去ることはできなかった。
沈黙が続き、胸の奥に焦燥が積み上がる。森のざわめきが笑い声に変わり、仲間の視線が一瞬疑いに変わる。自分の目に映る道が本物なのか、それとも隣にいる仲間すら幻なのか――誰も確信できなかった。
セレーナが震える声で言った。
「……ねぇ、今こうして話してる兄様も……本当に兄様なの?」
レイジは目を見開き、彼女の肩を強く抱いた。
「幻じゃない。俺は俺だ。だが……この森は本当に危険だ。幻を見せるんじゃなく、俺たち自身を疑わせてくる」
それは蝶姫の幻よりも恐ろしい罠だった。敵は外にはいない。仲間を信じる心そのものを削ぎ落とし、孤独に追い込む。
影の王女は唇を歪め、囁くように言った。
「……これが“母胎”の手口か。外敵を滅ぼすのではなく、子を揺り籠で眠らせるように……抗う意志を削いでいく」
その言葉に、全員の背筋が粟立った。
どれほど歩いたのか、誰も答えられなかった。時間の感覚はとうに狂わされ、進むたびに森は姿を変え、同じ光景へと繰り返し戻される。疲労と疑念に押し潰されそうになりながら、それでも四人は足を止めなかった。
そんな時だった。影の王女の糸が地に伸び、ぬかるんだ土に突き刺さる。彼女は鋭く息を呑み、振り返った。
「……待て。ここは……ただの森じゃない。見ろ」
レイジが剣の切っ先で泥を払いのけると、そこには人間の骨が半ば溶けて埋まっていた。白骨の間からは、無数の幼虫のようなものが這い出し、光を避けて地に潜っていく。
カリーネは目を細め、震える声で言った。
「……兵士の遺骸? でも、形がおかしい。骨格が……植物に融合してる……」
セレーナは杖を強く握り、恐怖を押し殺した。
「ここに……“母胎”が子を産み落とした……。そういうことなの?」
森の奥へと続く地面には、爪で抉られたような痕跡が無数に刻まれていた。大地が裂け、その奥へと続く道を指し示しているかのようだ。
レイジは地を見据え、低く唸った。
「……これが突破口か。森が閉じようとしても、奴の“巣”は隠しきれなかった」
影の王女が頷く。
「この痕跡は、異形の母体に導かれた者たちの行進。辿れば必ず巣に至る……だが、無事には済まない」
空気がさらに濃くなり、肺を満たすごとに重く沈む。視界の端には、母親の影のようなものが揺らめき、誰かに抱かれている錯覚が忍び寄る。
セレーナは涙を堪えながら声を上げた。
「……構わない。行こう。ここで止まったら、リリィナの犠牲が……無駄になる」
レイジは頷き、剣を握り直す。
「よし、腹を括れ。森が拒もうと、俺たちが切り開く」
彼らは互いの腰縄を再び確かめ合い、爪痕の続く暗い道を踏み込んでいった。そこには確かに、巣の気配が濃厚に漂っていた。母の胎内を思わせる湿った熱気、心臓の鼓動のような大地の震え。進むごとにそれは強まり、ついに四人の眼前に――閉ざされた洞穴の入口が姿を現した。
洞穴の入口は、獣の口ではなく、大地そのものが「母の胎」を開いたかのようだった。ぬめる粘膜のような壁は淡い光を放ち、湿り気を帯びた空気は体温よりもわずかに温かい。吐息のような風が頬を撫で、まるで「おかえり」と抱きしめるかのように全身を包み込む。
レイジは警戒の色を隠さず剣を握ったが、その柄は手の中で異様に重く感じられた。握力が抜け落ち、胸の奥に広がるのは抗えぬ安堵。
「……これは……罠だと……わかってるのに……」
セレーナは杖を掲げようとしたが、手が震えて持ち上がらなかった。壁から洩れる光が亡き妹の微笑みに重なり、心の奥を容赦なく抉る。
「リリィナ……もう一度、そばに……」
彼女の頬を涙が伝い落ち、杖を抱きしめる腕から力が抜けていった。
カリーネは辛香を握ろうとしたが、指が言うことを聞かない。体を撫でる空気は母の手のように優しく、外交の場で身につけた冷静さを根底から崩していく。
「……私……守られるなんて……こんなの……だめなのに」
必死に理性を繋ぎとめようとするが、膝は勝手に折れ、床の温もりに沈み込んでいった。
影の王女ですら、冷徹な視線が揺らいでいた。母を知らぬ彼女にとって、その温もりは未知の体験だった。裾から伸ばした影糸は力を失い、彼女の掌は熱に濡れて震える。
「……これが……母……? 抗えぬほど甘美で……胸が……苦しい……」
次第に四人の視界は霞み、瞼は重く、鼓動は規則正しく森の脈動と重なっていった。意識はゆっくりと溶けていき、彼らは母胎の夢に沈んだ。
_________________________________。
目を覚ました時、全員は洞穴の床に転がっていた。淡い光が壁に反射し、粘膜のような床の上に白い肌を浮かび上がらせる。
「……きゃっ!」
最初に声を上げたのはセレーナだった。瞳を見開き、自分の胸を両腕で覆う。頬は真っ赤に染まり、恥じらいと恐怖に揺れる。
「兄様……見ないで……! どうして……服が……ないの……」
レイジもまた目を覚まし、腰にあったはずの剣も服も消えていることに気づいた。全身の肌に赤い痕が薄く浮かび、まるで誰かに撫で回されたような感触が残っている。
「くそっ……俺たち……すべて剥がされて……」
その声は怒りに震えていたが、同時に頬に羞恥の赤みが差していた。
カリーネは慌てて長い髪で胸元を隠し、背を丸めて床に座り込む。普段は冷静な彼女も視線を泳がせ、仲間の顔を見られなかった。
「……外交の場でも裸同然にさらされることはなかったのに……なぜ……こんな……」
影の王女は唇を結び、長い黒髪を垂らして白い肩を隠す。冷徹であるはずの瞳も揺らぎを帯び、声は低く掠れていた。
「……武器も衣も……すべてを奪われた。時間さえ……」
周囲を見れば、松明は燃え尽き、食料袋は空になっていた。何もしていないはずなのに、一日という時が確かに奪われている。
レイジは拳を握り締め、歯を食いしばった。
「……これが“母胎の巣”の力か。俺たちを無力な子供に戻し、抗う術を奪う……」
洞穴の奥からは、脈動する心臓のような音が響いていた。その音は優しくも冷たく、「次は本当に抱きしめてやろう」と囁いているかのようだった。羞恥に震える彼らの姿を、暗闇の母は愉悦のうちに見下ろしていた。
夜空に星はあれど、森の奥に入れば光はことごとく遮られる。枝葉は異様に絡み合い、月明かりさえ届かない。セレーナが杖に魔力を注いで灯を生んでも、その光は布で覆ったようにすぐ霞み、数歩先の輪郭すらぼやけていく。
「また……ここに戻ってきた?」
彼女が立ち止まった場所には、倒れた大樹が横たわっていた。幹には彼らが刻んだ目印が残っている。だが同じ木をすでに三度は見ている。
レイジは眉間に皺を寄せ、剣を地に突き立てた。
「……道が閉じてるんじゃない。俺たちが導かれてるんだ」
カリーネは疲労の色を隠せず、額に浮いた汗を拭った。
「どれだけ歩いても進んでない……。まるで森全体が私たちを“弄んでる”みたい」
風が吹くたびに葉がざわめく。その音はただの自然の響きではなく、誰かの囁き声のように耳にまとわりついた。『こちらへ』『戻れ』『眠れ』。意味のないはずの音が、言葉として頭に染み込んでくる。
影の王女は無言で裾を翻し、糸を四方に伸ばした。だが糸は数歩で消え、痕跡すら残らない。彼女は冷徹な声で言った。
「幻ではない。空間そのものが捻じ曲げられている。道は存在しても、辿り着く先が遮断されている」
セレーナは震える唇を噛んだ。
「……また幻を見せられてるんじゃない? リリィナの時みたいに……」
レイジは彼女の肩を掴み、強い眼差しを向けた。
「違う。これは現実だ。森が生きてる。……俺たちを試してるんだ」
足元の土は水を含んでぬかるみ、踏み込むたびに体温を奪うように冷たい。だがそこからは甘ったるい香気も立ち上り、頭が痺れるような感覚をもたらす。セレーナは一瞬瞼を閉じかけ、慌てて杖を強く握った。
「眠らせようとしてる……!」
カリーネは香袋を裂き、辛香を辺りに散らした。強烈な匂いが漂うと、甘い香気はわずかに退いた。
「これで意識を保てる……けど長くはもたないわ」
森の奥は静謐でありながら、確かに彼らを監視している気配に満ちていた。草木の影は形を変えて揺れ、踏んだ場所は同じなのに別の音を返す。振り返れば同じ光景。進んでも進んでも、出口はなく、ただ迷いの輪が延々と繰り返される。
影の王女が低く呟いた。
「この大陸の“母胎”が、まだ入るなと告げている。……巣は近い。だが、拒まれている」
レイジは剣を握り直し、仲間を見渡した。
「だったら、どれだけ拒まれても進む。俺たちは必ず見つけ出す。天凶の巣を」
彼の声は重い空気を切り裂くように響いたが、答える森のざわめきは嘲笑に似ていた。
進んでいるはずなのに、景色は繰り返される。三度目の倒木、四度目の岩の裂け目、五度目の同じ泉。道を間違えたのではなく、森そのものが彼らを閉じ込め、嘲笑っているのだと誰もが気づいていた。
セレーナは杖を握る手に汗を滲ませ、唇を噛んだ。
「……また同じところに戻ってる。幻なの? それとも……もう私たち、ずっと回ってるだけで、一歩も進めてないんじゃない?」
その声には、妹を失った悲嘆が滲んでいた。幻影に惑わされて妹を救えなかった後悔が、再び彼女の心を揺さぶる。
カリーネは深呼吸をしても胸が重くなるばかりで、苛立ちを抑えられなくなっていた。
「何時間歩いてるのかも分からない……太陽も月も見えない……時間感覚すら奪われてるなんて。外交の駆け引きより質が悪いわ」
影の王女は無言で裾の糸を放ち続けていたが、糸は伸びた先で必ず途切れた。まるで見えない手に断ち切られるように。彼女は低く言い放つ。
「道を探そうとする意志そのものを、あの森は食っている。……このままでは、精神が削られる」
レイジもまた、違和感に苛まれていた。腹が減っている気がするのに、何を食べたのか思い出せない。歩いたはずの距離も、何歩だったのか全く覚えていない。意識が飛んでいたわけではないのに、記憶が抜け落ちている。
「……まずいな。俺たちの“時間”が、ここで削られてる」
セレーナの顔が青ざめる。
「時間が……奪われてる?」
「そうだ。歩いても進まず、時間だけが食われてるんだ。気づいた時には、何日も経ってるかもしれない」
レイジの言葉は仲間を奮い立たせようとするものだったが、恐怖を拭い去ることはできなかった。
沈黙が続き、胸の奥に焦燥が積み上がる。森のざわめきが笑い声に変わり、仲間の視線が一瞬疑いに変わる。自分の目に映る道が本物なのか、それとも隣にいる仲間すら幻なのか――誰も確信できなかった。
セレーナが震える声で言った。
「……ねぇ、今こうして話してる兄様も……本当に兄様なの?」
レイジは目を見開き、彼女の肩を強く抱いた。
「幻じゃない。俺は俺だ。だが……この森は本当に危険だ。幻を見せるんじゃなく、俺たち自身を疑わせてくる」
それは蝶姫の幻よりも恐ろしい罠だった。敵は外にはいない。仲間を信じる心そのものを削ぎ落とし、孤独に追い込む。
影の王女は唇を歪め、囁くように言った。
「……これが“母胎”の手口か。外敵を滅ぼすのではなく、子を揺り籠で眠らせるように……抗う意志を削いでいく」
その言葉に、全員の背筋が粟立った。
どれほど歩いたのか、誰も答えられなかった。時間の感覚はとうに狂わされ、進むたびに森は姿を変え、同じ光景へと繰り返し戻される。疲労と疑念に押し潰されそうになりながら、それでも四人は足を止めなかった。
そんな時だった。影の王女の糸が地に伸び、ぬかるんだ土に突き刺さる。彼女は鋭く息を呑み、振り返った。
「……待て。ここは……ただの森じゃない。見ろ」
レイジが剣の切っ先で泥を払いのけると、そこには人間の骨が半ば溶けて埋まっていた。白骨の間からは、無数の幼虫のようなものが這い出し、光を避けて地に潜っていく。
カリーネは目を細め、震える声で言った。
「……兵士の遺骸? でも、形がおかしい。骨格が……植物に融合してる……」
セレーナは杖を強く握り、恐怖を押し殺した。
「ここに……“母胎”が子を産み落とした……。そういうことなの?」
森の奥へと続く地面には、爪で抉られたような痕跡が無数に刻まれていた。大地が裂け、その奥へと続く道を指し示しているかのようだ。
レイジは地を見据え、低く唸った。
「……これが突破口か。森が閉じようとしても、奴の“巣”は隠しきれなかった」
影の王女が頷く。
「この痕跡は、異形の母体に導かれた者たちの行進。辿れば必ず巣に至る……だが、無事には済まない」
空気がさらに濃くなり、肺を満たすごとに重く沈む。視界の端には、母親の影のようなものが揺らめき、誰かに抱かれている錯覚が忍び寄る。
セレーナは涙を堪えながら声を上げた。
「……構わない。行こう。ここで止まったら、リリィナの犠牲が……無駄になる」
レイジは頷き、剣を握り直す。
「よし、腹を括れ。森が拒もうと、俺たちが切り開く」
彼らは互いの腰縄を再び確かめ合い、爪痕の続く暗い道を踏み込んでいった。そこには確かに、巣の気配が濃厚に漂っていた。母の胎内を思わせる湿った熱気、心臓の鼓動のような大地の震え。進むごとにそれは強まり、ついに四人の眼前に――閉ざされた洞穴の入口が姿を現した。
洞穴の入口は、獣の口ではなく、大地そのものが「母の胎」を開いたかのようだった。ぬめる粘膜のような壁は淡い光を放ち、湿り気を帯びた空気は体温よりもわずかに温かい。吐息のような風が頬を撫で、まるで「おかえり」と抱きしめるかのように全身を包み込む。
レイジは警戒の色を隠さず剣を握ったが、その柄は手の中で異様に重く感じられた。握力が抜け落ち、胸の奥に広がるのは抗えぬ安堵。
「……これは……罠だと……わかってるのに……」
セレーナは杖を掲げようとしたが、手が震えて持ち上がらなかった。壁から洩れる光が亡き妹の微笑みに重なり、心の奥を容赦なく抉る。
「リリィナ……もう一度、そばに……」
彼女の頬を涙が伝い落ち、杖を抱きしめる腕から力が抜けていった。
カリーネは辛香を握ろうとしたが、指が言うことを聞かない。体を撫でる空気は母の手のように優しく、外交の場で身につけた冷静さを根底から崩していく。
「……私……守られるなんて……こんなの……だめなのに」
必死に理性を繋ぎとめようとするが、膝は勝手に折れ、床の温もりに沈み込んでいった。
影の王女ですら、冷徹な視線が揺らいでいた。母を知らぬ彼女にとって、その温もりは未知の体験だった。裾から伸ばした影糸は力を失い、彼女の掌は熱に濡れて震える。
「……これが……母……? 抗えぬほど甘美で……胸が……苦しい……」
次第に四人の視界は霞み、瞼は重く、鼓動は規則正しく森の脈動と重なっていった。意識はゆっくりと溶けていき、彼らは母胎の夢に沈んだ。
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目を覚ました時、全員は洞穴の床に転がっていた。淡い光が壁に反射し、粘膜のような床の上に白い肌を浮かび上がらせる。
「……きゃっ!」
最初に声を上げたのはセレーナだった。瞳を見開き、自分の胸を両腕で覆う。頬は真っ赤に染まり、恥じらいと恐怖に揺れる。
「兄様……見ないで……! どうして……服が……ないの……」
レイジもまた目を覚まし、腰にあったはずの剣も服も消えていることに気づいた。全身の肌に赤い痕が薄く浮かび、まるで誰かに撫で回されたような感触が残っている。
「くそっ……俺たち……すべて剥がされて……」
その声は怒りに震えていたが、同時に頬に羞恥の赤みが差していた。
カリーネは慌てて長い髪で胸元を隠し、背を丸めて床に座り込む。普段は冷静な彼女も視線を泳がせ、仲間の顔を見られなかった。
「……外交の場でも裸同然にさらされることはなかったのに……なぜ……こんな……」
影の王女は唇を結び、長い黒髪を垂らして白い肩を隠す。冷徹であるはずの瞳も揺らぎを帯び、声は低く掠れていた。
「……武器も衣も……すべてを奪われた。時間さえ……」
周囲を見れば、松明は燃え尽き、食料袋は空になっていた。何もしていないはずなのに、一日という時が確かに奪われている。
レイジは拳を握り締め、歯を食いしばった。
「……これが“母胎の巣”の力か。俺たちを無力な子供に戻し、抗う術を奪う……」
洞穴の奥からは、脈動する心臓のような音が響いていた。その音は優しくも冷たく、「次は本当に抱きしめてやろう」と囁いているかのようだった。羞恥に震える彼らの姿を、暗闇の母は愉悦のうちに見下ろしていた。
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