44 / 70
第44話 ー奪われし誇りを求めてー
しおりを挟む
目覚めた後もなお、四人の耳には巣の奥から響く脈動が止むことなく届いていた。それは大地そのものの鼓動のようであり、あるいは母の子守歌のようでもあった。粘膜に似た壁は薄く光を放ち、どこもかしこも湿り気に満ちている。呼吸をするたび、肺の奥まで甘ったるい香気が染み込み、意識を曇らせた。
レイジは裸同然の身を隠すように背を丸めながらも、必死に前へ進んだ。剣も鎧もなく、仲間の視線からも自分の視線からも隠したい姿。だが怯んでいては、この巣に呑み込まれる。
「……俺たちの装備は必ずどこかにあるはずだ。探し出すしかない」
セレーナは頬を赤らめ、震える指で髪を胸元に垂らして隠す。その姿はかつての妖艶な魔導士の面影を失い、ただ羞恥に苛まれる少女のようだった。
「兄様……お願い、視線を逸らして……。今の私は……戦士じゃない。ただ……恥ずかしいだけ」
カリーネは外交官らしい冷静さを取り戻そうとするが、背を覆う布もなく、露わになった素肌が彼女の誇りを削いでいく。唇を噛みしめ、低く囁いた。
「……敵の前に出る前に……自分の仲間にすら顔を上げられないなんて……」
影の王女は長い髪を両肩に垂らし、白い肌を覆い隠していた。普段は冷徹そのものの彼女でさえ、その姿を晒すことに羞恥を覚えているのが伝わる。
「……母胎の罠だ。武器を奪うだけでなく、私たちの尊厳を削いで弱らせる……」
足元の床は生き物のように柔らかく沈み、歩くたびに水音が響く。その音は耳の奥にまで忍び込み、羞恥を増幅させるかのようだった。やがて進んだ先には、大きな繭のような塊が並んでいた。半透明の殻の中に、彼らの装備らしき影が見える。剣、杖、鎧、衣。それらは赤黒い液に浸され、まるで母胎に胎児を沈めるように揺蕩っていた。
セレーナが喉を震わせた。
「……あそこに……!」
レイジは拳を握り締めたが、繭に近づくと脳裏に声が響いた。『戻れ』『まだここで眠れ』『母が抱いてやる』。甘く優しいその囁きは、戦う意志を根こそぎ奪おうとしていた。
カリーネは両手で耳を塞ぎ、涙をにじませる。
「やめて……! こんな声に惑わされたら……私……」
影の王女の糸が繭へと伸びる。だが触れた瞬間、糸は溶け、白い霧と化して消えた。彼女は唇を噛み、わずかに震える声で呟く。
「……やはり、これは罠。母胎の意識そのものが装備を守っている」
彼らの前に横たわるのは、奪われた武器と服。だが同時に、それは淫蠱母が仕掛けた“揺り籠”であり、彼らを再び甘美な眠りへ誘う囁きの源でもあった。
半透明の繭は、近づくほどにぬるい呼気を吐き、内側に沈んだ剣や杖の影を揺らして見せた。見えているのに、触れようとした瞬間に遠のく――そんな意地の悪い距離感だ。粘膜めいた表面は脈を打ち、その鼓動が肌へ移ってくる。包まれれば楽になれる、と身体のどこかが囁いた。
「離れるな。声が頭に入ってくる前に、互いを見ろ」
レイジが言うたび、三人は小さく頷く。だが頷くたび、胸元や肩先を隠そうと腕が泳ぎ、頬の熱が増す。視線を合わせることそのものが難しい。誰もが自分の露わな姿を直視されたくなかった。
「……あの繭、硬いところと柔らかいところが交互にある。硬い部分を冷やせれば、割れるかもしれない」
セレーナが囁く。杖はない。けれど彼女は呼吸を整え、脈のリズムに合わせて掌へ微かな冷気を集めた。指先に灯るわずかな白。巣はそれを嫌うのか、繭の表面がざわりと粟立つ。
影の王女は裾の影を細く伸ばし、繭の根元を“縫い付ける”ように固定した。
「長くは保てない。揺り戻しが来る前に」
カリーネは唇を噛み、足もとに落ちていた殻片を拾い上げる。薄いが縁は鋭い。彼女は視線を逸らしながら小さく息を吐いた。
「見ないでね……手早く終わらせるから」
殻片を握る指が震え、胸元を髪で覆い隠す仕草にさらに赤みが差す。それでも彼女は躊躇を振り払い、セレーナの作った白い霜の継ぎ目へ刃を入れた。
繭が甘い唸りを上げる。途端に、耳の奥へ柔らかい声が流れ込んだ。『痛いの?』『大丈夫』『母がかわってあげる』。言葉ではないのに、意味だけが胸に溶ける。手を止めれば、この温度にもう一度包まれてしまう。
「だめ……!」
セレーナは己の頬をぴしゃりと叩き、冷気をさらに強めた。白い筋が繭を走り、わずかな亀裂が音を立てる。影の王女の糸が軋んだ。
「今だ、押し広げる!」
レイジが肩と前腕で亀裂をこじ開ける。素肌にぬめる感触がまとわり、熱が皮膚を撫でた。思わず息が漏れる。それが自分の声だと気づき、彼は歯を食いしばった。羞恥が頬へ昇る。背後でセレーナとカリーネが息を呑む気配。誰も何も言わない。言葉にした途端、平静が砕けると知っているからだ。
ぱん、と湿った破裂音。繭が裂け、赤黒い液が飛沫になって散った。中から滑り落ちたのは、レイジの外套、カリーネの薄布、セレーナの手袋、影の王女の軽い外衣。武器はない。それでも衣があることに、四人は一瞬だけ救われたように息を吐く。
「とりあえず――これを」
レイジは外套を背に回し、腰で結ぶ。肩からずり落ちぬよう、胸元を握り込む動きがぎこちない。セレーナは手袋を胸元へ抱き、うっすらと霜のついた布で鎖骨を隠した。指先に残る冷気が、まだ自分を保てる楔になる。
「見ないでって言ったのに……でも、ありがとう」
言いながら彼女は横顔だけで微笑み、レイジの視線から逃げる。
カリーネは薄布を腰に巻き、恥じらいで震える指を深呼吸で宥めた。
「これでは……外交の晩餐にも出られないわね」
冗談めかした言葉に、かすかな笑いが混じる。張り詰めた糸が少し緩む。
影の王女は外衣を肩にかけ、留め紐を結ぶと、ほんの一拍だけ目を閉じた。
「奪われた尊厳の一部、回収。次」
安堵は、すぐに揺り戻された。通路の天井から糸のようなものが垂れ、衣へ触れた瞬間、そこだけ温度が上がる。布地に染みる生温い感触が、肌まで伝わってくる。衣が重くなるのではない。身体が衣へ吸い寄せられる。
「離れろ!」
レイジが叫ぶより早く、繭の列がざわめき、通路全体に鼓動が走った。『せっかく着たのにね』『また戻っておいで』。耳ではなく、皮膚で聞こえる声。外套の内側を撫でるような波が、背を這い上がる。
影の王女が外衣の裾を握り締め、低く呟く。
「衣そのものが餌にされる。布から意志を侵す――これも母胎の手口」
彼女は素早く外衣の内側に影の糸を縫い込み、“重さ”を与えて揺らぎを殺した。セレーナも手袋に霜を纏わせ、布地を冷やして感覚の侵入を鈍らせる。カリーネは薄布の縁に殻片で細かな傷をつけ、表面をざらつかせて滑りを止めた。
「もう一つ、割る。武器がいる」
レイジは繭の列を見渡し、一番奥の濃い影へ歩み寄る。足裏を吸い上げる床の粘りが強まる。踏むたびに、幼い頃の記憶のような温さが脚へ絡む。着慣れぬ外套の裾が肌へ貼りつき、呼吸が浅くなる。――これは戦いだ。そう言い聞かせ、彼は拳を握り直した。
今度は影の王女が先に動く。糸で繭の“脈”を縛り、鼓動を一瞬だけ止める。セレーナがそこへ冷気を落とし、カリーネが殻片で継ぎ目を裂く。囁きが強くなる。『よくできました』『じゃあ休んでいいのよ』『もう何も持たなくていい』。
「休みたいのは山々だけどね」
カリーネが苦笑とともに刃を押し込む。レイジは両腕で割れ目を開き、歯を食いしばった。背筋を伝う粘膜の温度が、じわりと心へ入り込もうとする。彼は自分の頬を爪で引っ掻き、鋭い痛みで意識を縫い止めた。
――ぱしゅ、と小さく弾ける音。二つ目の繭から、レイジの手甲と、セレーナの短いマントが滑り落ちた。まだ剣はない。杖も見えない。けれど、握るものがあるだけで呼吸が深くなる。
「もう少し、いける」
レイジが手甲を装着し、拳を握る。その金属の感触が、ようやく自分の輪郭を取り戻させる。セレーナは短いマントを肩へ掛け、首もとに小さく結び目を作った。結び目が震える指に力をくれる。
「ありがとう……これで、少しだけ……前を見られる」
通路の奥、まだいくつも繭が眠っている。囁きは先ほどより粘つき、甘さを増していた。『えらい子』『がんばったね』『じゃあ、母のところへ』。
影の王女がその声を切るように言う。
「戻らない。私たちは、取り返すために来た」
羞恥と恐怖は消えない。むしろ、衣の下にまで忍び込んできた。だが四人は、その感情を肩で抱えたまま、三つ目の繭へ歩を進めた。次の破裂音が、奪われた誇りと“戦う姿”を呼び戻す合図になると信じて。
繭を割り、衣の一部を取り戻したとはいえ、四人の羞恥と恐怖は薄れなかった。通路はさらに深くうねり、壁に貼り付いた無数の小さな繭が、乳児のように身をよじらせながら甘い声を漏らしている。
『まだ足りない』『もっと母の中で眠れ』『肌を晒すのは、甘える証』――。
囁きは頭で聞くのではなく、肌から染み込んでくる。布の下にまで忍び込む湿った空気が、血潮と同じ温度で身体を撫でていった。
セレーナは肩を震わせ、マントを掴んだ。だがマントは汗と湿気に濡れて貼りつき、逆に彼女の曲線を際立たせていた。
「兄様……目を合わせないで。私……耐えられない」
羞恥に震えながらも、前へ進まなければならない矛盾が、彼女の声を揺らした。
カリーネは外交官として幾度も舌戦をくぐり抜けてきたが、この揺さぶりには言葉すら役立たない。壁の繭が耳元で囁き、幼い頃に母に膝枕された記憶を突きつけてくる。
「やめて……そんな記憶まで……利用しないで……」
頬を赤く染めながら、彼女は薄布を押さえ、必死に歩を進めた。
影の王女は冷徹さを装いながらも、声の揺さぶりにわずかに眉を寄せる。彼女には母という存在の記憶がなく、逆に“未知の温もり”への渇望を掘り起こされる。
「……知らぬはずなのに……これが、母……? 心が……ほどけていく」
糸を放とうとするが、指先が甘い痺れに縛られ、思うように操れない。
レイジは歯を食いしばり、心の奥に現れた幻影を振り払おうとした。そこに現れたのは、異世界へ来る前の母の姿。優しく笑みを浮かべ、肩に手を置いてくる。
「……帰っておいで、レイジ……もう戦わなくていいのよ」
胸が締め付けられ、足が止まりかける。だが背後で仲間の息が乱れるのを聞き、必死に叫んだ。
「惑わされるな! 俺たちの武器も、誇りも、ここで取り戻すんだ!」
その声に三人の視線が引き戻される。羞恥も恐怖も消えはしない。だが互いの存在を確かめることで、揺さぶりの波を一時的に押し返すことができた。
奥に進むと、より大きな繭が待ち受けていた。赤黒い液に沈んだその影は、剣と杖の輪郭をはっきりと映し出している。だが繭の表面には乳児のような顔が無数に浮かび、笑みを浮かべながら囁きを重ねていた。
『帰れない子』『母が全部もらってあげる』『肌も、声も、記憶も』
羞恥と恐怖は、もはや戦闘以上の試練となっていた。四人は互いに目を逸らしながらも、覚悟を新たにして繭へと手を伸ばした。
巨大な繭の前に立った瞬間、四人の胸は同時にざわめいた。そこに沈んでいるのは、彼らの「核」――レイジの剣、セレーナの杖。その二つがなければ、この戦いを挑むことすら許されない。
しかし繭の表面に浮かぶ無数の乳児の顔は、あまりにも不気味だった。目を開け、笑い、囁き、涙を流す。それぞれが異なる表情を浮かべながらも、同じ甘い声を紡ぐ。
『母が抱くから怖くない』『その手を離しておいで』『裸のままでも美しい』
セレーナは両手で耳を塞ぎ、顔を赤らめた。羞恥と恐怖が一体となり、身体を硬直させる。
「だめ……もう聞きたくない……」
レイジはそんな彼女の肩を掴み、強い声で遮った。
「俺が取り戻す。……お前たちは支えてくれ」
影の王女は静かに頷き、影糸を繭の根元へ突き立てる。カリーネは震える手で殻片を握り、セレーナは涙を拭って冷気を再び指先に灯した。羞恥を抱えたままでも、仲間としての誇りは揺るがない。
四人の力が交錯し、繭を縛り、冷やし、裂き、そしてレイジの両腕が力強く押し広げる。湿った破裂音とともに、赤黒い液が飛び散り、剣と杖が姿を現した。
レイジは剣を握り締め、その冷たい重みを確かめる。裸同然の自分を覆い隠すものはまだ薄衣しかない。だが剣があることで、羞恥の奥に確かな自信が戻ってきた。
「……ようやく帰ってきたな」
セレーナは杖を胸に抱きしめ、涙混じりに微笑んだ。
「……これがないと……私はただの弱い女の子だから……」
その声には羞恥と同時に、誇りが戻った安堵が滲んでいた。
だが、安堵は長く続かなかった。巣の奥から響く鼓動が急に高鳴り、粘膜の壁がどくどくと激しく脈打ち始める。天井から垂れ下がる無数の管が揺れ、粘液が滴り落ち、地面を濡らした。
影の王女が冷たい声で告げる。
「……母胎が気づいた。これ以上は……ただでは済まない」
カリーネは濡れた髪をかき上げ、薄布を握りしめた。羞恥はまだ肌に残っている。だが彼女は小さく笑みを浮かべ、仲間を見やった。
「いいじゃない。これ以上の試練が来るなら、誇りを取り戻した今の私たちで、真正面から受けてみせる」
巣全体が胎動し、囁きは歌へと変わった。甘い子守歌が、四人を再び眠りへ誘おうとする。だが今度は、剣も杖も、仲間との絆もある。
レイジは剣を振り上げ、仲間へ告げた。
「次が本番だ。母胎――淫蠱母を叩き潰す」
羞恥を抱えたまま、四人の眼差しは一つに揃う。戦うための姿勢を取り戻し、巣の奥へと進み出した。
レイジは裸同然の身を隠すように背を丸めながらも、必死に前へ進んだ。剣も鎧もなく、仲間の視線からも自分の視線からも隠したい姿。だが怯んでいては、この巣に呑み込まれる。
「……俺たちの装備は必ずどこかにあるはずだ。探し出すしかない」
セレーナは頬を赤らめ、震える指で髪を胸元に垂らして隠す。その姿はかつての妖艶な魔導士の面影を失い、ただ羞恥に苛まれる少女のようだった。
「兄様……お願い、視線を逸らして……。今の私は……戦士じゃない。ただ……恥ずかしいだけ」
カリーネは外交官らしい冷静さを取り戻そうとするが、背を覆う布もなく、露わになった素肌が彼女の誇りを削いでいく。唇を噛みしめ、低く囁いた。
「……敵の前に出る前に……自分の仲間にすら顔を上げられないなんて……」
影の王女は長い髪を両肩に垂らし、白い肌を覆い隠していた。普段は冷徹そのものの彼女でさえ、その姿を晒すことに羞恥を覚えているのが伝わる。
「……母胎の罠だ。武器を奪うだけでなく、私たちの尊厳を削いで弱らせる……」
足元の床は生き物のように柔らかく沈み、歩くたびに水音が響く。その音は耳の奥にまで忍び込み、羞恥を増幅させるかのようだった。やがて進んだ先には、大きな繭のような塊が並んでいた。半透明の殻の中に、彼らの装備らしき影が見える。剣、杖、鎧、衣。それらは赤黒い液に浸され、まるで母胎に胎児を沈めるように揺蕩っていた。
セレーナが喉を震わせた。
「……あそこに……!」
レイジは拳を握り締めたが、繭に近づくと脳裏に声が響いた。『戻れ』『まだここで眠れ』『母が抱いてやる』。甘く優しいその囁きは、戦う意志を根こそぎ奪おうとしていた。
カリーネは両手で耳を塞ぎ、涙をにじませる。
「やめて……! こんな声に惑わされたら……私……」
影の王女の糸が繭へと伸びる。だが触れた瞬間、糸は溶け、白い霧と化して消えた。彼女は唇を噛み、わずかに震える声で呟く。
「……やはり、これは罠。母胎の意識そのものが装備を守っている」
彼らの前に横たわるのは、奪われた武器と服。だが同時に、それは淫蠱母が仕掛けた“揺り籠”であり、彼らを再び甘美な眠りへ誘う囁きの源でもあった。
半透明の繭は、近づくほどにぬるい呼気を吐き、内側に沈んだ剣や杖の影を揺らして見せた。見えているのに、触れようとした瞬間に遠のく――そんな意地の悪い距離感だ。粘膜めいた表面は脈を打ち、その鼓動が肌へ移ってくる。包まれれば楽になれる、と身体のどこかが囁いた。
「離れるな。声が頭に入ってくる前に、互いを見ろ」
レイジが言うたび、三人は小さく頷く。だが頷くたび、胸元や肩先を隠そうと腕が泳ぎ、頬の熱が増す。視線を合わせることそのものが難しい。誰もが自分の露わな姿を直視されたくなかった。
「……あの繭、硬いところと柔らかいところが交互にある。硬い部分を冷やせれば、割れるかもしれない」
セレーナが囁く。杖はない。けれど彼女は呼吸を整え、脈のリズムに合わせて掌へ微かな冷気を集めた。指先に灯るわずかな白。巣はそれを嫌うのか、繭の表面がざわりと粟立つ。
影の王女は裾の影を細く伸ばし、繭の根元を“縫い付ける”ように固定した。
「長くは保てない。揺り戻しが来る前に」
カリーネは唇を噛み、足もとに落ちていた殻片を拾い上げる。薄いが縁は鋭い。彼女は視線を逸らしながら小さく息を吐いた。
「見ないでね……手早く終わらせるから」
殻片を握る指が震え、胸元を髪で覆い隠す仕草にさらに赤みが差す。それでも彼女は躊躇を振り払い、セレーナの作った白い霜の継ぎ目へ刃を入れた。
繭が甘い唸りを上げる。途端に、耳の奥へ柔らかい声が流れ込んだ。『痛いの?』『大丈夫』『母がかわってあげる』。言葉ではないのに、意味だけが胸に溶ける。手を止めれば、この温度にもう一度包まれてしまう。
「だめ……!」
セレーナは己の頬をぴしゃりと叩き、冷気をさらに強めた。白い筋が繭を走り、わずかな亀裂が音を立てる。影の王女の糸が軋んだ。
「今だ、押し広げる!」
レイジが肩と前腕で亀裂をこじ開ける。素肌にぬめる感触がまとわり、熱が皮膚を撫でた。思わず息が漏れる。それが自分の声だと気づき、彼は歯を食いしばった。羞恥が頬へ昇る。背後でセレーナとカリーネが息を呑む気配。誰も何も言わない。言葉にした途端、平静が砕けると知っているからだ。
ぱん、と湿った破裂音。繭が裂け、赤黒い液が飛沫になって散った。中から滑り落ちたのは、レイジの外套、カリーネの薄布、セレーナの手袋、影の王女の軽い外衣。武器はない。それでも衣があることに、四人は一瞬だけ救われたように息を吐く。
「とりあえず――これを」
レイジは外套を背に回し、腰で結ぶ。肩からずり落ちぬよう、胸元を握り込む動きがぎこちない。セレーナは手袋を胸元へ抱き、うっすらと霜のついた布で鎖骨を隠した。指先に残る冷気が、まだ自分を保てる楔になる。
「見ないでって言ったのに……でも、ありがとう」
言いながら彼女は横顔だけで微笑み、レイジの視線から逃げる。
カリーネは薄布を腰に巻き、恥じらいで震える指を深呼吸で宥めた。
「これでは……外交の晩餐にも出られないわね」
冗談めかした言葉に、かすかな笑いが混じる。張り詰めた糸が少し緩む。
影の王女は外衣を肩にかけ、留め紐を結ぶと、ほんの一拍だけ目を閉じた。
「奪われた尊厳の一部、回収。次」
安堵は、すぐに揺り戻された。通路の天井から糸のようなものが垂れ、衣へ触れた瞬間、そこだけ温度が上がる。布地に染みる生温い感触が、肌まで伝わってくる。衣が重くなるのではない。身体が衣へ吸い寄せられる。
「離れろ!」
レイジが叫ぶより早く、繭の列がざわめき、通路全体に鼓動が走った。『せっかく着たのにね』『また戻っておいで』。耳ではなく、皮膚で聞こえる声。外套の内側を撫でるような波が、背を這い上がる。
影の王女が外衣の裾を握り締め、低く呟く。
「衣そのものが餌にされる。布から意志を侵す――これも母胎の手口」
彼女は素早く外衣の内側に影の糸を縫い込み、“重さ”を与えて揺らぎを殺した。セレーナも手袋に霜を纏わせ、布地を冷やして感覚の侵入を鈍らせる。カリーネは薄布の縁に殻片で細かな傷をつけ、表面をざらつかせて滑りを止めた。
「もう一つ、割る。武器がいる」
レイジは繭の列を見渡し、一番奥の濃い影へ歩み寄る。足裏を吸い上げる床の粘りが強まる。踏むたびに、幼い頃の記憶のような温さが脚へ絡む。着慣れぬ外套の裾が肌へ貼りつき、呼吸が浅くなる。――これは戦いだ。そう言い聞かせ、彼は拳を握り直した。
今度は影の王女が先に動く。糸で繭の“脈”を縛り、鼓動を一瞬だけ止める。セレーナがそこへ冷気を落とし、カリーネが殻片で継ぎ目を裂く。囁きが強くなる。『よくできました』『じゃあ休んでいいのよ』『もう何も持たなくていい』。
「休みたいのは山々だけどね」
カリーネが苦笑とともに刃を押し込む。レイジは両腕で割れ目を開き、歯を食いしばった。背筋を伝う粘膜の温度が、じわりと心へ入り込もうとする。彼は自分の頬を爪で引っ掻き、鋭い痛みで意識を縫い止めた。
――ぱしゅ、と小さく弾ける音。二つ目の繭から、レイジの手甲と、セレーナの短いマントが滑り落ちた。まだ剣はない。杖も見えない。けれど、握るものがあるだけで呼吸が深くなる。
「もう少し、いける」
レイジが手甲を装着し、拳を握る。その金属の感触が、ようやく自分の輪郭を取り戻させる。セレーナは短いマントを肩へ掛け、首もとに小さく結び目を作った。結び目が震える指に力をくれる。
「ありがとう……これで、少しだけ……前を見られる」
通路の奥、まだいくつも繭が眠っている。囁きは先ほどより粘つき、甘さを増していた。『えらい子』『がんばったね』『じゃあ、母のところへ』。
影の王女がその声を切るように言う。
「戻らない。私たちは、取り返すために来た」
羞恥と恐怖は消えない。むしろ、衣の下にまで忍び込んできた。だが四人は、その感情を肩で抱えたまま、三つ目の繭へ歩を進めた。次の破裂音が、奪われた誇りと“戦う姿”を呼び戻す合図になると信じて。
繭を割り、衣の一部を取り戻したとはいえ、四人の羞恥と恐怖は薄れなかった。通路はさらに深くうねり、壁に貼り付いた無数の小さな繭が、乳児のように身をよじらせながら甘い声を漏らしている。
『まだ足りない』『もっと母の中で眠れ』『肌を晒すのは、甘える証』――。
囁きは頭で聞くのではなく、肌から染み込んでくる。布の下にまで忍び込む湿った空気が、血潮と同じ温度で身体を撫でていった。
セレーナは肩を震わせ、マントを掴んだ。だがマントは汗と湿気に濡れて貼りつき、逆に彼女の曲線を際立たせていた。
「兄様……目を合わせないで。私……耐えられない」
羞恥に震えながらも、前へ進まなければならない矛盾が、彼女の声を揺らした。
カリーネは外交官として幾度も舌戦をくぐり抜けてきたが、この揺さぶりには言葉すら役立たない。壁の繭が耳元で囁き、幼い頃に母に膝枕された記憶を突きつけてくる。
「やめて……そんな記憶まで……利用しないで……」
頬を赤く染めながら、彼女は薄布を押さえ、必死に歩を進めた。
影の王女は冷徹さを装いながらも、声の揺さぶりにわずかに眉を寄せる。彼女には母という存在の記憶がなく、逆に“未知の温もり”への渇望を掘り起こされる。
「……知らぬはずなのに……これが、母……? 心が……ほどけていく」
糸を放とうとするが、指先が甘い痺れに縛られ、思うように操れない。
レイジは歯を食いしばり、心の奥に現れた幻影を振り払おうとした。そこに現れたのは、異世界へ来る前の母の姿。優しく笑みを浮かべ、肩に手を置いてくる。
「……帰っておいで、レイジ……もう戦わなくていいのよ」
胸が締め付けられ、足が止まりかける。だが背後で仲間の息が乱れるのを聞き、必死に叫んだ。
「惑わされるな! 俺たちの武器も、誇りも、ここで取り戻すんだ!」
その声に三人の視線が引き戻される。羞恥も恐怖も消えはしない。だが互いの存在を確かめることで、揺さぶりの波を一時的に押し返すことができた。
奥に進むと、より大きな繭が待ち受けていた。赤黒い液に沈んだその影は、剣と杖の輪郭をはっきりと映し出している。だが繭の表面には乳児のような顔が無数に浮かび、笑みを浮かべながら囁きを重ねていた。
『帰れない子』『母が全部もらってあげる』『肌も、声も、記憶も』
羞恥と恐怖は、もはや戦闘以上の試練となっていた。四人は互いに目を逸らしながらも、覚悟を新たにして繭へと手を伸ばした。
巨大な繭の前に立った瞬間、四人の胸は同時にざわめいた。そこに沈んでいるのは、彼らの「核」――レイジの剣、セレーナの杖。その二つがなければ、この戦いを挑むことすら許されない。
しかし繭の表面に浮かぶ無数の乳児の顔は、あまりにも不気味だった。目を開け、笑い、囁き、涙を流す。それぞれが異なる表情を浮かべながらも、同じ甘い声を紡ぐ。
『母が抱くから怖くない』『その手を離しておいで』『裸のままでも美しい』
セレーナは両手で耳を塞ぎ、顔を赤らめた。羞恥と恐怖が一体となり、身体を硬直させる。
「だめ……もう聞きたくない……」
レイジはそんな彼女の肩を掴み、強い声で遮った。
「俺が取り戻す。……お前たちは支えてくれ」
影の王女は静かに頷き、影糸を繭の根元へ突き立てる。カリーネは震える手で殻片を握り、セレーナは涙を拭って冷気を再び指先に灯した。羞恥を抱えたままでも、仲間としての誇りは揺るがない。
四人の力が交錯し、繭を縛り、冷やし、裂き、そしてレイジの両腕が力強く押し広げる。湿った破裂音とともに、赤黒い液が飛び散り、剣と杖が姿を現した。
レイジは剣を握り締め、その冷たい重みを確かめる。裸同然の自分を覆い隠すものはまだ薄衣しかない。だが剣があることで、羞恥の奥に確かな自信が戻ってきた。
「……ようやく帰ってきたな」
セレーナは杖を胸に抱きしめ、涙混じりに微笑んだ。
「……これがないと……私はただの弱い女の子だから……」
その声には羞恥と同時に、誇りが戻った安堵が滲んでいた。
だが、安堵は長く続かなかった。巣の奥から響く鼓動が急に高鳴り、粘膜の壁がどくどくと激しく脈打ち始める。天井から垂れ下がる無数の管が揺れ、粘液が滴り落ち、地面を濡らした。
影の王女が冷たい声で告げる。
「……母胎が気づいた。これ以上は……ただでは済まない」
カリーネは濡れた髪をかき上げ、薄布を握りしめた。羞恥はまだ肌に残っている。だが彼女は小さく笑みを浮かべ、仲間を見やった。
「いいじゃない。これ以上の試練が来るなら、誇りを取り戻した今の私たちで、真正面から受けてみせる」
巣全体が胎動し、囁きは歌へと変わった。甘い子守歌が、四人を再び眠りへ誘おうとする。だが今度は、剣も杖も、仲間との絆もある。
レイジは剣を振り上げ、仲間へ告げた。
「次が本番だ。母胎――淫蠱母を叩き潰す」
羞恥を抱えたまま、四人の眼差しは一つに揃う。戦うための姿勢を取り戻し、巣の奥へと進み出した。
1
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
男女比1対5000世界で俺はどうすれバインダー…
アルファカッター
ファンタジー
ひょんな事から男女比1対5000の世界に移動した学生の忠野タケル。
そこで生活していく内に色々なトラブルや問題に巻き込まれながら生活していくものがたりである!
戦場帰りの俺が隠居しようとしたら、最強の美少女たちに囲まれて逃げ場がなくなった件
さん
ファンタジー
戦場で命を削り、帝国最強部隊を率いた男――ラル。
数々の激戦を生き抜き、任務を終えた彼は、
今は辺境の地に建てられた静かな屋敷で、
わずかな安寧を求めて暮らしている……はずだった。
彼のそばには、かつて命を懸けて彼を支えた、最強の少女たち。
それぞれの立場で戦い、支え、尽くしてきた――ただ、すべてはラルのために。
今では彼の屋敷に集い、仕え、そして溺愛している。
「ラルさまさえいれば、わたくしは他に何もいりませんわ!」
「ラル様…私だけを見ていてください。誰よりも、ずっとずっと……」
「ねぇラル君、その人の名前……まだ覚えてるの?」
「ラル、そんなに気にしなくていいよ!ミアがいるから大丈夫だよねっ!」
命がけの戦場より、ヒロインたちの“甘くて圧が強い愛情”のほうが数倍キケン!?
順番待ちの寝床争奪戦、過去の恋の追及、圧バトル修羅場――
ラルの平穏な日常は、最強で一途な彼女たちに包囲されて崩壊寸前。
これは――
【過去の傷を背負い静かに生きようとする男】と
【彼を神のように慕う最強少女たち】が織りなす、
“甘くて逃げ場のない生活”の物語。
――戦場よりも生き延びるのが難しいのは、愛されすぎる日常だった。
※表紙のキャラはエリスのイメージ画です。
天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】
田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。
俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。
「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」
そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。
「あの...相手の人の名前は?」
「...汐崎真凛様...という方ですね」
その名前には心当たりがあった。
天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。
こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。
旧校舎の地下室
守 秀斗
恋愛
高校のクラスでハブられている俺。この高校に友人はいない。そして、俺はクラスの美人女子高生の京野弘美に興味を持っていた。と言うか好きなんだけどな。でも、京野は美人なのに人気が無く、俺と同様ハブられていた。そして、ある日の放課後、京野に俺の恥ずかしい行為を見られてしまった。すると、京野はその事をバラさないかわりに、俺を旧校舎の地下室へ連れて行く。そこで、おかしなことを始めるのだったのだが……。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる