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第45話 ー淫蠱母との決戦ー
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巣の奥へ進むごとに、空気は異様なほど濃密になっていった。湿り気はただの水気ではない。鼻孔に入り込むと、甘ったるい乳の匂いが胸の奥を満たし、呼吸のたびに肺の内側へとまとわりつく。それは懐かしさと嫌悪を同時に呼び起こす匂いであり、仲間たちの顔には迷いと赤みが浮かんでいた。
足元はぬめるような感触で、歩くたびに足首を優しく吸い上げる。床が土ではなく、生き物の柔らかな皮膚であるとしか思えなかった。粘膜のような壁は淡く光を放ち、鼓動に合わせて微かに収縮している。洞窟全体がひとつの巨大な胎内であるかのようだった。
セレーナは杖を握りしめた手を強く震わせた。
「……ここまで来ると……もう逃げ場なんてないんだね」
彼女の声は勇気よりも羞恥と恐怖に染まり、頬には汗が滴り落ちていた。
レイジもまた、剣を強く握りながらも背筋に冷たいものを感じていた。勇敢であろうとする気持ちと、母胎の匂いに心をほどかれそうになる危うさが拮抗していたのだ。
「ここが……“母胎の中枢”。淫蠱母は、すぐそこにいる」
やがて視界の先に、異様な光景が広がった。洞窟の中央に鎮座するのは、壁と一体化した巨大な繭だった。直径は十数メートルに及び、半透明の殻の中で、赤黒い液体が波打つたびに内部の影が揺れ動く。無数の管が繭から伸び、天井や地面に絡みついては脈動し、その度に「どくん、どくん」と大地全体が鼓動しているように感じられた。
カリーネは唇を噛み、外交官として鍛えた冷静さを総動員して目を逸らすまいとした。だが、その眼差しは恐怖を隠しきれていなかった。
「……あれが……淫蠱母……。ただの怪物じゃない。これは……生きている巣そのもの……」
影の王女は目を細め、冷徹に観察していたが、その指先にはわずかに震えが走っていた。
「……母胎という概念を形にした存在。抗うこと自体が、己の出生を否定することに等しい……」
彼女でさえ、心の奥に母性の影を覗かされていることを感じていた。
繭の表面に亀裂が走り、ぬるりと光沢のある肢体が姿を現す。半透明の肌は昆虫の羽のように薄く輝き、胸元から下腹部にかけては母性を誇張するかのような膨らみを持ち、その奥からは無数の触手が溢れ出した。触手は大地を撫で、空気を震わせ、粘液を滴らせながらうねりを繰り返す。
そして、その顔――。目は大きく潤み、口元は微笑を湛えていた。恐ろしい怪物のはずなのに、その表情は優しく、慈母のそれであった。
『愛しい子らよ……どうして母から逃げるの……』
声は耳ではなく、胸の奥に直接響いた。幼い頃に母に抱かれた記憶を持つ者は、その声に抗えぬ安堵を覚えた。母を知らぬ者でさえ、心の深層で「本能的に求めていた温もり」を呼び起こされる。
セレーナは思わず胸元を押さえ、膝を折りかけた。
「……母様……?」
その目には怯えと恋しさが入り混じり、理性を削ぎ落とす危うさがあった。
カリーネも額を押さえ、必死に声を振り絞った。
「違う……これは幻……本物じゃない……!」
だが淫蠱母の眼差しは、そんな抵抗さえも慈しむように優しかった。
『大丈夫、怖がらなくていい。すべて母が抱きしめてあげる。あなたたちの羞恥も、恐れも、罪も……ぜんぶ、母の中で溶かしてあげる』
空間全体がその言葉に共鳴し、甘い匂いがさらに濃くなる。
レイジは剣を構え直し、仲間を振り返った。
「惑わされるな! これは母じゃない……俺たちを喰らう敵だ!」
その叫びは、鼓動に揺さぶられる空気の中でも確かに響いた。だが淫蠱母の微笑みは一層深まり、無数の触手が彼らを包み込むように持ち上がった。
「……ようこそ、愛しい子供たち」
戦いは、避けられぬ形で幕を開けた。
淫蠱母はゆるやかに両腕を広げた。母親が子を抱き寄せるかのような仕草――だがそこから迸ったのは、幾百もの粘液に濡れた触手だった。細いものは髪の毛のようにしなり、太いものは樹木の枝のように蠢く。その一本一本が生き物のような意志を宿し、地を這い、空を裂き、彼らを飲み込もうと迫ってきた。
レイジは即座に剣を振り下ろし、目前の触手を薙ぎ払った。切断面からは甘い乳臭を帯びた液体が噴き出し、肌にかかると体温が奪われるどころか逆にじんわりとした温もりを与えてくる。
「……ちっ、斬っても癒やされてるような感覚を与えるだと……!」
セレーナは杖を掲げようとしたが、触手が首筋を撫で、頬へと滑った瞬間に体が震えた。熱が走り、頭の中へ母の声が響く。
『大丈夫……疲れたでしょう。もう杖を手放してもいいのよ』
「……いや……っ、これ以上……惑わされては……!」
必死に冷気を集めようとするが、手の震えは止まらない。
カリーネは触手の壁に阻まれ、炎の魔法を構築する。だが囁きが耳に流れ込む。『外交も、誇りも、母の腕の中では無意味よ』。炎の核はぐらりと揺らぎ、言葉を紡ぐ口がかすかに笑いを漏らす。自分が笑ったことに気づき、ぞっとして魔法陣を強引に固定した。
「……危なかった……もう少しで、私は……」
影の王女の影糸は触手に絡め取られ、逆に自分の方へ引き寄せられる。視界には、知らぬはずの母の姿が現れた。長い黒髪を揺らし、自分と同じ瞳で微笑む女。その幻影に胸が締め付けられ、糸を操る指先が震えた。
「……これは幻……そう、ただの幻……!」
声に自らを縫い止め、再び糸を放った。
触手の群れは彼らを捕えようとするだけでなく、羞恥と快楽の狭間へ落とそうとしていた。衣の下を撫でるように滑り込み、足元をすくい、背を優しく抱き寄せる。普通なら嫌悪を覚えるはずの動きが、なぜか「母の温もり」として脳に届くのだ。
「くそっ……! 俺たちを赤子に戻そうっていうのか!」
レイジは剣を振るい、波のように押し寄せる触手を切り裂いた。だが、そのたびに甘い匂いが強まり、瞼が重くなっていく。
淫蠱母の声が洞窟全体に響き渡った。
『抗わなくていい……誇りも武器も捨てて、母の中で眠りなさい……』
四人は息を合わせる間もなく、それぞれが自らの幻影と羞恥の罠に呑まれそうになっていた。
触手の奔流に押し込まれ、四人は散り散りに引き裂かれそうになっていた。ぬるりとした粘液が肌を滑り、衣を通じて温もりが染み込んでくる。心臓の鼓動は加速し、羞恥と快感の境目が曖昧になっていく。
セレーナは杖を握る手が痺れ、膝をついた。視界の隅に浮かぶのはリリィナの姿。妹が笑いかけてくる。
「もういいんだよ、お姉ちゃん……戦わなくても……」
甘く懐かしい声が胸を突き破り、涙が頬を伝った。だがその幻影は、触手の先端が織りなした“虚ろな映像”に過ぎない。セレーナは嗚咽しながら叫んだ。
「……リリィナは、こんな声で私を縛らない! 本物の妹は……強くて、優しい子だった!」
涙を拭い、杖に冷気を宿す。周囲の触手が凍りつき、砕け散った。
カリーネは外交の場で培った言葉の盾を奪われ、幻影の声に絡め取られていた。『あなたの言葉に意味はない』『母が決める世界で、理屈は不要』。誇りを否定され、息が詰まる。だがふと、レイジの背に浮かぶ傷跡が目に入った。彼が幾度も盾となり、ここまで導いてくれたことを思い出す。
「……言葉は無意味じゃない。私の声は仲間を繋ぐためにある!」
彼女は胸から絞り出すように叫び、再び炎を編んだ。赤い火球が飛び、絡みついていた触手を焼き払った。
影の王女は、知らぬ母の幻影に心を突き刺されていた。長い腕が伸びてきて、「あなたは孤独じゃない」と囁く。胸が疼き、抗うべき理由が霞む。だが彼女は唇を噛み、レイジの声を思い出した。――「仲間として、お前を選んだ」。
「私は……母を知らない。だが今は孤独じゃない!」
影糸が一斉に広がり、十数本の触手を切断した。
レイジもまた、実の母の幻影に足を止めかけていた。暖かな笑みで肩を抱く姿。
「帰っておいで、レイジ……もう戦わなくていい」
喉の奥から嗚咽がこぼれそうになる。だが振り返れば、仲間たちが必死に幻を打ち砕いている。セレーナが泣きながら杖を振るい、カリーネが声を張り上げ、影の王女が影糸を操っている。彼らは母ではなく「今を共にする仲間」を選んでいた。
「……俺が母に帰るんじゃない。仲間のもとに、俺は立ち続けるんだ!」
剣を振り下ろし、触手をまとめて薙ぎ払う。飛び散った粘液が頬にかかるが、それすらも温もりではなく「敵の血」だと心で塗り替えた。
四人は互いの視線を合わせ、声を重ねた。羞恥に頬を赤らめながらも、その眼差しは強い。
「私たちは……もう惑わされない!」
淫蠱母の声が揺らぎ、苛立ちを帯びた響きに変わる。『どうして……母を拒むの……?』
甘い囁きの殻を破り、戦士としての彼らの結束が、今ようやく本物の武器となって立ち上がろうとしていた。
淫蠱母の全身が怒りに震えた。もはや優しい微笑みは仮面のように剥がれ、代わりに現れたのは歪んだ母性――「抱擁」という名の支配そのものだった。無数の触手が暴風のようにうねり、巣全体が胎動し始める。壁はどくどくと脈打ち、赤黒い液が飛沫となって降り注ぎ、床は膝下までぬるまった粘液に沈んでいった。
「ここで決める!」
レイジは剣を構え、粘液を跳ね散らしながら突き進む。だが触手は一斉に彼へ伸び、鎧の代わりとなる衣を剥ぎ取り、裸同然の姿へと引き戻そうとする。羞恥が胸を焼くが、彼はそれを力に変えて叫んだ。
「これ以上、誇りを奪わせるもんかッ!」
セレーナが杖を高く掲げ、涙を滲ませながら呪文を唱える。冷気が奔流となり、無数の触手を凍らせて砕いた。だが凍った破片からも小さな触手が芽吹き、彼女の脚に絡みつく。頬を赤く染めながらも、彼女は杖を強く握り直した。
「私は……妹を守れなかった。でも、今度こそ仲間を守る!」
カリーネは炎を放ち、熱と羞恥に包まれながらも声を張り上げた。外交官としての理性を武器に、淫蠱母の声をかき消す。
「あなたの言葉は偽り! 本物の絆は、ここにある!」
炎が繭の表面を焼き、母胎の皮膚が悲鳴を上げるように裂けた。
影の王女は影糸を十重二十重に重ね、巨大な繭の脈動を縛り付けた。だが彼女の耳にも再び囁きが届く。『孤独はもう終わり。母が抱いてあげる』。胸が疼き、手が緩みかける。だが彼女は振り返り、仲間たちの姿を見た。レイジの背、セレーナの涙、カリーネの声。
「私は孤独じゃない。抱くべき相手は、すでに選んだ!」
影糸が黒い稲妻のように走り、触手の群れを切り裂いた。
四人の力が重なった瞬間、淫蠱母の身体に大きな亀裂が走る。甘い匂いが爆発のように広がり、空気がねっとりと粘りついた。声は怒号と甘言を入り混ぜ、母性の仮面が崩れていく。
『なぜ……なぜ拒むの……子が母を否定するなんて……あってはならない……!』
「俺たちは子供じゃない。戦士だ!」
レイジは叫び、剣に全ての力を込める。羞恥も恐怖も、仲間を守るための燃料へ変えて。剣が振り下ろされると同時に、セレーナの氷、カリーネの炎、影の王女の糸が合流し、光と闇と熱が一つの奔流となった。
淫蠱母は絶叫を上げ、全身をのたうたせる。触手は空を裂き、床を揺らし、壁を穿ったが、もはやその力に秩序はなかった。最後に粘液を撒き散らし、母性の仮面を崩壊させながら、その巨体は轟音とともに崩れ落ちた。
甘い囁きは消え、洞窟の鼓動も止まる。残ったのは、静寂と粘液に濡れた床の冷たさだけ。
四人は肩で息をし、互いの顔を見た。羞恥に赤らんだ頬も、震える手も、もはや隠しようがない。だがその瞳には確かな誇りと絆が宿っていた。
「……やった……の?」
セレーナが震える声で問い、レイジは剣を地へ突き立て、深く頷いた。
「ああ。淫蠱母は……倒した」
だが、その瞬間、巣の奥から冷たい風が吹き抜けた。まるで、巨大な存在が目を覚ましたかのように。淫蠱母は確かに倒れたのだ。だがこれは終わりではなく、始まりに過ぎなかった。
足元はぬめるような感触で、歩くたびに足首を優しく吸い上げる。床が土ではなく、生き物の柔らかな皮膚であるとしか思えなかった。粘膜のような壁は淡く光を放ち、鼓動に合わせて微かに収縮している。洞窟全体がひとつの巨大な胎内であるかのようだった。
セレーナは杖を握りしめた手を強く震わせた。
「……ここまで来ると……もう逃げ場なんてないんだね」
彼女の声は勇気よりも羞恥と恐怖に染まり、頬には汗が滴り落ちていた。
レイジもまた、剣を強く握りながらも背筋に冷たいものを感じていた。勇敢であろうとする気持ちと、母胎の匂いに心をほどかれそうになる危うさが拮抗していたのだ。
「ここが……“母胎の中枢”。淫蠱母は、すぐそこにいる」
やがて視界の先に、異様な光景が広がった。洞窟の中央に鎮座するのは、壁と一体化した巨大な繭だった。直径は十数メートルに及び、半透明の殻の中で、赤黒い液体が波打つたびに内部の影が揺れ動く。無数の管が繭から伸び、天井や地面に絡みついては脈動し、その度に「どくん、どくん」と大地全体が鼓動しているように感じられた。
カリーネは唇を噛み、外交官として鍛えた冷静さを総動員して目を逸らすまいとした。だが、その眼差しは恐怖を隠しきれていなかった。
「……あれが……淫蠱母……。ただの怪物じゃない。これは……生きている巣そのもの……」
影の王女は目を細め、冷徹に観察していたが、その指先にはわずかに震えが走っていた。
「……母胎という概念を形にした存在。抗うこと自体が、己の出生を否定することに等しい……」
彼女でさえ、心の奥に母性の影を覗かされていることを感じていた。
繭の表面に亀裂が走り、ぬるりと光沢のある肢体が姿を現す。半透明の肌は昆虫の羽のように薄く輝き、胸元から下腹部にかけては母性を誇張するかのような膨らみを持ち、その奥からは無数の触手が溢れ出した。触手は大地を撫で、空気を震わせ、粘液を滴らせながらうねりを繰り返す。
そして、その顔――。目は大きく潤み、口元は微笑を湛えていた。恐ろしい怪物のはずなのに、その表情は優しく、慈母のそれであった。
『愛しい子らよ……どうして母から逃げるの……』
声は耳ではなく、胸の奥に直接響いた。幼い頃に母に抱かれた記憶を持つ者は、その声に抗えぬ安堵を覚えた。母を知らぬ者でさえ、心の深層で「本能的に求めていた温もり」を呼び起こされる。
セレーナは思わず胸元を押さえ、膝を折りかけた。
「……母様……?」
その目には怯えと恋しさが入り混じり、理性を削ぎ落とす危うさがあった。
カリーネも額を押さえ、必死に声を振り絞った。
「違う……これは幻……本物じゃない……!」
だが淫蠱母の眼差しは、そんな抵抗さえも慈しむように優しかった。
『大丈夫、怖がらなくていい。すべて母が抱きしめてあげる。あなたたちの羞恥も、恐れも、罪も……ぜんぶ、母の中で溶かしてあげる』
空間全体がその言葉に共鳴し、甘い匂いがさらに濃くなる。
レイジは剣を構え直し、仲間を振り返った。
「惑わされるな! これは母じゃない……俺たちを喰らう敵だ!」
その叫びは、鼓動に揺さぶられる空気の中でも確かに響いた。だが淫蠱母の微笑みは一層深まり、無数の触手が彼らを包み込むように持ち上がった。
「……ようこそ、愛しい子供たち」
戦いは、避けられぬ形で幕を開けた。
淫蠱母はゆるやかに両腕を広げた。母親が子を抱き寄せるかのような仕草――だがそこから迸ったのは、幾百もの粘液に濡れた触手だった。細いものは髪の毛のようにしなり、太いものは樹木の枝のように蠢く。その一本一本が生き物のような意志を宿し、地を這い、空を裂き、彼らを飲み込もうと迫ってきた。
レイジは即座に剣を振り下ろし、目前の触手を薙ぎ払った。切断面からは甘い乳臭を帯びた液体が噴き出し、肌にかかると体温が奪われるどころか逆にじんわりとした温もりを与えてくる。
「……ちっ、斬っても癒やされてるような感覚を与えるだと……!」
セレーナは杖を掲げようとしたが、触手が首筋を撫で、頬へと滑った瞬間に体が震えた。熱が走り、頭の中へ母の声が響く。
『大丈夫……疲れたでしょう。もう杖を手放してもいいのよ』
「……いや……っ、これ以上……惑わされては……!」
必死に冷気を集めようとするが、手の震えは止まらない。
カリーネは触手の壁に阻まれ、炎の魔法を構築する。だが囁きが耳に流れ込む。『外交も、誇りも、母の腕の中では無意味よ』。炎の核はぐらりと揺らぎ、言葉を紡ぐ口がかすかに笑いを漏らす。自分が笑ったことに気づき、ぞっとして魔法陣を強引に固定した。
「……危なかった……もう少しで、私は……」
影の王女の影糸は触手に絡め取られ、逆に自分の方へ引き寄せられる。視界には、知らぬはずの母の姿が現れた。長い黒髪を揺らし、自分と同じ瞳で微笑む女。その幻影に胸が締め付けられ、糸を操る指先が震えた。
「……これは幻……そう、ただの幻……!」
声に自らを縫い止め、再び糸を放った。
触手の群れは彼らを捕えようとするだけでなく、羞恥と快楽の狭間へ落とそうとしていた。衣の下を撫でるように滑り込み、足元をすくい、背を優しく抱き寄せる。普通なら嫌悪を覚えるはずの動きが、なぜか「母の温もり」として脳に届くのだ。
「くそっ……! 俺たちを赤子に戻そうっていうのか!」
レイジは剣を振るい、波のように押し寄せる触手を切り裂いた。だが、そのたびに甘い匂いが強まり、瞼が重くなっていく。
淫蠱母の声が洞窟全体に響き渡った。
『抗わなくていい……誇りも武器も捨てて、母の中で眠りなさい……』
四人は息を合わせる間もなく、それぞれが自らの幻影と羞恥の罠に呑まれそうになっていた。
触手の奔流に押し込まれ、四人は散り散りに引き裂かれそうになっていた。ぬるりとした粘液が肌を滑り、衣を通じて温もりが染み込んでくる。心臓の鼓動は加速し、羞恥と快感の境目が曖昧になっていく。
セレーナは杖を握る手が痺れ、膝をついた。視界の隅に浮かぶのはリリィナの姿。妹が笑いかけてくる。
「もういいんだよ、お姉ちゃん……戦わなくても……」
甘く懐かしい声が胸を突き破り、涙が頬を伝った。だがその幻影は、触手の先端が織りなした“虚ろな映像”に過ぎない。セレーナは嗚咽しながら叫んだ。
「……リリィナは、こんな声で私を縛らない! 本物の妹は……強くて、優しい子だった!」
涙を拭い、杖に冷気を宿す。周囲の触手が凍りつき、砕け散った。
カリーネは外交の場で培った言葉の盾を奪われ、幻影の声に絡め取られていた。『あなたの言葉に意味はない』『母が決める世界で、理屈は不要』。誇りを否定され、息が詰まる。だがふと、レイジの背に浮かぶ傷跡が目に入った。彼が幾度も盾となり、ここまで導いてくれたことを思い出す。
「……言葉は無意味じゃない。私の声は仲間を繋ぐためにある!」
彼女は胸から絞り出すように叫び、再び炎を編んだ。赤い火球が飛び、絡みついていた触手を焼き払った。
影の王女は、知らぬ母の幻影に心を突き刺されていた。長い腕が伸びてきて、「あなたは孤独じゃない」と囁く。胸が疼き、抗うべき理由が霞む。だが彼女は唇を噛み、レイジの声を思い出した。――「仲間として、お前を選んだ」。
「私は……母を知らない。だが今は孤独じゃない!」
影糸が一斉に広がり、十数本の触手を切断した。
レイジもまた、実の母の幻影に足を止めかけていた。暖かな笑みで肩を抱く姿。
「帰っておいで、レイジ……もう戦わなくていい」
喉の奥から嗚咽がこぼれそうになる。だが振り返れば、仲間たちが必死に幻を打ち砕いている。セレーナが泣きながら杖を振るい、カリーネが声を張り上げ、影の王女が影糸を操っている。彼らは母ではなく「今を共にする仲間」を選んでいた。
「……俺が母に帰るんじゃない。仲間のもとに、俺は立ち続けるんだ!」
剣を振り下ろし、触手をまとめて薙ぎ払う。飛び散った粘液が頬にかかるが、それすらも温もりではなく「敵の血」だと心で塗り替えた。
四人は互いの視線を合わせ、声を重ねた。羞恥に頬を赤らめながらも、その眼差しは強い。
「私たちは……もう惑わされない!」
淫蠱母の声が揺らぎ、苛立ちを帯びた響きに変わる。『どうして……母を拒むの……?』
甘い囁きの殻を破り、戦士としての彼らの結束が、今ようやく本物の武器となって立ち上がろうとしていた。
淫蠱母の全身が怒りに震えた。もはや優しい微笑みは仮面のように剥がれ、代わりに現れたのは歪んだ母性――「抱擁」という名の支配そのものだった。無数の触手が暴風のようにうねり、巣全体が胎動し始める。壁はどくどくと脈打ち、赤黒い液が飛沫となって降り注ぎ、床は膝下までぬるまった粘液に沈んでいった。
「ここで決める!」
レイジは剣を構え、粘液を跳ね散らしながら突き進む。だが触手は一斉に彼へ伸び、鎧の代わりとなる衣を剥ぎ取り、裸同然の姿へと引き戻そうとする。羞恥が胸を焼くが、彼はそれを力に変えて叫んだ。
「これ以上、誇りを奪わせるもんかッ!」
セレーナが杖を高く掲げ、涙を滲ませながら呪文を唱える。冷気が奔流となり、無数の触手を凍らせて砕いた。だが凍った破片からも小さな触手が芽吹き、彼女の脚に絡みつく。頬を赤く染めながらも、彼女は杖を強く握り直した。
「私は……妹を守れなかった。でも、今度こそ仲間を守る!」
カリーネは炎を放ち、熱と羞恥に包まれながらも声を張り上げた。外交官としての理性を武器に、淫蠱母の声をかき消す。
「あなたの言葉は偽り! 本物の絆は、ここにある!」
炎が繭の表面を焼き、母胎の皮膚が悲鳴を上げるように裂けた。
影の王女は影糸を十重二十重に重ね、巨大な繭の脈動を縛り付けた。だが彼女の耳にも再び囁きが届く。『孤独はもう終わり。母が抱いてあげる』。胸が疼き、手が緩みかける。だが彼女は振り返り、仲間たちの姿を見た。レイジの背、セレーナの涙、カリーネの声。
「私は孤独じゃない。抱くべき相手は、すでに選んだ!」
影糸が黒い稲妻のように走り、触手の群れを切り裂いた。
四人の力が重なった瞬間、淫蠱母の身体に大きな亀裂が走る。甘い匂いが爆発のように広がり、空気がねっとりと粘りついた。声は怒号と甘言を入り混ぜ、母性の仮面が崩れていく。
『なぜ……なぜ拒むの……子が母を否定するなんて……あってはならない……!』
「俺たちは子供じゃない。戦士だ!」
レイジは叫び、剣に全ての力を込める。羞恥も恐怖も、仲間を守るための燃料へ変えて。剣が振り下ろされると同時に、セレーナの氷、カリーネの炎、影の王女の糸が合流し、光と闇と熱が一つの奔流となった。
淫蠱母は絶叫を上げ、全身をのたうたせる。触手は空を裂き、床を揺らし、壁を穿ったが、もはやその力に秩序はなかった。最後に粘液を撒き散らし、母性の仮面を崩壊させながら、その巨体は轟音とともに崩れ落ちた。
甘い囁きは消え、洞窟の鼓動も止まる。残ったのは、静寂と粘液に濡れた床の冷たさだけ。
四人は肩で息をし、互いの顔を見た。羞恥に赤らんだ頬も、震える手も、もはや隠しようがない。だがその瞳には確かな誇りと絆が宿っていた。
「……やった……の?」
セレーナが震える声で問い、レイジは剣を地へ突き立て、深く頷いた。
「ああ。淫蠱母は……倒した」
だが、その瞬間、巣の奥から冷たい風が吹き抜けた。まるで、巨大な存在が目を覚ましたかのように。淫蠱母は確かに倒れたのだ。だがこれは終わりではなく、始まりに過ぎなかった。
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