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第62話 ー神ヲモ抱イタ王ノ胸デー
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床に沈められた三人の体を、無数の腕が優しく撫で回していた。抗う力はもはや残っていない。血と涙と吐瀉で濡れた身体は、ただ「抱かれるための肉」として扱われ、心すらも甘い囁きに侵食されていた。
そのとき、奥の扉が再び軋んだ。
ぎぃ……ぎぃ……。
音が鳴るたびに神殿全体が共鳴し、三人の胸が内側から破裂しそうに痛んだ。
「……まだ……出てきてすら……いなかったのか……」
レイジが血を吐きながら呟いた。
扉の隙間から黒い霧が溢れ出す。だが今までと違う。霧は煙ではなく、液体のように重く粘り、そこから無数の指先が突き出されていた。指は次々に枝分かれし、絡み合い、やがて一つの巨大な腕を形作った。
《我ガ抱擁ニ耐エル者ハ無シ……神デサエ、我ノ胸デ眠ッタ……》
その声が広間を満たすと、像たちの口から一斉に黒い光が溢れ出した。光は霧に吸い込まれ、やがて巨大な影が扉の奥から這い出してきた。
姿を現したそれは、巨人のようでもあり、神像のようでもあり、そして母胎そのものでもあった。無数の腕が背から生え、絡まり合って一本の翼のように広がっている。胸の中央には黄金の鼓動が光り輝き、その鼓動に合わせて神殿全体が震えていた。
顔――と呼ぶべきものは存在しなかった。そこには無数の仮面が重なり合っていた。少女の笑顔、母の微笑み、老人の皺だらけの顔、神聖な仮面、獣の面影。瞬きのごとく切り替わり、見つめる者の心を掴んで離さない。
セレーナはその顔を見た瞬間、胸の奥を鷲掴みにされたように悲鳴を上げた。
「やめて……見ないで……!」
視線を逸らそうとしても、瞳が勝手に引き寄せられる。涙が溢れ、眼球そのものが焼けるように痛んだ。血の涙が流れ落ち、頬を濡らす。
影の女王もまた、視線を奪われた。
「……な、んだ……これは……」
父の幻影が背に抱き付いたまま、その顔の群れと重なって見えた。愛憎の全てを吸い上げられ、心が軋み、喉から鮮血が吹き出した。
レイジは必死に剣を握ろうとしたが、すでに刃は影に飲まれていた。代わりに心臓を直接掴まれるような圧が走り、膝から血が滴り落ちた。
「ぐっ……これが……原初の……」
言葉を吐き出すたびに血が混ざり、喉を焼いた。
娼王はゆっくりと広間へと歩み出した。足音はない。だが一歩踏み出すごとに床が波打ち、石が肉に変わり、胎動する。
《抗ウナ……汝ラハ既ニ我ノ中デアル……》
声は優しく、慈愛に満ちていた。それがかえって恐ろしかった。母に抱かれる安心感と、捕食者に喰われる恐怖が同時に襲い、三人の精神を粉砕しようとしていた。
セレーナの手から再び符が生まれかけたが、指先から溶け落ち、黒い泥となって床に吸い込まれた。
影の女王の闇糸も同じだった。伸ばす前に腕に絡み取られ、糸そのものが娼王の翼の一部に変えられていく。
レイジの剣はすでに形を失い、影の刃として娼王の背から生えていた。
「……俺たちの力が……奪われて……」
レイジは呆然と呟いた。
《欲望モ、誓イモ、孤独モ、全テ我ガ糧……抗ウ術ナド存在セヌ》
娼王が広間を覆った瞬間、三人の体は再び床に叩き付けられた。骨が軋み、口から血と吐瀉が同時に溢れ出す。視界は赤と黒に染まり、意識が遠ざかる。
「……これが……神をも抱いた……」
レイジの言葉は、絶望の証明でしかなかった。
顕現した娼王は広間を満たし、その存在そのものが「世界の中心」であるかのように揺るぎなかった。無数の腕が空間を漂い、一本一本が異なる温度と質感を持ち、触れられた者の記憶を抉り出す。
レイジが立ち上がろうと膝を押し上げた瞬間、一本の腕が頬を撫でた。柔らかな母の手の感触――しかし次の瞬間には刃のように鋭くなり、頬の肉を裂いた。鮮血が飛び散り、石畳を濡らす。
「ぐっ……!」
痛みに耐えようとしたが、裂かれた頬に別の手が触れ、今度は甘い舌先のように優しく舐め上げた。その矛盾に頭が混乱し、思考が砕け散っていく。
セレーナは玉座に縛られたまま、数十本の腕に全身を撫で回されていた。指先は髪を梳き、胸を押さえ、背をなぞる。快感と痛みが交互に押し寄せ、理性が剥がれていく。
「やめ……あぁ……!」
声を絞り出そうとするたびに、口元に腕が触れ、吐き気を誘い、血と共に呻きを飲み込ませた。
影の女王もまた、父の幻影を模した腕に首を締め上げられていた。だが締め付けは苦しさと同時に安らぎを伴い、拒絶と渇望がせめぎ合う。
「……くっ……これは……!」
瞳から血の涙が零れ、頬を濡らす。冷酷な女王の面影は崩れ、ただ「抱かれたい」と願う少女の表情へと歪んでいった。
娼王の胸の中央で輝く黄金の鼓動が高まり、神殿全体が震えた。壁の像たちは同時に開眼し、黒い涙を流しながら賛美の声を上げる。
《抱カレヨ……欲望ハ全テヲ赦ス……》
その声に呼応するように、三人の身体から力が抜け落ちていった。
レイジの剣はすでに奪われ、セレーナの符は生まれる前に霧散し、影の女王の闇糸は完全に溶けて娼王の翼に取り込まれていた。
「……武器が……術が……全部……」
セレーナは掠れ声で呻いた。
娼王は歩みを止め、ただ三人を見下ろした。顔は仮面のように変わり続け、母の微笑から神の仮面へ、そして獣の咆哮へと移り変わる。視線を合わせた瞬間、魂そのものが抱き込まれ、記憶が書き換えられるような錯覚が走った。
レイジは己を保とうと必死だった。だが胸に押し付けられた腕のひと撫でで、心臓が掴まれ、激しい吐血を強いられた。
「がはっ……!」
血が噴き出し、床に広がる。だがその血さえ娼王の糧となり、腕の先が赤黒く脈動した。
セレーナは背骨をなぞられ、全身に震えが走った。理性が悲鳴を上げ、吐瀉が込み上げる。吐き出すと同時に涙と血が混じり、喉を焼いた。
「もう……抗えない……」
影の女王はさらに強く抱き締められ、背骨が軋む音を聞いた。口から血が溢れ、呻き声が絶望の証として広間に響いた。
《抗ウ術ハ無イ……抗エバ抗エル程、汝ラハ抱カレル……》
その宣告と共に、三人は地に沈み込み、床の胎動に飲み込まれていった。広間の全てが娼王の胎内であり、彼らは逃げる場所を完全に失った。
「……勝てる……はずが……ない……」
レイジの呟きは、仲間二人の心にも同時に響いた。
絶望は、もはや疑いようがなかった。
神殿の広間はもはや空間としての意味を失っていた。壁も床も天井も、すべてが胎動する肉のように脈打ち、三人の呼吸や鼓動を強制的に合わせていた。まるで娼王の体内に取り込まれたかのようだった。
レイジは膝をついたまま、血に濡れた手を地に突いていた。肺は潰されるように痛み、呼吸は途切れ途切れだった。胸にのしかかる圧は剣を握る力すら奪い、ただ震える指先だけが「まだ立てる」と叫んでいた。だがその声は虚ろで、今にも消えそうだった。
セレーナは玉座に押し付けられ、全身を無数の腕に覆われていた。柔らかい手、冷たい手、爪を持つ手――それぞれが彼女の肌を撫で、背を支え、髪を梳き、まるで「愛でる」ように弄んでいた。だがそれは愛ではなく、支配の証。
「……もう……誓いなんて……」
掠れた声で洩らした瞬間、胸に抱えていた誇りが砕け散り、喉から嗚咽が漏れた。吐き気が込み上げ、血混じりの嘔吐が彼女の胸を汚した。腕はその吐瀉をすら甘美に舐め取り、彼女の羞恥と絶望をさらに深めた。
影の女王は、父の幻影を模した腕に背を抱かれ続けていた。首筋に添えられた手は温かく、幼き日に欲した救いそのものだった。
「……孤独じゃ……なかったのかもしれない……」
涙が溢れ、頬を濡らす。彼女は必死に抗おうとしたが、その声は細く震え、抱擁の中で消えていった。闇糸を生み出そうと指を動かすが、血が滴り落ちるだけで、何も生まれなかった。
《汝ラノ心ハ既ニ砕ケタ……》
娼王の声が響いた。優しい子守唄のような調べに、三人の鼓動はさらに弱まり、まるで眠りに落ちる寸前のような感覚に包まれた。
レイジの視界は霞み、仲間の姿が歪んで映った。セレーナが腕に抱かれて泣き崩れる姿、影の女王が父に抱かれて少女のように泣く姿――それは絶望そのものだった。
「……これが……俺たちの……終わりか……」
喉から血が溢れ、声は掠れた呻きになった。
セレーナは半ば意識を失いながら、カリーネの幻影を見た。幻影は彼女を優しく抱き寄せ、囁いた。
「誓いを背負う必要はないの。眠って、楽になって」
セレーナの心に最後に残っていた炎が揺らぎ、消えかけた。
影の女王もまた、自らを支える幻影の父に顔を埋め、嗚咽を漏らした。
「もう……抗う理由が……」
その声は諦念に満ちていた。
娼王は歩みを止め、三人を見下ろした。無数の仮面の顔は一斉に微笑み、口を揃えて囁いた。
《抱カレヨ……汝ラハ既ニ一ツ……》
その瞬間、三人の鼓動が完全に同期した。レイジの心臓の音がセレーナの胸にも響き、影の女王の脈動が二人の血管を震わせた。個の境界が消え、三人は一つの存在として娼王に飲み込まれようとしていた。
「……俺は……誰だ……」
レイジが呟いた声に、セレーナと影の女王も同時に答えた。
「……私も……誰だか……分からない……」
視界は赤黒く歪み、身体は液体に溶けるように床へ沈んでいく。腕は優しく、しかし逃げ場なく、骨と肉と心を抱き締め続けた。
――敗北を、受け入れるしかないのか。
その思いが、三人の胸に同時に刻まれた。
広間を埋め尽くす黒い腕が、ついに三人を完全に持ち上げた。柔らかな抱擁でありながら、逃げ場を与えないその力は、鉄鎖よりも強固であり、母胎よりも甘美だった。
レイジは宙に吊られ、腕に絡め取られた四肢を必死に動かそうとした。しかし動かすたびに骨が軋み、鮮血が滴った。その血はすぐさま吸い上げられ、娼王の黄金の心臓へと流れ込む。
「……俺の……力が……奪われて……」
声は掠れ、喉を焼く血がまた吐き出された。
セレーナは玉座から解き放たれることもなく、両腕を無数の手に優しく包まれていた。指先が涙を拭い、頬を撫で、髪を梳く。だがその優しさは彼女の誇りを剥ぎ取り、誓いを塵に変えていく。
「……誓いなんて……本当に意味が……」
唇が震え、最後の灯火が消えかけた。吐き気が込み上げ、血混じりの嘔吐が口から溢れ出す。腕はそれを甘露のように受け取り、彼女の羞恥と絶望をさらに深めた。
影の女王は背を父の幻影に抱かれ、首筋を撫でられていた。
「もういい……愛されていたのだから、抗う必要はない」
幻影の囁きに頷きかけた自分を、彼女は信じられなかった。
「……私は……女王……なのに……」
だが言葉は途中で途切れ、口から血が流れ落ちた。闇糸は完全に失われ、ただ父に抱かれる娘へと変えられていった。
《汝ラハ既ニ一ツ……裸ノ誓約ハ果タサレタ……》
娼王の声は広間に満ち、甘い子守唄のように響いた。その言葉を聞いた瞬間、三人の鼓動は完全に同期した。胸の奥で鳴る音は、自分のものではなく、互いに溶け合った一つの命のリズム。
レイジは必死に叫ぼうとした。だが口を開いた瞬間、セレーナの声と影の女王の声が重なり、三人の言葉は一つになった。
「……もう……抗えない……」
視界が揺らぎ、世界は赤と黒に滲んでいく。瞳からは血が流れ、耳からはざわめきが溢れ出し、口からは絶望の呻きが漏れ続けた。
娼王の仮面の顔は一斉に微笑み、幾千もの唇が同じ言葉を紡いだ。
《抱カレヨ……神ヲモ抱イタ王ノ胸デ……永遠ニ眠レ》
その瞬間、三人の体は床の胎動に沈み込んでいった。足から腰へ、胸から頭へと、黒い肉に呑み込まれ、もう人の形を留めていない。
レイジの脳裏には、仲間たちの姿が断片的に浮かんだ。カリーネの最後の微笑、リリィナの声、セレーナの誓い、影の女王の涙。それらは全て、今や自分の中に溶け合っていた。
「……俺たちは……一つに……」
その呟きは三人の口から同時に発せられ、広間に反響した。
黄金の心臓が強く脈動し、神殿全体が震えた。崩壊ではない。これは完成――原初の娼王に取り込まれることで、すべてが「一つ」として完成する瞬間だった。
――勝利の可能性など、もはや欠片すら残っていなかった。
そのとき、奥の扉が再び軋んだ。
ぎぃ……ぎぃ……。
音が鳴るたびに神殿全体が共鳴し、三人の胸が内側から破裂しそうに痛んだ。
「……まだ……出てきてすら……いなかったのか……」
レイジが血を吐きながら呟いた。
扉の隙間から黒い霧が溢れ出す。だが今までと違う。霧は煙ではなく、液体のように重く粘り、そこから無数の指先が突き出されていた。指は次々に枝分かれし、絡み合い、やがて一つの巨大な腕を形作った。
《我ガ抱擁ニ耐エル者ハ無シ……神デサエ、我ノ胸デ眠ッタ……》
その声が広間を満たすと、像たちの口から一斉に黒い光が溢れ出した。光は霧に吸い込まれ、やがて巨大な影が扉の奥から這い出してきた。
姿を現したそれは、巨人のようでもあり、神像のようでもあり、そして母胎そのものでもあった。無数の腕が背から生え、絡まり合って一本の翼のように広がっている。胸の中央には黄金の鼓動が光り輝き、その鼓動に合わせて神殿全体が震えていた。
顔――と呼ぶべきものは存在しなかった。そこには無数の仮面が重なり合っていた。少女の笑顔、母の微笑み、老人の皺だらけの顔、神聖な仮面、獣の面影。瞬きのごとく切り替わり、見つめる者の心を掴んで離さない。
セレーナはその顔を見た瞬間、胸の奥を鷲掴みにされたように悲鳴を上げた。
「やめて……見ないで……!」
視線を逸らそうとしても、瞳が勝手に引き寄せられる。涙が溢れ、眼球そのものが焼けるように痛んだ。血の涙が流れ落ち、頬を濡らす。
影の女王もまた、視線を奪われた。
「……な、んだ……これは……」
父の幻影が背に抱き付いたまま、その顔の群れと重なって見えた。愛憎の全てを吸い上げられ、心が軋み、喉から鮮血が吹き出した。
レイジは必死に剣を握ろうとしたが、すでに刃は影に飲まれていた。代わりに心臓を直接掴まれるような圧が走り、膝から血が滴り落ちた。
「ぐっ……これが……原初の……」
言葉を吐き出すたびに血が混ざり、喉を焼いた。
娼王はゆっくりと広間へと歩み出した。足音はない。だが一歩踏み出すごとに床が波打ち、石が肉に変わり、胎動する。
《抗ウナ……汝ラハ既ニ我ノ中デアル……》
声は優しく、慈愛に満ちていた。それがかえって恐ろしかった。母に抱かれる安心感と、捕食者に喰われる恐怖が同時に襲い、三人の精神を粉砕しようとしていた。
セレーナの手から再び符が生まれかけたが、指先から溶け落ち、黒い泥となって床に吸い込まれた。
影の女王の闇糸も同じだった。伸ばす前に腕に絡み取られ、糸そのものが娼王の翼の一部に変えられていく。
レイジの剣はすでに形を失い、影の刃として娼王の背から生えていた。
「……俺たちの力が……奪われて……」
レイジは呆然と呟いた。
《欲望モ、誓イモ、孤独モ、全テ我ガ糧……抗ウ術ナド存在セヌ》
娼王が広間を覆った瞬間、三人の体は再び床に叩き付けられた。骨が軋み、口から血と吐瀉が同時に溢れ出す。視界は赤と黒に染まり、意識が遠ざかる。
「……これが……神をも抱いた……」
レイジの言葉は、絶望の証明でしかなかった。
顕現した娼王は広間を満たし、その存在そのものが「世界の中心」であるかのように揺るぎなかった。無数の腕が空間を漂い、一本一本が異なる温度と質感を持ち、触れられた者の記憶を抉り出す。
レイジが立ち上がろうと膝を押し上げた瞬間、一本の腕が頬を撫でた。柔らかな母の手の感触――しかし次の瞬間には刃のように鋭くなり、頬の肉を裂いた。鮮血が飛び散り、石畳を濡らす。
「ぐっ……!」
痛みに耐えようとしたが、裂かれた頬に別の手が触れ、今度は甘い舌先のように優しく舐め上げた。その矛盾に頭が混乱し、思考が砕け散っていく。
セレーナは玉座に縛られたまま、数十本の腕に全身を撫で回されていた。指先は髪を梳き、胸を押さえ、背をなぞる。快感と痛みが交互に押し寄せ、理性が剥がれていく。
「やめ……あぁ……!」
声を絞り出そうとするたびに、口元に腕が触れ、吐き気を誘い、血と共に呻きを飲み込ませた。
影の女王もまた、父の幻影を模した腕に首を締め上げられていた。だが締め付けは苦しさと同時に安らぎを伴い、拒絶と渇望がせめぎ合う。
「……くっ……これは……!」
瞳から血の涙が零れ、頬を濡らす。冷酷な女王の面影は崩れ、ただ「抱かれたい」と願う少女の表情へと歪んでいった。
娼王の胸の中央で輝く黄金の鼓動が高まり、神殿全体が震えた。壁の像たちは同時に開眼し、黒い涙を流しながら賛美の声を上げる。
《抱カレヨ……欲望ハ全テヲ赦ス……》
その声に呼応するように、三人の身体から力が抜け落ちていった。
レイジの剣はすでに奪われ、セレーナの符は生まれる前に霧散し、影の女王の闇糸は完全に溶けて娼王の翼に取り込まれていた。
「……武器が……術が……全部……」
セレーナは掠れ声で呻いた。
娼王は歩みを止め、ただ三人を見下ろした。顔は仮面のように変わり続け、母の微笑から神の仮面へ、そして獣の咆哮へと移り変わる。視線を合わせた瞬間、魂そのものが抱き込まれ、記憶が書き換えられるような錯覚が走った。
レイジは己を保とうと必死だった。だが胸に押し付けられた腕のひと撫でで、心臓が掴まれ、激しい吐血を強いられた。
「がはっ……!」
血が噴き出し、床に広がる。だがその血さえ娼王の糧となり、腕の先が赤黒く脈動した。
セレーナは背骨をなぞられ、全身に震えが走った。理性が悲鳴を上げ、吐瀉が込み上げる。吐き出すと同時に涙と血が混じり、喉を焼いた。
「もう……抗えない……」
影の女王はさらに強く抱き締められ、背骨が軋む音を聞いた。口から血が溢れ、呻き声が絶望の証として広間に響いた。
《抗ウ術ハ無イ……抗エバ抗エル程、汝ラハ抱カレル……》
その宣告と共に、三人は地に沈み込み、床の胎動に飲み込まれていった。広間の全てが娼王の胎内であり、彼らは逃げる場所を完全に失った。
「……勝てる……はずが……ない……」
レイジの呟きは、仲間二人の心にも同時に響いた。
絶望は、もはや疑いようがなかった。
神殿の広間はもはや空間としての意味を失っていた。壁も床も天井も、すべてが胎動する肉のように脈打ち、三人の呼吸や鼓動を強制的に合わせていた。まるで娼王の体内に取り込まれたかのようだった。
レイジは膝をついたまま、血に濡れた手を地に突いていた。肺は潰されるように痛み、呼吸は途切れ途切れだった。胸にのしかかる圧は剣を握る力すら奪い、ただ震える指先だけが「まだ立てる」と叫んでいた。だがその声は虚ろで、今にも消えそうだった。
セレーナは玉座に押し付けられ、全身を無数の腕に覆われていた。柔らかい手、冷たい手、爪を持つ手――それぞれが彼女の肌を撫で、背を支え、髪を梳き、まるで「愛でる」ように弄んでいた。だがそれは愛ではなく、支配の証。
「……もう……誓いなんて……」
掠れた声で洩らした瞬間、胸に抱えていた誇りが砕け散り、喉から嗚咽が漏れた。吐き気が込み上げ、血混じりの嘔吐が彼女の胸を汚した。腕はその吐瀉をすら甘美に舐め取り、彼女の羞恥と絶望をさらに深めた。
影の女王は、父の幻影を模した腕に背を抱かれ続けていた。首筋に添えられた手は温かく、幼き日に欲した救いそのものだった。
「……孤独じゃ……なかったのかもしれない……」
涙が溢れ、頬を濡らす。彼女は必死に抗おうとしたが、その声は細く震え、抱擁の中で消えていった。闇糸を生み出そうと指を動かすが、血が滴り落ちるだけで、何も生まれなかった。
《汝ラノ心ハ既ニ砕ケタ……》
娼王の声が響いた。優しい子守唄のような調べに、三人の鼓動はさらに弱まり、まるで眠りに落ちる寸前のような感覚に包まれた。
レイジの視界は霞み、仲間の姿が歪んで映った。セレーナが腕に抱かれて泣き崩れる姿、影の女王が父に抱かれて少女のように泣く姿――それは絶望そのものだった。
「……これが……俺たちの……終わりか……」
喉から血が溢れ、声は掠れた呻きになった。
セレーナは半ば意識を失いながら、カリーネの幻影を見た。幻影は彼女を優しく抱き寄せ、囁いた。
「誓いを背負う必要はないの。眠って、楽になって」
セレーナの心に最後に残っていた炎が揺らぎ、消えかけた。
影の女王もまた、自らを支える幻影の父に顔を埋め、嗚咽を漏らした。
「もう……抗う理由が……」
その声は諦念に満ちていた。
娼王は歩みを止め、三人を見下ろした。無数の仮面の顔は一斉に微笑み、口を揃えて囁いた。
《抱カレヨ……汝ラハ既ニ一ツ……》
その瞬間、三人の鼓動が完全に同期した。レイジの心臓の音がセレーナの胸にも響き、影の女王の脈動が二人の血管を震わせた。個の境界が消え、三人は一つの存在として娼王に飲み込まれようとしていた。
「……俺は……誰だ……」
レイジが呟いた声に、セレーナと影の女王も同時に答えた。
「……私も……誰だか……分からない……」
視界は赤黒く歪み、身体は液体に溶けるように床へ沈んでいく。腕は優しく、しかし逃げ場なく、骨と肉と心を抱き締め続けた。
――敗北を、受け入れるしかないのか。
その思いが、三人の胸に同時に刻まれた。
広間を埋め尽くす黒い腕が、ついに三人を完全に持ち上げた。柔らかな抱擁でありながら、逃げ場を与えないその力は、鉄鎖よりも強固であり、母胎よりも甘美だった。
レイジは宙に吊られ、腕に絡め取られた四肢を必死に動かそうとした。しかし動かすたびに骨が軋み、鮮血が滴った。その血はすぐさま吸い上げられ、娼王の黄金の心臓へと流れ込む。
「……俺の……力が……奪われて……」
声は掠れ、喉を焼く血がまた吐き出された。
セレーナは玉座から解き放たれることもなく、両腕を無数の手に優しく包まれていた。指先が涙を拭い、頬を撫で、髪を梳く。だがその優しさは彼女の誇りを剥ぎ取り、誓いを塵に変えていく。
「……誓いなんて……本当に意味が……」
唇が震え、最後の灯火が消えかけた。吐き気が込み上げ、血混じりの嘔吐が口から溢れ出す。腕はそれを甘露のように受け取り、彼女の羞恥と絶望をさらに深めた。
影の女王は背を父の幻影に抱かれ、首筋を撫でられていた。
「もういい……愛されていたのだから、抗う必要はない」
幻影の囁きに頷きかけた自分を、彼女は信じられなかった。
「……私は……女王……なのに……」
だが言葉は途中で途切れ、口から血が流れ落ちた。闇糸は完全に失われ、ただ父に抱かれる娘へと変えられていった。
《汝ラハ既ニ一ツ……裸ノ誓約ハ果タサレタ……》
娼王の声は広間に満ち、甘い子守唄のように響いた。その言葉を聞いた瞬間、三人の鼓動は完全に同期した。胸の奥で鳴る音は、自分のものではなく、互いに溶け合った一つの命のリズム。
レイジは必死に叫ぼうとした。だが口を開いた瞬間、セレーナの声と影の女王の声が重なり、三人の言葉は一つになった。
「……もう……抗えない……」
視界が揺らぎ、世界は赤と黒に滲んでいく。瞳からは血が流れ、耳からはざわめきが溢れ出し、口からは絶望の呻きが漏れ続けた。
娼王の仮面の顔は一斉に微笑み、幾千もの唇が同じ言葉を紡いだ。
《抱カレヨ……神ヲモ抱イタ王ノ胸デ……永遠ニ眠レ》
その瞬間、三人の体は床の胎動に沈み込んでいった。足から腰へ、胸から頭へと、黒い肉に呑み込まれ、もう人の形を留めていない。
レイジの脳裏には、仲間たちの姿が断片的に浮かんだ。カリーネの最後の微笑、リリィナの声、セレーナの誓い、影の女王の涙。それらは全て、今や自分の中に溶け合っていた。
「……俺たちは……一つに……」
その呟きは三人の口から同時に発せられ、広間に反響した。
黄金の心臓が強く脈動し、神殿全体が震えた。崩壊ではない。これは完成――原初の娼王に取り込まれることで、すべてが「一つ」として完成する瞬間だった。
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ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
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