和菓子屋たぬきつね

ゆきかさね

文字の大きさ
上 下
49 / 228
《第1期》 ‐餡の香りと夏の暮れ、彼岸に咲いた約束の花。‐

   『シロヘビの神様』

しおりを挟む

 突如としてひづりの視界を覆ったその《白い何か》は凄まじい速度で中空を流れ、荒々しく舞い、そしてやがて包み込む様に折り重なり合って直径およそ四メートル程の巨大な浮かぶ《球》となってその動きを停止した。
 《ベリアル》から放たれた無数の羽根の弾丸は全て消えていた。ひづりにも、周りの誰の体にも新たな傷はついていなかった。
 次に、境内の空を覆っていた《ベリアル》の葡萄色の《結界》がにわかに六角形を敷き詰めた真っ白なものへと変貌していくのをひづりは見た。
 そして不意に風を感じた。涼しくて、肌を優しく撫でる風だった。ついさっきまで痛みしかなかった体に、白い天井の明かりと心地良い風の感触が蘇っていた。
 『生きている』。ひづりは不意にそんな当たり前のことのはずの、しかしたった今まで頭の中から消えかかっていたそれを、穏やかな心で思い出すことが出来ていた。
 はらり、と、空に浮かぶ白い《球》の一部がおもむろに一枚の薄い皮のようになって剥がれ始めた。そして続けざまに二枚、三枚、と、それは不規則な角度で連鎖的に続き、やがて風になびく真っ白い無数の帯のようになって白亜の空を覆った。
 そうしてついに《球》の形を失ったその膨大な量の白い帯たちの中心に居たのは、《ベリアル》。
 そしてもう《一柱》。
 二メートルを超えたその長身によって着ていた子供用の和服は丈が合わなくなってしまったらしく、解けた桜色の帯は神社の風に垂れ、伸びた腕は肘まで袖から露になっていた。
 後頭部から生えて湾曲し、顎を覆う左右非対称の一本二股の特徴的な《角》の形状はそのままながら、けれど朱色だったそれは今、頭髪や肌と同じ純白の色相に変化しており、狐の耳を備えていた頭頂部からはたしかにその《置換》の影響があったと分かる形状のもう片方の一本二股の《角》が、こちらも純白の輝きを以って天に向かい鋭く生え揃っていた。
 ただそんな雪のようにどこまでも真っ白な体の中にあって唯一彼女の瞳だけは赤く、また宝石の如き輝きを以って《ベリアル》を正面から射抜いていた。
 その姿はまさにこの境内に集まる信仰の象徴、白い体に真っ赤な眼を持つ白蛇の様相を呈していた。
 だがそんな変化にあってなお《彼女》が誰なのか、ひづりにはやはりはっきりと分かっていた。
「……天井花さん……!」
 見上げるひづりの眼からとめどない涙が溢れた。また会えた。それが嬉しくて、ただそれだけで胸がいっぱいで、ひづりは感情が抑えられなくなってしまっていた。
 境内の空を包み込むほどに長く広がった無数の白い帯は全て天井花イナリの髪であった。それらがうねり、なびき、そしてうちの数束が《ベリアル》の四肢と胴と首を締め上げていた。
「……ばっ、馬鹿な、馬鹿な、馬鹿な! 何故召喚術者でもない人間に再召喚が……いや、それより何故っ、離せ! クソ! ……ああああ!! 何故ふり解けんのだ!! こんな、こんな!!」
 苦しげに《ベリアル》が悲鳴を上げるが、その大蛇の群れのような白髪に縛り上げられた体は微動だにしていなかった。
「……ひづり」
 おもむろに《彼女》の口から言葉が降りてきた。受け止め、ひづりは涙を拭って改めて彼女の顔を見上げる。
「すまぬ。苦しかったろう。じゃが《ヒガンバナ》共々、よくぞ耐えてくれた。ついでにちよこもな」
 元の二百十センチはあったというその長身に戻ったゆえか彼女の声は少しばかり低くなっているようだったが、けれどもその響きは相変わらず優しい王様の玉音を呈していた。
 ひづりはまた涙が溢れて来たがしかし上手く呼吸が出来ず、また頭と背中の傷がずきりとにわかに強く痛んでついにうずくまり、倒れこんでしまった。
「……ひどい怪我を負ったのじゃな。《フラウロス》たちもか。ぼんやりと顛末を見られてはおったが……やはりひどい有様じゃ……」
 仄かに悲しげな声を彼女は漏らした。《契約印》がひづりに残っているため、先ほどまで彼女の存在は《人間界》でも《魔界》でもないどこかで保留状態にあったという。そこから見えていたらしい、ひづりたちの決死の攻防が。
「む……ああ、そうか。……なるほどのぅ」
 不意に一人納得した様子で呟くと、天井花イナリのその長く広大な白髪が徐に発光を始めた。
 その白い光は境内中のあらゆるものへと渡り、瞬く間にひづりたちの体もその現象に包まれた。
「は、はぁ……はぁ……」
 途端に体中の痛みが引いていき、ひづりはどういう訳か正常な呼吸を取り戻していた。耐えるようにぎゅっと瞑っていた眼を開け、改めて恐る恐る深く息を吸ってみたところ、やはり痛みはなかった。
 ゆっくりと体を起こす。後頭部と背中にあった痛みが消えており、触れてみても先ほどまでぐらついていた肋骨は元通りにくっついており、頭からの出血も止まって、その傷口がもはやどこにあったかさえ分からなくなっていた。
 ひづりは隣の姉を見た。彼女の体も白い光に包まれており、苦痛に歪んでいた表情は安らかに、呼吸も穏やかで、顔色も少しばかり良くなっているようだった。
「う……お、おお……あれは……おお、なんと……《ボティス》様…………」
 背後で感極まったような声が発せられ、ひづりはおもむろに振り返った。倒れ伏していた《ヒガンバナ》がその体を起こし、空に浮かぶ天井花イナリを見上げて涙を流していた。痛々しく抉られていたその体の無数の弾痕は全て消え去っており、また頭部からの出血も止まっているようだった。何が起きたのか分からないながらも、その傷が全快し起き上がった《ヒガンバナ》に千登勢は抱きついて嬉し涙を溢れさせていた。
 そばの《フラウ》と《火庫》もその柔らかな白い光に包まれたことで体中に受けていた傷は全て綺麗に閉じられており、凍原坂の眼に流れていた涙は千登勢と同じく嬉し涙に変わっていた。
 ひづりは神社の縁の下を見た。そちらにもその光の恩恵は行き渡っているようで、ずっと苦痛の悲鳴を漏らしていた彼らの声は止んで、その顔にはやはりちよこと同じく苦しみから解放された安らぎの色が浮かんでいた。
「ふふ、たしか白蛇神社信仰のご利益とやらは、《金運上昇》、《商売繁盛》……そして《健康長寿》であったな。また蛇信仰による《死と再生の象徴》ゆえか。ほんの少しばかり境内に《治癒魔術》を掛けただけでこれとは、《神性》もたまには役に立つではないか。のう、《ベリアル》よ?」
 その美しい白髪から放たれる光に双眸の宝石をより強く煌めかせながら天井花イナリは目の前の《悪魔》に笑みを浮かべて見せた。
「な、治した……!? 我の断罪の傷を全て!? そんな……まさか、まさか己……!!」
 《ベリアル》が気づいた様子でわなわなと唇を震わせていた。ひづりも細かい理屈までは分からなかったが、何となく気づいていた。
 今、天井花イナリは《シロヘビの神様》になっているのだ。何故そうなったのかは分からないが、その真っ白な体に輝く赤い瞳は間違いなくこの岩国で長く崇められ続けそしてこれからも愛されてゆくであろう白蛇の特徴そのものだった。
「異国の《神》になっただと……!? 《悪魔》の己が……!? そんな、許されぬ……己、許さぬ!! 秩序を乱す悪!! 我が己を断罪する!! 拷問に処す!! うぐぅううッ!!」
 《ベリアル》は吼えて、そして同時におそらく必死にもがいているのだろうが、しかし縛り上げている天井花イナリの白髪はまるで鋼鉄の板のようにほぼその全身を固定しており、自由になっている首から上以外まるで微動だにしていなかった。
 それは《ベリアル》の《神性》と《魔性》を、今の天井花イナリの《神性》が完全に凌駕しているということの証明だった。
 天井花イナリの白髪から伸びた一房がにわかに、ばしり、と《ベリアル》の口を塞いだ。
「……ずいぶんと派手にやらかしてくれたが、とにかく死者は出んかったようじゃ。ちよこにはすぐにでも輸血が必要であろうがな。サトオ。病院に電話を掛けよ。今やこの境内の《結界》はわしの支配下にある。電波とやらも通じるはずじゃ」
 天井花イナリの言葉にサトオはハッとした表情になるとすぐさま足元に転がっていた自身の携帯電話を拾い上げた。その画面を見るなりにわかに顔色を明るし、素早く操作したのちそれを耳に当てて通話し始めた。救急車の要請が、ここへ来てついに叶ったのだ。
「ちよこを背負って境内を出よ。お主が通る時に《結界》を開けてやる。ゆけ」
 通報を終えるとサトオは言われるままちよこを担ぎ、すぐに鳥居の方へ駆けて行った。
「ひづり。怪我は治しておいたが、お主もそれなりに出血がひどい。後で病院へ行って血を貰っておけ。検査も受けさせる」
 見上げたままひづりは咄嗟に「は、はい!」と返事をした。確かに出血のせいかフラつくようだが、こうしてはっきり発声してもやはりもう体のどこにも痛みは無かった。
「それと《ヒガンバナ》……ふふ、そのような眼で見てくれるな、むず痒いではないか。お主もかなり衰弱しておろう。良き《契約者》に心配を掛けるものではない。王の前であるが此度は特例とする。そこで横になり、《契約者》を泣き止ますことに専念せよ」
 命じられるなり《ヒガンバナ》はその腕にしがみついてえぐえぐと泣いている千登勢を見下ろした。そして「……仰せのままに」と涙声で呟くなりその巨体をゆっくりと横たえ、抱きついてくる千登勢の頭をそっと撫でた。
「凍原坂」
 最後に天井花イナリの声は彼の元へ落とされた。
「《フラウ》も《火庫》も傷は塞いだ。心配は不敬と思え。あの程度でくたばる《悪魔》ではない。それは今眠っておる。わしに言われるまでもなかろうが、起こさず、そのまましばらく休ませておいた方がそやつらの具合は良くなる。よって、今よりお主らに《転移魔術》を掛け、宿へと送る。眼が覚めた時にすぐ食べられる栄養のある物を用意してやっておけ。それと今、わしに返事はせんでいい。お主が喋ればそやつらは起きるやもしれぬからな。よいな? 黙って頷け」
 天井花イナリが言い終わると凍原坂は言いつけ通り無言で頷いて、それから眠る《二匹》を起こさないようそっと腕に抱き、天井花イナリが放った《転移魔術》の《魔方陣》に包まれ、そして消えた。
 そうして境内は、天井花イナリ、《ベリアル》、ひづり、《ヒガンバナ》、千登勢、あとは神社の奥に敷き詰められた参拝客だけとなった。
 誰も死んでいない。それを天井花イナリの口から聞いてひづりは本当に心の底から安堵していた。良かった。本当に良かった……。
「……ひづり。お主はわしを見よ。そこで楽にして、黙って見ておれ」
 《ベリアル》に視線を向けたまま天井花イナリは俄かにそのように声を落として来た。ひづりはその言葉を受け止め、座り込んだまま背筋を伸ばすようにして彼女を見上げた。
「……《ベリアル》、わしはのぅ、よもやこうも早くちよこめからひづりに《契約印》が移るとは思うておらなんだのじゃ。ちよこめは憎たらしいことに、人間の寿命の限界まで生きそうな女であったからのう。その点だけは……ふふ、この日を以って我が《契約印》をひづりに移してくれた事、わしはお主に感謝する。よくぞやってくれた。ふ。また、正直言ってちよこめの必死な面には胸も空いたしのう。改めて礼を言おう。でかしたぞ、《ベリアル》」
 割と本気で愉快そうな顔をして天井花イナリは笑った。
「じゃがわしの《次期契約者》であり、この《人間界》にあって特に気に入りの人間である我がひづりに手を出したことは何を措いても許さん」
 一瞬のことだった。いつの間にか天井花イナリの右手にはあの剣が有り、その刃は柄の辺りまで《ベリアル》の腹に深く深く突き刺さっていた。
「――――ッ!!」
 血が《ベリアル》の体を滴って境内の石畳にぽたりぽたりと落下する。口を塞がれている《ベリアル》の顔がひどく苦痛に歪んでいるのがひづりの位置からでも見えた。
 そのままぐりぐりと手首を数回捻った後、天井花イナリはその剣を乱暴に引き抜いた。今度はおびただしい量の血が《ベリアル》の足を伝ってその真下に血だまりを作った。現在、《ベリアル》の口を塞いでいる天井花イナリの白髪の一房もその吐血で赤く染まった。
 引き抜いた剣の切っ先を一度下へ向けると天井花イナリは《ベリアル》の眼を見つめて静かに語り始めた。
「……分かっておる、《ベリアル》よ。お主がわしを殺そうとするのではなく、ちよこの《契約印》のみを打ち砕いたのは、わしを再び正しき《悪魔》の姿へ戻し、そうして以って再び《魔界》の《ボティス》としての責務を果たさせるためだったのであろう。そのためならば、勝てるかどうかわからぬわしと戦って勝利を目指すより、ちよこの《契約印》を壊すという手を選んだ方が目的達成の確率は高い。それに関しては、お主の考えは賢い上、行いも正しい。《悪魔》は《悪魔》らしくあるべき……。その王ともなれば、それは命と引き換えにしてでも守るべきであろう。同じ《ソロモン》より《名》を得た《悪魔》として、お主の此度の判断と行動、わしは誇らしくさえ思う。今日(こんにち)より三ヶ月も早ければ、わしはお主に十分な礼すらしたやもしれぬ。……しかしのぅ、状況はすでに変わったのじゃ。わしはお主の《かくあるべき》に従う気はもはや無い。いや、元々お主は《壊れて》おったしのう……」
 少し悲しげな声で天井花イナリは続けた。
「《悪魔》となった《堕天使》の連中は皆、《天界》に捨てられた事を恨んだり、嘆いたり、受け入れたりしておったが……。《ベリアル》、お主の壊れ方は特に酷かった……。位の高い《天使》であったが故に、お主は捨てられて尚、《天界》を正しいと信じた。それが既におかしかったのじゃ。《魔界》で与えられた《悪魔の王》としての立場と矜持も、《人間界》で与えられた《ソロモン》からの《名》も受け入れ、尚もお主は《上に立つ者》であろうとした。《かくあるべき》、というそれこそがお主の柱だったのであろう。《天界》に捨てられようとも、どこに堕ちようとも、上に立つ者として、かくあるべきを己にも他者にも求め続けた。じゃが、《天界》と《魔界》と《人間界》、三つの異なる世界の《かくあるべき》を綯い交ぜにして、そんなところに秩序などあるはずもない。お主はその頭の中でぐちゃぐちゃに混ざり合って出来た《形のない規範》にすがった。それを法律とした。それを《かくあるべき》とした。その《上に立つ者》であろうとした。じゃがそのような《混沌の規範》に従える者など居らぬ。……狂ったお主の《かくあるべき》の前に、あらゆる者が罪人となったな。以前一度だけお主の国に足を運んだことがあったが、二度と見る気にならんかった。拷問の悲鳴が朝から晩まで鳴り響き、毎日何百という死体を作っては、翌日には蘇る国民をそれでも絶えず延々と断罪と称して殺し続ける狂人の国王。……《ベリアル》。《堕天使》ゆえに死して尚その《記憶》を失えぬ、哀れな同胞よ。わしはお主を《堕天使》でなく同じ《悪魔》として屠ろう。それをせめて誇りに逝け。そして生まれ変わるまでのほんの数年ほどの間とはいえ、休め。休んで、またわしに殺されに来るが良い」
 再び、今度はゆっくりと剣が《ベリアル》の腹に二つ目の穴を開けた。同じく激痛に首から上だけを悶えさせる《ベリアル》に、天井花イナリは柄をぐりぐりと捻って苦しめ、そしてまた引き抜いた。
「…………さて。建前はここまでじゃ」
 と、不意に天井花イナリの声音が変わった。多少明るく、どちらかというと普段の淡々とした雰囲気に戻ったようにひづりには聞こえた。
「分かるかの? 境内の入り口でお主が《契約印》を撃ち抜いた、わしの《元・契約者》、ちよこなのじゃが。わしらはこれまであやつに散々苦しめられてきておってのぅ……。故に、先も言うたように、あやつが苦しむさまは眺めていて実に、ふふ、実に愉快であった。胸が空いたわ。じゃがのぅ《ベリアル》」
 ひゅん、という風を切る様な音をひづりは聞いた。その直後、《ベリアル》の右足のつま先が十センチほど、べろり、と剥がれて取れて落下し、真下の血だまりに包まれてぱしゃりと音を立てた。
「────ッ!! ────ッ!!」
 《ベリアル》が首から上だけの動きで痛みを訴える。
「あのような痴れ者とはいえ、傷を負えば、その妹である以上我が《契約者(ひづり)》が気にするであろうが!! それが病院へ運ばねばならぬほどの重症ともなれば度も過ぎると言うもの!! 傷自体は大まかに治してやれたがあれはもう東京の地へ戻り改めて人間の技術で治療を受けさせねばならん!! ひづりの怪我も当然診て貰う必要がある!! 故に此度の旅行は今日を以って打ち止めとなった!! ……お主のせいでのぅ」
 ひゅん、ひゅん、ひゅん、と続けざまに音が鳴り、《ベリアル》の両手の指が、足首が、手首が、膝から下が、肘から先が、次々と取れて落ちては直下の血だまりをじわりじわりと広げていく。
「《ベリアル》……お主は檜というものを知っておるか。わしは知らぬ。じゃが今日は檜という木で出来た温泉である、と、ひづりもたぬこも楽しみにしておったのじゃ。……なぁ、《ベリアル》よ……この落とし前、一体どうつけるつもりでおるのだ? なぁ、おい、答えぬか……」
 《ベリアル》は依然悲鳴を上げられないよう口を封じられたまま、首から上だけを痙攣するように動かしていた。《堕天使》、《悪魔》だからか、普通の人間ならもう出血多量やショックで死んでいてもおかしくないが、それでも《ベリアル》はまだ生きていた。無様に涙を流して、懇願するような顔をして。
 やがて《ベリアル》の体から両手と両足が無くなった。もう流れ出る血も無いのか、その体から滴る物は減っていた。それでもまだ死ねないらしく、《ベリアル》は白目を剥いてぶるぶると首を震えさせていた。
 天井花イナリはおもむろに剣を振りかぶると、今度はその尖った柄の先端で《ベリアル》の顔を殴り始めた。がつん、がつん、がつん、がつん、と何度も、何度も。
 ひづりはごくり、と息を呑んだ。自分が数日前、姉にしようとしていた事はまさにこれだったのだと改めて思い、動悸がした。
「……どうじゃ、見えるじゃろう《ベリアル》? 手元は狂っておらん。眼だけはちゃんと残してやったのじゃ。ではほれ、見ろ」
 天井花イナリはその今はもう返り血で真っ赤に染まっている髪を動かし、胴体と頭だけになった《ベリアル》を無理やり前かがみにさせるとその腹に一直線、すっぱり、と切れ込みを入れた。
 どろりどろりどろり、と一気に《ベリアル》のはらわたが零れ出した。今度は首から上も固定されているため、《ベリアル》は一切もう痛みを主張する動きが出来なくなっていた。しかし唯一無事な……果たしてそれを無事と言えるかどうかはともかく、その瞼をちぎり取られただけで無傷の双眸だけはぎょろぎょろと動いており、自身の溢れ出た臓物を見下ろすことが許されていた。
「……ん、ほれ、おお、ふふ、まだ動いておるのう。お主の心臓じゃ。ほれ、見えるじゃろう? どくん、どくん、と動いておるな?」
 天井花イナリは鎖骨と肋骨の一部を砕き引きちぎって捨てると、角度的に《ベリアル》からも見えるようになったその心臓をそっと手で触れて少々引きずり出して見せた。
「なんとまぁ、まだ生きたがって動いておるではないか。正気か? 足元を見よ。あれらすべてお主の手と足と翼じゃ。まだ生きたいのか? そのウジムシのような有様になって尚、まだ生きたいと? ほおう? 無様とはこういうことを言うのではないのか《ベリアル》? わしはそう思うがお主はどう思う? どうした? 何か言いたい事があるのか? のう、どうなのじゃ?」
 剣の峰に乗せた《ベリアル》の腸を、そのもうほとんど歯が残っていない口に突っ込みながら天井花イナリは問うた。
「くっ……ふははっ、ははははははは!! あぁっ……ふふっ、ふふふ……さて、充分に気も済んだ。では、この措置を以って此度のお主の行いをわしは全て許すこととする」
 再び天井花イナリの髪がしなり、《ベリアル》の小さくなったその全身をぐるりと巻いた。眼だけがその隙間から覗いていたがそれはもうただただ虚ろで、おそらくもう何も見えてはいないようだった。
「では《ベリアル》。また殺されに来い。待っておるからな。ふふ……」
 その一言のあと、《ベリアル》の体が空き缶のように、ぐじゃり、と捻り潰された。包んでいた白髪が一度に真っ赤に染まったが、それで以ってついに絶命したらしく、足元に広がっていたおびただしい量の血だまりも、そこに転がっていた《ベリアル》の手足の破片も消え、また天井花イナリの白い髪や顔に付着していた返り血も煙のように綺麗に消え去った。
 生暖かい血の鉄くさい臭いが一度に消滅し、ひづりはつい先ほどまでの凄惨な出来事がまるで嘘のように静かになった境内で一人呆然としていた。それでも言いつけ通り、天井花イナリのその恐ろしくも美しい姿を見つめていた。
 事が終わると彼女はゆっくりと降下してひづりの前に着地した。
「さて。では帰るかひづり」
 へたりこんでいるひづりを見下ろしたまま、二メートルを超える長身から天井花イナリは言葉を落とした。
 その一言を聞くなり、ひづりはハッと気づいて、そして理解し、安心して体から力が抜けるようだった。
 先ほどの《ベリアル》への虐殺行為。それを見ろと言われ、そして最後まで見ていたひづりは、どうしても『天井花イナリは変わってしまったのではないか』と恐れてしまっていた。自分の再召喚が何か悪くて、彼女は違う人のようになってしまったのでは、と不安に駆られていたのだ。
 しかし今の一言は、掛けられた一言は、かつてより少々低い音になりながらも、それでもいつもの淡々としつつも尊大で優しい彼女の声そのものであった。
 見た目は少し変わってしまった。初めて彼女が《悪魔》を虐殺するところも見た。けれど、何のことは無かった。あの虐殺行為は、彼女が別人のようになってしまったからではなく、ただ《悪魔》を殺す時の彼女はただただあのようである、という、ただそれだけのことだったのだ。きっと彼女は《それ》を見ておけとひづりに言ったのだ。《悪魔》とはどういうものか分かっておけ、と示してくれていたのだ。
 だから彼女は依然ひづりの知っている天井花イナリなのだ。何も変わっていない。いつもの、かっこよくて、優しくて、尊大な王様で、《和菓子屋たぬきつね》で共に働く、とても優秀な先輩従業員なのだ。
 無事に彼女は帰って来てくれた。それだけでひづりは充分だった。
「はい、天井花さん……!」
 少し体は大きくなってしまったけれど、虐殺行為の凄まじさに驚いたりもしたけど、私は変わらずあなたを尊敬しています、天井花イナリさん――。


しおりを挟む
1 / 4

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

わたしの弟子は超絶カワ(・∀・)イイ!!天才美少女魔法使い!

KT
ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:7pt お気に入り:59

車いすの少女が異世界に行ったら大変な事になりました

AYU
ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:7pt お気に入り:50

野良魔道士は百合ハーレムの夢を見る

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:7pt お気に入り:176

魔法少女の異世界刀匠生活

ファンタジー / 完結 24h.ポイント:0pt お気に入り:40

まほカン

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:0pt お気に入り:32

処理中です...