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4.幸せな気持ち
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しおりを挟む土曜の朝、いつものように泰徳の部屋へ行って家事を済ませ、自宅マンションへ戻った。築三十五年、2DKの賃貸は泰徳のマンションから徒歩三分の上、オートロックと浴室乾燥が設置されていたから決めた。リフォームされていて室内に古さを感じなかったのも気に入っている。
その部屋を念入りに掃除し、夕方の泰徳の来訪に備えた。料理もネットで調べたワインに合いそうなメニューを選び、下ごしらえも昨夜から始めている。
「さて」
澄人は気合いを入れて、料理に取りかかった。
午後五時五十分、澄人は泰徳にメッセージを送り、午後六時ちょうどに泰徳を部屋まで迎えに行った。インターフォンを鳴らすとドアが開き泰徳が出てきた。白のTシャツに藍色の薄手ジャケット、ジーンズは水色だ。手に提げているワインバッグを持とうとしたら、いたずらっぽい顔で拒否された。
「手土産を俺が持っていかなくてどうする」
澄人は小さく笑って手を戻した。
わずか三分の道のりだが、泰徳は通ったことがなかったらしく店などを面白そうに眺めながら歩いている。
「こちらになります」
マンションの正面玄関で澄人は足を止めた。泰徳が十階建てのマンションを見あげる。
「思っていたより外観はきれいだな」
オートロックの玄関を抜け、エレベーターで七階に到着した。七〇二号室が澄人の部屋だ。
「どうぞお上がりください」
澄人が押さえるドアから泰徳が中に入り、スリッパを履く。泰徳の靴の向きを澄人が変えている隙に、上がってすぐ右側のドアを泰徳が開けた。書斎として使っている部屋だ。中を見るとドアを開け放したまま、泰徳が廊下を進む。突きあたりのドアはダイニングキッチンで、その右隣が寝室である。
ダイニングテーブルの上にワインバッグを泰徳が置いた。
「さすがによく掃除されているな」
「恐れ入ります」
澄人は泰徳のジャケットを預かり、寝室に用意しておいたハンガーに掛けた。自分も羽織っていたカーディガンを脱いでクローゼットにしまう。
キッチンに戻ると泰徳が緑のカーテンの端から外を見ていた。
「南向きでバルコニー付きか。向かいの建物が近いからカーテンを開け放しにはできないんだな」
「はい」
窓際を離れた泰徳がバッグからワインを出す。ソムリエナイフも取りだされ、二本のワインの栓が開けられる。白ワインは氷水を満たした銀色のワインクーラーに入れ、赤ワインはテーブルに置かれた。澄人は料理をテーブルに並べる。ラタトゥイユ、ローストビーフ、ホタテとオレンジのタルタル、生ハムとクレソンの白和え。ワイングラスやカトラリーで二人用の小さめなテーブルはいっぱいになってしまう。隅に持ってきておいた白いカラーボックスをテーブルの脇に移動させ、皿を置くスペースを広げた。
「泰徳様、どうぞ召しあがっていてください。わたくしは揚げ物がありますので」
「とりあえずお前も一旦座れ」
泰徳の言葉に澄人はテーブルに向きなおると、泰徳が楽しそうに赤ワインの瓶を持ちあげていた。澄人は向かいの椅子に座り、赤と白、二種のワインをグラスに注ぐ泰徳の手を見つめる。大きな男らしい筋張った手だ。一瞬だが触れてみたいと思い、慌てて不遜なことを望んだ自分を恥じた。
中等部までは身長に差はなかった。しかし高等部で泰徳がぐっと背が伸びてしまった。肌の色も大学の実習などで外へ出ているうちに、泰徳は小麦色に焼けた。澄人はというと日に当たると赤くなって、また白く戻ってしまう。泰徳に比べれば骨自体が細く、隣に立つと華奢に見られる。身長は百七十五センチあり、週に一度は白井家の道場での稽古に参加してそれなりに筋肉もついているというのに。
八センチの身長差がついてから、泰徳に可愛いとからかわれることが増えた。母親似の女顔だという自覚はある。ただ二十歳を超しての可愛い呼ばわりは、泰徳からと言えど、護衛としてのプライドが傷ついた。それを、自分の仕事は護衛から世話係へシフトしたのだと思うことで折り合いをつけた。今は泰徳の部屋の片づけと食事の管理をするのは影である自分だという自負――これこそが澄人の原動力である。
「乾杯」
泰徳が差しだした赤ワインのグラスにグラスを当てる。チンと澄んだ音がした。カジュアルなグラスを使っているからこそできることだ。
ワインに口をつけ、少し料理を食べたところで澄人は立ちあがり、ガスコンロに向かう。作るのはモッツァレラチーズのフリットだ。黒胡椒を振ったアンチョビを挟んだモッツァレラチーズに衣をつけ、浅く揚げ油を満たしたフライパンで焼き揚げにしていく。あらかじめトマトソースを敷いておいた皿に並べ、テーブルに出すと小皿にソースやブラックオリーブとともに泰徳のために取りわけた。
「揚げたてをどうぞ」
泰徳がナイフで切り分け、口に運ぶ。
「うまい。アンチョビの塩気がきいている」
向けられる笑顔に澄人の顔もほころんでしまう。
改めて澄人はテーブルに着くと、泰徳と二本のワインを酌みかわしながら、料理を食べた。最後にチーズリゾットとデザートのシャーベットを出した。
「最初から最後までうまかったぞ。満足だ」
泰徳がにこにこしている。
「ありがとうございます」
澄人は喜びに緩む頬を隠したくて頭を下げた。
「片づけは俺も手伝おう。大したことはできないがな」
「とんでもない!」
泰徳の言葉に澄人は慌てた。
「泰徳様のお手を煩わせるなど恐れ多いことです」
「本来の目的のためには、早く片付いた方がいいだろう?」
泰徳のやや意地の悪い笑みに、澄人はこれがただの食事会ではなかったことを思いだした。泰徳には食器を流しに運んでもらい、大急ぎで洗った。
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