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episode 13
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暫くの間、重々しい沈黙が流れる。
「フッ……」
その沈黙を破ったのは、小さく息を吹き出したような音。
「え?」
一瞬、何の音か分からず、キョトンとした表情で、皆が互いに見合うと、突然、お腹を抱えて日野浦さんが笑い出した。
「ふははははっ」
寸秒前まで感情という感情を殺したような表情だった彼が、何かが弾けたように彼の持つ雰囲気にはそぐわないほどの爆笑をするものだから、その場に居た全員が唖然とする。
一通り笑い終われば、初めて彼が俺達の前に姿を現した時と同様の、親しみ易い微笑みを浮かべていた。
「いや~。成程。貴方はあんなパニック状態の中でも、常に冷静に物事を見ているんですねぇ。流石です。映画やドラマでは、間一髪のところを救ったヒーローに対し、そのヒーローの正体が分からなくても、みんな、無条件で賛辞の言葉を述べ、素直に助かった事実を喜ぶものなのですが、現実ではそうはいかないようですね」
残念そうな口調とは反対に、彼の表情はどこか楽しげだ。
「ここで神崎一等空佐や鶴岡一等空佐がわたくしの事を上官だと認めた時点で、他の皆さんも、わたくしを無条件で信じ、受け入れ、素直に私の言葉に従って、この場から移動する予定だったのですが、このままでは、皆さん、わたくしを信用してくださらないでしょう?」
一人一人の顔を見ながら、確認を取るように語り掛ける。
頷く事も、答える事も誰もしなかったが、その表情だけで彼は理解したのだろう。
一旦、目を瞑り、深く息を吸い込んだ後、覚悟を決めたように、ゆっくりと瞼を開いた。
「当分、この場所は安全な筈ですから、いいでしょう。真実を話します。ただし、横槍や質問は、私が話し終わるまでは一切受け付けません。いいですね?」
彼の顔からは笑顔が消え、変わりに鋭い視線が俺達を射抜き、反論の余地を与えず、頷くという選択肢しか与えられなかった。
「まず。君達もここに来る前に聞いていたと思うが、この島で伝染病が流行った。それはとても強いウィルスで、頭に入り込んでしまうと、ある脳細胞を委縮させたり、破壊したりする。それによって、感染者は凶暴化し、人を襲うようになる」
開口一番に飛び出した、普通の人間を化け物へと変化させたモノの正体に愕然とする。
「どうして人を襲うのかは、まだ解明されていないが、本能のまま食欲的欲求を満たす為なのか、脳を破壊されて得る苦痛を和らげる何かが健常者の体の中にあるのではないのかという見方が大きい」
そんな恐ろしい伝染病が蔓延していただなんて、思いもしなかった俺達は、ただただ驚くばかりで、口を挟むなと言われても挟む余裕すらない。
「病状が悪化――要するに、脳の破壊が進めば、痛覚が無くなり、どんなに大怪我をしても、生きている限り動き続け、生きている限り凶暴化が止まらなくなるんだが……ここで、気が付くだろう? 冷酷非情に見えたかもしれないが、わたくしが彼らを轢き潰した理由が何なのか」
酷く辛そうな表情で奥歯を噛みしめると、何かに耐えるよう両手の拳を握りしめた。
肩を震わし、俯く姿から察するに、元は部下であり仲間であった者の変わり果てた姿を見て、躊躇なく残虐な行為に及んだ訳ではなく、そうせざるを得ない事情があった訳だ。
中途半端な事をすれば、ストッパーの利いていない彼らは、自分が死ぬほどの怪我をしている事すら気付かず、何度でも何度でも這い上がって、その凶暴化した精神や欲求を満足させたくて人を襲ってしまうのだから、完膚無きまでに叩き潰すしか無かったのだ。
「ウィルスに侵され、破壊された脳は二度と修復不可能。人間だった者達を、あのように理性のないモンスターのまま生かしておくなんて、それこそ惨たらしく、彼らにとっても苦痛であり屈辱以外の何物でもないだろう」
嘆かわしいというように、眉間に皺を寄せて語る日野浦さんは、こめかみに手をやり、首を小さく振った。
「君らはきっと、その伝染病が沈静化したと聞き、島の安全をアピールする為に政府から依頼されて来たのだろうが、伝染病はおさまってなどいない。考えても見たまえ。ワクチンも特効薬もまだ発見されていない新型ウィルスに人間が対抗出来るわけがないだろう?」
悔しそうに顏を歪める様子から、多くの人の命が奪われ、そして、今も尚、俺達が体験した修羅場のように、この島ではウィルスに感染し、その感染者に殺される者が後を絶たず、その逆もまた然りなのだろう。
彼がここで起きていた大きな事件の大まかな内容を語りだしてから、まだ、十分にも満たないが、一気にやつれ、老け込んだような気がする。
この島全体を護る最高指揮官として、威厳と誇りを持って職務を遂行してきた彼も、流石に精神的にかなり堪えていたのが見て取れた。
大きな溜息をつき、一度肩を下げたものの、再び姿勢を正し、本郷さんを真っ直ぐ見つめた。
「ここまでで、貴方の質問、その一、その三までは解決出来たんじゃないかと思います。残りは『その二』の、『わたくしが、どこに隠れていた』か。それは簡単ですよ。あそこです」
彼は後ろを振り向き、数ある建物の中で、一番背が高く円筒状形をしたものを指差した。
「管制塔。あそこに鍵を閉めて身を潜めていた」
「これで、質問には全て答えて貰ったから、そろそろ口を開いてもいいか?」
自分が問い掛けた事に対して、全て答えが出そろったところを見計らって本郷さんが発言の承諾を得ようとする。
一応、自分の話しに一区切りがついたタイミングだったので、日野浦さんは快く頷いた。
「彼らがウィルスの感染者であり、一度モンスター化したら二度と元には戻せない。そこまではまぁ納得だ。けどよぉ、確か今、政府直々に明和製薬がその特効薬とワクチンを開発するよう依頼しているよね?」
「そうみたいだな」
「なら、その特効薬が出来たら、あいつら治せたんじゃないの? 殺さなくったって、捕獲すれば……」
「君は、あんな体になってまで生きたいか? ウィルスのせいだと言っても、人を喰った事実は消えない。それなのに、一度犯した、人には決して言えない罪を背負って君はのうのうと残りの人生を生きていけるのか?」
理路整然と正論を語る本郷さんの言葉に耐えられなくなったのか、日野浦さんが自分の気持ちを上から被せるように吐き出した。
理論的にも人道的にも、本郷さんの言うことは理解出来る。
しかし、日野浦さんの言うことだって、尤もだ。
人が人らしく生きていけないのならば、せめて、ひと思いに楽にしてやりたいと、彼は、人の精神的な部分を尊重したのだろう。
彼の言葉に本郷さんも自分の身に置き換えて、納得したようで、それ以上は深く追求しなかったが、今度は洋一郎が「質問、いいですか?」と、手を挙げた。
それに日野浦さんが頷くのを見てから、話し始めた。
「この飛行場にいた他の人全員が感染者にも関わらず、何故、日野浦さんだけ感染しなかったのですか? それと。貴方が管制塔にいたとするならば、僕達が乗っていたヘリコプターに着陸許可を出したのも、貴方ですよね? 命の危険がある場所に着陸許可を出すなんてどうかしてる」
淡々と質問しているようで、その実、彼の抑揚のない、感情を抑えた喋り方は相当怒っているのが伺える。
伝染病の話を聞き、日野浦さんへの信用が回復の兆しを見せていたところで、この質問。
またもや俺達は動揺し騒めいた。
「これまた、痛いところを突かれましたねぇ」
眉を下げ、力なく微笑む彼は、頬をポリポリと掻きながら話しを切り出した。
「わたくしは、ワクチンの実験台なんですよ」
「え?」
「は? ワクチン?」
「実験台……」
思いもよらない告白に驚き、それぞれの口から無意識に言葉が洩れる。
「はい。効果があるかどうかは分からないものでも、この島で仕事をしていく上では、とにかく、このウィルスに感染しないというならば、何でも試さなくてはいけませんし、お国からの命令とあれば、断る事も出来ませんしね」
視線を落とし、肩を竦めた。
その表情は疲れ切っているようにも見える。
「わたくし達がまだ研究段階のワクチンを使った結果、ある事が分かったんですから、政府も製薬会社もデータが取れて満足でしょう」
憂いと嘆きを含ませた弱々しい声は、その後に続く話しが良くないものだと予感させる。
案の定、彼の口から飛び出したのは、残念、無念、無惨などといった、この世にある言葉では言い表せないようなことだった。
「わたくし達全員が、ワクチンの実験台……いいえ、彼らの言葉を借りるなら、これは実験ではなく、治験だと言うらしいのですが。名称の正確性など、わたくし達、受け手からしてみたら、どうでもいいことです」
苦痛に顔を歪め、首を力なく振る彼の言葉は尤もだと思う。
命が懸かった場面で、効くか効かないかも分からないワクチンを投与され、ウィルスの蔓延している場所に置き去りにされたとするならば、使えるか使えないか分らない武器を持たされて、激戦の続く戦場に放り出されたのと同じようなものだ。
実験だの治験だの、そんなちっぽけなこだわりなんて、躰を張っている彼らには関係のない事だ。
「ワクチンの種類は二種類。ワクチンの量や打つ回数はここに居た十人、それぞれ違っていましてね。指示通りに自分達で投与しました」
「成程。それで、ワクチンの効果に差が出たと。そう言いたいんだな? で、あんたが投与されたワクチンの質と量のバランスが有効だと判明されたって訳だ」
まだ話しをしている途中だというのに、厭味ったらしい口調で本郷さんが割って入ると、「違いますよ。まだ、判明はしていません。日野浦さんにはたまたま効果があっただけで、体質、性別、体型、それだけでなく、様々な要素でワクチンや薬の効果は変わってきますから」と、洋一郎が静かに口を挟んだ。
彼は日野浦さんと目を合わせると、冷たい表情で更に、「それに、ワクチンのお陰で感染していないのではなく、既に感染していて、潜伏期間を長引かせているだけなのかもしれませんしね。感染しているかどうかなんて、唾液や血液、尿など何かしら必要なものを摂取して調べない限りは分かりません」と付け加えた。
「ただ、そのウィルスは、本当の話なんですよね?」
疑わしげな表情で念を押すと、日野浦さんはしっかりと頷いた。
「だったら、いつ感染するかも分からない僕達と、こうして平然と一緒にいられるんです? むしろ、この島にきて、大分時間が経っていますが、僕達の体には異常が見られないのは何故です?」
矛盾をとことん突いていく洋一郎に、日野浦さんが薄っすらと奇妙な笑みを浮かべた。
「あなた方は人の話を最後まで聞くということをした方がいい。わたくしが、いつ、ワクチンの効果で助かったと言いましたか? いつ、このウィルスが『空気感染』するなんて言いましたか? 空気感染するのであれば、とっくの昔に島は全滅。本土にだって飛んでいますよ」
自ら仕組んだ言葉の罠に、見事引っ掛かった本郷さんや洋一郎を嘲笑うと、「他の者全員にワクチンの効果が見られなかったのに、わたくしに投与されたワクチンに効果があるだなんて、誰が確証できますか? わたくしは、一人が発症するのを見て、管制塔に鍵をかけて引きこもり、感染者から身を隠していた。助かった理由はそれだけですよ」と、皮肉っぽく付け足した。
言われて見ればそうだ。
飛行機やヘリ。
そして、船などが、毎日、この島に人や物資を運んでいるんだ。
島の内部の殆どが、今も平常通りに過ごしていなければ、物資も人も運んでこない筈。
それに、荷物や人をこの島へ運んだ人間や運搬機関は、また本土へと戻る。
もし、空気感染するようなものであれば、本土にウィルスを持って帰ってくる可能性は高いのだから、政府も島を完全封鎖するだろう。
じゃぁ、感染経路は?
「このウィルスがどうやって感染するか。君達だって見たでしょう?」
ウィルスという名前だけで、勝手に空気感染、もしくは、飛沫感染だと勘違いを起こしていた俺達の浅はかな考え方を嘲るよう、彼は片方の眉も口端も上げて、逆に俺達に答えを求めた。
暫くの間、各々が小難しい顏をし、脳に焼き付いた光景を思い出し、考えを張り巡らした。
顎に手をあて、眉を寄せる洋一郎も、髪をワシャワシャと掻き、舌打ちしている本郷さんも、思いつかないようだ。
その時、俺の足元で囁くような声が聞こえ、ズボンの端に引っ張られる感じがした。
「大介、そんなに怯えるなよ……」
不安に駆られて、混乱しているのだろうと思い、太腿付近にある大介の頭を撫でてやると、子供がイヤイヤするように頭を振った。
「どうした?」
気持ちを落ち着かせようようと、なるべく穏やかに尋ねると、今度は、震えてはいるが、それでもハッキリと皆に聞こえるような声を出した。
「喰われたんだよ。皆、見ただろ?」
この言葉を皮切りにして、堰を切ったように溜め込んでいた恐怖を吐き出した。
「ヘリを誘導した人がオレ達の乗っていたヘリを操縦していた副機長を喰ったのをっ! それに、オレ、見たんだよ! ヘリから皆の元へ走っている間に、あの誘導員の傍を通り過ぎた時。あの人、顏は真正面に向けているくせに、大きく見開いた目は、黒目が見えるか見えない程まで上を向いて……それから……」
ガクガクと大きく震え出す大介は、これ以上は思い出したくないという表情をしながらも、気持ちを振り絞り話しを続けた。
「パックリと大きく口を開いたんだっ! そこから、ダラダラと零れる真っ赤な血。あらかじめ、口の中に仕込んでおいた血糊で、オレ達を驚かす悪戯かと思いたかった! でも、ジュルジュルとした半固形のものまでもが彼の着ているモノを汚した。あれは、間違いなく、何かの血肉を口に含んでいたとしか思えないっ」
涙を溜めて、目を真っ赤にして訴える大介の衝撃的な内容に、言葉を失いフリーズする俺達。
そういえば、ボンもやけに川上さんに向かって警戒していたし、大介が妙に何度も何度も彼の顔を振り返って見ていた事は印象に残っている。
俺や洋一郎は、ヘリから降りた後、彼の方など見向きもせずに、二人で何気ない会話をしながら移動した。
多分、他のヘリに乗っていた神崎さんや鶴岡さんだってそうだろう。
いいや、もし、彼の方に視線をやっていたとしても、その時は、口を閉じていたのだから、彼の異変に気が付かなかったのも無理はないが、誰かを先に喰っていたのなら、服が血で汚れて……あぁ、駄目だ。
彼の服は濃紺で、汚れていたとしても黒っぽいシミに見えるだけで、この場所、彼の職務、そういった先入観も手伝って、誰も血だとは思わない。
せいぜい油汚れにしか思ず、気にも留めなかっただろう。
大介が川上さんを気にしていたのは、その前に、ボンが威嚇するように彼に向かって吠えたという前振りがあったから。
そこで目にしたものが、今、大介の口から話された内容。
ヘリから俺達の元に来た時には既に、大介の様子がおかしかったのも、その後の異常なほどの怖がり方も、全てこの事が理由だったんだ。
けれど、その直後から次々と俺達を襲った酸鼻をきわめた出来事によって、伝えたくても伝えられない状況が続き、ここで漸く、抱え込んでいた恐怖をぶちまけられたってトコだ。
ようやく、俺の中であの時の違和感に合点がいったものの、日野浦さんは、「惜しいねぇ……実に惜しい」と、暢気な口調で答えた。
「日野浦空将。これは人の生命に関わる事です。どうか、答えを教えてくれませんでしょうか?」
気性の荒いタイプではなく、これまでも前線に立つのではなく、常に『人を護る』立場でいた鶴岡さん。
地味ではあるが、陰で俺達を支えて来てくれた彼が、上官である日野浦さんに、しごく冷静に進言した。
上官が絶対的な存在である軍人社会に於いて、彼が意見を述べるというのは、とても勇気のいる事であったと思うが、先程の日野浦さんの小馬鹿にしたような言い方で、少なからずカチンと頭に来ていると思われる本郷さんや洋一郎では、喧嘩腰になるのは目に見えている。
多分、俺でもそうだ。
彼が自分の立場を考えずに、正当な理由を述べた上で、丁寧に聞いてくれたお陰で、この場の空気が悪くならなかったのは有難い。
「それもそうですね。もうじきに、この場も危うくなりますから」
しれっとした顔で、聞き流しそうになるくらい、サラリと怖い事を言う彼に、一拍おいて全員が吃驚の声を上げた。
「危うくなるって一体どういう事よ?」
「え? なんだ? ここにヤツが集まって来るのか?」
「日野浦空将っ! 貴方は何を知っているのですか?」
「早くこの場所から逃げましょうよっ」
パニック状態になり、日野浦さんに掴みかかる勢いで問い詰める本郷さんや晴香さん。
それに便乗して切羽詰まったように詰め寄る神崎さん。
取り乱す米澤さんに、慌てて押さえる鶴岡さん。
睨むような目つきで日野浦さんを見つめたまま、何かを考え込んでいる洋一郎に、怯えたままの大介。
勿論――松山さんは気絶したままだ。
ここにいる人全てを混乱に落とし込んだ本人は、どこ吹く風といった表情で緩急のない声で話し出した。
「そこの男の子が見た内容は、正しいようで正しくはない。マーシャラーの川上が食べた人間は死んだまま、ずっとコンクリートに臥せっている。けれど、川上に襲われた、君達と共にこの島にやってきた兵士はどうなった?」
胸倉を掴んでいた本郷さんが、その手を緩め、ヘリポートの方へと顔を動かすと、それに倣うように皆の首が動く。
生々しい肉の山が三つ。
酸っぱいものが胃から込み上げてくるのを、寸でのところで飲み込むと、更に吐き気が込み上げる。
目に涙が溜まるか、それでも、我慢し思い出す。
何人か吐瀉物を吐き出す気配を感じ、鼻につく独特の刺激臭に耐えながらも、記憶を辿る。
副操縦士は、確かに川上さんに生きたまま喰われた。
けれど、蘇ったり、化け物になったりはしていない。
じゃぁ、大東さんは?
あの時、頭を撃たれ、顔面を失い、死んだと思っていた川上さんに、突然襲い掛かられて、首を絞められ、それから?
あれから、彼は喰われたような場面を俺達は見たか?
「……口?」
俺の真横にいる人物がボソリと呟いた。
「ほぉ」
感心したように目を細める日野浦さんの表情を見れば一目瞭然。
洋一郎の零した言葉が正解だという訳だが、口といっても、男同士でキスなんて……
いいや! そうだ。
確かにあの時、大東さんは生きている事自体、おかしい状態の川上さんに襲われ、肉と血にまみれた顔の無い頭部前面を、その顔面に押し付けられていたじゃないか。
「いやぁ、見事見事。その通りですよ。感染経路の一つは『口』です。しかも、わたくしが今まで報告を受けたり、実際にこの目で見たものから判断するならば、口と口がくっついた程度であれば問題はないようですね。唾液であったり、血液であったり。感染者の体液が健常者の体内に入る事によって、感染するようです」
事務的な口調で話す日野浦さんの答えの中に、聞き捨てならない言葉が含まれていた。
その事に気が付いたのは、俺だけでは無い。
「口から体液って……それじゃぁっ」
「ちょっと待ってください。体内に、感染者の体液が入る場所と言えば、口からだけじゃない。口と繋がっている、目も鼻も全て危険ですよ!」
「っ! タカシっ!」
晴香さんの悲痛な声と、本郷さんの切羽詰まった叫びに挟まれて、洋一郎が絶望的な言葉を放っていた。
あの時、あの光景を見ていた全員が、洋一郎の言葉が意味する事を悟り絶句した。
「あぁ、そうそう。皮膚には、体内に異物が侵入しないよう、皮脂膜、角質層、顆粒層、有棘層、基底層と、幾重にも重なる防御機能や自然免疫力がありますから、肌に感染者の体液がついたとしても、すぐに拭き取り、洗い流せば問題はないようです」
とってもお得な情報でしょうと、テレビショッピングの販売員のような胡散臭い笑顔を貼り付けた日野浦さんは、その目を妖しく光らせた。
「まぁ、怪我でもした日には、皮下組織が剥き出しになった傷口に、少しでも感染者の体液が入れば、あっという間にあちらの仲間入りですけどね」
誠実そうで穏やかな紳士というイメージであった彼は、徐々に化けの皮を剥がしていく。
意地悪そうに口元を歪める彼は、品のある雰囲気はそのままに、いつの間にか凍てつくようなオーラを纏っていたが、今は彼の豹変っぷりに構っている暇はない。
彼の話が本当ならば、不揃いな四肢の感染者に馬乗りにされ、血液や唾液、様々な『汁』で顔面を汚されたタカシさんは、感染した事になる。
そういえば、二人がこの人に助けられてから随分と時間が経っている。
全力疾走を続けていたのだから、疲労困憊しているのは分かるが、こんな最悪な事態に陥っている中で、仲間と離れたところで呑気に休んでいるわけはない。
少しでも早く皆の元に集まって、情報の共有、現状の把握をすべきことは、彼らが一番よく理解している筈。
途端に、日野浦さんの言っている言葉が現実味を増し、背筋に冷たいものが走った。
自分の思考へと意識を飛ばしていたせいで、周りよりも一足遅れて、目を疑うような光景を目にして固まった。
いいや。
俺だけじゃない。
皆一様に、一点を見つめたまま、石像化していた。
「フッ……」
その沈黙を破ったのは、小さく息を吹き出したような音。
「え?」
一瞬、何の音か分からず、キョトンとした表情で、皆が互いに見合うと、突然、お腹を抱えて日野浦さんが笑い出した。
「ふははははっ」
寸秒前まで感情という感情を殺したような表情だった彼が、何かが弾けたように彼の持つ雰囲気にはそぐわないほどの爆笑をするものだから、その場に居た全員が唖然とする。
一通り笑い終われば、初めて彼が俺達の前に姿を現した時と同様の、親しみ易い微笑みを浮かべていた。
「いや~。成程。貴方はあんなパニック状態の中でも、常に冷静に物事を見ているんですねぇ。流石です。映画やドラマでは、間一髪のところを救ったヒーローに対し、そのヒーローの正体が分からなくても、みんな、無条件で賛辞の言葉を述べ、素直に助かった事実を喜ぶものなのですが、現実ではそうはいかないようですね」
残念そうな口調とは反対に、彼の表情はどこか楽しげだ。
「ここで神崎一等空佐や鶴岡一等空佐がわたくしの事を上官だと認めた時点で、他の皆さんも、わたくしを無条件で信じ、受け入れ、素直に私の言葉に従って、この場から移動する予定だったのですが、このままでは、皆さん、わたくしを信用してくださらないでしょう?」
一人一人の顔を見ながら、確認を取るように語り掛ける。
頷く事も、答える事も誰もしなかったが、その表情だけで彼は理解したのだろう。
一旦、目を瞑り、深く息を吸い込んだ後、覚悟を決めたように、ゆっくりと瞼を開いた。
「当分、この場所は安全な筈ですから、いいでしょう。真実を話します。ただし、横槍や質問は、私が話し終わるまでは一切受け付けません。いいですね?」
彼の顔からは笑顔が消え、変わりに鋭い視線が俺達を射抜き、反論の余地を与えず、頷くという選択肢しか与えられなかった。
「まず。君達もここに来る前に聞いていたと思うが、この島で伝染病が流行った。それはとても強いウィルスで、頭に入り込んでしまうと、ある脳細胞を委縮させたり、破壊したりする。それによって、感染者は凶暴化し、人を襲うようになる」
開口一番に飛び出した、普通の人間を化け物へと変化させたモノの正体に愕然とする。
「どうして人を襲うのかは、まだ解明されていないが、本能のまま食欲的欲求を満たす為なのか、脳を破壊されて得る苦痛を和らげる何かが健常者の体の中にあるのではないのかという見方が大きい」
そんな恐ろしい伝染病が蔓延していただなんて、思いもしなかった俺達は、ただただ驚くばかりで、口を挟むなと言われても挟む余裕すらない。
「病状が悪化――要するに、脳の破壊が進めば、痛覚が無くなり、どんなに大怪我をしても、生きている限り動き続け、生きている限り凶暴化が止まらなくなるんだが……ここで、気が付くだろう? 冷酷非情に見えたかもしれないが、わたくしが彼らを轢き潰した理由が何なのか」
酷く辛そうな表情で奥歯を噛みしめると、何かに耐えるよう両手の拳を握りしめた。
肩を震わし、俯く姿から察するに、元は部下であり仲間であった者の変わり果てた姿を見て、躊躇なく残虐な行為に及んだ訳ではなく、そうせざるを得ない事情があった訳だ。
中途半端な事をすれば、ストッパーの利いていない彼らは、自分が死ぬほどの怪我をしている事すら気付かず、何度でも何度でも這い上がって、その凶暴化した精神や欲求を満足させたくて人を襲ってしまうのだから、完膚無きまでに叩き潰すしか無かったのだ。
「ウィルスに侵され、破壊された脳は二度と修復不可能。人間だった者達を、あのように理性のないモンスターのまま生かしておくなんて、それこそ惨たらしく、彼らにとっても苦痛であり屈辱以外の何物でもないだろう」
嘆かわしいというように、眉間に皺を寄せて語る日野浦さんは、こめかみに手をやり、首を小さく振った。
「君らはきっと、その伝染病が沈静化したと聞き、島の安全をアピールする為に政府から依頼されて来たのだろうが、伝染病はおさまってなどいない。考えても見たまえ。ワクチンも特効薬もまだ発見されていない新型ウィルスに人間が対抗出来るわけがないだろう?」
悔しそうに顏を歪める様子から、多くの人の命が奪われ、そして、今も尚、俺達が体験した修羅場のように、この島ではウィルスに感染し、その感染者に殺される者が後を絶たず、その逆もまた然りなのだろう。
彼がここで起きていた大きな事件の大まかな内容を語りだしてから、まだ、十分にも満たないが、一気にやつれ、老け込んだような気がする。
この島全体を護る最高指揮官として、威厳と誇りを持って職務を遂行してきた彼も、流石に精神的にかなり堪えていたのが見て取れた。
大きな溜息をつき、一度肩を下げたものの、再び姿勢を正し、本郷さんを真っ直ぐ見つめた。
「ここまでで、貴方の質問、その一、その三までは解決出来たんじゃないかと思います。残りは『その二』の、『わたくしが、どこに隠れていた』か。それは簡単ですよ。あそこです」
彼は後ろを振り向き、数ある建物の中で、一番背が高く円筒状形をしたものを指差した。
「管制塔。あそこに鍵を閉めて身を潜めていた」
「これで、質問には全て答えて貰ったから、そろそろ口を開いてもいいか?」
自分が問い掛けた事に対して、全て答えが出そろったところを見計らって本郷さんが発言の承諾を得ようとする。
一応、自分の話しに一区切りがついたタイミングだったので、日野浦さんは快く頷いた。
「彼らがウィルスの感染者であり、一度モンスター化したら二度と元には戻せない。そこまではまぁ納得だ。けどよぉ、確か今、政府直々に明和製薬がその特効薬とワクチンを開発するよう依頼しているよね?」
「そうみたいだな」
「なら、その特効薬が出来たら、あいつら治せたんじゃないの? 殺さなくったって、捕獲すれば……」
「君は、あんな体になってまで生きたいか? ウィルスのせいだと言っても、人を喰った事実は消えない。それなのに、一度犯した、人には決して言えない罪を背負って君はのうのうと残りの人生を生きていけるのか?」
理路整然と正論を語る本郷さんの言葉に耐えられなくなったのか、日野浦さんが自分の気持ちを上から被せるように吐き出した。
理論的にも人道的にも、本郷さんの言うことは理解出来る。
しかし、日野浦さんの言うことだって、尤もだ。
人が人らしく生きていけないのならば、せめて、ひと思いに楽にしてやりたいと、彼は、人の精神的な部分を尊重したのだろう。
彼の言葉に本郷さんも自分の身に置き換えて、納得したようで、それ以上は深く追求しなかったが、今度は洋一郎が「質問、いいですか?」と、手を挙げた。
それに日野浦さんが頷くのを見てから、話し始めた。
「この飛行場にいた他の人全員が感染者にも関わらず、何故、日野浦さんだけ感染しなかったのですか? それと。貴方が管制塔にいたとするならば、僕達が乗っていたヘリコプターに着陸許可を出したのも、貴方ですよね? 命の危険がある場所に着陸許可を出すなんてどうかしてる」
淡々と質問しているようで、その実、彼の抑揚のない、感情を抑えた喋り方は相当怒っているのが伺える。
伝染病の話を聞き、日野浦さんへの信用が回復の兆しを見せていたところで、この質問。
またもや俺達は動揺し騒めいた。
「これまた、痛いところを突かれましたねぇ」
眉を下げ、力なく微笑む彼は、頬をポリポリと掻きながら話しを切り出した。
「わたくしは、ワクチンの実験台なんですよ」
「え?」
「は? ワクチン?」
「実験台……」
思いもよらない告白に驚き、それぞれの口から無意識に言葉が洩れる。
「はい。効果があるかどうかは分からないものでも、この島で仕事をしていく上では、とにかく、このウィルスに感染しないというならば、何でも試さなくてはいけませんし、お国からの命令とあれば、断る事も出来ませんしね」
視線を落とし、肩を竦めた。
その表情は疲れ切っているようにも見える。
「わたくし達がまだ研究段階のワクチンを使った結果、ある事が分かったんですから、政府も製薬会社もデータが取れて満足でしょう」
憂いと嘆きを含ませた弱々しい声は、その後に続く話しが良くないものだと予感させる。
案の定、彼の口から飛び出したのは、残念、無念、無惨などといった、この世にある言葉では言い表せないようなことだった。
「わたくし達全員が、ワクチンの実験台……いいえ、彼らの言葉を借りるなら、これは実験ではなく、治験だと言うらしいのですが。名称の正確性など、わたくし達、受け手からしてみたら、どうでもいいことです」
苦痛に顔を歪め、首を力なく振る彼の言葉は尤もだと思う。
命が懸かった場面で、効くか効かないかも分からないワクチンを投与され、ウィルスの蔓延している場所に置き去りにされたとするならば、使えるか使えないか分らない武器を持たされて、激戦の続く戦場に放り出されたのと同じようなものだ。
実験だの治験だの、そんなちっぽけなこだわりなんて、躰を張っている彼らには関係のない事だ。
「ワクチンの種類は二種類。ワクチンの量や打つ回数はここに居た十人、それぞれ違っていましてね。指示通りに自分達で投与しました」
「成程。それで、ワクチンの効果に差が出たと。そう言いたいんだな? で、あんたが投与されたワクチンの質と量のバランスが有効だと判明されたって訳だ」
まだ話しをしている途中だというのに、厭味ったらしい口調で本郷さんが割って入ると、「違いますよ。まだ、判明はしていません。日野浦さんにはたまたま効果があっただけで、体質、性別、体型、それだけでなく、様々な要素でワクチンや薬の効果は変わってきますから」と、洋一郎が静かに口を挟んだ。
彼は日野浦さんと目を合わせると、冷たい表情で更に、「それに、ワクチンのお陰で感染していないのではなく、既に感染していて、潜伏期間を長引かせているだけなのかもしれませんしね。感染しているかどうかなんて、唾液や血液、尿など何かしら必要なものを摂取して調べない限りは分かりません」と付け加えた。
「ただ、そのウィルスは、本当の話なんですよね?」
疑わしげな表情で念を押すと、日野浦さんはしっかりと頷いた。
「だったら、いつ感染するかも分からない僕達と、こうして平然と一緒にいられるんです? むしろ、この島にきて、大分時間が経っていますが、僕達の体には異常が見られないのは何故です?」
矛盾をとことん突いていく洋一郎に、日野浦さんが薄っすらと奇妙な笑みを浮かべた。
「あなた方は人の話を最後まで聞くということをした方がいい。わたくしが、いつ、ワクチンの効果で助かったと言いましたか? いつ、このウィルスが『空気感染』するなんて言いましたか? 空気感染するのであれば、とっくの昔に島は全滅。本土にだって飛んでいますよ」
自ら仕組んだ言葉の罠に、見事引っ掛かった本郷さんや洋一郎を嘲笑うと、「他の者全員にワクチンの効果が見られなかったのに、わたくしに投与されたワクチンに効果があるだなんて、誰が確証できますか? わたくしは、一人が発症するのを見て、管制塔に鍵をかけて引きこもり、感染者から身を隠していた。助かった理由はそれだけですよ」と、皮肉っぽく付け足した。
言われて見ればそうだ。
飛行機やヘリ。
そして、船などが、毎日、この島に人や物資を運んでいるんだ。
島の内部の殆どが、今も平常通りに過ごしていなければ、物資も人も運んでこない筈。
それに、荷物や人をこの島へ運んだ人間や運搬機関は、また本土へと戻る。
もし、空気感染するようなものであれば、本土にウィルスを持って帰ってくる可能性は高いのだから、政府も島を完全封鎖するだろう。
じゃぁ、感染経路は?
「このウィルスがどうやって感染するか。君達だって見たでしょう?」
ウィルスという名前だけで、勝手に空気感染、もしくは、飛沫感染だと勘違いを起こしていた俺達の浅はかな考え方を嘲るよう、彼は片方の眉も口端も上げて、逆に俺達に答えを求めた。
暫くの間、各々が小難しい顏をし、脳に焼き付いた光景を思い出し、考えを張り巡らした。
顎に手をあて、眉を寄せる洋一郎も、髪をワシャワシャと掻き、舌打ちしている本郷さんも、思いつかないようだ。
その時、俺の足元で囁くような声が聞こえ、ズボンの端に引っ張られる感じがした。
「大介、そんなに怯えるなよ……」
不安に駆られて、混乱しているのだろうと思い、太腿付近にある大介の頭を撫でてやると、子供がイヤイヤするように頭を振った。
「どうした?」
気持ちを落ち着かせようようと、なるべく穏やかに尋ねると、今度は、震えてはいるが、それでもハッキリと皆に聞こえるような声を出した。
「喰われたんだよ。皆、見ただろ?」
この言葉を皮切りにして、堰を切ったように溜め込んでいた恐怖を吐き出した。
「ヘリを誘導した人がオレ達の乗っていたヘリを操縦していた副機長を喰ったのをっ! それに、オレ、見たんだよ! ヘリから皆の元へ走っている間に、あの誘導員の傍を通り過ぎた時。あの人、顏は真正面に向けているくせに、大きく見開いた目は、黒目が見えるか見えない程まで上を向いて……それから……」
ガクガクと大きく震え出す大介は、これ以上は思い出したくないという表情をしながらも、気持ちを振り絞り話しを続けた。
「パックリと大きく口を開いたんだっ! そこから、ダラダラと零れる真っ赤な血。あらかじめ、口の中に仕込んでおいた血糊で、オレ達を驚かす悪戯かと思いたかった! でも、ジュルジュルとした半固形のものまでもが彼の着ているモノを汚した。あれは、間違いなく、何かの血肉を口に含んでいたとしか思えないっ」
涙を溜めて、目を真っ赤にして訴える大介の衝撃的な内容に、言葉を失いフリーズする俺達。
そういえば、ボンもやけに川上さんに向かって警戒していたし、大介が妙に何度も何度も彼の顔を振り返って見ていた事は印象に残っている。
俺や洋一郎は、ヘリから降りた後、彼の方など見向きもせずに、二人で何気ない会話をしながら移動した。
多分、他のヘリに乗っていた神崎さんや鶴岡さんだってそうだろう。
いいや、もし、彼の方に視線をやっていたとしても、その時は、口を閉じていたのだから、彼の異変に気が付かなかったのも無理はないが、誰かを先に喰っていたのなら、服が血で汚れて……あぁ、駄目だ。
彼の服は濃紺で、汚れていたとしても黒っぽいシミに見えるだけで、この場所、彼の職務、そういった先入観も手伝って、誰も血だとは思わない。
せいぜい油汚れにしか思ず、気にも留めなかっただろう。
大介が川上さんを気にしていたのは、その前に、ボンが威嚇するように彼に向かって吠えたという前振りがあったから。
そこで目にしたものが、今、大介の口から話された内容。
ヘリから俺達の元に来た時には既に、大介の様子がおかしかったのも、その後の異常なほどの怖がり方も、全てこの事が理由だったんだ。
けれど、その直後から次々と俺達を襲った酸鼻をきわめた出来事によって、伝えたくても伝えられない状況が続き、ここで漸く、抱え込んでいた恐怖をぶちまけられたってトコだ。
ようやく、俺の中であの時の違和感に合点がいったものの、日野浦さんは、「惜しいねぇ……実に惜しい」と、暢気な口調で答えた。
「日野浦空将。これは人の生命に関わる事です。どうか、答えを教えてくれませんでしょうか?」
気性の荒いタイプではなく、これまでも前線に立つのではなく、常に『人を護る』立場でいた鶴岡さん。
地味ではあるが、陰で俺達を支えて来てくれた彼が、上官である日野浦さんに、しごく冷静に進言した。
上官が絶対的な存在である軍人社会に於いて、彼が意見を述べるというのは、とても勇気のいる事であったと思うが、先程の日野浦さんの小馬鹿にしたような言い方で、少なからずカチンと頭に来ていると思われる本郷さんや洋一郎では、喧嘩腰になるのは目に見えている。
多分、俺でもそうだ。
彼が自分の立場を考えずに、正当な理由を述べた上で、丁寧に聞いてくれたお陰で、この場の空気が悪くならなかったのは有難い。
「それもそうですね。もうじきに、この場も危うくなりますから」
しれっとした顔で、聞き流しそうになるくらい、サラリと怖い事を言う彼に、一拍おいて全員が吃驚の声を上げた。
「危うくなるって一体どういう事よ?」
「え? なんだ? ここにヤツが集まって来るのか?」
「日野浦空将っ! 貴方は何を知っているのですか?」
「早くこの場所から逃げましょうよっ」
パニック状態になり、日野浦さんに掴みかかる勢いで問い詰める本郷さんや晴香さん。
それに便乗して切羽詰まったように詰め寄る神崎さん。
取り乱す米澤さんに、慌てて押さえる鶴岡さん。
睨むような目つきで日野浦さんを見つめたまま、何かを考え込んでいる洋一郎に、怯えたままの大介。
勿論――松山さんは気絶したままだ。
ここにいる人全てを混乱に落とし込んだ本人は、どこ吹く風といった表情で緩急のない声で話し出した。
「そこの男の子が見た内容は、正しいようで正しくはない。マーシャラーの川上が食べた人間は死んだまま、ずっとコンクリートに臥せっている。けれど、川上に襲われた、君達と共にこの島にやってきた兵士はどうなった?」
胸倉を掴んでいた本郷さんが、その手を緩め、ヘリポートの方へと顔を動かすと、それに倣うように皆の首が動く。
生々しい肉の山が三つ。
酸っぱいものが胃から込み上げてくるのを、寸でのところで飲み込むと、更に吐き気が込み上げる。
目に涙が溜まるか、それでも、我慢し思い出す。
何人か吐瀉物を吐き出す気配を感じ、鼻につく独特の刺激臭に耐えながらも、記憶を辿る。
副操縦士は、確かに川上さんに生きたまま喰われた。
けれど、蘇ったり、化け物になったりはしていない。
じゃぁ、大東さんは?
あの時、頭を撃たれ、顔面を失い、死んだと思っていた川上さんに、突然襲い掛かられて、首を絞められ、それから?
あれから、彼は喰われたような場面を俺達は見たか?
「……口?」
俺の真横にいる人物がボソリと呟いた。
「ほぉ」
感心したように目を細める日野浦さんの表情を見れば一目瞭然。
洋一郎の零した言葉が正解だという訳だが、口といっても、男同士でキスなんて……
いいや! そうだ。
確かにあの時、大東さんは生きている事自体、おかしい状態の川上さんに襲われ、肉と血にまみれた顔の無い頭部前面を、その顔面に押し付けられていたじゃないか。
「いやぁ、見事見事。その通りですよ。感染経路の一つは『口』です。しかも、わたくしが今まで報告を受けたり、実際にこの目で見たものから判断するならば、口と口がくっついた程度であれば問題はないようですね。唾液であったり、血液であったり。感染者の体液が健常者の体内に入る事によって、感染するようです」
事務的な口調で話す日野浦さんの答えの中に、聞き捨てならない言葉が含まれていた。
その事に気が付いたのは、俺だけでは無い。
「口から体液って……それじゃぁっ」
「ちょっと待ってください。体内に、感染者の体液が入る場所と言えば、口からだけじゃない。口と繋がっている、目も鼻も全て危険ですよ!」
「っ! タカシっ!」
晴香さんの悲痛な声と、本郷さんの切羽詰まった叫びに挟まれて、洋一郎が絶望的な言葉を放っていた。
あの時、あの光景を見ていた全員が、洋一郎の言葉が意味する事を悟り絶句した。
「あぁ、そうそう。皮膚には、体内に異物が侵入しないよう、皮脂膜、角質層、顆粒層、有棘層、基底層と、幾重にも重なる防御機能や自然免疫力がありますから、肌に感染者の体液がついたとしても、すぐに拭き取り、洗い流せば問題はないようです」
とってもお得な情報でしょうと、テレビショッピングの販売員のような胡散臭い笑顔を貼り付けた日野浦さんは、その目を妖しく光らせた。
「まぁ、怪我でもした日には、皮下組織が剥き出しになった傷口に、少しでも感染者の体液が入れば、あっという間にあちらの仲間入りですけどね」
誠実そうで穏やかな紳士というイメージであった彼は、徐々に化けの皮を剥がしていく。
意地悪そうに口元を歪める彼は、品のある雰囲気はそのままに、いつの間にか凍てつくようなオーラを纏っていたが、今は彼の豹変っぷりに構っている暇はない。
彼の話が本当ならば、不揃いな四肢の感染者に馬乗りにされ、血液や唾液、様々な『汁』で顔面を汚されたタカシさんは、感染した事になる。
そういえば、二人がこの人に助けられてから随分と時間が経っている。
全力疾走を続けていたのだから、疲労困憊しているのは分かるが、こんな最悪な事態に陥っている中で、仲間と離れたところで呑気に休んでいるわけはない。
少しでも早く皆の元に集まって、情報の共有、現状の把握をすべきことは、彼らが一番よく理解している筈。
途端に、日野浦さんの言っている言葉が現実味を増し、背筋に冷たいものが走った。
自分の思考へと意識を飛ばしていたせいで、周りよりも一足遅れて、目を疑うような光景を目にして固まった。
いいや。
俺だけじゃない。
皆一様に、一点を見つめたまま、石像化していた。
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