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episode 13
3
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「い……ない」
誰のものかも分からない、ひゅうひゅうと隙間風のような声が耳を掠めた。
それに応える者はいない。
視線が集中する先は、荒川さんが肩で息をし、座り込んでいた場所。
そこには、これまで散々目にして来た赤黒い小さな山が一つ増えていた。
それが何なのか、認識出来ているにも関わらず、脳がそれを拒否している。
「あら、か……わ……」
「アラカワァァァァァッ!」
濃い目のグレーが印象的な都市迷彩の殆どが真っ赤や赤墨、梅鼠のような色へと変色した、おどろおどろしい迷彩色を織り成す塊体を、鶴岡さんが我が目を疑うように指差せば、怒号を上げて、神崎さんが走り出す。
「待てっ! 冷静になるんだ!」
咄嗟に鶴岡さんは、彼を追い掛け、背後から飛びつき、羽交い絞めをして止める。
「離せぇっ! 荒川は……荒川は助かった筈なんだぞぉっ! なんでだぁぁっ」
自分を拘束している腕から逃れようと、体全身を捻るようにして暴れ狂う彼の元へ、本郷さんが駆け付け、鳩尾に一発拳を入れた。
「うぐっ!」
息を詰まらせ前のめりになった彼の表情は、俺達には背を向けているため、見ることは出来ないが、苦痛に歪んでいるのは間違いない。
大きく咳き込む彼の顏を覗きこんで、本郷さんが静かな怒りを含んだような声で言い聞かせた。
「タカシがいねぇんだよ。わかるか? この意味」
日野浦さんが語ったものが事実だとするのであれば、タカシさんは感染した事になる。
グランドに残されているのは、空軍の制服や迷彩服を着ていた者達の遺体というには、あまりにも痛ましいものばかりで、タカシさんの姿はどこにも無かった。
背後から自分の胴体に腕を回す鶴岡さんに体重を預け、ガックリと項垂れる神崎さんの姿は、雄々しく、激情的な面が目立っていた彼の、心根の優しさと、いつでも自分の感情に素直な部分が表れていた。
「逃げた?」
「それ、マズいんじゃっ!」
「は、早く、ここから逃げましょうよっ!」
「あれぇ? 皆、どうしたんだい?」
「オメェには後で説明すっから、今は黙ってろ!」
タカシさんが感染した。
それだけでも、俄かに信じがたいものだというのに、彼の姿が忽然と消えていたのだ。
慌てふためく声の中、ようやく意識を取り戻した松山さんの気の抜けたような声が混じる。
途中経過を知らないのだから彼には何の非も無いが、この切迫した状況の中で、焦りと不安から気が立っていた本郷さんが苛立ったように声を荒げる気持ちも分かる。
荒川さんと思われる残骸から建物に向かって、白っぽい土の上だからこそ目につく、生々しくも濁った赤色の塊が所々落ちている。
ここから目を凝らして見えるのは、そこまでだが、きっと、その道筋には点々とした赤い血液痕も残されていることだろう。
これらの状況証拠を見れば、タカシさんが荒川さんを食べ、その肉を喰い散らかしながら、建物の方へ向かったと推測できるが、彼が何故、獲物である人間達がこんなにも集まっている俺達の方ではなく、建物へ向かって行ったのか。
その目的が分からないからこそ、嫌な胸騒ぎがする。
「彼は発症してしまったようですね」
皆が動揺し騒めく中で、ただ一人、のんびりとした口調で他人事のようにポツリと言った言葉を本郷さんは聞き逃さなかった。
「あんたなぁっ! なに暢気な事言ってんだ! 人がこんだけ死んでんだぞっ! しかも、アイツは……これから、自分の意志とは関係なく、人を襲うかもしれないんだぞ? なんでそんなに冷静でいられるんだよっ! ぜってぇ、あんた。他に何か情報を隠しているだろっ!」
「よせっ!」
カッとなって頭に血が昇った本郷さんが、日野浦さんの胸倉を掴んでがなる。
彼の乱暴な動きを止めようと大きな声を出す鶴岡さんも、内心では本郷さんと同じ意見のようで、本気で制止しようとはしない。
その証拠に、彼は「よせっ」と言ったっきり、何か行動に移すわけでもなく、地面に腰を下ろした神崎さんの気持ちを落ち着かせるよう、立膝をついて、彼の肩に手を置いたまま、黙って二人の様子を傍観しているだけだ。
両手を挙げて、降参のポーズをとる男は、「まぁまぁ。落ち着いて」と、いつ顔面に鉄拳が振り落とされるかも分からない状態でも、変わらず飄々とした態度で軽くあしらう。
それが癪に障ったのは言うまでもない。
拳をプルプルと震わせ、こめかみには青筋が浮いている。
彼の怒りのバロメーターの針は振り切れ寸前といったとこだろう。
けれど、彼は寸でのところで思いとどまり、奥歯を噛みしめて、くぐもった声を出した。
「知っている事を全て吐けっ」
興奮が抑えきれずに声が上擦っているが、それでもギリギリのところで堪え、言葉を選ぶ。
感情に任せたままであったのなら、彼の口から飛び出したのは、目の前の人物に対する悪態だけであっただろう。
それでも彼は、ここでそんな事を言っても、何の得にもならないことを頭の中で理解し、理性で怒りを押し留めた。
「ふぅむ。わたくしが知っていることは全てお話しましたが……あぁっ! そうでした。わたくしに投与されたワクチンに関してですが、先程も言いましたように、効果があるかどうかは分かりません。正直、わたくしは博打が嫌いでしてね。効くか効かないかも分からないワクチンを投薬されたからといって、感染者に近付くような馬鹿な真似はしておりませんから」
澄ました顔でそう言い放ったものの、意味ありげな目で本郷さんの顏を見つめた。
「ただ。この島には優秀な研究者が沢山いましてねぇ……。そこで、特効薬はまだ開発されてはいませんが、数時間だけですが、症状を抑える事の出来る薬を作る事に成功しているんですよ」
「な……んだと」
「たかが数時間とお思いでしょうが、その薬を定期的に投与し続ければ、初期段階の感染者であれば、通常の人間と変わらない生活が出来ます」
自信あり気な物言いは、彼が実際に薬の効果をその目で見て確かめたことを物語っている。
彼の発言は、今の俺達。
特に、同じ組織に所属しているタカシさんや晴香さんにとっては、一縷の望みを持たせるには充分なものであった。
ただし、『初期症状』の段階での投与が大前提だ。
どこまでが初期段階なのか。
既に、人一人をその歯(牙)で噛み殺している彼でも、まだ初期段階と言えるのか?
それだけじゃない。
人間のその血肉を口にしたタカシさんが正気を取り戻したところで、いくらウィルスのせいだといえども、自分の犯した罪を自分自身で赦せるものなのだろうか?
悪い方に考えればキリがない。
とにかく、数時間であっても、感染者の症状を抑える事の出来る薬を手に入れれば、今後、もし、誰かが感染した時にも役に立つ。
物凄く魅力的な話しだが、一つだけ引っ掛かる事がある。
「そんな薬があるのなら、なんでアンタはそれを常備していないんだ?」
魅惑的な香りを放つ花には罠が仕掛けられているように、魅力的な言葉の花びらに包まれた矛盾を本郷さんが鋭く突いた。
彼の言う通り。
有効かどうかも分からないワクチン。
そんなもの、どこの誰が信用する?
もしも自分が感染した時の切り札として、感染症状を抑える薬を持っているのが当たり前だ。
誰だって、化け物のようにはなりたくないに決まっている。
全員から疑いの目を向けられた話題の中心人物は、やれやれといった表情で歎息をつくと、胸倉を掴んだままの本郷さんの腕を軽く叩いた。
関心が『症状を抑える薬』へと向けられていた今、日野浦さんのシャツを握る手には殆ど力が入っておらず、簡単に離れる。
彼の手が掴んでいたものから離され、行き場を失ったまま静止する中、日野浦さんは、皺になったシャツを直し、身嗜みを整えた。
「わたくし達も、モルモットですから……実験台に貴重な薬をくれるワケがないでしょう」
何もかもを諦めたような真っ黒で光のない沼の底のような目をして、自嘲気味に笑う彼の言葉に対して、もう誰も反論する事が出来なかった。
「さぁ、どうします? あなた方は政府の大切な客人だ。研究所に行けば、その薬を手に入れる事が出来ると思いますが……」
チラリと本郷さんの顏を覗き見た。
その表情は、「さぁ、どうする?」といったものというよりも、自分と一緒に研究所へと向かうだろうことを確信しているように見える。
まだまだ信用出来ない怪しい部分が多々あるものの、どうするべきか悩む本郷さんの気持ちを固めたのは、「これで、仲間を救えるかもしれませんよ?」という囁き。
これが後に悪魔の囁きになるのか、天使の囁きになるのかは今の時点では見当もつかない。
それでも、この言葉が決め手となり、本郷さんは、たった一つの希望に賭ける事にしたのだ。
「勿論、あんたが案内してくれるんだろうな?」
推し測るようにじっと目の奥を見つめる本郷さんの言葉を聞き、彼は、自分の思い通りの展開に持ち込んだというように、満足そうな笑みを浮かべた。
「ええ。当然です。わたくしとしましても、こんな物騒な所よりも、安全が約束された場所へ一刻も早く行きたいのが本音ですから。薬のある場所は、この島で一番、安全な所ですからね」
胸ポケットから鍵を取り出し、このグランドで牛追い祭りの如く暴れ回った乗り物へと足を向ける。
「あ! そうでした」
ズボンのポケットを弄り何かを取り出すと、振り向きざまに鶴岡さんに向かってそれを投げた。
「この車両は定員が四名でした。その鍵はグランドの隅にある装甲兵員輸送車のものです。ナンバープレートは29‐9125だったと思います。鶴岡一等空佐。わたくしの運転する後について来てくださいね」
有無を言わせない言葉に、手にした銀色に光る小さな物を見つめ、苦虫を噛み潰したような表情をしている鶴岡さん。
そんな彼の様子を気にする素振りを見せずに、日野浦さんは、さっさと軽装甲機動車に乗り込む。
彼がいう薬の在り処は、軍事研究施設の筈。
ウィルスの感染なんていう切迫した事態が無かったら、きっと彼も、俺達一般人に、この島に優秀な研究者がいるだなんて事は言わなかっただろう。
状況は最悪だが、米澤さんや俺達が予想した通り、この島に何等らかの研究施設があるのが確定しただけでなく、その場所まで案内して貰えるのは大きな収穫だ。
本郷さん達の計画が何なのかを聞く前にして状況が急変し、その計画はオジャンになってしまったが、大きな痛手は負ったものの、一気に王手をかけるチャンスである。
俺としても、この島で介護ホームへのボランティア活動をしつつ、政府の人間の目をすり抜けながら、島の内部を調べ、何とかして兄貴とコンタクトを取ろうと思っていたのだから、その手間が省けた事は時間的にも労力的にも非常に大きい。
多くの死を目の当りにし、危険な目にだって遭っている。
あんな光景を見てしまったら、この島のどこかにいるであろう祖父だって、もしかしたらウィルスに感染してしまっているんじゃないかと嫌な想像が頭をもたげるが、それを必死で打ち消す。
祖父を助ける事。
これが俺の一番の目的なのだから、その目的を失くしてしまったら、俺はこの先には進めなくなっちまう。
正直、ここから逃げ出したい気持ちの方が大きいけれど、全ての段階を飛び越えて、いきなり敵の本陣へと突入出来るのは唯一の救いだ。
「兄貴と面会出来れば――」
この時の俺は、すっかり忘れていたんだ。
この島に上陸し、最初に見たウィルス感染者の残虐行為。
あれを目にした時の既視感。
あれが一体何だったのかを、俺はこの時、思い出すべきだったんだ。
そうすれば、後に起こる不幸な出来事を防ぐ事が出来たかもしれない。
けれど、ショッキングな事件の連続で、冷静に物事を判断しているようで、俺の頭の中はかなり混乱していたらしく、彼の嘘を見抜く事も、既視感の元を思い出す事も出来なかった。
誰のものかも分からない、ひゅうひゅうと隙間風のような声が耳を掠めた。
それに応える者はいない。
視線が集中する先は、荒川さんが肩で息をし、座り込んでいた場所。
そこには、これまで散々目にして来た赤黒い小さな山が一つ増えていた。
それが何なのか、認識出来ているにも関わらず、脳がそれを拒否している。
「あら、か……わ……」
「アラカワァァァァァッ!」
濃い目のグレーが印象的な都市迷彩の殆どが真っ赤や赤墨、梅鼠のような色へと変色した、おどろおどろしい迷彩色を織り成す塊体を、鶴岡さんが我が目を疑うように指差せば、怒号を上げて、神崎さんが走り出す。
「待てっ! 冷静になるんだ!」
咄嗟に鶴岡さんは、彼を追い掛け、背後から飛びつき、羽交い絞めをして止める。
「離せぇっ! 荒川は……荒川は助かった筈なんだぞぉっ! なんでだぁぁっ」
自分を拘束している腕から逃れようと、体全身を捻るようにして暴れ狂う彼の元へ、本郷さんが駆け付け、鳩尾に一発拳を入れた。
「うぐっ!」
息を詰まらせ前のめりになった彼の表情は、俺達には背を向けているため、見ることは出来ないが、苦痛に歪んでいるのは間違いない。
大きく咳き込む彼の顏を覗きこんで、本郷さんが静かな怒りを含んだような声で言い聞かせた。
「タカシがいねぇんだよ。わかるか? この意味」
日野浦さんが語ったものが事実だとするのであれば、タカシさんは感染した事になる。
グランドに残されているのは、空軍の制服や迷彩服を着ていた者達の遺体というには、あまりにも痛ましいものばかりで、タカシさんの姿はどこにも無かった。
背後から自分の胴体に腕を回す鶴岡さんに体重を預け、ガックリと項垂れる神崎さんの姿は、雄々しく、激情的な面が目立っていた彼の、心根の優しさと、いつでも自分の感情に素直な部分が表れていた。
「逃げた?」
「それ、マズいんじゃっ!」
「は、早く、ここから逃げましょうよっ!」
「あれぇ? 皆、どうしたんだい?」
「オメェには後で説明すっから、今は黙ってろ!」
タカシさんが感染した。
それだけでも、俄かに信じがたいものだというのに、彼の姿が忽然と消えていたのだ。
慌てふためく声の中、ようやく意識を取り戻した松山さんの気の抜けたような声が混じる。
途中経過を知らないのだから彼には何の非も無いが、この切迫した状況の中で、焦りと不安から気が立っていた本郷さんが苛立ったように声を荒げる気持ちも分かる。
荒川さんと思われる残骸から建物に向かって、白っぽい土の上だからこそ目につく、生々しくも濁った赤色の塊が所々落ちている。
ここから目を凝らして見えるのは、そこまでだが、きっと、その道筋には点々とした赤い血液痕も残されていることだろう。
これらの状況証拠を見れば、タカシさんが荒川さんを食べ、その肉を喰い散らかしながら、建物の方へ向かったと推測できるが、彼が何故、獲物である人間達がこんなにも集まっている俺達の方ではなく、建物へ向かって行ったのか。
その目的が分からないからこそ、嫌な胸騒ぎがする。
「彼は発症してしまったようですね」
皆が動揺し騒めく中で、ただ一人、のんびりとした口調で他人事のようにポツリと言った言葉を本郷さんは聞き逃さなかった。
「あんたなぁっ! なに暢気な事言ってんだ! 人がこんだけ死んでんだぞっ! しかも、アイツは……これから、自分の意志とは関係なく、人を襲うかもしれないんだぞ? なんでそんなに冷静でいられるんだよっ! ぜってぇ、あんた。他に何か情報を隠しているだろっ!」
「よせっ!」
カッとなって頭に血が昇った本郷さんが、日野浦さんの胸倉を掴んでがなる。
彼の乱暴な動きを止めようと大きな声を出す鶴岡さんも、内心では本郷さんと同じ意見のようで、本気で制止しようとはしない。
その証拠に、彼は「よせっ」と言ったっきり、何か行動に移すわけでもなく、地面に腰を下ろした神崎さんの気持ちを落ち着かせるよう、立膝をついて、彼の肩に手を置いたまま、黙って二人の様子を傍観しているだけだ。
両手を挙げて、降参のポーズをとる男は、「まぁまぁ。落ち着いて」と、いつ顔面に鉄拳が振り落とされるかも分からない状態でも、変わらず飄々とした態度で軽くあしらう。
それが癪に障ったのは言うまでもない。
拳をプルプルと震わせ、こめかみには青筋が浮いている。
彼の怒りのバロメーターの針は振り切れ寸前といったとこだろう。
けれど、彼は寸でのところで思いとどまり、奥歯を噛みしめて、くぐもった声を出した。
「知っている事を全て吐けっ」
興奮が抑えきれずに声が上擦っているが、それでもギリギリのところで堪え、言葉を選ぶ。
感情に任せたままであったのなら、彼の口から飛び出したのは、目の前の人物に対する悪態だけであっただろう。
それでも彼は、ここでそんな事を言っても、何の得にもならないことを頭の中で理解し、理性で怒りを押し留めた。
「ふぅむ。わたくしが知っていることは全てお話しましたが……あぁっ! そうでした。わたくしに投与されたワクチンに関してですが、先程も言いましたように、効果があるかどうかは分かりません。正直、わたくしは博打が嫌いでしてね。効くか効かないかも分からないワクチンを投薬されたからといって、感染者に近付くような馬鹿な真似はしておりませんから」
澄ました顔でそう言い放ったものの、意味ありげな目で本郷さんの顏を見つめた。
「ただ。この島には優秀な研究者が沢山いましてねぇ……。そこで、特効薬はまだ開発されてはいませんが、数時間だけですが、症状を抑える事の出来る薬を作る事に成功しているんですよ」
「な……んだと」
「たかが数時間とお思いでしょうが、その薬を定期的に投与し続ければ、初期段階の感染者であれば、通常の人間と変わらない生活が出来ます」
自信あり気な物言いは、彼が実際に薬の効果をその目で見て確かめたことを物語っている。
彼の発言は、今の俺達。
特に、同じ組織に所属しているタカシさんや晴香さんにとっては、一縷の望みを持たせるには充分なものであった。
ただし、『初期症状』の段階での投与が大前提だ。
どこまでが初期段階なのか。
既に、人一人をその歯(牙)で噛み殺している彼でも、まだ初期段階と言えるのか?
それだけじゃない。
人間のその血肉を口にしたタカシさんが正気を取り戻したところで、いくらウィルスのせいだといえども、自分の犯した罪を自分自身で赦せるものなのだろうか?
悪い方に考えればキリがない。
とにかく、数時間であっても、感染者の症状を抑える事の出来る薬を手に入れれば、今後、もし、誰かが感染した時にも役に立つ。
物凄く魅力的な話しだが、一つだけ引っ掛かる事がある。
「そんな薬があるのなら、なんでアンタはそれを常備していないんだ?」
魅惑的な香りを放つ花には罠が仕掛けられているように、魅力的な言葉の花びらに包まれた矛盾を本郷さんが鋭く突いた。
彼の言う通り。
有効かどうかも分からないワクチン。
そんなもの、どこの誰が信用する?
もしも自分が感染した時の切り札として、感染症状を抑える薬を持っているのが当たり前だ。
誰だって、化け物のようにはなりたくないに決まっている。
全員から疑いの目を向けられた話題の中心人物は、やれやれといった表情で歎息をつくと、胸倉を掴んだままの本郷さんの腕を軽く叩いた。
関心が『症状を抑える薬』へと向けられていた今、日野浦さんのシャツを握る手には殆ど力が入っておらず、簡単に離れる。
彼の手が掴んでいたものから離され、行き場を失ったまま静止する中、日野浦さんは、皺になったシャツを直し、身嗜みを整えた。
「わたくし達も、モルモットですから……実験台に貴重な薬をくれるワケがないでしょう」
何もかもを諦めたような真っ黒で光のない沼の底のような目をして、自嘲気味に笑う彼の言葉に対して、もう誰も反論する事が出来なかった。
「さぁ、どうします? あなた方は政府の大切な客人だ。研究所に行けば、その薬を手に入れる事が出来ると思いますが……」
チラリと本郷さんの顏を覗き見た。
その表情は、「さぁ、どうする?」といったものというよりも、自分と一緒に研究所へと向かうだろうことを確信しているように見える。
まだまだ信用出来ない怪しい部分が多々あるものの、どうするべきか悩む本郷さんの気持ちを固めたのは、「これで、仲間を救えるかもしれませんよ?」という囁き。
これが後に悪魔の囁きになるのか、天使の囁きになるのかは今の時点では見当もつかない。
それでも、この言葉が決め手となり、本郷さんは、たった一つの希望に賭ける事にしたのだ。
「勿論、あんたが案内してくれるんだろうな?」
推し測るようにじっと目の奥を見つめる本郷さんの言葉を聞き、彼は、自分の思い通りの展開に持ち込んだというように、満足そうな笑みを浮かべた。
「ええ。当然です。わたくしとしましても、こんな物騒な所よりも、安全が約束された場所へ一刻も早く行きたいのが本音ですから。薬のある場所は、この島で一番、安全な所ですからね」
胸ポケットから鍵を取り出し、このグランドで牛追い祭りの如く暴れ回った乗り物へと足を向ける。
「あ! そうでした」
ズボンのポケットを弄り何かを取り出すと、振り向きざまに鶴岡さんに向かってそれを投げた。
「この車両は定員が四名でした。その鍵はグランドの隅にある装甲兵員輸送車のものです。ナンバープレートは29‐9125だったと思います。鶴岡一等空佐。わたくしの運転する後について来てくださいね」
有無を言わせない言葉に、手にした銀色に光る小さな物を見つめ、苦虫を噛み潰したような表情をしている鶴岡さん。
そんな彼の様子を気にする素振りを見せずに、日野浦さんは、さっさと軽装甲機動車に乗り込む。
彼がいう薬の在り処は、軍事研究施設の筈。
ウィルスの感染なんていう切迫した事態が無かったら、きっと彼も、俺達一般人に、この島に優秀な研究者がいるだなんて事は言わなかっただろう。
状況は最悪だが、米澤さんや俺達が予想した通り、この島に何等らかの研究施設があるのが確定しただけでなく、その場所まで案内して貰えるのは大きな収穫だ。
本郷さん達の計画が何なのかを聞く前にして状況が急変し、その計画はオジャンになってしまったが、大きな痛手は負ったものの、一気に王手をかけるチャンスである。
俺としても、この島で介護ホームへのボランティア活動をしつつ、政府の人間の目をすり抜けながら、島の内部を調べ、何とかして兄貴とコンタクトを取ろうと思っていたのだから、その手間が省けた事は時間的にも労力的にも非常に大きい。
多くの死を目の当りにし、危険な目にだって遭っている。
あんな光景を見てしまったら、この島のどこかにいるであろう祖父だって、もしかしたらウィルスに感染してしまっているんじゃないかと嫌な想像が頭をもたげるが、それを必死で打ち消す。
祖父を助ける事。
これが俺の一番の目的なのだから、その目的を失くしてしまったら、俺はこの先には進めなくなっちまう。
正直、ここから逃げ出したい気持ちの方が大きいけれど、全ての段階を飛び越えて、いきなり敵の本陣へと突入出来るのは唯一の救いだ。
「兄貴と面会出来れば――」
この時の俺は、すっかり忘れていたんだ。
この島に上陸し、最初に見たウィルス感染者の残虐行為。
あれを目にした時の既視感。
あれが一体何だったのかを、俺はこの時、思い出すべきだったんだ。
そうすれば、後に起こる不幸な出来事を防ぐ事が出来たかもしれない。
けれど、ショッキングな事件の連続で、冷静に物事を判断しているようで、俺の頭の中はかなり混乱していたらしく、彼の嘘を見抜く事も、既視感の元を思い出す事も出来なかった。
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