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episode 14
1
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「首相への報告は?」
「はい。事態は沈静化。その後、万事滞りなく事は運んでいると伝えてあります」
「そうか。それでいい」
窓一つない部屋。
奥の壁には背文字に異国の文字が書かれた本が、ぎっしりと詰まった本棚。
その前に、大層立派なアンティークのデスクと革張りの椅子が配置され、その前にはガラステーブルを挟んで、一人掛けの椅子が二台、三人掛けのソファが一台の、これまた高級そうな本革張りの応接セット。
塵一つなく、余分なものは一切置かれていないこの部屋には観葉植物すらも無く、主同様、どこか寒々しい雰囲気を醸し出している。
部屋の主であろう男は、デスクから向かって右側の奥にある一人掛けのソファの腰掛け、肘掛けに肘をつけて、背もたれにゆったりと背を預けている。
白衣の上着の下は、糊の効いた真っ白なシャツに、光沢のあるシルクのシンプルなブルーのネクタイ。
折り目がピシッと入ったスラックスは皺一つなく、真っ黒な革靴はピカピカに磨かれている。
身に着けている全てのものが上質であり、少しの汚れも歪みも許さない隙のない出で立ちは、彼が神経質で、完璧主義なのを物語っている。
蛇のように感情の無い鋭い目が、目の前に座る自分よりも年上であろう男を射抜く。
年の頃は五十過ぎといったところか。
恰幅が良く、大柄な体型から想像するものとは逆に、生気をまるで感じさせず、まるでロボットのように表情を固めて姿勢よく座る男は、その視線を受けても、マネキン人形のように無表情で、問い掛けられた言葉に対してしか答える事はない。
帯青茶褐色(青みの強いカーキ色)の国防色と呼ばれる色で染められた制服を身に纏っている彼は、桜星が四つの階級章から見て分かるように国防陸軍の将官。
将官と言えば、国防軍全体の中でも、最高位の階級。
全国防軍人からしてみれば、雲の上の存在とも言える人間に対して、指示を出し、報告を受けている時点で、白衣を着た男の方が、ここでは権威を持っていることが分かる。
無駄のない短い返答と、自分の思い通りに事が進んでいるのを確認した彼は、シルバーフレームの眼鏡のブリッジを軽く抑え、冷淡な笑みを浮かべた。
「そうそう。貴方の部下であるColonel(カーネル)は、どうなりましたか?」
「途中経過は良かったのですが、H‐Bへと変化してしまいました」
「そうですか。変異の形態は?」
「体の大きさは、平均の二倍程度に巨大化。おおよそ、全長14.5フィート。体重は352.7ポンド。特に、注目すべき点は筋肥大化及び、皮膚硬質化」
「それはそれは。興味深いですねぇ」
眼鏡の奥の、細く切れ長な鋭い目をギラリと光らせ、口角を上げた。
「途中経過は良かったというのは、PSになり得るような経過だったのですか?」
言葉遣いは丁寧で柔らかいものの、その声質自体は抑揚が無く冷たいもの。
将官の返答次第では、僅かに上がった口元も、一気に歪みを見せるだろうことは容易に想像出来るが、回答を求められた側は、彼の顏色を伺う事なく、仮面を被ったような表情で虚飾する事なく答えた。
「いいえ。P‐Nとしてです」
その一言を耳にし、一瞬ではあるが、ホッとしたように肩の力を抜いた白衣の男は顎に手をやり、静かに目を閉じた。
「それなら安心しました。ですが、H‐Bになった個体はこれで九体目。そのうちに五体は、凶暴化した後、自らの行動を制御出来ずに自滅したり、過剰な細胞分裂によって、DNAの末端にある『テロメア』がたった数日で細胞分裂が出来なくなるほど短くなり、細胞が死滅して命を終えたんでしたね」
亡くなった人達。
いや、死んだ個体と言うべきだろうか。
彼らの事を思い浮かべながら、自分で言った言葉を脳内で反芻し、自分の中で消化し納得したように何度か頷くと、静かに瞼を開き、将官の色のない瞳と自分の目を合せた。
「自滅したものを調べて見ると、脳内に普通の人間の体内には存在しないタンパク質が検出されたり、脳に炎症が起きていたりしていた。これだけを見ると、conquest plasma(コンクェスト プラズマ)・通称CP感染というものは、とても恐いものですよ。ねぇ、安河内陸軍将官。そうは思いませんか?」
意味深な視線を向けられた男は、「そうですね」と、まるで感情の篭っていない声で返事をした。
その態度に腹を立てるどころか気にする様子もなく、白衣の男は、研究発表でもしているかのように、つらつらと自論を踏まえつつ、安河内将官の部下が感染したと思われるCP感染について話し出した。
「CP感染は、腸や肺、鼻腔などに存在する樹状細胞……つまり免疫細胞の一種に根を下ろすことで、通常、脳内で機能する神経伝達物質のガンマ‐アミノ酪酸(GABA)を、自分が根を下ろした樹状細胞の内部で生産する。それによって、同じ樹上細胞の外側にあるGABA受容体を刺激し、それによってCP感染した細胞に体内を移動させる事によって、CP自体を脳に移動させる。ようするに、CPが脳を乗っ取るわけです」
専門用語が多いものの、彼の言っている話しを簡単に説明するならば、CPという感染症かウィルスらしきものは、人間の免疫細胞を使って体内を移動し、脳へと到達するという事。
「脳内に入り込んだCPは、脳を自分の思い通りにコントロールする。それはCPが発生させる電気信号が神経細胞に伝わり、神経伝達物質が放出され、隣接する神経細胞の受容体と結合する事によって、情報が伝達されていくのですが……安河内将官。神経伝達物質とは分かりますか?」
「ドーパミンやアドレナリン――――」
「ふふふ。貴方もだいぶ私の話を理解して来ましたね。その通りです。ドーパミンやセロトニン、エンドルフィン。そういった神経伝達物質を過剰に出したり、減少させたりする事で感情や行動が変わります」
瞳孔を開いたように真っ黒なサメのような目をしていた彼が、誰かに恋焦がれているようなうっとりとした顏を見せ、視線を宙に彷徨わせた。
「簡単な例でいえば、アドレナリン。緊迫した場面では、交感神経が興奮状態にある為、アドレナリンの分泌が盛んになり、痛みを感じる感覚器も麻痺するところから、痛みを忘れたプレーが出来る。要するに、火事場の馬鹿力や、実力以上のパフォーマンスを繰り広げられる結果となるわけですが、CPはいつでも自分の意図的に、乗っ取った生物に対して、その状態を作り出せるわけですよ」
今にも、「なんて優れているんでしょう!」と、CPと呼んでいる人間の脳を乗っ取るという恐ろしい病原体か何かの事を、褒め称えそうなほどの熱弁。
相槌も打たない将官を相手に、延々と話し続ける内容は、CPと感染者とがうまく適合さえすれば、外見も行動も普通の人間とは何ら変わりがないという事。
更には、脳が活性化する者や、特殊な能力を持つ者までもが現れるのだそうだ。
CPを研究している者達の間では、前者である普通適合者をP‐N、後者である特殊適合者をPSと区別して呼んでいるのだが、稀に、不適合者の中でも、死に至らず、体や脳に何等かの変異や変化が見られる者が現れる。
それをH‐Bと呼ぶようになった。
「あぁ、いけません。ついCPの事になると熱くなってしまいます。ところで、話しを元に戻しますが、今回のH‐Bは、途中までは順調に適合しているように見えたのですね?」
コホンッと短く咳払いをして体裁を整えると、背もたれから背を浮かせ、膝の上で両手を組み、前に身を乗り出す。
ピンッと背筋を伸ばした安河内将官の顏は真っ直ぐ正面に向けられており、下から覗き見るような格好で、ぬめりとした視線を送る白衣の男とは目を合せようとはしない。
将官自身にやましいことがあるわけでも、白衣の男を恐れていたり、嫌っている様子もなく、コンピューターで行動を制御された機械のように、彼には己の意志が無く、白衣の男の命令にだけ忠実に動いているといった感じのようだ。
その証拠に、何一つ感情の読めない虚ろな目は一切動かず、その機能を保つ為だけに、瞬きをするのみだというのに、聞かれた事に対しては、きちんと答える。
「はい。途中経過は順調でした」
二人っきりの静かな室内で響く声は、抑揚の無さが強調され、本当に生きた人間なのかと疑うほどの薄気味悪さを感じさせるが、対面に座る男にとっては、気になるようなものではないらしく、「ふむふむ」と、何度も頷く。
「では、管理も通常のP‐N達と同じブロックでしていたのですね?」
「当初は独房にて管理及び経過観察をしていたのですが、CPがColonelの脳へと移動し、大脳辺緑系に根を下ろしたのを確認した後、精神状態が安定したのを見計らってからS(soldier)ブロックへと収容場所を移動させました」
「Sブロックですか?」
僅かに声を低くした男の表情が僅かに曇る。
彼の機嫌を損なわぬように、その場を取り繕うような態度はせず、将官は実際に行った事だけを淡々と説明する。
「はい。元々、そのように訓練されてきた者ですから。CPに感染されたからと言って、元々持っている能力は失われてはおりません。soldierとして申し分のない肉体と判断力を持っています。ただ、まだ互いに融合しきっていない不安定な状況を考慮して、Sブロックの中でも、初期段階の者達を収容しているエリア1にての管理に切り替えたと聞いています」
Sブロックというのは、彼の口から既に出ているsoldier(ソルジャー)という単語からも分かるように、元『兵士』を集めている場所なのであろう。
CPに感染し、H‐Bへと変化してしまったColonelという人物が、元は日本国防軍の軍人であったことが分かる。
太腿に肘をつけ、組んだ両手の上に顎をのせた白衣の男は、将官が話す内容について、何か思うところでもあったようで、眉根を寄せて黙り込む。
「知能、運動能力、適応能力等の観察を始めて三日目。それまでは、Sブロック担当のPSの指令通り、きちんと仕事を熟し、仲間達とも上手くコミュニケーションをとっていたとの報告を受けていたのですが、その日の晩、監視カメラに設定してある赤外線サーモグラフィが異変を捉え、すぐさま何名かをエリア1に向かわせました」
「異変とは?」
小難しい表情をしていた彼が、チロリと視線を上に向け、将官の顏を見上げる。
「体温が急上昇し、悶え苦しむように、床の上でゴロゴロと転がり回っている様が映し出されたようです」
「体温の上昇に、転がり回る程の痛みや苦しみ……ねぇ」
上半身を起こし、トスンッと再びソファに背をもたれさせ、腕を組むと確信めいた口調で、「それで、どれだけの被害が出たのですか?」と、尋ねた。
今までの会話の流れからすれば、「どれくらいの高熱で、どの程度で発作のような動きは収まったのか?」と聞くべきだと思うのだが、何故か、異変をきたした本人の容態や変化の報告ではなく、その周囲の状況を確認するような彼の言葉に、驚く素振りもなく、機械的に反応する。
「一個体の異常に気が付いたモニター管理者からの連絡によって、数名の研究員とエリア1の警護を担当している兵士達を向かわせている、そのたった数分の間に事態は急変。一旦、動きを止め、落ち着いたかと思った次の瞬間、周りで寝ている仲間達を襲い出したと報告書には書かれてありました」
「それはモニター管理者の?」
「はい。サーモグラフィーに映る色はいつの間にか、他の個体と同じ、平均的な熱量に戻っていたそうで、暗視カメラの映像に切り替えて見ていたそうです」
「そうですか。その映像を後で持って来てください」
「かしこまりました」
遠隔操作されている腹話術人形のように、口だけを動かす安河内将官の首が軋むような音が聞こえてきそうなほどぎこちない動きで頭を下げた。
それからゆっくりと頭を上げるが、真正面に白衣の男の顏があるというのに、その視線は定まらず宙を彷徨っている。
最高位の階級に就き、日本国防軍陸軍を率いている身分でありながら、自分よりも若く、生っ白い男に従わなくてはならない現状に、不貞腐れているといった態度とは違い、どうにも薄気味悪さを感じさせるのだが、白衣の男は、これが普通の状態だというように、目と目が合わさらない将官を相手に会話を続けた。
「Colonelが襲った数は?」
「我々の部下が駆け付け、麻酔弾を撃ちこんだ時には七体が犠牲になっておりました」
「七体……全て?」
「はい。七体全てが喰われておりました」
「エリア1にいた他のP‐N達は?」
「皆、仲間が喰われている間に、なるべくColonelから離れた所に避難しようと逃げまどっていた様子が録画された映像からも確認出来ました」
「そうですか。では、P‐N達は、本能的にColonelが危険だと察知したのですね?」
確証のある答え以外は口にしないのか、聞かれた事に対してポンッポンッと小気味いいリズムで返答していたのに、安河内将官は口を閉ざし、答えようとはしなかった。
無言を貫く男とは対照的に、顔面の左半分の筋肉を吊り上げ、「フフフッ」と腹の底から息を吹きだすように笑いだした白衣の男。
細長く、冷ややかな目が大きく見開かれ、悦びの光が浮かび上がる。
「なるほどなるほど。そういう事ですか。P‐Nの姿をしていたのは、そこまで。H‐Bへの変化はそっから急激に始まったというわけですか」
興奮して上擦ったような声を出す。
「H‐Bはとても面白いものですねぇ。死亡率が高く、箸にも棒にも掛からぬようなモノばかりかと思いましたが……。これはこれで、研究する価値がありますね」
「それでは残り三体のH‐Bも研究対象に?」
「勿論ですよ。私自らがColonelを含む四体の記録を取りますので、早急に私の実験棟へ移動させてください」
「所長自らですか?」
この部屋に入った時からずっと、無感動、無関心、無表情であった安河内将官が初めて動揺したような声を出し、白衣の男――この施設の所長を凝視した。
「そうですよ。何か文句でも?」
「いいえ。ただ、あの実験棟にはQUEENがいらっしゃるのでは?」
強張った表情からも、焦りと困惑が伺える。
QUEENと呼ばれているものが何なのかは分からないが、安河内将官が、何かの拍子に、危険分子に為り得るH‐Bをそれに近付けたくないのは、彼の言動を見ればすぐに分かる。
「ええ、いますよ。あの場所以上に安全な場所はありませんからね。それに、彼女がいる場所だからこそ、H‐Bをコントロール出来ると思いませんか?」
「それは……確かに、そうです」
「大丈夫です。貴方だけではありません。私だって、他の皆にだってQUEENは特別で護らなくてはならない者。危険な目には合わせません」
柔らかな口調でそう告げると、所長はゆっくりと腰を浮かせ、中腰の姿勢になり、テーブル越しに安河内将官の両肩に手を置いた。
顏を近づけ、鼻のてっぺんとてっぺんがくっつく程の距離で、目と目を合せると、「さぁ。早く言われた通りになさい」と、ぞっとするほど低く、威厳のある押しこもった声を出すと、一瞬だけではあるが、彼の目を飲み込むように瞳孔が大きく広がった。
「……かしこまりました」
平常心を失い、心を乱した安河内将官は、所長の持つ独特の気(オーラ)に呑み込まれ、まるで催眠術にでもかかったかのように、表情を硬くし従順に従った。
「頼みましたよ」
「はい。それでは、準備が出来次第、ご連絡致します」
ほんの少しの間だけではあったが、人間らしさを見せた安河内将官の姿は、もうどこにもない。
表情筋を一切使わず、口パクに平坦なトーンをアテレコしたような言動をした彼は、操り人形が、吊っている糸を素早く上に引かれたかのように、スッと勢いよくソファから立ち上がると、その場でピシッと敬礼をし、大股でその場から立ち去った。
一歩廊下に出たところで再び、室内に体を向けると、しっかりとお辞儀をして静かに音を立てぬよう扉を閉める。
人気のない場所のせいか、床に足が着く度に鳴り響く革靴の音が、異様なほど大きく聞こえたが、それも足早に遠ざかっていった。
応接セットから、自身のデスクへと足を向け、高級感漂う革張りの回転椅子に深く座ると、肘掛けに腕を乗せ、ゆらゆらと左右に椅子を揺らし始めた。
「P‐Nといえど、Sブロック。H‐Bに七体も喰い殺されたなんて、あってはならない事です。通常でしたら、監視担当者も、警護担当者も。皆、罰を与えるところでしたが、今回は、偶然の賜物。棚から牡丹餅。たかが七体の犠牲で大きな収穫を得ましたから、罰は無しにしておきましょう」
誰も居なくなった室内で、ほくそ笑む。
「H‐Bに関しては、我々も偶然の産物でしかありませんからねぇ……。それでも、その偶然を活かすも殺すも我々次第。ただ、大きくなるだけの木偶の坊になるくらいなら、今回の一件を活かして、パワータイプのH‐Bへと変化させる方が、使い道はありますから……」
指で肘掛けをトントンと叩きながら、機嫌よさげに独り言を呟く。
「CP感染した人間は、その殆どがP‐Nになるか、死に至るかのどちらか。ごくまれにPSへと変化するものもいるけれど、PSに関しては、こちらで管理して増やす事も減らす事も出来ますが、H‐Bに関してだけは、CPの悪戯によるもので、こちらの意志で、どうのこうの出来るものではない」
一旦、回転椅子の動きを止め、背中に体重を預けると、その重さで背もたれが反る。
凝り固まった体をほぐすように、背もたれの反りに合わせて、背を反らせる彼は、気持ちよさそうに唸り声をあげた。
「たまたま出来たモノを単なる生ゴミにするよりも、多少の犠牲を払ってでも、こちらの大きな駒に出来るのなら、最高ですよ。ある意味、将棋の駒と一緒。歩が歩金に変わるようなもの」
彼はくるりと椅子を回転させ、背後にある本棚へと視線を向けた。
どの位置に何があるのかを把握してあるのか、彼は、直ぐに立ち上がると、異国の言葉で書かれてある題名の中から、迷う事なく一冊の本を取り出した。
ペラペラをページを捲り、その目は内容を確認しているというよりも、ページ数を確認しているよう。
彼はここにある全ての資料や本の在り処、内容。
そして、その内容が書かれてあるページすらも把握しているようだ。
ピタリと手を止め、開かれた部分を確認すると、「やっぱり……」と、小さく呟いた。
「もし、私の考え通りであるならば、P‐Nに完全になりきる前に異変のあった個体には、P‐Nを与えればいい訳ですねぇ」
立ったまま、彼は開いたページに書かれてある文字をなぞった。
図解らしきものも書かれてある部分を見ると、人体の筋肉構造が描かれてある。
「私の推測では、Colonelが高熱を出した時、何等かの作用で筋肉の破壊が体内で行われていたのでしょう。だから、Colonelは身悶え苦しむような動きをしていた。そして、一気に沈静化。その後、P‐Nを食べる事によって栄養補給。それから麻酔銃によって、強制的ではあるけれど、休養を取らされた」
一人で納得するように、何度も何度も、「筋肉の破壊。栄養補給。休養」という言葉を繰り返すと、再び、本へと視線を落とす。
「五大栄養素。炭水化物、脂質、たんぱく質、ビタミン、ミネラル。全て必要ではありますが、それらを一気に摂れるものといえば、自分と同じ成分で出来ているものから摂れば効率がいい」
うんうんと何度も頷いて、彼は「なんと、理にかなった肉体造りなんでしょう」と、感嘆の声を漏らした。
「筋肉の破壊から、筋肉の材料補給、そして筋肉の修繕、超回復。これらは全て筋肉を作り上げる一連の流れ。彼は元々、軍人。常日頃から肉体を鍛え、訓練しているからこそ、無意識にそれをやってのけたのかもしれませんねぇ。だからこそ、H‐Bとはいえ、ある種『超越』した力を手に入れた」
本をパタンッと音を立てて閉じると、彼は天井のLED照明に目をやった。
いいや、照明に目を向けているわけではなく、彼の視線の先には、彼が思い描く未来があるのだろう。
恍惚とした表情の彼は、いつの間にか手にした本を抱きかかえていた。
「『なりそこない』だと思っていたものが、我々にとって心強いアニマルウェポンになるとはねぇ。これは研究する価値があります。ただ、どれだけ制御出来るものなのか。制御出来ない兵器は諸刃の剣になりかねませんからね――」
彼はデスク上のパソコンの電源を入れた。
「さて。私としたことが、H‐Bのことなど、軽くみていましたから……。一度、全てのデータを把握しておかないといけませんね」
デスクの引き出しからサックのようなものを取り出し、十本の指全てに着ける。
キーボードではなく、そのままテーブルの上で鍵盤を奏でるように指を動かす度に、ディスプレイ上に文字が打ち込まれ、デスク上で手を回したり、空中で人差し指を左右上下に動かすだけで、カーソルが動いたり、映し出された資料が大きくなったり、小さくなったりしている。
まるでピアノソナタでも弾いているかのような華麗なる指捌きで情報を処理していく彼は、最初は流し読みをしている様子ではあったが、次第に周りの景色も音も目に入らないくらい集中し、H‐Bについてのデータに没頭しだした。
それは安河内将官から、H‐Bである四体全てを、所長自身が研究している、他とは隔離された実験棟へと移動したと内線連絡が入るまでの間――時間にして、二時間以上にも及んだのだった。
「はい。事態は沈静化。その後、万事滞りなく事は運んでいると伝えてあります」
「そうか。それでいい」
窓一つない部屋。
奥の壁には背文字に異国の文字が書かれた本が、ぎっしりと詰まった本棚。
その前に、大層立派なアンティークのデスクと革張りの椅子が配置され、その前にはガラステーブルを挟んで、一人掛けの椅子が二台、三人掛けのソファが一台の、これまた高級そうな本革張りの応接セット。
塵一つなく、余分なものは一切置かれていないこの部屋には観葉植物すらも無く、主同様、どこか寒々しい雰囲気を醸し出している。
部屋の主であろう男は、デスクから向かって右側の奥にある一人掛けのソファの腰掛け、肘掛けに肘をつけて、背もたれにゆったりと背を預けている。
白衣の上着の下は、糊の効いた真っ白なシャツに、光沢のあるシルクのシンプルなブルーのネクタイ。
折り目がピシッと入ったスラックスは皺一つなく、真っ黒な革靴はピカピカに磨かれている。
身に着けている全てのものが上質であり、少しの汚れも歪みも許さない隙のない出で立ちは、彼が神経質で、完璧主義なのを物語っている。
蛇のように感情の無い鋭い目が、目の前に座る自分よりも年上であろう男を射抜く。
年の頃は五十過ぎといったところか。
恰幅が良く、大柄な体型から想像するものとは逆に、生気をまるで感じさせず、まるでロボットのように表情を固めて姿勢よく座る男は、その視線を受けても、マネキン人形のように無表情で、問い掛けられた言葉に対してしか答える事はない。
帯青茶褐色(青みの強いカーキ色)の国防色と呼ばれる色で染められた制服を身に纏っている彼は、桜星が四つの階級章から見て分かるように国防陸軍の将官。
将官と言えば、国防軍全体の中でも、最高位の階級。
全国防軍人からしてみれば、雲の上の存在とも言える人間に対して、指示を出し、報告を受けている時点で、白衣を着た男の方が、ここでは権威を持っていることが分かる。
無駄のない短い返答と、自分の思い通りに事が進んでいるのを確認した彼は、シルバーフレームの眼鏡のブリッジを軽く抑え、冷淡な笑みを浮かべた。
「そうそう。貴方の部下であるColonel(カーネル)は、どうなりましたか?」
「途中経過は良かったのですが、H‐Bへと変化してしまいました」
「そうですか。変異の形態は?」
「体の大きさは、平均の二倍程度に巨大化。おおよそ、全長14.5フィート。体重は352.7ポンド。特に、注目すべき点は筋肥大化及び、皮膚硬質化」
「それはそれは。興味深いですねぇ」
眼鏡の奥の、細く切れ長な鋭い目をギラリと光らせ、口角を上げた。
「途中経過は良かったというのは、PSになり得るような経過だったのですか?」
言葉遣いは丁寧で柔らかいものの、その声質自体は抑揚が無く冷たいもの。
将官の返答次第では、僅かに上がった口元も、一気に歪みを見せるだろうことは容易に想像出来るが、回答を求められた側は、彼の顏色を伺う事なく、仮面を被ったような表情で虚飾する事なく答えた。
「いいえ。P‐Nとしてです」
その一言を耳にし、一瞬ではあるが、ホッとしたように肩の力を抜いた白衣の男は顎に手をやり、静かに目を閉じた。
「それなら安心しました。ですが、H‐Bになった個体はこれで九体目。そのうちに五体は、凶暴化した後、自らの行動を制御出来ずに自滅したり、過剰な細胞分裂によって、DNAの末端にある『テロメア』がたった数日で細胞分裂が出来なくなるほど短くなり、細胞が死滅して命を終えたんでしたね」
亡くなった人達。
いや、死んだ個体と言うべきだろうか。
彼らの事を思い浮かべながら、自分で言った言葉を脳内で反芻し、自分の中で消化し納得したように何度か頷くと、静かに瞼を開き、将官の色のない瞳と自分の目を合せた。
「自滅したものを調べて見ると、脳内に普通の人間の体内には存在しないタンパク質が検出されたり、脳に炎症が起きていたりしていた。これだけを見ると、conquest plasma(コンクェスト プラズマ)・通称CP感染というものは、とても恐いものですよ。ねぇ、安河内陸軍将官。そうは思いませんか?」
意味深な視線を向けられた男は、「そうですね」と、まるで感情の篭っていない声で返事をした。
その態度に腹を立てるどころか気にする様子もなく、白衣の男は、研究発表でもしているかのように、つらつらと自論を踏まえつつ、安河内将官の部下が感染したと思われるCP感染について話し出した。
「CP感染は、腸や肺、鼻腔などに存在する樹状細胞……つまり免疫細胞の一種に根を下ろすことで、通常、脳内で機能する神経伝達物質のガンマ‐アミノ酪酸(GABA)を、自分が根を下ろした樹状細胞の内部で生産する。それによって、同じ樹上細胞の外側にあるGABA受容体を刺激し、それによってCP感染した細胞に体内を移動させる事によって、CP自体を脳に移動させる。ようするに、CPが脳を乗っ取るわけです」
専門用語が多いものの、彼の言っている話しを簡単に説明するならば、CPという感染症かウィルスらしきものは、人間の免疫細胞を使って体内を移動し、脳へと到達するという事。
「脳内に入り込んだCPは、脳を自分の思い通りにコントロールする。それはCPが発生させる電気信号が神経細胞に伝わり、神経伝達物質が放出され、隣接する神経細胞の受容体と結合する事によって、情報が伝達されていくのですが……安河内将官。神経伝達物質とは分かりますか?」
「ドーパミンやアドレナリン――――」
「ふふふ。貴方もだいぶ私の話を理解して来ましたね。その通りです。ドーパミンやセロトニン、エンドルフィン。そういった神経伝達物質を過剰に出したり、減少させたりする事で感情や行動が変わります」
瞳孔を開いたように真っ黒なサメのような目をしていた彼が、誰かに恋焦がれているようなうっとりとした顏を見せ、視線を宙に彷徨わせた。
「簡単な例でいえば、アドレナリン。緊迫した場面では、交感神経が興奮状態にある為、アドレナリンの分泌が盛んになり、痛みを感じる感覚器も麻痺するところから、痛みを忘れたプレーが出来る。要するに、火事場の馬鹿力や、実力以上のパフォーマンスを繰り広げられる結果となるわけですが、CPはいつでも自分の意図的に、乗っ取った生物に対して、その状態を作り出せるわけですよ」
今にも、「なんて優れているんでしょう!」と、CPと呼んでいる人間の脳を乗っ取るという恐ろしい病原体か何かの事を、褒め称えそうなほどの熱弁。
相槌も打たない将官を相手に、延々と話し続ける内容は、CPと感染者とがうまく適合さえすれば、外見も行動も普通の人間とは何ら変わりがないという事。
更には、脳が活性化する者や、特殊な能力を持つ者までもが現れるのだそうだ。
CPを研究している者達の間では、前者である普通適合者をP‐N、後者である特殊適合者をPSと区別して呼んでいるのだが、稀に、不適合者の中でも、死に至らず、体や脳に何等かの変異や変化が見られる者が現れる。
それをH‐Bと呼ぶようになった。
「あぁ、いけません。ついCPの事になると熱くなってしまいます。ところで、話しを元に戻しますが、今回のH‐Bは、途中までは順調に適合しているように見えたのですね?」
コホンッと短く咳払いをして体裁を整えると、背もたれから背を浮かせ、膝の上で両手を組み、前に身を乗り出す。
ピンッと背筋を伸ばした安河内将官の顏は真っ直ぐ正面に向けられており、下から覗き見るような格好で、ぬめりとした視線を送る白衣の男とは目を合せようとはしない。
将官自身にやましいことがあるわけでも、白衣の男を恐れていたり、嫌っている様子もなく、コンピューターで行動を制御された機械のように、彼には己の意志が無く、白衣の男の命令にだけ忠実に動いているといった感じのようだ。
その証拠に、何一つ感情の読めない虚ろな目は一切動かず、その機能を保つ為だけに、瞬きをするのみだというのに、聞かれた事に対しては、きちんと答える。
「はい。途中経過は順調でした」
二人っきりの静かな室内で響く声は、抑揚の無さが強調され、本当に生きた人間なのかと疑うほどの薄気味悪さを感じさせるが、対面に座る男にとっては、気になるようなものではないらしく、「ふむふむ」と、何度も頷く。
「では、管理も通常のP‐N達と同じブロックでしていたのですね?」
「当初は独房にて管理及び経過観察をしていたのですが、CPがColonelの脳へと移動し、大脳辺緑系に根を下ろしたのを確認した後、精神状態が安定したのを見計らってからS(soldier)ブロックへと収容場所を移動させました」
「Sブロックですか?」
僅かに声を低くした男の表情が僅かに曇る。
彼の機嫌を損なわぬように、その場を取り繕うような態度はせず、将官は実際に行った事だけを淡々と説明する。
「はい。元々、そのように訓練されてきた者ですから。CPに感染されたからと言って、元々持っている能力は失われてはおりません。soldierとして申し分のない肉体と判断力を持っています。ただ、まだ互いに融合しきっていない不安定な状況を考慮して、Sブロックの中でも、初期段階の者達を収容しているエリア1にての管理に切り替えたと聞いています」
Sブロックというのは、彼の口から既に出ているsoldier(ソルジャー)という単語からも分かるように、元『兵士』を集めている場所なのであろう。
CPに感染し、H‐Bへと変化してしまったColonelという人物が、元は日本国防軍の軍人であったことが分かる。
太腿に肘をつけ、組んだ両手の上に顎をのせた白衣の男は、将官が話す内容について、何か思うところでもあったようで、眉根を寄せて黙り込む。
「知能、運動能力、適応能力等の観察を始めて三日目。それまでは、Sブロック担当のPSの指令通り、きちんと仕事を熟し、仲間達とも上手くコミュニケーションをとっていたとの報告を受けていたのですが、その日の晩、監視カメラに設定してある赤外線サーモグラフィが異変を捉え、すぐさま何名かをエリア1に向かわせました」
「異変とは?」
小難しい表情をしていた彼が、チロリと視線を上に向け、将官の顏を見上げる。
「体温が急上昇し、悶え苦しむように、床の上でゴロゴロと転がり回っている様が映し出されたようです」
「体温の上昇に、転がり回る程の痛みや苦しみ……ねぇ」
上半身を起こし、トスンッと再びソファに背をもたれさせ、腕を組むと確信めいた口調で、「それで、どれだけの被害が出たのですか?」と、尋ねた。
今までの会話の流れからすれば、「どれくらいの高熱で、どの程度で発作のような動きは収まったのか?」と聞くべきだと思うのだが、何故か、異変をきたした本人の容態や変化の報告ではなく、その周囲の状況を確認するような彼の言葉に、驚く素振りもなく、機械的に反応する。
「一個体の異常に気が付いたモニター管理者からの連絡によって、数名の研究員とエリア1の警護を担当している兵士達を向かわせている、そのたった数分の間に事態は急変。一旦、動きを止め、落ち着いたかと思った次の瞬間、周りで寝ている仲間達を襲い出したと報告書には書かれてありました」
「それはモニター管理者の?」
「はい。サーモグラフィーに映る色はいつの間にか、他の個体と同じ、平均的な熱量に戻っていたそうで、暗視カメラの映像に切り替えて見ていたそうです」
「そうですか。その映像を後で持って来てください」
「かしこまりました」
遠隔操作されている腹話術人形のように、口だけを動かす安河内将官の首が軋むような音が聞こえてきそうなほどぎこちない動きで頭を下げた。
それからゆっくりと頭を上げるが、真正面に白衣の男の顏があるというのに、その視線は定まらず宙を彷徨っている。
最高位の階級に就き、日本国防軍陸軍を率いている身分でありながら、自分よりも若く、生っ白い男に従わなくてはならない現状に、不貞腐れているといった態度とは違い、どうにも薄気味悪さを感じさせるのだが、白衣の男は、これが普通の状態だというように、目と目が合わさらない将官を相手に会話を続けた。
「Colonelが襲った数は?」
「我々の部下が駆け付け、麻酔弾を撃ちこんだ時には七体が犠牲になっておりました」
「七体……全て?」
「はい。七体全てが喰われておりました」
「エリア1にいた他のP‐N達は?」
「皆、仲間が喰われている間に、なるべくColonelから離れた所に避難しようと逃げまどっていた様子が録画された映像からも確認出来ました」
「そうですか。では、P‐N達は、本能的にColonelが危険だと察知したのですね?」
確証のある答え以外は口にしないのか、聞かれた事に対してポンッポンッと小気味いいリズムで返答していたのに、安河内将官は口を閉ざし、答えようとはしなかった。
無言を貫く男とは対照的に、顔面の左半分の筋肉を吊り上げ、「フフフッ」と腹の底から息を吹きだすように笑いだした白衣の男。
細長く、冷ややかな目が大きく見開かれ、悦びの光が浮かび上がる。
「なるほどなるほど。そういう事ですか。P‐Nの姿をしていたのは、そこまで。H‐Bへの変化はそっから急激に始まったというわけですか」
興奮して上擦ったような声を出す。
「H‐Bはとても面白いものですねぇ。死亡率が高く、箸にも棒にも掛からぬようなモノばかりかと思いましたが……。これはこれで、研究する価値がありますね」
「それでは残り三体のH‐Bも研究対象に?」
「勿論ですよ。私自らがColonelを含む四体の記録を取りますので、早急に私の実験棟へ移動させてください」
「所長自らですか?」
この部屋に入った時からずっと、無感動、無関心、無表情であった安河内将官が初めて動揺したような声を出し、白衣の男――この施設の所長を凝視した。
「そうですよ。何か文句でも?」
「いいえ。ただ、あの実験棟にはQUEENがいらっしゃるのでは?」
強張った表情からも、焦りと困惑が伺える。
QUEENと呼ばれているものが何なのかは分からないが、安河内将官が、何かの拍子に、危険分子に為り得るH‐Bをそれに近付けたくないのは、彼の言動を見ればすぐに分かる。
「ええ、いますよ。あの場所以上に安全な場所はありませんからね。それに、彼女がいる場所だからこそ、H‐Bをコントロール出来ると思いませんか?」
「それは……確かに、そうです」
「大丈夫です。貴方だけではありません。私だって、他の皆にだってQUEENは特別で護らなくてはならない者。危険な目には合わせません」
柔らかな口調でそう告げると、所長はゆっくりと腰を浮かせ、中腰の姿勢になり、テーブル越しに安河内将官の両肩に手を置いた。
顏を近づけ、鼻のてっぺんとてっぺんがくっつく程の距離で、目と目を合せると、「さぁ。早く言われた通りになさい」と、ぞっとするほど低く、威厳のある押しこもった声を出すと、一瞬だけではあるが、彼の目を飲み込むように瞳孔が大きく広がった。
「……かしこまりました」
平常心を失い、心を乱した安河内将官は、所長の持つ独特の気(オーラ)に呑み込まれ、まるで催眠術にでもかかったかのように、表情を硬くし従順に従った。
「頼みましたよ」
「はい。それでは、準備が出来次第、ご連絡致します」
ほんの少しの間だけではあったが、人間らしさを見せた安河内将官の姿は、もうどこにもない。
表情筋を一切使わず、口パクに平坦なトーンをアテレコしたような言動をした彼は、操り人形が、吊っている糸を素早く上に引かれたかのように、スッと勢いよくソファから立ち上がると、その場でピシッと敬礼をし、大股でその場から立ち去った。
一歩廊下に出たところで再び、室内に体を向けると、しっかりとお辞儀をして静かに音を立てぬよう扉を閉める。
人気のない場所のせいか、床に足が着く度に鳴り響く革靴の音が、異様なほど大きく聞こえたが、それも足早に遠ざかっていった。
応接セットから、自身のデスクへと足を向け、高級感漂う革張りの回転椅子に深く座ると、肘掛けに腕を乗せ、ゆらゆらと左右に椅子を揺らし始めた。
「P‐Nといえど、Sブロック。H‐Bに七体も喰い殺されたなんて、あってはならない事です。通常でしたら、監視担当者も、警護担当者も。皆、罰を与えるところでしたが、今回は、偶然の賜物。棚から牡丹餅。たかが七体の犠牲で大きな収穫を得ましたから、罰は無しにしておきましょう」
誰も居なくなった室内で、ほくそ笑む。
「H‐Bに関しては、我々も偶然の産物でしかありませんからねぇ……。それでも、その偶然を活かすも殺すも我々次第。ただ、大きくなるだけの木偶の坊になるくらいなら、今回の一件を活かして、パワータイプのH‐Bへと変化させる方が、使い道はありますから……」
指で肘掛けをトントンと叩きながら、機嫌よさげに独り言を呟く。
「CP感染した人間は、その殆どがP‐Nになるか、死に至るかのどちらか。ごくまれにPSへと変化するものもいるけれど、PSに関しては、こちらで管理して増やす事も減らす事も出来ますが、H‐Bに関してだけは、CPの悪戯によるもので、こちらの意志で、どうのこうの出来るものではない」
一旦、回転椅子の動きを止め、背中に体重を預けると、その重さで背もたれが反る。
凝り固まった体をほぐすように、背もたれの反りに合わせて、背を反らせる彼は、気持ちよさそうに唸り声をあげた。
「たまたま出来たモノを単なる生ゴミにするよりも、多少の犠牲を払ってでも、こちらの大きな駒に出来るのなら、最高ですよ。ある意味、将棋の駒と一緒。歩が歩金に変わるようなもの」
彼はくるりと椅子を回転させ、背後にある本棚へと視線を向けた。
どの位置に何があるのかを把握してあるのか、彼は、直ぐに立ち上がると、異国の言葉で書かれてある題名の中から、迷う事なく一冊の本を取り出した。
ペラペラをページを捲り、その目は内容を確認しているというよりも、ページ数を確認しているよう。
彼はここにある全ての資料や本の在り処、内容。
そして、その内容が書かれてあるページすらも把握しているようだ。
ピタリと手を止め、開かれた部分を確認すると、「やっぱり……」と、小さく呟いた。
「もし、私の考え通りであるならば、P‐Nに完全になりきる前に異変のあった個体には、P‐Nを与えればいい訳ですねぇ」
立ったまま、彼は開いたページに書かれてある文字をなぞった。
図解らしきものも書かれてある部分を見ると、人体の筋肉構造が描かれてある。
「私の推測では、Colonelが高熱を出した時、何等かの作用で筋肉の破壊が体内で行われていたのでしょう。だから、Colonelは身悶え苦しむような動きをしていた。そして、一気に沈静化。その後、P‐Nを食べる事によって栄養補給。それから麻酔銃によって、強制的ではあるけれど、休養を取らされた」
一人で納得するように、何度も何度も、「筋肉の破壊。栄養補給。休養」という言葉を繰り返すと、再び、本へと視線を落とす。
「五大栄養素。炭水化物、脂質、たんぱく質、ビタミン、ミネラル。全て必要ではありますが、それらを一気に摂れるものといえば、自分と同じ成分で出来ているものから摂れば効率がいい」
うんうんと何度も頷いて、彼は「なんと、理にかなった肉体造りなんでしょう」と、感嘆の声を漏らした。
「筋肉の破壊から、筋肉の材料補給、そして筋肉の修繕、超回復。これらは全て筋肉を作り上げる一連の流れ。彼は元々、軍人。常日頃から肉体を鍛え、訓練しているからこそ、無意識にそれをやってのけたのかもしれませんねぇ。だからこそ、H‐Bとはいえ、ある種『超越』した力を手に入れた」
本をパタンッと音を立てて閉じると、彼は天井のLED照明に目をやった。
いいや、照明に目を向けているわけではなく、彼の視線の先には、彼が思い描く未来があるのだろう。
恍惚とした表情の彼は、いつの間にか手にした本を抱きかかえていた。
「『なりそこない』だと思っていたものが、我々にとって心強いアニマルウェポンになるとはねぇ。これは研究する価値があります。ただ、どれだけ制御出来るものなのか。制御出来ない兵器は諸刃の剣になりかねませんからね――」
彼はデスク上のパソコンの電源を入れた。
「さて。私としたことが、H‐Bのことなど、軽くみていましたから……。一度、全てのデータを把握しておかないといけませんね」
デスクの引き出しからサックのようなものを取り出し、十本の指全てに着ける。
キーボードではなく、そのままテーブルの上で鍵盤を奏でるように指を動かす度に、ディスプレイ上に文字が打ち込まれ、デスク上で手を回したり、空中で人差し指を左右上下に動かすだけで、カーソルが動いたり、映し出された資料が大きくなったり、小さくなったりしている。
まるでピアノソナタでも弾いているかのような華麗なる指捌きで情報を処理していく彼は、最初は流し読みをしている様子ではあったが、次第に周りの景色も音も目に入らないくらい集中し、H‐Bについてのデータに没頭しだした。
それは安河内将官から、H‐Bである四体全てを、所長自身が研究している、他とは隔離された実験棟へと移動したと内線連絡が入るまでの間――時間にして、二時間以上にも及んだのだった。
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