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本編
⑤ 推しの幸せ? 自分の幸せ?
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「細かく言うと、この文字は結婚じゃなくて、婚約だな。ほら、ここに点が付いて、これが、その前段階という意味を表すから……」
「おおっ、そうか。これで婚約、者って読むんですね。カガミさん、婚約者ですって、聞いてます?」
カウンターの上にチラシが広げられて、すっかり文字の勉強時間になっていた。マスターは優しい先生のようで、アズマはカガミさんより分かりやすいと言って喜んでいる……、って場合じゃない。
「カガミさーん。そんなに拗ねないでください。カガミ先生、助かってますって」
「……拗ねてない。ただ、驚いただけだ。頭を打ったから黙して苦痛に耐えている」
水で濡らした布を頭に乗せたカガミは、アズマが拾ったというチラシを眺めた。そこに王国の印が押されているのが確認できる。どうやら本物のお触れのようだ。
内容は、第一騎士団所属、アレクサンドル小隊長の婚約者を募集すると書かれていた。
彼の年齢は二十七と聞いていたので、年齢的にも身を固めるにはちょうどいい頃かもしれない。
ただ、このように大々的に相手を募るという手法は今までになかったので、他に意味があるのだろうかと勘繰ってしまう。
「ワタシ、応募してみようかなぁー」
「ハンナっ……何を言っているんだ!」
カガミの横からヌッと顔を出してチラシを覗いたハンナが嬉しそうに声を上げた。マスターは他人事だという顔をしていたのに、一気に焦った顔になった。
「だって、ほら、ここ。募集要項を見て。誰でもいいって。身分関係なく、募集するみたい」
「ええっ!?」
小さく書かれた項目を見落としていた男達は、一斉に声を上げる。まさか、貴族でもあるアレクサンドルが、相手は誰でもいいなんてことは、嘘だと思った。
「んーと、犯罪者とか危険人物を除外するために、選考があるみたいだけど、余裕でクリアだし! えー、私応募しよう! 近所の子にも教えてくるー!」
「ちょっ、待て、ハンナーー!」
急に乗り気になってしまったハンナが店を飛び出していき、マスターの悲痛な声が響いた。
カガミとアズマは気まずい雰囲気になって顔を見合わせる。
「ええと……、修理の残りをやろうかな」
「お……俺も手伝います」
「まだ成人したばかり……男で一つで育ててきて、悪い虫がつかないようにいつも店では目を光らせていたというのに……うぅ……」
マスターの悲しい呟きには気づかないフリをして、カガミとアズマは、狭い配管スペースに入った。
修理が途中になっていた破損箇所を、この世界にある道具を使いサッと修理して、壊れないように補強する。二人で手分けしてやるとあっという間に直ってしまった。
修理が終わるとそそくさと荷物をまとめた。放心状態のマスターにまた来ますと言って、酒場を後にすると、アズマが話を戻してきた。
「俺が拾ったのはあっちの通りですけど、表通りには看板が立てられてたくさん貼ってありましたよ。これはかなりの人数が集まりそうですね」
「アレクサンドル様はモテるが決まった相手はいないようだ。相手を募集するのは驚いたが、推しが注目されて有名になるならファン冥利に尽きる」
空が茜色に染まり始め、魔法の街灯に火が灯る。仕事を終えた人々が街に繰り出して、楽しげに歩きて行く様子を、カガミはぼんやり眺めた。
そんなカガミの顔を、アズマは何か言いたげな顔でじっと見てきた。
「なんだ? 顔に何かついているか?」
ふと沈黙が流れる。いつもおどけているアズマが急に真剣な顔になり、歩みを止めた。
「カガミさん……。やっぱり悲しくないんですか? 推しが結婚しちゃうんですよ」
「悲しくはない。言っただろう、推しの幸せが俺の……」
「それで本当にいいんですか? 誰かの幸せじゃなくて、カガミさん自身の幸せは?」
アズマの髪は夕日に染まり、鮮やかな赤色に見えた。背中から風が吹き抜けて、胸がツキンと痛む。
自分の幸せ。
それはいつだって遠くて……。
「そんなの……お前には関係ないだろう」
「……すみません。出過ぎたことを言いました。頭冷やしてから帰りますね」
「あ……ああ」
申し訳なさそうに笑ったアズマは、頭をかきながら走って行ってしまった。
一人残されたカガミは、街を照らす夕日に目を細める。
――胸が痛い。
――あの時みたいだ。
フゥと息を吐いたカガミは、下を向いたまま歩き出した。
カガミは厳格な両親の元で育った。
一つ上の兄はとても優秀で、勉強にスポーツと、何をしても優れた評価を受けた。
カガミは動くことも考えることも人より遅く、自分では一生懸命やっているはずなのに、気づいたらいつも早くしなさいと言われ急かされてきた。
親戚からは、きっと兄がいいところを全部持っていってしまったんだねと、残りものになったようなことを言われた。
学校に行けば、問題を解くまで時間がかかり、給食を食べるのも最後で、同級生や教師からも、なんて遅いんだと呆れられた。
ある時、学校で地域のイベントがあり、苺のケーキが配られることがあった。カガミは甘いものが好きなので、その日を楽しみにしていた。
同級生達が次々自分の好きなケーキを選び食べていく中、やっと列に並んだがカガミは、その日も最後だった。
やっと自分の番になったカガミは、ケースの中を見て愕然とする。
最後の一個はケーキの形が崩れており、上に載っているはずの苺がなかった。
ごめんね、誰かの中に多く入っちゃったみたいと謝られた。
些細な出来事だ。
大人になれば誰でも忘れてしまうくらいの小さな出来事。
だけどカガミには、苺が落ちた残りもののケーキが自分に思えてしまい、胸が痛くなった。
そのことが全てではないが、少しずつ、少しずつ、カガミは自分というものを消して生きてきた。
相変わらず優秀な兄は、医学部に合格し、順調な人生を歩んでいく。
不出来なカガミのことを両親はとっくに見限っており、受験に失敗したカガミは、ひっそりと家を出た。
引き止められなかった。
バイトで食いつなぎ、なんとか就職したが、仕事が遅いと怒られるので、焦ってミスをして、叱責を受ける毎日。
心が擦り減って疲れ切っていた時、モモナに出会ったのだ。
モモナの歌を聴き、笑顔を見たことで、癒されていくのを感じた。
上手くいかない自分の人生。
残りものしか知らない自分に、モモナは唯一の輝きを見せてくれた。
自分が幸せじゃなくても誰かが幸せならいい。その人の幸せを輝きを……自分のことのように喜べたらそれで……。
「それで十分なんだよ……」
異世界の夕焼けはニホンで見ていたものと変わらない。赤く燃えるような空を見上げたカガミは胸に手を当てる。
心臓が不安げに揺れて、アズマの言葉が胸の奥に響いてくる。
対面を気にする両親は、カガミが大学に行かなかったことに激怒し、もう連絡するなと言われて勘当状態。兄もまた同じで、疎遠になったままどこに住んでいるかも分からなかった。
突然消えても誰も気づかない。
自分を待っている人はいない。
考えないようにしていたことが、今になってポロポロと落ち降り積もってくる。肌を刺すような現実は、目を閉じて忘れればいい。推しの輝きだけが生きる希望なのだ。
「だいたい、アレクサンドル様の結婚って……。俺は何一つ関係ないじゃないか……」
鼻から息を吐き、一人で笑ったカガミは、トボトボと家路につくことにする。
胸に残ったモヤモヤは消えないが、しばらく経てば治るだろうと、もう余計なことは考えないように足を速めた。
翌日、なかなか寝付けずに朝方までウトウトしていたカガミは、寝坊してしまい、慌てて身支度を整えた。
異世界人用の宿舎は、宮殿の使用人達と同じ練にあり、職場まで歩いて十五分で到着する。
小汗をかきながら異世界部のドアを開けたカガミは、遅れましたと声をかけた。
おはようという声と共にフジタが手を上げ、その後ろでカミムラがペコリと頭を下げたのが見えた。
「遅くなりました。朝一の厩舎掃除の手伝いは……」
「アズマくんが行ったよ。もう手順は覚えているし、一人でも大丈夫だって」
「あぁ、すみません。寝坊するなんて」
「カガミくん仕事し過ぎだから、たまには休んでよ。ほら、お茶入れるから飲んで」
フジタに背中を押され、ソファーに座ったカガミは額に手を当てる。余計なことを考えて仕事に支障が出るなど本末転倒だ。しっかりしろと自分に言い聞かせた。
フジタが運んできたお茶を飲んで一息つくと、テーブルの上に広がっている書類が目に入った。
「先月分の報告書ですか。綺麗にまとまってますね。いつもありがとうございます」
「いやぁ、外仕事はカガミがやってくれるから、僕にできることはやらないと」
年配のカミムラに力仕事は任せられないので、アズマが入るまで動けるのはカガミとフジタしかいなかった。アズマが入ってから、フジタは主に書類仕事を担当していた。
「ほら、二人が頑張ってくれたから、かなりの売上げがあったよ。予算が余ったから、それを使ってみんなでパァーっと……」
「だめですよ。ちゃんと報告しないと。道具の新調で前借りした分がありますから、そちらにまわします」
「冗談だよ。相変わらず真面目だなぁ。そうだ、アズマくんと何かあった? 彼の様子違ったから」
「あ……ちょっとした意見の食い違いが……」
アズマが異世界に来てからしばらく経ち、仕事にも異世界部のメンバーにも慣れた。チャラついた見た目だが、アズマは何事にも真面目で一生懸命に取り組んでくれる。一回り年が違うが、弟がいたらあんな感じだったのだろうかと思うようになったいた。
「彼さぁ、食べ方は綺麗だし、身の回りのこともしっかりしている。話の感じからして、しっかり教育の行き届いた、金持ちのお坊ちゃんじゃないかなって思うんだよね」
「それは私も感じていました。高校生の一人暮らしでタワマンに住んでいたって聞きましたし……」
「僕もカミムラさんも、職種は違うけど雇い止めにあって途方に暮れていたし、カガミくんは車に轢かれるところだった。ここに来る人は、絶望的な状況だった人が多い」
「でも、アイツは友達といるときに……」
「そうだとしても、彼なりに何かあってここに来たんだと思うんだ。初日は呆然としていたけど、翌日から吹っ切れたような顔で元気に動き出した。大人びて見えるかもしれないけど、まだ子供だよ。彼の話をよく聞いて、頑張っているところは認めてあげないとね」
フジタの横で、カミムラがうんうん頷いているのが見えた。カガミはアズマがチラシを持ってきた時から、不機嫌になっていた自分を思い出した。少し厳しくし過ぎたかもしれない。
「そう……ですね」
アズマが帰ってきたら、昨日は言い過ぎたと謝ろう。カガミが部屋のドアを見ていたら、ドカドカと足音が聞こえてきた。
ほどなくしてバンと音を立てて豪快にドアが開き、入ってきたのはアズマだった。走ってきたのか、息が上がっている。
「カガミさん! 俺、思い出しました!!」
「きゅ、急になんだ……」
「ぎ、銀髪のアレクサンドルですよ」
「……え?」
汗を飛ばしながら、アズマはカガミの両肩を掴んでぐらぐらと揺らす。
「前に話したじゃないですか! この世界の元になっているゲームの話です。あれだけの美形なのに、攻略対象の中にいないなんておかしいなって思っていたんです! そしたら、思い出したんですよ。銀髪のアレクサンドルは、王子トリスタンの友人役で、トリスタンルートでは、婚約者がいる王子との恋愛で悩む主人公に、ヒントをくれる相談役でもあるんです」
「あ……ああ……」
「ゲーム内でかなり人気があるって説明されていました。それで、ゲームには真エンディングっていう隠されたルートがあって、俺、そこまで見れなかったんです。でも、あれだけのビジュなら、隠し攻略キャラはアレクサンドルだと思うんです!」
バキバキの目をしたアズマの迫力に押されたカガミは、ただ分かった分かったと言って頷くしかない。とにかく話が落ち着くまで待とうとすると、アズマはまた早口で捲し立てた。
「主人公ちゃんって、すごい可愛いんですよ。今回の婚約者イベは知らないけど、これは真エンディングに向かう布石なんじゃないかなって。つまり、このまま行くと主人公ちゃんがどこかで出てきて、アレクさんと結ばれるんじゃ……」
「そ……そうなるかもしれない……な」
カガミが困惑げにそう言うと、アズマは破顔して涙目になる。
「うぅ……、ヒロインちゃんってすごくモテるんですよ。そんな子に狙われたら、アレクさん絶対苦労すると思うんです」
カガミが聞いている話では、アレクサンドルもモテるが、付き合いのある上司の娘をパーティーでエスコートするくらいで、決まった相手と付き合っている話が出たことはないそうだ。つまり、彼は恋愛初心者だといえる。
「推しの幸せが自分の幸せなんですよね?」
「そうだが……?」
「じゃあ、カガミさんが、アレクさんを幸せにしてあげればいいじゃないですか! カガミさんだって幸せだし、Win-Winですよ!」
「は…………はぁ!?」
昨日冷たくあしらったことで、どこかネジが外れてしまったのかもしれない。
コイツは何を言い出したのかと、カガミは目を瞬かせた。
「俺、さっき応募してきました。アレクさんの婚約者イベですよ。カガミさんの名前で!」
一人興奮したアズマが、目を輝かせ高らかに宣言すると、部屋全体が言いようのない静寂に包まれる。
刹那の後、思考が停止し白目になったカガミの後ろで、フジタとカミムラがズズっとお茶をすする音が響いた。
「おおっ、そうか。これで婚約、者って読むんですね。カガミさん、婚約者ですって、聞いてます?」
カウンターの上にチラシが広げられて、すっかり文字の勉強時間になっていた。マスターは優しい先生のようで、アズマはカガミさんより分かりやすいと言って喜んでいる……、って場合じゃない。
「カガミさーん。そんなに拗ねないでください。カガミ先生、助かってますって」
「……拗ねてない。ただ、驚いただけだ。頭を打ったから黙して苦痛に耐えている」
水で濡らした布を頭に乗せたカガミは、アズマが拾ったというチラシを眺めた。そこに王国の印が押されているのが確認できる。どうやら本物のお触れのようだ。
内容は、第一騎士団所属、アレクサンドル小隊長の婚約者を募集すると書かれていた。
彼の年齢は二十七と聞いていたので、年齢的にも身を固めるにはちょうどいい頃かもしれない。
ただ、このように大々的に相手を募るという手法は今までになかったので、他に意味があるのだろうかと勘繰ってしまう。
「ワタシ、応募してみようかなぁー」
「ハンナっ……何を言っているんだ!」
カガミの横からヌッと顔を出してチラシを覗いたハンナが嬉しそうに声を上げた。マスターは他人事だという顔をしていたのに、一気に焦った顔になった。
「だって、ほら、ここ。募集要項を見て。誰でもいいって。身分関係なく、募集するみたい」
「ええっ!?」
小さく書かれた項目を見落としていた男達は、一斉に声を上げる。まさか、貴族でもあるアレクサンドルが、相手は誰でもいいなんてことは、嘘だと思った。
「んーと、犯罪者とか危険人物を除外するために、選考があるみたいだけど、余裕でクリアだし! えー、私応募しよう! 近所の子にも教えてくるー!」
「ちょっ、待て、ハンナーー!」
急に乗り気になってしまったハンナが店を飛び出していき、マスターの悲痛な声が響いた。
カガミとアズマは気まずい雰囲気になって顔を見合わせる。
「ええと……、修理の残りをやろうかな」
「お……俺も手伝います」
「まだ成人したばかり……男で一つで育ててきて、悪い虫がつかないようにいつも店では目を光らせていたというのに……うぅ……」
マスターの悲しい呟きには気づかないフリをして、カガミとアズマは、狭い配管スペースに入った。
修理が途中になっていた破損箇所を、この世界にある道具を使いサッと修理して、壊れないように補強する。二人で手分けしてやるとあっという間に直ってしまった。
修理が終わるとそそくさと荷物をまとめた。放心状態のマスターにまた来ますと言って、酒場を後にすると、アズマが話を戻してきた。
「俺が拾ったのはあっちの通りですけど、表通りには看板が立てられてたくさん貼ってありましたよ。これはかなりの人数が集まりそうですね」
「アレクサンドル様はモテるが決まった相手はいないようだ。相手を募集するのは驚いたが、推しが注目されて有名になるならファン冥利に尽きる」
空が茜色に染まり始め、魔法の街灯に火が灯る。仕事を終えた人々が街に繰り出して、楽しげに歩きて行く様子を、カガミはぼんやり眺めた。
そんなカガミの顔を、アズマは何か言いたげな顔でじっと見てきた。
「なんだ? 顔に何かついているか?」
ふと沈黙が流れる。いつもおどけているアズマが急に真剣な顔になり、歩みを止めた。
「カガミさん……。やっぱり悲しくないんですか? 推しが結婚しちゃうんですよ」
「悲しくはない。言っただろう、推しの幸せが俺の……」
「それで本当にいいんですか? 誰かの幸せじゃなくて、カガミさん自身の幸せは?」
アズマの髪は夕日に染まり、鮮やかな赤色に見えた。背中から風が吹き抜けて、胸がツキンと痛む。
自分の幸せ。
それはいつだって遠くて……。
「そんなの……お前には関係ないだろう」
「……すみません。出過ぎたことを言いました。頭冷やしてから帰りますね」
「あ……ああ」
申し訳なさそうに笑ったアズマは、頭をかきながら走って行ってしまった。
一人残されたカガミは、街を照らす夕日に目を細める。
――胸が痛い。
――あの時みたいだ。
フゥと息を吐いたカガミは、下を向いたまま歩き出した。
カガミは厳格な両親の元で育った。
一つ上の兄はとても優秀で、勉強にスポーツと、何をしても優れた評価を受けた。
カガミは動くことも考えることも人より遅く、自分では一生懸命やっているはずなのに、気づいたらいつも早くしなさいと言われ急かされてきた。
親戚からは、きっと兄がいいところを全部持っていってしまったんだねと、残りものになったようなことを言われた。
学校に行けば、問題を解くまで時間がかかり、給食を食べるのも最後で、同級生や教師からも、なんて遅いんだと呆れられた。
ある時、学校で地域のイベントがあり、苺のケーキが配られることがあった。カガミは甘いものが好きなので、その日を楽しみにしていた。
同級生達が次々自分の好きなケーキを選び食べていく中、やっと列に並んだがカガミは、その日も最後だった。
やっと自分の番になったカガミは、ケースの中を見て愕然とする。
最後の一個はケーキの形が崩れており、上に載っているはずの苺がなかった。
ごめんね、誰かの中に多く入っちゃったみたいと謝られた。
些細な出来事だ。
大人になれば誰でも忘れてしまうくらいの小さな出来事。
だけどカガミには、苺が落ちた残りもののケーキが自分に思えてしまい、胸が痛くなった。
そのことが全てではないが、少しずつ、少しずつ、カガミは自分というものを消して生きてきた。
相変わらず優秀な兄は、医学部に合格し、順調な人生を歩んでいく。
不出来なカガミのことを両親はとっくに見限っており、受験に失敗したカガミは、ひっそりと家を出た。
引き止められなかった。
バイトで食いつなぎ、なんとか就職したが、仕事が遅いと怒られるので、焦ってミスをして、叱責を受ける毎日。
心が擦り減って疲れ切っていた時、モモナに出会ったのだ。
モモナの歌を聴き、笑顔を見たことで、癒されていくのを感じた。
上手くいかない自分の人生。
残りものしか知らない自分に、モモナは唯一の輝きを見せてくれた。
自分が幸せじゃなくても誰かが幸せならいい。その人の幸せを輝きを……自分のことのように喜べたらそれで……。
「それで十分なんだよ……」
異世界の夕焼けはニホンで見ていたものと変わらない。赤く燃えるような空を見上げたカガミは胸に手を当てる。
心臓が不安げに揺れて、アズマの言葉が胸の奥に響いてくる。
対面を気にする両親は、カガミが大学に行かなかったことに激怒し、もう連絡するなと言われて勘当状態。兄もまた同じで、疎遠になったままどこに住んでいるかも分からなかった。
突然消えても誰も気づかない。
自分を待っている人はいない。
考えないようにしていたことが、今になってポロポロと落ち降り積もってくる。肌を刺すような現実は、目を閉じて忘れればいい。推しの輝きだけが生きる希望なのだ。
「だいたい、アレクサンドル様の結婚って……。俺は何一つ関係ないじゃないか……」
鼻から息を吐き、一人で笑ったカガミは、トボトボと家路につくことにする。
胸に残ったモヤモヤは消えないが、しばらく経てば治るだろうと、もう余計なことは考えないように足を速めた。
翌日、なかなか寝付けずに朝方までウトウトしていたカガミは、寝坊してしまい、慌てて身支度を整えた。
異世界人用の宿舎は、宮殿の使用人達と同じ練にあり、職場まで歩いて十五分で到着する。
小汗をかきながら異世界部のドアを開けたカガミは、遅れましたと声をかけた。
おはようという声と共にフジタが手を上げ、その後ろでカミムラがペコリと頭を下げたのが見えた。
「遅くなりました。朝一の厩舎掃除の手伝いは……」
「アズマくんが行ったよ。もう手順は覚えているし、一人でも大丈夫だって」
「あぁ、すみません。寝坊するなんて」
「カガミくん仕事し過ぎだから、たまには休んでよ。ほら、お茶入れるから飲んで」
フジタに背中を押され、ソファーに座ったカガミは額に手を当てる。余計なことを考えて仕事に支障が出るなど本末転倒だ。しっかりしろと自分に言い聞かせた。
フジタが運んできたお茶を飲んで一息つくと、テーブルの上に広がっている書類が目に入った。
「先月分の報告書ですか。綺麗にまとまってますね。いつもありがとうございます」
「いやぁ、外仕事はカガミがやってくれるから、僕にできることはやらないと」
年配のカミムラに力仕事は任せられないので、アズマが入るまで動けるのはカガミとフジタしかいなかった。アズマが入ってから、フジタは主に書類仕事を担当していた。
「ほら、二人が頑張ってくれたから、かなりの売上げがあったよ。予算が余ったから、それを使ってみんなでパァーっと……」
「だめですよ。ちゃんと報告しないと。道具の新調で前借りした分がありますから、そちらにまわします」
「冗談だよ。相変わらず真面目だなぁ。そうだ、アズマくんと何かあった? 彼の様子違ったから」
「あ……ちょっとした意見の食い違いが……」
アズマが異世界に来てからしばらく経ち、仕事にも異世界部のメンバーにも慣れた。チャラついた見た目だが、アズマは何事にも真面目で一生懸命に取り組んでくれる。一回り年が違うが、弟がいたらあんな感じだったのだろうかと思うようになったいた。
「彼さぁ、食べ方は綺麗だし、身の回りのこともしっかりしている。話の感じからして、しっかり教育の行き届いた、金持ちのお坊ちゃんじゃないかなって思うんだよね」
「それは私も感じていました。高校生の一人暮らしでタワマンに住んでいたって聞きましたし……」
「僕もカミムラさんも、職種は違うけど雇い止めにあって途方に暮れていたし、カガミくんは車に轢かれるところだった。ここに来る人は、絶望的な状況だった人が多い」
「でも、アイツは友達といるときに……」
「そうだとしても、彼なりに何かあってここに来たんだと思うんだ。初日は呆然としていたけど、翌日から吹っ切れたような顔で元気に動き出した。大人びて見えるかもしれないけど、まだ子供だよ。彼の話をよく聞いて、頑張っているところは認めてあげないとね」
フジタの横で、カミムラがうんうん頷いているのが見えた。カガミはアズマがチラシを持ってきた時から、不機嫌になっていた自分を思い出した。少し厳しくし過ぎたかもしれない。
「そう……ですね」
アズマが帰ってきたら、昨日は言い過ぎたと謝ろう。カガミが部屋のドアを見ていたら、ドカドカと足音が聞こえてきた。
ほどなくしてバンと音を立てて豪快にドアが開き、入ってきたのはアズマだった。走ってきたのか、息が上がっている。
「カガミさん! 俺、思い出しました!!」
「きゅ、急になんだ……」
「ぎ、銀髪のアレクサンドルですよ」
「……え?」
汗を飛ばしながら、アズマはカガミの両肩を掴んでぐらぐらと揺らす。
「前に話したじゃないですか! この世界の元になっているゲームの話です。あれだけの美形なのに、攻略対象の中にいないなんておかしいなって思っていたんです! そしたら、思い出したんですよ。銀髪のアレクサンドルは、王子トリスタンの友人役で、トリスタンルートでは、婚約者がいる王子との恋愛で悩む主人公に、ヒントをくれる相談役でもあるんです」
「あ……ああ……」
「ゲーム内でかなり人気があるって説明されていました。それで、ゲームには真エンディングっていう隠されたルートがあって、俺、そこまで見れなかったんです。でも、あれだけのビジュなら、隠し攻略キャラはアレクサンドルだと思うんです!」
バキバキの目をしたアズマの迫力に押されたカガミは、ただ分かった分かったと言って頷くしかない。とにかく話が落ち着くまで待とうとすると、アズマはまた早口で捲し立てた。
「主人公ちゃんって、すごい可愛いんですよ。今回の婚約者イベは知らないけど、これは真エンディングに向かう布石なんじゃないかなって。つまり、このまま行くと主人公ちゃんがどこかで出てきて、アレクさんと結ばれるんじゃ……」
「そ……そうなるかもしれない……な」
カガミが困惑げにそう言うと、アズマは破顔して涙目になる。
「うぅ……、ヒロインちゃんってすごくモテるんですよ。そんな子に狙われたら、アレクさん絶対苦労すると思うんです」
カガミが聞いている話では、アレクサンドルもモテるが、付き合いのある上司の娘をパーティーでエスコートするくらいで、決まった相手と付き合っている話が出たことはないそうだ。つまり、彼は恋愛初心者だといえる。
「推しの幸せが自分の幸せなんですよね?」
「そうだが……?」
「じゃあ、カガミさんが、アレクさんを幸せにしてあげればいいじゃないですか! カガミさんだって幸せだし、Win-Winですよ!」
「は…………はぁ!?」
昨日冷たくあしらったことで、どこかネジが外れてしまったのかもしれない。
コイツは何を言い出したのかと、カガミは目を瞬かせた。
「俺、さっき応募してきました。アレクさんの婚約者イベですよ。カガミさんの名前で!」
一人興奮したアズマが、目を輝かせ高らかに宣言すると、部屋全体が言いようのない静寂に包まれる。
刹那の後、思考が停止し白目になったカガミの後ろで、フジタとカミムラがズズっとお茶をすする音が響いた。
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2度目の異世界移転。あの時の少年がいい歳になっていて殺気立って睨んでくるんだけど。
ありま氷炎
BL
高校一年の時、道路陥没の事故に巻き込まれ、三日間記憶がない。
異世界転移した記憶はあるんだけど、夢だと思っていた。
二年後、どうやら異世界転移してしまったらしい。
しかもこれは二度目で、あれは夢ではなかったようだった。
再会した少年はすっかりいい歳になっていて、殺気立って睨んでくるんだけど。
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