あなたにずっと愛されたい

朝顔

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あなたにずっと愛されたい

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 パタンとドアが閉まる音が聞こえて、瑞希は顔を上げた。
 物音しない静かな部屋を見渡すと、テーブルの上に一枚の白い紙が見えた。
 それが何を意味するのか、近くで見る必要もなく理解できた。

 こんな時でも足は動かない。
 走って追いかけて泣きながらすがりついたら、何か変わるのだろうか。

 そう思ってから、それは無駄なことだと額に手を当てた。

 ¨俺を解放してくれ¨

 夫の心はとっくに自分から離れていた。
 それにずっとしがみついて離さなかったのは自分だった。
 どう足掻いても自分に振り向いてくれることはない。

 ポタリと蛇口から水滴が落ちて、シンクの上で跳ねた。

 二人の結婚生活の終了を知らせる合図にしては、ひどく虚しい音だった。




「……瑞希先輩、離婚したんでしょう。旦那さん出ていっちゃったって……」

「やっぱり、あの噂本当だったんだ。うちの秘書課の新人と……」

「若い子に寝盗られるなんて最悪…。私なら立ち直れないわ」

「でも、ほら指輪…。まだしてるよね。未練たらたら…。痛々しくて……」


 通りがかった休憩室から自分の噂話が聞こえて、瑞希は思わず立ち止まってしまった。
 しっかり話を立ち聞きしてから、聞かなければ良かったと元いた方向に戻って歩き出した。

 ため息をつきながら、指摘された指を眺めた。
 薬指にはまった鈍色のリングが虚しく光っている。これを外せば二人の名前が見えるはずだ。
 とてもでないが、今は見ることができない。
 だから、どうしても外すことはできなかった。


 同じ年の夫とは見合いでの結婚だった。部署は違ったが同じ会社に勤めていて、上司がいいやつを紹介するからと言われて席を設けられて引き合わされた。
 当時新しい仕事を任されたばかりで忙しかったが、三十を半ばにして恋人もなくこの先の出会いも考えられなかったので、勢いで結婚を決めてしまった。向こうも恋愛感情というより、お世話になった上司の強い勧めがあって断りきれずにという感じが透けて見えた。

 燃え上がっての結婚ではなかったが始めは順調だった。
 週末は二人の時間を作り、デートを重ねた。瑞希は苦手だった料理を勉強して、仕事が終われば急いで帰宅して、夫が帰る前までに必ず用意しておいた。

 結婚して三年目が過ぎる頃には、その生活にも慣れて、瑞希の愛は年々深まっていた。

 なんとなく、不安な予感がしたのは、夫の帰宅する時間が少し遅くなったことからだった。
 だんだん、外で上司と飲んでくるという日が増えて、休みの日も接待だと言って出掛けるようになった。
 今思えば分かりやすい順序をたどっているが、その時は信じたくなくて、何も考えないようにしていた。

 ¨瑞希の旦那さん、若い子と歩いてたよ¨

 友人から目撃情報をもらっても、瑞希は見間違いだよと笑っていた。

 教師だった両親のもと、厳格に育てられた。
 泣けば我慢しろと言われ、両親が作った人生のカリキュラム通りに歩くことを求められた。
 自分の欲求や感情は押し殺すものだと思って生きてきた。

 だから、夫の言葉が理解できなかった。

 ¨お前つまらないんだよ。はいはいばっかりしか言わないで、人形かよ。俺の前で泣いたこともないだろ¨

 突然別れようと、離婚をきり出された。

 瑞希は嫌だと言ってなかなか応じなかった。
 だが、抵抗すれば抵抗するだけ、夫の心が見えなくなって、はるか遠くへ行ってしまうのが分かった。

 ある時、黒い感情に埋め尽くされて身動きが取れなくなった。息をするのも苦しくなってから、もうだめだと諦めて瑞希はついに頷いたのだった。


 冷たい風が吹いてきて、慌ててコートの前を合わせた。
 歩道橋の階段を下りていたら、夜空からチラチラと雪が落ちてきた。
 その美しさについ目をとられて、ぼんやりと眺めしまった。

 その時、階段に出来た窪みにヒールがハマってしまった。
 ガクンと体が揺れて、ポキリとヒールが折れた感覚があった。
 言葉を発する間もなく、世界は大きく回転して、瑞希は階段の一番上から落ちた。

 空から落ちてくる白い雪、それが最後に見た光景だった。



 □□



「エメラルダ様」

 そう呼ばれて、エメラルダが振り返るとメイドのマリーが立っていた。

「お食事の時間です」

「あっ…ごめんなさい。考えごとをしていて…」

 エメラルダの言葉にマリーは目を伏せただけで、そのまま、部屋から出ていってしまった。勝手に行けということだろう。呼びに来てくれただけまだ良いのだろうとエメラルダは思った。

 部屋を出ようとして、鏡に映りこんだ自分が見えて、エメラルダは立ち止まった。
 金色の長い髪に、新緑のようなエメラルド色の瞳をしている。鏡を見るとこれが今の自分の顔なのだと、思い知らされる。
 慣れないこの姿に、エメラルダはもう何度目かわからないため息をついたのだった。


 エメラルダ・オルコットは子爵家の令嬢だった。貴族の令嬢と言っても、オルコット家は父が事業に失敗して作った借金が膨らみに膨らんで、完全な没落貴族であった。
 かつて、舞台女優であった母譲りの美貌に恵まれたエメラルダだったが、チヤホヤされたのは最初だけで、父の事業が傾くとともに、歩く借金令嬢と笑われて社交の場には行けなくなってしまった。
 もともと気位が高く、気性の激しい性格をしていたので、笑われたりバカにされるのは耐えられなかったのだ。
 毎日家で使用人を罵倒して暴れまわるエメラルダに、両親は手を焼いていた。

 そこに、降って湧いたように良い話が入った。父が放置していた領地を欲しいという人物が現れたのだ。たいして値がつかないと思われていたところだったが、事業の拡大に必要な土地らしく、たいそうな額を提示されたらしい。

 渡りに船とはこのことで、調子に乗った父は、未婚であったその人物に、お金と共に二十歳を過ぎて行き遅れていたエメラルダを妻にするように条件を追加したのだ。

 渋々であったというが、どうしても必要な場所だったらしく、その話は成立した。

 その人物は、ジェラルド・レインハウスという名の二十五歳になる青年で、爵位こそないが若くして事業が大成功していているということだった。
 いくら金持ちでも、気位が高いエメラルダは、貴族でもない男の家に嫁がされるなんて嫌だと暴れた。しかし両親に説得されて、半ば追い出されるようにして嫁いできたのだった。

 貴族でない男との結婚式なんて恥ずかしくてできないと拒否して、ジェラルドとはほとんど顔を会わせることなく、レインハウス家へ嫁いだエメラルダは、最悪の初夜を迎える。
 使用人に怒鳴りながら、嫌々用意をさせられたが、ジェラルドはエメラルダと顔を合わせることもなく、すぐに仕事で外国へ行ってしまったのだ。
 予め分かっていて仕事を入れたようなタイミングだった。

 嫁ぎ先に一人の残されたエメラルダは、お高いプライドがズタズタになって、ショックで気を失ってしまった。

 そして意識のない間、どこか遠い世界で、瑞希という名前で生きてきた人生を思い出した。
 そして、目を開けるとエメラルダの人生の記憶こそあったが、心はすっかり瑞希になってしまっていたのだった。


 □□

 長いテーブルの端に用意された夕食を食べながら、エメラルダは広い食堂を眺めた。
 ジェラルドの両親は五年前に事故で亡くなっている。この広い屋敷にジェラルドは数人の使用人と暮らしている。仕事が忙しく、寝るためだけに帰っているようなものと聞いた。

 使用人との関係は最悪だ。ここに来た初日にさんざん悪態をついて、暴れまわったらしい。
 完全に距離をおかれていて、話しかけてもろくに返事をしてくれない。
 当然だろう。主人をバカにしていた女など仕えたくもないはずだ。
 実家から付いてきた者もいない。
 エメラルダは孤独だった。

 瑞希の人生の記憶は、全て昨日ことのように覚えている。つまり、あの夫との別れを完全に引きずったままだ。
 そして、悲しいことに二度目の人生でも、エメラルダは結婚につまずいていた。

「このままだと、また同じ光景を見ることになるわね」

 エメラルダは、ボソリと呟いた。
 同じように愛のない結婚。前夫とはそれなりに関係を築いたが、それでも去っていかれてしまった。
 ジェラルドの顔は見ているはずだが、ショックと怒りで記憶に残っていない。
 まだ顔の分からない新しい夫が、同じように去っていく背中を想像して、エメラルダは項垂れた。

 マリーが新しい飲み物を持ってきたので、エメラルダはその腕にそっと触れた。

「マリー、教えてくれないかしら。あの方は……、ジェラルド様はどんな食べ物が好きなの?」

 エメラルダの突然の質問に、マリーは目を見開いて驚いた顔をした。
 適当にごまかされてしまうかと思いきや、マリーは真面目な顔に戻った後、煮込んだ料理はお好きですねと答えてくれた。
 さすがに主人のことを聞かれて、無視するわけにはいかなかったのだろう。
 無愛想ではあったが、エメラルダにはそれで十分だった。

「ありがとう、教えてくれて。明日からやってみるわ」

 エメラルダが柔らかく笑ってお礼を言うと、マリーはもっと驚いた顔になって、椅子に背中をぶつけた後、そのまま後退りして出ていってしまった。

 これまで、瑞希として自分なりに夫を愛してきたつもりだった。
 だが、不器用な愛は何一つ伝わっていなかった。それではだめなのだ。きっとうるさいくらい自分の気持ちを伝えること。それが第二の人生で課せられた目標ではないかと思い、エメラルダは手に力を込めて立ち上がったのだった。


 □□


 ガタガタと揺れが激しくなり、窓の外を見ると見慣れた景色が流れていた。
 いよいよ帰って来てしまったと、うんざりした気持ちでジェラルドはため息をついた。

 一ヶ月前、ジェラルドは結婚した。
 それも領地を手にいれるために、条件として提示されて仕方なく頷くしかなかった。

 女性には不自由していなかったし、縁談の話も数えきれないくらいきていた。
 仕事の忙しさを理由に断っていたが、正直なところ、結婚をするつもりなどなかった。
 幼い頃から両親は不仲で、数えきれないくらい喧嘩を見てきた。結婚に対する憧れはなく、むしろ嫌悪の気持ちが強かった。
 あんなに仲が悪かったのに、両親は一緒に事故でこの世を去り、事業を全て受け継いでから、必死に大きくしてきた。
 成功するにつれて色々な人間が寄ってきたが、女性というのはその最たるものだった。
 女性などと言うものは、適当に遊んで終わりにするのが丁度良くて、その先を求められたらすぐに別れていた。

 ジェラルドは、以前からオルコット子爵が持っていた土地をどうしても手に入れたかった。借金だらけの子爵に金を積んだら簡単に交渉は成立するかと思われた。
 だが、子爵は条件があると言った。娘との結婚、それを受けてくれなければ土地は売らないと言い出したのだ。

 子爵に娘が一人いるのは知っていた。
 すでに社交界でもてはやされる時期も過ぎている。それはそうだろう、子爵令嬢とはいえ、借金だらけの家から、持参金も期待できないし、逆に金を求められることもあるだろう。そんな危険な家の令嬢など、誰からも嫌がられることなど目に見えていた。

 どんな残念な令嬢が現れるかと思いきや、ジェラルドの前に現れたのは、柔らかそうな美しい金色の髪をして魅惑的な明るくて大きな緑の瞳をした、可愛らしい女性が現れた。
 これはなかなか、良い拾い物だったかもしれないと思ったのはそこまでだった。

 緑の瞳をこれでもかとつり上げて、その女性、エメラルダは、貴族でないこんな男など絶対に嫌だと言い出した。
 当然ジェラルドもこちらも頼んでいないのだがと、ムッとした顔になった。

 ギャーギャーと叫びながら暴れだしたエメラルダを子爵は急いで別の部屋に移して、何にもなかったような顔をして、ではよろしくと言ってきたのだ。

 形ばかりでも挙げようかと思った結婚式も、恥ずかしいからやりたくありませんと断られて、ジェラルドは面倒な結婚をしてしまったと、心底うんざりした。

 あまりにも気が乗らなかったので、初夜もすませないまま、行かなくてもいい外国での仕事をねじ込んで、馬車に飛び乗って逃げるように屋敷を離れてしまった。

 執事から来た最初の手紙には、屋敷に来たエメラルダは相当暴れて、皆困っていると書かれていた。
 その後も連絡が何通か来たが、気持ちが落ちるのが嫌で読まずに封も切らずにしまった。

 疲れた体に、あの絶叫が待っているかと思うと、ため息と共に体がぐんと重くなったことを感じてジェラルドは頭を抱えた。


「お帰りなさいませ、旦那様」

 父の代からレインハウス家に仕えている執事のハモンは、いつもより明るい顔で出迎えに現れた。

 てっきりエメラルダの扱いに苦労して、痩せているかと思いきや、前よりふっくらとして、肌はやけにツヤツヤしているし、白髪頭も綺麗に整えられていた。

「…ハモン?…元気…そう…だな」

「旦那様はお疲れのようですね。私の手紙は見ていただけましたか?」

「ああ、悪い…。忙しくて目は通せなかったが、とくに変わったことは…なっ…!!」

 忙しさを理由にすれば、ハモンはとくに何も言わないはずだったが、なぜか今日は物凄い形相でジェラルドを見てきた。

「すっ…すまない。何か大事なことでも……」

「……いいえ。そうですね、もし捨ててないのであれば、開封していただけると良いのですが。できれば返事を書いていただきたかったのですが……」

「へ…返事?」

 月単位で家を空けたことはあったが、いつもハモンの報告だけで、返事を書いたことなど一度もなかった。大事な連絡があれば、仕事の方を通してくるはずだからだ。

 ハモンは意味ありげな目線をジェラルドに送った後、ジェラルドの荷物を持ってさっさと先に歩いていってしまった。

「なっ、何だっていうんだ…、いったい……」

 ジェラルドは、態度がおかしなハモンに首をかしげながら廊下を歩いた。
 自分の屋敷だというのに、なぜだか雰囲気が変わったような気がして、ジェラルドは辺りを眺めてみた。

 いつも殺風景で何も置いていないはずの廊下には、所々に花瓶が置かれて、美しい生花が飾られていた。
 そういえば、自分が幼い頃見た記憶がある花瓶だった。確かずっと倉庫にしまってあったはずのものだ。それが綺麗に磨かれて置かれていた。

「もしかして…これはエメラルダ…か…?」

 我が儘で癇癪持ちのようなエメラルダが、こんな繊細なことをするとは思えなかった。
 答えを求めるように生花に触れてみたが、当然何も分からない。みずみずしく輝く花は確実に屋敷の雰囲気を明るくしているのは確かだった。

「ジェラルド様!何をされているんですか!?お料理が冷めてしまうではありませんか!早く来てください!」

 廊下の向こうから、ドタドタとメイドのマリーが走ってきた。
 彼女もまた、心なしかふくよかになったような気がしないでもない。
 料理のことなどで急かされたことなど一度もないのに、マリーは早く早くとうるさく急かしてきた。

 驚きつつも食堂に背中を押されて入ると、テーブルには温かそうな料理が並んでいた。
 焼きたてのパンに、自分の好みそうなよく煮込んだスープの匂い。他にも美味そうな料理が並んでいた。

「……なんだ?ラスカが気合いでも入れて作ったのか?すごい手が込んでいて豪華だな……」

「今日はコックのラスカはお休みです」

「………休み?じゃあ、誰が……」

「私が作りました」

 久しぶりに聞いて、すっかり記憶から排除していたその声に、ジェラルドは驚いて顔を上げた。

 そこには、一月前、苦い思いをさせられて、屋敷を離れていてもずっと憂鬱な思いを植え付けてきた張本人である、エメラルダの姿があった。

 しかし、今日は目をつり上げてはいない。むしろ、別人のように大きな目を可愛らしく細めて微笑んでいた。

「え……?あ……?きっ……君が?」

「はい……。本当は、もっと好みを教えていただけたら、それに添って用意したのですが……。でも良いです。お忙しい中、我が儘を言ってしまいごめんなさい。疲れていても、喉を通りやすそうなものを選んで作ってみました。お口に合うといいのですが……」

 喋り方まで変わっていた。一月前はギスギスとしたトゲが生えているような声で、ほぼずっと怒鳴るように喋っていた気がする。
 こんなに、柔らかくて優しい声が出せるのかと、ジェラルドは理解を超えてしまい頭がくらくらとしてきた。

「……旦那様、奥様が一生懸命作ったのですよ…。まさか、食べないなんてことは……」

 マリーのドスのきいた声に驚いて周りを見渡すと、使用人達が皆ジェラルドを白い目で見ていた。
 ますます何が起こっているか分からないが、おずおずと席に付いたジェラルドは、スープをなんとか口に運んだ。
 多少冷めてはいたが、口の中にふわりとオニオンの甘さと、チキンの香りが広がった。体にじんわりと染みていく優しい味がした。

「………んっ、美味い」

「本当ですか!良かった……」

 エメラルダが口を押さえて瞳を潤ませると、周りの使用人達は皆拍手をしてエメラルダの周りの集まった。
 口々に奥様良かったですねと大合唱をしていた。

 非常に食べづらい雰囲気ではあるのだが、料理はとても美味しくて、お腹が空いていたこともあって、ジェラルドはいつしか夢中でフォークを使い、あっという間に全て平らげてしまった。

「全部食べていただけるなんて……、私、幸せです。また作ったら食べていただけますか?」

「あっ…ああ、頼む…」

 ジェラルドはどうにも自分の目がおかしくなってしまったようで、何度も目を擦った。
 しかし、何度瞬きしても、鼻まで摘まんでみても変わらない。やはり目がおかしくなってしまったようだ。

「どうされましたか?…あっ…もうお疲れなのですね」

 あまりに目を擦っているジェラルドを見て、不思議に思ったのかエメラルダが心配そうな顔をしていた。

 ジェラルドはそんな顔も可愛いと思った。

 思ってから、慌てて頭を掻きむしった。何かの間違えだと現実が信じられなかった。

 そうなのだ。先ほどからエメラルダがどうにも可愛く見えてしまい、目も頭もおかしくなったとジェラルドは自分が信じられなかった。

 使用人達がさっさと食器を片付けて、早くお部屋へと今度は部屋に入るように急かされた。

 夫婦の部屋として用意された寝室には大きなベッドがあるはずだが、ジェラルドは使う気になれずに、屋敷にいるときは執務室の隣にある一人用のベッドで寝起きするつもりだった。

 寝室へと言われて急かされて廊下を歩いているが、当然のようにエメラルダも後ろを付いてきていた。
 耐えきれなくなったジェラルドは、ちょうど執務室のところまで来たのでそこで止まった。

「すっ、すまないが…、帰ったばかりで書類の整理があるから忙しくてね。俺はここで寝るから君は……」

「……分かりました。お疲れでしょうから、どうか早めに横になってください。では、私はこれで……お休みなさい」

 エメラルダは微笑んでいた。その儚げな表情に思わず伸びそうな手を慌てて引っ込めて、逃げるように執務室に入りドアを閉めた。
 気がつくと手にも背中にもべっとりと汗をかいていた。
 なにも手につかないまま、ジェラルドはしばらくドアに背を向けて立ち尽くしていたのだった。



 □□


 鼻先で閉められてしまったドアをエメラルダはしばらく眺めていた。
 いくら待っても出てきてくれるはずなどない。
 やはり、あまりよく思われていないのだと、悲しい気持ちになって目を伏せた。

 ここ一ヶ月、エメラルダはとにかく出来ることを全力で頑張ってきた。
 使用人達にはできるだけ毎日話しかけて、ジェラルドが好きなものや、何をしたら喜ぶのか聞いて回った。
 後はこちらの世界の食材に慣れるために、畑に顔を出して収穫の手伝いをしたり、厨房に入ってコックに料理を教わった。始めは邪魔者扱いされたが、何度怒鳴っても、ひたむきに教えて欲しいと頼み込むエメラルダに、根負けしたコックのラスカは厨房を使わせてくれた。
 始めは簡単なものから作って、ジェラルドが好きだという煮込み料理を毎日指に怪我をしながら必死に作った。
 やがてラスカはちゃんと教えてくれるようになり、慣れてきたらお菓子作りまで教えてくれるようになった。

 出来た料理やお菓子は使用人達を集めてみんなで食べた。素直な感想が聞けるので、とても勉強になったのだ。

 その中でジェラルドの子供の頃の話を聞いたり、どんなものが好きか嫌いかなど、一生懸命情報も集めた。
 できれば本人に聞きたかったが、ハモンに託した手紙の返信は結局来ることはなかった。
 きっと忙しくしていたのだろう。それにあまりよく思っていない相手だから仕方がないのだとエメラルダは自分に言い聞かせたのだった。

 こうして自分なりに努力しながら過ごすうちに、使用人達もやっと心を開いてくれるようになった。あんなに冷たくされていたマリーとも今は仲良く話ができるようになった。
 エメラルダの作った料理を美味しそうに食べてくれる執事のハモンは、色々と世話を焼いてくれる優しいお爺ちゃんのような存在だ。

 一月経って、待ち望んでいたジェラルドの帰宅を知らせる連絡が入った。
 ずっと話を聞いて、ジェラルドのことを考えていたからか、エメラルダの気持ちはすっかりジェラルド一色になり、心はジェラルドに染まっていた。

 この日は朝から、食材を用意して時間のかかる料理から始めた。屋敷の中も少しでも過ごしやすいように、マリーに相談して倉庫から色々出してきて飾ったりしてみた。

 もしかして、何かあるかもしれないので、念入りに体を清めて髪をとかした。
 薄い紫のドレスも何日も前からマリーと考えながら選んだものだった。
 ジェラルドの目に少しでも良く映ってくれればいいと思っていた。

 しかし、現実はそう上手くはいかないものだと、エメラルダは閉められたドアを見つめていた。

 長期の仕事から帰って来たジェラルドは、明らかに疲れているようだった。
 料理の配置にこだわっていたら、出迎えに遅れてしまったが、窓からその姿を見ることが出来た。

 背は高くスラッとした体つきで、しかし細すぎずしっかりと男性を感じさせる。黒いサラサラとした髪に、顔はキリッと整っていて、高い鼻梁に薄い唇、オレンジに近い黄金色の瞳をしていた。
 一目見たら忘れられないような、素敵な男性に、ジェラルドとはこんな外見をしていたのかと、エメラルダの心臓はドキドキと鳴って騒いだ。
 女性との噂が絶えない、いつも連れている女性が違う。そんな、話を聞いていたが、確かに女性が放っておかないような人だと思った。
 領地を手に入れるための愛のない結婚だが、夫婦となったのだからこの人に少しでも好かれたいと思った。
 願わくば去っていく背中をただ眺めるだけの、そんな関係にはなりたくなかった。

 夕食は食べてくれた。それは嬉しかったが、翌日もその翌日もジェラルドの態度は変わらなかった。
 どこかよそよそしく、エメラルダの方をちっとも見てくれない。
 当たり障りのない話題を振っても、あーとかうーとかしか言ってくれなくて、ほとんど聞いていないように感じた。
 作った料理だけは食べてくれたが、何の感想も言ってくれない。

 仕事に出掛けるため馬車に乗ったジェラルドは、ついに一度も目を合わせることもなく、行ってしまった。

 小さくなっていく馬車を見ながら、ずっと立ち尽くしているエメラルダの背中をマリーが慰めるように撫でてくれた。

「……やっぱり、最初の私の態度が酷かったから、きっともう嫌われているのね……」

「エメラルダ様……」

「でも牛のテールスープは残さず食べてくれたわ。それだけでも嬉しいのに……、だめだわ、我が儘になってしまって……」

 エメラルダを支えるマリーの手が震えていた。

「あーのー野郎ーー!!」

 主人を野郎呼ばわりするマリーに驚いて聞き間違いかと思って、二度見したが、やはり、マリーは真っ赤になって怒っていた。

「エメラルダ様が必死になって仲良くしようとしているのにぃ!!我が主人ながらなんて男なのだと怒りが収まりません!!」

「全くです!奥様!気にしないでください!ジェラルド様は忙しすぎて何も見えていないだけです!さぁ!そんなに悲しい顔をしないで今日は町へ行かれるのでしょう、元気を出してください」

 マリーにもハモンにも手を握られて慰められてしまった。二人が真っ赤になって必死に慰めてくれる様子を見て、エメラルダは悲しい気持ちは飛んでいって、嬉しくなって噴き出して笑ってしまった。

「ありがとう。元気になったわ」

 いきなり仲良くなろうなどと言うのは、無理な話だったのだろう。
 少しずつ、まずはちゃんと話すところから始めようとエメラルダは心に決めたのだった。


 □□


「おい、一昨日から帰って来たと思ったらなんて顔をしているんだ」

 事業の出資者でもあり共同経営者でもある、スノウが呆れた顔をして声をかけてきた。

「朝から辛気くさい顔を皆に披露するな。仕事の士気が下がるだろう。……全く、何か悩みでもあるのか?」

「……………」

「新婚のくせに、すぐに長期の仕事を入れたりして……。相談もなく結婚を決めたのも驚きだったが、なんなんだ?奥方と上手くいっていないのか?」

 それはそうだろう。事務所に着いても座ったまま動かず、目の下に隈を作って、ブツブツ喋っている男がいたら、明らかにおかしいと思って声をかけるのが普通だろう。

「……妻が……、エメラルダが可愛くて仕方がないんだ」

 ジェラルドの言葉に、スノウも聞き耳をたてていた部下の連中も、皆ポカンとして辺りは静かになった。

「……いい度胸だな。深刻そうな顔して、惚気とは……。心配して損した」

「だっておかしいだろう!家を空ける前は、びっくりするほど我が儘で癇癪持ちで大暴れする女だったんだぞ!それが帰ってきたら、すごい可愛くなっているんだよ」

「前段階の状態で結婚を決めたのが信じられないが、……あれだろう、お前がいない間に心を入れ換えて努力したんじゃないのか?」

「昨日の夕食も手料理だったんだ。美味くて美味すぎて三回もおかわりしてしまった!嬉しそうな顔をするエメラルダが可愛くて可愛くて…、寝るときは、お休みなさいと訴えかけるような目で見てきて急いでドアを閉めたが、やはり抱き締めたいとドアを爪で引っ掻きながら我慢して……」

「アホか!なんだその悩みは!アホすぎて呆れる。なんで我慢する必要があるんだよ。夫婦なんだからさっさと抱いてしまえ!」

 スノウの至極当然でシンプルな解決策にジェラルドは目を見開いた。なぜか使用人は皆エメラルダの味方になっていて、こんな単純なことを誰も助言してくれなかったのだった。

「そうか……そうだな……」

「……ったく、お前みたいな適当に女と遊んでいた男がなにを振り回されているんだ。さっさとヤってしまえば気持ちも落ち着くだろう。さぁ!仕事仕事!今日は忙しいぞ!」

 スノウは話は終わりだ切り替えて大きな声を出した。
 ジェラルドも悶々とする気持ちを押し込んで、ようやく席を立ったのだった。




「おい、あそこにいるのはハモンか?ということはあれがお前の愛しの奥方か」

 仕事で馬車に乗って移動中、少し眠ろうと目を閉じていたが、スノウの言葉にジェラルドはパッと目を開いた。
 確か今日は町へ買い物に行くと言っていたのを思い出した。
 エメラルダが一生懸命話しかけてきたが、意識したくなくてジェラルドは適当に返事をしていたので、詳細はよく分からない。

「確かにあれはお前が青い顔して悩むのも無理はないな。かなり可愛いじゃないか。金髪にグリーンアイか、桃色の唇は柔らかそうで……」

「おい!スノウ!ひとの妻のことを変な目で見るな!」

 ジェラルドが睨み付けて怒りをあらわすと、スノウは声を上げて笑った。

「変な目ねぇ……、手を出さずにずっと放っておいたくせに」

 痛いところを付かれて、ジェラルドは唸るような声を出した。

「それに見ろよ。あれ、お前が奥方を構ってやらないのは勝手だが、呑気にしていると知らないぞ。周りは放っておかないみたいだぞ」

 通りを歩くエメラルダにはハモンとマリーが付いていたが、二人が店の品物に気を取られている隙に男がエメラルダに話しかけていた。

 エメラルダは困ったような顔をして、首を振っていたが、男は強引にエメラルダの手を掴んで腰にまで手を伸ばしてきた。

 それを見たジェラルドは、ほぼ反射的に体が動いて、馬車から飛び出して行ったのだった。



 □□



「こんなに美しい人が一人で買い物なんて、どうか一緒に行きませんか。この辺りは詳しいのです。いい店を紹介できますよ」

 町に買い物に出たエメラルダは、店が並ぶ通りでしつこい男に話しかけられて困っていた。ハモンとマリーは二人で商品の交渉や色選びに気をとられていて、こちらには気づいていない。
 これくらい自分でなんとかしなくてはと思うのだが、男は結婚しているからと言ってもそれがなんだと全然折れなかった。

「あの…、急ぎますので…」

「おや?使用人はまだ交渉中のようですよ」

「はっきり言います。迷惑です」

「それは嬉しい!意識してくれたのですね。さぁここから仲良くなりましょう」

 長期戦を覚悟して、気が遠くなりそうだったエメラルダが黙ったのを合図だと思ったのか、男は強引に腕を掴んできた。

 さすがに一線を越えてしまったと大声を上げようとしたエメラルダだったが、それは別の大きな声に遮られた。

「その手を離せ!俺の妻に何をするんだ!」

 声のした方を見ると、真っ赤な顔をして怒りに燃えた目をしたジェラルドがこちらに走ってきた。

「じ…ジェラルドさま」

 まさかこんなところで会えるとは思わなかったのと、ジェラルドの言葉が信じられなくてエメラルダは震えた。
 エメラルダと男の間に入ったジェラルドは、怒りの形相で今にも男を殴りつけそうたった。

 その怒気に慌てた男は、申し訳ないと言いながら、さっと踵を返して逃げるように走っていってしまった。

「……ったく、なんて失礼なやつなんだ。エメラルダ君ももっと……」

 お礼を言わなければと思った。でもエメラルダはこみ上げてくる喜びが押さえきれなくて、赤くなった口元を覆って隠すので精一杯だった。

「…どうした?エメラルダ?あの男になにかひどいことでも……」

 ジェラルドは、黙りこんでいるエメラルダに戸惑っているようだった。先程まで怒りの顔だったが、今度は困惑の顔に変わっている。

 こんなとこではだめだとエメラルダは思った。瑞希であったら、こんな風に助けてもらったら、小さくお礼を言って下を向いてしまっただろう。でもそれでは相手になにも伝わらないのだ。

「…ありがとうございます……。あの、私、嬉しくて……、ジェラルド様に……、妻と言ってもらえて……。ごめんなさい、すぐにお礼も言えずに…」

 エメラルダは恥ずかしくて仕方がなかったが、なんとか自分の気持ちを絞りだした。

「エメラルダ……」

 ジェラルドの顔がやはり恥ずかしくて見られなかったが、なんとか目を合わせると、ジェラルドは顔を赤くしてなんとも言えない顔をしていた。

「こんな状況ですけど、私、ジェラルド様に会えて嬉しいです」

 エメラルダもまた顔を熱くしながら、気持ちを伝えた。まだ足りないかと頭を動かして、口にしようとしたがそれは、ジェラルドの大きな腕の中にとらわれて叶わなかった。

「エメラルダ…、お願いだからもう黙ってくれ…。俺の心臓がもたない…」

 往来でジェラルドに抱き締められるという、思いもよらない事態に、エメラルダの張りつめていた思考は停止してしまった。

「すまない、君がこんなに思いを伝えてくれているのに…。俺はなにも……。いや、最初と明らかに違ってしまった君に、どう対応していいのかまだ慣れなくて…」

「それは……、仕方ないです。ひどい態度でしたから…。会えない間に自分がいかに愚かであったか思い知りました。今はまだ嫌っていらっしゃると思いますが…、少しでもその気持ちが晴れることを……」

「……嫌う?俺が?エメラルダを?」

「…はっ…はい。そうでは…ないのですか?」

 エメラルダの言葉にジェラルドは息を飲むような音を出して黙ってしまった。
 だってそうだろう。話もちゃんとできずに目も合わせてくれない。これを嫌い以外のなんだというのだとエメラルダは思った。

「……そんなわけがない!おっ…俺は、こんなにエメラルダを可愛いと思っているのに、可愛くて可愛くて仕方がないのに!そんなわけないだろう!!」

 強い口調で怒鳴られたので、てっきり怒られたのかと思って身構えてしまったが、よくよくジェラルドが発した言葉を噛みしめてみると、とんでもないことを言われたので、エメラルダは火がついたようにもっと赤くなった。

 ジェラルドもそこまで言うつもりではなかったらしく、口に出してから青くなって赤くなって口元を押さえて固まってしまった。


「はいはぁーい!お二人さん、お熱いねぇ」

 場違いに明るい声の男が近づいてきた。
 ブラウンの長い髪をした、人当たりの良さそうな顔をした背の高い男だった。

「どうもー、初めまして。ジェラルドと一緒に仕事をしているスノウ・テンペランスです。いつの間にこんなに、可愛い奥さんを貰ったのかと妬いてるところなのですが、我々次の商談が迫ってましてね。連れて行かせていただきたいのですがよろしいですかね」

「…あっ!はっはい!お引き留めして、申し訳ございません。どうぞ、お仕事頑張ってください」

 エメラルダはスノウの言葉を受けて慌ててジェラルドから離れた。
 ジェラルドの手を振り払うように離れてしまったので、ジェラルドはちょっと傷ついたみたいな顔をしていた。

「では!また改めて夕食にでも呼んでください!」

「ぬぁ!ちょっ…おい!」

 スノウに引きずられるようにして、ジェラルドは行ってしまった。
 何か言いたげだった顔が気になるが、まさかあんな台詞を言われるとは思っていなかったので、エメラルダはずっと夢を見ているみたいな不思議な気持ちだった。



 □□


「お疲れ様です」

「ああ、良い週末を」

 ジェラルドは事務所の鍵を閉めてから、すっかり遅くなってしまったと暗くなった空を眺めた。
 ずっと続けていた交渉が実って、大きな仕事の契約が取れた。これでまたかなりの利益を上げることができると、緊張から解放されて馬車に乗ってからやっと一息ついた。

 今日は色んなことがあった。特に町でエメラルダに会ってしまった時のことを思い出すと、今でも手に汗をかいてしまう。

 わずかだが、まともに過ごす時間が出来てから数日。最初の印象こそ真逆だが、今のエメラルダは大人しくて感情をあまり出さないように思えた。
 だが、町で会った時のエメラルダは、真っ赤になりながら、必死に自分の思いを伝えようとしているのが分かった。
 そのなんとも健気な姿に心を鷲掴みにされて、たまらなくなって抱き締めてしまった。

 そういう態度であったことは認めるが、嫌っていると誤解されていて、焦ったジェラルドは、大声で可愛い可愛いと連呼してしまった。
 なんとも恥ずかしすぎる自分を思い出して、ジェラルドは頭を振った。

 こんならしくない自分に、ジェラルドは戸惑っていた。女性といるときは気持ちは一歩引いていて、そこまで熱くなることなどない。
 むしろその余裕を楽しんでさえいたくせに、ここまで振り回されるようなことは初めてだった。

 ドサッと鞄が落ちる音がした。車内に散らばった書類を集めていると、未開封の封筒が見つかった。
 そういえば、出張先に届いていたハモンからの手紙を開封していなかったのだ。今更ながら一つ開封してみると、近況を伝えるハモンの手紙の中に、エメラルダが書いた手紙が入っていた。

 そこには、今までの非礼を詫びる内容と、屋敷で何をして過ごしているかなどが書かれていた。
 もう一通開封すると、そこにはやはり近況が書かれていて、料理を勉強中であること、ジェラルドが帰ってきたら好きな食事を食べてもらいたいので何が好きか教えて欲しいと書いてあった。
 これが例えば、出張先で読んでいたら誰かに書かされているのかと疑ったかもしれない。
 だが、今のエメラルダにちゃんと会った後では、彼女が考えながらペンを取っているところが想像がつく。
 手紙の内容はいつからか、庭に咲いた花を一緒に見たいや、ハモンに聞いた話に出てきた場所に一緒に行きたいなど、ジェラルドの帰りを待ちわびる内容になっていった。
 ジェラルドは、気がつくと全ての手紙を開封して、エメラルダの書いた手紙を読んでいた。

 ちらっと見たハモンからの手紙の最後に、エメラルダ様はお口には出しませんが毎日返事が届くのを楽しみにしているご様子です。お忙しいかもしれませんが、一通くらい返してくださいと書かれていた。

 それを見たジェラルドは唸って頭を抱えた。ハモンからの手紙は最初の一通だけ見て、後は積み上げたまま放置していたのだ。
 まさか、エメラルダからの手紙が同封されているとは思わなかった。きっと差出人が自分では手にとってくれないと思ったのかもしれない。

 その時、家に到着したことを知らせるように、馬車がガタンと揺れて止まった。
 項垂れて目を閉じていたジェラルドだったが、ぱっと顔を上げて一目散に飛び出したのだった。



 □□



「今日はお戻りが遅いみたいですから、軽いものにしましょうか」

 エメラルダはコックのラスカと相談して、白身魚を使ったアッサリしたスープを作った。
 後はサラダにパンを添えれば、遅い夕食でも胃に優しいだろうと考えた。

 思えば瑞希の頃はこんな風に楽しい気持ちで料理をしたことなどなかった。
 やらされているとは言わないが、そうしなければいけないと思って必死に作っていた。
 最後の方、前夫は家に帰ってこなくなっていたので、冷めた料理をゴミ箱に捨てるという行為が苦痛で、もう自分の分すら作ることがなかった。
 ここでは、ジェラルドが遅くなっても、使用人達と話しながら食べることができる。
 エメラルダにとって、家族のような繋がりを感じることができる幸せな時間だった。

「あら、馬車の音が…旦那様帰られたみたいですよ」

 マリーが声をかけてくれて、エメラルダは慌てて身なりを整えた。
 小走りで玄関に行くとちょうどジェラルドがこちらに向かって走ってきた。

 珍しいと思った。いつも帰宅するときは物音ひとつしないくらい静かに歩く人なのに、ドタドタと靴音を響かせて走っているのだ。

「エメラルダは!?」

「あっはい…ここです」

 屋敷に入るなり自分のことを探してくれるのは嬉しかったが、必死の形相に逆に何かあったのかと心配になった。

「ジェラルド様…?何かあった……うわっ!!」

 ジェラルドはエメラルダにいきなり飛び付いてきて抱き締めた後、そのままお姫様抱っこで持ち上げられてしまった。

「え!?あ…あの?」

「部屋に行くから誰も近づくな!朝は起こさなくていい」

 ハモンにそう叫ぶように言いつけて、ジェラルドはずんずんと廊下を歩きだしてしまった。

「ジェラルド様、お部屋に行かれるのですか?お食事の用意が…」

「食事は後だ。先にエメラルダを食べたい」

 エメラルダは驚きで目をしばたたかせた。まさかの台詞にまったく理解が及ばなくて、声が出てこない。

「もう我慢できない。エメラルダが欲しい」

 またもや、信じられない台詞だった。今度は頭の中に入ってきて、それを理解するとエメラルダの心臓はドクドクと暴れるように揺れだした。

「う…嬉しいですけど…、準備が…。体も綺麗にしていないですし…」

「必要ない。どこもかしこも、俺が舐めて綺麗にするから」

 バァーンと大きな音を立てて寝室の扉を開いたジェラルドは、そのままエメラルダをベッドに寝かせた。

 信じられない台詞の連続にエメラルダの頭はパンクしそうだった。何がどうなってこうなったのか、町で可愛いと言ってもらえてからの展開が早すぎて付いていけない。

 いつの間にか上の服を脱ぎ捨てたジェラルドがエメラルダに覆い被さってきた。
 均整の取れて引き締まった男らしい体に目がいってしまい、エメラルダはごくりと唾を飲み込んだ。

「こっちを見て、エメラルダ。俺のことは様はつけなくていい。ジェラルドと呼んでくれ」

「はい…ジェラルド…」

「手紙を返せなくて悪かった。し…仕事が思ったより忙しくてね。でもエメラルダの気持ちは十分に伝わったから…。ちょっと見るのが遅れてしまったが…」

 手紙の返事が来なかったのは確かに悲しかったが、それは自分の態度もあったからだと思って諦めていた。だが、ジェラルドがちゃんと見ていてくれたことが嬉しかった。

「いいのです。こうして、ジェラルドと一緒にいられるのですから、ずっと、触れたかったから…、今、とても嬉しいです」

「エメラルダ…可愛い…。もっと君を知りたい……」

 優しくエメラルダの頬を撫でていたジェラルドは、ゆっくり唇を重ねてきた。
 そのしっとりと濡れたような柔らかい感触に、エメラルダは誘われるように目を閉じた。




「ぁあん……はぁ……んっ……あぁ、じぇ…ジェラルド」

 宣言通り、ドレスも下着も脱がされて、エメラルダの体は頭から足の先まで、ジェラルドに全て舐められてしまった。
 身体中に広がったくすぐったくて甘い感覚は、絶えずエメラルダに快感をもたらしていた。

「エメラルダ、こんなに濡らして…、すごいな…、ビショビショじゃないか」

「だっ…て、ジェラルドがぁ…」

「俺のせい?それは嬉しいな」

 ジェラルドは先程から、エメラルダの花唇に指を這わせて、ぴちゃぴちゃと音を立てて楽しそうにその様子を眺めていた。

「ほら、エメラルダの中から蜜が溢れてきたよ。もうとろとろだな。そろそろいいかな…」

 ここまでの前戯ですでにエメラルダは、掠れるほど声を上げて、強ばっていた体の力はすっかり抜けてしまった。

「本当はもっと奥の方までトロかせて愛したいんだけど…、さすがに我慢の限界だ…」

 すでにぼんやりとしたエメラルダの前でジェラルドは下着をくつろがせて、すっかり固くなった自らのものを取り出した。
 反り返るほど大きくなった怒張を、エメラルダの蜜口にあてがった。

「あっ……」

 蕩けた頭でも、その硬さと熱を感じてエメラルダは思わず声を漏らした。

「エメラルダ、いくよ。俺に掴まって」

 エメラルダがジェラルドの腕に掴まったのを合図に、ジェラルドの肉棒は愛路を押し広げながら、ゆっくりと侵入してきた。同時に強い痛みがはしったが、とろけていた中はジェラルドを順調に受け入れていった。

「いっ…ああっ…いたっ……いい……」

 エメラルダはジェラルドの腕に爪を立てて、沸き上がってくる痛みに耐えた。

「くっ…エメラルダ…、全部…入った」

 じんじんと脈打つ痛みを感じながら、エメラルダはジェラルドにしがみついた。

「ジェラルドさま………」

 自然と二人は見つめ合い、舌を絡ませてキスをした。全て飲み込まれるようなキスに夢中になっていると、だんだんと痛みにも慣れてきて、エメラルダの口からは甘い声が出てきた。

「…エメラルダ、そろそろ動くよ」

 そう言ってジェラルドは、エメラルダの反応を見ながら、ゆっくりと動き出した。

「んっ……んぁ……はぁ……んっっ」

「っ…エメラルダ…、すごい…なんてキツさだ。ナカが…うねっていて…、絡み付いてくる」

「あっ……ジェラルド…」

 しばらく様子を見ていたが、エメラルダが痛がる様子を見せなかったので、ジェラルドはだんだんと激しく腰を動かし始めた。

「あっあっあっ…ジェラルドぉ…はげし……」

「エメラルダ…、すまない…良すぎて…あぁ…止まらない…」

 まだ残る痛みと共に快感の波がエメラルダに打ち寄せてきた。

「あぁジェラルド…嬉しい…です。私の中がジェラルドでいっぱい…」

「っ…エメラルダ…可愛い…」

 ナカにいるジェラルドがぐんと大きくなった気がして、エメラルダは甘い声をあげた。

 たまらないという表情になったジェラルドは、いっそう激しく抜き差しを始めた。

「はぁ…あ…ぁぁ…ジ…ェラルド……あぁ…」

「ああ、エメラルダ…中に…出すぞ、……くっっ…」

 ひときわ大きく打ち付けた後、体の最奥に熱い飛沫を感じて、ジェラルドが達したのが分かった。
 体の中に広がるぬくもりを感じて、エメラルダは愛しい気持ちで胸がいっぱいになった。
 二人で荒い息をしながら、微笑んでキスをした。その夜は繋がったまま、離れることはなかった。



 □□


「なんだ今日は顔を出すだけか?まぁ仕事は一段落して落ち着いたからいいが……」

「ああ、すまない。この書類だけ確認しておいてくれ」

 そう言って明らかに惚気た顔をしたジェラルドはスノウに書類を渡してきた。

「悪いが下にエメラルダを待たせているんだ。ハンストンの別荘までいく予定でね」

 惚気顔に聞いてもいないことまでペラペラと喋り出すジェラルドにスノウは呆れた。

 突然結婚すると言い出してスノウを驚かせた後、すぐに一月の視察に行ってしまったと思ったら、今度は帰ってきたら、うだうだ悩みながら落ち込んでいて、励ましたと思ったら今はこれだ。
 つくづく忙しい男だ。

 もともと女性関係はドライで、結婚願望なんてスノウよりなかったはずだった。
 それが、あのエメラルダという女性との出会いでジェラルドはすっかり変わってしまった。

 確かに、奥方のエメラルダは綺麗で可愛らしい人だと思った。
 あの歳までよくまぁ誰にも手をつけられずにいたと思ったら、どうやら家が借金苦で男からは嫌厭されていたらしい。
 そんな相手を何か事情があってか選んだらしいが、最初はずいぶんと冷たく放置していたように思えた。
 それがスノウがしたアドバイスに効果があったのか知らないが、すっかりメロメロで近くに寄るだけで、むせそうになるくらい熱さを感じる。

「そうだ、結婚式には来てくれよ」

「やらないんじゃなかったのか?」

「俺の気が変わったんだ。どうしても、可愛い妻を披露したくてね」

「…………」

 すっかり毒気が抜けて、逆に面倒なやつになってしまい、スノウはもう呆れるしかなかった。

「しかし、ドレスが着れなくなったら困るな…。だって毎晩……」

「待て!お願いだから、それ以上は言うな!お前とまともに仕事ができなくなる!」

「なんだ、固いやつだなぁ。俺より軽い男だったくせに」

 本当に面倒な男になったジェラルドは、じゃよろしくと手を振りながら行ってしまった。

 友人が幸せであるのは良いことなのだが、なんとも言えない複雑な気持ちでスノウは書類を机に投げた。

「あーあ、俺も結婚しようかな……」

 スノウが呟いた台詞が事務所の中に空しく響いたのだった。



 □□


「待って、まだ目を開けないで」

 3、2、1と言ってジェラルドは手を離した。すぐに大きく目を開いたエメラルダは、飛び込んできた景色に感嘆のため息をもらした。

 澄んだ水色の水面は日差しを受けてキラキラと宝石のように輝いている。小高い丘の上に立っているエメラルダの前には大きな湖が広がっていた。

「……綺麗、まるで夢の中にいるみたい」

 エメラルダがそう言うと、ジェラルドは後ろから抱え込むように抱き締めてきた。

 ジェラルドが子供の頃によく両親と訪れたという湖だった。
 ここから少し先に別荘があり、この湖の近くを通るときに一休みしたそうだ。
 エメラルダはハモンからこの話を聞いてぜひジェラルドと訪れて見たかったのだった。

「両親は不仲だったけど、別荘に行くときは、二人ともよく会話をしていた。そして、この湖を見ながら一休みしているときは、二人とも微笑んでいて……、俺にとってここは、唯一家族の思い出を感じられる場所だ。だから、どうしても、手に入れたかった」

 湖は大きくいくつかの領地に分かれていたが、今二人が立っているこの場所は、オルコット家が所有していた土地だった。
 ジェラルドはこの土地を手にいれるために、話を持ちかけたのだった。

「土地だけ手にいれるつもりが、思わぬ宝物も一緒に手にいれることができた。オルコット子爵には、感謝しきれないな…」

 ジェラルドはエメラルダの髪を手でとかしながら、頭やおでこにキスをした。

「俺は両親のような人生を歩みたくないから、結婚はしたくなかった。でもエメラルダと出会って、君と人生を一緒に歩いていきたいと、初めてずっと一緒にいたいと思えた……」

「ジェラルド……」

「ここに、別荘を建てるんだ。それで、君と俺たちの子供と一緒にこの景色を眺めたい。両親のように不仲ではなく、仲の良い夫婦として…、ずっと…」

 ジェラルドの言葉がエメラルダの体にじんわりと染みていった。それは、心から嬉しい気持ちで感動の波となって胸いっぱいに溢れてきた。

「……エメラルダ?」

 ジェラルドがエメラルダの顔を覗きこむと、新緑の瞳からは、大粒の涙がぽろぽろとこぼれていた。

「ジェラルド…、人は嬉しくても…涙がでるんですね」

 そう言って微笑んだエメラルダを、ジェラルドは優しく包み込むように抱き締めた。

 そのとき魚が跳ねて、ポチャンという音が湖に響いた。

 これからの二人の幸せを知らせる合図のように思えて、ジェラルドの大きな胸の中で幸せの涙を流しながら、エメラルダはそっと目を閉じたのだった。





 □完□


















 おまけ□□


「信じられない!我が主人ながら、もう一度言っていいですか!あーのー野郎!」

「ま…マリー、落ち着いて…、ね、大丈夫よ。すぐ出てくるわ」

 鬼の形相になったマリーの背中をエメラルダがなだめるように撫でた。

 なぜ、マリーが怒っているかというと、今日は仕えているレインハウス家の主人の結婚式当日なのである。
 が、当の主人は部屋に閉じ籠ったまま出てこないのだ。

 そもそも結婚式は、主人のジェラルドがどうしてもやると言い出して、総出で準備に追われたのだ。
 大勢の人を集めたその当日、ジェラルドがへそを曲げた理由は簡単だ。
 それはマリーの真横に立っている花嫁、エメラルダが原因だ。
 当日までエメラルダのドレスは完全に秘密にしていた。当人も男は分からないから好きなものを着ればいいと言っていたので、ドレスは最近流行りのデザイナーを呼んで豪華なものを作らせた。
 普段エメラルダはまだ若いくせに、どうも趣味がオバサンくさくて、地味なドレスばかりを好んで着ている。
 ここぞとばかりにマリーは、派手でセクシーなドレスを勧めた、というかごり押しした。
 出来上がったドレスは、マリーの見立てが完璧に合った、エメラルダの魅力を引き立てる最高の出来だった。
 ベースは高級感あるシルクを贅沢に使ったもので、腰の辺りからふわりと広がるようになっている。
 上半身は胸の谷間を強調するように、四角く大きく開いて金の刺繍で縁取ってある。
 エメラルダの美しい金色の髪と合うようにデザインされていて、全て計算されていた。
 幼いような可愛らしさが残るエメラルダだったが、このドレスを着ると可愛さにセクシーさが加わって、同じ女でもドキドキしてしまうくらいの魅力的な姿に仕上がった。

 そして式当日、先に白いタキシードに身を包んでいたジェラルドがどう喜んでくれるか二人で話しながら控え室へ行き、さぁどうだと披露したのだ。

 ハモンと話し込んでいたジェラルドが呼ばれて振り返ると、瞳を大きく開いたまま固まってしまった。

 驚きすぎだろうとマリーが心の中で突っ込んでいると、ジェラルドが、いやいやいやこれはだめだと言い出した。
 最高の素材と最高のデザイナーが作ったものの、何がだめなのかとマリーはムッとした。

 ジェラルドが支離滅裂に言っていたことをまとめると、ドレスがエメラルダに似合いすぎて、可愛すぎるから、こんな姿みんなに見せたくないという事らしいが、それで花嫁を置いて、いやだいやだと言いながら控え室のドアを閉じて出てこなくなってしまった。

「……ジェラルド、そろそろ出てきてください」

「嫌だ……、今出ていったら、魅力的過ぎるエメラルダをみんなに見られてしまう。確かに自慢したかったけど、これでは、違う目で見てくるやつも絶対にいる!」

 完全にへそを曲げてやっかいな男になった主人に呆れて、どう引っ張り出そうかマリーが考えていたら、エメラルダはドアの前でクスリと笑った。

「どうか出てきてください。私と一緒に二人で…、いえ、三人で誓いませんか?」

 エメラルダの言葉に暫しの沈黙があったが、ジェラルドは三人?と小さな声で聞き返してきた。

「ええ、月のものが、しばらく来ていないのです。まだ詳しく診てもらっていませんが、多分……」

 固く閉ざされていたドアはあっさりと、軽い音を立てて開いた。

「……なんてことだ!すまない!エメラルダ!俺は子供じみた嫉妬で大騒ぎして……」

 まったくだと呆れた目で見るマリーの前で、エメラルダは項垂れたジェラルドを抱き締めた。そして二人でエメラルダのお腹に手を当てながら、嬉しそうに笑ってすっかり二人の世界に入ってしまった。

 奥のドアの向こうから、会場の係りの者が、まだかまだかという顔をしてこっちを見ていたので、マリーは慌ててそちらへ向かった。

 もうしばらく二人に……、いや、三人にしてあげようと思い、それを上手い具合に伝える方法を考えながら、足を早めたのだった。



 □おまけ終わり□

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