雪月花の物語 ~聖域の悪魔~

冴條玲

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序章 皇太子争奪

P-3. ヴァン・ガーディナ

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「自分が誰よりも不幸という顔だな、ゼルダ」

 ヴァン・ガーディナに呼び止められ、無視して行き過ぎようとしたゼルダの腕を、兄皇子がつかんだ。

「――」

 真実は、無力だ。
 父皇帝の言ったことは正しい。皆がゼルシアを信じている。ゼルダが懸命に訴えても、ゼルシアの讒言ざんげんにより誰も聞かない。
 真紅の悲哀が揺れる瞳で、ゼルダは物も言わず、ヴァン・ガーディナを見上げた。
 ゼルシアの面影が重なる。
 父皇帝は容赦なかった。ゼルシアの皇子ヴァン・ガーディナが皇太子候補とされ、ゼルダは外されたのだ。ゼルダがヴァン・ガーディナの配下に置かれたとあらば、人々はもはや疑うまい。ザルマーク皇太子を殺した方術師を、裏でそそのかしたのが弟皇子のゼルダだったと囁かれる噂を。

「ゼルダ、感情的になるのは勝手だが、何がおまえのためになるのか――

 少し、冷静になって考えた方がいいな」
 ヴァン・ガーディナは唇の端だけでにやりとすると、「後で、私の部屋へ」と指示して立ち去りかけた。

「皇妃陛下を敵に回しておきながら、まだ、失えるものがあるだけ幸運だと思うけどな」
 

  **――*――**


 人は、かくも愚かしいのか。
 私室に戻ると、ヴァン・ガーディナはワインを傾けながら、薄く笑んだ。
 ゼルダと母皇妃の動揺ぶりが、哀しいほど愚かしかった。
 愛されているのに、愛されていないと思い込んでいる、弟皇子。
 愛されていないのに、その手管で愛させていると思い込んでいる、母皇妃。
 考えましたねと、父皇帝に言ってやりたい。
 よくも、あの母の権力欲を逆手に取ってくれたものだ。

 ――この二年は時間稼ぎでしょうね、父上――

 ゼルダがようやく十五歳になった、今この時期に、与えられる二年間は大きい。ゼルシアの邪魔が入らない二年間だ。
 ヴァン・ガーディナの指揮下となったゼルダの悪評は、ヴァン・ガーディナをも貶める。
 ゼルシアがこれまでのようにゼルダを陥れたり、その暗殺を画策したりしようものなら、ヴァン・ガーディナにこそ、弟皇子一人御せない、守れない、無能な皇子との評価が容赦なく下されるのだ。

 ――どうなさいます? 母上――

 まつりごとを知らないゼルシアに、ハーケンベルクの狙いは読み切れまい。
 与えられた二年の間に、ゼルダが冷静に、その才覚を駆使して立ち回れば、皇妃に対抗できる権力基盤をも、築けるだろう。
 ゼルダにその道を選べるかどうかは別問題だが、ハーケンベルクは皇太子を定める以前の問題として、今はまだ、ゼルダとゼルシアを争わせたくないのだ。現状で両者が争えば、まず間違いなく、まだ若いゼルダが破滅する。

「皇太子か……」

 ヴァン・ガーディナは静かに、グラスの中のワインを揺らした。
 あるいは、自らつかみ取るべき地位だったなら、奮い立つ思いもあったのだろうか。
 ゼルダには、わかるまい。
 彼にゼルダの痛みや怒りがわからないように、ゼルダにも、彼の虚しさはわかるまい。
 彼には大切なものがない。だから、それを失う痛みも、怒りも忘れてしまった。
 誰にも、意思や意向を尊重された覚えがなかった。愛された覚えがなかった。
 母皇妃ゼルシアがゼルダに何をしたかは知っている。
 もう少し、ゼルダが苦しんだなら、教えてやろうかとも思う。
 おまえはそうして私を憎悪するけれど、私自身がおまえに何かしたのかと――
 アーシャ皇妃が暗殺された時、まだ、七歳だった。
 彼が望んだゆえに、母妃がそこまでしてくれたのなら、それはそれで、愛情と呼べたのかもしれない。
 しかし、母妃はただの一度も、皇帝になりたいかなどと、彼に問わなかった。

「――下らない」

 ヴァン・ガーディナは自嘲するように呟くと、ワインをあおった。
 分け隔てこそなかった。
 それでも、アーシャ皇妃が亡くなった後、父皇帝に目をかけられることもまた、なくなっていた。
 ハーケンベルクは知っているのだ。ゼルシアこそが、最愛のアーシャ皇妃を暗殺したことを。
 その父皇帝が母皇妃を除かないのは、カムラに仇なす存在ものが、彼女だけではないからだ。他のカムラに仇なす勢力を、私利私欲のためとはいえ、よく抑えるゼルシアを除けば、今のカムラは揺らぐ。
 母もまた、母に仇なすものがゼルダだけではないから、ゼルダは後回しにして、除かずにきたのだ。

「――皇子?」

 侍従の声に、我に返ったように、ヴァン・ガーディナは皮肉な笑みを湛えて、答えた。

「誰も、私などに目をかけないものを、形ばかり、皇太子候補らしい――笑えるな。何をした報いなのだか」

 少し驚いた様子を見せた侍従が、何かまともな答えを返すとは、ヴァン・ガーディナは正直、期待していなかった。
 ところが、僭越せんえつながらと、侍従は何か言いたげにした。

「何だ? 構わない、言いたいことがあるなら言ってみろ」

 ヴァン・ガーディナは別段、余人に意見されるのを厭わない。空虚ゆえの、腐るほどの余裕があるため、煩わしさを感じないのだ。

「――殿下が形ばかりの皇太子候補とは、私めには、思われません。陛下は、殿下が母君にどう対されるか――たもとを分かたれるか、追従されるか、あるいは、手綱を取られるか――殿下ご自身が選ばれるのを、お待ちなのではありませんか」
「何――?」

 まさかと否定しかけ、しかし、ヴァン・ガーディナは思い出していた。父皇帝が時折、何かを待つように彼を見ていたことを。

「殿下、何をした報いかと、仰せられました。しかし、何もしない報いというものも、ありましょう」

 母の最初の凶行は、止められなかった。まだ、幼かったのだ。
 しかし、今なお傍観しているのは、誰か。

「――なるほど。それは、父上も失望されたことだな。私も愚か者の一人か」

 ヴァン・ガーディナはしばらく、あまり見せない真剣な眼差しで、空になったグラス越しに窓の外を見ていた。
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