雪月花の物語 ~聖域の悪魔~

冴條玲

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第一章 ライゼール領

1-1c. 冥影円環 【冥魔の瞳】

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「や、め……!」

 ゼルダの首筋にキスを落として、遠慮なく、ヴァン・ガーディナが笑った。

「おまえ、必死になっても私に抗えないんだな」
「兄上、やめ……! 嫌だ、――あぁあっ!」

 ゼルダに抗えるか抗えないか、ヴァン・ガーディナが試すように丁寧に施術するのを、ゼルダはついに阻止できなかった。

「……っ!」
「ゼルダ」

 ゼルダは全身を小刻みに震わせたまま、ヴァン・ガーディナを睨みつけた。

「返事もしないとか、意地を張るな。調教するぞ? 冥魔の瞳に抗えないなら同じこと、まずは努力しろ。私を納得させたら、解呪してやるよ、優しい兄上でよかったな」
「どこが!」

 優しげな笑顔のまま、ヴァン・ガーディナが左眼を光らせた。
 ゼルダが絶叫して地に手を突く。

「たいした威力だな。本気になったら殺せるか……」
「や……、め、……あぐっ!」

 死霊術の威力を確かめるためだけに、支配印に魔力を流したヴァン・ガーディナが、ゼルダが激痛にあえぐ様子に満足して、優麗に微笑む。

「ゼルダ、解呪するつもりはない。無闇やたらに、私を怒らせないことだな。私の期待以上の効果が出ている。その気がなくとも、おまえに怒りの感情を向ければ、殺してしまうかもしれない」

 ゼルダはぞっとして、ヴァン・ガーディナを見た。

「兄上、はずみで私を殺すかもしれないと承知で、施術したままになさるのですか!」
「私がアーシャ様や父上のように、無条件におまえを愛すると期待するな」
「そんな期待は……!」
「していたから、私がおまえをあやめることをいとわないと知って傷つくんだろう?」

 ゼルダは絶句して、こぶしをきゅっと握り締めた。

「まあ、冥影円環オプティア・サークルの領域内に、私がいたことの意味には気付いておけよ」
「え……?」

 冥影円環は、ヴァン・ガーディナを感知しなかった。
 それはつまり、ゼルシアの皇子であるヴァン・ガーディナが、ゼルダに対して何の悪意も抱いていない――?
 指摘されて、ゼルダは驚いて兄皇子の顔を見直してしまった。

 わからない。

 兄皇子が何を考えているのか、理解できない。なぜ、ゼルダに対して憎しみも親愛の情も抱かないのだ。他人ではない、兄弟なのに。
 刺客から救ってくれたと思えば、刹那の感情でゼルダを殺しかねない支配印を施して、容赦のない苦痛を与えたあげく、解呪しない。
 笑顔にも、何やら違いがあるのはわかっても、真意を読み解くには難度が高かった。
 ヴァン・ガーディナの笑顔には、種類と仕込みが多すぎるのだ。

 他の表情なら――?

 ゼルダを刺客から庇ったヴァン・ガーディナは笑っていなかった。兄皇子には珍しく、あの時は、笑顔の仮面をいだ素顔だった。
 あとは、ゼルダが牙をいた時、憎悪をあらわにして睨みつけた時――
 兄皇子はいい顔をせず、冷酷さを隠しもしなかった。

「冥影円環は破滅円環とも呼ばれ、カムラの歴代皇帝を何人も死に至らしめてきた。憎しみだけで、同じ人間が抱える愛情や敬慕の念は、感知しないからな。冥影円環を使いこなすのは至難のわざだ、歴代皇帝の二の舞には、なるなよ」
「――はい」
「ふうん? 素直にすると可愛いんだな? 普段からそういう態度なら、支配印など飾りだけどな」
「は?」
「そういう態度を取られると、苦痛を与える気にならないだろう?」
「――……」

 兄皇子はいったい、どういう答えを期待しているのか。ゼルダはただ、困惑するしかなかった。

「ゼルダ、冥魔の瞳でおまえが私を支配しようとしてみろ。はね退け方の手本を見せてやる」
「えっ……」

 ゼルダにも、冥魔の瞳は使える。死霊術師の左目を、他者の精神に干渉し、意のままにしようとする時、冥魔の瞳と呼ぶのだ。

「ゼルダ? なんだ、おまえ、私に敵わないと思っているのか」
「思って、いません……!」

 兄皇子がにやりと、にやにやと笑う。それと確信して、ゼルダの悪あがきを愉しんでいる。

「ふうん? じゃあ、冥魔の瞳で私に仕掛けられないのはどういうことか、説明してごらん? おまえ、気持ちで私に降伏しているんだ」
「~!!」

 ヴァン・ガーディナの手が、ゼルダの喉元に伸びて、その手の冷たさに、ゼルダはぞくりと身を震わせた。
 兄皇子が、望み通りに結われたゼルダの髪を指に絡め、冷たく静かに、ゼルダの耳元に囁いた。

「いいか、私ならぬ者に殺されるな。私だけを受け容れろ。おまえはもう、私のものだよ? ゼルダ――」

 その触れ方の優しさが、言い様の残酷とかけ離れていて、ゼルダを深刻に困惑させたのだった。
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