上 下
25 / 139
第一章 舞い降りた天使

第24話 悪役令嬢は婚約破棄をたくらむ

しおりを挟む
「ねぇ、デゼル」

 お昼を過ぎた頃、何も食べられないまま、僕が神殿に戻ったら、デゼルが嬉しそうに迎えてくれて、お昼を一緒に食べようって誘ってくれた。
 僕、どうしたんだろう。
 朝から何にも食べてないから、お腹が空いてないわけないのに、どうしてなのか、食事が喉を通らないんだ。

「あの、ね? デゼルって、公子様と婚約してるの知ってる?」

 デゼルがきょとんと僕を見た。
 やっぱり、知らないんじゃないのかな。

「公子様が婚約したの? 誰と?」
「デゼルって、公子様に会ったことはあるんだよね?」
「うん。素敵な方よ」
「そう――」

 会ったことはあるんだ。
 素敵な方なんだ。

 なんだろう、胃がしくしく痛くなってきた。

「あのね、デゼル。公子様と婚約してるのは、デゼルなんだよ」
「え? ……え?」

 僕が真っ直ぐにデゼルを見詰めてそう言ったら、不思議そうにまたたきしたデゼルが、ようやく、誰が公子様と婚約しているのかわかったみたいで、見る間に血の気を引かせて椅子を蹴立てた。

「違うよ、そんなの、私、知らないもの!」

 デゼルが全然、嬉しそうな様子には見えなくて、僕、とってもほっとした。

「サイファ様、手を、つないでもいい?」
「うん」

 つないだデゼルの手が、恐怖に冷たくなっていて。

「デゼル、怖かったら抱っこしようか?」
「うん」

 抱き寄せたら、デゼル、肩を震わせて泣き出してしまったんだ。
 そんなに怖かったんだ。
 デゼルって、すごく不思議で、すごく可愛い。
 素敵な公子様との婚約の、何が怖いのかわからないけど、僕にだけ懐いてくれるのは、すごく嬉しかった。

「サイファ様、ありがとう」
「今日はこの後、予定通り、クライスさんのところに行くの?」
「――うん、時間がないの。でも、少し、待って」

 デゼルが気持ちを落ち着かせようとするように、僕の胸に顔を埋めてきた。
 生まれて初めての衝撃に、僕、びっくりしてしまって。
 大好きな女の子に頼られるのって、電流が走り抜けるみたいな衝撃があるんだ。
 僕が自分で抱き寄せるのとは全然違う。
 とてつもなく甘くて、快くて、抱き締めた腕が動かない。
 デゼルを離したくなくて、いつまでも、こうしていたくなって――

「公子様のことで、少し、マリベル様に話してから行く。サイファ様に何かあってからじゃ、遅いもの」

 ――僕に?
 デゼル、僕に何があると思って、心配してるんだろう。

 デゼルがあんまり心配そうにするから、白い額にそっとキスしたら、デゼルの頬が綺麗な桜色になって、可愛かった。

 僕が机にラクガキされた程度のことで、泣きじゃくってたデゼルだから。
 多分、公子様のことも気にし過ぎなんじゃないのかな。
 ねぇ、デゼル。
 デゼルが公子様より、僕のことを大好きでいてくれるなら、それだけで僕なら平気だよ?
 だから、心配しなくていいんだよって、言ってあげなくちゃと思ったのに。
 デゼルが泣くことなんて、全然、ないんだから。
 涙を拭いて顔を上げたデゼルの表情が、眉を可愛らしく上げた頑張るモードで。
 まだ少し涙の気配を残した、透明感のある綺麗な蒼の瞳に、デゼルがなけなしの勇気を揺らしているのを見たら、今さら、言えなくなっちゃった。
 引っ込み思案で臆病なデゼルが、勇気を出して頑張ろうとしてるのに、水を差したくなかったんだ。
 マリベル様にお話しするだけなら、危ないことじゃないし、話はできるようになった方がいいよね。


  **――*――**


「サイファ様――!」

 夏休みの宿題を進めながら、しばらく待っていたら、デゼルが小鳥みたいな軽やかな足取りで、僕の胸に飛び込んできた。

「上手に断れました!」
「ぷっ」

 やだな、デゼル。
 ものすごく、可愛らしいドヤ顔。
 澄んだ瞳をきらきらさせて僕を見て、冷たかった肌も、すっかり艶々。

「よくできました」

 褒めてあげたら、わぁいって、嬉しそうにデゼルが跳ねた。
 波打つ銀の髪が夏の陽射しを弾きながら散って、キラキラ、とっても眩しかった。
しおりを挟む

処理中です...