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第四章 叶わない願いはないと信じてる

第100話 天使の揺り籠【後編】

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「先日、僕がケイナ様に操られてデゼルを殺しかけてしまって――それが、エトランジュの目の前でのことだったので、万が一、エトランジュが刃物に怯えるとか、悪夢にうなされるとか、そういうことがあったら、そのせいかもしれません。今のところ、トラウマはなさそうなんですが」

 ガゼル様が眉をひそめた。

「それは随分、タチが悪いね。光の聖女とも思えないやり方だけど」
「エリス様が光の聖女を依り代に、絡んできています」

 ガゼル様が息を呑んで僕を見た。
 秀麗な額に手を当てて、吐き捨てた。

「忌々しい、悪魔め! ――よくないな、打つ手はあるの?」

 心配して下さるガゼル様に、デゼルが緊張した面持ちでうなずいた。

「『昇華』の魔法で京奈を解放できます。ただ、詠唱が長くて……」
「どれくらい?」

 言霊を紡がないように気をつけながら、デゼルが詠唱をなぞった。
 神の武具を使う時もそうなんだけど、棒読みでは発動しない。
 詠唱に魔力を乗せて、言霊を紡いで初めて魔法になるんだ。

「長いね。光の聖女を捕縛してからじゃないと、戦闘中の解放は難しいか……」

 どう急いでも、三十秒はかかる上に、『昇華』の宣言をする時にはケイナ様に触れていないとならない。
 戦闘中の三十秒って、絶望的に長いんだ。
 翡翠様みたいな、聞く耳を持った光の使徒が何人かいてくれて、話し合いの余地があるといいんだけど。

「気をつけて。私に何か手伝えることがあれば、いつでも、遠慮なく頼って欲しい。エトランジュのことも、頼ってもらえて嬉しいよ」

 そう言いながら、ガゼル様がエトランジュを連れて行くために抱き上げようとしたけど、ガゼル公子が先に、上手にだっこしてくれてた。
 僕もデゼルも、二人があんまり可愛くて笑っちゃった。
 だって、まだ三歳と一歳なのに、なんだか、お姫様だっこなんだもん。

「とっても、お似合いだよね」

 ガゼル様がとろけるような麗しい笑顔で、また仰った。
 こんなに嬉しそうな様子のガゼル様って、僕、初めて見たかもしれない。

「ええ、とっても。エリス様にもう一度、お帰り願うまでの間、よろしくお願いします」

 ただの直感だけど、三度目はない気がするんだ。
 エリス様が依り代にできるのは、闇の聖女と光の聖女だけなんじゃないかって。


  **――*――**


 ガゼル様にエトランジュを預かってもらったのは昼間だけで、毎日、夜には返してもらってたんだけど。
 ガゼル公子となかよく寝てるから、今夜はこちらでって、そのまま公邸に泊まることも時々あった。
 そんな日には、僕は今さら、僕が帰らなかった日の母さんの気持ちがわかった気がして、胸が痛かったんだ。
 母さんはエトランジュが生まれてすぐ、入れ違うように亡くなってしまった。
 母さんは結局、ずっと、父さんを待って、待って。
 僕は詳しいことを聞けなかったんだけど、母さんから父さんが亡くなってたって手紙が届いて、びっくりして会いに行ったら、母さんももう、冷たくなってしまっていたんだ。
 エトランジュの産着は、母さんが縫ってくれたもの。
 近所の人が、病弱なミスティが五十まで生きたんだからよくもった、孫の顔を見られて満足して逝ったに違いないって、慰めてくれたけど。
 亡くなる前に一目、父さんに会わせてあげたかったな。
 父さんに、生きて帰ってきて欲しかったな。
 母さん、あんなに待ってたのに。
 僕も、本当にガゼル様との約束は守らなくちゃ。
 父さんと同じこと、デゼルとエトランジュを待たせたまま帰らなくなることは、絶対にしたくない。
 たとえ死んでしまうにしても、デゼルにそれを知らせることができなかったら、デゼルもきっと、いつまでも、帰らない僕を待ってしまう。
 わからないって、こんなにも悲しいこと。
 大切な人のことを知ることができないって、こんなにも辛い、最悪のことなんだ。


  **――*――**


 こうして、覚悟を決めた僕達の最後の冒険が始まった。
 運命に定められたデゼルの使命は、残すところ、魔物にされてしまった三千人の犠牲者を救うことだけ。
 その後、光の聖女達に追い詰められて、悪役として命を落とす――
 やりきれないな。
 僕達に用意された運命って、あんまりだよね。
 公国は滅ぶ、デゼルは悪役にされて命を落とす、いったい、何のために?

 ――もしかしたら、違う運命を切り拓くために?

 公国は滅ばなかった。
 デゼルも悪役にはされてしまったけど、エトランジュを授かった。
 運命は確かに、軌道を変えてるんだ。
 少なくとも神様は、変えられない運命を紡いではいないんだ。
 だとしたら、運命って、潮流のようなもの?
 とても強い力で僕達を押し流すけど、強靭な意志と覚悟をもって抗うか、ただ流されるか、選ぶのは僕達なのかもしれない。
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