新戸けいゆ

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白銀に融ける

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 ひどく狭く――暑い。跳ね除けるように男は漆黒の棺桶の蓋を払った。蒸した空気が霧散して、わずかに呼吸が楽になる。けれどもそれも一瞬のことに過ぎなかったのだと体を起こした男は悟った。目が眩まんばかりの白である。男は白銀に肌を焼かれながら立ち尽くしていた。ぶわりと汗が噴き出して滴り落ちる。雪原に落ちたその汗は、じうと音を立てて蒸発して空気へと還った。灼熱の大雪原で、男は拠り所もなく立っていた。
 このまま溶けるに任せるわけにもいかない。どこまで眺めても地平線が続くだけで行先など思い当たらなかったが、男は歩き出した。ただ凝となにかの訪れを待つにはあまりに暑かった。
 黒い足が白を踏み分けて男の跡を残していく。それで漸く己というものになにかの意味が生まれたような気がした。男は歌った。そうすることでなにかを繋ぎ止めようとしていた。歪んだ音階はわあわあと雪と共鳴して地面を揺らした。汗がまた滴って雪面で爆ぜた。歩みを進めるたびにだらだらと汗が伝った。ぜえぜえと吐く息の音が拍子になった。男の立てる音以外のすべてが沈黙していた。静かすぎてうるさいほどだった。雪の結晶の一粒一粒が、好き放題がなりたてている。嗤っている。男の終わりを待っていた。
 最初に失われたのは右腕だった。ふと立ちくらんだ拍子に右腕を雪についた。途端、音がするよりもはやくに融けてしまった。この星では名前のついていない極寒の中でできあがった男の体には、雪はまるで溶岩のようだった。あのまま、融けることのない棺桶の中でゆるやかに溶解してゆくのとどちらがましであったのか。考える前に男はまた歩き出した。死にたくないという本能だけは、まだ携えているようだった。
 次に失われたのは頭だった。直に陽光を浴びる頭部と、灼熱の雪に触れる脚の両側から男は融けつつあったが、脚部は随分前に一度付け替えていたのでまだ耐久性があった。どろりと融けた皮膚らしきものが体を伝う。歌は聞こえなくなった。男はまだ歩いていた。胴が融け落ちれば、残るのは脚だけになった。それでも男は歩いていた。最早思考する臓器は残っていなかったから、ただの惰性であったのかもしれなかった。それでも男の脚はどこかへ向かおうとしていた。
 男が住処の星から遠くへと放り出されるに至ったのも、そこに端を発していた。男は凡庸だった。周囲の幾百と同じような生を同じように生きていた。けれどもこの黒光りする黒曜のごとき脚を手に入れた時から、どうにも知らない場所に行ってみたくてたまらなくなった。今こうして己の命が失われつつある中でも、男にまだ思考を司る臓器が残っていたのなら、きっと高揚していただろう。
 かつりという硬質な音とともに男は止まった。岩だらけの地面にぶつかったと同時に、最後に残った踵が融けた。真黒の液体は数秒も保たずに蒸発して残らず消えてしまった。
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