ある朝起きたら、先輩が猫になっていた話

ハナミツキ

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「……ん、ぅ……ん」

「……あ」

「ん、あ……先輩、おはようございます」

「にゃあご」

「……へ?」

 ある朝起きたら、先輩が猫になっていた。
 何を言ってるか分からねーと思うが、私も何が起きてるか分からない。
 でも頭はどうにかなりそうにもなくて、むしろ落ち着いているほうだ。

「ち、ちっ、ちっ……」
「……にぃー」

 この猫を先輩だと思う理由その一、私を見るときのだるそうな目付き。

「ほら先輩、煮干しですよー」
「にゃっ、にゃっ」

 理由その二、煮干しが大好き。

「なでなでなで……」
「に……ゴロゴロ……」

 理由その三、なんだかんだで甘えん坊。
 これら三点から導き出される答えは、この猫が先輩であるということ。
 Q.E.D、証明終了。

 「……なぅ」

 一心不乱に撫でていた私に、先輩からの大サービス。
 これはいわゆる、ヘソ天というやつではないか。
 
(この先輩……すけべ過ぎる!)

「ここか、ここがええのんか……?」
「ゴロゴロゴロ……」

 普段の先輩もこのくらい素直だったらいいのに。
 お腹を撫で、頭を撫で、それからそれから。

「……シャーッ!」
「い゛っ……」

 突如放たれた爪の一撃が、手の甲に赤い筋を作り出す。
 じわりじわりと血が滲むたびに、鈍い痛みが自己主張してくる。
 どうやら調子に乗りすぎたようだ。

「す、すいません。先輩」
「……シャッ」

 前足で顔を整えつつ、睨み付けるようにこちらを見つめ返す先輩。

 (こりゃ完全に機嫌損ねてしまったかな)
 
 応急処置的にティッシュで抑えた傷口から、血の雫が一滴床に落ちる。

「……ペチャ、ペチャ」

 猫特有の伸びをするような仕草で、先輩が床に落ちたちを舐める。
 喉が乾いていたのか、はたまたただの気まぐれか。
 私は自分の背がブルリと震えるのを感じた。

「先輩……」

 まだ血の止まりきらない傷跡を、そっと先輩へと近付ける。

「なぁう」

 指先がヒゲに触れた瞬間、気怠そうに一鳴き。
 それからゆっくりと、丁寧に指を舐め始める先輩。
 ざらざらの舌が指のラインをなぞるたび、罪悪感のような、背徳感のような、言いしれぬ感情が渦を巻く。

「……ペロ」

 先輩の舌が指を伝い、爪痕へと伸びる。
 血が舐め取られるたびに、先程まで渦巻いていた感情が高揚感へと変わっていくのを感じる。

「……はぁ……はぁ」

 血を舐めるのに夢中な先輩へ、こっそりと左手を伸ばす。
 あと少し、あともう少し。

「……みゃっ」
「あっ」

 あと数ミリ、ということろで先輩が身を翻し、私の伸ばした指先をぬるりとすり抜ける。
 そしてそのままのの勢いでぴょんと跳ねると、私の手が届かない高さの棚の上へと逃げてしまった。

「なぁご」

 完全に勝利を確信しているのか、大欠伸をしながらこちらを見下ろす先輩。
 そんな先輩に一矢報いることが出来るとすれば、棚の端からはみ出して垂れているしっぽのみ。

「ふんっ……ぬっ……」

 つま先立ちで背筋を伸ばし、これ以上は無いと思えるほどに手を伸ばしてみた。
 しかし現実は非常である。しっぽのしの字もかすめない。

「もうっ、すこっ、しっ」

 届かない分を補おうと、ぴょんぴょんと跳ねてみる。
 しかし、そんな普段しないようなことをしてしまったのが間違いだった。

「あれっ……」

 突然、視界がぐるりと高速で回りだす。
 滑ってしまったのだと理解できるほどに妙にゆっくりに感じるときの中で、黒い影が走るのが見えた。
 それが私を助けようとしてくれたのか、単に驚いて逃げようとしただけなのかは分からないけど。
 もしも助けようとしてくれたなら、嬉しい限り。
 なんてことを思いながら、私の意識は闇へと落ちていった。


 私は猫である。名前はまだない。
 ですがねこはいます。
 
「……か」

 何かが聞こえたような、聞こえなかったような。
 しかしそんなの関係ねえ。
 ふわふわの頭にぽかぽかの陽気、これで寝なけりゃ猫じゃない。

「……い……か……」

 やはり気のせいではなかったらしい。
 耳が無意識的にぴくぴくと動き、眠りを妨げられたことでこれまた無意識的に大欠伸が漏れる。

「おい!大丈夫か!」

 さっきまで遠くで聞こえていた音が突然、大声となって耳を襲う。
 全身の毛がぶわりと逆立ち、思わずばっと飛び起きてしまった。

「……よかった、無事か」

 猫目のような三白眼に、くせっ毛を無理やり束ねたポニーテール。
 猫じゃない先輩だ。

「せんぱ……っ」
「急に起き上がるな。頭を強く打ってるっぽいぞ」

 先輩の細い指が優しく、起き上がろうとする私の動きを制する。
 夢の中では起き上がっていたが、現実の私は仰向けに倒れていたらしい。

「いっ……つ」
「そら、言わんこっちゃない」

 先輩の言葉を裏付けるようにじわじわと広がる鈍い痛み。
 しかしその痛みのおかげか徐々にだが記憶がはっきりしてきた。

「あの、先輩」
「ん?なんだ」

 にぼしの尻尾を口の端からはみださせながら、首だけを動かして先輩が振り返る。

「んまい」

 舌なめずりをしながら目を細め、にぼしを飲み込むその姿。
 やはり間違いない。さっきの猫はきっと先輩だ。

(いや、とはいえ……)
「んん?」
 
 ストレートに聞いたところで、素直に答えてくれるわけ無い気がする。
 
「猫、見ませんでした?」
「猫ぉ?なんの話だ」
「それがですね……」

 やはり予想通り、顔色一つ変えずに言葉を返してくる先輩。
 かくかくしかじかと詳細を説明している間も、これといって動揺する素振りは見せない。
 それどころか、

「そういえば、帰ってきたときに窓が開いてたな。そこから入って出て行ったのかもしれんな」

 なんていう新情報まで出してきた。

「……そう、ですか」

 ここまではっきり否定されてしまうと、自信が少し揺らいでくる。
 そもそも、別にあの猫が先輩じゃなかったとしても問題は全くないわけで。
 ちょっと……いや、かなり、残念ってだけ。
 
「残念です。凄く可愛かったので」

 思わず口を付いて出た素直な気持ち。

「……飼いたかったのか?その猫」

 負け惜しみにも似たその一言が、思わぬ所で先輩の言葉を引き出した。
 表情は先程からずっと変わりない。きっと普通の人なら気付けないだろう。
 先輩の耳がピクピクと、感情を表すように動いていることに。

「ええ、見たこともない猫でしたので……気になります」
「ほーん……私も見てみたかったな、そいつ」

 さっきまでこちらを見ていた先輩が、露骨に目を逸らす。
 表情を悟られたくないのかもしれない。効いてる効いてる、というやつだろうか。

「先輩は猫、好きですか?」
「ん……嫌いではない、かな」

 質問をしつつ、間合いを詰める。
 いつもの先輩なら何らかしらアクションを返してくる距離になっても、先輩は動かず。
 これは好機と言わざるを得ない。

「あの猫って……」
「……ッ」

 目にも止まらぬ速さで伸びてきた二本の指によって、私の鼻がガッチリと挟まれる。
 先輩のまさかの行動によって、言葉は途中で遮られてしまった。

「ふぁ、ふぁにふるんでふか……」
「あ、いや……近すぎて、つい」

 先輩らしからぬ、歯切れの悪い言葉。
 まだ勝機はこちらにある。

「ちょっと風呂、入ってくるわ」
「わひっ」

 先輩が挟んでいた指をピンッと弾いて背中を向ける。
 ここで終わるわけにはいかない。

「それなら先輩、私も……っ」
「仕事終わりの風呂くらいゆっくり入らせろ」

 追いすがる私を押し止める先輩の表情は、既にいつもの冷静さを取り戻している。
 負けだ……完全、敗北だ……。

「お疲れでしたら今日は、やめておきますか?」

 ヒリヒリする鼻を押さえながら、先輩の背中へ声を投げる。
 その一言に先輩が立ち止まり、

「いや、まぁ……それは、後でな」

 そう言い淀みながら、風呂場へ向かった。
 これはもしかすると、もしかするかもしれない。
 私は先輩がしまい忘れた煮干しを一つまみすると、口へと放り込む。
 あの猫が先輩だと思う理由その四。

「先輩はネコだから。なんつって」
「なんか言ったか?」
「なんでもないでーす」
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