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12月15日【灰色の女王】

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 日付の変わる鐘が鳴りました。とても緊張していたなっちゃんは、突然響いた鐘の音にびっくりして、思わず飛び上がってしまいます。しかし、そのおかげで、言葉の詰まりがぽろりと取れました。

「こんばんは、灰色の女王陛下。勝手に入ってきてしまって、申し訳ありません。女王陛下に、どうしても申し上げたいことがあったのです」

 カーテンの向こうの人影は、返事もしなければ相槌も打ちません。

「女王陛下に、お願い申し上げます。どうか、クリスマスを中止にするというご命令を、取り下げていただけませんか。配送センターは、準備が滞っていましたが、私や私の友人たちも準備に加わりましたので、クリスマスには間に合います。どうか、お願いします」

 なっちゃんは、カーテンの前で深々と頭を下げて、灰色の女王の言葉を待ちました。

 しん、とした夜の静寂が、塔の上の部屋に満たされます。灰色の女王が、あんまり黙ったままなので、なっちゃんは「どうか、どうか、お願いします」と、頭を下げたまま、もう一度言いました。


 長い沈黙がありました。それは、灰色の女王は、なっちゃんを無視しているのではなく、何かをじっと考え込んでいるのだとよく分かる、思慮深い沈黙でした。ですからなっちゃんは、沈黙の間、ずっと頭を下げたままでいました。

 さすがのなっちゃんも、頭を下げすぎてめまいがしてきたころです。ようやく、カーテンの向こうの気配が、動きました。

「ならぬ。クリスマスは、中止だ」
 井戸の底に反響するような、重々しい声です。なっちゃんは、ばねの跳ね上がるようにして、下げていた頭を元の位置に戻しました。

 急に姿勢を正したからか、あるいは女王の声が、何もかもを拒絶するような頑固さだったからか、なっちゃんは目の前に大きなバッテンをつけられたような気持ちになって、くらくらしました。


 思わず倒れてしまいそうになりますが、ここは踏ん張りどころです。足を肩幅に開いて、お腹にぐっと力を入れます。

「なぜ、中止なんです。準備が間に合うのなら、中止にする理由は、ないはずです」
 なっちゃんが反論しますと、カーテンの向こうの気配が、明らかにひるんだのが分かりました。

「お前は知らないのか。女王の命令は絶対なのだ。女王が決めたのだから、クリスマスは絶対、絶対に中止なのだ」
「ですからこうして、ご命令を取り下げてくださいと、お願いをしに来ているのです」
「うるさいなあ。中止ったら、中止なの!」

 女王の言葉が、なんだか子供っぽくなりますと、同時に女王の声までもが、威厳を忘れて、甲高い、尖った声になりました。

 おや? と、なっちゃんは思います。この声は、お城の門で聞いた声です。カーテンの向こうにいるのは、本当に、灰色の女王なのでしょうか。

「あなたもしかして、門番さん?」
「し、失礼なやつめ! 誰に向かってものを言っておる。私は灰色の女王。冬の国を統べる、偉大なる……」


 そのとき、部屋にある大きな銀の窓が、不意に開かれました。針のように冷たい夜風が、窓から部屋になだれこんできます。

 思わずなっちゃんは「ひゃっ!」と言って、肩を抱きました。部屋の中で渦を巻く夜風にあおられて、カーテンが、大きくなびきます。風の音と共に、何かの壊れる音がしました。

 あまりにも強い風のために、カーテンレールが真っ二つに折れてしまったのです。あっと思ったときにはもう、なっちゃんと女王とを隔てる純白のカーテンは、しんなりと床の上に落ちてしまっていたのでした。


「ああ、あ……」
 なっちゃんの目の前にいたのは、厳しい門番でもなく、恐ろしい女王でもなく、かわいそうなほどにうろたえた、ひとりの女の子でした。

 女の子は、底の抜けたブリキのバケツを、両手で抱えて立っています。このバケツを口元にあてて、喋っていたのでしょう。灰色の女王の、重々しく反響する声は、こうして作られていたのです。


「こんばんは」
 なっちゃんは、改めて、挨拶をしました。

「あなたが、灰色の女王ですか?」
 女の子は、ブリキのバケツを口元に持っていって、けれどこうして、面と向かって顔を見られている状況では、それも無意味だと思ったのか、しょんぼりとバケツを下ろしました。そして「その通りである」と、小さな声で、精一杯尊大に、言いました。



 銀の窓を閉めますと、びょうびょうと吹きすさんでいた風の音は遠くなり、部屋には、暖炉の火の爆ぜる音しかしなくなりました。

 なっちゃんは、部屋で一番立派な椅子を、暖炉のそばに持っていきました。そしてそれと向かい合わせに、小さな丸椅子を置きました。灰色の女王に、立派な椅子の方を勧めます。

 女王は「よい心がけである」と、やっぱり小さな声で言って、椅子に座りました。なっちゃんは、丸椅子の方に腰掛けます。


「どうしてクリスマスを中止にしたいのか、どうか、理由を聞かせてくださいませんか」
 なっちゃんが言いますと、灰色の女王は、足をもじもじさせました。そして、なっちゃんの問いには答えずに、「お前は、なぜここに来たのだ」と、なっちゃんに問いを投げかけました。

 なぜここに来たのかなんて、さっきから、散々言っているじゃないか。となっちゃんは思ったのですが、うつむいている女の子を目の前にしますと、そんな厳しいことは言えなくなってしまいます。なっちゃんは、努めて穏やかに話します。

「クリスマスが、中止になってほしくないからです」
「そうではない。そうではなくて……お前も、私の噂は聞いていただろう。家臣さえ寄せ付けぬ、気難しい女王であると、知っていただろう。ここに来るのが、怖くはなかったのか」
「それは……」


 決して、怖くないわけではありませんでした。けれど、クリスマスが中止になる方が、嫌だったのです。街の人々が、配送員たちが、ミトラたちが、クリスマスの中止を聞いて、がっかりする方が、ずっと嫌だったのです。

「私は、私に出来ることを、したいと思っただけです。みんなをがっかりさせないために、少しでも、出来ることをしたかったんです」
「もし、お前が失敗したら、みんなはお前にがっかりするのだぞ。お前に失望する。お前のことなんか、嫌いになる。それでも、良かったのか?」
「うーん……でも、嫌われたくなくて、何もしなかったら、私は私のことを嫌いになってしまいそうです」

 灰色の女王が、ずっと足元に落としていた視線を上げて、暖炉の光に目をやりました。女王の瞳は、髪と同じで、暗い灰色をしています。灰色の瞳に炎が映り込んで、金の箔を押したように見えます。

 女王は、何か、とても重たい心を抱えている。なっちゃんは、そう思いました。そして、その心が、あと少しで言葉になりそうな気配を感じましたので、なっちゃんは、その時をじっと待ちました。



「しかし、私に出来ることは、なにもないのだ」
 ようやく女王が話し始めたのは、暖炉の火がすっかり勢いを穏やかに、もうすぐ消えてしまおうかとしているころでした。

「みなが、クリスマスを楽しみにしていることは、私もよく知っている。私だって、クリスマスが楽しみだ。それでも、どうしても、クリスマスは中止なのだ」

 繊細なガラス細工にそっと指を触れさせるように、なっちゃんは囁くように「なぜ?」と問います。灰色の女王が、灰色の瞳を泳がせます。

「誰にも、言わない?」
 そう言って、なっちゃんを見上げる女の子は、今にも折れてしまいそうなほど、か細く見えました。なっちゃんは、ゆっくりとまばたきをしながら、うなずきます。


 女王は、喉の奥で、何度か言葉を詰まらせました。そして、まるで罪の告白をするように、おびえながら、言ったのです。

「私は、魔法が使えない」
 細い肩が、ぶるりと震えました。

「先代の女王も、先々代の女王も、その前の女王も、女王はみな、魔法が使えた。空を飛び、金や銀の雪を降らせ、空の星をすくい取って、人々に分け与えることが出来た。だけど私は、魔法が使えない。去年までは、親切な魔法使いが、私の手助けをしてくれていたが、彼女ももう、遠いところへ旅立ってしまった……」

 フキコさんのことだ。なっちゃんは思わず、唇の隙間から、ため息をこぼしました。

 フキコさんは、あちこちで人助けをしていたようです。そして、あまりにも大きすぎる空白を残して、去ってしまったのです。


「魔法が使えなくたって、クリスマスの準備は出来ますよ。大丈夫、大丈夫」
 なっちゃんが慰めますと、灰色の女王は、怒ったように顔をしかめました。そして「魔法がなければ、出来ない」と、歯を食いしばりながら言いました。

「魔法を使わずに、どうやって、プレゼントを配るのだ。クリスマスは、手紙の配達とはわけが違うのだ。プレゼントは、時を超え、空間を超え、あらゆる境界を超えられるそりでなければ、配ることが出来ない。そんなもの、魔法がなければ、用意できない」

 それを聞いて、なっちゃんはついついひるんでしまいます。時や空間を超えるのは、確かに、魔法でも使わなければ無理なようです。

 けれどこうなったからには、もう、あとにはひけません。今さら「無理だ」なんて、言えないのです。言いたくないのです。


「なんとか、方法を探しましょう」
 なっちゃんは立ち上がって、こぶしを天井に突き上げて、言いました。

「きっと何か、解決策があるはずです。私も手伝いますから、なんとか、頑張ってみましょう」

 灰色の女王は、怒ったような顔のまま、なっちゃんをにらみました。そして、下唇をきゅっと引き上げて、可愛らしい小鼻を膨らませました。

 こんな表情を、なっちゃんも昔、したことがあります。泣き出したいのを我慢しているときは、こういう、おかしな顔になるのです。

「出来るかな」
 女王が呟きました。

「出来るかどうかは、やってみないと、分かりません」
 なっちゃんが、答えました。今の言い方は、少し、フキコさんの言い方に似ていたような気がします。



 灰色の女王は、また長いこと、考え込んでいました。東の空から白んだ光が射し込んで、銀の窓をきらきら輝かせるまで、ずっと考え込んでいました。

 そして、朝の光が灰色の瞳を打ったとき、女王はぱちぱちっとまばたきをして、「自分のことを嫌いでいるより、ずっといい」と呟いたのでした。


 これで決まりです。クリスマスの中止は、とりあえず、保留。

 時も空間も超えるそりを、どうやって準備するか。急いで、良い方法を見つけようと、なっちゃんと女王は、誓いの指切りをしました。

 そして、夜ふかしどころか、すっかり徹夜をしてしまった二人は、指切りのあとで、ふかふかのソファに横になって、仮眠を取りました。



 なっちゃんは、ほんの少し、短い夢を見ました。夢の中では、なっちゃんはまだ小さな子供で、フキコさんへのお手紙を書いていました。

 今なら分かります。あの瞬間になっちゃんを包んでいたあらゆるものが、何ものにも代えがたい、尊い宝物だったのです。

 テーブルの上に落ちた木漏れ日。紙の匂い。鉛筆の芯が、便箋の上を滑る音。封筒の手触り。切手の裏を舐めたときの、舌が貼り付くような感覚。そして、書き終わりのツンと立った、フキコさんの字……。



 夢が終わって、目覚めたときには、もうお昼でした。

 なっちゃんは、大きなリュックサックの中から、シュトーレンと紅茶を、二人ぶん、取り出しました。
 灰色の女王は「ふむ、悪くない」と偉そうに言って、それらをぺろりと平らげました。


「さあ、では、街に行きましょう。魔法の使えない私たちは、何をするにも、誰かの力を借りなければいけませんから」

 しかし、お城の外に出ることを、女王はひどく嫌がりました。これまでずっと、誰が相手であっても、カーテン越しでしか、お話をしたことがないのです。外出を渋る女王に、なっちゃんは、ひとつ提案をしました。



「なっちゃんさん! ひどいですよ。私のことを、忘れていたでしょう」

 お城の門の前で配送員長に叱られて、なっちゃんは「ごめんなさい!」と、頭を下げました。もしかしたら、灰色の女王のカーテンの前で、頭を下げていたときよりも、もっと深々と下げたかもしれません。

 そうです。日付の変わる鐘が鳴ったら、門の前に集合するという約束を、なっちゃんはすっかり忘れていたのです。
 かわいそうな配送員長は、門の前でこごえていたところを、ちょうど通りかかった大きなリスに助けられ、リスの尻尾にくるまれて、一晩を明かしたのでした。

「でも、リスさんの尻尾は、とても温かく快適でした」
 そうでしょう。なっちゃんにも、覚えがあります。しかしそれにしても、本当にひどいことをしてしまったので、なっちゃんは何度も何度も謝って、配送員長と、そして優しいリスのために、熱い紅茶と甘いチョコレートを振る舞いました。


「それはそうと、なっちゃんさん」
 紅茶を飲み、白い息を吐きながら、配送員長がなっちゃんに尋ねます。

「その方は、いったい、どなたでしょう」

 仏頂面で、なっちゃんの背中に隠れている女の子は、髪の毛も灰色、瞳も灰色。服も、靴も、靴下も、コートも、マフラーも、手袋も、何もかも灰色です。こんなに灰色の女の子を、配送員長は、見たことがないのです。

「この女の子は、灰色の女王陛下の、侍女さんです。女王陛下はご不在でしたが、侍女さんに聞いてみたところ、魔法のそりを準備すれば、女王陛下もクリスマスの開催に納得してくださるだろうとのことでした」

 これは、さっき二人で話し合って決めた、作り話です。配送員長は、「ふうむ」と言って、難しい顔つきになりました。

「魔法のそりですか。普通は、女王陛下が準備してくださるのですが、それを私たちで準備するとなると、困難ですなあ」

 灰色の女王、もとい女王の侍女が、さっと顔を青くしましたので、なっちゃんは慌てて「でも、やってみなきゃ分からない。でしょう?」と言いました。

 すると配送員長は「そうですね。やってみなきゃ、分からない」と険しい表情を崩しましたので、なっちゃんはほっと胸を撫で下ろしました。


「やってみなきゃ、わからない」
 ずっと話を聞いていた、大きなリスが、のんびりとした声で繰り返します。

「やってみなきゃあ、わからない。いい言葉ですねえ」

 そしてなっちゃんの後ろで、灰色の女の子も、消え入りそうな声で、呟きました。


 やってみきゃ、分からない。

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