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渡し舟
しおりを挟むどこからか歌が聴こえてきました。実浦くんには、それがいったいなんの歌なのかさっぱり知らなかったのですが、カンテラは『ああ、もうすぐ来るのだねえ』と言いました。
「なにが来るの?」
『舟だよ。あれは舟守りの歌う歌だよ』
水辺もないのに、舟がここまで来られるのでしょうか。実浦くんは不思議に思ったのですが、歌はどんどん近づいてきます。
あおいこずえのかたびらの わたりのとりのがいとうの
ふかいしじまのさざなみの まよいのさかなのあまがさの
歌声は女性のようでもあり、男性のようでもありました。子供ではないことは確かでしたが、それ以外の要素を何も示さない、中庸の声でした。
あかいひばなのレーヨンの ながれのひとのきたみちの
とおいさばくのつきかげの おまえのこえのさえざえの
ざざ、ざざと聞こえたのが、ブナの枝のこすれる音であったのか、それとも波の打ち付ける音であったのか、定かではありません。とにかく舟は新緑の海を漕ぎ分けて、ぴったりと実浦くんの目の前に静止したのです。
「乗んなさるかね」
舟守りは、低くかすれた声で言いました。それはもう、本当にさっきの歌を歌っていたのはこの人だろうかと思えるほどに、まるで何十年も誰とも話さずに、ようやく絞り出したかのような苦しい声です。黒いローブの下はどこまでも影になっていて、男性なのか女性なのか、やっぱり分かりませんでした。
実浦くんがまごついたまま答えずにいますと、女の子が「乗りたいわ」と頬を赤く染めました。
「私、舟に乗ったことがないの。海の上を飛んだこともあるし、海の底まで潜ったこともあるわ。でも、舟は初めて」
「そんじゃあ、お乗んなさい」
女の子はリボンの羽を翻らせて、さっさと舟に乗ってしまいました。
『乗ろうよ』
カンテラが言いましたので、ようやく実浦くんも頷いて、舟のへりをまたぎました。
舟は一度大きく揺れて、ゆっくりと漕ぎ出しました。エメラルドの光の上を滑るようにして、滑らかに空へと昇っていきます。
一番背の高いブナの木が、さよならをするように枝を振りました。そうしますと、実浦くんは、ズボンのポケットの中になにかが入っていることに気が付きました。
取り出してみますと、それは金色に光るブナの実のひとつかみでした。
『ブナの木たちのお礼だね』
カンテラが言いました。実浦くんは、これは自分がもらうべきものではないと思いましたので、ブナの実を女の子に差し出します。けれど女の子が「私のポケットには入り切らないわ」と断りましたので、実浦くんは仕方なく、自分のポケットに戻したのでした。
ブナたちが遠く見えなくなりますと、舟はもうどこを進んでいるのか、すっかり分からなくなってしまいました。
実浦くんは舟から少しばかり乗り出して、水面のあるはずの方へ、手を差し出しました。指先がなにかをかき分けるようでしたが、それが水であるのかは分かりません。舟守りが「落っこっちゃうよ」と言ったので、実浦くんは慌てて体を引っ込めました。
一方で女の子は、初めての船旅を存分に楽しんでいるようでした。舳先へ上ったり、そうかと思えば舟尾《とも》へ目掛けて駆け下りたり。
舟守りは実浦くんに言ったように「落っこっちゃうよ」と咎めましたが、女の子が「私は飛べるから平気だわ」と言い返しますと、それっきり何も言いませんでした。ただ、歌と独り言との中間のような声で「フォア、アフト、星が走っている」と何度か繰り返しました。
では、カンテラはどうかと言いますと、こちらもこちらで舟をいたく気に入ったようでした。「ぼく、ここでは船尾灯になろう」と言って、またもや形を変えていきます。それはカンテラによく似ていましたが、足元はしっかりと船尾の木材に固定されています。
「後ろより、前を照らしたほうが良いんじゃないの」
実浦くんは親切心からそう言ったのでしたが、「いやいや、いけんいけん」と舟守りが厳しい声で遮りました。
「夜を渡るのだから。進む方向に明かりがあっちゃあ、舟が沈んでしまう」
「そうですか。すみません」
ひどく恥ずかしくなって、実浦くんはうなだれました。舟守りは忙しく鼻を鳴らして「舟が沈んでしまうよ」と繰り返しました。
舟は静かに夜を進みます。舟守りはしきりに鼻を鳴らしています。
「あんたがた、随分と奇体だね」
舟守りは歌も歌わずに、そう言いました。実浦くんは、本当のところ舟守りとは少しも話したくないと思っていたのですが、答えないのも失礼だと思って「ええ」と返事だけしました。
「人間と、妖精が一緒にいるなんて。やあ、実に不思議だな」
何を言われたのか分からなくて、実浦くんは考え込みます。人間というのは、きっと実浦くんのことを指すのでしょう。ですが、妖精というのは、女の子とカンテラ(今は船尾灯)のどちらのことを指しているのか、見当がつきませんでした。
『ぼくは妖精じゃあないよ』
実浦くんが不思議そうな顔をしているのを見て、カンテラだった船尾灯が言いました。
『ぼくは、ただなんにでもなれるものだ。妖精は、あの子のことだよ』
船尾灯が、そのみっつの目玉を女の子へ向けますと、女の子はすっくと立ち上がって、偉そうに腰に手を当てました。
「あら、私は人間よ。そりゃあ、今は妖精だけれど」
「本当は人間なの?」
「本当か本当でないかは分からないわ。でも、今は火灯し妖精だから、妖精って呼んでくれても構わないわ」
火灯し妖精は、橙に光る手のひらを実浦くんに見せつけながら、にんまり笑いました。
不思議だ、不思議だ、と舟守りは繰り返します。「人間と妖精が話している。実に不思議だ」
それに対して、「不思議なことないわよ」と、指を弾くような明快さで火灯し妖精が言いました。
「ここにいるものは、人間でも妖精でもブナの木でも、みんな夜の国の住人だもの。おんなしよ」
舟守りは、体を揺らしながら、ふんふんと鼻を鳴らしました。
「舟守りもよ。おんなしよ」と火灯し妖精が付け加えますと、ふんふんは少しだけ含み笑いのふんふんになりました。
気を良くした舟守りは、ようやく歌を歌い始めました。かすれた声とは全く違う中庸の歌声が、確かにこの舟守りの喉から出ているのだと、実浦くんはやっと信じることが出来ました。
蒼い梢の帷子《かたびら》は 渡りの鳥の外套に
静寂《しじま》に立ったさざなみは 迷い魚の雨傘に
紅い火花のレーヨンで 来た道しるし振り向けば
遠い砂漠の月影に お前の声が冴えわたる
舟守りの歌を聞いているうちに、実浦くんはどんどん眠たくなっていきます。一生懸命にまぶたを開いていますと、火灯し妖精が実浦くんの肩に舞い降りました。
「眠ったって構わないわよ」
火灯し妖精は、彼女の明るい手のひらで、実浦くんの頬をぺちぺち叩きます。叩かれているうちに、実浦くんはもうどうしようもないくらい、本当に眠たくなってしまって、舟の底にそっと身を横たえました。
舟守りが歌っています。閉じたまぶたの裏に、舟守りの歌声が小道のように伸びていくのを、実浦くんはしっかりと見ました。
小道の脇に生えているすずらんが、白く足元を照らしています。遠くからまだ、舟守りの歌う声がかすかに聴こえてきていました。
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