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すずらんの小道
しおりを挟む真っ白なすずらんの花々は、火灯し妖精やカンテラのように、それ自体が淡く発光しているのでした。
実浦くんは舟守りの歌声を背中に聴きながら、すずらんの小道を歩きます。
どれほども行かないうちに、何の前触れもなく、風の塊が実浦くんを追い越していきました。その勢いといったら、どうどうと鉄砲水のような音を引き連れて、実浦くんが思わずつんのめってしまうほどのものでした。
実浦くんは「あ」と声を吐き出して、危うく倒れてしまうところだったのですが、上手く右足を踏ん張ったので転ばずにすみました。
「あ、いけない。悪いことをしてしまった」
吹き抜けていった風が立ち止まったかと思うと、実浦くんを振り向きました。それは、厚い外套を羽織った少年でした。
「いけないね。謝らなくては。おおい、ごめんなさい、大丈夫ですか」
少年のまたすぐそばに風が舞って、もうひとりの少年が現れました。その子は、鈍色の尾びれを持っていました。
「大丈夫です。転ばなかったから」
実浦くんが言いますと、少年たちは顔を見合わせて微笑みました。うっかり踏みつけてしまった黒蟻が、ちょうど靴の土踏まずに入り込んで無事でいたのを見付けたときのような、ほっと安心した微笑みでした。
「そいじゃあお兄さんは、舟の上からやって来たんですか」
外套の少年が、目をまん丸くしながら言いました。
「舟ってぼく、知っているよ。頭の上の方を流れてゆく、大きな黒い影だ」
尾びれの少年が、うっとり夢を見るような声で言いました。対して外套の少年は、ひどく心配そうな顔で実浦くんを見つめます。
「落ちたのですか」
「いや、舟の上で眠ってしまって、それからここに来ていました。目を覚ませば、また舟の上に戻れます」
それを聞いて、外套の少年はさっきと同じような具合で微笑みました。
三人は連れ立って、すずらんの小道を進みます。少年たちは、この小道のずっと先にあるどこかを目指していると言います。そこには何があるのかと実浦くんが問いますと、尾びれの少年が、瞳をくりくりさせながら首を傾げました。
「行った先に何があるかなんて、行く前から分かっていることがあるかしら。ぼくたちはただ、この先へ行くんです。行けば、何があるのか分かるから」
「でも、何があるか分からないところへ行くのは、恐ろしくないですか」
「ぼくは今まで一度だって、恐ろしくなかったことがない」
尾びれの少年はそう言うと、小道を駆け出して行きました。尾びれの少年が走り抜けますと、その両脇のすずらんがかすかに揺れて、月長石のかけらのような光が吐き出されます。そのとき実浦くんは、少年の尾びれの先が、大きく欠けていることに気が付きました。欠けた尾びれは、揺れるすずらんと同じ動きで、ゆらゆら宙に揺られているのでした。
「ぼくたち本当は、さまよっているんです」
走り回る尾びれの少年を眺めながら、外套の少年が言いました。
「どこへ行けば良いのか分からないので、取り敢えずの目的地を『先へ』と定め、ずっと歩いているだけです」
それは自分も同じことだ、と実浦くんは思いました。実浦くんも、いったいどこへ向かっているのか分からずに、ブナの林を抜けて舟に乗り、そして今はすずらんの小道を歩いています。
(そうだ。それを「さまよう」と言うのだ。ぼくは今、さまよっている)
そういうふうに考えますと、実浦くんは少しだけ不安でなくなったような気がしました。たとい「さまよっている」それだけでも、自分がどのような状態であるのかを明確に表すことが出来るというのは、心強いものです。
「お兄さんにも、一緒に先へ行くひとがいますか。ええと、つまり、目を覚まして舟の上に戻ったら」
外套の少年が、遠慮がちに尋ねます。実浦くんはひと息置いてから「うん」とうなずきました。
「います。橙色に光る火灯し妖精と、望めばどんな姿にもなれる三つ目の生き物が」
「ああ、それはとても良いことですねえ。放棄の海では、一人っきりでいると闇に呑まれてしまいますから」
「何の海ですって?」
実浦くんが聞き返しますと、外套の少年は「ほ、う、き」とゆっくり言いました。
「放り棄てられたものたちが沈む海です」
「ここは、夜の国ではないのですか?」
「そう呼ぶひともいます。放棄の海では、あんまり悲しくなってしまうから」
実浦くんは改めて、辺りをじっくり見回しました。来た道を振り返ったり、足元を覗き込んだり、頭上を見上げたりしてみました。
ここは夜の国。放棄されたものたちの国。それでは、火灯し妖精も三つ目のカンテラも、ブナの木たちも、あの舟も舟守りも、みんな放棄されたものなのでしょうか。外套の少年も、小道の先を駆けている尾びれの少年も、そして実浦くんも。
「さっき、ぼくたちはさまよっていると言ったでしょう。でも、本当は行くべき場所はあったんです。ぼくたちが放棄される以前の話です」
外套の少年は、ためらいながらも自分たちのことを話したがっているようでしたので、実浦くんは軽く相槌を打って先を促しました。
「ぼくはサガルマータを越えてずっと南へ。彼はサガミ川を上って北へ」
少年の、骨ばっかりのように細くて鋭い指が、どこか遠くを指して伸ばされました。
「けれどぼくたち、放棄されてしまった。ぼくは生まれついて気管が弱かったし、彼は尾びれが欠けていたから、上手に泳げなかったのでしょう」
高く、笛のような音が鳴りました。尾びれの少年が、すずらんの間を駆け回っているうちに楽しくなったのでしょう、口笛を吹き始めたのでした。それは、あの舟守りが歌っていた歌と同じメロディでした。外套の少年は、何フレーズかその歌を口ずさみましたが、すぐに止めてしまって「ぼく、」と話を続けます。
「ぼく最初のうちは、悲しくって仕方がなかったんです。仲間たちは、もう山を越えたろうか。暖かな南の平原へ降り立って、旅の疲れを労りあったり、みんな寄り添ってぐっすり眠ったりしたろうかと考えると、悲しくってたまらなかった」
「今はもう、悲しくないのですか」
尋ねてしまったあとで、実浦くんはとても失礼なことを訊いてしまったことに気がついたのですが、外套の少年はまだ微笑んだまま「少しだけ」と答えました。
「でも、ぼくにはあの尾びれの弟がいます。彼はぼくよりずっと幼くて、自分が放棄されたことにも気づかずに、ここに来ました。彼と一緒にいると、ぼくはぼく自身の悲しみより、彼の幸福の方がずっと価値があるのだと思えるのです」
実浦くんは、歩く自分のつま先を見つめながら考えます。実浦くんには、自分の悲しみよりも価値があると思えるものがあるでしょうか。
「ねえ。見てご覧」
前の方で、尾びれの少年が叫びました。
「ここから先は、もう道がなくなっているよ。すずらんが埋め尽くしてしまったんだねえ。ぼくたち、すずらんの中を泳いでいかなければならない」
それは、好奇心と恐怖心が半分ずつ入り混じったような声でした。「ぼく、泳ぐのあんまり得意でないよ」
外套の少年は、尾びれの少年を励ますように、上着の裾をばさばさはためかせました。
「大丈夫だよ。ぼくたち足があるじゃないの。すずらんを踏まないように、気をつけて歩くんだ」
「ああ、そうだったねえ。ぼく、今は足があるんだった」
尾びれの少年は嬉しそうに笑って、すずらんの中へ果敢に挑んでいきました。外套の少年も実浦くんも、それに続きます。すずらんは揺れるたびに光りの粉を吐き出して、辺りは乳白色の霧に包まれたようです。
「サガルマータの雲のようだ」と、外套の少年が呟きました。「あの日の続きを歩いているんだ。今度こそぼく、あの雲を越えてゆく」
光の霧は、どんどん濃くなっていきます。実浦くんは少年たちについて行こうと一生懸命でしたが、やがて伸ばした自分の手すら真っ白に隠されてしまって、とうとう彼らを見失ってしまいました。
すずらんはなおも、光の粉を吐き出し続けています。あるいはこの光から、すずらんが生み出されているのかもしれません。
果たして霧中に取り残されてしまった実浦くんは、ようく耳を澄ませば、舟守りの歌が聴こえてくることに気が付きました。ぺちぺちと、誰かが実浦くんの頬を叩いています。まぶたの裏に、眩い火花が散りました。
「あら、おはよう。お帰りなさい」
気がつけば実浦くんは、硬い舟の底に横になっていました。すずらんの小道を随分歩いた気がしたのですが、舟の上は、実浦くんが眠ってからそう時間が経っていないようでした。舟守りは歌っているし、火灯し妖精は実浦くんの頬を叩いているし、船尾灯は曳き波を青白く照らしています。
長い夢だったのでしょうか。けれど実浦くんの服は、確かに月長石の粉にまみれて、きらきら光っているのでした。
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