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モホロビチッチ地下博物館
しおりを挟む火口の淵にあった階段を、実浦くんはどこまでもどこまでも降りていきます。階段は始めは土を固めて作られていたのですが、やがて岩石の階段になり、さらには黒くてつるつるした黒曜石の階段になりました。
実浦くんは滑って火口へ落ちてしまわないように、灯り捕りからもらった小瓶を掲げて、慎重に進みました。もう火口の入り口ははるか頭上にあり、この小さな小さな灯りが、夜の嵐に見つかってしまうおそれはないでしょう。
実浦くんの胸のどかどかは、すっかり落ち着いていました。実浦くんは今また平静を取り戻した鼓動と共に、衝動ではなく確かな意志を引き連れて、火口の奥底へと降りているのです。
手に持った小瓶が揺れて、そのたびに実浦くんの影が大きくよろめきます。実浦くんは影につられて自分までよろめいてしまわないよう、しっかりと足を踏ん張っておく必要がありました。影のよろめきがおさまってから、またゆっくり階段を降り始めます。けれど十段も降りないうちに、また影は重病人のようによろめくのでした。
小瓶が揺れるのは、小瓶を持つ実浦くんの手がぶるぶる震えているためです。
(ぼくは怖いのだろうか)
立ち止まったり歩き出したりを頻繁に繰り返しながら、実浦くんは考えます。
(怖いのだとしたら、一体なにが怖いんだろう。観測所を出るとき、行ってきますを言わなかったのは、ただいまを言えるか分からなかったからだ。ぼくを送り出すみんなも、行ってらっしゃいとは言わなかった。ぼくは、ぼくの命が失われてしまうことが怖いのだろうか。それとももう二度と、あすこへ帰れなくなることが怖いのだろうか)
階段のずっと下の方から、生温かく湿った風が吹き上がってきました。階段も今やじっとり熱を帯びていて、ともすれば柔らかな肉の感触を伴いそうな気配でした。実浦くんはふうふう肩で息をして、顔に浮かんだ汗の粒を、しきりに袖で拭います。
(ぼくは今、とても大きな生き物の中に入り込もうとしている、ちっぽけないっぴきの小虫だ。だけども小虫はぼくのように、恐れを感じたりするんだろうか。小うるさい蝿や、蟻や、ルーペを使わなければ見えないような小さな生き物たちも、怖くて体が震えるようなことがあるんだろうか)
そうしたことを考えていますと、思考が実浦くんの頭を占領して、そのぶんだけ恐怖を忘れることができたのです。
それから実浦くんは、少しずつ階段を降りながら、小さな生き物たちの感情のことを考えました。目に見えない生き物や、実浦くんの体を維持するために存在する、ひとつの生き物とさえ認められない小さな小さなものたち。その小さなものたちが抱く、喜びや悲しみ、生きることへの果てなき恐れ。
火山や大地やもっと大きなものにとって、実浦くんがちっぽけな小虫に過ぎないのだとしたら、実浦くんにとってはちっぽけであるものたちが、実浦くんと同じような感情を持っていたとしても、なにもおかしくはないのです。
あるいは、たとえばこの火山が、今まさに体内へ入り込もうとする実浦くんを見て、あのちっぽけな生き物に、果たして感情はあるのだろうかと、考えこんでいるかも知れません。
(ぼくは今、恐れをもってここへやって来た。ぼくにとってそれは確かなことだけれど、火山や大地や宇宙や、この世界にとっては、取るに足らないことなんだ。ぼくにとって、ごく小さな生き物たちの感情がないのとおんなじなように、ぼくの感情なんて、世界にとってはないのとおんなじだ。だけど今ぼくの感じている恐れや寂しさというものは、ぼくにとってはなにより重い。一体ぼくの皮膚一枚を隔てて、どうして感情というものは、こんなに価値が変わるんだろう……)
そうして考えていますと、周りの景色に注意を払うことがおろそかになりますので、実浦くんはもう階段があと数段しか残されていないことに、直前まで気が付かなかったのです。
あっと思ったときには、実浦くんは全く平らかな岩の上に立っていました。ここが火口の底です。周りは大鍋でもって真夏を煮詰めたかのように熱く、どこからもしゅんしゅんと蒸気が噴いています。
実浦くんは、とうとう火口の底に立ったのでした。しかし、実浦くんの期待したような、マグマの溜まりはどこにもありません。その代わり鈍色の重たそうな扉が、実浦くんの目の前にどんと立ちはだかっています。
実浦くんは扉の方へ寄っていって、それをよく観察してみました。取っ手もなにもかも金属でできていて、小窓やドアベルのたぐいはありません。扉の表面にはごく小さな飾り文字が彫られており、実浦くんが小瓶の灯りを近づけてそれを読んでみますと、そこには「モホロビチッチ地下博物館」と書かれてあるのでした。
マグマの溜まりは、もしかしたらこの扉の向こうにあるのかも知れません。そしてどうやらこの扉を開かないことには、それを確認するすべはほかにないようでした。
実浦くんは扉に手をかけまして、深くゆっくりと息をしました。自分の中に、恐れがあることを確かめました。実浦くんの体の外側には、実浦くんの恐れなど少しも影響なく、確固たる世界が回っていることも確かめました。
そして実浦くんは丁寧にノックをしてから、「ごめんください」と扉を開きました。
「はいはい、はい」と返事をしたのは、女性の低い声でした。開いた扉の隙間から、光が漏れ出ています。実浦くんは、扉の向こうに灯りがあるとしたら、きっとマグマの赤色だろうと思っていました。しかしその光は、海の底を切り取ったような、深い深い青色だったのです。
「どちらさま」
尋ねられて、実浦くんはようやく声の主を見ました。痩せたおばあさんが藍色のカーデガンを羽織って、丸眼鏡の向こうから、実浦くんをじっと見つめています。実浦くんは慌てて「ごめんください」と再び言いました。
「ぼく、階段を降りて来ました。ここにマグマの溜まりがあると思って」
「ああそう、そうなの」
それだけで、おばあさんは全て承知したとでもいうようにうなずくと、実浦くんに手招きをして、扉の奥へ入るよう促しました。実浦くんはそれに従って、扉の奥、モホロビチッチ地下博物館へ足を踏み入れます。
そこは図書館の空いたスペースに博物館を詰め込んで、さらに植物園と喫茶店と寝室とをごちゃまぜに組み合わせたような、実に奇妙な空間でした。
しかも灯りが全て深い青色なのは、壁があるはずの場所が全てガラスになっていて、その向こうになんと海があり、魚が泳いでいるためでした。水族館でもあるのでしょうか。実浦くんには、もうなにがなんだか分かりません。
実浦くんが困っているうちに、おばあさんは熱い珈琲を淹れてきて、小さなテーブルの上に置きました。そして実浦くんに、厚いクッションの乗った椅子を勧めました。おばあさんは実浦くんの見ている前で、珈琲にミルクをたっぷりと、カラメル色をしたざらめをたくさん入れました。
実浦くんはずいぶん階段を降りてきたため疲れており、きっとその珈琲を飲むと美味しいだろうと思ったのですが、「ぼく、すみません」と言って丁寧にそれを断りました。
「上は嵐がひどいんです」
そう言いますと、おばあさんはわずかに気の毒そうな調子を含ませて、「まあ」と言いました。そして、自分のぶんの珈琲をすすりました。
「嵐を鎮めるためには、光をたくさん食べさせないといけないんです。ぼくマグマを食わせたら、嵐がおさまると思って、それでここまで来たんです」
「そうなのね」
おばあさんは全く、聞いているのかいないのか分からないような素振りでした。珈琲を飲みながら、じっとその目は実浦くんから離れません。実浦くんは少し居心地が悪いような気がして、「ですから」と早口で続けました。
「もし火山を噴火させる方法があるのなら、ぼくに教えてくださいませんか」
「そうですねえ」
なおもおばあさんは実浦くんを見つめながら言いました。「それじゃあ、鯨の来るのを待たなきゃいけませんね」
実浦くんを見つめ続けていたおばあさんの目が、ようやく実浦くんを離れ、壁の向こうの海を見ました。
海の中には、無数の魚が泳いでいます。魚はよく見れば、どれも魚の形をしたガラスのランプです。澄んだ体をくねらせて泳ぎ、胸びれの向こうに透けて見えるろうそくが、水の中だというのにちりちり燃えています。その炎は、火灯し妖精と同じ橙色の光を放っていました。
深く青い海の中に、たくさんの橙色の光が泳ぎ回っています。しかしその中に、鯨らしき姿はありません。
「鯨が潮を吹けば、それがマグマとなって地上に噴き出すのです。だから、鯨が来ないことにはどうしようもないのですよ」
「鯨は、どうしたら来るんですか」
「待つしかありません。ここに来る鯨は、みんな迷い鯨ですから、いつ来るかは誰にも分かりません」
実浦くんは、がっくり肩を落としました。悠長に待っていては、上はどんどんひどいことになっていきます。
こうしている間にも、嵐は観測所を吹き飛ばし、船着き場を吹き飛ばし、光の鳥を捕まえて食べてしまうかもしれません。火灯し妖精も、青白く光る毛皮も、見つかって食べられてしまうかもしれません。
そうして考え始めると、実浦くんはどんどん怖くなってしまって、とうとう泣き出してしまいました。涙はぼろぼろこぼれ、顔色は蒼白になり、手足は頼りなく震えます。実浦くんの内側にしか存在しないはずの感情が、皮膚を隔てた外側の世界へ向けて、ここにいる、ここにいる、と主張しているようでした。
おばあさんは何も言わず、ただ実浦くんの震える背中をなでました。そうしますと実浦くんは、全てを許されたような気持ちになって、嗚咽とともに言葉を吐き出しました。
「ぼく、ここに来るまでとても恐ろしかったのです。マグマを噴かせたら、きっとぼくはマグマに呑まれて助からないと思っていましたから、それがとても恐ろしかった。そして今は、ぼくがこうして安全な場所にいる間に、上に残してきた人々が嵐に苛まれているかと思うと、そちらの方が恐ろしく感じます。ぼくは一体どうすれば、この恐怖から逃れられるのですか」
実浦くんがそれだけ言ってしまいますと、おばあさんは「さあ、さあ」と言って珈琲を勧めました。実浦くんは今度はそれを断らずに、珈琲を一口飲みました。そして一口ぶんだけ飲み込むと、またわんわんと泣きました。
「失うことへの恐れは、誰にとっても耐え難いものです。だけどあなたはよくここまで来ました。本当によく、よくここまで来ましたね」
実浦くんは、珈琲を飲むのと、泣きじゃくるのとを交互に繰り返しました。その間おばあさんは、ずっと実浦くんの背中をなでさすっていました。
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