1 / 3
第1話
快食走労
しおりを挟む
頰にあたる風が、いつのまにか春らしいものになっていた。
冬の間のピンと張り詰めたような空気がとけて、色々なものが活動を始める、自然の営みの匂い。
普段忙しく日々を過ごしているとあまりそういうものを意識することもないのだけど、この匂いがすると、また一年がたったんだな、と以前にその匂いをかいだ日のことを思い出す。
実際にそれは去年の今頃だったり、もう少し前、ずっと念願だった制服に袖を通し誇らしい気持ちと情熱を胸に、この交番に配属された日のことだったりする。
ちょうど今は通勤通学の時間帯なので、駅へ続く商店街に面したこの交番の前は学生服やスーツを着た人々であふれている。
友達とふざけ合いながら笑っているものや、半分眠っているような足取りの学生達、スマートフォンに目を落としながら早足に歩くサラリーマン。
数年前までは自分もこんな景色に混じっている一人だったのに、こうして交番からそれを眺めているのが少し不思議な感じがした。いや、たかだか四年の勤続で感傷的になるなんてさすがに早いかなと苦笑していると
「よお、勉強してるか大谷」 と、先輩警官である白鳥健が出勤してきた。
大谷よりも十歳年上の先輩は背は170センチ後半。ぱっと見は細身だが空手、柔道の段持ちで、その体躯は引き締まった筋肉に覆われている。
そして、なにより印象的なのが眉毛だ。
お山形の眉毛につぶらな小さい目、小さな鼻と、どうにも校庭に迷い込んだ犬が子供にいたずらで眉毛を書かれました、というような顔なのだけど、苗字は白鳥で名はけん、という、どうにもちぐはぐなのだ。
もちろんそんな感想を言葉にしようものなら、地獄のような稽古に付き合わされ、しこたましぼられるハメになるだろう。
それに、大谷に言った勉強というのも、そろそろ自分にも巡ってくる昇任試験の勉強のことで、厳しい先輩だが暇をみつけてはその相談にものってくれる良い先輩なのだ。
「うーん、ぼちぼちですかね」
と苦笑まじりに頭をかく大谷に
「ぼちぼちだあ?生意気なこといってやがるなあ」
と笑いながら肩をがしがしと叩かれた。
「大谷は今22歳だったな、俺が巡査長になったのはたしか25の時だ。言い訳をする気はないが、俺は頭使うより体動かすのがすきでな、この町の人達のために動きまわって汗をかくってのが楽しくて、正直あまり昇進にも興味がなくてな、だらだらやってたら3年もかかっちまった」
言いながら机にどかりと座り込み、椅子をくるりと大谷の方に向ける。
「だが今はわかるんだよ、後輩ってのができると。自分が手本にならなけりゃならんからな、階級がいちばん下のままじゃ指導にも説得力がつかん」
「ま、お前は安心しろ、俺が指導してやるからな、俺よりも早く昇進せにゃならんぞ」
と言って笑った。
退勤にあたって、頼れる犬眉先輩に引き継ぎ事項の報告をする。
特に報告することもなかったので、いつも通りの形式的な報告に加えて、最近管内を騒がせている食い逃げ犯についての目撃情報や、新たな被害をうけた店などもなかったことを報告した。
一度、所属する三つ谷警察署に戻り装備品を返却し制服を着替えて署を出た。
自宅に近い駅を降りると、通勤ラッシュもひと段落した駅前のロータリーは、朝の気持ちのいい日差しが降りそそぎ、人もまばらだった。
勤務を終えた開放感と眠さにまかせて大きなあくびをしながらのんびりと歩いていると、うまそうなだしの香りが鼻をくすぐった。
青空のもと手打ちそば 菊池の看板に柔らかな日差しがふりそそいでいる。看板の上で2羽の雀が跳ねていた。
寄っていこうかなと、店の方を見ていると、入り口の戸ががらりと開き、店主のおばちゃんが顔をのぞかせた。
「あら蓮二くん、お仕事帰りかい?ご苦労さまだね」
大谷が子供の頃から顔なじみのおばちゃんである。近所なので家族で食べに来ることもあるし1人で来ることも多い店だ。
「寄ってくかい?」
と白いかっぽう着に白い手ぬぐいを頭に巻いた姿で、人の良さそうな笑顔で声をかけてくる。
夜勤明けで腹も減っていたので
「うん、食べてくよ」
と、大谷も笑顔で答えた。
年季は入っているが、きれい好きのおばちゃんによって清潔に保たれているテーブルに着き、かけ蕎麦にとり肉の天ぷらを注文すると、おばちゃんはちくわの天ぷらをひとつおまけしてくれた。
朝は出勤前のサラリーマンなどで忙しいお店も、この時間は大谷しか客はいなかった。
仕事の近況など他愛ないおしゃべりをしながら蕎麦をほおばっていると、ふと思いついて大谷はおばちゃんに言った。
「最近、この辺で食い逃げ犯が出没してるみたいだから、おばちゃんも気をつけてね?もし食い逃げ犯が現れても、くれぐれも追いかけたりしちゃだめだからね」
下手に追いかけると振り払われて怪我したり、店の人間が店を離れてるのいいことに便乗して自分も、なんて不届きな奴もいるかもしれない。
昔ながらのこの店は食券機を導入していなくて、食事後に入り口ちかくのレジで精算する。食い逃げ犯としては仕事がしやすいタイプの店だ。
「まあ怖いわねえ、うちみたいな小さいとこだと、蕎麦一杯でも逃げられたらきついもの」
怖いと言いつつもあまり真剣に考えてはいないような反応だ。被害にあったどこの店もまさか自分の店が、と思っているところに被害にあう。
犯人は店を事前に下調べしておいて後日、犯行におよぶのだ
もう少し口すっぱく注意しようと思っていると、店の外でバイクの音が近づいてきて止まった。ガラリと扉が開く。
「なんだ、蓮二、きてたのか」
おばちゃんの亭主のおじちゃんだ。おばちゃんと同じ白のかっぽう着の上に黒のジャンパーを着ている。姿を見ないと思ったが、この時間に出前もないだろうし、買い出しにでも行っていたのか。
この時期でもまだ、朝は冷えるな、とおじちゃんが戸を閉めるすんぜん、背後に人影が見えた。ほんの一瞬だが男と目があった。
すぐに男は視線をそらし、通り過ぎていった。通勤ラッシュの時間を過ぎたとはいえ、人通りがないということもない、別に変わったことでもないけれど、大谷は何かが気になった。
警察官はとっさの判断力が必要だ。白鳥先輩の教えが頭をよぎる。
短い時間で状況判断をし、最短で行動に移れ、と。
いったい自分が何に違和感を覚えたのかを考えていた大谷だが、ようやく閃いた。目つきだ。
これも白鳥先輩に前に教わったことがある。犯罪者には特有の目つきというものがあって、犯罪には突発的なものか計画的なものに分かれる。
突発的なものはたいてい目は見開かれているか逆にすわっている。精神的に追い詰められていたり、心に余裕がない。
今見た男の目はそうじゃなかった。
今は事を起こすつもりはないからリラックスしてはいるものの、頭の中ではやましいことを考えているので、誰かと視線が合ったりすると反射的に目をそらしたりする。
まあ、ただそれだけで不審者と決めつけるというのも流石におかしいが、一応気になったので席を立ち、扉を開けて外を見やる。
さっきちらっと見えた男の特徴を探してみる、確か男は黒っぽい上着に帽子をかぶっていたようなきがする。
いた。店から十メートルほど離れた辺りを早足に歩いている。他に特徴の一致する人間はいない。
扉の開く音に気づいたのか、男はふと後ろを見やって、大谷の姿を見てぎょっとしたような顔をする。
一瞬、ためらったような仕草をし、振り切るように前を向いて走り出した。まさかのビンゴである。
「お?なんだ蓮、食い逃げでもする気かよ」
怪訝そうなおじちゃんの声を背に走りだす。
今は警察手帳も持ってない、もし見当違いだったらとんだまぬけだが、 やましいことがなければ逃げはしまい。革靴をはいているので走りづらいが、今は気にしている場合じゃない。
息せき切って追いかけていると、犬を散歩させていたおじいさんが何事かと驚いてこちらを見やり、リードを引かれている芝犬がきゃんきゃん吠えた。朝ののどかな住宅街を走り抜け、男は角を左におれた。
住宅地なのでおれた先も変わり映えのない景色が続いている。
男は次に右に折れた、引き離されないよう懸命に追いかける。
大谷も警官なので体力には自信があるが、男もなかなか疲れをみせない。流石は食い逃げ犯か、いやまだあいつが食い逃げ犯とは決まってないかなどと考えていると曲がった先で男の姿を見失ってしまった。
道は三方向に別れている。ここまでかと諦めかけていると、左の方から車のクラクションの音と一緒に運転手の文句の声が響いた。
急いで曲がると、少し先を走る男の背中が見えたが、また右に曲がられる。
くそ、本当に逃げ足が速い、少しづつ距離が開いていく。
額に流れる汗をシャツでぬぐい、なおも懸命に追いかける。
男もときおり振り返り、しつこく追いかけてくる大谷を見て、いまいましそうにしかめる。
だがその顔にも、汗がいく筋も流れ、目に見えて疲労の色が濃くなっているのがわかる。もうすぐだ、今がふんばり時だ。
とうとう男の足がもつれだし、よろよろと電信柱に手をついてとまった。大きく肩を上下させ、苦しそうに息をする。
どうにかこちらのねばり勝ちか
大谷も最後の気力をふりしぼって追いすがる。男はなおも往生際わるく逃げようとするも、近くに集積してある家庭ゴミのふくろに足をとられ、粗大ゴミシールの貼られたたんすにぶつかり転んでしまった。
ぶつかった衝撃でたんすの戸が半開きになる。男は観念したように大の字になって空を仰いでいる、もう逃げはしまいと大谷も息を整えながら男に歩み寄る。
ジーンズに黒っぽい色のジャケット、最初にかぶっていたニット帽は手に握られている。
改めて見ると男はけっこう若そうだった。髪は短く刈られ、目は細めで鼻すじがとおっている。
30歳には届いていないくらいだろうか。なんとく食い逃げ犯は太っているおじさんの印象があるが、こいつはやせていた。
体格とあの足の速さからも、なんとなく陸上競技者のような印象をうける、ひょっとしたら本当にかつてはそうだっのかもしれない。
背は170センチそこそこか、逃げた理由を聞き出そうと男に近づいていくと、息をあえがせ、なおも起き上がろうと手を地面についてふんばっていた男が、急に今までの疲労などなかったかのようにむくりと起き上がった。
また逃げ出すのかと身構えたが、男は体を起こしただけで立ち上がろうとはしていない。
不審に思いながらもさらに近づくと、男はなぜか首だけをぐるりと右に回し、かたわらのたんすを見ている、そして、何を思ったのか地面に手をついて這うような姿勢で扉の開いたたんすの中に体をもぐりこませようとしている、
いよいよ訳がわからないがとりあえずは駆けよって男をつかまえようとするも、男は長身の体を折り曲げすっぽりとたんすの中に入ってしまった。ぱたんと音を立てて扉が閉まる。
大谷はぽかんとした。いったい何をしてるんだこいつは??
騒ぎに気づいた野次馬に見られるのを避けたのだろうか?
なんにせよ非番中とはいえさすがに見過ごすこのできないレベルの不審度だ。
開けた瞬間に反撃されるのを警戒し注意しながら扉を開けると、中は空だった。
大谷はまたぽかんとした。
たんすの扉が風にふかれ、きいと鳴った。
冬の間のピンと張り詰めたような空気がとけて、色々なものが活動を始める、自然の営みの匂い。
普段忙しく日々を過ごしているとあまりそういうものを意識することもないのだけど、この匂いがすると、また一年がたったんだな、と以前にその匂いをかいだ日のことを思い出す。
実際にそれは去年の今頃だったり、もう少し前、ずっと念願だった制服に袖を通し誇らしい気持ちと情熱を胸に、この交番に配属された日のことだったりする。
ちょうど今は通勤通学の時間帯なので、駅へ続く商店街に面したこの交番の前は学生服やスーツを着た人々であふれている。
友達とふざけ合いながら笑っているものや、半分眠っているような足取りの学生達、スマートフォンに目を落としながら早足に歩くサラリーマン。
数年前までは自分もこんな景色に混じっている一人だったのに、こうして交番からそれを眺めているのが少し不思議な感じがした。いや、たかだか四年の勤続で感傷的になるなんてさすがに早いかなと苦笑していると
「よお、勉強してるか大谷」 と、先輩警官である白鳥健が出勤してきた。
大谷よりも十歳年上の先輩は背は170センチ後半。ぱっと見は細身だが空手、柔道の段持ちで、その体躯は引き締まった筋肉に覆われている。
そして、なにより印象的なのが眉毛だ。
お山形の眉毛につぶらな小さい目、小さな鼻と、どうにも校庭に迷い込んだ犬が子供にいたずらで眉毛を書かれました、というような顔なのだけど、苗字は白鳥で名はけん、という、どうにもちぐはぐなのだ。
もちろんそんな感想を言葉にしようものなら、地獄のような稽古に付き合わされ、しこたましぼられるハメになるだろう。
それに、大谷に言った勉強というのも、そろそろ自分にも巡ってくる昇任試験の勉強のことで、厳しい先輩だが暇をみつけてはその相談にものってくれる良い先輩なのだ。
「うーん、ぼちぼちですかね」
と苦笑まじりに頭をかく大谷に
「ぼちぼちだあ?生意気なこといってやがるなあ」
と笑いながら肩をがしがしと叩かれた。
「大谷は今22歳だったな、俺が巡査長になったのはたしか25の時だ。言い訳をする気はないが、俺は頭使うより体動かすのがすきでな、この町の人達のために動きまわって汗をかくってのが楽しくて、正直あまり昇進にも興味がなくてな、だらだらやってたら3年もかかっちまった」
言いながら机にどかりと座り込み、椅子をくるりと大谷の方に向ける。
「だが今はわかるんだよ、後輩ってのができると。自分が手本にならなけりゃならんからな、階級がいちばん下のままじゃ指導にも説得力がつかん」
「ま、お前は安心しろ、俺が指導してやるからな、俺よりも早く昇進せにゃならんぞ」
と言って笑った。
退勤にあたって、頼れる犬眉先輩に引き継ぎ事項の報告をする。
特に報告することもなかったので、いつも通りの形式的な報告に加えて、最近管内を騒がせている食い逃げ犯についての目撃情報や、新たな被害をうけた店などもなかったことを報告した。
一度、所属する三つ谷警察署に戻り装備品を返却し制服を着替えて署を出た。
自宅に近い駅を降りると、通勤ラッシュもひと段落した駅前のロータリーは、朝の気持ちのいい日差しが降りそそぎ、人もまばらだった。
勤務を終えた開放感と眠さにまかせて大きなあくびをしながらのんびりと歩いていると、うまそうなだしの香りが鼻をくすぐった。
青空のもと手打ちそば 菊池の看板に柔らかな日差しがふりそそいでいる。看板の上で2羽の雀が跳ねていた。
寄っていこうかなと、店の方を見ていると、入り口の戸ががらりと開き、店主のおばちゃんが顔をのぞかせた。
「あら蓮二くん、お仕事帰りかい?ご苦労さまだね」
大谷が子供の頃から顔なじみのおばちゃんである。近所なので家族で食べに来ることもあるし1人で来ることも多い店だ。
「寄ってくかい?」
と白いかっぽう着に白い手ぬぐいを頭に巻いた姿で、人の良さそうな笑顔で声をかけてくる。
夜勤明けで腹も減っていたので
「うん、食べてくよ」
と、大谷も笑顔で答えた。
年季は入っているが、きれい好きのおばちゃんによって清潔に保たれているテーブルに着き、かけ蕎麦にとり肉の天ぷらを注文すると、おばちゃんはちくわの天ぷらをひとつおまけしてくれた。
朝は出勤前のサラリーマンなどで忙しいお店も、この時間は大谷しか客はいなかった。
仕事の近況など他愛ないおしゃべりをしながら蕎麦をほおばっていると、ふと思いついて大谷はおばちゃんに言った。
「最近、この辺で食い逃げ犯が出没してるみたいだから、おばちゃんも気をつけてね?もし食い逃げ犯が現れても、くれぐれも追いかけたりしちゃだめだからね」
下手に追いかけると振り払われて怪我したり、店の人間が店を離れてるのいいことに便乗して自分も、なんて不届きな奴もいるかもしれない。
昔ながらのこの店は食券機を導入していなくて、食事後に入り口ちかくのレジで精算する。食い逃げ犯としては仕事がしやすいタイプの店だ。
「まあ怖いわねえ、うちみたいな小さいとこだと、蕎麦一杯でも逃げられたらきついもの」
怖いと言いつつもあまり真剣に考えてはいないような反応だ。被害にあったどこの店もまさか自分の店が、と思っているところに被害にあう。
犯人は店を事前に下調べしておいて後日、犯行におよぶのだ
もう少し口すっぱく注意しようと思っていると、店の外でバイクの音が近づいてきて止まった。ガラリと扉が開く。
「なんだ、蓮二、きてたのか」
おばちゃんの亭主のおじちゃんだ。おばちゃんと同じ白のかっぽう着の上に黒のジャンパーを着ている。姿を見ないと思ったが、この時間に出前もないだろうし、買い出しにでも行っていたのか。
この時期でもまだ、朝は冷えるな、とおじちゃんが戸を閉めるすんぜん、背後に人影が見えた。ほんの一瞬だが男と目があった。
すぐに男は視線をそらし、通り過ぎていった。通勤ラッシュの時間を過ぎたとはいえ、人通りがないということもない、別に変わったことでもないけれど、大谷は何かが気になった。
警察官はとっさの判断力が必要だ。白鳥先輩の教えが頭をよぎる。
短い時間で状況判断をし、最短で行動に移れ、と。
いったい自分が何に違和感を覚えたのかを考えていた大谷だが、ようやく閃いた。目つきだ。
これも白鳥先輩に前に教わったことがある。犯罪者には特有の目つきというものがあって、犯罪には突発的なものか計画的なものに分かれる。
突発的なものはたいてい目は見開かれているか逆にすわっている。精神的に追い詰められていたり、心に余裕がない。
今見た男の目はそうじゃなかった。
今は事を起こすつもりはないからリラックスしてはいるものの、頭の中ではやましいことを考えているので、誰かと視線が合ったりすると反射的に目をそらしたりする。
まあ、ただそれだけで不審者と決めつけるというのも流石におかしいが、一応気になったので席を立ち、扉を開けて外を見やる。
さっきちらっと見えた男の特徴を探してみる、確か男は黒っぽい上着に帽子をかぶっていたようなきがする。
いた。店から十メートルほど離れた辺りを早足に歩いている。他に特徴の一致する人間はいない。
扉の開く音に気づいたのか、男はふと後ろを見やって、大谷の姿を見てぎょっとしたような顔をする。
一瞬、ためらったような仕草をし、振り切るように前を向いて走り出した。まさかのビンゴである。
「お?なんだ蓮、食い逃げでもする気かよ」
怪訝そうなおじちゃんの声を背に走りだす。
今は警察手帳も持ってない、もし見当違いだったらとんだまぬけだが、 やましいことがなければ逃げはしまい。革靴をはいているので走りづらいが、今は気にしている場合じゃない。
息せき切って追いかけていると、犬を散歩させていたおじいさんが何事かと驚いてこちらを見やり、リードを引かれている芝犬がきゃんきゃん吠えた。朝ののどかな住宅街を走り抜け、男は角を左におれた。
住宅地なのでおれた先も変わり映えのない景色が続いている。
男は次に右に折れた、引き離されないよう懸命に追いかける。
大谷も警官なので体力には自信があるが、男もなかなか疲れをみせない。流石は食い逃げ犯か、いやまだあいつが食い逃げ犯とは決まってないかなどと考えていると曲がった先で男の姿を見失ってしまった。
道は三方向に別れている。ここまでかと諦めかけていると、左の方から車のクラクションの音と一緒に運転手の文句の声が響いた。
急いで曲がると、少し先を走る男の背中が見えたが、また右に曲がられる。
くそ、本当に逃げ足が速い、少しづつ距離が開いていく。
額に流れる汗をシャツでぬぐい、なおも懸命に追いかける。
男もときおり振り返り、しつこく追いかけてくる大谷を見て、いまいましそうにしかめる。
だがその顔にも、汗がいく筋も流れ、目に見えて疲労の色が濃くなっているのがわかる。もうすぐだ、今がふんばり時だ。
とうとう男の足がもつれだし、よろよろと電信柱に手をついてとまった。大きく肩を上下させ、苦しそうに息をする。
どうにかこちらのねばり勝ちか
大谷も最後の気力をふりしぼって追いすがる。男はなおも往生際わるく逃げようとするも、近くに集積してある家庭ゴミのふくろに足をとられ、粗大ゴミシールの貼られたたんすにぶつかり転んでしまった。
ぶつかった衝撃でたんすの戸が半開きになる。男は観念したように大の字になって空を仰いでいる、もう逃げはしまいと大谷も息を整えながら男に歩み寄る。
ジーンズに黒っぽい色のジャケット、最初にかぶっていたニット帽は手に握られている。
改めて見ると男はけっこう若そうだった。髪は短く刈られ、目は細めで鼻すじがとおっている。
30歳には届いていないくらいだろうか。なんとく食い逃げ犯は太っているおじさんの印象があるが、こいつはやせていた。
体格とあの足の速さからも、なんとなく陸上競技者のような印象をうける、ひょっとしたら本当にかつてはそうだっのかもしれない。
背は170センチそこそこか、逃げた理由を聞き出そうと男に近づいていくと、息をあえがせ、なおも起き上がろうと手を地面についてふんばっていた男が、急に今までの疲労などなかったかのようにむくりと起き上がった。
また逃げ出すのかと身構えたが、男は体を起こしただけで立ち上がろうとはしていない。
不審に思いながらもさらに近づくと、男はなぜか首だけをぐるりと右に回し、かたわらのたんすを見ている、そして、何を思ったのか地面に手をついて這うような姿勢で扉の開いたたんすの中に体をもぐりこませようとしている、
いよいよ訳がわからないがとりあえずは駆けよって男をつかまえようとするも、男は長身の体を折り曲げすっぽりとたんすの中に入ってしまった。ぱたんと音を立てて扉が閉まる。
大谷はぽかんとした。いったい何をしてるんだこいつは??
騒ぎに気づいた野次馬に見られるのを避けたのだろうか?
なんにせよ非番中とはいえさすがに見過ごすこのできないレベルの不審度だ。
開けた瞬間に反撃されるのを警戒し注意しながら扉を開けると、中は空だった。
大谷はまたぽかんとした。
たんすの扉が風にふかれ、きいと鳴った。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【一話完結】断罪が予定されている卒業パーティーに欠席したら、みんな死んでしまいました
ツカノ
ファンタジー
とある国の王太子が、卒業パーティーの日に最愛のスワロー・アーチェリー男爵令嬢を虐げた婚約者のロビン・クック公爵令嬢を断罪し婚約破棄をしようとしたが、何故か公爵令嬢は現れない。これでは断罪どころか婚約破棄ができないと王太子が焦り始めた時、招かれざる客が現れる。そして、招かれざる客の登場により、彼らの運命は転がる石のように急転直下し、恐怖が始まったのだった。さて彼らの運命は、如何。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
妻からの手紙~18年の後悔を添えて~
Mio
ファンタジー
妻から手紙が来た。
妻が死んで18年目の今日。
息子の誕生日。
「お誕生日おめでとう、ルカ!愛してるわ。エミリア・シェラード」
息子は…17年前に死んだ。
手紙はもう一通あった。
俺はその手紙を読んで、一生分の後悔をした。
------------------------------
魔王を倒した手柄を横取りされたけど、俺を処刑するのは無理じゃないかな
七辻ゆゆ
ファンタジー
「では罪人よ。おまえはあくまで自分が勇者であり、魔王を倒したと言うのだな?」
「そうそう」
茶番にも飽きてきた。処刑できるというのなら、ぜひやってみてほしい。
無理だと思うけど。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
魔王を倒した勇者を迫害した人間様方の末路はなかなか悲惨なようです。
カモミール
ファンタジー
勇者ロキは長い冒険の末魔王を討伐する。
だが、人間の王エスカダルはそんな英雄であるロキをなぜか認めず、
ロキに身の覚えのない罪をなすりつけて投獄してしまう。
国民たちもその罪を信じ勇者を迫害した。
そして、処刑場される間際、勇者は驚きの発言をするのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる