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【第一部:背徳の蜜月】
第六章:失速、そして迷走へ
その日の朝、オフィスの空気はどこか粘りつくような嫌な湿り気を帯びていた。
志帆がデスクに座るなり、周囲のざわめきが一瞬だけ止まり、すぐに波が引くように不自然な静寂が訪れた。
誰かと目が合いそうになれば、相手は慌てて視線を逸らし、ひそひそと隣の同僚と耳打ちを始める。
(何かが、おかしい……)
嫌な予感は、すぐに現実のものとなった。
「佐藤さん、ちょっと会議室までいいかな」
部長の呼びかけは、いつもより低く、拒絶の響きを含んでいた。
志帆が立ち上がると、背中に刺さるような冷たい視線を感じた。
加奈だけが、遠くから祈るような、あるいは諦めたような悲しい目をして彼女を見つめていた。
会議室のドアが閉まった瞬間、部長は一言も発さず、机の上に数枚の写真を並べた。
そこには、紛れもなく志帆と隆が、夜の街で肩を寄せ合い、ホテルへと吸い込まれていく後ろ姿が映し出されていた。
「これは……」
「匿名で編集部に届いたそうだ。佐藤さん、君はうちの看板を背負って外回りに出ているはずだ。それが、仕事の時間に、よりによって同じビルに入っている法律事務所の人間とこんな場所に出入りしているとは、どういうことかね」
喉が焼け付くように乾き、言葉が出てこない。
言い訳を考えようにも、鮮明に捉えられた「背徳の証拠」が、彼女のすべての逃げ道を塞いでいた。
「……申し訳ありません」
志帆にできたのは、それだけだった。
「君の私生活に口を出すつもりはないが、業務時間中の不適切極まる行動は看過できない。クライアントに知られたら、うちの信用は丸潰れだ。……すまないが、当面は自宅待機を命じる。今後の処遇については、追って連絡する」
会社を追い出されるようにして飛び出した志帆は、震える手で隆に電話をかけた。
何度も、何度も。
けれど、隆が電話に出ることはなかった。
代わりに届いたのは、一本の短いメールだった。
『私のところにも、同じものが届きました。……今は、動かないでください。妻が動いています。すべて、私が解決します』
解決。
その言葉が、今の志帆には空虚に響いた。
隆の妻、恵子が動き出した。
それは、志帆にとっての日常が、完全に崩壊することを意味していた。
重い足取りで帰宅した志帆を待っていたのは、暗闇の中で一人、食卓に座り込む健太だった。
電気もつけず、彼はただ、テーブルの上に置かれた一通の封筒を見つめていた。
「……おかえり」
その声は、死者のように枯れていた。
「健太、私……」
「言わなくていい。これを見れば、全部わかるから」
健太が封筒から中身を鷲掴みに取り出し、志帆に投げつけた。
床に散らばる写真。
会社に届いたものと同じ、けれどより至近距離から二人の親密さを捉えた、残酷な記録。
「いつからだ」
「……五月の、雨の日から」
志帆の声は震えていたが、嘘をつく気力はもう残っていなかった。
「五月……。俺が君のためにパスタを作った日も、君が『疲れてる』と言って俺を拒んだ夜も、君はこの男といたのか?」
健太が立ち上がり、志帆の肩を強く掴んだ。
その瞳には、怒りよりも深い、絶望的な哀しみが宿っていた。
「俺たちの五年間に、何の意味があったんだ! 俺がどれだけ歩み寄ろうとしても、君は心ここに在らずで……。この男の、何がそんなに良かったんだよ!」
「……この人は、私を見てくれたの!」
志帆は叫んでいた。
「あなたが私を透明な家具のように扱っていた間、この人だけが、私の孤独に気づいてくれた。……健太、あなたには分からないわ。私がどれだけ、あの家で窒息しそうだったか!」
「だからって、不倫していい理由にはならないだろう!」
激しい罵声がリビングに響き渡る。
健太の手が力なく離れた。彼は崩れ落ちるように椅子に座り、顔を覆った。
「……出ていってくれ。今すぐ」
「健太……」
「顔も見たくない。……君がこんなに汚らわしい女だなんて、思いたくなかった」
志帆は、最低限の荷物だけを鞄に詰め込み、夜の街へと逃げ出した。
行き場など、どこにもなかった。
隆に連絡しても、相変わらず返信はない。
夜の公園のベンチに座り、志帆は初めて、自分の犯した罪の重さに押し潰されそうになった。
隆という傘は、彼女を雨から守ってくれたのではなかった。
彼女を激しい嵐のただ中へと誘い出し、すべてを奪い去るための、美しい罠だったのだ。
(隆さん……助けて。私、もう何もないの)
闇の中で、志帆は泣き続けた。
けれど、降り始めた雨は、彼女の涙さえも無慈悲に洗い流していく。
真実は暴かれ、志帆は一人、真っ暗な奈落の底へと転落していった。
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