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第6章 発見
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1.
「トイレに行ってきます」真島大斗は、上司に声をかけ持ち場を離れた。
今日は、国会議員の議員会館内にある什器類と国会議事堂の参議院議員控室内にある什器類を移し替える作業を行うチームへシフトされていた。
朝一番に議員会館へ向かい、移し替える什器類を引越し用のトラックに積み込み、国会議事堂へ移動した後に参議院議員控室内の什器類を搬出し、議員会館から運んだ什器類を搬入する。
場所が場所なだけに、慎重に作業を進めなければならなかった。建物の内部や什器類に一切の傷をつけないように神経を使いながらの作業である。
普段の引っ越し作業よりも時間がかかり、参議院議員控室内の什器類の搬出を終えたとき、時刻は正午を回っていた。
午後から逆の作業があるのだが、スタッフたちの顔には、すでに疲労の色が浮かんでいた。
しかし、真島は疲労を感じていなかった。頭の中で気にかかっていたことがあったからだ。
気にかかっていたこととは、昨夜に経験した不思議な出来事である。
むしゃくしゃして仕方のなかった真島は、夜の住宅街を徘徊した。
とあるマンションにたどり着いたとき、駐輪場の自転車に火をつけたくなる衝動にかられた。
そして、まさに火をつけようとした瞬間に、不思議な力が働いた。
その後、頭の中で自転車に火を放つ場面を妄想し、むしゃくしゃした気分を治めることができたのだが、いまだに、なぜあのようなことが起こったのかの見当もつかなかった。
空耳だったのかもしれないが、耳に、放火をした場合の刑罰についてささやく声が聞こえた。
おかげで一線を踏み越えることなく自分は救われたのだが、いまだにあれは何だったのだろうという思いでいっぱいだった。
引っ越し作業の責任者が午前中の作業終了の確認をしている中、便意を催した真島は、国会議事堂一階のトイレに向かった。
用を足しながら、ポケットの中に入っていたパチンコ玉をもてあそんだ。
用を終えた真島は、便器の排水用のレバーハンドルを引いた。水が、勢いよく流れ出す。
そのとき、パチンコ玉が手から零れ落ちた。パチンコ玉が二個、トイレの床を転がった。
真島は、パチンコ玉の行方を追った。
パチンコ玉は、壁にぶつかり、動きを止めた。身をかがめた真島は、パチンコ玉に手を伸ばした。
あと数センチほどのところまで手を伸ばしたとき、真島は体のバランスを崩した。
前のめりに倒れた真島の腹部と便器の排水用のレバーハンドルが接触する。
レバーハンドルに、大きな力が働いた。レバーハンドルが逆方向に湾曲し、水が止まらなくなった。
慌てた真島は、懸命にレバーハンドルを引き戻そうとした。しかし、便器の水は止まらない。
(どうすればいいんだ?)真島は、うろたえた。懸命に水を止めようと試みる。
しかし、水を止めることはできなかった。
そうこうしているうちに時間が過ぎていく。長時間持ち場を離れると上司から叱られてしまう。
真島は、ことの顛末を報告することにした。
真島から報告を受けた参議院事務局職員の九鬼は、トイレの修理業者へ連絡を入れた。
間がなく修理業者がやって来て、レバーハンドルは元通りの姿になった。
しかし、騒ぎはそれで治まらなかった。修理業者が、便器の裏側に妙なものが付着しているのを見つけたからだ。
付着物は、白い粘土状の塊だった。先端部分に小さな金属の筒状のものが細いワイヤー状の線で取り付けられている。
修理業者は、そのことを九鬼に報告した。
不審に感じた九鬼が、警察に通報する。
警察による調査で付着物の正体が明らかになった。
その正体を知った警察に、緊張が走った。
2.
同じころ、防衛省厚生管理課を後にし、防衛省本庁厚生棟の入口へ向かって歩いていた川島義則は、急に尿意にかられた。四十歳を過ぎて、頻尿になったことを自覚していた。突然トイレに行きたくなることが何度もあったからだ。
川島は、厚生棟内のトイレを借りることにした。
男性用トイレの中は無人だった。小便用便器の前に立ち、放尿する。
放尿しながら、つい先ほど体験した出来事を思い返した。
厚生管理課長の井川のいじめに耐えきれなくなり、感情が爆発した。井川のことを、思う存分殴りつけようと思った。そんなことをすれば間違いなく会社を首になるが、あの時は、それでもかまわないと思っていた。
妻や子どものことを冒涜され黙っているようでは、男がすたる。生活は苦しくなるが、妻や子どもたちも理解してくれるはずだと思った。
もちろん冷静になって考えてみると実に甘い考えだったということはわかるのだが、あのときは頭に血が上り、冷静な判断ができずにいた。
川島は、すんでのところで人生の転落を免れた。運の良さに感謝する気持ちが湧いてきた。
(しかし、あれはいったい何だったのだろうか?)今まで経験したことのない不思議な出来事だった。
井川につかみかかろうとした体を押しとどめる大きな力が働いた。
誰かに体をつかまれたわけではない。あのとき、井川の部下たちは皆、自分の席にいたからだ。
それだけではなかった。
そのようなことをすれば会社の就業規則に基づいて懲戒解雇されることをささやく声も聞こえた。
それにより、自分は冷静さを取り戻し、その後頭の中で井川をコテンパンにやっつける場面を妄想し、気が晴れた。
まさに自分は救われたわけだが、いまだに、なぜあのようなことが起こったのかの見当がつかなかった。
用を足した川島は、洗面台で手を洗った。ハンカチで手をふき、髪の乱れを整える。
腰に、軽い張りを感じた。妙なことに力を使ったからだろう。
川島は、腰を左右に振り、軽く屈伸運動をした。腰の張りが、徐々に消えていった。
屈伸運動をしながら何気なく視線を下に向けた川島の目が、異物をとらえた。洗面台に、何かがぶら下がっているのが見えた。
川島は、洗面台の前にしゃがんだ。
洗面台の排水パイプの裏側に小さな金属の筒状のものがぶら下がっているのが見えた。
洗面台の裏側に白い粘土状の塊が付着しており、その塊と筒状のものとが細いワイヤー状の線でつながっている。
首を傾げた川島は、白い粘土状の塊に触れてみた。表面はつるつるとしており、材質は柔らかい。
子どものいたずらかと思った川島だったが、念のために、このことを厚生棟の職員に報告することにした。
川島からの報告を受けた厚生棟の職員は、警備員とともに現場の確認を行った。
「もしかしたら」警備員の顔が険しくなった。警備員は、警察のOBであった。
警備員に勧められた厚生棟の職員は、警察に通報した。
通報を受けた警察が、慎重に付着物を調べる。
それにより、付着物の正体が明らかになった。警備員が抱いた悪い予感が的中した結果となった。
男性用トイレの入り口に、使用不可の張り紙が張られた。
3.
「爆弾が仕掛けられていたのは、国会議事堂と防衛省の二カ所で間違いないんだな?」日売新聞編集局長の長船は、社会部部長の明石を問いただした。
警視庁記者クラブの担当記者からプラスチック爆弾が仕掛けられていたのが見つかったという報告が入り、社会部の中は、蜂の巣をつついたような状態になっていた。
警視庁記者クラブは、全国紙や民放各社が共同で加盟する、事件や事故に関する情報をいち早く入手するための警視庁内にある詰所であり、各社が同じ内容の情報を同時に入手することができる。
しかしながら、降りてくる情報は最新の情報や警視庁の公式見解であるとは限らないため、独自の取材活動により情報の裏付けや最新情報の確認を行う必要があった。
これだけの衝撃的なニュースである。民放各社は、こぞって夕方以降のニュースで報道するはずだ。
すでに夕刊の締切り時刻は過ぎていたが、新聞各社が、明日の朝刊ででかでかと報道するのは間違いない。号外を配るところもあるかもしれない。
長船は、焦りを感じていた。過去に、ライバル紙に最新情報を出し抜かれたときの記憶が脳裏をよぎった。
まずは、報告を受けた二カ所以外にも爆弾の仕掛けられていたところがなかったのかどうかを確認する必要があった。
加えて、爆弾の内容についても正確に把握する必要があった。
今回は、プラスチック爆弾というなじみの薄い種類の爆弾が使用されていたからだ。
「警視庁に応援の人間を行かせましたが、今のところ、ほかに爆弾が仕掛けられていたという情報は入ってきていません」明石が状況を伝えた。
長船は、唇をかみしめながら何度も頷いた。
そんな長船に向って、「内閣官房長官あてに脅迫状が送られてきた件も報道するのですよね?」と明石が問うてきた。
二日前にそのことを記した怪文書が届き、内閣府と警視庁にそれぞれ問い合わせを行ったのだが、そのような事実はないという回答があり、報道を見合わせていたからだ。
「当然、関連があるとみるべきだよな?」
「脅迫状には、国内の主要施設に爆弾を仕掛けたと書いてありました。二週間の期限を切って内閣総辞職を要求し、要求が受け入れられない場合は爆破すると脅しています。そして、現に、国の主要施設に爆弾が仕掛けられていました。しかも、プラスチック爆弾という極めて威力の強い爆弾です」
「警視庁からの連絡では、無線による起爆が可能な状態だったということだよな?」
「はい」
「内閣府で見つかった爆弾はダイナマイトだったが……。犯人は、なぜ異なる種類の爆弾を仕掛けたのだろうか?」
「私の推測ですが、内閣府の爆弾は発見させることが目的だったので、見つけやすいダイナマイトを仕掛け、今回見つかったのは本当に爆発させることが目的だったので、見つけにくいプラスチック爆弾を仕掛けたのだと思います。加えて、犯人は、あえて最初にダイナマイトを発見させることで、ほかに仕掛けられているとしてもダイナマイトが使用されているという先入観を与えようと考えたのではないでしょうか」
明石が、右手の中指を鼻筋にあてながらメガネのフレームを押し上げる仕草をした。これは、彼が自信をもって発言する時のポーズだった。
長船も、明石の思考分析力を高く評価していた。事件や事故の背景や論点などを読者にわかりやすく伝えなければならない社会部の責任者として、最も重要な資質である。
「そのように考えれば、筋が通るな」長船は、明石の推論を肯定した。
「では、そのこととセットで今回の記事を作成してもよいのですね?」明石が念押しした。
「その方向で記事を作成してくれ。一応、私のほうから社長へ報告しておく。社長も、首を横に振らんと思うよ。間違いなく、他紙も報道するはずだからね」
長船は、政府要人が共同記者会見を行う様子を、頭の中で想像した。
4.
店内に入り、辺りをキョロキョロと見回した警視庁捜査第一課の宗像義之に向って、奥の席から畠山博嗣が手を振った。彼の前には、お冷の入れられたグラスだけが置かれていた。
宗像は、畠山がいるテーブルに向かった。すかさず、ウェイトレスが注文を取りに来る。
二人は、千円のランチを注文した。三種類あるうちの中間の値段である。
「お前と飯を食うのも、久しぶりだな」畠山が、しみじみとした口調で言葉を発した。
「お互いに忙しいからな」キャリア組の畠山は、ノンキャリア組の宗像と違った意味での忙しさがある。
二人は、幼馴染の関係であった。
ともに同じ年に警察の世界に足を踏み入れたが、国家公務員採用I種試験に合格し警察庁に採用された畠山は、キャリア組としての道を歩み続けていた。
宗像が警部補であるのに対して、畠山は、すでに三階級上の警視正である。
畠山は、警察庁刑事企画課の情報分析支援室長の肩書を持っていた。
食事をともにしながら、二人は幼馴染としての旧交を温めた。時折、互いの仕事の話にも触れる。
「最近、お前の名前が悪い意味で聞こえてくるぞ」畠山が、宗像の行き過ぎた捜査や取り調べについて警察庁内でも話が上がったことを口にした。警察庁の刑事企画課には刑事指導室という部署があり、問題のある警察官に対して注意や指導を与えることができる。
警察庁内で自分のことが取りざたされているという噂は、宗像も耳にしていた。
「オレも、もう少し大人にならなければならないなと反省したところだ」宗像は、婦女暴行の容疑で取り調べた容疑者に対して手を上げようとしたときのことを口にした。
あのときは、不思議な力が働き、容疑者に対する暴力は未遂に終わった。その後頭の中によぎった妄想の中で、自分のことをかばい続けてくれている上司から釘を刺された。
その結果、大人にならなければという気持ちになれたのだが、そのときのことは、ほんの数秒前に起こったことのように宗像の記憶に焼き付いていた。
ランチを食べ終えた二人のもとにコーヒーが運ばれてきた。コーヒー好きの畠山が、さっそくカップに口をつける。
その様子を見ながら、宗像は、あることを伝えたい衝動に駆られていた。
マスコミが競って報道を繰り返しているプラスチック爆弾が発見されたというニュースを目にした宗像に、ある勘がよぎった。
内閣官房長官あてに脅迫状が送り付けられ建物の中にダイナマイトが仕掛けられていたことに関して警視庁が捜査を続けていたが、捜査員の中には、ほかに爆発物は仕掛けられていないのではないかと考えている者も少なからずいた。
それが、今回プラスチック爆弾が仕掛けられているのが発見され、単なる脅しではないことが明らかになったことを受けて、発見された二カ所以外にも爆弾が仕掛けられているという前提のもとで捜査が継続されることになった。
とはいえ、国内すべての施設を捜査するわけにはいかない。捜査対象施設の選定を巡って警視庁内でも意見は割れていたが、宗像は、警察庁がターゲットになっている可能性が高いと感じていた。
今回発見されたのが国会議事堂と防衛省という国家機能をつかさどる重要機関であったということもあるのだが、宗像の勘に大きく訴えかけるものがあったからだ。
このように強く訴えかけられたときの勘は、高い確率で的中している。
意を決した宗像は、そのことを畠山に対して口にした。
最初は半信半疑な表情を浮かべていた畠山だったが、宗像の真剣な表情を目にしたことで真剣な表情に変わっていった。可能性があるということを畠山自身も考えていたようだ。
「お前の勘が当たっているとすると、中央合同庁舎第二号館のどこかに仕掛けられているということになるのか?」畠山が、声を潜めながら聞き返した。警察庁は、中央合同庁舎第二号館の中にある。
「おそらく、今までと同じ、ビルの一階のトイレとかじゃないのかな。ビル全体を破壊するのなら、一階に仕掛けるのが効果的だし、一階は警戒が薄いだろう?」
「一階は、コミュニティスペースが多いからな。仕掛けやすくなるのは事実だ」
「すぐに調べたほうがいいんじゃないのか?」
「そうだな。警視庁の建物は調べないのか?」
「オレは、あるとしたら警察庁のほうだと思っているけど、一応、上に言っておくよ」
宗像は、このことを警視庁の誰に伝えるべきか考えを巡らせた。
「トイレに行ってきます」真島大斗は、上司に声をかけ持ち場を離れた。
今日は、国会議員の議員会館内にある什器類と国会議事堂の参議院議員控室内にある什器類を移し替える作業を行うチームへシフトされていた。
朝一番に議員会館へ向かい、移し替える什器類を引越し用のトラックに積み込み、国会議事堂へ移動した後に参議院議員控室内の什器類を搬出し、議員会館から運んだ什器類を搬入する。
場所が場所なだけに、慎重に作業を進めなければならなかった。建物の内部や什器類に一切の傷をつけないように神経を使いながらの作業である。
普段の引っ越し作業よりも時間がかかり、参議院議員控室内の什器類の搬出を終えたとき、時刻は正午を回っていた。
午後から逆の作業があるのだが、スタッフたちの顔には、すでに疲労の色が浮かんでいた。
しかし、真島は疲労を感じていなかった。頭の中で気にかかっていたことがあったからだ。
気にかかっていたこととは、昨夜に経験した不思議な出来事である。
むしゃくしゃして仕方のなかった真島は、夜の住宅街を徘徊した。
とあるマンションにたどり着いたとき、駐輪場の自転車に火をつけたくなる衝動にかられた。
そして、まさに火をつけようとした瞬間に、不思議な力が働いた。
その後、頭の中で自転車に火を放つ場面を妄想し、むしゃくしゃした気分を治めることができたのだが、いまだに、なぜあのようなことが起こったのかの見当もつかなかった。
空耳だったのかもしれないが、耳に、放火をした場合の刑罰についてささやく声が聞こえた。
おかげで一線を踏み越えることなく自分は救われたのだが、いまだにあれは何だったのだろうという思いでいっぱいだった。
引っ越し作業の責任者が午前中の作業終了の確認をしている中、便意を催した真島は、国会議事堂一階のトイレに向かった。
用を足しながら、ポケットの中に入っていたパチンコ玉をもてあそんだ。
用を終えた真島は、便器の排水用のレバーハンドルを引いた。水が、勢いよく流れ出す。
そのとき、パチンコ玉が手から零れ落ちた。パチンコ玉が二個、トイレの床を転がった。
真島は、パチンコ玉の行方を追った。
パチンコ玉は、壁にぶつかり、動きを止めた。身をかがめた真島は、パチンコ玉に手を伸ばした。
あと数センチほどのところまで手を伸ばしたとき、真島は体のバランスを崩した。
前のめりに倒れた真島の腹部と便器の排水用のレバーハンドルが接触する。
レバーハンドルに、大きな力が働いた。レバーハンドルが逆方向に湾曲し、水が止まらなくなった。
慌てた真島は、懸命にレバーハンドルを引き戻そうとした。しかし、便器の水は止まらない。
(どうすればいいんだ?)真島は、うろたえた。懸命に水を止めようと試みる。
しかし、水を止めることはできなかった。
そうこうしているうちに時間が過ぎていく。長時間持ち場を離れると上司から叱られてしまう。
真島は、ことの顛末を報告することにした。
真島から報告を受けた参議院事務局職員の九鬼は、トイレの修理業者へ連絡を入れた。
間がなく修理業者がやって来て、レバーハンドルは元通りの姿になった。
しかし、騒ぎはそれで治まらなかった。修理業者が、便器の裏側に妙なものが付着しているのを見つけたからだ。
付着物は、白い粘土状の塊だった。先端部分に小さな金属の筒状のものが細いワイヤー状の線で取り付けられている。
修理業者は、そのことを九鬼に報告した。
不審に感じた九鬼が、警察に通報する。
警察による調査で付着物の正体が明らかになった。
その正体を知った警察に、緊張が走った。
2.
同じころ、防衛省厚生管理課を後にし、防衛省本庁厚生棟の入口へ向かって歩いていた川島義則は、急に尿意にかられた。四十歳を過ぎて、頻尿になったことを自覚していた。突然トイレに行きたくなることが何度もあったからだ。
川島は、厚生棟内のトイレを借りることにした。
男性用トイレの中は無人だった。小便用便器の前に立ち、放尿する。
放尿しながら、つい先ほど体験した出来事を思い返した。
厚生管理課長の井川のいじめに耐えきれなくなり、感情が爆発した。井川のことを、思う存分殴りつけようと思った。そんなことをすれば間違いなく会社を首になるが、あの時は、それでもかまわないと思っていた。
妻や子どものことを冒涜され黙っているようでは、男がすたる。生活は苦しくなるが、妻や子どもたちも理解してくれるはずだと思った。
もちろん冷静になって考えてみると実に甘い考えだったということはわかるのだが、あのときは頭に血が上り、冷静な判断ができずにいた。
川島は、すんでのところで人生の転落を免れた。運の良さに感謝する気持ちが湧いてきた。
(しかし、あれはいったい何だったのだろうか?)今まで経験したことのない不思議な出来事だった。
井川につかみかかろうとした体を押しとどめる大きな力が働いた。
誰かに体をつかまれたわけではない。あのとき、井川の部下たちは皆、自分の席にいたからだ。
それだけではなかった。
そのようなことをすれば会社の就業規則に基づいて懲戒解雇されることをささやく声も聞こえた。
それにより、自分は冷静さを取り戻し、その後頭の中で井川をコテンパンにやっつける場面を妄想し、気が晴れた。
まさに自分は救われたわけだが、いまだに、なぜあのようなことが起こったのかの見当がつかなかった。
用を足した川島は、洗面台で手を洗った。ハンカチで手をふき、髪の乱れを整える。
腰に、軽い張りを感じた。妙なことに力を使ったからだろう。
川島は、腰を左右に振り、軽く屈伸運動をした。腰の張りが、徐々に消えていった。
屈伸運動をしながら何気なく視線を下に向けた川島の目が、異物をとらえた。洗面台に、何かがぶら下がっているのが見えた。
川島は、洗面台の前にしゃがんだ。
洗面台の排水パイプの裏側に小さな金属の筒状のものがぶら下がっているのが見えた。
洗面台の裏側に白い粘土状の塊が付着しており、その塊と筒状のものとが細いワイヤー状の線でつながっている。
首を傾げた川島は、白い粘土状の塊に触れてみた。表面はつるつるとしており、材質は柔らかい。
子どものいたずらかと思った川島だったが、念のために、このことを厚生棟の職員に報告することにした。
川島からの報告を受けた厚生棟の職員は、警備員とともに現場の確認を行った。
「もしかしたら」警備員の顔が険しくなった。警備員は、警察のOBであった。
警備員に勧められた厚生棟の職員は、警察に通報した。
通報を受けた警察が、慎重に付着物を調べる。
それにより、付着物の正体が明らかになった。警備員が抱いた悪い予感が的中した結果となった。
男性用トイレの入り口に、使用不可の張り紙が張られた。
3.
「爆弾が仕掛けられていたのは、国会議事堂と防衛省の二カ所で間違いないんだな?」日売新聞編集局長の長船は、社会部部長の明石を問いただした。
警視庁記者クラブの担当記者からプラスチック爆弾が仕掛けられていたのが見つかったという報告が入り、社会部の中は、蜂の巣をつついたような状態になっていた。
警視庁記者クラブは、全国紙や民放各社が共同で加盟する、事件や事故に関する情報をいち早く入手するための警視庁内にある詰所であり、各社が同じ内容の情報を同時に入手することができる。
しかしながら、降りてくる情報は最新の情報や警視庁の公式見解であるとは限らないため、独自の取材活動により情報の裏付けや最新情報の確認を行う必要があった。
これだけの衝撃的なニュースである。民放各社は、こぞって夕方以降のニュースで報道するはずだ。
すでに夕刊の締切り時刻は過ぎていたが、新聞各社が、明日の朝刊ででかでかと報道するのは間違いない。号外を配るところもあるかもしれない。
長船は、焦りを感じていた。過去に、ライバル紙に最新情報を出し抜かれたときの記憶が脳裏をよぎった。
まずは、報告を受けた二カ所以外にも爆弾の仕掛けられていたところがなかったのかどうかを確認する必要があった。
加えて、爆弾の内容についても正確に把握する必要があった。
今回は、プラスチック爆弾というなじみの薄い種類の爆弾が使用されていたからだ。
「警視庁に応援の人間を行かせましたが、今のところ、ほかに爆弾が仕掛けられていたという情報は入ってきていません」明石が状況を伝えた。
長船は、唇をかみしめながら何度も頷いた。
そんな長船に向って、「内閣官房長官あてに脅迫状が送られてきた件も報道するのですよね?」と明石が問うてきた。
二日前にそのことを記した怪文書が届き、内閣府と警視庁にそれぞれ問い合わせを行ったのだが、そのような事実はないという回答があり、報道を見合わせていたからだ。
「当然、関連があるとみるべきだよな?」
「脅迫状には、国内の主要施設に爆弾を仕掛けたと書いてありました。二週間の期限を切って内閣総辞職を要求し、要求が受け入れられない場合は爆破すると脅しています。そして、現に、国の主要施設に爆弾が仕掛けられていました。しかも、プラスチック爆弾という極めて威力の強い爆弾です」
「警視庁からの連絡では、無線による起爆が可能な状態だったということだよな?」
「はい」
「内閣府で見つかった爆弾はダイナマイトだったが……。犯人は、なぜ異なる種類の爆弾を仕掛けたのだろうか?」
「私の推測ですが、内閣府の爆弾は発見させることが目的だったので、見つけやすいダイナマイトを仕掛け、今回見つかったのは本当に爆発させることが目的だったので、見つけにくいプラスチック爆弾を仕掛けたのだと思います。加えて、犯人は、あえて最初にダイナマイトを発見させることで、ほかに仕掛けられているとしてもダイナマイトが使用されているという先入観を与えようと考えたのではないでしょうか」
明石が、右手の中指を鼻筋にあてながらメガネのフレームを押し上げる仕草をした。これは、彼が自信をもって発言する時のポーズだった。
長船も、明石の思考分析力を高く評価していた。事件や事故の背景や論点などを読者にわかりやすく伝えなければならない社会部の責任者として、最も重要な資質である。
「そのように考えれば、筋が通るな」長船は、明石の推論を肯定した。
「では、そのこととセットで今回の記事を作成してもよいのですね?」明石が念押しした。
「その方向で記事を作成してくれ。一応、私のほうから社長へ報告しておく。社長も、首を横に振らんと思うよ。間違いなく、他紙も報道するはずだからね」
長船は、政府要人が共同記者会見を行う様子を、頭の中で想像した。
4.
店内に入り、辺りをキョロキョロと見回した警視庁捜査第一課の宗像義之に向って、奥の席から畠山博嗣が手を振った。彼の前には、お冷の入れられたグラスだけが置かれていた。
宗像は、畠山がいるテーブルに向かった。すかさず、ウェイトレスが注文を取りに来る。
二人は、千円のランチを注文した。三種類あるうちの中間の値段である。
「お前と飯を食うのも、久しぶりだな」畠山が、しみじみとした口調で言葉を発した。
「お互いに忙しいからな」キャリア組の畠山は、ノンキャリア組の宗像と違った意味での忙しさがある。
二人は、幼馴染の関係であった。
ともに同じ年に警察の世界に足を踏み入れたが、国家公務員採用I種試験に合格し警察庁に採用された畠山は、キャリア組としての道を歩み続けていた。
宗像が警部補であるのに対して、畠山は、すでに三階級上の警視正である。
畠山は、警察庁刑事企画課の情報分析支援室長の肩書を持っていた。
食事をともにしながら、二人は幼馴染としての旧交を温めた。時折、互いの仕事の話にも触れる。
「最近、お前の名前が悪い意味で聞こえてくるぞ」畠山が、宗像の行き過ぎた捜査や取り調べについて警察庁内でも話が上がったことを口にした。警察庁の刑事企画課には刑事指導室という部署があり、問題のある警察官に対して注意や指導を与えることができる。
警察庁内で自分のことが取りざたされているという噂は、宗像も耳にしていた。
「オレも、もう少し大人にならなければならないなと反省したところだ」宗像は、婦女暴行の容疑で取り調べた容疑者に対して手を上げようとしたときのことを口にした。
あのときは、不思議な力が働き、容疑者に対する暴力は未遂に終わった。その後頭の中によぎった妄想の中で、自分のことをかばい続けてくれている上司から釘を刺された。
その結果、大人にならなければという気持ちになれたのだが、そのときのことは、ほんの数秒前に起こったことのように宗像の記憶に焼き付いていた。
ランチを食べ終えた二人のもとにコーヒーが運ばれてきた。コーヒー好きの畠山が、さっそくカップに口をつける。
その様子を見ながら、宗像は、あることを伝えたい衝動に駆られていた。
マスコミが競って報道を繰り返しているプラスチック爆弾が発見されたというニュースを目にした宗像に、ある勘がよぎった。
内閣官房長官あてに脅迫状が送り付けられ建物の中にダイナマイトが仕掛けられていたことに関して警視庁が捜査を続けていたが、捜査員の中には、ほかに爆発物は仕掛けられていないのではないかと考えている者も少なからずいた。
それが、今回プラスチック爆弾が仕掛けられているのが発見され、単なる脅しではないことが明らかになったことを受けて、発見された二カ所以外にも爆弾が仕掛けられているという前提のもとで捜査が継続されることになった。
とはいえ、国内すべての施設を捜査するわけにはいかない。捜査対象施設の選定を巡って警視庁内でも意見は割れていたが、宗像は、警察庁がターゲットになっている可能性が高いと感じていた。
今回発見されたのが国会議事堂と防衛省という国家機能をつかさどる重要機関であったということもあるのだが、宗像の勘に大きく訴えかけるものがあったからだ。
このように強く訴えかけられたときの勘は、高い確率で的中している。
意を決した宗像は、そのことを畠山に対して口にした。
最初は半信半疑な表情を浮かべていた畠山だったが、宗像の真剣な表情を目にしたことで真剣な表情に変わっていった。可能性があるということを畠山自身も考えていたようだ。
「お前の勘が当たっているとすると、中央合同庁舎第二号館のどこかに仕掛けられているということになるのか?」畠山が、声を潜めながら聞き返した。警察庁は、中央合同庁舎第二号館の中にある。
「おそらく、今までと同じ、ビルの一階のトイレとかじゃないのかな。ビル全体を破壊するのなら、一階に仕掛けるのが効果的だし、一階は警戒が薄いだろう?」
「一階は、コミュニティスペースが多いからな。仕掛けやすくなるのは事実だ」
「すぐに調べたほうがいいんじゃないのか?」
「そうだな。警視庁の建物は調べないのか?」
「オレは、あるとしたら警察庁のほうだと思っているけど、一応、上に言っておくよ」
宗像は、このことを警視庁の誰に伝えるべきか考えを巡らせた。
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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