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第10章 挫折
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1.
車が本郷通りに入ったところで大渋滞に巻き込まれた。カーブ越しに連なるテールランプの光が福本の目に映った。当面動きそうもない気配である。
福本は、バックミラー越しに後部座席の乗客の様子をうかがった。
後部座席には、分厚いフレームの眼鏡をかけマスクをした三十代くらいの男性客がいた。膝の上にバッグを抱えながらしきりに時間を気にしている。急ぎの用があるのだろう。
「お客さん。お急ぎですか?」福本は声をかけた。
「ええ」男が、マスク越しにくぐもった声で返事をした。
「もう、そうたいした距離じゃないんですけどねぇ……」
男が指示をした目的地までは、順調ならば車で十分もかからない距離であった。
福本は、カーナビを操作した。目的地までの迂回路を探す。
本郷三丁目で春日通りに出て首都高沿いに車を走らせるのが一番早いと判断し、そのことを乗客の男に説明した。
男は、わかったというように頷いた。
春日通りに抜けたところで渋滞は緩和された。
とはいえ、スムーズな走行とはならなかった。同じように迂回する車が流れてくるからだ。
低速走行が続いた。
御徒町駅を超えたところで車は右折した。高速道路沿いの道を神田方面へと向かう。
後部座席の男は、何度も腕時計を覗いていた。せわしなく膝に抱えたバッグを指でたたいている。
イライラしている様子が、福本にも伝わってきた。
男につられるように、福本の気持ちも急いた。
安全に走行することが絶対条件だが、乗客の要望にも応えてあげたい。急いでいるが故、わざわざ運賃の高いタクシーを利用しているのに大幅な遅れを出してしまっては申し訳ない。
渋滞に巻き込まれたのは自分のせいではなかったのだが、一刻も早く目的地に到着してあげたいという気持ちに福本はとらわれていた。
前の車との間の最低限必要な車間距離を保ちながら、出せるだけのスピードを出す。黄色信号でも、可能とあらば前進した。
目的地が近づいてきた。
「お客さん。もう、あと五、六分くらいで着くと思いますよ」福本は乗客の男に声をかけた。
男は返事をしない。考え事をしているようであった。
福本は、男の素性を想像した。
スーツ姿ではないため、サラリーマンではないのだろう。筋肉質なタイプにも見える。現場仕事に従事する人間なのだろうか。バッグの中には、仕事で使う道具類などが詰まっているのかもしれない。
男が告げた目的地は、とあるビルであった。たくさんの企業が入居するオフィスビルである。
もしかしたら、男は技術者で、ビルに入居している会社から何かの修理の依頼を受けたのかもしれない。依頼主から早く来てくれと急かされ、タクシーを使って向かう途中なのかもしれない。
福本は、想像を膨らました。
前方の信号が黄色に変わった。
福本の前に三台の車がいたが、いずれも減速する気配はなかった。
(大丈夫だろう)交差点を渡り切れると判断した福本は、アクセルを踏んだ。急いでいる乗客のために一秒でも早く到着してあげたかったからだ。
目的地までは、あともう少しである。
福本の運転する車が交差点内に進入した。それと同時に信号が赤に変わった。
信号が赤になっても、交差する道路の信号が青に変わるまでの間にタイムラグがある。その間に十分渡り切れる距離であった。
福本は、アクセルを踏む力を強めた。
その瞬間だった。
福本は、側面に大きな衝撃を感じた。スピンしたときのように、車は斜め方向に回転しながら流されていった。
福本は、思いっきりブレーキを踏んだ。衝撃で、ハンドルに胸を強打する。
深呼吸を繰り返し、ようやく息苦しさから脱した福本は、後部座席を振り返った。
乗客の男は、後部座席に倒れこんでいた。
福本は、懸命に呼びかけた。
しかし、乗客からの返事はなかった。
2.
澤田和幸は、言いようのない不安に駆られていた。視線を、テレビの画面と壁の時計との間で行ったり来たりさせていた。
テレビは、特番放送を続けていた。警察からの情報も、徐々に明らかにされ始めている。
警察は、政治的な思想を持った過激派やテロリスト集団の洗い出しを進めているということであった。
同時に、ほかにも爆発物が仕掛けられていないかの捜査も行っているということだ。
兄がアパートを出てから二時間が経過していた。
計画通りに事が進んでいるのであれば、今頃は日銀が燃え盛っているシーンをテレビが映し出しているはずだ。
番組を進行する司会者の声が、やけにのんびりと聞こえていた。
和幸は、兄がアパートを出ていくときに嫌な予感を抱いたことを思い返した。何の根拠もないが、計画通りに事が進まないのではないかと感じていた。
和幸は、予感を打ち消すように大きく首を振った。
必ず計画通りに行くはずだ。
日銀から少し離れた場所でタクシーを降りた兄が、人目につかぬようにそっと発信器のボタンを押す。
その瞬間、日銀の建物が吹っ飛ぶ。大きな火柱が立ち上り、爆風が辺りを駆け巡り、通行人たちが吹き飛ばされていく。
周囲は、大混乱に陥るはずだ。
人々の叫び声とともに、パトカーや救急車、消防車のサイレンが鳴り響く。
おぞましい光景が、和幸の脳裏に広がっていた。
もしそのような事態に陥っているのであれば、テレビは競って報道するはずだ。兄からの成功を知らせるメールか電話も来るはずである。
しかし、現実は、テレビは代わり映えしない内容の報道を続けていた。兄からの連絡もない。
(どうなっているんだ?)和幸は、落ち着いていることができず、部屋の中を熊のようにウロウロと歩き回った。
さらに、一時間が経過した。
日銀が爆破されたなどというニュースは流れてこない。兄からの連絡もなかった。
和幸は、考えを巡らせた。何らかのアクシデントがあったことは間違いない。
兄は、タクシーを拾うと言っていた。
ということは、まず考えられることは、道路が渋滞していて目的地に到着するのが遅れているということだ。
このアパートから目的地までは、車で三、四十分の距離である。これだけ時間がかかるということは、よほどの大渋滞なのだろう。
しかし、その場合、兄は連絡を寄越すのではないだろうか。自分が心配性なことを知っているからだ。
(渋滞ではないのだとすると……)嫌な予感が再び襲ってきた。それも、漠然とした感覚ではなく、具体的なイメージを伴うものだった。兄が、両脇に立った屈強な男たちに引きずられるようにパトカーの中へと押し込まれていく。
付近を警戒していた警察に発信器のボタンを押そうとしているところを見つかり、連行されたのではないだろうかという予感だった。プラスチック爆弾が見つかったのはいずれも都内にある国の重要施設であり、警視庁が警戒を強めていることが十分に考えられる。その場合、日銀も警戒対象に入るはずだ。
(しかし……)和幸は、あることに気がついた。
もしそのようなことがあったのならば、当然テレビで報道されるはずだ。兄が出た後テレビを見続けているが、そのような報道はされていない。
(違うのか?)和幸の頭が、警察への連行説を否定した。
その時だった。部屋の固定電話が鳴った。
和幸は、ぎょっとした表情で電話に目をやった。
いまどき、固定電話に電話をしてくる者など滅多にいない。しかも、夜の十一時だ。
三度、和幸は嫌な予感を抱いた。恐る恐る、受話器を手に取った。
「はい」名前を名乗らずに電話に出た。
「澤田義幸さんのお宅でしょうか?」男の声が問いかけてきた。
「そうですが」
「つかぬことをお聞きしますが、澤田義幸さんとは、どのようなご関係の方でしょうか?」
「ボクは、義幸の弟ですが」
「失礼致しました。実は、私、神田総合病院の救命救急医療室の石橋と申します……」
電話の主が、思ってもみなかったことを口にした。
3.
和幸の嫌な予感が的中した。兄が乗車していたタクシーが、交差点内で事故に巻き込まれ、兄が病院に搬送されたという電話であった。
詳しいことは医師が直接話すということであったが、予断を許さない状況であるということを電話の相手は口にした。
急いで身支度を済ませた和幸は、病院へ向かった。
兄は、集中治療室に寝かされていた。無論、面会謝絶である。
深夜の時間だったが、医師は和幸に対する詳しい説明を行った。
事故は、交差点を渡ろうとしたタクシーに側面方向から交差点内に進入してきたトラックが衝突したという内容であった。トラックの運転手は無傷であり、タクシーの運転手と乗客だった兄が病院に搬送された。
衝突された箇所が車両後部の側面だったため運転手は軽傷で済んだということだが、後部座席にいた兄は、頭部を強打し、意識不明な状態であった。
「兄は、助かるのですか?」和幸は、医師に強い視線を向けた。
「正直申しまして、予断を許さない状態です。現在は救急治療の段階でして、詳しい検査はしておりませんが、脳内血腫も疑われます。意識を取り戻したとしても、何らかの障害が残る可能性が極めて高いと思われます」
医師の説明を聞いた和幸は、呆然とした。よもや、兄が倒れるなどとは思ってもいなかったからだ。
両親がこの世を去り世間からの冷たい仕打ちを受ける中で、二人で手を取り合って生きてきた。自分たちは、通常の兄弟以上に強い絆で結ばれていた。
「先生。何とか、兄を助けてもらえませんか!」和幸は、目の前の医師にすがった。
「もちろん、そのつもりです。今は、救急治療に全力を尽くします。明日になれば、専門医による診察も行われますから」
和幸は、医師の説明に物足りなさを感じていた。当直医であり、はっきりとしたことを口にするわけにはいかないのだろうが、もっと自信のある表情で必ず助けるからと言ってほしかった。
うなだれる和幸に、病院の職員が、今後のことについての説明を始めた。
現在警察が事故の原因を調べている最中だということだが、治療費は相手方の保険で賄われるということである。
治療費の支払いについては心配しなくてもよいが、入院生活への協力をしてもらいたいということを職員は口にした。
職員が、当面の入院生活に必要だという日用品リストを和幸に手渡した。すべてを取り揃えたうえで、早く病院まで持ってきてほしいということを念押しした。
加えて、和幸は、何枚かの承諾書や同意書を手渡された。治療には様々なリスクが伴うため、万が一のことがあっても病院側に責任を追及しないという趣旨の書類だった。
書類には署名と押印が必要なため、和幸は書類を一旦持ち帰ることにした。
説明を終えた職員が、和幸のもとに兄の所持品を運んできた。中身は、バッグと兄が身に着けていた衣服や貴重品類、眼鏡とマスクである。
バッグは、警察を通じて病院に運ばれたということであった。
和幸は、緊張した。
警察がバッグを手にしたということは、中身を調べたのではないだろうか。
バッグの中には発信器が入っていた。ボタン一つで日銀を吹き飛ばすことのできる装置である。
職員からバッグを受け取った和幸は、兄がアパートを出るときに中に入れていた物を思い返しながら、手の感覚でバッグの重さを確認した。心なしか軽いようにも感じられる。
和幸は、警察に発信器を押収されたのではないかという不安に襲われた。そうだとすると、兄は爆破未遂事件の容疑者として目をつけられたことになる。
すぐさま自分も容疑者扱いされることはないと思うが、いずれ自分自身の身にも危険が及ぶ。
和幸は、逃げるように病院を後にした。
4.
自宅に戻った和幸は、持ち帰った兄のバッグを開けた。
発信器は、兄がセットした状態のまま入っていた。それ以外の物もすべてそろっている。
しかし、和幸の不安はぬぐえなかった。
元通りのまま物があったからといって、警察が中身を確認しなかったとは断言できない。
今回のことは犯罪ではなく兄自身被害者なため、捜査の一環として所持品を調べるなどというようなことはないはずだが、身元を確認するために中身を確認した可能性はある。
(いや)和幸は、その可能性を打ち消そうとした。
兄が身元不明な遺体として発見されたのであれば、警察が身元を確認する目的で所持品に手を触れることはありえるが、兄は重傷者として病院へ搬送されたのである。
現に、病院から兄のアパートに連絡が入った。
和幸は、病院関係者の目に触れた可能性のほうを考えることにした。
病院関係者が所持品に触れる目的も、兄の身元を確認するためである。
兄は、運転免許証を財布の中にしまっていた。財布は、ズボンのポケットの中に入れられていた。
治療を行うために、身に着けていたシャツと上着、ズボンを脱がしたということであり、そのときに、当然ズボンのポケットの中にあった財布の存在にも気づいたであろう。
身元を証明するものとして、通常、誰もが運転免許証を連想する。
そういう意味で、バッグの中身よりも先に財布の中身を調べたのではないだろうか。
万が一バッグの中を見られたとしても、病院関係者の目には、プラスチック爆弾を爆破させるための発信器などとは映らなかっただろう。専門知識のない人間の目には、何らかの通信機器くらいにしか映らないはずだ。
安心しようとした和幸だったが、一つ頭に引っかかることがあった。病院の職員が、バッグは警察を通じて病院に運ばれたと説明したことだった。
(やはり、警察がバッグを押収したということなのか)再び、不安に襲われる。
和幸は、冷静な気持ちで考えた。
病院関係者の証言によれば、加害車両の運転手は無傷だったということであり、被害車両に乗車していた運転手と兄が病院へ搬送されたということだ。
当然、事故直後に警察が現場にやって来て、加害車両の運転手から事情を聴いたうえで、現場検証を行ったはずだ。
その時に、被害車両の状況も調べたはずだが、乗客の所持品は事故とは関係がないため、中身を調べずに搬送された病院へ運んだのではないか。
運んだのは警察関係者だろうが、たとえ興味本位でバッグを開けたとしても中身を詳しく調べるようなことはしていないだろうし、交通事故を調査する交通課の警官が発信器に関する専門知識を持ち合わせていたとも思えない。
(大丈夫だ)和幸は、何度も頷いた。
不安を解消した和幸は、今後のことを考えた。
今後の計画に兄が加わることはできない。続けるのであれば、自分一人でやらなければならない。
(やれるのかな)和幸は、弱気にとらわれた。
自分も兄と同じ気持ちでいるが、計画に関しては兄の主導で進めてきた。兄がシナリオを考え自分が従う形で進めてきた。
和幸は、兄の顔を思い浮かべた。
自分にとって、ただ一人の血を分けた肉親であり、尊敬する人間であった。
(兄は、今、何を思っているのだろう?)
意識はなくても、魂は生き続けている。
両親の命を奪い、自分たちの未来を奪ったこの国とこの国の人間に復讐したい。
自分たちは、そう誓い合った。
自分は今でもその気持ちに変わりはないし、兄もそうであるはずだ。
「計画を、あきらめないでくれ!」和幸は、兄の魂が叫ぶ声を聞いた。
「絶対にあきらめない。ここであきらめたら、両親の死も、オレたちの人生が狂わされたことも、何もかもが浮かばれない。オレ一人でも、絶対にやってみせるよ」和幸は、兄の魂に向って、強く言葉を返した。
車が本郷通りに入ったところで大渋滞に巻き込まれた。カーブ越しに連なるテールランプの光が福本の目に映った。当面動きそうもない気配である。
福本は、バックミラー越しに後部座席の乗客の様子をうかがった。
後部座席には、分厚いフレームの眼鏡をかけマスクをした三十代くらいの男性客がいた。膝の上にバッグを抱えながらしきりに時間を気にしている。急ぎの用があるのだろう。
「お客さん。お急ぎですか?」福本は声をかけた。
「ええ」男が、マスク越しにくぐもった声で返事をした。
「もう、そうたいした距離じゃないんですけどねぇ……」
男が指示をした目的地までは、順調ならば車で十分もかからない距離であった。
福本は、カーナビを操作した。目的地までの迂回路を探す。
本郷三丁目で春日通りに出て首都高沿いに車を走らせるのが一番早いと判断し、そのことを乗客の男に説明した。
男は、わかったというように頷いた。
春日通りに抜けたところで渋滞は緩和された。
とはいえ、スムーズな走行とはならなかった。同じように迂回する車が流れてくるからだ。
低速走行が続いた。
御徒町駅を超えたところで車は右折した。高速道路沿いの道を神田方面へと向かう。
後部座席の男は、何度も腕時計を覗いていた。せわしなく膝に抱えたバッグを指でたたいている。
イライラしている様子が、福本にも伝わってきた。
男につられるように、福本の気持ちも急いた。
安全に走行することが絶対条件だが、乗客の要望にも応えてあげたい。急いでいるが故、わざわざ運賃の高いタクシーを利用しているのに大幅な遅れを出してしまっては申し訳ない。
渋滞に巻き込まれたのは自分のせいではなかったのだが、一刻も早く目的地に到着してあげたいという気持ちに福本はとらわれていた。
前の車との間の最低限必要な車間距離を保ちながら、出せるだけのスピードを出す。黄色信号でも、可能とあらば前進した。
目的地が近づいてきた。
「お客さん。もう、あと五、六分くらいで着くと思いますよ」福本は乗客の男に声をかけた。
男は返事をしない。考え事をしているようであった。
福本は、男の素性を想像した。
スーツ姿ではないため、サラリーマンではないのだろう。筋肉質なタイプにも見える。現場仕事に従事する人間なのだろうか。バッグの中には、仕事で使う道具類などが詰まっているのかもしれない。
男が告げた目的地は、とあるビルであった。たくさんの企業が入居するオフィスビルである。
もしかしたら、男は技術者で、ビルに入居している会社から何かの修理の依頼を受けたのかもしれない。依頼主から早く来てくれと急かされ、タクシーを使って向かう途中なのかもしれない。
福本は、想像を膨らました。
前方の信号が黄色に変わった。
福本の前に三台の車がいたが、いずれも減速する気配はなかった。
(大丈夫だろう)交差点を渡り切れると判断した福本は、アクセルを踏んだ。急いでいる乗客のために一秒でも早く到着してあげたかったからだ。
目的地までは、あともう少しである。
福本の運転する車が交差点内に進入した。それと同時に信号が赤に変わった。
信号が赤になっても、交差する道路の信号が青に変わるまでの間にタイムラグがある。その間に十分渡り切れる距離であった。
福本は、アクセルを踏む力を強めた。
その瞬間だった。
福本は、側面に大きな衝撃を感じた。スピンしたときのように、車は斜め方向に回転しながら流されていった。
福本は、思いっきりブレーキを踏んだ。衝撃で、ハンドルに胸を強打する。
深呼吸を繰り返し、ようやく息苦しさから脱した福本は、後部座席を振り返った。
乗客の男は、後部座席に倒れこんでいた。
福本は、懸命に呼びかけた。
しかし、乗客からの返事はなかった。
2.
澤田和幸は、言いようのない不安に駆られていた。視線を、テレビの画面と壁の時計との間で行ったり来たりさせていた。
テレビは、特番放送を続けていた。警察からの情報も、徐々に明らかにされ始めている。
警察は、政治的な思想を持った過激派やテロリスト集団の洗い出しを進めているということであった。
同時に、ほかにも爆発物が仕掛けられていないかの捜査も行っているということだ。
兄がアパートを出てから二時間が経過していた。
計画通りに事が進んでいるのであれば、今頃は日銀が燃え盛っているシーンをテレビが映し出しているはずだ。
番組を進行する司会者の声が、やけにのんびりと聞こえていた。
和幸は、兄がアパートを出ていくときに嫌な予感を抱いたことを思い返した。何の根拠もないが、計画通りに事が進まないのではないかと感じていた。
和幸は、予感を打ち消すように大きく首を振った。
必ず計画通りに行くはずだ。
日銀から少し離れた場所でタクシーを降りた兄が、人目につかぬようにそっと発信器のボタンを押す。
その瞬間、日銀の建物が吹っ飛ぶ。大きな火柱が立ち上り、爆風が辺りを駆け巡り、通行人たちが吹き飛ばされていく。
周囲は、大混乱に陥るはずだ。
人々の叫び声とともに、パトカーや救急車、消防車のサイレンが鳴り響く。
おぞましい光景が、和幸の脳裏に広がっていた。
もしそのような事態に陥っているのであれば、テレビは競って報道するはずだ。兄からの成功を知らせるメールか電話も来るはずである。
しかし、現実は、テレビは代わり映えしない内容の報道を続けていた。兄からの連絡もない。
(どうなっているんだ?)和幸は、落ち着いていることができず、部屋の中を熊のようにウロウロと歩き回った。
さらに、一時間が経過した。
日銀が爆破されたなどというニュースは流れてこない。兄からの連絡もなかった。
和幸は、考えを巡らせた。何らかのアクシデントがあったことは間違いない。
兄は、タクシーを拾うと言っていた。
ということは、まず考えられることは、道路が渋滞していて目的地に到着するのが遅れているということだ。
このアパートから目的地までは、車で三、四十分の距離である。これだけ時間がかかるということは、よほどの大渋滞なのだろう。
しかし、その場合、兄は連絡を寄越すのではないだろうか。自分が心配性なことを知っているからだ。
(渋滞ではないのだとすると……)嫌な予感が再び襲ってきた。それも、漠然とした感覚ではなく、具体的なイメージを伴うものだった。兄が、両脇に立った屈強な男たちに引きずられるようにパトカーの中へと押し込まれていく。
付近を警戒していた警察に発信器のボタンを押そうとしているところを見つかり、連行されたのではないだろうかという予感だった。プラスチック爆弾が見つかったのはいずれも都内にある国の重要施設であり、警視庁が警戒を強めていることが十分に考えられる。その場合、日銀も警戒対象に入るはずだ。
(しかし……)和幸は、あることに気がついた。
もしそのようなことがあったのならば、当然テレビで報道されるはずだ。兄が出た後テレビを見続けているが、そのような報道はされていない。
(違うのか?)和幸の頭が、警察への連行説を否定した。
その時だった。部屋の固定電話が鳴った。
和幸は、ぎょっとした表情で電話に目をやった。
いまどき、固定電話に電話をしてくる者など滅多にいない。しかも、夜の十一時だ。
三度、和幸は嫌な予感を抱いた。恐る恐る、受話器を手に取った。
「はい」名前を名乗らずに電話に出た。
「澤田義幸さんのお宅でしょうか?」男の声が問いかけてきた。
「そうですが」
「つかぬことをお聞きしますが、澤田義幸さんとは、どのようなご関係の方でしょうか?」
「ボクは、義幸の弟ですが」
「失礼致しました。実は、私、神田総合病院の救命救急医療室の石橋と申します……」
電話の主が、思ってもみなかったことを口にした。
3.
和幸の嫌な予感が的中した。兄が乗車していたタクシーが、交差点内で事故に巻き込まれ、兄が病院に搬送されたという電話であった。
詳しいことは医師が直接話すということであったが、予断を許さない状況であるということを電話の相手は口にした。
急いで身支度を済ませた和幸は、病院へ向かった。
兄は、集中治療室に寝かされていた。無論、面会謝絶である。
深夜の時間だったが、医師は和幸に対する詳しい説明を行った。
事故は、交差点を渡ろうとしたタクシーに側面方向から交差点内に進入してきたトラックが衝突したという内容であった。トラックの運転手は無傷であり、タクシーの運転手と乗客だった兄が病院に搬送された。
衝突された箇所が車両後部の側面だったため運転手は軽傷で済んだということだが、後部座席にいた兄は、頭部を強打し、意識不明な状態であった。
「兄は、助かるのですか?」和幸は、医師に強い視線を向けた。
「正直申しまして、予断を許さない状態です。現在は救急治療の段階でして、詳しい検査はしておりませんが、脳内血腫も疑われます。意識を取り戻したとしても、何らかの障害が残る可能性が極めて高いと思われます」
医師の説明を聞いた和幸は、呆然とした。よもや、兄が倒れるなどとは思ってもいなかったからだ。
両親がこの世を去り世間からの冷たい仕打ちを受ける中で、二人で手を取り合って生きてきた。自分たちは、通常の兄弟以上に強い絆で結ばれていた。
「先生。何とか、兄を助けてもらえませんか!」和幸は、目の前の医師にすがった。
「もちろん、そのつもりです。今は、救急治療に全力を尽くします。明日になれば、専門医による診察も行われますから」
和幸は、医師の説明に物足りなさを感じていた。当直医であり、はっきりとしたことを口にするわけにはいかないのだろうが、もっと自信のある表情で必ず助けるからと言ってほしかった。
うなだれる和幸に、病院の職員が、今後のことについての説明を始めた。
現在警察が事故の原因を調べている最中だということだが、治療費は相手方の保険で賄われるということである。
治療費の支払いについては心配しなくてもよいが、入院生活への協力をしてもらいたいということを職員は口にした。
職員が、当面の入院生活に必要だという日用品リストを和幸に手渡した。すべてを取り揃えたうえで、早く病院まで持ってきてほしいということを念押しした。
加えて、和幸は、何枚かの承諾書や同意書を手渡された。治療には様々なリスクが伴うため、万が一のことがあっても病院側に責任を追及しないという趣旨の書類だった。
書類には署名と押印が必要なため、和幸は書類を一旦持ち帰ることにした。
説明を終えた職員が、和幸のもとに兄の所持品を運んできた。中身は、バッグと兄が身に着けていた衣服や貴重品類、眼鏡とマスクである。
バッグは、警察を通じて病院に運ばれたということであった。
和幸は、緊張した。
警察がバッグを手にしたということは、中身を調べたのではないだろうか。
バッグの中には発信器が入っていた。ボタン一つで日銀を吹き飛ばすことのできる装置である。
職員からバッグを受け取った和幸は、兄がアパートを出るときに中に入れていた物を思い返しながら、手の感覚でバッグの重さを確認した。心なしか軽いようにも感じられる。
和幸は、警察に発信器を押収されたのではないかという不安に襲われた。そうだとすると、兄は爆破未遂事件の容疑者として目をつけられたことになる。
すぐさま自分も容疑者扱いされることはないと思うが、いずれ自分自身の身にも危険が及ぶ。
和幸は、逃げるように病院を後にした。
4.
自宅に戻った和幸は、持ち帰った兄のバッグを開けた。
発信器は、兄がセットした状態のまま入っていた。それ以外の物もすべてそろっている。
しかし、和幸の不安はぬぐえなかった。
元通りのまま物があったからといって、警察が中身を確認しなかったとは断言できない。
今回のことは犯罪ではなく兄自身被害者なため、捜査の一環として所持品を調べるなどというようなことはないはずだが、身元を確認するために中身を確認した可能性はある。
(いや)和幸は、その可能性を打ち消そうとした。
兄が身元不明な遺体として発見されたのであれば、警察が身元を確認する目的で所持品に手を触れることはありえるが、兄は重傷者として病院へ搬送されたのである。
現に、病院から兄のアパートに連絡が入った。
和幸は、病院関係者の目に触れた可能性のほうを考えることにした。
病院関係者が所持品に触れる目的も、兄の身元を確認するためである。
兄は、運転免許証を財布の中にしまっていた。財布は、ズボンのポケットの中に入れられていた。
治療を行うために、身に着けていたシャツと上着、ズボンを脱がしたということであり、そのときに、当然ズボンのポケットの中にあった財布の存在にも気づいたであろう。
身元を証明するものとして、通常、誰もが運転免許証を連想する。
そういう意味で、バッグの中身よりも先に財布の中身を調べたのではないだろうか。
万が一バッグの中を見られたとしても、病院関係者の目には、プラスチック爆弾を爆破させるための発信器などとは映らなかっただろう。専門知識のない人間の目には、何らかの通信機器くらいにしか映らないはずだ。
安心しようとした和幸だったが、一つ頭に引っかかることがあった。病院の職員が、バッグは警察を通じて病院に運ばれたと説明したことだった。
(やはり、警察がバッグを押収したということなのか)再び、不安に襲われる。
和幸は、冷静な気持ちで考えた。
病院関係者の証言によれば、加害車両の運転手は無傷だったということであり、被害車両に乗車していた運転手と兄が病院へ搬送されたということだ。
当然、事故直後に警察が現場にやって来て、加害車両の運転手から事情を聴いたうえで、現場検証を行ったはずだ。
その時に、被害車両の状況も調べたはずだが、乗客の所持品は事故とは関係がないため、中身を調べずに搬送された病院へ運んだのではないか。
運んだのは警察関係者だろうが、たとえ興味本位でバッグを開けたとしても中身を詳しく調べるようなことはしていないだろうし、交通事故を調査する交通課の警官が発信器に関する専門知識を持ち合わせていたとも思えない。
(大丈夫だ)和幸は、何度も頷いた。
不安を解消した和幸は、今後のことを考えた。
今後の計画に兄が加わることはできない。続けるのであれば、自分一人でやらなければならない。
(やれるのかな)和幸は、弱気にとらわれた。
自分も兄と同じ気持ちでいるが、計画に関しては兄の主導で進めてきた。兄がシナリオを考え自分が従う形で進めてきた。
和幸は、兄の顔を思い浮かべた。
自分にとって、ただ一人の血を分けた肉親であり、尊敬する人間であった。
(兄は、今、何を思っているのだろう?)
意識はなくても、魂は生き続けている。
両親の命を奪い、自分たちの未来を奪ったこの国とこの国の人間に復讐したい。
自分たちは、そう誓い合った。
自分は今でもその気持ちに変わりはないし、兄もそうであるはずだ。
「計画を、あきらめないでくれ!」和幸は、兄の魂が叫ぶ声を聞いた。
「絶対にあきらめない。ここであきらめたら、両親の死も、オレたちの人生が狂わされたことも、何もかもが浮かばれない。オレ一人でも、絶対にやってみせるよ」和幸は、兄の魂に向って、強く言葉を返した。
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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