妄想のススメ

makotochan

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第9章 横領罪と妄想

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1.
 「ディープフェイスとファーストウーマンの仔か……。こいつは、絶対に走るよ!」北原雄一郎は、東宝レーシングクラブから送られてきた一口馬主の募集案内パンフレットのページを叩きながら声を上げた。
 研究室の学生たちが、一斉に、北原に視線を向ける。
 「先生。また馬を買うんですか?」北原に一番近いところで作業を行っていた学生が問いかけてきた。
 「まだ決めてはいないけど、買いたくなる馬がいてね。父が、なんと、あのディープフェイスでさ。母も、重賞勝ち馬のファーストウーマン。絶対に走るに決まっているでしょう。そもそも、こんな良血が一口馬主の募集に出てくること自体が奇跡なんだけどね」北原は、高ぶる気持ちを学生たちに語った。
 ディープフェイスは、デビュー以来十三戦負けなしで現役を引退した近代競馬の名馬であり、種牡馬になってからも大きなレースを優勝する産駒を何頭も輩出してきた。
東宝レーシングクラブの代表者がディープフェイスのオーナーでもあり、大きなレースに出走する競走馬を所有する醍醐味を会員にも味わってもらいたいというオーナーの考えもあって、毎年頭数限定でディープフェイスと東宝レーシングクラブが所有する繁殖牝馬との間で交配を行っていた。
 それによって生まれた仔馬の一口馬主になる権利が、数人単位で会員の間で順番に巡ってくる。
 そして今回、北原のもとにも巡ってきた。
 北原は、パンフレットの写真を見続けた。母馬と仔馬が並んでいるところを写した写真だった。仔馬の顔や体系にディープフェイスの面影がある。
 写真の上に小さく表示された仔馬の募集金額に視線を移した北原は、静かにため息をついた。

 学生たちが帰った研究室に一人残った北原は、再び一口馬主の募集案内パンフレットを手に取った。
 権利を買いたいという思いは募る一方であった。
 この馬は、間違いなく走る。北原は確信を抱いていた。
 そのような中、彼には即決できない事情があった。お金のことだった。
 北原は、中央工科大学工学部電気通信工学科の教授であった。
 しかし、経済的な余裕はない。
 少子化の影響で入学者数が減り、ただでさえ入学金や授業料収入が伸び悩んでいることに加えて、三年前より国からの補助金も打ち切られたため、給料が減らされてしまったからだ。
 一口馬主になり競馬を楽しむことが、北原にとって最大の楽しみであった。現在は、三頭の馬の一口馬主になっている。
 一口馬主は、募集時の出資金に加えて、毎月口数に応じた馬の厩舎委託料を支払わなければならない。
 すでに、北原は毎月五万円近い金額を支払っていた。そのような状況で、さらに一頭分の厩舎委託料が加わるのは経済的に厳しい。
 そのこと以上に頭を悩ませているのが募集金額だった。
 募集金額は、馬の購入金額を募集口数で割った金額である。
 今回の募集は、今まで北原が一口馬主になった馬の募集金額よりもはるかに高い。しかも、契約時に一括で支払う必要があった。
 北原は、頭の中で計算を繰り返した。自由に使える銀行口座の残高を思い浮かべた。その中から、今後支出が想定されていることに対する金額を差し引く。ある程度の備えを残しておく必要もあった。
 それによって導き出された答えは、今回の募集は自分にとって極めて荷が重いという結論だった。
 (アルバイトでもしようかな)教授たちの中には、非常勤講師などのアルバイトをしている人間もいた。
 しかし、そのような仕事も、少子化の影響で需要が減りつつあった。希望者も多く、自分のところに話が巡ってくる当てもない。
 北原は、極めて厳しい状況に置かれていた。

2.
 そんな北原の頭をさらに悩ます出来事が起こった。息子が、北原名義の車を運転中に物損事故を起こしてしまったのだ。
 幸い、息子は軽傷を負っただけで済んだが、車が使い物にならなくなってしまった。
 郊外で暮らす北原にとって、車は生活必需品である。
 北原は、ローンで新車を購入していた。
 これにより、ディープフェイスの仔の一口馬主になる夢がますます遠のいていった。

 北原は、仕事に集中することで、一口馬主に対する未練を忘れようとしていた。
 二カ月後の学会で発表する予定の電磁波のシールド技術に関する研究に没頭した。
 電磁波のシールド技術とは、有害な電磁波を遮断するための技術であり、通信機器の誤作動や情報漏えい防止などに役立っている。
 ゼネコン各社が電磁波シールドを施した物件の販売に力を注いでおり、大学に共同研究を持ちかける事案も増えてきた。北原の勤務する中央工科大学でも、とあるゼネコンとの共同研究の話が進んでいる。
 ゼネコン側が求めているのは、コストを下げつつ遮断の精度を向上させる技術の開発であった。
 大学側が基礎研究を行い、ゼネコン主導の検証を行った後に技術化するという開発プロセスである。
 有益な研究成果を導き出すことができれば、その後の研究の維持継続に関してゼネコンからの補助金が期待できる。
 研究に係った人間にとっても、自らの実績として残り、学界内における研究者としての知名度も向上するというメリットが生じる。
 大学とゼネコンの共同研究の話が実現すれば、北原が行っている研究が新技術の開発に結び付く可能性があった。
 北原は、研究に熱を入れた。講義のない週末も大学の研究室に顔を出すようになった。
 彼の熱意につられた学生たちの研究に従事する時間も増えていった。

 北原には、大学以外にも研究活動を行う場があった。リサーチフレンド会という、学会や分野を超越した研究者たちが集まる会である。
 会員間で情報交換や研究手法の紹介などを行うことで研究者としての資質を高めあい、親睦を図ることによりネットワークを形成することを目的としていた。
 会の運営は、会員が拠出する会費により賄われている。
 会長職をはじめとした役も会員が持ち回りで担当しており、北原は、今年から会計幹事役を担当することになった。任期は二年間である。
 あるとき、北原は、リサーチフレンド会向けに、研究を続けている電磁波のシールド技術に関するプレゼンテーションを行った。
 学会で論文を発表するための研究は最終段階に来ていた。あとは、ポイント部分にあたる新たな技法に関して北原が打ち出した仮説を検証することで、研究成果を導き出すことができる。
 北原は、仮設の検証を行うステップとして、リサーチフレンド会を利用することにした。
 経験豊富な研究者たちに理論の構築から仮説を導き出すまでのプロセスや検証の視点について意見を述べてもらうことで、研究成果に客観性が保てていることを確認することが目的だった。そのような過程を踏むことで、己の研究成果に自信を持つことができる。
 北原の研究は、リサーチフレンド会の会員たちから好評を得た。会員たちは、導き出した仮説に客観性があることを認めたうえで、検証の視点について意見を口にした。
 研究者たちにプレゼンテーションを行ったことで、北原の視野が広がった。仮設の検証を行うための方法や研究成果のまとめ方について、頭の中でイメージをまとめることができた。
 後は、計画に基づいた仮設の検証を行い、学会で発表する論文を完成させればよい。
 北原は、研究者としての冥利を感じていた。

3.
 深夜であるにもかかわらず、北原家の一室にこうこうと明かりが灯っていた。北原のプライベートルームだった。家族たちは、すでに就寝している。
 北原は、パソコンに向かい、論文を作成していた。
 北原は、調子の良いときに集中して執筆を進めるタイプだった。論文は人に読んでもらうための文章であるため、研究成果として主張したいことのポイント部分や結論が導き出されるまでのプロセスを体系的にわかりやすく記述する必要がある。頭の働きの鈍いときには、遅々として進まない作業であった。
 今日の北原は調子が良かった。すでに、予定していたページ数はクリアーしていた。
 きりのよいところまで執筆を済ませた北原は、休憩をはさんだうえで、もう一頑張りすることにした。
 パソコン画面から目を離し、両手を首の後ろに組んで大きく伸びをする。
 そんな北原の目に、机の片隅に置いてあった冊子が触れた。東宝レーシングクラブから送られてきた一口馬主の募集案内パンフレットだった。
 北原は、パンフレットを手に取った。パラパラとページをめくる。
 北原の視線が、ディープフェイスの仔を写したページに止まった。仔馬の顔を、穴が開くほど見つめ続ける。
 頭の中で、現役時代のディープフェイスの姿がよみがえった。二着以下の馬に大差をつけてゴール板を駆け抜けた彼の勇士に、北原は何度も元気づけられた。
 強さだけではなく、気品のある容姿も彼を虜にしていた。
 パンフレットの中の仔馬も、確実に父親の容姿を受け継いでいた。腰回りの大きいところや四白流星であること、金色がかった鬣など、ディープフェイスの特徴を伝えている。
 北原の未練が復活した。研究に没頭することで心の奥底にしまい込んだ未練である。しまい込んでいただけで、完全に忘れたわけではなかったのだ。
 (この仔馬の権利が欲しい)北原は、パンフレットを持つ腕の力を強めた。予定していた休憩時間は、すでに過ぎている。パソコンのデスクトップで、スクリーンセーバーの波形が揺らめいていた。
 北原は、仔馬から目をそらすことができなくなった。仔馬が、一口馬主になってくれと呼びかけているように思えた。この仔馬は、間違いなく走る……。
 北原は、机の引き出しを開けた。自分で管理している銀行の通帳を手に取り、残高を確認する。
 「はぁ」北原は、ため息をついた。状況は、ローンで新車を購入した分、悪化している。
 入厩してから現役を引退するまでの期間の厩舎委託料や一括で支払わなければならない募集金額を賄えるだけの残高は存在しなかった。今後、残高が増えていく当てもない。
 しかし、北原はあきらめきれずにいた。一口馬主の身分で超良血馬の血を受け継いだ馬と巡り合えることなど、普通ではありえないことだからだ。
 それが、今回チャンスが巡ってきた。このチャンスを逃すと、次に自分に権利が巡ってくるのは何年も先の話になる。
 申込期限は、五日後に迫っていた。五日間の間に申し込みをしなければ、権利は自動的に消滅し、他の誰かが引き継ぐことになる。
 権利を引き継いだ誰かが小躍りしている姿が、北原の頭の中に浮かんできた。
 (何とかならないのか!)北原は、頭をかきむしった。論文を書き続けようという気持ちは完全に消えていた。無意識のうちに、机の引き出しの中身を引っ掻き回した。
 そんな北原の目に、一冊の預金通帳が止まった。リサーチフレンド会の通帳だった。会計幹事役を務めている北原が、通帳とキャッシュカード、印鑑を預かっている。
 北原は、通帳を開いた。残高は豊富にあった。
 会計幹事役の自分は、自由に預金を引き出すことができる。
 会計報告も自分が行うため、少しくらいの金額であればごまかすことも可能である。仲間内の会であるため、厳密な監査なども行っていない。
 北原は、通帳のページを閉じた。何秒か後に、再びページを開く。その動作を何度も繰り返した。
 そしてついに、北原は誘惑に負けた。パンフレットに同封されていた一口馬主の契約申込書を目の前に置き、ペンを片手に取った。
 そのときであった。誰かが、北原の耳にささやいた。北原の体が、後ろに引っ張られる。
 「横領罪、五年以下の懲役」
 (五年以下の懲役……)北原は、我に返った。
体を後ろに引っ張る力は消えていた。

4.
 五月の最終日曜日の東京競馬場は、大勢の競馬ファンでにぎわっていた。今日は、競馬の祭典である日本ダービーの開催日だった。スタンドが、立錐の余地のないほどの人で埋め尽くされている。
 手元の最終オッズでは、東宝レーシングクラブ所有のディープフェイス産駒の牡馬が一番人気になっていた。
 北原は、日本ダービーの馬券をしまったジャケットの内ポケットを上から手で押さえながら、一口馬主になったディープフェイスの仔がダービー馬になることを祈った。
 傍らには、ディープフェイスのオーナーでもある東宝レーシングクラブの代表者がいた。北原以外の一口馬主会員たちも、東京競馬場に集まっていた。全員が、祈るような表情を浮かべていた。

 ゲートが開き、レースがスタートした。ディープフェイスの仔は、好位置でレースを進めた。
 ディープフェイスの仔は、デビュー以来無傷の四連勝で日本ダービーに駒を進めていた。父親のように他馬に大差をつけて勝つというようなレースはしていなかったが、レースセンスを感じさせる勝ち方を続けてきた。
 そのせいもあって、選りすぐりの精鋭たちが集まった中で、一番人気の座を獲得していた。

 レースは、終盤に差し掛かった。
 全馬が第四コーナーのカーブを曲がり、直線での攻防に突入した。ジョッキーたちが、懸命に鞭をふるう。
 そんな中、一頭の馬が先頭に躍り出た。ディープフェイスの仔であった。
 金色の鬣をなびかせながら、他馬との差を広げていく。四白流星が、観客たちの目にまぶしく映る。
 「行け! そのまま!」北原は、こぶしを振り上げ、声を上げた。
 その姿につられたように、他の会員たちも声を上げる。ディープフェイスのオーナーも立ち上がった。
 ディープフェイスの仔と二番手以下との差が、どんどんと開いていく。
 そのまま、ディープフェイスの仔はゴール板を突き抜けた。
 北原は、歓喜の雄たけびを上げた。他の会員たちと抱き合って喜ぶ。ディープフェイスのオーナーとも抱擁を交わした。
 「みなさん。表彰式に、一緒に参加してください。みんなで喜びを分かち合いましょうよ」オーナーが会員たちに呼びかけた。会員たちは喜びの声を上げた。北原の胸もときめいた。

 オーナーと優勝騎手、ディープフェイスを管理する調教師が表彰台に立った。その後で表彰台を取り巻くように一口馬主会員たちが整列する。
 インタビュアーが、オーナーにマイクを向けた。マスコミのカメラが一斉にシャッターを切る。カシャカシャという音とフラッシュの光が、北原たちをめがけて飛び散った。
 コメントを終えたオーナーからの提案で、一口馬主会員の中から代表で一名コメントを口にすることになった。オーナーが、会員たちの顔を見渡す。その中から、北原を指名した。
 マイクを差し出された北原は、スタンドを埋め尽くしたファンに向って、喜びの気持ちをトクトクと語った。

 妄想から覚めた北原は、我に返った。
 窓の外は白々としていた。徹夜に近いような状態になってしまっていた。
 しかし、北原は疲れを感じることなく清々しい気分に包まれていた。
 自分は、とんでもないことをしようとしていた。
 もしあのまま研究者仲間のお金に手を付けていたら、今まで積み上げてきた実績も信用も地に落ちていた。大学も去らなくてはならなくなっていただろう。
 ディープフェイスの仔の一口馬主になりたいことへの未練は消えていた。
 あの仔馬を応援し続けたい。その気持ちだけで十分だ。
 一口馬主にならずとも、一頭の馬に思いを託し、歓喜を味わうことはできる。
 北原は、ディープフェイスの仔がターフに立つ姿を想像した。金色の鬣をなびかせながら、四白流星の輝きを放ちながら、先頭を駆け抜けていく。
 そんな彼のことを、自分は競馬場のどこかで見守っているのだろう。
 北原は、三年後の日本ダービーに思いを馳せた。
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