戦国シミュレーション

makotochan

文字の大きさ
1 / 4
第1章 タイムスリップ

戦国シミュレーション

しおりを挟む
1.
 デジャブ、日本語に訳すと既視感だが、実際は一度も体験したことがないのに、どこかで体験したことのように感じてしまうことを意味する言葉である。初めて会った人に対して以前どこかで会っているような感じを覚えてしまう、初めて行った場所に対して懐かく感じてしまう、といったようなことだ。
 ボクも、何度かそのようなことを体験したことがあった。
 その中で一つだけ、他とは異なるデジャブがあった。
 ボクは、東京生まれの東京育ちだ。しかも、江戸っ子である。
 一般的には親子三代が東京で生まれ育っている人のことを江戸っ子と呼ぶのだが、ボクの場合は、親子三代どころか、もっと先の先祖まで東京育ちだ。母方に関しては五代先の江戸時代の商人のときから東京育ちであることがわかっており、父方は江戸時代の武家から続く家系だった。
 父方には家系図が残されていた。田舎のおばあちゃんの家に大切に保管されており、ボクも目にしたことがあった。
 家系図の頂点には、吉原佐平次(よしわらさへいじ)という名前が記されていた。もちろんそれより前の先祖も存在するのだが、家系図を作るときに、彼よりも前に遡ることができなかったのだろう。
 佐平次の息子の代からの先祖に関しては、どのような人物だったのかということがはっきりとしていた。家系図と一緒に保管されている古文書に記されていたからだ。
 しかし、佐平次がどのような人物であったのかということについては一切わからなかった。古文書の中にも、詳しいことはなにも書かれていない。唯一徳川家に仕えていたみたいなことが書かれてあったが、真偽のほどは定かではない。
 吉原佐平次がどのような人物であったのかということが知りたくなったボクは、戦国時代後期の徳川家のことが書かれた本を読み漁った。彼の息子が生きた時代から逆算をすると、佐平次は室町時代の末期から安土桃山時代にかけて存在していたと考えられた。
 しかし、どの本を見ても、吉原佐平次のことが書かれた記述は見つからなかった。徳川家に仕えていたことが事実なのだとしても、歴史に名を遺すほどの人物ではなかったということなのだろう。
 話がそれてしまったようだが、他とは異なるデジャブというのは、名古屋という地にまつわることだった。
 ボクにとって、名古屋は、縁もゆかりもない地だ。今まで、一度も行ったことがない。
 それにもかかわらず、ボクは名古屋という地に愛着があった。それも、なんとなく憧れているというようなことではなく、自分自身のルーツであるように感じてしまうのだ。テレビで名古屋の映像を目にするたびに、いつも懐かしいものに触れたような印象を抱いてしまう。
 (なぜなのだろう?)そのような印象を抱くたびに、ボクは首をひねっていた。
 ボクは、デジャブについて調べてみた。諸説あるようだが、記憶障害の一種なのだというのが有力な説だ。特定の体験をしたときに頭の中の記憶の錯誤が発生し、体験したことのないことをあたかも体験したことのあるように感じてしまう現象ということだ。初めて来た場所なのに以前にも来たことがあるように感じてしまうのも、その直前に発生した特定の体験が記憶の錯誤を引き起こし、過去の記憶の一部だと感じてしまうことによるものなのだろう。
 しかし、ボクに関する謎は、この説では解決できない。名古屋に関しては、毎回同じような印象を抱くからだ。名古屋に関係する映像を目にする直前に毎回記憶の錯誤を引き起こすような体験をしていると考えるのは非現実的である。
 ボクの中で、このことが謎として存在し続けていた。

2.
 今年の梅雨は、いつもとは様相が違った。五月の最終週から本格的な雨が降り続いていた。
 実際のところ、北海道、東北を除いた各地域に、六月を待たずして梅雨入りが宣言されていた。
 そのような中迎えた七月二日のことだった。早めに梅雨入りし平年以上に雨を降らせた梅雨前線も北上し、東京は一週間雨が降っていない。真夏を迎えたかのような熱気が地上を覆っていた。
 今日は、仕事帰りに大学時代の仲間たちと飲みに行く約束をしていた。全員、同じサークルのメンバーである。
 ボクは、歴史研究会というサークルに所属していた。いわゆる歴史おたくたちの集まりだ。
 歴史のジャンルも幅広いが、歴史研究会におけるテーマは日本の戦国時代についてであった。メンバー全員で戦国時代の出来事や武将たちの生い立ち、逸話などに関する研究成果を披露しあい、合戦跡地や各地の城などの見学にも出かけていた。
 大学を卒業後も、メンバー間での交流は続いていた。OB会と称しては年に数回集まり、歴史研究会の活動の延長のようなことをしていた。
 しかし、時が経つにつれて、集まるメンバーの数も減っていった。仕事の都合や歴史への興味が薄れたことなどを理由に、足が遠のくメンバーの数が増えていった。
 中でも顕著なのが女性のメンバーだった。晩婚化が進んでいると言われている中、同期の女性メンバーたちは全員が二十代で結婚をした。最近では、家庭の事情という理由から大半の女性メンバーがOB会に顔を出さなくなっていた。
 今日のOB会も、ボクを含めた男四人である。
 定時で仕事を切り上げたボクは、集合場所である新宿のデパートに向かった。OB会の会場は、そのデパートの屋上にあるビアガーデンだった。
地下鉄の車内で急病人が発生し救助活動が行われたために、ボクは、約束の時刻に五分ほど遅れて集合場所に到着した。
 集合場所には、すでに他の三人の姿があった。学生時代はスリムな体型だったのに今ではポッコリと腹の出ている武藤、背が高くて電柱のような体形をした羽生、最近になって髭を蓄え始めた真鍋が横一列に並びながら会話に興じていた。ボクは、小走りで三人のもとに駆け寄った。
 そんなボクの姿を見つけた羽生が、「吉原(よしわら)のおでましでーす!」と、おどけたように武藤と真鍋に知らせた。
 「正嗣(まさつぐ)くんが遅刻するなんて珍しいね」なぜだかボクのことを下の名前で呼び続ける真鍋が笑顔を向ける。
 「悪い。地下鉄が遅れちゃってさあ……」ボクは、急病人が発生したために電車が遅れたことを説明した。
 集合したボクたちは、エレベーターで屋上に上がった。ビアガーデン会場は、すでに大勢の客で埋めつくされていた。ボクたちは、四人掛けのテーブルに案内された。
 テーブルについた四人は、大ジョッキ四杯と唐揚げ、ポテト、枝豆、カツオのたたきといった食事の品々を注文した。間がなく運ばれてきた大ジョッキを全員が手に取り、乾杯をする。
 渇ききったのどにキレのあるビールは最高である。四人全員が、一気にジョッキ半分ほどのビールを飲み干した。
 「夏のボーナスの使い道、決めているの?」羽生が、誰にともなく問いかけた。
 「まだ何にも考えていない。とりあえず、そのまま貯金かな」武藤が返事をする。
 「オレは、夏休みの旅行費用に使うよ」真鍋も、使い道を口にした。
 「どこへ行くんだっけ?」ボクは行き先を尋ねた。
 「北海道」
 「彼女と?」
 「うん」
 真鍋には、三年越しの付き合いとなる彼女がいた。
 「彼女と旅行か。いいよな……」武藤が、実感のこもったような声で呟く。
 「いいよな」同じく彼女のいないボクも、羨ましげに真鍋に視線を向けた。
 「吉原は、夏のボーナスの使い道を決めているの?」真鍋が、話をそらすように聞いてくる。
 「どうしようかな……。オレも、どこかに旅行しようかな」
 「行くとしたら、どこへ行きたい?」
 武藤から問われたボクの脳裏に、いくつもの地名が浮かんできた。海外も含めて、一度は行ってみたいと思っている場所だった。
 それらの場所を思い浮かべては消していったボクの頭の中で、一つの地名が残った。名古屋だった。

 会話を楽しみながら、ボクたちはビールを飲み続けた。全員が、ほろ酔い気分に浸っていた。
 そんな四人による会話が、歴史クイズに変わった。OB会における恒例行事だ。
 誰かが歴史に関するクイズを出題し、全員で、それにまつわる会話をする。必ず一人一問以上クイズを出すことが暗黙のルールとなっていた。
 「では、まずはボクからいくね」羽生が、先陣を切った。
 「伊達正宗の曽祖父の名前は、なんというでしょうか?」
 「なんだったっけ? お父さんの名前が輝宗で祖父の名前が晴宗なのは知っているのだけどな……」真鍋が首をひねる。
 「景宗っていう人、いたよな?」
 「その人は、留守家だろ?」ボクの問いかけに武藤が突っ込みを入れる。
 「たしか、留守景宗の兄が伊達晴宗のお父さんだったんだよ。なんていう名前だったっけ?」再び真鍋が首をひねる。
 「降参するか?」出題者の羽生が三人の顔を見回した。三人が、渋々といった表情で頷く。ボクも、伊達晴宗まではすんなりと出てくるのだが、その先が出なかった。
 「正解は、伊達稙宗(たねむね)でーす!」
 「あぁ!」ボクと武藤と真鍋は、同時に声を上げた。
 「たねって、変わった字だったよね?」ボクの記憶が甦る。
 「長谷堂城を陥として最上家を支配下に置いた武将だったよね?」
 「たしか、一五一四年だったよな?」
 武藤と真鍋も、歴史の知識を披露した。
 四人の間で、伊達家を巡る会話が広がった。

 羽生、武藤、真鍋の順にクイズを出しあい、ボクの番になった。
 ボクは、ここへ来るときに頭の中で考えておいたクイズを出題した。
 「一五八二年の今日は、どのような出来事が起こった日でしょうか?」
 「今日って七月二日だよね。一五八二年って、本能寺の変が起きた年だけど、あれは六月二日だし、それから一カ月後って、何か特別な出来事があったかな?」
 「一カ月後じゃ、清州会議も、とっくに終わっているだろうし」
 「七月二日は今の暦のことで、旧暦だと六月十三日になるんだけど」
 ボクは、首をひねる真鍋と羽生に向かってヒントを与えた。
 「それを先に言えよ」
 「六月十三日だと、本能寺の変が起きてから十一日後だから……」
 「もしかして、山崎の戦い?」
 羽生のアシストを受けた形で、武藤が答えを導いた。ボクは、正解だと告げた。
 山崎の戦いは、当時は羽柴姓を名乗っていた豊臣秀吉が本能寺の変を引き起こした明智光秀を破ったとされる戦である。
 「しかし、光秀の天下も短かったよなあ」真鍋が、しみじみと口にした。
 「筒井順慶(じゅんけい)や細川藤孝からの支持が得られなかったことが誤算だったんだよな」
 「でも、実際のところ、本能寺の変の首謀者は誰なのだろうね? 正直、明智光秀の単独犯だとは思えないよ」
 真鍋が、三人の顔を見回した。
 「絶対に、家康が絡んでいるでしょ」すかさず武藤が口を挟む。武藤は、家康嫌いだった。
 「何を根拠に、そう思うんだ?」ボクが言い返す。
 「いろいろとあるけどさあ。一番怪しいと思うのは、本能寺の変が起きた直後に家康が堺から脱出したとき、伊賀を通って岡崎に逃げ帰ったでしょ。伊賀忍者の助けも借りながら。でも、伊賀は光秀の力が及んでいた地域だったから、もし家康が無関係なのなら捕らえられた上で殺されていてもおかしくはないと思うんだけど。それと、日光東照宮のあちらこちらに桔梗の紋が刻まれているのも有名な話でしょ。桔梗は、明智家の家紋だよ」
 「それと、家康は、土岐家の所領を安堵したしね」
 羽生も、言葉を重ねた。
 明智家は土岐家から来た家系であり、土岐家は織田信長とは敵対関係にあった。織田信長の盟友であったはずの家康が土岐家の所領を安堵したということは、家康と光秀との間に特別な関係があったはずだというのが羽生の持論だった。
 「天海南光坊のこともあるぞ」真鍋も話に加わった。
 天海南光坊とは、本能寺の変の後に世に現れたとされる僧であり、家康のそばに仕えながら戦にも出陣したとされる人物である。明智光秀の家臣だった斉藤利三の娘である春日局が天海南光坊と顔を合わせたときに「お久しゅうございます」と言いながら平伏したとされていることから、彼の正体が明智光秀なのではないかとも言われていた。
 ボク以外の三人が、家康の陰謀であったという考えを口にした。
 ボク自身の考えは、秀吉陰謀説だった。武将としての秀吉は好きなのだが、なぜだか、本能寺の変に関しては彼が裏で糸を引いていたのではないかという思いがあった。
 自分なりの根拠もある。信長に対して不要な援軍要請を行った結果光秀が軍勢を集めることができたということや、毛利攻めに関して自身の兵力をほとんど失っていないこと、光秀が放った毛利方に信長の死を知らせる使者を都合よく捕らえいち早く信長の死を知ったこと、そして何よりも本能寺の変によって秀吉が一番大きな利益を得たことが秀吉陰謀説を考えるようになった根拠だった。
 ボクは、それらの根拠を並べ立てて、秀吉の陰謀ではないのかという考えを熱く語った。
 それに対して、三人が反論する。
 「そういう解釈ができないこともないのだろうけど、結果論としてそうなっただけだとも言えるじゃん」
 「家康の伊賀越えのこととか土岐家の所領を安堵したこととかは史実だしね」
 「日光東照宮に桔梗の紋が刻まれているのも事実だよ」
 光秀単独の行動ではないということに関しては四人とも考えは同じだったが、陰謀を働いていたのは誰なのかということに関して、ボクと三人の考えは分かれた。
 その後も本能寺の変に関する議論が続けられたが、四人の考えが一つにまとまることはなかった。
 三人と議論をしたことにより、秀吉の陰謀だったのではないかという考えが、ボクの中で一層強くなっていった。

3.
 四人だけのOB会は、大いに盛り上がった。もともとこの四人は、歴史研究会の中でも特に熱心なメンバーだった。大学を卒業して八年経った今も、戦国の歴史に対する熱意は変わっていない。
 ビアガーデンを出た後も居酒屋を二軒はしごしたが、話題の中心は終始戦国の歴史だった。
 気がつくと、終電の時刻が迫っていた。明日も会社がある。朝も、いつも通りの時間に起きなければならない。前日の酒が残った気だるい状態で朝の満員電車に乗らなければならないことを思うと、憂鬱な気分になった。
 また秋になったら会おうという言葉を残してOB会は解散となった。

 私鉄の最寄り駅の改札口を出たボクは、一人暮らしをしているマンションに向かって歩き出した。
 マンションは、駅から歩いて十五分ほどのところにあった。普段ならどうってことのない距離なのだが、酒に酔って帰るときの徒歩十五分は辛い。歴史研究会のメンバーたちと一緒に飲んでいたときはたいして酔っているようには感じなかったのだが、今は、泥酔に近い酔い方であることを自覚していた。足元もおぼつかない。
 ボクは、フラフラしながら、ゆっくりと歩みを進めた。改札口から吐き出された人たちが次々とボクを追い抜いて行く。しばらくすると、ボクの周囲から人影が消えた。
 ボクは、今日のOB会の出来事を思い返した。戦国の歴史に関する持論やうんちくを、あーでもないこーでもないと語り合った。
 本能寺の変に関する議論も平行線のままであった。三人が家康陰謀説を変えることはなかったし、ボクも秀吉陰謀説を引っ込めることはなかった。どちらの説が正しいのか、あるいはいずれの説も間違えなのかは現世を生きるボクたちにはわからないことなのだが、興味のある者同士で語りあうのは楽しい。
 「別に、どっちだっていいんだけどな」ボクは呟いた。
 誰が首謀者であったとしても歴史の内容は変わらない。本能寺の変の後に秀吉が天下を取り、秀吉の死後家康が天下を取ったという事実については変わりようのないことだ。
 ただ、歴史には真実が明らかになっていないことが多い。だからこそ、歴史を語りあうことが楽しいのだ。
 真実が明らかになっていないことといえば、吉原佐平次のこともそうだ。実在した人物であったことは間違いないのだが、いまだに人物像というものが見えてこない。
 尿意を覚えたボクは、その場に立ち止った。周囲に人影がないことを確認した上で、道路に背を向け、道端の側溝に放尿する。
 たまった尿を出しきったボクは、チャックを閉め、夜空を見上げた。
 夜空には、満天とまでは言えないものの、星が光り輝いていた。東京にしては珍しい光景だ。ボクの視線と星の光が一つにつながる。星の彼方から、あの世で暮らす人たちが現世に暮らすボクたちのことを見下ろしているような感覚にとらわれた。
 そんなボクの頭の中で、ぼんやりとした輪郭が浮かび上がってきた。鎧をまとい、手足に脚絆(きゃはん)と籠手(こて)をつけ、頭に陣笠を被っている武士の姿だ。手には、槍が握られている。ボクの中での吉原佐平次像だ。
 ボクは、佐平次のことを思った。徳川家に仕えた人物であるということは信じていた。徳川家は三河を中心とした東海に領地を有していたが、秀吉の命で、北条氏の領地であった関東に移封させられている。
 佐平次は、どの時代から徳川家に仕えていたのだろうか。
 家康が江戸城を居城にした後のことであれば、佐平次自身も江戸周辺の出身だったと考えられ、その後子孫たちも代々江戸で暮らしていたという推測ですっきりとする。
 関東に移封させられる前からだったとすると、どうなるのだろうか。その場合は、佐平次自身は東海の出身であり、徳川家の移封にともない江戸の地にやってきたのだろう。
 そのような考えを巡らせていたボクの頭の中で、名古屋という地名が浮かんできた。たびたびデジャブを引き起こす謎の地だ。
 東海にいたころの徳川家の領地は、三河一国から始まり、遠江(とおとうみ)、駿河、甲斐、信濃と領地を広げていったが、今の名古屋がある地域を領地にしたことはなかった。名古屋があるのは尾張の国であり、織田家の領地である。秀吉の出身地でもあった。
 「わからん」ボクは呟いた。もしかしたら、佐平次よりも以前の先祖と名古屋という地が関係あったのかもしれないが、なぜ現世を生きるボクに特異なデジャブが起こるのかがわからない。
 考えるのを止めたボクは、再び歩き出した。小便をしたことで、少しは酒が抜けたような気がした。街灯の明かりに照らされた夜道をゆっくりと進む。やがて、視界の前方に見慣れたマンションの外壁が見えてきた。

 ボクは、自販機の前で立ち止った。いつも飲んだ帰りにミネラルウォーターを買っているマンションのすぐそばの自販機だった。
 ボクは、自販機のコイン挿入口に五百円玉を入れた。ミネラルウォーターの代金は百十円だ。
 商品名の書かれたボタンが点灯する。ボクは、ボタンを指で押した。ゴトンという音とともに商品取り出し口にペットボトルが姿を覗かせ、つり銭が返却される。
 ペットボトルを取り出し鞄の中にしまったボクは、つり銭の返却口に指を突っ込んだ。ときどき五十円玉が切れているときがあり、そのときは返却口の中は十円玉で一杯になる。今回もつり銭の落ちる音がいつもよりも長かったように感じて嫌な予感を抱いたのだが、その予感は的中していた。
 指でつり銭を手繰り寄せ右手で握ったボクは、掌の中の小銭を小銭入れの中に入れた。
 そのとき、コインが一枚小銭入れから零れ落ちた。百円玉だった。コロコロと道路脇へ転がっていく。やがて道路の端にぶつかり、百円玉は表を向けた。ボクは、百円玉を拾うためにしゃがみ込んだ。
 そのときだった。めまいがボクを襲った。頭の中がくるくると回転する。
 ボクは、道路に両手をついた。気持ちを落ち着かせようと深呼吸をする。
 しかし、気持ちとは裏腹に、意識は遠のいていった。頭の中だけではなく、体全体がくるくると回転しているような感覚に襲われる。目の前の自販機も回転し、そして東京にしては珍しく光り輝いていた夜空の星たちも回転し始めた。
 ボクは、遠のく意識の中で、立小便をしながら吉原佐平次のことを考えたときのことを思い返していた。

4.
 ほら貝の音が鳴り響いた。地響きのような鬨(とき)の声が上がる。
 「前進!」馬上の大将の号令とともに、味方の軍勢が、いっせいに敵を目がけて駆け出した。刀と刀、槍と槍がぶつかりあう。ボクも、懸命に槍を振り回した。敵を倒さなければ自分が殺される。
 ボクの槍が、相対していた敵兵の肩に突き刺さった。顔をゆがめた敵兵が、槍を落とす。
 槍を持つ手に力を籠め捻るように敵兵の肩から引き抜いたボクは、違う敵兵に向けて槍を突きだした。槍先が真っ赤に染まっている。先ほど肩に槍を突き刺した敵兵は、味方の兵にとどめを刺されていた。
 「やあ!」敵兵の槍を振り落とそうと、ボクが全身の力を振り絞る。競り合いを制したボクは、槍先を敵兵の首元に突き刺した。敵兵の首から血が噴き出す。
 槍を引き戻したボクは、休む間もなく次の相手を探した。あちらこちらで敵味方による死闘が繰り広げられている。
 一人の敵兵と視線が合った。敵兵の槍先は血で濡れていた。味方の血であった。
 「おのれえ!」ボクは声を張り上げ、敵兵に立ち向かった。槍と槍とがぶつかりあう。渾身の力で、敵兵の槍を受け止める。
 敵兵が、体のバランスを崩した。ボクは、すかさず敵兵の槍を払い、槍先を敵兵の体に突き刺す体制を整えた。このまま真っ直ぐ槍を突き出せば、目の前の敵兵にとどめを刺すことができる。
 そのときだった。ボクは、後頭部を強打された。違う敵兵が振り回した槍が、後頭部を直撃したのだった。
 ボクは、仰向けに倒れた。頭に激痛が走る。目の上が、ぐるぐると回っている。
 誰かが、ボクの肩を揺すった。
 「吉原殿。気をしっかりとせい!」味方の兵が、ボクの顔を覗き込んでいる。
 「大丈夫だ」ボクは、そう答えたつもりだった。
 しかし、声にはならなかった。味方の兵が、ボクの肩を揺すり続ける。
 やがて、白い幕を張ったように視界がぼやけ始めた。肩を揺すっている味方の兵の顔が歪んでいく。頭の痛みも薄れてくる。
 (死にたくないよ!)ボクは、胸の中で声を張り上げていた。

 「死にたくないよ!」ボクは、自分の声で目を覚ました。頭の中が重たい。
 ゆっくりと体を起こしたボクは、零れ落ちた百円玉を拾おうとしてしゃがみ込んだときにめまいに襲われたことを思い出した。
 (結局、百円玉は拾ったんだっけ?)周囲を見回したボクは、キツネにつままれたような気分になった。
 ボクは、家の中にいた。とはいっても、普段暮らしているマンションの部屋ではない。古民家のような家の中だった。
 今ボクがへたり込んでいる畳の部屋以外に板の間と土間がある。板の間には古ぼけた箪笥や卓袱台(ちゃぶだい)が置かれてあり、壁には先の尖った槍のようなものが掛けられていた。土間には炊事場のようなスペースや囲炉裏があり、壺や桶や器などが並べられている。そして、ボク自身が着流し姿だった。
 ボクは、現在置かれている状況を理解することができなかった。なぜ着物を着ているのだろうか。鞄や財布はどこへ行ったのだろう。そもそも、ここはどこなのだろう。
 ボクは立ち上がった。狭い家の中を、うろうろと歩きまわった。家の中には、電気もガスも水道もない。
 ボクは、家の入り口の扉を開けた。家の前は、細い小道だった。舗装はされていない。周囲には、時代劇に出てくるような光景が広がっていた。道沿いに土壁に重石を乗せた板葺屋根の家が並んでいた。行き来する人間も、みな着物を着ている。
 ボクは、家の中に戻った。入り口の扉には、鍵はついていない。
 畳の部屋で胡坐をかいたボクは、目を閉じた。気持ちを鎮めるために大きく深呼吸をする。
 右の指で右の頬をつねってみた。痛さを感じる。今度は、左の指で左の太ももをつねってみた。やはり、痛さを感じる。ということは、夢ではなく現実のことなのだ。
 ボクは、目の前にある出来事が現実なのだということを受け止めることにした。
 現実のことだとした場合、ここはどこなのだろうかということが最大の疑問であった。もしかしたら、今日は休日で、ボクは時代劇風の街並みがあるテーマパークへ遊びに来ていたのかもしれない。ここに来るまでの記憶がないのは、何らかの理由で一時的に記憶を思い出せずにいるからなのかもしれない。
 現実を受け止めたボクだったが、身動きが取れずにいた。財布やスマホ、家の鍵といった身の回りのものが何もなかったからだ。ここがどこなのかも、どこで着物に着替えたのかも、思い出すことができない。
 とりあえず、じっとしていて、記憶が戻るか誰かが助けに来てくれるのを待つことにした。

5.
 どのくらい、じっとしていたのだろうか。時計というものがないので、今が何時なのか、目を覚ましてからどのくらいの時間が経ったのかということが見当つかない。確実に言えることは、夜ではないということだ。
 ここがテーマパークの中なのだとしたら、夜になれば閉園になる。営業を終える前にスタッフが園内施設の見回りに来るはずだ。そうなれば、たとえ直前の記憶が戻らなかったとしてもボクは救出される。
 ボクの胸の中に、希望が湧いてきた。
 そんなボクを、空腹が襲った。静寂な空間に、ギュルルーという間の抜けた音が漏れ広がる。
 そのとき、家の外から、誰かが「佐平次さま。おいでになられるのですか?」と声をかけてきた。
 ボクは、息をのんだ。なにかの演出なのかと思った。いまだにここがテーマパークの中なのだという感覚から抜け出せずにいたからだ。
 入り口の扉が静かに開いた。薄紫色の生地の小袖を身にまとった若い女が顔を覗かせる。髪は、後ろに結わえてあった。手に、小さな籠を下げている。
 ボクは、再び息をのんだ。可愛い娘(こ)だったからだ。どことなく色気も感じさせる。
 「ごゆるりとお休みになられましたか?」娘が、笑顔を浮かべた。
 「うむ……」ボクは、曖昧な返事をした。
 「お体の具合はいかがですか?」
 「なにがじゃ?」
 ボクは、自分の言葉に驚いた。なにがですかと返事をしたつもりなのに、口では「なにがじゃ」という言葉を発している。
 「朝餉(あさげ)は要らぬと申されましたゆえ。昨夜は遅くまでお酒を飲まれておられたようですし、お体を悪くなされたのかと心配しておりました」
 たしかに、昨夜は遅くまで酒を飲んでいた。ミネラルウォーターを買った後に気を失い、そこから先の記憶がない。そういう意味では、体の具合は悪かった。
 しかし、なぜ目の前の娘が深酒をしたことを知っているのだろうか。そもそも、朝餉が要らないと言ったとは、なんのことなのだろう。
 「今宵の夕餉(ゆうげ)は、佐平次さまの好物のアジを買ってまいりました。お酒でお疲れだと思いましたから、おすましの具もシジミを買ってまいりました」
 手にした籠の中身を見せた娘が、土間の炊事場のようなスペースに向かった。火を起こし、調理を始める。
 ボクは、黙って娘の背中を見続けた。

 食事の用意が整った。
 卓袱台の上に、料理の乗った四角い盆が置かれた。盆の中身は、ご飯の盛られた椀とシジミのおすましの入った椀、焼き魚が盛られた皿、野菜の煮物が盛られた器である。
 空腹に耐えかねていたボクは、料理に箸をつけた。美味しい味付けだった。ほどよく塩気の効いた焼き魚がご飯と合う。あっという間に、椀の中のご飯がなくなった。
 視線を感じたボクは、顔を上げた。娘が、微笑ましそうにボクのことを見つめている。ボクは照れくさくなった。
 「ご飯、お注ぎ致しますね」娘が、お代わりのご飯をよそう。
 「そなたは食べぬのか?」ボクは口を開いた。
 「あなたは食べないのですか?」と聞いたつもりなのだが、先ほどと同様、おかしな言葉を口にしている。
 「私は、先に済ましておりますゆえ。いつものことではござりませぬか。なにゆえ、そのようなお言葉を口になされるのですか?」娘が、不思議そうな表情を浮かべた。
 自分の置かれた状況が呑み込めていないボクに、返す言葉はなかった。
 ボクは、黙って食事を口に運んだ。

 ボクが食事を食べ終えた。卓袱台の上に、茶の入った椀が二つ並べられる。娘も、茶は飲んでいくようだ。
 ボクと娘は、卓袱台を挟んで向き合った。部屋の中は、薄暗くなっていた。日が沈む時刻なのだろう。
 茶を一口すすったボクは、娘に話しかけた。
 「つかぬ事をお聞き致すが、そなたは何者なのじゃ?」
 相変わらずおかしな言い方になっているが、ボクは気にしないことにした。ともかく、今置かれている状況を正確に知ることのほうが先決だからだ。
 ボクの言葉に、娘が驚きの表情を浮かべた。ボクの目をまじまじと見つめながら、言葉を押し出す。
 「いかがなされたのですか?」
 「いかが致したとは?」
 「まことに、私のことがおわかりにならぬのですか?」
 娘の表情は真剣だった。人のことを担いでいるようにも思えない。少なくとも、テーマパークの演出などとは違う。なにか突拍子もないことがボクの身に起こったのだ。
 ボクの意識から、テーマパークに迷い込んだなどというお気楽な感覚が抜けていった。
 ボクは、考えた末に、続く言葉を口にした。
 「ならば、別のことをお聞き致そう。今は、いつの世じゃ?」
 「……天正十年の六月十三日でございます」
 天正十年といえば、本能寺の変が起きた年である。西暦でいえば一五八二年だ。その時代は、旧暦を使っている。旧暦の六月十三日は、今の暦に直すと七月二日だった。
 ボクは、昨晩の歴史研究会OB会の飲み会で羽生、武藤、真鍋を相手にクイズを出したときのことを思い返した。天正十年の六月十三日、つまり娘が口にした今日の日付は、山崎の戦いが起こった日である。
 ボクは、さらに質問を重ねた。
 「拙者の名は、なんと申すのじゃ?」
 「……吉原佐平次さまでございますよ」
 娘の瞳に、うっすらと涙が浮かんだ。ボクのことを、心の底から心配しているような表情を浮かべている。おそらく、娘の目には、頭がいかれてしまっているように映っているのだろう。
 娘の表情を目にしたボクの中で、ある考えが閃いた。目を覚ました後に起こった全ての出来事や娘とのやり取りに対して説明のつけられる答えは一つしかなかった。あまりにも非現実的なことなのだが、これ以外に説明のつく答えはない。
 ボクは、吉原佐平次が生きる時代にタイムスリップしたのだ。そして、今の自分自身が、佐平次そのものなのだ。鏡がないために顔を見ることはできないが、昨日までのボクとは異なる顔をしているのだろう。
 現世に戻ることができるのだろうかという不安がボクを襲った。一時的にタイムスリップしただけなのであれば楽しい体験ができたということで済まされるが、このまま現世に戻れないのでは困る。
 現世から過去にタイムスリップできたのであれば、過去から現世にタイムスリップすることもできるはずだ。そのやり方を見つけるためにも、自分自身が置かれている状況を詳しく知らなければならない。そのためには、吉原佐平次になりきる必要がある。
 そう考えたボクは、娘を通じて佐平次のことを知ることにした。
 「そなたに恥を忍んで申し上げるが、拙者は、訳はわからぬが、身の回りの記憶の大半を失ってしもうたのじゃ。いずれはもとに戻るものと思うてはおるが、今は、己の名すら出て来ぬ有様じゃ。奇異なことを申すが、まことの話なのじゃ。そなたが拙者と親しい人間であることはわかっておるのじゃが、名を思い出すことができぬ。かたじけない」
 「佐平次さま。かような目に見舞われていたのですか」娘の顔に安堵の表情が浮かんだ。自分の存在を忘れていないという言葉を聞き、安心したのだろう。
 ボクは、佐平次と娘が親しい間柄であるということに確信を抱いた。
 「記憶を取り戻すためには、今まで通りの生活を送らねばならぬ。そなた、力を貸してはくれぬか?」
 「もちろんでございます」
 「今まで通りの生活を送るためにも、このことを他人に悟られてはならぬ。そなたも決して他言はせぬよう、心に期してはくれまいか」
 「はい」
 娘は、大きく頷いた。

6.
 ボクは、記憶喪失を装い、娘から佐平次に関することを聞き出した。
 娘は、お玉という名の隣近所に住む商人の娘だった。年齢は十九歳であり、妻を持たない佐平次の身の回りの世話をしていた。話し方や表情などから、佐平次に対して特別な感情を抱いていることが窺えた。
 その佐平次だが、お玉が言うには現在三十歳ということだ。年齢に関しては、ボクと同じである。
 佐平次は、徳川家に仕える武士だった。正確にいうと、徳川家康の旗本先手役である本多忠勝隊に所属する足軽大将大山左馬之助配下の足軽という身分である。現在暮らしている場所は、浜松城下の下級武士や商人たちが暮らす地域であった。
 足軽は職業軍人のようなものであり、大名家から給金を得る代わりに、戦が起こったときは必ず戦地に出向かなければならない義務を負っていた。足軽は戦地に出て戦う武士の中では身分が一番低い層であり、二等兵や一等兵のような存在である。
 戦のないときの佐平次は、裏の畑で野菜を育てたり町の子どもたちに武術を教えたりして過ごしていた。
 お玉は、佐平次の人間関係についても語ってくれた。
 佐平次には、仲の良い足軽仲間が何人かいたが、中でも松井作次という四歳年下の足軽と仲が良いということであった。松井は常日頃から佐平次のことを兄と慕っているということであり、七月二日の夜も、松井を含めた何人かの足軽仲間たちと一緒に酒を飲んでいたということだ。
 ボクの中で、佐平次に対するイメージがまとまりつつあった。

 タイムスリップをしてから数日後、松井が家に訪ねてきた。お玉が用意してくれた朝餉の玄米粥を食べ終え、茶を飲みながらお玉との会話を楽しんでいる最中に彼が顔を出した。
 「兄者、ご機嫌よろしいようで」そう声をかけてきた松井が、家の中にのっそりと入ってきた。
 兄と慕ってくるということから小柄で可愛らしい男をイメージしていたのだが、実際の松井は大柄な男だった。髭を蓄えた顔がいかつく映る。
 このような男から兄と慕われていることをボクは滑稽に感じた。
 「お玉ちゃん。拙者にも茶を入れてはくれぬか」松井が、お玉にお茶を要求した。
 「はい、はい」お玉が、笑顔で立ちあがる。
 「戦がない日々は、退屈で仕方がないのう」ボクは松井に向って、もっともらしい言葉を投げかけてみた。
 「兄者、そのことよ」松井が、いわくありげな表情を浮かべる。
 「何事かが起こったのか?」
 その問いかけに、松井がお玉に視線を向けた。視線を感じたお玉が、松井にお茶を出し、そそくさと家を後にする。
 お玉の姿が消えたのを確認した松井が、ボクのほうへ膝を乗り出した。
 「実は、とんでもない話を耳にしまして……」
 ボクは、視線で話の先を促した。松井が、声をひそめながら話を続ける。
 「信長様が、京でお亡くなりになられたのだとか」
 「まことの話であるか!」ボクは、驚きの表情を浮かべた。とはいっても、表情は演技である。
 歴史を知るボクは、本能寺の変が起こったことを知っている。しかし、テレビや新聞、インターネットというものがないこの時代は、リアルタイムに情報を得ることはできない。人々の口伝や噂話などが情報源になっていた。
 下手に知っているというような顔をしてしまうと、松井から情報源はどこなのかと問われたときに答えるのに困る。佐平次になりきるつもりでいるとはいえ、彼の情報収集力がどの程度のものなのかということを知らないボクは、とっさの判断で初めて聞いた話であるような顔をした。
 「まことのことのようです。旅商人どもが話をしているのを偶然耳にしまして、彼の者たちに酒を振る舞い、詳しい話を聞いてまいりました」
 城下には、全国各地を行脚する僧侶や商人、旅人、浪人たちが出入りしていた。彼らがもたらす情報は、下級武士や庶民たちの情報源ともなっていた。
 松井が、話を続ける。
 「なんでも、明智光秀殿が信長様の命令に背いて謀反を起こしたようでして、京に居られた織田家の一族郎党全てが皆殺しにされたということです」
 (それは違うよ)ボクは、口にしかけた言葉を飲み込んだ。信長の弟の織田長益や織田信忠の嫡男の三法師は難を逃れている。
 「その後、いかようになったのじゃ?」ボクは、知らないふりを貫いた。
 「その後のことは、いろいろな話がございまして。光秀殿が権力を握られたのだと申す者もおれば、織田信孝殿と丹羽長秀殿とで仇を取ったのだと申す者もおり、羽柴秀吉殿が仇を取ったのだと申す者もおりまする」
 「羽柴殿は、中国で毛利軍と戦っておる最中ではなかったかのう?」
 「その者が申すには、毛利軍を降伏させた後に、京へ引き返したということでした」
 正確には、降伏ではなく和睦である。毛利が服従した訳ではない。あくまでも手打ちであった。
 「さようなことよりも、兄者、我が徳川家のことでございます。光秀殿が謀反を起こしたとき、大殿は、わずかな手勢だけで堺の町を見物しておられたそうなのですが、事を知り、命からがら逃げ帰ったということです。僅かな手勢の中には、殿もおられたようです」
 大殿とは徳川家康のことであり、殿とは本多忠勝のことだ。徳川家康に関することは正確な情報だった。
 「これより先、いかような世になるのかのう?」ボクは、話の流れで口にした。
 「信長様という絶対的な権力者がいなくなったということは、またぞろ、群雄割拠な世になっていくのではないでしょうか。戦が増えまするぞ」
 「大殿は、いかがなされるおつもりであろうか?」
 「このまま指をくわえて見ているわけにはまいりますまい。近いうちに、必ず出陣いたすおつもりではないでしょうか」
 「ならば、忙しくなるな」
 史実では、数日後に清州会議が開かれ、徳川家が関係する本格的な戦も二年後の小牧・長久手の戦いまでは起きていない。しかし、このまま佐平次で居続ければ、いつかは戦場に出向かなければならなくなるのだろう。
 ボクは、タイムスリップをする直前に夢を見たことを思い出した。戦場で槍を振り回し、最後は敵兵の槍で頭を打たれ、意識が遠のいていった夢だった。
 「兄者。しばらくは、この話は他言なされないほうが懸命だと思いまする」
 「心得ておる」
 ボクは、大きく頷いた。

7.
 そのときから半月ほどが経った日のことだった。
 浜松城内のとある一室に、二人の男が向かいあっていた。周囲は完全に人払いがされており、静まり返っている。
 二人は、二刻ほどの間、膝を付きあわせながら、静かに話をしていた。
 上座に座った男が口を開いた。
 「さすれば、そちは、こたびの光秀の逆心に筑前が関与していると考えておるのか?」
 「さようにござりまする」
 下座の男が、自信ありげな表情で頷く。
 上座にいるのは城主の徳川家康であり、下座にいるのは本多正信であった。本能寺の変に羽柴秀吉が関係していると考えているのかという問いかけに対する答えである。当時の秀吉は、朝廷から筑前守(ちくぜんのかみ)という官位を授かっていた。
 「なにゆえ、さように考えておるのじゃ?」家康が、正信の顔に強い視線を当てる。顔の表情が険しくなった。
 「羽柴殿が、誰よりも利益を得ているからでございまする」
 「清州でのことか?」
 家康の問いかけに、正信が頷く。
 一週間前に清州会議が開かれ、秀吉が擁立した織田信忠の嫡男三法師秀信が織田家の後継者になるということが決まった。
 その後話しあわれた信長の遺領分割においても、秀吉は丹波国、山城国、河内国という京の周辺三カ国を手にし、加増となった。逆臣である光秀を討ったという功績が支持されての結果である。これにより、織田家臣団の中で発言力が最も大きくなった。
 「偶然の産物ではあるまいか? 筑前に運があったという」
 「偶然も、何度も続くと偶然とは呼べますまい。信長様が討たれて間がなく毛利と和睦し、早馬のごとく取って返し、瞬時のうちに畿内の武将たちを切り崩し、いち早く合戦の要となる要地に布陣する。さようなことが、事前の策略無くしてできましょうか?」
 「うぅむ……」家康の表情の険しさが増した。何事かを考え込む。正信も口を閉ざした。
 「その後の筑前の動きはつかんでおるのか?」
 「正成からの報告では、柴田勝家殿との戦の準備を着々と進めておるようであります」
 正成とは、家康お抱えの忍者を統率する服部半蔵のことだ。
 「戦は、いつごろのことになりそうじゃ?」
 「年が明けてのことだと思われまする。全軍あげての戦いになるのは必然であり、準備にも時間がかかりましょう。冬場は、柴田殿は雪で動くことができませぬ。早くとも、来年の三月ごろになるのではないかと」
 「半年以上先の話ではあるな。それだけの時間があれば、筑前も、いろいろと手を打ってくるのであろうの」
 「まずは、織田信孝殿の追い出しにかかりましょう。さすれば、自らが信孝殿に代わって幼い三法師殿の後見人になることができ、織田家家中における発言力が、ますます強くなりますゆえ」
 「合戦となれば、いかほどの者が筑前に味方をすると考えておるのじゃ?」
 「信孝殿、滝川一益殿、前田利家殿、佐久間盛政殿以外の織田家家臣大名たちは、羽柴殿にお味方するものと思われまする」
 「さすれば、筑前が勝利するのは必定であるか?」
 「戦いを有利に進めることができるのは間違いのないことでございましょう」
 正信の言葉を聞いた家康は、手の指の爪を噛んだ。
 家康は焦っていた。本能寺の変が起きた後、わずかな手勢とともに、命からがら国まで逃げ帰った。途中で追手に捕まり、命を奪われても不思議ではない状態であったのだ。
 無事帰国できたということは、自分には運があるということだ。織田家の内紛に乗じて漁夫の利を得る形で天下を狙えないこともない。最近、家康の中で、めきめきと天下取りに対する野望が膨らんでいた。そんな中、秀吉の行動に焦りを覚えていた。
 「筑前が柴田殿との戦で勝利を収めた暁には、やつの天下になるのは必定か?」家康が、強い視線を向けた。
 「必定とまでは言えませぬ。北には伊達や上杉、東には北条、西には毛利や長宗我部や島津、そしてなによりも我が徳川家という力のある大名が、全国にはたくさんおりまするゆえ」
 「なれど、やつが織田家の勢力を手中に収めるのは必定じゃ」
 「御意」
 「そうなった暁には、やつは天下取りに動き出す」
 「……」
 「やつが天下を手に入れるとしたら、どの程度先のことだと考えるか?」
 「……早くて五年、少なくとも十年先には、天下を手中に収めているやもしれませぬ」
 「いかがすればよいのじゃ?」
 「羽柴殿の味方をする大名たちの切り崩しを行えばよろしいのではないかと」
 「いかようにして切り崩すのじゃ?」
 「現在味方をしている者たちの多くは、羽柴殿が信長様の仇を取ったという理由より味方をしているわけであります。もし、羽柴殿自身が信長様を討つことに加担していたことが明らかになった場合は、情勢は大きく変わりまする。羽柴殿に味方をすることで、自らも反逆者であるという疑いをかけられることになりますゆえ」
 「ということは、筑前が係っていたという証拠をつかめばよいというわけであるか」
 「さようにございます」
 「正成に探らせるか?」
 「おそれながら、その策は、賢明ではないと思われまする」
 「なぜじゃ?」
 「羽柴殿には甲賀方がついております。おそらく、向こうも情報集めに懸命になっておることでありましょう。我が方の忍びたちの動きも監視しているものと思われまする。そのような折、正成に探らせるのは、我が方の考えをさらすのに等しいことと存じ上げます」
 「ならば、いかが致す」
 「拙者に、良き考えがございます」
 「良き考えとは?」
 「殿、お耳を拝借いたします」
 そう言うと、正信は、家康の耳に口を近づけた。

8. 
 信長が討たれたという話は、瞬く間に城下に広まった。人の口に戸を立てることはできないからだ。人伝に話しが広まり、今や商人や農民たちの耳にも届いていた。庶民たちは、これから戦が増えるのではないかということを不安に思う言葉を口にしあっていた。
 そんな中、ボクは穏やかな日々を楽しんでいた。
 この時代は現代とは異なり、一日二食という食文化であった。朝は玄米粥を食べ、夜は一汁二菜からなる食事を摂るのが日常的なパターンだ。おかずも野菜と魚であり、実に健康的な食生活だった。
 タイムスリップをした当初は昼間の空腹を苦痛に感じていたのだが、直に慣れることができた。
 お玉と過ごす時間も楽しかった。
 彼女は聡明で明るく、それでいながら常に男を立てる性格である。容姿も素晴らしい。
 プラトニックな関係を保ってはいたが、ボクは、胸の中でときめきを感じていた。佐平次とお玉がどのような関係だったのかということを考える時間も多くなっていた。

 七月に入った。現代の暦でいえば、七月の下旬だ。
 この時代にも梅雨と呼ばれる季節はあったが、旧暦の七月に入るころには、雨も降らずかんかん照りの日々が続いていた。ただ、現代の真夏とは違い過ごしやすかった。日中も倒れるほどの暑さではなく、朝晩には涼しい風も吹いていた。
 七月に入って数日が過ぎた日の夜、ボクは、足軽仲間に誘われて城下の酒場に酒を飲みに行った。メンバーは、ボクと松井、同じ足軽大将大山左馬之助隊に所属する正木市兵衛と江島一之進の四人である。
 タイムスリップをしたとき以来、足軽仲間たちと一緒に酒を飲む機会が何度かあったが、酒場に行くのは初めてのことだ。
 酒場は、畳敷きの広間に客たちが思い思いに胡坐をかいて飲食をする形式だった。酒は濁り酒であり、摘まみは味噌、魚料理、野菜料理だ。
 広間の一角に腰を落ち着けたボクたちは、思い思いに酒と料理を注文した。現代社会のようにみんなで乾杯をすることはなく、自分のペースで飲み食いする。
 話題の中心は、やはり信長が討たれたことについてだった。
 四人は、各々が入手した情報を口にしあった。
 どの情報も、同じような内容であった。明智光秀が信長を討ち、その光秀を秀吉が討ち、家康が堺からの脱出に成功したという話だ。秀吉が光秀を討ち果たしたというということも、周知の事実となっている。
 「また、戦に駆り出されるのかの?」手元の酒を飲み干した江島が、口の周りを掌で拭いながら三人に語りかけた。
 「今すぐにということは、ないのではないかの」松井が答える。
 「なにゆえ、さように思うのじゃ?」正木が、松井に問い返す。
 「今しばらくは、織田家家中での争いになると思われるからじゃ。大殿も、しばしの間は静観なされるであろう」
 「吉原殿は、いかが思われるか?」正木が、ボクの見解を聞いてきた。
 「拙者も、同じ考えじゃ。大殿は、慎重に事を進めるお方であられるゆえ」
 史実でも、家康は、すぐには事を起こしていない。ボクは、自信を持って答えた。
 四人の間で、しばらくの間は自分たちが戦に駆り出されることはないだろうという見解でまとまった。
 話題が、本能寺の変そのものに移り変わる。
 「明智殿単独の謀反であったと聞いておるのじゃが」江島が、三人の顔を伺った。
 「勝算があっての行動であったのであろうか」
 「そうとは思えぬ。織田家は、並みの大名ではござらぬ。強力な家臣団を多く配下に抱える大名じゃ。信長様を討ったところで、討った者がすぐに信長様の立場に取って代われるわけではない」
 「現に、羽柴殿に討たれたわけじゃからな」
 ボク以外の三人の中には、光秀の単独行動を疑う考えはないようだ。
 三人の会話に耳を傾けていたボクの中で、秀吉陰謀説を口にしてみたいという思いが湧いてきた。歴史研究会の羽生、武藤、真鍋に対して持論をぶつけたときのことを思い返した。
 「拙者は、明智殿単独の謀反であったという話には懐疑的じゃ」
 突然の言葉に、三人が驚いたような視線を向けた。光秀の単独行動ということを前提に議論をしていたからだ。
 「なにゆえ、兄者は、さようにお考えになるのですか?」松井が、理由を問うてきた。
 ボクは、羽生、武藤、真鍋に対して持論をぶつけたときの理由をしゃべろうとして口をつぐんだ。今のボクは吉原佐平次であり、歴史から学べるレベルの詳しい知識を持っていてはおかしいのだ。しかし、なにも事情を知らない目の前の三人に持論をぶちまけてみたい。
 ボクの中で、葛藤が生まれた。衝動的な感情を抑えるために、目の前の酒を飲み干す。
 酒をお代わりし、再び飲み干した。酔いがまわるにつれて、理性が感情に打ち勝っていく。通常とは逆のパターンだ。
 「京のことを良く知る者に聞いたところによると、信長様が討たれたのが六月二日、そして羽柴殿が明智殿を討ったのが六月十三日ということじゃ。羽柴殿が明智殿を討ったのも、京の近くであったと聞いておる。さらに、信長様が討たれたときは、羽柴殿は中国で毛利と戦っておった。わずか十一日の間で毛利との戦を終結し、自らの軍勢を整え、中国から京へ取って返す。しかも、京で明智殿と相対すためには近隣の大名たちを味方につけねばならぬ。これらの計らいが全て羽柴殿にとって都合よく進められたように見えることに不自然さを感じておるのじゃ」
 「つまり、お主は、何が言いたいのじゃ?」
 正木が、眉をしかめた。ボクの話が呑み込めていないようだ。江島も松井も、呑み込めていないような表情を浮かべている。
 ボクは、話を続けた。
 「明智殿単独の謀反ではなかったという可能性もあるのではないかということじゃ」
 「単独ではないとすると、共謀する者がいたとでも申すのか?」
 「誰が共謀したのじゃ?」
 「もしや、兄者は、羽柴殿が共謀者だったと考えておられるのでしょうや?」
 口々に問いかける三人に向かって、ボクは慎重に答えた。秀吉陰謀説の持論は曲げるつもりはないが、目の前の三人に断言口調で言葉にするのは得策ではない。
 「あくまでも、可能性を口にしておるだけじゃ。ただ、お主らが口を揃えて明智殿の単独行動なのだと申すものだから、異なる考えを口にしたまでよ」
 その言葉に、三人が納得したというような表情で頷いた。彼らもボクが指摘した可能性に興味を示したようであり、四人の間で秀吉陰謀説も含めた議論が展開された。
 酒を重ねたボクは、しこたま酔っぱらった。

9.
 タイムスリップをしてから一カ月が経過した。
 一カ月間は、あっという間だった。
 歴史研究会では、戦にまつわる話だけではなく戦国時代の生活なども研究のテーマにしていたが、実際に当時の生活を体験したことで学べたことが多かった。ある意味充実した一カ月間だったが、今のボクには不安のほうが大きかった。現世に戻れるのかという不安だ。
 こうやって戦国時代の生活を体験している時間は、現世ではどのような進行になっているのだろうか。タイムスリップしている間はボクに関する現世の時間がストップしてくれているのならよいのだが、同時並行で時間が進んでいるのであれば大変なことだ。会社を一カ月間も無断欠勤していることになるわけであり、解雇されてしまうかもしれない。
 それだけでは済まないだろう。両親が警察に捜索願を出すことで、失踪者リストにも乗せられてしまう。
 現世に戻れる方法は、いまだにわかっていない。その糸口さえもつかめていなかった。
 しかし、一カ月間は、不思議な体験の序章にしか過ぎなかった。さらに、想像もしていなかったことがボクの身に起こった。
 一カ月が経過したその日、いつものようにお玉が作ってくれた朝食の玄米粥を食べ、小一時間ほどお玉との会話を楽しんだ後に今日一日をどのように過ごすかを考えていたときに、家に佐平次の上司である足軽大将の大山左馬之助がやってきた。大山の周りには、何名かの足軽組頭の姿もあった。
 その大山が、意外な言葉を口にした。
 「殿の登城の伴周りに加わってもらう。すぐに支度をしろ」
 「それがしがですか?」
 ボクは首を傾げた。
 領内の城主や旗本隊の部隊長が大名の居城へ登城するときの伴周りは、配下の足軽大将や足軽組頭などが務めるのが通常であった。足軽のような下級武士は、めったなことでは大名の居城へ足を踏み入れることはできない。なぜ、ボクに声がかかるのかがわからなかった。
 「いかにも。殿からの直々のご指名じゃ」大山が、本多忠勝直々の指名であることを口にした。
 ボクは、大急ぎで、伴周りに加わるための正装に着替えた。

 浜松城に入城した伴周りの一行は、城門の近くにある広間に移動した。城主や旗本隊の部隊長の用が済むまで待機をする場所である。広間に居るのは、ボク以外は足軽大将や足軽組頭クラスの人間ばかりだ。ボクは、隅のほうで体を小さくしていた。
 待機を始めてから三十分ほどが経った頃、広間に身分の高そうな侍が顔を出し、大山の名を呼んだ。用を言いつかった大山が、ボクのもとにやって来る。
 「大殿がお呼びだ。わしの後について参れ」
 ボクは首をひねった。大殿とは徳川家康のことだ。雲の上のような存在の家康が、一介の足軽であるボクにどのような用があるというのだろう。
 ボクは、大山の後をついて城内を移動した。大山の前には、ボクたちを呼びに来た身分の高そうな侍の姿があった。
 やがて、目的の場所に到着した。奥にふすまがあり、手前の間に帯刀した侍が二名控えている。
 「本多忠勝様配下の吉原佐平次と申す者をお連れ申した」先頭を歩いていた身分の高そうな侍が声をかけた。
 「少々お待ちを」控えていた侍の内の一人が、ふすまの奥に消える。
 戻ってきた侍が、ボクに、中に入るように言った。ボクは、侍に連れられ中に入った。
 ふすまの奥は畳敷きの部屋になっており、数人の侍が待機をしていた。その奥にも部屋がある。
 いくつかの部屋を通り抜けた後に、目的の部屋にたどり着いた。
 その部屋は、奥が高座になっており、高座の中央に重厚な装いをした男が前を向いて座っていた。徳川家康である。高座の手前には、左右に分かれて四人の男が胡坐をかいて座っていた。そのうちの一人が本多忠勝だった。残りの男たちも徳川配下の武将たちなのだろう。
 ボクは、部屋の入り口で縮こまった。
 「殿。彼の者が、吉原佐平次にございまする」本多忠勝が、家康に向かって言葉を発した。
 「近こうまいれ」家康が手招きする。
 「ははっ」ボクは低頭した。しかし、体が思うように動かない。近くに来てよいと言われても、どの程度まで近づいてよいのかがわからなかったからだ。
 結局、本多忠勝の指示で、四人の武将の手前の位置で家康と向かいあうようにして正座した。
 そんなボクに向かって、家康が語りかけてきた。
 「吉原のとやら。そこもとは、信長殿が討たれたことについて、疑念を持っておるそうじゃの?」
 「はあ、その……」ボクは、言葉に詰まった。
 「吉原の。思うたことを口に致せばよい」本多忠勝が、助け舟を出す。
 ボクは、腹をくくった。
 「持っておりまする」
 「いかような疑念じゃ?」
 「つまり……」ボクは、再び言葉に詰まった。このような場で、軽々しく秀吉陰謀説など口にはできない。下手をすれば、この場で首をはねられるのではないかと思った。
 「遠慮はいらぬ。申してみよ。足軽どもと酒を飲み交わしながら口に致したことを、この場でも申してみよ」家康は笑顔を浮かべていた。
 ボクは、状況を察した。足軽仲間たちと酒場で議論をしたときのことが家康の耳に伝わったのだ。
 ボクは、恐る恐るその時に口にした内容をしゃべった。家康が、所々で相槌を打つ。
 「今申したことは、城下で、どの程度口に致したのか?」
 「先日酒を飲んだ折に、足軽仲間たちに話をしただけにござりまする。滅多なことでは口にできることではございませぬゆえ」
 「まあ、よい」家康が頷いた。
 「ところで、今日は、そこもとに申しつけたきことがあって呼んだのじゃ」
 「いかようななお申しつけでありましょうか?」
 「そこもとに、秀吉のことを調べてもらいたい」
 「と申されますと?」
 「ここだけの話じゃが、余も、こたびの秀吉の行動には疑念を抱いておる。秀吉が逆心を働いたとなれば、余は秀吉を討つ。なれど、憶測だけでは行動ができぬ。証拠が必要じゃ。そのための調べをしてもらいたいのじゃ」
 家康の要望は、諸国を巡りながら秀吉に関する情報を集め、秀吉の関与が疑われる証拠をつかんだ場合は報告してほしいということだった。家康お抱えの忍びの者を始めとした本来の情報収集機関は秀吉からマークされている可能性が高いので、あえてマークされようのないボクのような人間に声をかけたのだということも口にした。酒場での一件を耳にし、ボクに白羽の矢を立てたということのようだ。
 「諸国を巡るとは、日本全土を周るという意味なのでありましょうか?」
 交通網が整備されていないこの時代に日本全土を周るとなると、莫大な時間を要する。
 「全土を周る必要などない。信長殿が討たれたことに秀吉が関与しているのかどうかを調べることが目的なのじゃ。調べを致すべき国やことについては、後々に、忠勝より申し渡す」
 「それがしが一人で調べを行うのでありましょうか?」
 「他にも、人員は用意してある。そこもとは、指揮を取るのじゃ。費えは、気にせずともよい。調べの成しようは、そこもとに任す」
 家康が、ボクに任すという言葉を口にした。
 「なんどきまでにお調べ致せばよろしいのでありましょうか?」
 「期限は設けてはおらぬ。なれど、世の情勢は刻々と変化しておる。努めて早うに証拠を手にしてもらいたいものじゃ」
 「必ずや、ご期待に応えてみせまする」
 ボクは、畳の上に額をこすりつけた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

リアルメイドドール

廣瀬純七
SF
リアルなメイドドールが届いた西山健太の不思議な共同生活の話

リボーン&リライフ

廣瀬純七
SF
性別を変えて過去に戻って人生をやり直す男の話

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

恋愛リベンジャーズ

廣瀬純七
SF
過去に戻って恋愛をやり直そうとした男が恋愛する相手の女性になってしまった物語

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

月弥総合病院

僕君☾☾
キャラ文芸
月弥総合病院。極度の病院嫌いや完治が難しい疾患、診察、検査などの医療行為を拒否したり中々治療が進められない子を治療していく。 また、ここは凄腕の医師達が集まる病院。特にその中の計5人が圧倒的に遥か上回る実力を持ち、「白鳥」と呼ばれている。 (小児科のストーリー)医療に全然詳しく無いのでそれっぽく書いてます...!!

処理中です...