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第1章 それはすました蒸気のように
2-9 「あ~母さん達顔広ぇーなー」
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「アンリさん引き受けてくれて本当良かった~」
レシレタは主に通販や文通で使われるが、匿名性が高いので犯罪に使われる事も多い。牧師館に頼んでいたら、叔父は絶対に良い顔をしなかっただろう。
反面。
アンリは事情を聞いて来ないし、タイミングが合えば預かり店まで受け取りに行ってくれる事もある。昨日がそうだ。
しかしあの作業着の青年は、自分が男になっている事までは気付いていないだろう。
叔父に至っては文通をしている事すらも。
「ふふふふふっ」
それがまた背徳感があるのだ。楽しくて、白い天井を見上げながら笑いを噛み締めていた。
男のフリをするにもモデルが必要。なので、自分が今一番気になっている少年ノアをイメージした。もしかしたらこれも文通が楽しい理由なのかもしれない。
スケアリーと文通を開始した時はノアとの縁も切れていたタイミングだったが、彼は命の恩人でもあるのでそんな事関係無かった。
今しがた認めた便箋を水色ボーダーの封筒に押し込みながら、夢見心地で呟く。
「……自分じゃないみたい」
知らない人物との薄くて濃い時間や、自分以外の存在になりきれる事。それらは、こんなにも簡単に毎日を色付かせてくれる。
素敵な時間をくれる趣味に出会えた事が、スケアリーに会えた事が嬉しい。手紙で言っていた通り、週に1、2往復出来るくらいテンポ良くやり取り出来る相手は滅多に居ないと言われている。
「良い人に巡り会えたなーっ」
鼻歌を口ずさみながら、筆跡を少しだけ変えてスケアリー指定のレシレタ預かり店の住所──ジャンヌの家の辺りだ、スケアリーはあの辺に住んでいるのだろうか──を書き、レシレタ使用料金として少しだけ高い切手を貼った。
「次も男にさせて下さいスケアリーさんー!」
祈るように言った言葉は思ったより大きかったが、壁に吸音シールを貼っているので問題無いだろう。
手元にある封筒を見ながらイヴェットは「んふふっ」と笑みを噛み締めていた。
***
明らかにフードコート目当てだったドミニクの協力のおかげで、ノア・クリストフの引っ越しは夕飯前に終わった。
打ち上げに、ルイリーフの駅ビルに入っているフードコートでピリ辛ヌードルを食べ──ドミニクは南米の肉料理を頼んでいた──少なくなった財布の中身以上に頭を占めている事があった。
新しき隣人についてだ。
隣人が出来た、と先程航海中の母親に電話をした。ヴァージニアが人を殺したとは言えず「ヴァージニアが田舎に戻ったので自分も実家に戻った」とも伝えた。
一人暮らしでも問題無さそうなのでやってみたい、とも言ったところ。
『そっか、じゃあお隣さんに挨拶しておきなさい』
母から返って来たのは、王が臣下に勅命を下すような声だった。普段は大人しい人なのに息子には気が強い。
「トラブルがあったら真っ先に頼る相手になるかもしれないのだから、顔を把握しておいて損は無い」のだそうだ。
隣人への挨拶など初体験だ。
何を話して良いか分からない。
手土産でも渡した方が良いのか、と悩んだが母は『来月帰った時に私達がちゃんとやるからノアはしなくて良い』と言うので、隣に持っていくのは一歩踏み出す勇気だけとなった。
「お隣さん、お隣さん……」
はあ、と重い重い溜め息をリビングに響かせる。
どうせ来月親が後でするんだから別にしなくても平気なのでは……という甘えと、ちゃんとやっておこうぜ、というモラル。この2つが先程から自分を落ち着かなくさせている。
分かっているのだが、しかしどうも。
「あ~母さん達顔広ぇーなー」
引っ越しの片付けをしながら、現実逃避が如くついつい手紙の整理をしている自分が居た。イヴェットが文通をしている事をふと思い出し、何となく見始めたのが不味かった。
客船の仕事をしているだけあって、両親には色々な国から手紙が届いていて面白いのだ。『今度息子さんの写真下さいね~』という10年前の国際クリスマスカードまであって少し気恥ずかしかった。
──そんな事をしている内に。
『え~21時をお知らせします』
垂れ流しているラジオから21時の時報が聞こえてきた。
「あ~っ…………行く、か!」
1日が終わるまで、後3時間。
それは自分の背中を押すには十分で、景気づけるように拳をぎゅっと握る。
もう遅いから、とずるずる先延ばしては自分を言い訳の海に溺れさせる事になる気がしたのだ。イヴェットのせいにしてしまいそうなのも罪悪感があった。
足取りは軽くはないが玄関に向かい、夜風の冷たい外に出た。呼吸と共に肺も冷えていく錯覚に襲われる。
隣の家まで5歩。
春に経験した受験時の面接を思い出す丁寧な歩き方をしていた。
量産しやすい事が売りの軽くて白い鉄製扉の前で一呼吸吐き、指先に力を入れてひんやりとしたチャイムを押す。
チャイムのボタンがきちんと押された事を表す赤い点を見ながら姿勢を正し、どんな顔が出てくるのか緊張しながら待つ事数十秒。
反応が無い。
「あれ?」
おかしい。
もう少し待ったが、やっぱり反応はない。
明かりは点いていた。ボタンもちゃんと押した。取り込んでいるのだろうか。寝落ちているのだろうか。
残念だが、また出直した方が良いのだろう。一度挑戦したおかげで次も挑みやすくなった気もする。
──そう思った時。
ガチャリッ! と扉が開いたのだ。
「何か用っ?」
出て来たのは、赤いスウェットを着た少し年上の小柄な青年だった。
もじゃもじゃの黒髪と、黒縁眼鏡の奥の青い三白眼が印象的だ。
苛立たし気に尋ねてきて随分と早口だ。どこか余裕が無さそうなのは、やはり立て込んでいたからだろうか。
「あっ、こんにちは」
引き返そうとした体の向きを慌てて戻し挨拶をする。
「僕、隣の角部屋に住んでいるノア・クリストフって者なんですけど」
「あー……隣、やっぱり居たのか……っ」
残念そうに言う青年に親近感を抱いた。自分も同じ気持ちだ。
「さっき長期不在から帰って来ました。えーと、両親は仕事で来月まで不在なんで、今は僕だけが住んでます。高校生なのでご迷惑掛けるかと思いますが宜しくお願いします」
漫画にあった引っ越しの挨拶シーンの台詞を拝借して返す。優等生っぽく言えて胸を撫で下ろした。
「オレはヴェンツェル・ラグナイト。大学生でここには1人で住んでる。あんま長くは居ないかもだけど宜しく。じゃ」
ヴェンツェルと名乗った青年は必要最低限だけ返すと、こちらの反応も待たずにピシャリ! と扉を閉めてしまった。
「あっ…………ま、良いか」
ヴェンツェル・ラグナイト。
若干北部訛りがある新しき隣人は、どうやら進学組の青年のようだ。
思っていた程友好的な人では無かった──寧ろ隣に人が居るのが嫌そうだった──が、それはそれで気楽だ。
「はあーー気ぃ楽になったー」
高校にも慣れた。
連続連れ去り事件も落ち着いた。
家に戻って来た。
ゴードンの事はあったがこれで明日からは、平和に日常生活が送れそうだ。
「の、前に……っ!」
1人で暮らすからには、夜中にのんびり散歩するような時間はガクリと減るだろう。
そう思ったからこそ、ノアは今から散歩しようと思った。エルキルス駅舎にある大きな機械仕掛けの時計を見たかった。
そうと決まれば、駅に向かうべく金髪の女性とすれ違ってエレベーターに入っていった。
レシレタは主に通販や文通で使われるが、匿名性が高いので犯罪に使われる事も多い。牧師館に頼んでいたら、叔父は絶対に良い顔をしなかっただろう。
反面。
アンリは事情を聞いて来ないし、タイミングが合えば預かり店まで受け取りに行ってくれる事もある。昨日がそうだ。
しかしあの作業着の青年は、自分が男になっている事までは気付いていないだろう。
叔父に至っては文通をしている事すらも。
「ふふふふふっ」
それがまた背徳感があるのだ。楽しくて、白い天井を見上げながら笑いを噛み締めていた。
男のフリをするにもモデルが必要。なので、自分が今一番気になっている少年ノアをイメージした。もしかしたらこれも文通が楽しい理由なのかもしれない。
スケアリーと文通を開始した時はノアとの縁も切れていたタイミングだったが、彼は命の恩人でもあるのでそんな事関係無かった。
今しがた認めた便箋を水色ボーダーの封筒に押し込みながら、夢見心地で呟く。
「……自分じゃないみたい」
知らない人物との薄くて濃い時間や、自分以外の存在になりきれる事。それらは、こんなにも簡単に毎日を色付かせてくれる。
素敵な時間をくれる趣味に出会えた事が、スケアリーに会えた事が嬉しい。手紙で言っていた通り、週に1、2往復出来るくらいテンポ良くやり取り出来る相手は滅多に居ないと言われている。
「良い人に巡り会えたなーっ」
鼻歌を口ずさみながら、筆跡を少しだけ変えてスケアリー指定のレシレタ預かり店の住所──ジャンヌの家の辺りだ、スケアリーはあの辺に住んでいるのだろうか──を書き、レシレタ使用料金として少しだけ高い切手を貼った。
「次も男にさせて下さいスケアリーさんー!」
祈るように言った言葉は思ったより大きかったが、壁に吸音シールを貼っているので問題無いだろう。
手元にある封筒を見ながらイヴェットは「んふふっ」と笑みを噛み締めていた。
***
明らかにフードコート目当てだったドミニクの協力のおかげで、ノア・クリストフの引っ越しは夕飯前に終わった。
打ち上げに、ルイリーフの駅ビルに入っているフードコートでピリ辛ヌードルを食べ──ドミニクは南米の肉料理を頼んでいた──少なくなった財布の中身以上に頭を占めている事があった。
新しき隣人についてだ。
隣人が出来た、と先程航海中の母親に電話をした。ヴァージニアが人を殺したとは言えず「ヴァージニアが田舎に戻ったので自分も実家に戻った」とも伝えた。
一人暮らしでも問題無さそうなのでやってみたい、とも言ったところ。
『そっか、じゃあお隣さんに挨拶しておきなさい』
母から返って来たのは、王が臣下に勅命を下すような声だった。普段は大人しい人なのに息子には気が強い。
「トラブルがあったら真っ先に頼る相手になるかもしれないのだから、顔を把握しておいて損は無い」のだそうだ。
隣人への挨拶など初体験だ。
何を話して良いか分からない。
手土産でも渡した方が良いのか、と悩んだが母は『来月帰った時に私達がちゃんとやるからノアはしなくて良い』と言うので、隣に持っていくのは一歩踏み出す勇気だけとなった。
「お隣さん、お隣さん……」
はあ、と重い重い溜め息をリビングに響かせる。
どうせ来月親が後でするんだから別にしなくても平気なのでは……という甘えと、ちゃんとやっておこうぜ、というモラル。この2つが先程から自分を落ち着かなくさせている。
分かっているのだが、しかしどうも。
「あ~母さん達顔広ぇーなー」
引っ越しの片付けをしながら、現実逃避が如くついつい手紙の整理をしている自分が居た。イヴェットが文通をしている事をふと思い出し、何となく見始めたのが不味かった。
客船の仕事をしているだけあって、両親には色々な国から手紙が届いていて面白いのだ。『今度息子さんの写真下さいね~』という10年前の国際クリスマスカードまであって少し気恥ずかしかった。
──そんな事をしている内に。
『え~21時をお知らせします』
垂れ流しているラジオから21時の時報が聞こえてきた。
「あ~っ…………行く、か!」
1日が終わるまで、後3時間。
それは自分の背中を押すには十分で、景気づけるように拳をぎゅっと握る。
もう遅いから、とずるずる先延ばしては自分を言い訳の海に溺れさせる事になる気がしたのだ。イヴェットのせいにしてしまいそうなのも罪悪感があった。
足取りは軽くはないが玄関に向かい、夜風の冷たい外に出た。呼吸と共に肺も冷えていく錯覚に襲われる。
隣の家まで5歩。
春に経験した受験時の面接を思い出す丁寧な歩き方をしていた。
量産しやすい事が売りの軽くて白い鉄製扉の前で一呼吸吐き、指先に力を入れてひんやりとしたチャイムを押す。
チャイムのボタンがきちんと押された事を表す赤い点を見ながら姿勢を正し、どんな顔が出てくるのか緊張しながら待つ事数十秒。
反応が無い。
「あれ?」
おかしい。
もう少し待ったが、やっぱり反応はない。
明かりは点いていた。ボタンもちゃんと押した。取り込んでいるのだろうか。寝落ちているのだろうか。
残念だが、また出直した方が良いのだろう。一度挑戦したおかげで次も挑みやすくなった気もする。
──そう思った時。
ガチャリッ! と扉が開いたのだ。
「何か用っ?」
出て来たのは、赤いスウェットを着た少し年上の小柄な青年だった。
もじゃもじゃの黒髪と、黒縁眼鏡の奥の青い三白眼が印象的だ。
苛立たし気に尋ねてきて随分と早口だ。どこか余裕が無さそうなのは、やはり立て込んでいたからだろうか。
「あっ、こんにちは」
引き返そうとした体の向きを慌てて戻し挨拶をする。
「僕、隣の角部屋に住んでいるノア・クリストフって者なんですけど」
「あー……隣、やっぱり居たのか……っ」
残念そうに言う青年に親近感を抱いた。自分も同じ気持ちだ。
「さっき長期不在から帰って来ました。えーと、両親は仕事で来月まで不在なんで、今は僕だけが住んでます。高校生なのでご迷惑掛けるかと思いますが宜しくお願いします」
漫画にあった引っ越しの挨拶シーンの台詞を拝借して返す。優等生っぽく言えて胸を撫で下ろした。
「オレはヴェンツェル・ラグナイト。大学生でここには1人で住んでる。あんま長くは居ないかもだけど宜しく。じゃ」
ヴェンツェルと名乗った青年は必要最低限だけ返すと、こちらの反応も待たずにピシャリ! と扉を閉めてしまった。
「あっ…………ま、良いか」
ヴェンツェル・ラグナイト。
若干北部訛りがある新しき隣人は、どうやら進学組の青年のようだ。
思っていた程友好的な人では無かった──寧ろ隣に人が居るのが嫌そうだった──が、それはそれで気楽だ。
「はあーー気ぃ楽になったー」
高校にも慣れた。
連続連れ去り事件も落ち着いた。
家に戻って来た。
ゴードンの事はあったがこれで明日からは、平和に日常生活が送れそうだ。
「の、前に……っ!」
1人で暮らすからには、夜中にのんびり散歩するような時間はガクリと減るだろう。
そう思ったからこそ、ノアは今から散歩しようと思った。エルキルス駅舎にある大きな機械仕掛けの時計を見たかった。
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