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5 悪鬼が居る世界

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 私の弟は引きこもりだ。
 シャイな子ではあるけれど、それが原因で引きこもっている訳ではない。
 弟が引きこもりになったのにはもっと違う理由があるのだ。
 それは――悪鬼《あっき》が闊歩している外の世界にすっかり怯えているから、だ。



 悪鬼。
 それはある日いきなり現れ、そしてただただ私達を殺害する恐ろしい悪魔の事。
 悪鬼はとても強く私達は逃げるしか出来なかった。悪鬼は私達を撲殺する事が多い。……私達の両親も悪鬼に殺された。
 弟は両親が殺される瞬間を目撃してしまい、危うく殺されかけた。以来、外が怖くなってしまったのだ。
 それからはもう、ずっと部屋の隅で怯えている。



 私はそんなたった一人の弟を支えている。
 私だって悪鬼は怖い。一昨日も昨日も、従兄弟達が無惨にも殺された。でも私は彼を守りたいのだ。
 夜は悪鬼が寝ている事が多いので、私は必然的に夜に行動している。

「それじゃあ行ってくるね」

 静まり返った真夜中、私は今日も平然を装って出かけようとする。そんな私を見て、弟が静かに尋ねて来る。今日は喋ってくれるらしい。

「お姉ちゃん。……お姉ちゃんは怖くないの?」
「怖いに決まってるよ」
「じゃ、じゃあ何で外に出られるの……?」

 思えばこうしてゆっくり弟と話すのは久しぶりだ。嬉しくて自然と私の返しも穏やかになる。

「それも決まってるよ。貴方を守りたいから、頑張れるの」
「お姉ちゃん……」

 弟は感極まったようにじっとこちらを見ていた。言葉に詰まっている弟を見て、何だか急に照れ臭くなる。
 私はハッとした。幾ら何でも臭すぎただろうか。。

「ごめん、聞かなかった事にして!」

 私はニッコリと笑い、なんでも無いと繰り返した。

「お姉ちゃん……」
「じゃあ行ってくるね」

 自分を奮い立たせながら暗闇の中に出た数十秒後。

「待って!!」

 弟は久しぶりに――本当に久しぶりに、私を追いかけに外に出たのだ。

「っ、お姉ちゃん! ぼ、僕も外に行くよ! 僕だって、悪鬼からお姉ちゃんを守りたいんだ……! 今まで甘えててごめんね、僕も一緒に行った方が生存率高いでしょ?」
「!?」

 まさか弟の口からそんな言葉が聞けるなんて。私は驚きすぎて目を見開くばかりだ。

「怖く、ないの……? 貴方も死ぬかもしれないのよ…?」
「怖い……よ。だ、だけど! お姉ちゃんまで失う事の方が怖いから!」

 私は弟の言葉に感動し――嬉しくなった。

「有り難う……怖くなったら、すぐ逃げるのよ。絶対、絶対貴方は守るから!」
「うん、有り難う! だからさ、いつかもっと良い場所に住もうね。ほら、あのゴミ捨て場の近くの――」

 弟が言い掛けてる途中。パッと空が明るくなった。

「来たなっ!」

 不意に悪鬼の声がした。

「っ!」

 弟と私は同時に息を飲み逃げようとした、が。
 ブンッと風を切る音がした後、何か粘度の強い液体を掛けられた。悪鬼がこんな手を使って来るなんて聞いた事が無い。

「う、く、くるし……おねえ、ちゃん……」

 液体が全身にかかった弟と私は逃げられるわけなかった。息苦しく、足が滑って上手く走れない。毒?

「おー弱った弱った!!」

 嬉しそうな悪鬼の声と、こちらに近付いてくる足音。
 くそ……私達はここで悪鬼に殺されてしまうのだろうか?
 弟が勇気を出した直後に?
 守るって、誓った矢先に?
 悪鬼なんて、悪鬼なんて、嫌いだ。きらい、だ……。

「おねえ、ちゃん……いっしょ、に……」

 苦しそうな弟は最後の力を振り絞ってこちらに額を寄せてくる。
 そうだ、どうせ死ぬなら大好きな弟の側で……。
 守れなくてごめんね、最後に有り難う嬉しかったよ――毒のせいで息が出来なくなり、数秒後為す術もなく私の視界が暗転した。

***

「も~パパ、いきなり電気点けないでよ~」
「悪い悪い、起こしちゃったか」
「しかもなに洗剤持ってるのよ……って、あ! また出たの!? 最近毎日じゃん」 
「カサカサしだしたからよ、ネットに書いてあった通り洗剤ぶっかけてみたんだ。なんでも気道を塞ぐんだと」

 男はゴキブリ2匹の死骸をティッシュに丁重に包んでゴミ箱に捨てる」

「清潔感あるデザイナーズマンションならゴキブリ出ないかなって思ったのに……はあ……」
「こればかりは仕方がないさ。明日薬局行ってゴキブリ駆除用品買ってくるよ」

 うん、と女が頷き部屋の電気がまた消える。
 ゴミ箱の中、ゴキブリ2匹は触覚を寄せ合いながら静かに眠っていた。
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