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10 待てない男

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 その男は待つのが嫌いだった。
 メッセージにすぐに返事が来ないのが嫌だ。全員の配膳が終わるまで食べちゃいけない場面は拷問でしかなかった。行列は並びたくないので割り込む。
 待っている時間と言うのはどうにも無駄に感じる。この間に他の事が出来るんじゃないかと思うと貧乏揺すりが止まらなかった。



 そんな男は今年夢を叶えた。ベンチャー企業を起こし、社長になったのだ。社長と言うのは常に動いていて良い。
 結婚もして娘も産まれた。守る者が増え、男は過ぎ行く時間を一瞬も無駄にすまいと、一層張り切って生きるようになった。



 デスクトップパソコンの前に座った男は頭を抱えていた。

「ううう……」

 時間を有意義に使っていけば何事も上手く行くと思っていた。しかし、現実は全くの逆で。会社の状況は最悪と言えた。
 1番の問題は、従業員が定着しない事だった。みんな1年も経たずに辞めていく。
 一様に労働環境に不満があるとの事だったが、詳しく聞こうとすると口ごもられた。沈黙の時間は一向に動き出さず、「もう良い」とこっちから辞職を受理した。
 そんな事を繰り返していく内に、この西日が射し込むオフィスには誰も居なくなってしまったのだ。



 男の試算によると、この会社は遅かれ早かれ潰れる。
 銀行から融資を受けられたら事態が好転するが、それは限りなく0に近い。先程銀行に掛け合ってみたが、先方の表情は芳しくなかった。
 しかし、かと言って会社を潰してしまえば娘を地獄に引きずり込む事になるのは明らか。不倫をしているのか最近冷たい妻はまだしも、幼い娘をそんな環境に置かせたくなかった。
 娘を守るには金が要る。この状況で金を手に入れる方法は限られてくる。

「……よし」

 保険金しかない。夢を叶え失敗した今、娘を守って早く次の生に賭けよう。
 男は心を決めた。



 翌日、男は裏サイトで自分を殺してくれる人物を探した。
 法律上、自殺では保険金が下りない。だからこの死は他殺に見せる必要がある。
 妻と娘が留守にしているタイミングを選んで、男を荒らした家に呼んだのも強盗殺人に見せたかったからだ。

「さあ、早く私を殺してくれ! どうせ融資は受けられないんだっ!」

 男はそう未成年らしき少年に迫り、企業に失敗し娘の為に金が必要なので早く死にたい旨を伝えた。もう頼れる人はあんただけなのだと、妻の宝飾品を質に出して作った金を渡しながら。

「だったらもう少し生きて頑張った方が……」

 事情を聞いた少年が立場の割にマトモな事を言った。

「つべこべ言うな! 早くしろ、私は待つのが嫌いなんだ!」

 それを叱り飛ばし、少年が用意したサバイバルナイフを顎で示す。少年は一度深く溜息をついた。

「はいはい、じゃあいきますよ」
「ああ、さっさとしてくれ――ぐっ!!」

 腹部に走る感じた事のない鋭い痛みに蹲る。

「ぐぁ……っ、い……!!」

 即死には至らず、暫し床の上で苦痛に身悶える。けれどこれで娘を守れるのだと思うと、充足感が自分の体を包んでいくのも確か。
 笑いそうになるのと痛みを堪えている内に、男は生を終えた。

***

「急所ズレたなあ」

 カーペットに赤いシミを作り続ける男の躯を見下ろし、少年はサバイバルナイフを抜いた。あまりにも「早く早く」と急かすので、こちらの仕事も雑になってしまった。
 早くこの家から逃げよう。家族と鉢合わせたら全てが台無しだ。
 そう思ったその時。
 プルルル! と男の物と思しきスマートフォンから着信音が鳴り響いた。

「うわっ!!」

 突然の事に肩が跳ねる。こんなタイミングで聞きたい音ではない。
 何回かコール音を繰り返した後、伝言メモに繋がったのかぷつりと独特の間が生まれた。

『こんにちは、中央銀行の堤《つつみ》です。融資可能の件でお話があり電話致しました。また掛け直します』

 死体が転がっている部屋に響く朗らかな声。――男が聞いていたらきっと死ぬのを止めただろう内容。

「っ」

 あんなに急いでなかったら、今頃。
 気まずさと恐怖を覚えた少年は家を飛び出し、誰ともすれ違わぬよう気を付けながら走って逃げていった。
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