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Ⅲ Løy―嘘―
31 「それは、秘密です。でも、時が来たらお話致します」
しおりを挟む視線だけで使用人を黙らせる事が出来たからか、主人の唇が満足そうに持ち上がる。
「アストリッドが戻ったらレオンは医者に診せる事を約束するし、一生面倒だって見ても良い。その為ならお前は何でも出来るわね? それが例え、どんな残酷な事でも」
一生面倒を見る。
思ってもいなかった言葉に、天からのお告げを聞いたかのようガバッと顔を上げる。
少々不穏ではあるけれど、どんな事でもやってみせるつもりだ。それがレオンの為になると言うのなら。
「勿論です! やらせて下さい!」
勢い込んで頷くと、主人は更に目を細めた。目元の皺が深まる。
窓の近くに居るのに、早く次の言葉が聞きたい一心で少しだって寒くなかった。
「ではね――」
主人の目がランタンの炎を反射し、不気味に揺らめいた。
***
「カウトケイノに寄って欲しい、ってルーベンさんに頼まれてて」
「えっ!?」
夜。
タルヴィクの宿屋で木製テーブルの上を片付けながらアストリッド・グローヴェンがウィルに話し掛けると、金髪の青年はこちらがびくつく程驚いていた。
「ちょ、ちょっと、何そんなに驚いているのよ。まあ……カウトケイノは確かに貴方の隣人であるサーミ人が問題を起こした町だから、聞きたくない地名かもだけど……。ルーベンさんのお嫁さんがカウトケイノに実家があって、今出産の為にそこに帰っているそうなの」
「ご、ごめんなさい。ちょっとぼんやりしていたのもあって。はい……サーミ人に関係ある地名に驚きました」
自分で言っている通り、ウィルの表情はどこか心ここにあらずとぼんやりしていた。
「もーまだ眠いの? それでね、ルーベンさんのお嫁さんの出産を手伝って欲しいのだって。危険があったら魔法でソニアさんみたく助けてやってくれって。あの事故もあって妻子まで亡くしたらルーベンさんが気の毒すぎるでしょう、船に乗せてくれたお礼も兼ねて手伝いに行こうと思うの。だからウィルも手伝ってくれない?」
「はい、それは勿論」
すぐに頷いてくれたのが嬉しかった。やっぱりウィルは優しい。
その晩。明朝ハンメルフェストに戻るのだというソニアの部屋で自分が、ウィルは自分達の部屋で眠った。カウトケイノまでは、宿屋で働いていたソニアが馬車代を出してくれるという。
翌朝。
早起きをしていたソニアから、「馬車の中で食べて」とラズベリーのライ麦ケーキを貰った。だから朝廊下で会った時にラズベリーを1粒くれたのかと納得している横、ウィルとソニアが何やらひそひそと話しているのが視界に映る。
「クララ。すみません、少しソニアの荷物運びを手伝って来ます。外で待っていて下さい。絶対に、絶対に動かないで下さいよ!」
返事をする間も無く2人は港へと行ってしまった。
白髪の混じった女性と青年が連れ添って歩いている姿は、仲の良い祖母と孫のよう。それにしても起きてからウィルは自分を一層心配するようになったと思う。
「行ってらっしゃい!」
その背を微笑ましく思いながら見送る。途端周囲から人が居なくなり、視線の置き場所に困るようになった。
離れたところに見える100年以上前に建てられたという教会。教会前広場に居るのは、雪かきに勤しむ青年と、積まれた雪を船や窯に整形して遊んでいる男児達。
子供達は雪で遊ぶのが好きだ、トロムソの老夫婦宅前の広場でも、少年達はいつも雪で遊んでいた。
この町は寒村より栄えているのに、トロムソほど人通りが多いわけではない。なのに、宿屋に居る人の多くはフィンランド語やロシア語を喋っていて、空気が独特だ。
「遅いなあ……大丈夫なのかしら」
ウィルの帰りは遅く、雪で遊んでいる男児達を見て暫く待っている内に、だんだんと不安になってきた。あの青年に別行動を取らせるのは、まだ早かっただろうか。
「あ」
穏やかな風の中、カツカツと靴を鳴らして走って来るウィルの存在に気が付く。良かった、無事戻れたらしい。
「おかえり。1人なのね、ソニアさんは?」
「丁度来た船でハンメルフェストに向かいました。アストリッドに、気力を一杯貰った有り難う、って言ってましたよ。あんなに元気だから海難事故直後に船に乗れるんですかね……」
息を切らしているローブ姿の青年は力無く笑い、「そうそう」と嬉しそうに続けてくる。
「今のはソニアが俺に、ってお礼も兼ねての仕事だったんですよ。ですので、報酬に銀貨を頂きました。こうやってお金を貰うのは初めてです、嬉しい物ですね」
そう言って笑う姿は通りすがりの人に撫でて貰った犬のようで、こちらまで嬉しくなりつられて笑い――手に持っている、微かに重みのある麻袋に気が付いた。重さからして中にノルウェーターラーが入っているわけでは無さそうだ。
「あら、凄いじゃない! でも、もしかして早速使った?」
「ええ、まあ」
「貴方って意外と……まあ良いか。何買ったの?」
数分も手元に無かっただろう銀貨の代わりに一言言ってやろうかと思ったが止めた。初めての報酬、すぐにでも使いたくなる気持ちは良く分かる。
「それは、秘密です。でも、時が来たらお話致します」
「なによそれ」
なら最初から言わなければ良いのに、と思ったが、聞いたのは自分。それに、後で教えてくれると言うなら楽しみも生まれる物。
もー、と頬を持ち上げながら言い、ソニアがお金を出してくれた乗合馬車へと向かった。
まだ暗いと思っていたが、そうでも無かった。青みがかった山の向こう、その奥に広がっている空が明るくなっている。
もうすぐ昼で、日が出る。
その事に胸を踊らせながら、金髪の青年が雪上に杖を突くザクザクと言う音がする中、1歩ずつ馬車乗り場があるところまで歩いていった。
***
タルヴィクからカウトケイノまで馬車で1日近く掛かる。
乗合馬車だった事もあり周囲からはフィンランド語とロシア語が聞こえてくる。気になるのは、隣に座っているアストリッドが別人のように大人しい事。
自分のように酔いかけてるのかと心配になり、ウィルは顔を覗き込むようにして尋ねる。
「あの、具合でも悪いんですか……?」
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