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第1話 本屋

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 王太子が婚約破棄をした。

 世界が激変するのにそう時間はかからなかった。
 そして私だけが取り残された。

 私たちはただの平民だ。
 騒動に巻き込まれたわけではない。
 貴族の間の力関係とか、政治がどうとかは平民には情報が下りてこない。
 ただ、婚約破棄をしたという情報だけが伝わってきた。

 その結果市井しせいで何が起きたか。
 空前の婚約ブームである。

 正直意味が分からなかった。
 けれど、よく聞けば筋は通っているようにも思える。
 政略結婚するはずの貴族令嬢との婚約でさえ、簡単になかったことにできるのだ。
 婚約という状態の名誉は地に落ちた。

 もはや告白して付き合うより、明日一緒に出掛ける約束をするより、今日のディナーの約束をするより、婚約の方が軽い。
 あいさつ代わりに婚約を持ちかけても軽薄だと思われないほどだ。
 ナンパの常套句が「どこかで会ったことある?」から「婚約してみない?」になる日も近い。

 ……それは嫌だなぁ。

 この状況を利用して恋愛に持ち込める人が増えたかといえば、それほど大きな変化があるようには見えない。
 そもそも恋愛強者は、元から恋愛に積極的だから恋愛強者なのだ。
 色恋に疎い者、恋愛がわからない者、流行に乗れない者、内気なタイプの者は相変わらず独り身であった。
 そして私は流行に乗れない者の一人であった。

 とん、と頭に軽い衝撃を受けて、思考の海から帰還する。

「ソフィア、また難しいことを考えているのね」

 額を小突いて、しわが寄っていることを意識させてくれるのは、同僚のエミリーである。
 エミリーは本屋の同僚であり、お互いに恋愛小説マニアということもあって仲がいい。
 いいところのお嬢様なのか、小説に出てくるお嬢様をまねているのかはわからないが、話していると私も小説の登場人物になった気になる。

「昨今の婚約ブームについてちょっとね」
「気軽に考えればいいのではないかしら? いまや婚約者の一人や二人いるのは全然おかしくないのよ」

 二人はおかしいと思うけれど。
 平民で重婚は珍しい。
 法律で認められてはいるものの、重婚をするのは金銭的に余裕のある人だけ。だから必然的に貴族くらいしかしないのだ。

「私は結婚を前提とするならちゃんとお付き合いしたい、ってだけ」
「そうなの? いい人がいるといいわね」

 その「いい人」はだんだん減ってきている。
 出会いを求めて懇親会に参加しても、婚約は軽いのだという風潮に毒された男性ばかりだ。
 みんな初手から婚約という言葉をとりあえず口にしてみる。
 懇親会に参加するほど異性に積極的な男性は皆、恋愛強者なだけかもしれないけれど、以前の価値観からは考えられなかった。

「いい人なんていないよ。夜ごはんを食べながら愚痴ってもいい?」
「ごめんね。今日は新しい婚約者とデートなの」
「それは何人目?」
「五人目かしら」

 エミリーはふわふわした栗毛が愛らしく、お嬢様然とした態度も相まってモテる。
 つまりは恋愛強者なので、婚約者は増加する一方だ。
 同い歳であるはずの私とエミリーの格差は広がるばかりである。

 情勢の変化に伴い、婚約者は彼氏という意味ではなく、男友達もしくは彼氏一歩手前くらいの関係を意味しているのがややこしい。
 婚約者の概念が私には理解できなくなってきた。

 王子も余計なことをしたものだ。
 おっと不敬罪、不敬罪。

 そのまま仕事をこなして特に何事もなく業務が終了し(本屋の店員に何事かある方がおかしいが)、デートだというエミリーを先に帰して、私は戸締りを始めた。
 店長は自分でやった方が早いという理由で仕入れに行っていて店にいないことが多い。
 開店も閉店も店員任せにしている。
 箒があれば空を飛べる魔女なので、店長が仕入れに行くのが実際に最高効率なのは間違いない。

 自分たちで店を開ける時間を決められる、そんなゆるさが心地よくて、私もエミリーもここで働いている。
 外に出している看板を仕舞っていると、真っ黒なローブを着た男性が、足早に駆けてきた。

「すみません。もう営業は終わりですか?」
「ええ、今終わったところです。何か急ぎの用事ですか? その格好だとアカデミーの研究者でしょうし、魔術書でしょうか」
「その通りです。よくわかりましたね。ちょっと遅かったなぁ。また明日出直します」

 走ってきたおかげで黒髪が乱れた彼は、叱られた子犬のような表情で落ち込んでいた。
 研究熱心な魔術師はアイディアを思いついたらすぐ試したくなるのだろう。
 私にも魔術ではないけれど、似たような経験がある。
 私の中の親切心がにょっきりと顔を出した。

「欲しい本がわかっているなら、閉めた後にこっそり見てみますか? 私は今日何も用事がないので」
「いいんですか? ぜひお願いします!」
「ちょっと待っていてください、入り口を閉めてしまいますので」

 こうして私は黒犬みたいな魔術師と知り合った。
 二人で裏口から店に入ると、彼は猛スピードで本を探し始めた。
 私に気を使っているのだろう。
 彼はすぐに目的の本を見つけて持ってきた。

「ではこの二冊を購入してもよろしいですか?」
「『風魔術の移動に関する諸問題の解法』と『王城の金庫番』ですね。『王城の金庫番』いいですよね。婚約者を一途に思い続けるなんて今の男性には無縁ですけど」
「婚約者を一途に思い続けるのは普通だと思いますが、急にどうして……? あっ」

 彼は『王城の金庫番』をパラパラとめくって、中身を検めた。

「もしかしてこれ、小説なんですか? 魔術書ではなく?」
「ええ。魔術書にも『王城の金庫番』というのがあるんですね。見た覚えがないのであとで店長に聞いておきます」
「そうですか。ええっと、なら、在庫があればアカデミー第二研究室のローワンまで連絡を下さい」

 とりあえずは風魔術があればいいかとぶつぶつ呟く彼に、先ほどの会話がふと気になって尋ねてみた。

「ローワンさんは婚約に従来の価値観を持っておられるのですか」
「婚約に価値観とかあるんですか? あれ、ひと月引きこもっているうちに実は世界が滅んでいたとかないですよね」
「なんですかそれ。では、ちょうどひと月ほど前、王太子の婚約破棄騒動があったことはご存じないのですね」

 伝えられている顛末と、そのせいで平民の間では「婚約」が「羽ペン」くらいの扱いになったことを教えた。
 つまり軽くて便利な言葉なのだ。

「ああ、それで学生がやたら婚約って言うようになったんですね。何かのスラングなのだと思っていました」

 ローワンさんはどうにも世俗に疎いようだった。
 風魔術の本だけ会計を済ませ、探している本があれば、連絡することを約束して、その場は解散となった。

§

 帳簿に記載し、魔術書の棚を覗いていると、裏口が開いた音がした。
 小さな本屋に泥棒が来るわけもないから、店長だろう。

「おや? 残業なんて珍しいじゃないか」

 箒を背負った店長が私を見て言った。

「探し物がありまして」
「ふうん。なんて本だい?」
「『王城の金庫番』です。あ、小説じゃなくて魔術書です」
「『王城の金庫番』? 久しぶりに聞いたねぇ。それは表には並べてないよ。そんな古い本を欲しがる酔狂な客なんていないからね」
「今日いましたよ」

 店長は、ふぇっふぇ、と面白そうに私を眺めたあと、裏の倉庫に消えた。

 戻った店長は一冊の本を手にしていた。

「ほら、これだろう」

 言った通りに古い本で、紙は焼けて色が変わり、背表紙の文字は読めなくなっていた。
 パラパラとめくると、意外な事実に気がついた。

「著者が店長になっていますね」
「そうさ。その客がどこで知ったかは知らないが、もう著者であるワシのところか、王城の図書室くらいにしか残っていないだろうね」

 ふぇふぇふぇ、とつぶやく店長の目は怪しく光っていた。


 翌日、店をエミリーに任せた私は、『王城の金庫番』を手にアカデミーを訪れていた。
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