39 / 42
謎⑥ 薫風の如し
6-3
しおりを挟む
8月2日。新幹線と特急を乗り継いで、6時間かけて城崎温泉にたどり着いた。
取った宿は、志賀直哉の『暗夜行路』に出てくる日本庭園のモデルになった旅館。
建物も、由緒正しい感じがすごい。
「居るだけで心が洗われるようだね」
先生は、部屋に荷物を下ろしながら、室内をしげしげと眺めて言う。
俺はぺしぺしと柱を叩いた。
「部屋の建築もなんか特殊みたいなことがサイトに書いてありました。なんだっけ」
「書院造り。何なのかが気になるなら、暇なときに自分で調べなされ」
「暇?」
「悪いけど、ちょっとだけ原稿を書かせてもらうね。温泉宿で執筆、いつかやってみたかったんだ」
いや、たぶん、これは半分嘘だ。本当は、原稿が切羽詰まってる。
先生が俺の目の前で個人的なことなんてするわけなくて、本当はそうせざるを得ないくらいギリギリなのに、旅行の約束を守ってくれたんだと思う。
それで、俺に気を遣わせないように、こんな優しい嘘。
付き合い始めて、あしたで3ヶ月。
さすがに先生の思考パターンは読めてきた――作家だカウンセラーだという割に、結構分かりやすいひとなのだ。
「邪魔しないようにします。俺も何か書こうかな」
「原稿用紙ならたんまり持ってきているよ。僕はパソコンで書くから、好きに使いなされ」
先生は、革のボストンバッグを指さした。
「じゃあ、この旅行、『作家の執筆旅行』にしませんか? 2泊3日で原稿をやっつける」
「……そんなのつまらなくない?」
「先生言ってたじゃないですか。温泉街と神社以外特に見るべきものはないって。だったら俺、先生と一緒に文豪体験したいです」
先生はむうっと考えたあと、小さくうなずいた。
「分かった。じゃあ君には、この旅行の間に、編集に見せる短編を1つ書いてもらいましょう。気が済むまで赤を入れてあげるから、思うように書いてみなさい」
「はい、頑張ります」
先生が最も尊敬する作家の舞台になった宿で、原稿に向かう。
宿を取ってものを書くなんて、まるで自分も作家になったみたいな気分で、わくわくした。
大きな机の隣同士に座って、お互い構うこともなく、黙って作業。
先生は、執筆用のノートパソコンと調べもの用のタブレットの2台使いで、順調に行を増やしている。
他方俺は、原稿用紙のマス目を無視して、あーでもないこーでもないとメモを書いたり図を書いたり。
はたから見たら旅先で何やってんだって感じかも知れないけれど、俺としては、合宿みたいな感じで結構楽しい。
先生は仕事だからそれどころじゃないかも知れないけど。
「割と楽しいねえこれ」
「え?」
心を読んだかのように、話しかけられた。
作業を始めて2時間。初めての会話だ。
「あれ? 楽しくない?」
「あ、そうじゃなくて……ちょうど俺も、楽しいなあって思ってたところなんで。振られてびっくりしちゃっただけです」
「なるほど、通じていたの」
少し機嫌よさそうに言って、うーんと伸びをすると、また作業……に戻るのかと思ったら、ボールペンを取り上げられた。
「ちょっと、何するんですか」
「イタズラ」
「書かなくて平気なんですか?」
「そんなにかかりきりになるほどじゃないもの。えい」
押し倒されて、世界がひっくり返った。
覆いかぶさってキスしてきたので、キスはとりあえず受け入れて、でもすぐにジタバタと暴れた。
「ダメですよっ、もうすぐ夕食来ちゃいますから」
「何、ちょっとくらいいいじゃない」
本気で脱がしにかかる先生に必死の抵抗を見せていたところで、扉がノックされた。
「はーい」
先生が、間延びした声で返事をする。
慌てて飛び起きてペンを握り、先生も、嫌々ながらパソコンに向かうフリはしてくれて、事なきを得た……と思っていたのだけど。
入ってきた30代くらいの仲居さんが、悲鳴に似た声を上げた。
「とっ、常葉風月先生ですよね!?」
先生がギョッとする。俺は、間髪入れずに答えた。
「そうですよ」
先生は、信じられないものを見るような目で俺を見下ろす。
仲居さんは、とろけるような顔で頬に手を当てて言った。
「大ファンなんです! やだ、どうしよう、お客さまに私語は厳禁なんですけど……やだ、ほんとにファンで……」
先生は、ため息をついてから、めんどくさそうに言った。
「色紙があれば書きますが」
「え! よろしいんですか!?」
「かまいませんよ。2枚あれば、あなたの分も」
「キャー!」
仲居さんは、ものすごい勢いで配膳して、フロントへ戻っていった。
先生は、豪華な食卓を無視して、じとっとこちらを見る。
「……君ね。なんて面倒なことしてくれたの」
「先生のファンのひとを直に見られることなんて、そうないかなって思って。好きなひとのかっこいいところ、見たいじゃないですか」
正直に言ったら、先生は、目をそらして頭をかいた。
「嫌でした?」
「君とふたりでゆっくり過ごしたかったんだけど。でもまあ、宿に入った時点で何人かにはバレていたようだから……やっぱり元文学少女が多いのかね、ここは」
「でも2枚も。先生優しい」
「違うよ」
先生は、眉間にしわを寄せた。
「女性ファンは、どうも写真を撮りたがるのが多くてね。先にササッと書いてしまえば断りやすいでしょう」
そういえば、先生は写真が大嫌いだと、前に愛美さんに教えてもらった。
たしか、魂を抜かれるとか理解不能のことを言っていたような。
「……というのもあるけれど」
「え?」
「君とここに来た記念ということで、書いてもいいかなと。何、光栄じゃないの。フロントのところに飾ってあった色紙のラインナップはなかなか豪華だった」
そうか、そうだ。
きょうの日付入りの先生のサインが、たくさんの有名人に混じって飾られる。
「先生、ありがとうございます」
「お礼はあとでたっぷりしてね。さあ、食べよう」
一転、笑った顔に、心臓を撃ち抜かれた。
取った宿は、志賀直哉の『暗夜行路』に出てくる日本庭園のモデルになった旅館。
建物も、由緒正しい感じがすごい。
「居るだけで心が洗われるようだね」
先生は、部屋に荷物を下ろしながら、室内をしげしげと眺めて言う。
俺はぺしぺしと柱を叩いた。
「部屋の建築もなんか特殊みたいなことがサイトに書いてありました。なんだっけ」
「書院造り。何なのかが気になるなら、暇なときに自分で調べなされ」
「暇?」
「悪いけど、ちょっとだけ原稿を書かせてもらうね。温泉宿で執筆、いつかやってみたかったんだ」
いや、たぶん、これは半分嘘だ。本当は、原稿が切羽詰まってる。
先生が俺の目の前で個人的なことなんてするわけなくて、本当はそうせざるを得ないくらいギリギリなのに、旅行の約束を守ってくれたんだと思う。
それで、俺に気を遣わせないように、こんな優しい嘘。
付き合い始めて、あしたで3ヶ月。
さすがに先生の思考パターンは読めてきた――作家だカウンセラーだという割に、結構分かりやすいひとなのだ。
「邪魔しないようにします。俺も何か書こうかな」
「原稿用紙ならたんまり持ってきているよ。僕はパソコンで書くから、好きに使いなされ」
先生は、革のボストンバッグを指さした。
「じゃあ、この旅行、『作家の執筆旅行』にしませんか? 2泊3日で原稿をやっつける」
「……そんなのつまらなくない?」
「先生言ってたじゃないですか。温泉街と神社以外特に見るべきものはないって。だったら俺、先生と一緒に文豪体験したいです」
先生はむうっと考えたあと、小さくうなずいた。
「分かった。じゃあ君には、この旅行の間に、編集に見せる短編を1つ書いてもらいましょう。気が済むまで赤を入れてあげるから、思うように書いてみなさい」
「はい、頑張ります」
先生が最も尊敬する作家の舞台になった宿で、原稿に向かう。
宿を取ってものを書くなんて、まるで自分も作家になったみたいな気分で、わくわくした。
大きな机の隣同士に座って、お互い構うこともなく、黙って作業。
先生は、執筆用のノートパソコンと調べもの用のタブレットの2台使いで、順調に行を増やしている。
他方俺は、原稿用紙のマス目を無視して、あーでもないこーでもないとメモを書いたり図を書いたり。
はたから見たら旅先で何やってんだって感じかも知れないけれど、俺としては、合宿みたいな感じで結構楽しい。
先生は仕事だからそれどころじゃないかも知れないけど。
「割と楽しいねえこれ」
「え?」
心を読んだかのように、話しかけられた。
作業を始めて2時間。初めての会話だ。
「あれ? 楽しくない?」
「あ、そうじゃなくて……ちょうど俺も、楽しいなあって思ってたところなんで。振られてびっくりしちゃっただけです」
「なるほど、通じていたの」
少し機嫌よさそうに言って、うーんと伸びをすると、また作業……に戻るのかと思ったら、ボールペンを取り上げられた。
「ちょっと、何するんですか」
「イタズラ」
「書かなくて平気なんですか?」
「そんなにかかりきりになるほどじゃないもの。えい」
押し倒されて、世界がひっくり返った。
覆いかぶさってキスしてきたので、キスはとりあえず受け入れて、でもすぐにジタバタと暴れた。
「ダメですよっ、もうすぐ夕食来ちゃいますから」
「何、ちょっとくらいいいじゃない」
本気で脱がしにかかる先生に必死の抵抗を見せていたところで、扉がノックされた。
「はーい」
先生が、間延びした声で返事をする。
慌てて飛び起きてペンを握り、先生も、嫌々ながらパソコンに向かうフリはしてくれて、事なきを得た……と思っていたのだけど。
入ってきた30代くらいの仲居さんが、悲鳴に似た声を上げた。
「とっ、常葉風月先生ですよね!?」
先生がギョッとする。俺は、間髪入れずに答えた。
「そうですよ」
先生は、信じられないものを見るような目で俺を見下ろす。
仲居さんは、とろけるような顔で頬に手を当てて言った。
「大ファンなんです! やだ、どうしよう、お客さまに私語は厳禁なんですけど……やだ、ほんとにファンで……」
先生は、ため息をついてから、めんどくさそうに言った。
「色紙があれば書きますが」
「え! よろしいんですか!?」
「かまいませんよ。2枚あれば、あなたの分も」
「キャー!」
仲居さんは、ものすごい勢いで配膳して、フロントへ戻っていった。
先生は、豪華な食卓を無視して、じとっとこちらを見る。
「……君ね。なんて面倒なことしてくれたの」
「先生のファンのひとを直に見られることなんて、そうないかなって思って。好きなひとのかっこいいところ、見たいじゃないですか」
正直に言ったら、先生は、目をそらして頭をかいた。
「嫌でした?」
「君とふたりでゆっくり過ごしたかったんだけど。でもまあ、宿に入った時点で何人かにはバレていたようだから……やっぱり元文学少女が多いのかね、ここは」
「でも2枚も。先生優しい」
「違うよ」
先生は、眉間にしわを寄せた。
「女性ファンは、どうも写真を撮りたがるのが多くてね。先にササッと書いてしまえば断りやすいでしょう」
そういえば、先生は写真が大嫌いだと、前に愛美さんに教えてもらった。
たしか、魂を抜かれるとか理解不能のことを言っていたような。
「……というのもあるけれど」
「え?」
「君とここに来た記念ということで、書いてもいいかなと。何、光栄じゃないの。フロントのところに飾ってあった色紙のラインナップはなかなか豪華だった」
そうか、そうだ。
きょうの日付入りの先生のサインが、たくさんの有名人に混じって飾られる。
「先生、ありがとうございます」
「お礼はあとでたっぷりしてね。さあ、食べよう」
一転、笑った顔に、心臓を撃ち抜かれた。
0
あなたにおすすめの小説
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ
零
BL
鍛えられた肉体、高潔な魂――
それは選ばれし“供物”の条件。
山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。
見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。
誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。
心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。
BL 男達の性事情
蔵屋
BL
漁師の仕事は、海や川で魚介類を獲ることである。
漁獲だけでなく、養殖業に携わる漁師もいる。
漁師の仕事は多岐にわたる。
例えば漁船の操縦や漁具の準備や漁獲物の処理等。
陸上での魚の選別や船や漁具の手入れなど、
多彩だ。
漁師の日常は毎日漁に出て魚介類を獲るのが主な業務だ。
漁獲とは海や川で魚介類を獲ること。
養殖の場合は魚介類を育ててから出荷する養殖業もある。
陸上作業の場合は獲った魚の選別、船や漁具の手入れを行うことだ。
漁業の種類と言われる仕事がある。
漁師の仕事だ。
仕事の内容は漁を行う場所や方法によって多様である。
沿岸漁業と言われる比較的に浜から近い漁場で行われ、日帰りが基本。
日本の漁師の多くがこの形態なのだ。
沖合(近海)漁業という仕事もある。
沿岸漁業よりも遠い漁場で行われる。
遠洋漁業は数ヶ月以上漁船で生活することになる。
内水面漁業というのは川や湖で行われる漁業のことだ。
漁師の働き方は、さまざま。
漁業の種類や狙う魚によって異なるのだ。
出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。
休日でも釣りをしたり、漁具の手入れをしたりと、海を愛する男達が多い。
個人事業主になれば漁船や漁具を自分で用意し、漁業権などの資格も必要になってくる。
漁師には、豊富な知識と経験が必要だ。
専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。
資格は小型船舶操縦士免許、海上特殊無線技士免許、潜水士免許などの資格があれば役に立つ。
漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。
食の提供は人々の毎日の食卓に新鮮な海の幸を届ける重要な役割を担っているのだ。
地域との連携も必要である。
沿岸漁業では地域社会との結びつきが強く、地元のイベントにも関わってくる。
この物語の主人公は極楽翔太。18歳。
翔太は来年4月から地元で漁師となり働くことが決まっている。
もう一人の主人公は木下英二。28歳。
地元で料理旅館を経営するオーナー。
翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。
この物語の始まりである。
この物語はフィクションです。
この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる